古代における「人の移動力」の推定は、文化波及や勢力拡大、統治範囲を推測する上で極めて重要である。
これを基に、邪馬台国の比定や神話の読み解きが可能となる。
ここでは、古代日本国内における陸路での移動力をまとめた。
徒歩での移動
4世紀まで
日本列島は平坦な場所が少なく、険しい山河に阻まれていて「徒歩」での移動が困難な土地である。
その土地柄から道路が敷設される時期は非常に遅く、日本で計画的に道路を敷設するようになったのは、6世紀頃(飛鳥時代)からだとされることが多い。
しかし、それも都市化した集落間の移動のためのものであり、国と国とを結ぶ長距離移動用の道路はなかった。
言い換えれば、それまで(4世紀頃まで)は人通りが多いところに自然と形成される踏み分け道であり、「道を作る」という概念すらなかった可能性も指摘されている(齋藤 2018)。
実際、古代日本の視察記録と言える「魏志倭人伝」には、大陸との玄関口として発展していた末盧国においても、
原文:濱山海居 草木茂盛 行不見前人
日本語訳:山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。
と書かれている。
2〜4世紀頃の日本において、「道」とは獣道のようなものだったのだ。
4世紀までの移動力
この時代の日本は、現代で言うところの「登山道」のようなものであったはずだ。
むしろ、現代の登山道の方がよほど整備されているとも考えられる。
このため、1日の移動力は約10kmほどだったと考えられる。
例えば、魏志倭人伝にある「末盧国(唐津市街)」から「伊都国(糸島市街)」までは約30kmであるため、この時代に徒歩で移動したとすれば3日かかったことになる。
5世紀頃
古事記・日本書紀によれば、4〜5世紀頃に「四道将軍」と称される北陸、東海、西道、丹波のそれぞれの地域を平定が描かれている。
「四道」と呼ばれることから、この4地域を平定するにあたり道路も整備したようにも解釈できるが、「4地域に向かったそれぞれの将軍」のことを「四道将軍」と称している可能性もある。
この時代も計画的な道路敷設はなかったのかもしれない。
5世紀までの移動力
大きな都市が隣接しているような場所では、徐々に道路が整備されていたのかもしれない。
しかし、長距離移動においては4世紀頃までと変わらなかったであろう。
1日の移動力は、4世紀までと同じく、約10kmほどだったと考えられる。
6世紀頃
陸路でまともに長距離を移動できるようになったのは、6世紀〜7世紀(推古天皇時代)に飛鳥から奈良盆地を北上する道路(大和の古道:上ツ道、中ツ道、下ツ道)が整備されるようになってからである。
また、中国からの使節団を迎え入れる際の道として国家の威信をかけて用意した、大阪・難波〜奈良・飛鳥までを結ぶ「竹内街道」などがある。
6世紀頃の移動力
首都(飛鳥)周辺であれば、現在と同じ徒歩の移動力を持ち得た可能性が高い。
つまり、一般的な人の移動速度である、5km/hを維持できるということである。
この速度であれば、1日あたり約30kmとなる。
竹内街道が約26kmとされていることから、それまで大阪から2〜3日かけて首都・飛鳥にたどり着いていた使節団も、港(難波)の来賓施設で宿泊し、朝一に出発すれば1日で奈良地域に到着できるようになったというわけだ。
しかし、こうした移動も首都周辺だけで、それ以外の地域へは相変わらず1日10kmほどの移動力だったと考えられる。
7世紀以降
古代律令制において定めた「駅路(七道駅路)」が整備され始めた時期である。
これは、首都(奈良地域)と太宰府(九州北部)および五畿七道の主要部をつなぐ道路網である。
五畿七道とは、
五畿:大和、山城、摂津、河内、和泉
七道:東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道
のことで、つまり「日本全国」のことを指す。
この捉え方は明治時代まで用いられた。
七道駅路は、日本各地が大和朝廷により安定的に統治されるようになり、新たに「日本」として平定されるに至ったことの現れとも言える。
これにより、監察官などが首都・奈良から各地域を巡視するため、高速移動するための道路整備が必要になったものと考えられる。
言い換えれば、その移動を容易にするための道路整備ができるほど、権力の一極集中が達成された証でもある。
実際、古事記・日本書紀が編纂されたのもこの時期(天武天皇が681年に編纂を命じる)である。
この道路の幅員は、最小でも約6m、最大で30mほどの規模で敷設されていたことが分かっている。
7世紀以降の移動力
この時代に至って、ようやく日本国内の主要部であれば1日あたり徒歩で約30kmで移動できるようになった。
なお、この速度は江戸時代の参勤交代でも同様であり、
伊達家:仙台〜江戸:およそ370km = 約10日(1日あたり約37km)
島津家:薩摩〜江戸:およそ1700km = 約60日(1日あたり約28km)
となっている。
この時代以降でさらに画期的なのは、駅路の敷設により「馬」での移動が可能になったことである。
馬での移動
6世紀〜7世紀以降に馬が利用される
日本列島に「馬」はいなかった。
大陸から日本に「馬」が輸入されたのは、4〜5世紀頃とされている。
また、長距離の移動手段として使用されるのは、7世紀以降に「駅路(七道駅路)」が整備されてからである。
馬で移動するためには、馬の世話をするための厩が必要になる。
7世紀頃に整備され始めた駅路によって厩(駅家)が作られ、馬による全国各地への長距離移動が可能になった。
この時期から、約16km(30里)ごとに駅家が置かれ、官人の馬での移動システムとして運用された。
馬での移動力
整備された駅路であれば、1日あたり約100kmの移動が可能であったとされる。
難所を含んだり、集団で安全に移動したとしても、1日に50km〜70kmは移動できたと考えられる。
軍団の陸路での移動力
少人数(10名ぐらい)での移動では、上記のような移動力が推定できるが、これが軍団や軍事移動であれば話が変わる。
何百何千人もの規模で、しかも戦闘用具を持って移動するとなると、移動力は著しく低下する。
特に、軍団は移動中に攻撃されることが最も危険である。
細い山道で横槍を入れられれば、ひとたまりもない。
また、隘路の先頭部で敵と対峙すれば、後方の部隊は全く戦闘に参加できない状態になる。
何百人規模での軍事移動が可能になるのは、駅路の整備がされる7世紀以降のことである。
それでも、軍事移動は1日に20kmを越えることはできなかったとされている。
道路や駅路が整備される以前であれば、さらに移動力は低下する。
少人数で移動すれば10kmほどであるが、軍団であれば奇襲の警戒と兵站を考慮する必要があるため、勢力外の地域であれば約5kmを移動するのが精一杯だったと考えられる。
6世紀までの日本では、隣接する大きな都市国家同士の戦闘では、大規模な軍事移動が可能だっただろう。
しかし、それ以外の地域では、大規模な軍事作戦が展開できなかったため、少人数(数百人)の兵士で国(都市)が守れる時代が長かったとも言える。
ヤマト王権が日本を統治していく中で、抵抗勢力と幾度かの戦争があったと考えられる。
魏志倭人伝には、「倭国大乱」の記述もあり、日本国内で戦争があったことは間違いない。
しかし、その戦争は大規模な軍団の衝突ではなく、少数精鋭部隊によるゲリラ戦の様相を呈していた可能性が高い。
集落間の一般人の移動はほとんどなかった
古代日本においては、道路が整備されて移動が容易になったとは言え、官人以外の一般人の往来はほとんどなかったと考えられる。
実際、山や川を一つ越えると方言や文化が変わるのが日本である。
古代から栄えた畿内でも、京都と奈良で方言は異なり、大阪でも摂津と和泉で言葉が違う。
一般人の生活圏は、その集落の内部だけだったと考えられている。
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