神武天皇・神日本磐余彦天皇
東征への出発
日本磐余彦天皇の諱(実名)は、彦火火出見という。
鸕鷀草葺不合尊の第四子である。
母は玉依姫といい、海神豊玉彦の二番目の娘である。
天皇は生まれながらにして賢い人で、気性がしっかりしておられた。
十五歳で皇太子となられた。
成長されて、日向国吾田邑の吾平津媛を娶とって妃とされた。
手研耳命を生まれた。
四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに語られた。
「昔、高皇産霊尊と天照大神が、この豊葦原瑞穂国を、祖先の璦瓊杵尊に授けられた。そこで瓊瓊杵尊は天の戸を押し開き、路をおし分け先払いを走らせてお出でになった。このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨されてから、百七十九万ニ千四百七十余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた塩土の翁に聞くと、『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟に乗って、とび降ってきた者がある』と言うのです。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」
諸皇子たちも、
「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」
と申された。
この年は太歳の甲寅である。
その年冬十月五日に、天皇は自ら諸皇子と舟軍を率いて、東征に向われた。
速吸之門(豊予海峡)にお出でになると、一人の漁人が小舟に乗ってやってきた。
天皇は呼びよせてお尋ねになり、
「お前は誰か」
と言われた。
漁人は、
「私は土着の神で、珍彦と申します。曲の浦に釣りにきており、天つ神の御子がおいでになると聞いて、特にお迎えに参りました」
と答えた。
天皇はまた尋ねる。
「お前は私のために道案内をしてくれるか」
すると海人は、
「御案内しましょう」
と言った。
天皇は命じて、漁人に椎竿の先を差し出し、つかまらせて舟の中に引き入れ、水先案内とされた。
そこで特に名を賜って椎根津彦とされた。
これが倭直の先祖である。
筑紫の国の宇佐に着いた。
すると宇佐の国造の先祖で宇佐津彦と宇佐津姫という者があった。
宇佐の川のほとりに、足一つあがりの宮(川の中へ片側を入れ、もう一方は川岸へかけて構えられた宮)を造っておもてなしをした。
このときに宇佐津姫を侍臣の天種子命に娶あわされた。 天種子命は中臣氏の先祖である。
十一月九日、天皇は筑紫国の岡水門に着かれた。
十二月二十七日、安芸国について埃宮にお出でになった。
翌年、乙卯春三月六日に、吉備国に移られ、行館を造ってお入りになった。
これを高島宮という。
三年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。
戊午の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向った。
舳艫あいつぎ、まさに難波琦に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。
よって名づけて浪速国とした。
また浪花ともいう。
現在、難波と呼ばれるのは訛ったものである。
三月十日、川を遡って、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。
五瀬命の死
夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。
その道は狭く険しくて、人が並んで行くことができなかった。
そこで引き返して、さらに東の方、生駒山を越えて内つ国に入ろうとした。
そのときに長髄彦がそれを聞き、
「天神の子がやってくるわけは、きっと我が国を奪おうとするのだろう」
と言って、全軍を率いて孔舍衛坂で戦った。
流れ矢が当たって五瀬命の肘脛に当った。
天皇の軍は進むことができなかった。
天皇はこれを憂えて、謀をめぐらされた。
「今回、私は日神の子孫であるのに、日に向って敵を討とうとしているのは、天道に逆らっている。そこで、一度撤退して相手を油断させ、天神地祇をお祀りし、背中に太陽を負って、日神の威光をかりて襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば、刃に血を付けずとも、敵はきっと敗れるだろう」
と言われた。
皆は、
「その通りです」
と言った。
そこで軍中に告げた。
「いったん止まれ。ここから進むな」
そして軍兵を率いて帰られた。
敵もあえてこれを後を追わなかった。
草香津に引き返すと、盾を立てて雄叫びをし、士気を鼓舞された。
このことから、その津を盾津と呼ぶようになった。
いま寥津と呼ばれているのは、この訛りである。
孔舎衛の戦いでは、ある者が大きな樹に隠れていて難を免れることができた。
それで、その木を指して、
「この恩は母のようだ」
と言った。
当時の人はこれを聞き、そこを母木邑といった。
現在、「おものき」というのは、これが訛ったものである。
五月八日、軍は茅淳(和泉地域の海)の山城水門に着いた。
その頃、五瀬命の矢傷がひどく痛んだ。
そこで命は剣を撫でて雄叫びして、
「残念だ。丈夫が賊に傷つけられたのに、それに報いないで死ぬことは」
と言われた。
当時の人は、その地を雄水門と名づけた。
進軍して紀国の竈山に行き、五瀬命は軍中に亡くなった。
五瀬命は竈山に葬られた。
六月二十三日、軍は名草邑に着いた。
そこで名草戸畔という女賊を誅された。
ついに佐野を越えて、熊野の神邑に至り、天磐盾に登った。
そうして軍を率いてさらに進んでいった。
海を渡ろうとするとき、急に暴風に遇った。
船は波に奔弄されて進まない。
稲飯命(神武天皇の兄)が嘆いて言われたのは、
「ああ、我が先祖は天つ神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」
そう言い終って剣を抜き、海に入り、鋤持神となられた。
三毛入野命(神武天皇の兄)もまた恨んで言われた。
「我が母と姨は二人とも海神である。それなのに、どうして波を立てて我らを溺れさすのか」
波頭を踏んで常世国にお出でになった。
八咫烏
天皇はひとり、皇子である手研耳命と、軍を率いて進み、熊野の荒坂の津に着かれた。
そこで丹敷戸畔という女賊を誅された。
そのとき、神が毒気を吐いて人々を弱らせた。
このため皇軍はまた振わなかった。
するとそこに、熊野の高倉下という人がいた。
この人のその夜の夢に、天照大神が武甕雷神に語ってたことが、
「葦原中国は、まだ乱れ騒がしい。お前が往って平げなさい」
というものだった。
武甕雷神は、
「私が行かなくても、私が国を平定したときの剣を差向けたら、国は自ら安定するでしょう」
と言われた。
天照大神は、
「もっともだ」
と答える。
そこで武甕雷神は、高倉下に、
「私の剣は名を赴屠能瀰哆磨という。それをあなたの倉の中に置こう。それを取って天孫に献上しなさい」
と語った。
高倉下は、
「承知しました」
と答えると、目が覚めた。
翌朝、 夢のお告げに従って倉を開いてみると、案の定、そこに落ちている剣があり、庫の底板に逆さに刺さっていた。
高倉下は、それを取って天皇に差し上げた。
そのときに天皇はよく眠っておられたが、たちまち目覚め、
「自分はどうしてこんなに長く眠ったのだろう」
と言い、ついで毒気に当っていた兵卒たちも、全員目が覚めて起き上がった。
皇軍は内つ国に赴こうとした。
しかし、山の中は険しく、行くべき道もなかった。
進むことも退くこともままならず迷っているとき、夜、また夢を見た。
天照大神が天皇に語りかける。
「吾は今、八咫烏を遣わすから、これを案内にせよ」
すると、八咫烏が大空から飛びくだってきた。
天皇は、
「この烏のやってくることは、瑞夢に適っている。偉大なこと、栄誉なことだ。天照大神が、我々の仕事を助けようとして下さっている」
と言った。
このときに、大伴氏の先祖の日臣命は、大来目を率いて、大軍の監督者として、山を越え、路を踏み分けて、烏の導きのままに、仰ぎ見ながら追いかけた。
そしてついに、宇陀の下県に着いた。
よって、その着かれた場所を名づけて宇陀の穿邑と呼ぶ。
そのとき天皇は日臣命をほめて、
「お前は忠勇の士で、また、軍をよく導いた手柄がある。お前の名を改めて道臣としよう」
と仰せられた。
兄猾と弟猾
秋八月二日、兄猾と弟猾を呼んだ。
この二人は、宇陀の県の人々の頭である。
ところが、兄猾はこれに応じなかったが、弟猾はやってきた。
そして、軍門を拝んで申し上げてきたのは、
「私の兄、兄猾の計略は、天孫がお出でになると聞いて、兵を率いてこれを襲おうとしているのです。皇軍の軍勢を眺めると、戦いにくいことを恐れて、こっそり兵を隠しておき、仮りの新宮を造っておき、その御殿の中に仕掛けを設け、おもてなしをするように見せかけて事を起こそうとしています。どうかこの謀を知っていただき、これによく備えて下さい」
とのことだった。
天皇は道臣命を遣わして、その計略を調べさせた。
道臣命はこれを仔細に調べて、彼に暗殺の心があったことを知り、大いに怒って叱責し、
「卑怯者だ。お前が造った部屋に、自分で入るがよい」
と言って剣を構え、弓をつがえて中へ追い詰めた。
兄猾は天を欺いたため、言い逃れすることもできない。
自ら仕掛けに落ちて圧死した。
その屍を引き出して斬ると、流れる血はくるぶしを埋める程に溢れた。
それで、その場所を名づけて宇陀の血原と呼ぶ。
弟猾は、沢山の肉と酒とを用意して、皇軍を労い、もてなした。
天皇は酒肉を兵士たちに分け与え、歌を詠んだ。
ウタノタカキニ、シギワナハル、ワガマツヤ、シギハサヤラズ、イスクハシ、クデラサヤリ、コナミガ、ナコハサバ、タチソバノミノ、ナケクヲ、コキシヒエネ、ウハナリガ、ナコハサバ、イチサカキミノ、オホケクヲ、コキタヒエネ。
宇陀の高城に嶋をとるワナを張って、俺が待っていると鴨はかからず鷹がかかった。これは大漁だ。古女房が獲物をくれと言ったら、ヤセソバの実のないところをうんとやれ。若女房が獲物をくれと言ったら、斎賢木のような実の多いところをうんとやれ。
これを来目歌という。
現在、楽府でこの歌を歌うときは、手の拡げ方の大小や声の太さ細さの別があるが、これは古からの遺法である。
この後、天皇は吉野のあたりを見たいと思われて、宇陀の穿邑から軽装の兵をつれて巡幸された。
吉野に着いたとき、そこに人がいて、井戸の中から出てきた。
その人は体が光って尻尾があった。
天皇は、
「お前は何者か」
と問われた。
「手前は国つ神で、名は井光といいます」
とそれを答えた。
これは吉野の首部の先祖である。
さらに少し進むと、また尾のある人が岩を押し分けて出てきた。
天皇は、
「お前は何者か」
と問われた。
すると、
「手前は石押分の子です」
と言う。
これは吉野の国栖の先祖である。
川に沿って西においでになると、また梁を設けて漁をする者があった。
天皇が尋ねられると、
「手前は苞苴担の子です」
と言う。
これは阿太の養鸕部の先祖である。
九月五日、天皇は宇陀の高倉山の頂きに登って、国の中を眺められた。
そのころ国見丘の上に、八十梟帥がいた。
女坂には女軍を置き、男坂には男軍を置き、墨坂にはおこし炭を置いていた。
女坂・男坂・墨坂の名はこれから起きた。
また兄磯城の軍は磐余邑に溢れていた。
敵の拠点はみな要害の地である。
このため、道は絶え塞がれて通るべきところがない。
天皇はこれを憎まれた。
この夜、神に祈って寝られた。
すると、夢に天つ神が現われてこう言った。
「天香具山の社の中の土を取って、平瓦八十枚をつくり、同じくお神酒を入れる瓶をつくり、天神地祇をお祀りせよ。また身を清めて行う呪詛をせよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう」
天皇は夢の教えを謹しみ承り、これを行おうとした。
そのとき、弟猾がまた申し上げたことが、
「倭の国の磯城邑に、磯城の八十梟帥がいます。また葛城邑に、赤銅の八十梟帥がいます。この者たちは皆、天皇にそむき、戦おうとしています。手前は天皇のために案じます。今、天香具山の赤土をとって平瓦をつくり、天神地祇をお祀り下さい。それから敵を討たれたら討ち払いやすいでしょう」
というものだった。
天皇は、やはり夢のお告げが吉兆であると思っておられた。
弟猾の言葉を聞いて、心中喜ばれた。
そこで椎根津彦に、着古した衣服と蓑笠をつけさせ、老人のかたちにつくり、また弟猾に箕を着せて、老婆のかたちに作って、
「お前達二人、香具山に行って、こっそりと頂きの土を取ってきなさい。大業の成否は、お前達で占おう。しっかりやってこい」
と仰せられた。
このとき、敵兵は道を覆い尽くしており、通ることも難しかった。
椎根津彦は神意を占い、
「我が君が、よくこの国を定められるものならば、行く道が自ら開け、もしできないのなら、敵がきっと道を塞ぐだろう」
と言った。
言い終って直ちに出かけた。
そのとき敵兵は二人の様子を見て、大いに笑い、
「汚らしい老人どもだ」
と言って道を開けて行かせた。
二人は無事に山について、土を取って帰った。
天皇はこれに大いに喜び、この土で多くの平瓦や、手抉(丸めた土の真中を指先で窪めて造った土器)、厳瓮(御神酒瓷のこと)などを造り、丹生の川上に上って、天神地祇を祀られた。
宇陀川の朝原で、ちょうど水沫のように固まり着くところがあった。
天皇はまた神意を占い、
「私は今、沢山の平瓦で水なしに飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで、天下を居ながらに平げるだろう」
と言われた。
飴造りをされると、たやすく飴はできた。
そしてまた神意を占って言われた。
「私は今、御神酒瓮を、丹生の川に沈めよう。 もし魚が大小となく全部酔って流れるのが、ちょうど槇の葉のように浮き流れるようであれば、 私はきっとこの国を平定するだろう。もしそうでなければ、事を成し遂げられぬだろう」
そして瓮を川に沈めた。
するとそのロが下に向いた。
しばらくすると、魚は皆浮き上がってロをパクパク開いた。
椎根津彦はそれを報告した。
天皇は大いに喜んで、丹生の川上の沢山の榊を根こぎにして、諸々の神をお祀りされた。
このときから、祭儀には御神酒瓮の置物がおかれるようになった。
天皇は道臣命に対し、
「今、高皇産霊尊を、私が顕斎(神の姿が見えるようにする祭り)しよう。お前を斎主として、女性らしく厳媛と名づけよう。そこに置いた土瓮を厳瓮とし、また火の名を厳香来雷とし、水の名を厳罔象女、食物の名を厳稲魂女、 薪の名を厳山雷、草の名を厳野椎とする」
と言った。
冬十月一日、天皇はその厳瓮の供物を召上がられ、兵を整えて出かけられた。
まず八十梟帥を国見丘に撃って斬られた。
この戦いに天皇は必ず勝つと思われた。
そこで次のように歌われた。
カムカゼノ、イセノウミノ、才ホイシニヤ、イハヒモトへル、シタダミノ、シタダミノ、アゴヨ、アゴヨ、シタダミノ、イハヒモ卜ヘリ、ウチテシヤマム、ウチ テシヤマム。
伊勢の海の大石に這いまわる細螺(キシャゴ)のように、我が軍勢よ、我が軍勢よ。細螺のように這いまわって、必ず敵を討ち負かしてしまおう。
歌の心は、大いなる石をもって国見丘に喩えている。
残党はなお多く、その情勢は測りがたかった。
そこで、密かに道臣命に言われた。
「お前は大来目部を率いて、大室を忍坂邑に造って、盛んに酒宴を催し、敵を騙して討ち取れ」
道臣命はこの密命により、室を忍坂に掘り、味方の強者を選んで、敵と同居させた。
密かに示し合わせて、
「酒宴たけなわになった後、自分は立って舞おう。お前達は私の声を聞いたら、一斉に敵を刺せ」
と言った。
みんな座について酒を飲んだ。敵は陰謀のあることを知らず、心のままに酒に酔った。
そのとき、道臣命は立って歌った。
オサカノ、オホムロヤニ、ヒ卜サハニ、イリヲリトモ、ヒ卜サハニ、キイリヲリトモ、ミツミツシ、クメノコラガ、クブツツイ、イシツツイモチ、ウチテシヤマム。
忍坂の大きい室屋に、人が多勢入っているが、入っていても、御稜威を負った来目部の軍勢の頭椎(柄頭が推の形をした剣のこと)石椎(柄頭を石で作った剣のこと)で敵を討ち敗かそう。
味方の兵はこの歌を聞いて、一斉に頭椎の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。
皇軍は大いに悦び、天を仰いで笑った。
そして歌を読んだ。
イマハヨ、イマハヨ、アアシヤヲ、イマダニモアゴヨ、イマダニモアゴヨ。
今はもう、今はもう、ああしゃを(敵をすっかりやっつけた)、今だけでも、今だけでも、我が軍よ、我が軍よ。
現在、来目部が歌って後に大いに笑うのは、これがその由来である。
また歌っていう。
エミシヲ、ヒタリモモナヒト、ヒ卜ハイへドモ、タムカヒモセズ。
夷を、一人で百人に当る強い兵だと、人は言うけれど、抵抗もせず負けてしまった。
これは皆、密旨をうけて歌ったので、自分勝手にしたことではない。
そのときに天皇が言われたのは、
「戦いに勝っておごることのないのは良将である。今、大きな敵はすでに滅んだが、 同じように悪い者は恐れおののき、その仲間は多い。その実状は分らない。長く同じ所にいて難には会いたくはない」
というものだった。
そこを捨てて別の所に移った。
十一月七日、皇軍は大挙して磯城彦を攻めようとしていた。
まず使者を送って兄磯城を呼んだ。
兄磯城は答えなかった。
さらに頭八咫烏を遣わして呼んだ。
そのとき烏は軍営に行って鳴いて言った、
「天つ神の子がお前を呼んでおられる。さあさあ」
兄磯城は怒り、
「天つ神が来たと聞いて憤っている時に、なぜ烏がこんなに悪く鳴くのか」
と言った。
そして弓を構えて射た。
烏は逃げ去った。
次いで弟磯城の家に行き鳴いて言った、
「天つ神の子がお前を呼んでいる。さあ、さあ」
弟磯城はおじてかしこまって、
「手前は天つ神が来られたと聞いて、朝夕、畏れかしこまっていました。烏よ、お前がこんなに鳴くのは良いことだ」
そこで平らな皿八枚に、食物を盛ってもてなした。
そして烏に導かれてやってきて申し上げた。
「我が兄の兄磯城は、天神の御子がお出でになったと聞いて、八十梟帥を集めて、武器を整え決戦をしようとしています。速やかに準備をすべきです」
天皇は諸将を集め、
「兄磯城はやはり戦うつもりらしい。呼びにやっても来ない。どうしようか」
諸将は言う。
「兄磯城は悪賢い敵です。まず、弟磯城を遣わして教え諭し、合わせて兄倉下・弟會下にも諭させ、どうしても従わないならば、それから兵を送って戦っても遅くないでしょう」
そこで、弟磯城を遣わして利害を説かせた。
だが兄磯城らは、 なお愚かな謀をして承伏しなかった。
これに椎根津彦が計略を立てた。
「今はまず女軍を遣わして、忍坂の道から行きましよう。敵はきっと精兵を出してくるでしよう。こちらは強兵を走らせて、直ちに墨坂を目指し、宇陀川の水をとって、敵軍が起こした炭の火に注ぎ、驚いている間にその不意をつけば、きっと敗れるでしよう」
天皇はその計略を褒めて、まず女軍を出してご覧になった。
敵は大兵が来たと思って、力を尽くして迎え撃った。
これまで皇軍は攻めれば必ず向かい、戦えば必ず勝った。
しかし甲冑の兵士たちは疲労しなかったわけではない。
そこで少し将兵の心を慰めるために歌を作られた。
タタナメテ、イナサノヤマノ、コノマユモ、イユキマモラヒ、タタ力へパ、ワレハヤヱヌ、シマツトリ、ウカヒガトモ、イマスケニコネ。
盾を並べ、伊那搓の山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので我らは腹が空いた。鵜飼をする仲間達よ。今こそ、助けに来てくれよ。
そうするうち、男軍が墨坂を越え、後方から夾み討ちにして敵を破り、梟雄兄磯城を斬った。
長髄彦(ナガスネヒコ)と金鵄(キンシ)
十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。
戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。
そのとき急に空が暗くなってきて、雹が降ってきた。
そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。
その鵄は光り輝いていて、まるで雷光のようであった。
このため長髄彦の軍勢は、皆、眩惑されてしまい力を発揮できなかった。
長髄というのはもと邑(村・領地)の名であり、それを人名とした。
皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、当時の人たちは鵄の邑と名づけた。
現在、鳥見というのは、これが訛ったものである。
昔、孔舍衛の戦いに、五瀬命が矢に当って歿くなられた。
天皇はこれを忘れず、常に恨みに思っておられた。
この戦いにおいて仇をとりたいと思われた。
そして歌っていわれた。
ミツミツシ、クメノコラガ、「力キモトニ」アハフニハ、カミラヒトモト、ソノガモト、ソネメツナギテ、ウチテシヤマム。
天皇の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮が一本まじっている。その韮の根本から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう。
天皇はさらに歌う。
ミツミツシ、クメノコラガ、力キモ卜ニ、ウエシハジカミ、クチビヒク、ワレハワスレズ、ウチテシヤマム。
天皇の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、ロに入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう。
敵兵を放って、さらに急追した。
すべて諸々の御歌を、みな来目歌と呼ばれる。
これは歌った人を指して名づけたものである。
時に、長髄彦は使者を送って、天皇に言上し、
「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られました。櫛玉饒速日命といいます。この人が我が妹の三炊屋媛を娶とって子ができました。名を可美真手命といいます。それで私は、饒速日命を君として仕えています。一体、天つ神の子は二人おられるのですか? どうしてまた、天つ神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。私が思うのに、それは偽者でしょう」
天皇が答えた。
「天つ神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天つ神の子ならば、必ず表(証拠)があるだろう。それを示しなさい」
長髄彦は、饒速日命の天羽羽矢(蛇の呪力を負った矢)と、歩靭(徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ)を天皇に示した。
これを天皇はご覧になって、
「偽りではない」
と言われ、帰って所持の天羽羽矢一本と、歩靭を長髄彦に示された。
長髄彦はその天つ神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。
けれども、兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。
そして、間違った考えを捨てず、改心の気持ちがなかった。
饒速日命は、天つ神たちが深く心配されているのは、天孫のことだけであることを知っていた。
長髄彦は、性格が捻れたところがあり、天つ神と人とは全く異なるのだと教えても理解しそうもなかったため、饒速日命により殺害された。
そして、饒速日命はその部下達を率いて帰順された。
天皇は饒速日命が天から下ってきたということが分かり、今ここに忠誠を尽くしたので、これを褒めて寵愛された。
これが物部氏の先祖である。
翌年、己未の春二月二十日、諸将に命じて士卒を選び訓練された。
このときに、そほの県(添県)の波哆の丘岬に、新城戸畔という女賊があり、また和珥(天理周辺)の坂下に、居勢祝という者があり、臍見の長柄の丘岬に、猪祝という者があり、その三力所の土賊は、その力を誇示して帰順しなかった。
そこで天皇は、軍の一部を派兵して皆殺しにさせた。
また、高尾張邑に土蜘蛛がいて、その人態は、身丈が短く、手足が長かった。
侏儒と似ていた。
皇軍は葛の網を作って、覆い捕えてこれを殺した。
そこでその邑を改めて葛城とした。
磐余の地の元の名は、片居または片立という。
皇軍が敵を破り、大軍が集まってその地に溢れたので磐余とした。
また、ある人が言うには、
「天皇が昔、厳瓮の供物を召し上がられ、出陣して西片を討たれた。このとき、磯城の八十梟帥がそこに屯聚み(集兵)した。天皇軍と大いに戦ったが、ついに滅ぼされた。それで名づけて磐余邑という」
また、皇軍が叫び声を立てたところを、猛田と呼び、城を造った所を名づけて城田という。
また、賊軍が戦って倒れた屍が、臂を枕にしていたので頰枕田という。
天皇は前年の秋九月、密かに天香山の埴土を取り、沢山の平瓮を造り、自ら斎戒して諸神を祀られた。
そしてついに、天下を平定することができた。
それで、土を取ったところを名づけて埴安と呼ぶ。
宮殿造営
三月七日、令を下して言われた。
「東征についてから六年になった。天つ神の勢威のお蔭で凶徒は殺された。しかし、周辺の地はまだ治まらない。残りの災いはなお根強いが、内州の地は騒ぐものもない。皇都を開き広めて御殿を造ろう。しかし、今、世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の慣わしが変わらずにある。そもそも大人(聖人)が制を立てて、道理が正しく行われる。人民の利益となるならば、どんなことであっても聖の行うわざとして間違いはない。まさに、山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人民を安ずべきである。上は、天つ神の国をお授け下さった御徳に答え、下は、皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。その後、国中を一つにして都を開き、天の下を掩いて一つの家とすることは、また良いことではないか。見れば、かの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中である。ここに都を造るべきである」
この月、役人に命ぜられて都造りに着手された。
庚申の年秋八月十六日、天皇は正妃を立てようと思われた。
改めて貴族の女子を探された。
時にある人が奏し、
「事代主神が、三島溝橛耳神の娘、玉櫛媛と結婚され、その生まれた子を名づけて、媛蹈鞴五十鈴媛命といい、容色に優れた人です」
と言った。
これを聞いて天皇は喜ばれた。
九月二十四日、媛蹈鞴五十鈴媛を召して正妃とされた。
橿原即位
辛酉の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。
この年を天皇の元年とする。
正妃を尊んで皇后とされた。
皇子の神八井命、神淳名川耳尊を生まれた。
そのため、古語にもこれを称して次のようにいう。
「畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立て、高天原に千木高くそびえ、初めて天下を治められた天皇」
名づけて神日本磐余彦火火出見天皇という。
初めて天皇が国政を始められる日に、大伴氏の先祖の道臣命が、大来目部を率いて密命を受け、よく諷歌(比喩的な歌)、倒語(合言葉・暗号)をもって、災いを払い除いた。
倒語が用いられるのは、ここに始まった。
二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われた。
道臣命は宅地を賜わり、築坂邑に居らしめられ、特に目をかけられた。
また、大来目を畝傍山の西、川辺の地に居らしめられた。
現在、来目邑と呼ぶのはこれが由来である。
椎根津彦を倭国造とした。
また弟猾に猛田邑を与えられた。
それで猛田の県主という。
これは宇陀の主水部の先祖である。
弟磯城、名は黒速を磯城の県主とされた。
また剣根という者を、葛城国造とした。
また、八咫烏も賞の内に入った。
その子孫は、葛野主殿県主がこれである。
四年春二月二十三日、詔して、
「我が皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて、天下は何事もない。そこで天つ神を祀って大孝を申上げたい」
と述べた。
神々の祀りの場を、鳥見山の中に設け、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。
そして、高皇産霊尊を祀った。
三十一年夏四月一日、天皇の御巡幸があった。
腋上の嗛間の丘に登られ、国のかたちを望見し、
「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(トンボ)がトナメ(交尾)しているように、山々が連なり囲んでいる国であるな」
と言われた。
これによって、始めて秋津洲の名ができた。
かつて、伊奘諾尊がこの国を名づけて、
「日本は心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、優れて良く整った国」
と言われた。
また大己貴大神は、名づけて、
「玉牆の内つ国(美しい垣のような山々に囲まれた国)」
と言われた。
饒速日命は、天磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて、
「空見つ日本の国(大空から眺めて、良い国だと選ばれた国・日本)」と呼ばれた。
四十二年春一月三日、皇子である神淳名川耳尊を立てて、皇太子とされた。
七十六年春三月十一日、天皇は橿原宮で崩御された。
年百二十七歳であった。
翌年秋九月十二日、畝傍山の東北の陵に葬った。
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