景行天皇 大足彦忍代別天皇
天皇即位
大足彦忍代別天皇は垂仁天皇の第三子である。
母が、丹波道主王の娘の日葉洲媛命である。
垂仁天皇の三十七年に皇太子となられた。
時に、年二十一。
九十九年春二月、垂仁天皇は崩御された。
元年秋七月十一日、太子は皇位につかれた。
よって年号を改められた。
この年は太歳辛未。
二年春三月三日、播磨稲日大郎姫を皇后とされた。
后は二人の男子を生まれた。
第一を大碓皇子、第二を小碓尊という。
その大碓皇子と小碓尊は、一日に同じ胞に双生児としてお生みになった。
天皇はこれを不審に思い、碓(臼)に向って叫び声をあげられた。
そこでこの二人の王を名づけて大碓(おおうす)・小碓(こうす)と言う。
小碓尊はまたの名を日本童男。
または日本武尊という。
幼い時から雄々しい性格であった。
壮年になると、容貌は溢れるばかりの逞しさであった。
身の丈は一丈(約3m)、力は鼎(祭礼用の大型の青銅器)を持ち上げられるほどであった。
三年春二月一日、紀伊国に行幸されて、諸々の神祇をお祭りしょうとされたが、占ってみると吉と出なかった。
そこで行幸を中止された。
屋主忍男武雄心命を遣わして祭らせた。
武雄心命は阿備の柏原にいて、神祇を祀った。
そこに九年住まれた。
紀直の先祖である蒐道彦の娘、影媛を娶とって、武内宿禰を生ませた。
四年春二月十一日、天皇は美濃にお出でになった。
お側の者が、
「この国に美人がいます。弟媛といい、容姿端麗な八坂入彦皇子の娘です」
と言った。
天皇は自分の妃としたいと思い、弟媛の家に行かれた。
弟媛は天皇が来られたときいて、竹林に隠れた。
天皇は弟媛を引き出そうと考えられて、泳宮におられ、鯉を池に放って、朝夕ご覧になって遊ばれた。
あるとき、弟媛はその鯉の遊ぶのを見ようと思って、こっそりやってきて池を見られた。
天皇はそれを引きとめて召された。
弟媛が考えるのに、夫婦の道は古も今も同じである。
しかし、ああだこうだと問い質すこともできず困る。
そこで天皇にお願いして、
「私の性質は交接のことを望みません。今恐れ多い仰せのため、大殿の中に召されましたが、心の中は快くありません。また、私の顔も美しくなく、長く後宮にお仕えすることはできません。ただ私の姉が名を八坂入媛といい、顔も良く志も貞潔です。どうぞ後宮に召しいれて下さい」
と言われた。
天皇は聞きいれられ、八坂入媛を呼んで妃とされた。
媛は七男六女を生んだ。
第一を稚足彦天皇(成務天皇)という。
第二を五百城入彦皇子という。
第三を忍之別皇子という。
第四を稚倭根子皇子という。
第五を大酢別皇子という。
第六を淳熨斗皇女という。
第七を淳名城皇女という。
第八を五百城入姫皇女という。
第九を籠依姫皇女という。
第十を五十狭城入彦皇子という。
第十一を吉備兄彦皇子という。
第十二を高城入姫皇女という。
第十三を弟姫皇女という。
次の妃である三尾氏の磐城別の妹の水歯郎媛は、五百野皇女を生んだ。
その次の妃である五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。
兄の神櫛皇子は、讃岐の国造の先祖である。
弟の稲背入彦皇子は播磨別の先祖である。
また次の妃である阿倍氏木事の娘の高田媛は、武国凝別皇子を生んだ。
これは伊予国御村別の先祖である。
また次の妃である日向髪長大田根は、日向襲津彦皇子を生んだ。
これは阿牟君の先祖である。
また次の妃である襲武媛は国乳別皇子と国背別皇子と豊戸別皇子を生んだ。
兄の国乳別皇子は水沼別の先祖である。
弟の豊戸別皇子は火国別の先祖である。
天皇の男女は全部で八十人おられる。
日本武尊と稚足彦天皇(成務天皇)と、五百城入彦皇子とを除いた他の七十あまりの御子は、全てそれぞれ国や郡に封せられて、各国に赴かれた。
そのため、現在の諸国の別というのは、別王の子孫である。
この月に天皇は、美濃の国造で名は神骨という者の女で、姉は兄遠子、妹は弟遠子というのが、共に美人であると聞かれて、大碓命を遣わされて、その女の容姿を見させられた。
そのとき大碓命は、こっそりと女と通じて復命されなかった。
それで天皇は大碓命をお恨みにな った。
冬十一月一日、天皇は美濃からお帰りになった。
そしてまた纏向に都を造られた。
これを日代宮という。
諸賊・土蜘蛛
十二年秋七月、熊襲がそむいて貢物を奉らなかった。
八月十五日、天皇は筑紫に向かわれた。
九月五日、周芳の娑麼(山口県佐波)に着かれた。
天皇は南方を眺めて群卿に言われた。
「南の方に煙が多くたっている。きっと賊がいるのだろう」
そこでまず多臣の祖の武諸木、国前臣の祖の菟名手、物部君の祖の夏花を遣わして、その様子を見させられた。
そこには女がいて、神夏磯媛という。
その手下は非常に多く、一国の首長である。
天皇の使者がやってきたことを聞いて、磯津山の賢木を抜きとり、上の枝に八握剣をかけ、中枝に八咫鏡をかけ、下枝に八尺瓊をかけ、白旗を舟の舳先に立ててやってきて、
「どうか兵を送らないで下さい。私達の仲間に背く者はいません。すぐにでも帰順します。ただ、他に悪い賊がいます。その一つを、鼻垂といいます。みだりに主の名を語って、山谷に人を呼び集め、 宇佐の川上に屯しています。その次の者を、耳垂といいます。人を損ない破り、貪り食い、人民を掠めています。これは御木の川上にいます。第三の者を、麻剝といいます。密かに仲間を集めて、高羽の川上におります。第四の者を、土折猪折といいます。緑野の川上に隠れており、山川の険しいことを生かして、人民を掠めとっています。この四人は、住んでいるところが皆、要害の地であります。それぞれ、その仲間を従えた、各地の長です。皆 『皇命には従わない』と言っています。速やかに討たれるのがよいでしよう。逃さないようにして下さい」
と申しあげた。
そこで武諸木らがまず麻剝を誘った。
赤い上衣や袴、種々の珍しい物を送って、従わないという三人をもおびき出した。
それぞれ仲間をつれてやってきたところを、全部捕えて殺してしまった。
天皇はついに筑紫にお出でになり、豊前国の長峡県(福岡県長尾)に着いて、行宮を立ててお休みになった。
そのところを名づけて京(福岡県京都)という。
冬十月、碩田国に着かれた。
その地形は広く大きく美しい。
よって碩田と名づけた。
速見村に着かれた。
女の人がいて、これを速津媛(ハヤツヒメ)という。
その地の長である。
天皇がお出でになると聞いて、自らお迎えに出て、
「この山に大きな石窟があり、鼠の石窟といいます。そこに二人の土蜘蛛が住んでいます。一人を青といい、もう一人を白といいます。また直入県(大分県直入)の禰疑野に三人の土蜘蛛がいます。一人を打猿といい、もう一人を八田といいます。さらに国麻侶というのがいます。この五人はそれぞれ強力で仲間が多く、 皆、『皇命には従わない』と言っています。もし従うことを強いられたら、兵を興して戦うと言っています」
と申し上げた。
天皇は好ましくないと思われ、進まれなかった。
来田見邑に留まって、仮の宮を建ててお住みになった。
群臣と謀って、
「今、多くの兵を動かして土蜘蛛を討とう。もし、我が兵の勢いに恐れて山野に隠れたら、後にきっと災いをなすだろう」
と言われた。
椿の木を取って椎(つち:槌)を作り、これを武器とされた。
強い兵を選んで椎を授け、山を穿ち、草を払って、石室の土蜘蛛を襲い、稲葉の川上に破り、ことごとくその仲間を殺した。
血は流れて踩まで浸かった。
当時の人は、椿の椎を作ったところをつばき市と呼び、また、血の流れたところを血田といった。
また、打猿を討とうとして、禰疑山を越えた。
そのとき、敵の射る矢が、横の山から飛んできた。
まるで降る雨のようであった。
天皇は城原に帰り、 占いをして川のほとりに陣を置かれた。
兵を整え、先ず八田を禰疑山にうち破った。
打猿はかなわないと思って、
「降伏します」
と言った。
しかし許されず、皆、自ら谷に身を投げて死んだ。
天皇は敵を討つため、柏峡の大野に宿られた。
その野に石があった。
長さ六尺、巾三尺、厚さ一尺五寸。
天皇は神意をうかがう占いをされ、
「私が土蜘蛛を滅ぼすことができるのなら、この石を蹴ったら柏の葉のように舞いあがれ」
と言われた。
そして蹴られると、柏の葉のように大空に舞い上がった。
それでその石を名づけて「踏石」という。
このとき、お祈りされた神は志我神、直入物部神、直入中臣神の三神である。
十一月、日向国に着いて行宮を建ててお住みになった。
これを高屋宮という。
熊襲討伐
十二月五日、熊襲を討つことを相談された。
天皇は群卿に詔して、
「聞くところによると、襲の国に厚鹿文、迮鹿文という者がおり、この二人は熊襲の強勇の者で手下が多い。これを熊襲の八十梟帥と言っている。勢力が盛んでかなう者がない。軍勢が少なくては、敵を滅ぼすことはできないだろう。しかし、多勢の兵を動かせば、百姓たちに害となる。兵士の威力を借りないで、ひとりでにその国を平定できないものか」
と言われた。
ー人の臣が進み出て言った。
「熊襲梟帥に二人の娘があります。姉を市乾鹿文といい、妹を市鹿文といいます。容姿端正で気性も雄々しい者です。沢山の贈物をして手下に入れるのがよいでしよう。梟帥の様子をうかがわせて不意を突けば、刃に血ぬらずして、敵を破ることもできましょう」
天皇は、
「良い考えだ」
と言われた。
そこで贈物を見せて、二人の女を欺いて味方につけた。
天皇は市乾鹿文を召して、騙すために寵愛された。
市乾鹿文は天皇に申し上げ、
「熊襲の従わないことを気になさいますな。私に良い案があります。一人二人の兵を私につけて下さい」
と言った。
家に帰って強い酒をたくさん用意して、父に飲ませた。
すると酔って寝てしまった。
市乾鹿文は密かに父の弓の弦を切っておいた。
そこへ従兵の一人が進み出て、熊襲臬帥を殺した。
天皇はその不孝の甚だしいことを憎んで、市乾鹿文を殺させた。
妹、市鹿文を火国造に賜わった。
十三年夏五月、ことごとく襲の国を平定した。
高屋宮にお出でになること、すでに六年である。
その国に美人があり御刀媛という。
これを召して妃とされ、豊国別皇子を生んだ。
これが日向国造の先祖である。
十七年春三月十二日、子湯県(宮崎県児湯)にお出でになり、丹裳小野に遊ばれた。
そのとき東方を望まれ、お側のものに言われたのが、
「この国はまっすぐに日の出る方に向いているなあ」
それで、その国を名づけて日向という。
この日、野中の大石に登って、都を偲んで歌を読まれた。
ハシキヨシ、ワギへノカタユ、クモヰタチクモ、ヤマトハ、クニノマホラバ、タタナヅク、アヲガキヤマ、コモレル、ヤマトシ、ウルハシ、イノチノ、マタケムヒ卜ハ、タタミコモ、へグリノヤマノ、シラガシガエヲ、ウズニサセ、コノコ。
なつかしいなあ、我が家の方から、雲が湧いて流れてくるよ。
大和は最も優れた国。青々とした山が重なって、垣のように包んでいる。大和の国は美しいなあ。
命の満ち溢れた人は、平群の山の白橿の枝を、髪飾りとして髪に挿しなさい。
この子よ。
これを、国偲び歌という。
十八年春三月、天皇は京に向われようとして、筑紫の国を巡幸された。
最初に夷守に着かれた。
このとき岩瀬川のほとりに群衆が集まっていた。
天皇は、遥かに眺められて、お側の者に、
「あの集まっている人たちは何だろう。賊だろうか」
と言われた。
兄夷守、弟夷守の二人を遣わして見させられた。
弟夷守が帰ってきて、
「諸県君泉媛が、 帝にお召し上りものを奉ろうとして、その仲間が集まっているのです」
と言った。
夏四月三日、熊県にお着きになった。
そこに熊津彦という兄弟がいた。
天皇は先ず兄熊を呼ばれた。
彼は使いに従ってやってきた。
そして弟熊も呼ばれた。
しかし、彼はやってこなかった。
そこで兵を遣わして討たれた。
十一日、海路から葦北の小島に泊り、食事をされた。
そのとき、山部阿弭古の祖である小左を呼んで、冷たい水を献上させた。
このとき、島の中に水がなかったので、致し方なく天を仰いで天神地祇に祈った。
すると、たちまち冷たい水が、崖の傍から湧いてきた。
それを汲んで献上した。
それで、その島を名づけて水島といった。
その泉は今でも水島の崖に残っている。
五月一日、葦北から船出して火国に着いた。
ここで日が暮れた。
暗くて岸に着くことが難しかった。
遥かに火の光が見えた。
天皇は船頭に詔して、
「まっすぐに火のもとへ向っていけ」
と言われた。
それで火に向って行くと、岸に着くことができた。
天皇はその火の光るもとを尋ねて、
「何という邑か」
と聞かれた。
国人は答えて、
「これは八代県の豊村です」
と言った。
また、その火を問われて、
「これは誰の火か」
と言った。
しかし主が判らない。
人の燃やす火ではないということから、その国を名づけて火国とした。
六月三日、高来県から玉杵名邑にお出でになった。
時に、そのところの土蜘蛛の津頰というのを殺された。
十六日に阿蘇国に着かれた。
その国は野が広く遠くまで続き、人家が見えなかった。
天皇は、
「この国には人がいるのか」
と問われた。
そのとき、二人の神である阿蘇津彦と阿蘇津媛が、たちまち人の姿になり、やって来て言われた。
「私たち二人がおります。どうして人がいないことがありましようか」
それでその国を名づけて阿蘇という。
秋七月四日、筑紫後国の三毛(福岡県三池)に着いて、高田の行宮にお入りになった。
時に、倒れた樹木があり、長さ九百七十丈。
役人たちは皆、その樹を踏んで往来した。
当時の人は歌を詠んで、
アサシモノ、ミケノサヲハシ、マへツキミ、イワタラスモ、ミケノサヲハシ。
消えやすい朝霜の置いている御木の小橋を渡って、群臣たちは宮仕えに行くことだ。
天皇は、これは何の樹かと尋ねられた。
一人の老人が申し上げるのに、
「これは歴木(榇)と言います。以前、まだ倒れていなかったときは、朝日の光に照らされて、杵島山を隠すほどでした。夕日の光に照らされると、阿蘇山を隠すほどでした」
天皇は、
「この樹は神木である。この国を御木国と呼ぼう」
と言われた。
七日、八女県(福岡県八女)に着いた。
藤山を越え、南方の粟崎を望まれた。
詔して、
「その山の峯は、幾重も重なって大変麗しい。きっと神は、その山におられるのだろう」
と言われた。
時に、水沼県主猿大海が申し上げるに、
「女神がおられます。名を八女津媛といいます。常に山の中にお出でです」
それで、八女国の名はこれから始まった。
八月、的邑(福岡県浮羽)に着いて食事をされた。
この日、食膳掛が盞(酒杯)を忘れた。
当時の人は、その盞を忘れたところを名づけて浮羽といった。
現在、「的」というのは、それが訛ったものである。
かつて、筑紫の人々は、盞を浮羽といった。
十九年秋九月二十日、天皇は日向から大和にお帰りになった。
二十年春二月四日、五百野皇女を遣わして、天照大神を祭らせた。
二十五年春二月十二日、武内宿禰を遣わして、北陸と東方の諸国の地形、あるいは人民の有様を視察させられた。
二十七年春二月十二日、武内宿禰は東国から帰って申し上げるのに、
「東国の田舎の中に、日高見国があります。その国の人は、男も女も、髪を椎のような形に結い、体に入墨をしていて勇敢です。これらすベて蝦夷といいます。また土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」
と言った。
秋八月、熊襲がまた背いて、辺境をしきりに侵した。
日本武尊 出動
冬十月十三日、日本武尊を遣わして、熊襲を討たせた。
このとき、年は十六歳。
日本武尊は、
「弓の上手な者をつれて行きたいと思う。どこかに名人はいないか」
といわれた。
ある人が言った。
「美濃国に名人がいます。弟彦公といいます」
そこで日本武尊は、葛城の人である宮戸彦を遣わして、弟彦公を召された。
弟彦公は、ついでに石占横立、および尾張の田子稲置、乳近稲置を率いてやってきた。
そして日本武尊のお供をした。
十二月、熊襲の国に到着した。
そして地形や人の暮らしを見られた。
そのとき、熊襲に魁帥という者がいて、名は取石鹿文、または川上臬帥といった。
一族を残らず集めて、建物の新築祝いをしようとしていた。
日本武尊は童女(少女)のように垂らし髮にして、臬帥の宴会のときをうかがった。
剣を衣の中に隠して、梟帥の酒宴の室に入り、女たちの中に混じった。
梟帥はその童女の容姿が良いのを賞めて、手をとって同席させた。
そして、盃をあげて飲ませ、戯れ弄んだ。
夜がふけ、酒宴の人もまばらになった。
梟帥もまた酒の酔いがまわった。
そこで日本武尊は、衣の中の剣を取り出して、梟帥の胸を刺した。
その死ぬ前に梟帥は頭をさげていった。
「しばらくお待ち下さい。申し上げることがあります」
日本武尊は剣を留めて待たれた。
梟帥は、
「あなたはどなたでいらっしゃいますか」
と尋ねた。
大和武尊は答えて、
「自分は景行天皇の子で ある。名は日本童男という」
梟帥は、
「私は国中での強力の者です。それで世の人は私の威力を恐れて従わない者はありません。私は多くの武人に会いましたが、皇子のような人は始めてです。それで卑しい者の卑しいロからですが、尊号を差し上げたい。お許し頂けましょうか」
と言った。
大和武尊は、
「許そう」
と言われた。
そこで、
「これ以後、皇子を名づけて、日本武皇子と申し上げたい」
と言った。
言葉が終ると尊は胸を刺して殺された。
それで今に至るまで、 日本武尊と褒めて言うのは、この謂れによるのである。
そして後に、弟彦らを遣わして、すべてその仲間を斬らせた。
残る者はなかった。
さらに、海路を倭の方に向かわれ、吉備に行き、穴海を渡った。
そこに悪い神がいたので、これを殺した。
また難波に至る頃に、柏渡の悪い神も殺した。
二十八年春二月一日、日本武尊は熊襲を平定した様子を奏上して、
「私は天皇の御霊力によって、兵を挙げて戦えば、熊襲の首領も殺してその国を平らげました。それで西の国も鎮まり、人民は事なきを得ました。ただ、吉備の穴渡りの神と難波の柏渡の神は、人を害するところがあって、悪気で通行人を苦しめ、悪人の巣となっていました。そこで、全てその悪神を殺して、水陸の道を開きました」
と申し上げられた。
天皇は日本武尊の手柄を褒めて、特に愛された。
四十年夏六月、東国の蝦夷が背いて、辺境が動揺した。
日本武尊の再征
秋七月十六日、天皇は群卿に詔して、
「今、東国に暴れる神が多く、また蝦夷がすべて背いて、人民を苦しめている。誰を遣わしてその乱を鎮めようか」
と問われた。
群臣は、誰を遣わすべきか分らなかった。
日本武尊が申し上げられるのに、
「私は先に西の征討に働かせて頂きました。今度の役は、大碓皇子が良いでしよう」
と言われた。
そのとき、大碓皇子は驚いて草の中に隠れられた。
しかし、使者を遣わして連れてこられ、天皇が責めて、
「お前が望まないのを、無理に遣わすことはない。何ごとだ。まだ敵にも会わないのに、そんなに怖がったりして」
と言われた。
これによって、ついに美濃国を任され、任地に行かされた。
これが身毛津君、守君二族の先祖である。
日本武尊は雄々しく振る舞って、
「熊襲が平定され、まだいくらも経たぬのに、今また東国の夷が反乱した。いつになったら安定するだろうか。私にとっては大変ですが、急いでその乱を平らげましょう」
と言われた。
天皇は日本武尊を征夷の将軍に任じ、
「かの東夷は性狂暴で、凌辱も恥じず、村に長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷の中でも、蝦夷は特に手強い。男女親子の中の区別もなく、冬は穴に寝、夏は木に棲む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原を走ることは獣のようであるという。恩は忘れるが怨みは必ず報いるという。矢は髪を束ねた中に隠し、刀を衣の中に带ぴている。あるいは、仲間を集めて辺境を犯し、実りの時期を狙って作物をかすめ取る。攻めれば草に隠れ、追えば山に入る。昔から一度も王化に従ったことがない。今、お前の人と成りを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電のようで、向うところ敵なく、攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが、本当は神人である。これは誠に自分が至らず、国が乱れるのを天が哀れんで、天業を整え、祖先のお祭りを絶えさせないようにして下さっているのだろう。天下も位もお前のもの同然である。どうか深謀遠慮をもって、良くない者は懲らしめ、徳をもってなつかせ、兵を使わず、自ずから従うようにさせよ。言葉を考えて暴ぶる神を静まらせ、あるいは、武を振って姦鬼を打払え」
と言われた。
日本武尊は将軍の位を賜わり、再拝して、
「かつて、西征の時は皇威を頼り、三尺の短い剣をもって、熊襲の国を討ち、そして幾ばくもなく賊将は罪に服しました。今また神祇の霊に頼り、皇威をお借りして出かけて行き、徳教を示してもなお、従わない者があれば、兵をもって討伐しましょう」
と言われた。
天皇は吉備武彦と大伴武日連とを、日本武尊に従わせられた。
また、七掏脛を膳夫(料理係)とされた。
冬十月二日、日本武尊は出発された。
七日、寄り道をして、伊勢神宮を拝まれた。
倭媛命にお別れの言葉を述べ、
「今、天皇の命を承って東国に行き、諸々の反乱者を討つことになりました。それで、ご挨拶に参りました」
と言われた。
倭媛命は草薙剣を取って、日本武尊に授けて言われた。
「よく気をつけ、決して油断をしないように」
この年、日本武尊は、初めて駿河に行かれた。
そこの賊が従ったように見せ、欺いて、
「この野には大鹿が多く、その吐く息は朝霧のようで、足は若木のようです。お出でになって狩りをなさいませ」
と言った。
日本武尊はその言葉を信じて、野に入り狩りをなされた。
賊は、皇子を殺そうという気があって、その野に火を放った。
皇子は欺かれたと気づき、火打石を取り出し火をつけて、迎え火をつくって逃れることができた
また一説には、皇子の差しておられる天叢雲剣が、自ら抜けだして皇子の傍の草をなぎ払い、これによって難を逃れられた。
それでその剣を名づけて草薙というとされる。
皇子は、
「ほとんど欺かれるところであった」
と言われた。
そして、ことごとくその賊共を焼き滅した。
だからそこを名づけて焼津(静岡県焼津)という。
弟橘媛
さらに相模にお出でになって、上総に渡ろうとされた。
海を望んで大言壮語して、
「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう」
と言われた。
ところが海中に至って暴風が起り、御船は漂流して進まなかった。
そのとき皇子につき従ってきた妾があり、名は弟橘媛という。
穂積氏忍山宿禰の娘である。
皇子に申されるのに、
「今、風が起こり、波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神の仕業です。賤しい私めが皇子の身代りに、海に入りましょう」
そして、言い終るとすぐ波を押しわけ、海にお入りになった。
暴風はすぐに止んだ。
船は無事岸につけられた。
当時の人は、その海を名づけて馳水という。
日本武尊は、上総から移って陸奥国に入られた。
そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦に回った。
玉浦を横切って蝦夷の支配地に入った。
蝦夷の首領である島津神、国津神たちが、竹水門にたむろして防ごうとした。
しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れ、心中、これは勝てそうにないと思い、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、
「君のお顔を拝すると、人に優れていらっしゃいます。神様でしょうか。お名前を承りたい」
といった。
皇子は答えて言われた。
「我は現人神(天皇)の皇子である」
蝦夷らはすっかり畏まって、着物をつまみあげ、波を分けて王船を助けて岸に着けた。
そして自ら縛についた形で服従した。
それで、その罪を許された。
その首領を捕虜として、手下にされた。
蝦夷を平定して日高見国から帰り、常陸を経て甲斐国に至り、酒折宮にお出でになった。
明かりを灯してお食事をされ、この夜、歌を作って従者にお尋ねになった。
ニヒバリ、ツクバヲスギテ、イクヨカネツル。
新治や筑波を過ぎて、幾夜寝ただろうか。
従者たちは答えられなかった。
御火焚の者が、皇子の歌の後を続けて歌った。
カガナヘテ、ヨニハココノヨ、ヒニハ卜ヲカヲ。
「日数を重ねて、夜は九夜、昼は十日でございます」
御火焚の賢いのをほめて、厚く褒美を与えられた。
この宮にお出でになって、較部を大伴連の先祖の武日に賜わった。
日本武尊が言われた。
「蝦夷の悪い者たちは全て罪に服した。ただ、信濃国、越国だけが少し王化に服していない」
甲斐から北方の、武蔵、上野を巡って、西の碓日坂にお着きになった。
日本武尊は常に弟橘姫を思い出される心があって、碓日の峯にのぼり、 東南の方を望んで、三度嘆いて、
「吾嬬はや(我妻よ)」
と言われた。
それで碓日嶺より東の諸国を、吾嬬国という。
ここで道を分けて、吉備武彦を越の国に遣わし、その地形や人民の順逆を見させられた。
日本武尊は信濃に進まれた。
この国は山高く谷は深い。
青い嶽が幾重にも重なり、人は杖をついても登るのが難しい。
岩は険しく坂道は長く、高峯数千、馬は行き悩んで進まない。
しかし、日本武尊は霞を分け、霧を凌いで大山を渡り歩かれた。
嶺に着かれて、空腹のため山中で食事をされた。
山の神は皇子を苦しめようと、白い鹿になって皇子の前に立った。
皇子は怪しんで一箇蒜(ニンニク)で、白い鹿をはじかれた。
それが眼に当たって鹿は死んだ。
ところが皇子は、急に道を失って出るところが分らなくなった。
そのとき白い犬がやってきて、皇子を導くようにした。
そして美濃に出ることができた。
吉備武彦は越からやってきてお会いした。
これより先、信濃坂を越える者は、神気を受けて病み臥す者が多かった。
しかし、白い鹿を殺されてからは、この山を越える者は、蒜(ニンニク)を嚙んで人や牛馬に塗ると、神気にあたらなくなった。
日本武尊の病没
日本武尊はさらに尾張に帰られ、尾張氏の娘である宮簀媛を娶って、長く留まられた。
そこで近江の五十葺山(伊吹山)に、荒ぶる神のあることを聞いて、剣を外して宮簀媛の家に置き、徒歩で行かれた。
胆吹山にいくと、山の神は大蛇になって道を塞いだ。
日本武尊は主神(神の正体)が蛇になったことを知らないで、
「この大蛇はきっと神の使いなんだろう。主神を殺すことができれば、この使いは問題でない」
といわれた。
蛇を踏み越えて、なお進まれた。
このとき、山の神は雲を起こして雹を降らせた。
霧は峯にかかり、谷は暗くて、行くべき道がなかった。
さまよって歩くところが分らなくなった。
霧をついて強行すると、どうにか出ることができた。
しかし正気を失い、酔ったようであった。
それで山の下の泉に休んで、そこの水を飲むと、やっと気持ちが醒めた。
それでその泉を居醒井という。
日本武尊はここで始めて病気になられた。
そしてようやく起きて尾張に帰られた。
しかし、宮簀媛の家に入らないで、伊勢に移って尾津に着かれた。
先に日本武尊が東国に行かれ、尾津浜にとどまって食事をされたとき、一つの剣を外して、松の根本に置かれた。
それを忘れて行ってしまわれた。
今ここにくると、この剣がそのままあった。
宮簀媛は、それを歌っていわれた。
ヲハリニ、タダニムカヘル、ヒトツマツアハレ、ヒトツマツ、ヒトニアリセバ、キヌキセマシヲ、タチハケマシヲ。
尾張の国にまっすぐに向き合っている尾津の崎の一本松よ。もしその一本松が男だったら、衣を着せてあげようものを。太刀を佩かせてあげようものを。
能褒野について病気がひどくなった。
捕虜にした蝦夷どもを伊勢神宮に献上された。
吉備武彦を遣わして天皇に奏上された。
「私は勅命を受けて、遠く東夷を討ちました。神恩を被り皇威に頼って、叛く者は罪に従い、荒ぶる神も自ら従いました。それで鎧を巻き、矛を納めて、心安らぎ帰りました。いずれの日か、天朝に復命しようと思っていましたのに、天命たちまちに至り、余命幾ばくもありません。さびしく荒野に臥し、誰に語ることもありません。自分の身の亡ぶことは惜しみませんが、残念なのは、御前にお仕えできなくなったことです」
こうして能褒野(鈴鹿)でお亡くなりになった。
時に年三十。
天皇はこれをお聞きになり、安らかに眠れなかった。
食べてもその味もなく、昼夜むせび泣き、胸をうって悲しまれた。
大変嘆いて、
「我が子、小碓皇子、かつて熊襲が背いた時、まだ総角もせぬのに、長く戦いに出て、いつも私を助けてくれた。東夷が騒いで、他に適当な人がなかったので、やむなく賊の地に入らせた。一日も忘れることはなかった。朝夕に帰る日を待ち続けた。何の禍か、何の罪か、思いもかけず、我が子を失ってしまうことになった。 今後誰と鴻業を治めようか」
と言われた。
群卿に詔し、百僚に命じて、伊勢国の能褒野の陵に葬られた。
そのとき、日本武尊は白鳥となって、陵から出て倭国を指して飛んでいかれた。
家来たちがその柩を開いてみると、衣だけが空しく残って屍はなかった。
そこで使者を遣わして、白鳥を追い求めた。
倭の琴弾原(奈良県御所)にとどまった。
それでそこに陵を造った。
白鳥はまた飛んで河内に行き、古市邑(大阪府羽曳野)にとどまった。
またそこに陵を造った。
当時の人は、この三つの陵を名づけて白鳥陵といった。
それからついに高く飛んで天に上った。
それでただ衣冠だけを葬った。
功績を伝えようとして、武部を定められた。
この年は、天皇が皇位につかれて四十三年である。
五十一年春一月七日、群卿を召されて大宴会を催され、何日も続いた。
皇子稚足彦尊(成務天皇)と武内宿禰はその宴に出席しなかった。
天皇は呼んで、そのわけを尋ねられた。
彼らはお答えして、
「宴楽の日には、群卿百寮がくつろぎ遊ぶことに心が傾き、国家のことを考えていません。もし狂った者があって、警衛のすきを窺ったらと心配です。それで垣の外に控えて非常に備えています」
と申し上げた。
天皇は、
「立派なものだな」
と言われた。
そして特に目をかけられた。
秋八月四日、稚足彦尊を立てて皇太子とされた。
この日に武内宿禰に命じて、棟梁之臣(重要な大臣ポストの意)とされた。
はじめ、日本武尊が差しておられた草薙剣は、現在、尾張国年魚市郡の熱田神宮にある。
尊が神宮に献上した蝦夷どもは、昼夜喧しく騒いで、出入りにも礼儀がなかった。
倭姫命は、
「この蝦夷らは神宮に近づけてはならない」
と言われ、朝廷に進上された。
そこで、三輪山の辺りに置かれることになった。
いくらもたたぬ中に、三輪山の木を伐ったり、里で大声をあげたりして、村人をおびやかした。
天皇はこれを聞かれ、群卿に詔して、
「かの三輪山のほとりに置かれている蝦夷は、人並みではない心の者どもだから、中央には住ませ難い。その希望に従って、それぞれ畿外に置くがよい」
と言われた。
これが播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の、五つの国の佐伯部の先祖である。
これより先、日本武尊は、両道入姫皇女を召して妃とし、稲依別王を生まれた。
次に、足仲彦天皇(仲哀天皇)。
次に、布忍入姫命。
次に、稚武王を生まれた。
その兄の稲依別王は、犬上君と武部君の二族の先祖である。
また吉備武彦の娘である吉備穴戸武媛は、妃として武卵王と十城別王を生んだ。
武卵王は讃岐綾君の先祖である。
十城別王は伊予別君の先祖である。
次の妃である、穂積氏忍山宿禰の娘の、弟橘媛は稚武彦王を生んだ。
五十二年夏五月四日、皇后である播磨大郎姫が亡くなられた。
秋七月七日、八坂入媛命を立てて皇后とした。
五十三年秋八月一日、天皇は群卿に詔して、
「自分の愛した子を思い偲ぶことは、何時の日に止むことか。小碓王(日本武尊)の平定した国々を、巡幸したいと思う」
と言われた。
この月、天皇の御車は伊勢にお出でになり、そこから東海道にお入りになった。
冬十月上総国に行き、海路で安房の水門にお出でになった。
このとき、覚賀鳥(カクカクと鳴き容易に姿を見せない鳥)の声が聞こえた。
その鳥の形を見たいと思われ、海の中までお出でになり、そこで大きな蛤を得られた。
膳臣の先祖で、名は磐鹿六雁が蒲の葉をとって櫸にかけ、蛤を膾に造って奉った。
それで六雁臣の功を賞めて、膳大伴部の役を賜わった。
十二月、東国から帰り伊勢にお住みになった。
これを綺宮という。
五十四年秋九月十九日、伊勢から倭に帰って纏向宮に居られた。
五十五年春二月五日、彦狹島王を東山道十五国の都督に任じられた。
これは豊城命の孫である。
そして、春日の穴咋邑に至って、病に臥して亡くなられた。
このとき、東国の人民は、かの王の来られなかったことを悲しみ、秘かに王の屍を盗み出して上野国に葬った。
五十六年秋八月、御諸別王に詔して、
「お前の父の彦狭島王は、任じたところに行けないで早く死んだ。だからお前は専ら東国を治めよ」
と言われた。
それで御諸別王は天皇の命を承って、父の業をするため、そこに行って早速、善政をしいた。
そのとき、蝦夷が騒いだので、兵を送り討った。
蝦夷の首領の足振辺、大羽振辺、遠津闇男辺らが頭を下げてやってきた。
おとなしく罪を認め、その領地をすべて献上した。
よって降伏する者を許し、降伏せぬ者は殺した。
こうして東国は久しく事なきを得た。
その子孫は今も東国にいる。
五十七年秋九月、坂手池を造った。
そして竹をその堤の上に植えた。
冬十月、諸国に令して田部と屯倉を設けた。
五十八年春二月十一日、近江国にお出でになり、志賀(滋賀県大津)の地にお住みになること三年であった。
これを高穴穂宮という。
六十年冬十一月七日、天皇は高穴穂宮でお亡くなりになった。
年百六歳であった。
成務天皇 稚足彦天皇
天皇即位と国・県の制
稚足彦天皇は景行天皇の第四子である。
母の皇后は八坂入彦皇子の娘である八坂入姫命という。
景行天皇の四十六年に皇太子となられ、年二十四であった。
六十年冬十一月、景行天皇は亡くなられた。
元年春一月五日、皇太子は皇位に着かれた。
この年、太歳辛未。
二年冬十一月十日、景行天皇を倭国の山辺道上陵に葬った。
先の皇后を尊んで皇太后とよんだ。
三年春一月七日、武内宿禰を大臣とされた。
天皇と武内宿禰は同日生まれであって、そのため特に可愛がられた。
四年春二月一日、詔して、
「先帝は聡明で武勇にすぐれ、天の命をうけて皇位につかれた。天意に沿い、人に順って、賊を伐ち払い正しきを示された。徳は民を覆い、道は自然に適っていた。このため天下に従わぬ者なく、すべてのものは安らかであった。今、私が皇位をつぎ、日夜己をいましめてきた。けれども、人民の中には、虫のうごめくように穏やかでないものがある。これは国郡に長がなく、県邑に首がないからである。これから後は、国郡に長を置き、県邑に首を置こう。それぞれの国の長としてふさわしい者を取り立て、国郡の首長に任ぜよ。これが王城を護る垣根となるであろう」
と言われた。
五年秋九月、諸国に令して国郡に造長を立て、県邑に稲置をおき、それぞれ盾矛を賜わって印とした。
山河を堺として国県を分け、縦横の道に従って邑里を定めた。
こうして東西を日の縦とし、南北を日の横とした。
山の南側を影面、山の北側を背面という。
これによって人民は居に安じ、天下は無事であった。
四十八年春三月一日、甥の足仲彦尊をたてて皇太子とされた。
六十年夏六月十一日、天皇が亡くなられた。
時に年百七歳。
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