仁徳天皇 大鷦鷯天皇
菟道稚郎子の謙譲と死
大鷦鷯天皇は応神天皇の第四子である。
母は五百城入彦皇子の孫である仲姫命という。
天皇は幼い時から聡明で、叙智であらせられた。
容貌が美しく、壮年に至ると、心広く慈悲深くいらっしゃった。
四十一年春二月、応神天皇が亡くなられた。
太子である菟道稚郎子は、位を大鷦鷯尊に譲ろうとして、まだ即位されなかった。
そして、大鷦鷯尊に対し申された。
「天下に君として万民を治める者は、 民を覆うこと天の如く、受け入れることは地の如くでなければならない。上に民を喜ぶ心があって国民を使えば、国民は欣然として天下は安らかである。私は弟です。また、そうした過去の記録も見られず、どうして兄を越えて位を継ぎ、天業を統べることができましょうか。 大王は立派なご容姿です。仁孝の徳もあり年も上です。天下の君となるのに充分です。先帝が私を太子とされたのは、特に才能があるからというのではなく、ただ愛されたからです。宗廟社稷(国家・朝廷の意)に仕えることは、重大なことです。私は不肖でとても及びません。兄は上に弟は下に、聖者は君となり、愚者は臣となるのは古今の通則です。どうか王は疑われず、帝位について下さい。私は臣下としてお助けするばかりです」
と仰せられた。
大鷦鷯尊は答えていわれた。
「先帝も『皇位は一日たりとも空しくしてはならぬ』とおっしゃった。それで前もって明徳の人をえらび、王を皇太子として立てられた。天皇の嗣にさいわいあらしめ、万民をこれに授けられた。寵愛のしるしを尊んで、国中にそれが聞こえるようにされました。私は不肖で、どうして先帝の命に背いて、たやすく弟王の願いに従うことができましようか」
固く辞退して受けられず、譲り合われた。
このとき、額田大中彦皇子が、倭の屯田と屯倉(天皇の御料田や御倉)を支配しようとして、屯田司の出雲臣の先祖である淤宇宿禰に語った。
「この屯田は、元から山守りの司る地である。 だから今、自分が治めるから、お前にその用はない」
と言われた。
淤宇宿禰は太子に申し上げた。
太子は、
「大鷦鷯尊に申せ」
と言われた。
淤宇宿禰は大鷦鷯尊に、
「私がお預かりしている田は、大中彦皇子が妨げられて治められません」
と申し上げた。
大鷦鷯尊は倭直の先祖である麻呂に問うた。
「倭の屯田は、もとより山守りの地というが、これはどうか」
麻呂は、
「私には分かりません。弟の吾子籠が知っております」
と答えた。
吾子籠は韓国に遣わされてまだ還っていなかった。
大鷦鷯尊は淤宇に言った。
「お前は自ら韓国に行って、吾子籠を連れて来なさい。昼夜兼行で行け」
そして淡路の海人八十人を差向けて水手とされた。
淤宇は韓国に行って、吾子籠を連れて帰った。
屯田のことを尋ねられると、
「伝え聞くところでは、垂仁天皇の御世に、御子の景行天皇に仰せられて、倭の屯田を定められたといいます。このときの勅旨は『倭の屯田は時の天皇のものである。帝の御子といっても、天皇の位になければ司ることはできない』といわれました。これを山守りの地というのは間違いです」
大鷦鷯尊は、吾子籠を額田大中彦皇子のもとに遣わして、このことを知らされた。
大中彦皇子は言うべき言葉がなかった。
その良くないことをお知りになったが、許して罰せられなかった。
大山守皇子は先帝が太子にして下さらなかったことを恨み、重ねてこの屯田のことで怨みをもった。
そこで陰謀を企て、
「太子を殺して帝位を取ろう」
と言われた。
大鷦鷯尊はその謀を聞かれて、密かに太子に知らせ、兵を備えて守らせた。
大山守皇子は備えのあることを知らず、数百の兵を率いて夜中に出発した。
明け方に菟道(宇治)に着いて河を渡ろうとした。
そのとき、太子は粗末な麻の服をつけられて、こっそりと渡し守にまじられ、大山守皇子を船に乗せて漕ぎ出された。
河の中程に至って、渡し守に船を転覆させられた。
大山守皇子は河にはめられてしまった。
水に浮き流れながら歌った。
チハヤヒト、ウチノワタリニ、サヲトリニ、ハヤケムヒトシ、ワガモコニコム。
菟道の渡に巧に船を操る人よ、私を救いに早く来ておくれ。
しかし、伏兵が沢山いて、岸に着くことができなかった。
そして、ついに水死された。
この屍を探すと、考羅済(京都・河原)に浮かんだ。
太子は屍を見られて、歌を詠んだ。
チハヤヒ卜、ウチノワタリニ、ワタリデニ、タテル、アヅサユミ、マユミ、イキラム卜、ココロハモへ卜、イ卜ラム卜、ココロハモへ卜、モトへハ、キミヲオモヒデ、スヱへハ、イモヲオモヒデ、イラナケク、ソコニオモヒ、カナシケク、ココニオモヒ、イキラズゾクル、アヅサユミ、マユミ。
菟道の渡で、渡り場に立っている梓の木よ。それを伐ろうと心には思うが、それを取ろうと心には思うが、その本辺では君を思い出し、末辺では妹を思い出し、悲しい思いがそこここでまとわりついて、とうとう梓の木を伐らずに帰った。
大山守皇子は奈良山に葬った。
太子は宮室を菟道に建ててお住みになったが、位を大鷦鷯尊に譲っておられるので長らく即位されなかった。
皇位は空いたままで三年になった。
漁師が鮮魚の献上品を菟道宮にお届けした。
太子は漁師に、
「自分は天皇ではないのだ」
と仰せられて、返して難波に奉らせられた。
大鷦鷯尊はそれをまた返して菟道に奉らせられた。
漁師の献上品は両方を往き来している間に、古くなり腐ってしまった。
それでまたあらためて鮮魚を奉ったが、譲り合われることは前と同様であった。
漁師は度々往き来をするのに苦しみ、魚を捨てて泣いた。
諺に、
「海人でもないのに、自分から出たことが原因で、自分で泣くことよ」
があるが、それはこのことから使われるようになった。
太子は、
「自分は兄の志を変えられないことを知った。長生きをして天下を煩わすのは忍びない」
と言って、ついに自殺をされた。
大鷦鷯尊は太子が亡くなられたことを聞いて、驚いて難波宫から急遽、菟道宮に来られた。
太子の死後三日であった。
大鷦鷯尊は胸を打ち泣き叫んで、為すすべを知らぬ様子であった。
髪を解き、屍体にまたがって、
「弟の皇子よ」
と三度呼ばれた。
すると、俄かに生き返られた。
大鷦鷯尊は太子に言った。
「悲しいことよ、惜しいことよ。一体何で自殺などなさいますか。もし死なれたと知れたら、先帝は私を何と思われますか」
太子は大鷦鷯尊に、
「天命なのです。誰も止めることはできません。もし先帝の身許に参ることがありましたら、詳しく兄王が聖で、度々辞退されたことを申し上げましょう。あなたは我が死を聞いて、遠路を駆けつけて下さった。お礼を申し上げねばなりません」
とおっしゃり、同母妹の八田皇女を奉りたいと言われ、
「お引き取り頂くのも迷惑でしょうが、何とか後宮の数に入れて頂けますならば」
と言われた。
そして、また棺に伏せって、ついに亡くなられた。
大鷦鷯尊は麻の白服を着て、悲しみ慟哭されること甚だしかった。
骸は菟道の山の上に葬った。
仁徳天皇即位
元年春一月三日、大鷦鷯尊は即位された。
皇后(応神天皇の皇后)を尊んで皇太后と言われた。
難波に宮を造られ、高津宫という。
宮殿は上塗りもせず、垂木や柱に飾りも付けず、屋根葺きの茅も切り揃えなかった。
これは自分だけのことなので、人民の耕作や機織りの時間を奪ってはならぬとされたのである。
この天皇が生まれられた日に、ミミズクが産殿に飛び込んできた。
翌朝、父の応神天皇が武内宿禰を呼んで、
「これは何のしるしだろうか」
と言われた。
宿禰は、
「めでたいしるしです。昨日、私の妻が出産する時、ミソサザイが産屋に飛び込んできました。これもまた不思議なことです」
と言った。
そこで天皇は、
「我が子と宿禰の子は同じ日に生まれた。そして両方ともしるしがあったが、これは天のお示しである。その鳥の名をとって、互いに交換し、子どもに名づけ、後のしるしとしよう」
とおっしゃった。
それでサザキの名をとって太子につけ、大鷦鷯尊となった。
ツクの名をとって大臣の子に名づけ、木菟宿禰といった。
これが平群臣の先祖である。
この年、太歳癸酉。
二年春三月八日、磐之姫命を立てて皇后とした。
皇后は、大兄去来穂別天皇(履中天皇)、住吉中皇子、瑞歯別天皇(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)をお生みになった。
別の妃である日向髪長媛は、大草香皇子と幡梭皇女を生んだ。
民の竈の煙
四年春二月六日、群臣に詔して、
「高殿に登って遥かに眺めると、人家の煙があたりに見られない。これは人民たちが貧しくて、炊ぐ人がないのだろう。昔、聖王の御世には、人民は君の徳を讃える声をあげ、家々では平和を喜ぶ歌声があったという。今、自分が政について三年経ったが、褒め讃える声も起こらず、炊煙はまばらになっている。これは五穀が実らず、百姓が窮乏しているのである。都の内ですらこの様子だから、都の外の遠い国ではどんなであろうか」
と言われた。
三月二十一日、詔して、
「今後三年間、すベて課税をやめ、人民の苦しみを柔げよう」
と言われた。
この日から、御衣や履物は破れるまで使用され、御食物は腐らなければ捨てられず、心を削ぎ減らし、志を慎まやかにして、民の負担を減らされた。
宮殿の垣は壊れても作らず、屋根の茅は崩れても葺かず、雨風が漏れて御衣を濡らし、星影が室内から見られる程であった。
この後、天候も穏やかに、五穀豊穣が続き、三年の間に人民は潤ってきて、徳を褒める声も起こり、炊煙も賑やかになってきた。
七年夏四月一日、天皇が高殿に登って一望されると、人家の煙は盛んに立ち上っていた。
そして皇后に語られた。
「私はこのように富んできた。これなら心配はない」
といわれた。
皇后が、
「なぜ富んできたと言えるのでしょうか」
と言われると、
「人家の煙が国に満ちている。人民が富んでいるからそう思うのだ」
皇后はまた、
「宮の垣が崩れて修理もできず、殿舍は破れ、御衣が濡れる有様で、なぜ富んでいると言えるのでしょう」
天皇が答える。
「天が人君を立てるのは、人民の為である。だから、人民が根本である。それで古の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは、自分が貧しいのと同じである。人民が富んだならば、自分自身が富んだことになる。人民が富んでいるのに、人君が貧しいということはないのである」
秋八月九日、大兄去来穂別皇子(履中天皇)のために、壬生部を定められた。
皇后のために葛城部を定められた。
九月、諸国の者が奏請し、
「課役が免除されてもう三年になります。そのため宮殿は壊れ、倉は空になりました。今、人民は豊かになって、道に落ちているものも拾いません。連れ合いに先立たれた人々もなく、家には蓄えができました。こんな時に税をお払いして、宮室を修理しなかったら、天の罰を被るでしょう」
と申し上げた。
けれども、天皇はまだお許しにならなかった。
十年冬十月、初めての課役を命ぜられて、宮室を造られた。
人民たちは促されなくても、老を助け幼き者も連れて、材を運び土籠を背負った。
昼夜を分けず力を尽くしたので、幾何も経ずに宮室は整った。
それで、現在に至るまで「聖帝」と崇められるのである。
池堤の構築
十一年夏四月十七日、群臣に詔して、
「今、この国を眺めると、土地は広いが田圃は少い。 また、河の水は氾濫し、長雨にあうと潮流は陸に上り、村人は船に頼り、道路は泥に埋まる。群臣はこれをよく見て、溢れた水は海に通じさせ、逆流を防いで田や家を浸さないようにせよ」
と言われた。
冬十月、宮の北部の野を掘って、南の水を導いて、西の海(大阪湾)に入れた。
その水を名づけて堀江といった。
また、北の河の塵芥を防ぐために、茨田の堤を築いた。
このとき、築いてもまた壊れ、防ぎにくい所が二ヶ所あった。
天皇が夢をみられ、神が現れて教えた。
「武蔵の人である強頸と、河内の人である茨田連杉子の二人を、河伯に奉れば、きっと防ぐことができるだろう」
それで二人を探し求めて得られた。
そこで河伯に人身御供(生贄)した。
強頸は泣き悲しんで水に入れられた。
その堤は完成した。
衫子だけは丸い瓢(ヒョウタン)を二個をとって、防ぎにくい河に臨み、その中に投げ入れて神意を伺う占いをして、
「河神が祟るので、私が生贄にされることになった。自分を必ず得たいのなら、この瓢を沈めて浮かばないようにせよ。そうすれば、私も本当の神意と知って水の中に入りましょう。もし瓢を沈められないなら、偽りの神と思うから、無駄に我が身を亡ぼすことはない」
と言った。
旋風が俄かに起こって、瓢を水中に引きこもうとしたが、瓢は波の上に転がるばかりで沈まなかった。
速い流れの水に浮き躍りしながら、遠く流れ去った。
衫子は死ななかったが、その堤は完成した。
これは、衫子の才智でその身が助かったのである。
当時の人は、その二ヶ所を名づけて、それぞれ強頸の断間、衫子の断間といった。
この年、新羅人の朝貢があった。
そして、この工事に使われた。
十二年秋七月三日、高麗国が鉄の盾、鉄の的を奉った。
八月十日、高麗の客を朝廷で饗された。
この日、群臣百寮を集めて、高麗の奉った鉄の盾と的を試した。
多くの人が的を射通すことができなかった。
ただ、的臣の先祖である盾人宿禰だけが鉄の的を射通した。
高麗の客たちは、その弓射る力の優れたのを見て、共に起って拝礼した。
翌日、盾人宿禰を褒めて、的戸田宿禰と名を賜わった。
同日、小迫瀬造の先祖である宿禰臣に名を賜わって、賢遺臣といった。
冬十月、山城の栗隈県(宇治市大久保)に、大溝を掘って田に水を引いた。
これによって、その土地の人々は毎年豊かになった。
十三年秋九月、初めて茨田屯倉を建てた。
そして舂米部を定めた。
冬十月、和珥池を造った。
この月に横野堤を築いた。
十四年冬十一月、猪飼津(大阪市生野周辺)に橋を渡した。
そこを名づけて小橋といった。
この年、大通りを京の中に造った。
これは南の門からまっすぐ丹比邑(羽曳野市丹比)に及んだ。
また、大溝を感玖(河内の紺口)に掘った。
石河の水を引いて、上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦など、四ヶ所の原を潤し、四万頃あまり(頃とは、中国の地積単位で百畝)の田が得られた。
そこの人民達は豊かな稔りのために、凶作の恐れがなくなった。
十六年秋七月一日、天皇は女官である桑田玖賀媛(丹波国桑田の出身)を、近習の舍人らに見せられて言われた。
「私はこの女官を可愛がりたいと思うが、皇后(磐之媛)の嫉妬が強いので、召すことができない。何年も経って、徒らに盛年を見送るのが惜しい」
ということを歌で問われた。
ミナソコフ、オミノヲトメヲ、タレヤシナハム。
私の臣下の少女を、誰か面倒を見たいと思う者はなかろうか。
播磨国造の先祖である速待が、一人進み出て歌った。
ミカシホ、ハリマハヤマチ、イハクダス、力シコクトモ、アレヤシナハム。
播磨の速待が、畏れ多くもご面倒を見ましょう。
その日、玖賀媛を速待に賜わった。
翌日の夕方、速待が玖賀媛の家に行った。
けれども、玖賀媛とは打ち解けなかった。
強引に寝間に近づこうとしたが、玖賀媛は、
「私は寡婦のまま終りたいと思います。どうしてあなたの妻となりましょうか」
と言った。
天皇は速待の志を遂げさせたいと思われ、玖賀媛を速待に付き添わせて、桑田に行かせたが、途中で玖賀媛は発病して死んでしまった。
現在でも玖賀媛の墓が残っている。
十七年、新羅が朝貢しなかった。
秋九月、的臣の先祖である砥田宿禰と、小迫瀬造の先祖である賢遺臣を遣わして、朝貢せぬことを詰問した。
新羅人は恐れ入って貢を届けた。
調布の絹千四百六十匹、その他種々の品物が、あわせて八十艘であった。
天皇と皇后の不仲
二十二年春一月、天皇が皇后に語った。
「八田皇女を召し入れて妃としたい」
皇后は承知されなかった。
天皇は歌にして皇后に乞われた。
ウマヒ卜ノ、タツルコトタテ、ウサユヅル、タエバツガムニ、ナラべテモガモ。
私がはっきり表明したいのはこんなことだ。予備の弦としたいのだから、本物が切れたときだけ使うのだから、八田皇女を迎えたい。
皇后が答歌された。
コロモコソ、フタへモヨキ、サヨ卜コヲ、ナラベムキミハ、力シコキロカモ。
衣こそ二重に重ねて着るのもよろしいが、夜床を並べようとなさるあなたは、おそろしい方ですね。
天皇はまた歌詠みした。
オシテル、ナニハノサキノ、ナラビハマ、ナラベムトコソ、ソノコハアリケメ。
難波の崎の並び浜のように、私と二人並んでいられるだろうと、その子は思っていただろうに。
これに皇后は答歌された。
ナツムシノ、ヒムシノコロモ、フタヘキテ、カクミヤタリハ、アニヨクモアラズ。
夏の蚕が繭を二重に着て囲んで宿るように、二人の女を侍らせるのは良くないですよ。
これにも天皇はまた歌詠みした。
アサヅマノ、ヒカノヲサカヲ、カタナキニ、ミチユクモノモ、タグヒテゾヨキ。
朝妻の避介の坂を、半泣きに歩いて行く者も、二人並んで行く道づれがあるのが良い。
しかし、皇后はどうしても許せないと思われたので、黙ってしまって返答はされなかった。
三十年秋九月十一日、皇后は紀の国にお出でになり、熊野岬に着かれ、そこの三つ柏をとってお帰りになった。
天皇は皇后の不在を伺って、八田皇女を召して大宮の中に入られた。
皇后は難波の渡りに着かれ、天皇が八田皇女を召されたことを聞かれ、大いに恨まれた。
採ってこられた三つ柏を海に投げ入れて、岸に泊まらなかった。
当時の人は、柏を散らした海を名づけて葉済といった。
天皇は皇后が怒って泊られなかったことを知らず、親しく難波の大津にお出でになり、皇后の船をお待ちになった。
そして歌を詠まれた。
ナニハヒ卜、スズフネ卜ラセ、コシナツミ、ソノフネ卜ラセ、オホミフネ卜レ。
難波人よ、鈴船を引け。腰まで水に浸かって、その船を引け。大御船を引け。
皇后は大津に泊られず、そこを引き返し川から遡って、山城より回り、倭に出られた。
翌日、天皇は舎人の鳥山を遣わして、皇后を連れ返そうとされた。
そのとき歌われた。
ヤマシロニ、イシケ卜リヤマ、イシケシケ、アガモフツマニ、イシキアハムカモ。
山背に早く追いつけ鳥山よ。早く追いつけ追いつけ。私の愛しい妻に追いついて、会うことができるだろうか。
皇后は帰らないで、なおも進んでいかれた。
山城河(木津川)にお出でになって歌われた。
ツギネフ、ヤマシロガハヲ、力ハノホリ、ワガノボレバ、力ハクマニ、タチサカユル、モモタラズ、ヤソハノキハ、オホキミロカモ。
山城河を遡ってくると、河の曲り角に立って、栄えている葉の茂った木は、立派で我が大君にそっくりである。
奈良山を越え、故郷の葛城を眺めて歌詠みした。
ツギネフ、ヤマシロガハヲ、ミヤノボリ、ワガノボレバ、アヲニヨシ、ナラヲスギ、ヲタテ、ヤマトヲスギ、ワガミガホシクニハ、カツラギタカミヤ、ワギへノアタリ。
山城河を遡ると、奈良を過ぎ、大和を過ぎ、私の見たいと思う国は、葛城の高宮の我が家のあたりです。
改めて山城に帰って、宮室を筒城岡(綴喜郷)の南に造ってお住みになった。
冬十月一日、的臣の先祖のロ持臣を遣わして、皇后を呼ばれた。
ロ持臣は筒城宮に着いて、皇后にお目にかかったが、黙っておられてお返事もされない。
ロ持臣は雨に漏れても、夜昼を重ねても、皇后の殿舍の前に伏して去らなかった。
ロ持臣の妹の国依媛が皇后に仕えていたので、このとき皇后の側に侍り、兄が雨に打たれているのを見て、悲しみ歌った。
ヤマシロノ、ツツキノミヤニ、モノマヲス、ワガセヲミレバ、ナミダグマシモ。
山城の筒城の宮で、皇后に物申し上げようとしている兄をみると、可愛そうで涙ぐまれてきます。
皇后は国依媛に、
「なぜお前は泣いているのか」
と言われた。
国依媛は答えた。
「今、庭に伏して物申しているのは我が兄です。雨に濡れても避けず、なお伏して申し上げようとしています。それで悲しく泣いています」
皇后は、
「お前の兄に言って早く帰らせなさい。私はどうしても帰りませんから」
ロ持は宮中に戻って天皇に御報告した。
十一月七日、天皇は河船で山城にお出でになった。
そのとき、桑の木が水に流れてきた。
天皇は桑の枝をご覧になって歌われた。
ツヌサハフ、イハノヒメガ、オホロカニ、キコサヌ、ウラグハノキ、ヨルマシキ、カハノクマクマ、ヨロホヒユクカモ、ウラグハノキ。
磐之媛皇后が、容易なことではお聞き入れにならない。末桑の木(恋をしている人の意)が、近寄ることのできぬ河の曲り角に、あちこち寄っては流れ、寄っては流れて行く、末桑の木よ。
翌日、天皇の御輿は筒城宮にお越しになり、皇后をお呼びになった。
しかし、皇后は会われなかった。
天皇は歌を詠まれた。
ツギネフ、ヤマシロメノ、コクハモチ、ウチシオホネ、サワサワニ、ナガイへセコソ、ウチワタス、ヤガハエナス、キイリマヰクレ。
山城女が木の鍬で掘り出した大根。その大根の葉のざわつくように、ざわざわとあなたがいわれるから、見渡す向うにある木の枝の茂るように、多勢人を引きつれて逢いにきたものを。
さらにまた歌を詠まれて、
ツギネフ、ヤマシロメノ、コクハモチ、ウチシオホネ、ネシロノ、シロタダムキ、マカズケバコソ、シラズトモイハメ。
山城女が木鍬をもって掘り起した大根のような、真白な腕を巻き合ったことがなかったならばこそ、私を知らないとも言えようが。
皇后は、人を遣わし報告させた。
「陛下は、八田皇女を入れて妃とされました。私は皇女と一緒に、后として侍ろうとは思いません」
と言ってどうしても会われなかった。
天皇の車は都にお帰りになった。
天皇は、皇后が大いに怒っておられることをお恨みになった。
それでもなお、皇后を恋い偲んでおられた。
三十一年春一月十五日、大兄去来穂別尊(履中天皇)を立てて皇太子とされた。
三十五年夏六月、皇后磐之媛命は筒城宮で亡くなられた。
三十七年冬十一月十二日、皇后を奈良山に葬った。
八田皇女の立后
三十八年春一月六日、八田皇女を立てて皇后とされた。
秋七月、天皇と皇后が高台に登られて、暑を避けておられた。
毎夜、菟餓野の方から鹿の鳴く音が聞こえてきた。
その声はものさびしくて悲しかった。
二人とも哀れを感じられた。
月末になってその鹿の音が聞こえなくなった。
天皇は皇后に、
「今宵は鹿が鳴かなくなったが、一体どうしたのだろう」
と言われた。
翌日、猪名県の佐伯部が贈り物を献上した。
天皇は料理番に、
「その贈り物は何だろう」
と問われた。
料理番は答えた。
「牡鹿です」
天王は、
「何処の鹿だろう」
と言われた。
料理番は、
「菟餓野のです」
と答えた。
天皇は思われた。
この贈り物はきっと、あの鳴いていた鹿だろうと。
天王は皇后に、
「私はこの頃、物思いに耽っていたが、鹿の声を聞いて心が慰められた。今、佐伯部が鹿を獲った時間と場所を考えるに、きっとあの鳴いていた鹿だろう。その人は、私が愛していることを知らないで、たまたま捕ってしまったが、やむを得ぬことだが、恨めしいことである。佐伯部を皇居に近づけたくない」
言った。
役人に命じて安芸の淳田に移された。
これが現在の淳田の佐伯部の先祖である。
里人(その土地の人)のこんな話がある。
「昔、ある人が菟餓に行き、野中に宿った。その時、二匹の鹿が傍に伏せていて、暁方に牡鹿が牝鹿に語った。『昨夜夢を見た。白い霜が沢山降って、私の体は覆われてしまった。これは何の兆候だろう』。牝鹿は答えた。『あなたが出歩いたら、きっと人に射られて死ぬでしょう。塩をその体に塗られることが、ちょうど霜の白いのと同じになる徴でしょう』。そのとき、野に宿っていた人は不思議に思った。明方、猟師がきて牡鹿を射て殺した。当時の人の諺に、『鳴く鹿でもないのに、夢占いのままになってしまった』といわれるようになった」
四十年春二月、雌鳥皇女を入れて妃にしようと思われた。
異母弟の隼別皇子を媒(仲人の意)とされた。
そのとき、隼別皇子はこっそり自分のものとしてしまって、長らく復命しなかった。
ところが、天皇は夫のあることを知らないで、自ら雌鳥皇女の寝室にお出でになった。
そのとき、皇女のために機織る女たちが歌った。
ヒサカタノ、アメカナハタ、メトリガ、オルカナハタ、ハヤブサワケノ、ミオスヒガネニ。
空を飛ぶ雌鳥が織る金機は、隼別の王のお召し物の材料です。
天皇は、隼別皇子が密かに通じていたことを知って、これを恨まれた。
しかし、皇后の言葉に憚られて、また、兄弟の義を重んじられ、堪えて罪せられなかった。
その後、隼別皇子は皇女の膝を枕にして寝ていて語った。
「ミソサザキ(仁徳天皇)とハヤブサ(隼別皇子)では、どっちが速いだろうか」
隼別皇子は、
「ハヤブサが速い」
そして、
「だから自分の方が手が早かったのだ」
と言われた。
天皇はこの言葉を聞かれて、さらに恨みの気持ちを起こされた。
隼別皇子の舍人等が歌った。
ハヤブサハ、アメニノボリ、トビ力ケリ、イツキガウへノ、サザキトラサネ。
隼は天に上って飛びかけり、斉場のあたりにいるサザキを取ってしまいなさい。
天皇はこの歌を聞かれて、大いに怒った。
「私は、私事の恨みで兄弟を失いたくない。 我慢してきた。どうして隙があるからと、私事を世の中に及ぼそうとするのか」
と言われ、隼別皇子を殺そうと思われた。
皇子は雌鳥皇女を連れて、伊勢神宮にお参りしようと急がれた。
天皇は隼別皇子が逃亡したと思われて、吉備品遅部雄鮒、播磨佐伯直阿餓能胡を遣わして、
「後を追って捕えたところで殺せ」
と言われた。
皇后が申し上げられるには、
「雌鳥皇女は重罪に値するけれども、殺すときに皇女の身に付けた物を取り上げて、身を露わにすることは望みません」
と言われた。
よって、雄鮒らに勅して、
「皇女が身に付けている足玉や手玉を取ってはいけない」
と言われた。
雄鮒らは後を追い、菟田(宇陀)に至って素珥山に迫った。
そのとき、皇子たちは草の中に隠れて、やっと免れることを得た。
急いで逃げて山を越えた。
皇子は歌って言われた。
ハシタテノ、サガシキヤマモ、ワギモコ卜、フタリコユレバ、ヤスムシロカモ。
梯を立てたような険しい山も、吾妹子と二人で越えれば、安らかな筵に坐っているようで楽なものだ。
雄鮒は逃げられたと気づき、急追して伊勢の蔣代野で追いつき殺した。
雄鮒らはそのとき、皇女の玉を探して裳の中から見つけた。
二人の王の屍を廬杵河のほとりに埋めて復命した。
皇后は雄鮒らに問わせて、
「皇女の玉を見なかったろうね」
と言われ、雄鮒らは
「見ませんでした」
と答えた。
この年、新嘗祭の月に宴会があったとき、酒を内外の命婦(五位以上)に賜わった。
近江の山君稚守山の妻と、采女磐坂媛の二人の女の手に、良い珠が巻かれていた。
皇后がその珠を見られると、雌鳥皇女の珠に似ていた。
疑いを持たれて役人に調べさせると、
「佐伯直阿餓能胡の妻の玉です」
と答えた。
そこで阿餓能胡を責め調べると、
「皇女を殺した日に探って取りました」
と述べた。
阿餓能胡を殺そうとされたが、代わりに自分の土地を差し出して死罪を償いたいと申し上げた。
その土地を納めて死罪を許された。
それで、その地を名づけて玉代といった。
鷹甘部の定め
四十一年春三月、紀角宿禰を百済に遣わして、初めて国郡の境の分け方や、それぞれの郷土の産物を記録することを行った。
このとき、百済王の王族である酒君が無礼であった。
それで紀角宿禰は百済王を責めた。
百済王は畏まって鉄の鎖で酒君を縛り、襲津彦に従わせて進上した。
酒君は石川錦織首許呂斯の家に逃げて隠れた。
そこで嘘をついて、
「天皇は私の罪をすでに許して下さった。それであなたに付けて生かして下さった」
と言った。
久しくしてから、天皇はその罪を許された。
四十三年秋九月一日、依網の屯倉の阿珥古が、変った鳥を捕えて天皇に奉り、
「私はいつも網を張って鳥を捕っておりますが、まだこんな鳥を捕ったことはありません。珍しいので献上いたします」
と言った。
天皇が酒君を呼んで、これは何の鳥かと尋ねられた。
酒君が答えて、
「この鳥の類は百済には沢山います。馴らすと人によく従います。また、速く飛んで、いろいろな鳥を取ります。百済の人は、この鳥を俱知といいます」
と言った。
これは現在の鷹である。
酒君に授けて養わせた。
いくらも経たぬうちに馴れた。
酒君は、鞣し革の紐をその足につけ、小鈴をその尾につけ、腕の上に止まらせ天皇に奉った。
この日、百舌鳥野にお出ましになって狩りをされた。
そのとき、雌雉が沢山飛び立った。
そこで鷹を放って捕らせると、たちまち数十の雉を得た。
この月、初めて鷹甘部を定めた。
当時の人は、その鷹を飼うところを名づけて鷹飼邑といった。
五十年春三月五日、河内の人が申し上げていうのに、
「茨田の堤に雁が子を産みました」
使者を遣わして確認した。
すると、
「本当です」
という。
天皇は歌を詠んで武内宿禰に問われた。
タマキハル、ウチノアソ、ナコソハ、ヨノ卜ホヒ卜、ナコソハ、クニノナガヒ卜、 アキツシマ、ヤマ卜ノクニニ、カリコム卜、ナハキカスヤ。
朝廷に仕える武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。あなたこそ国の第一の長生きだ。だから尋ねるのだが、この倭の国で、雁が子を産むとあなたはお聞きですか。
武内宿禰は返し歌を詠った。
ヤスミシシ、ワガオホキミハ、ウベナウべナ、ワレヲトハスナ、アキツシマ、ヤマトノクニニ、カリコム卜、ワレハキカズ。
我が大君が、私にお尋ねになるのはもっともなことですが、倭の国では雁が産卵するということは、私は聞いておりません。
新羅、蝦夷との紛争
五十三年新羅が朝貢しなかった。
夏五月、上毛野君の先祖である竹葉瀬を遣わして、貢物を奉らないことを問うた。
その途中で白鹿を獲たので、帰って天皇に奉った。
さらにまた日を改めて行った。
しばらくして、竹葉瀬の弟である田道を遣わした。
詔して、
「もし新羅の抵抗を受けたら、兵を挙げて討て」
と言われた。
そして精兵を授けられた。
新羅は兵を起こしてこれを防いだ。
新羅人は毎日挑戦してきた。
田道は守りを固めて出なかった。
時に、新羅の兵卒が一人陣の外に出た。
捕えて様子を尋ねると、
「百衝という強者がいます。身軽で速く、勇猛です。常に軍の右の先頭です。だから、左を攻めれば敗れるでしょう」
と言った。
新羅軍は左を空けて右に備えていた。
田道は精鋭の騎馬を連ねて、左の方を攻めた。
これにより、新羅軍は潰れた。
勢いに乗じて攻め、数百人を殺した。
四つの邑の人民を捕えて連れて帰った。
五十五年、蝦夷が背いた。
田道を遣わして討たせた。
しかし、蝦夷に破られて、伊峙の水門(石巻)で死んだ。
従者が田道の手に巻いていた玉をとって、その妻に与えた。
妻はそれを抱いて縊死した。
当時の人はこれを聞いて悲しんだ。
この後、また蝦夷が襲って人民を掠めた。
そして、田道の墓を掘った。
すると大蛇が現れて、目を怒らして墓から出て喰いついた。
蝦夷は蛇の毒気にやられて沢山死んだ。
わずか一人二人が免れただけであった。
当時の人は、
「田道は死んだといっても、ついに仇を討った。死者でもよく知っているものだ」
と言った。
五十八年夏五月、荒陵の松林の南の道に、突然、二本のクヌギが生えた。
路を挟んで、その木の末は一本になっていた。
冬十月、呉国の高麗国が朝貢した。
六十年冬十月、日本武尊の白鳥陵の陵守を雑役免除にしようとした。
天皇は自ら課役のところへお出でになった。
陵守の目杵は、突然、白鹿になって逃げた。
天皇は詔して、
「この陵はもとから空であった。それでその陵守を辞めさせようと思って、初めて遥役にあてた。今、この不思議を見ると、はなはだ畏れ多い。陵守は動かしてはいけない」
と言われた。
そして、再び土師連らに授けられた。
六十二年夏五月、遠江国の国司が申し上げた。
「大きな樹があって、大井川から流れて、河の曲り角にとまりました。その大きさは十囲(一囲は三尺に相当)です。根本は一本で、先は二股になっています」
倭直吾子籠を遣わして船として造らせた。
南海から巡って、難波津に持ってきて御船とした。
この年、額田大中彦皇子が、闘鶏(奈良県都祁)に猟に行かれた。
山の上に登って野の中を見られると、何か物があり、廬(庵・小屋)の形であった。
使者に調べさせると、
「窟(あなぐら)です」
と言う。
それで闘鶏稲置大山主を呼んで問われた。
「あの野中にあるのは何の窟だ」
すると、
「氷室です」
と言う。
皇子は、
「そこに収めた様子はどんなものか、また、何に使うのか」
と聞いた。
すると、
「土を掘ること一丈あまり、萱を以てその上を葺き、厚く茅すすきを敷いて、水を取り、その上に 置きます。夏を越しても消えません。暑い時に水酒にひたして使います」
と答えた。
皇子はその水をもってきて、御所に奉られた。
天皇はお喜びになった。
これ以後、師走になる毎に、必ず氷を中に納め、春分になると氷を配った。
六十五年、飛驛国に宿儺という人があり、体は一つで二つの顔があった。
顔は背き合っていて、頂は一つになり、項はなかった。
それぞれ手足があり、膝はあるが、膕(膝の裏)はなかった。
力は強くて敏捷であった。
左と右に剣を佩いて、四つの手に弓矢を使った。
皇命に従わず、人民を略奪するのを楽しみとした。
それで、和珥臣の先祖の難波根子武振熊を遣わして殺させた。
六十七年冬十月五日、河内の石津原にお出でになり、陵地を定められた。
十八日に陵を築いた。
この日、野の中から急に鹿が出てきて、走って役民の中に入り、倒れ死んだ。
それが急に死んだのを怪しんで傷を探した。
百舌鳥が耳から出てきて飛び去った。
耳の中を見ると、ことごとく食いかじられていた。
その地を百舌鳥耳原というのは、これが由来である。
この年、吉備の中国の川島河の川股に、竜がいて人を苦しめた。
道行く人がそこに触れると、毒気にあてられて沢山死んだ。
笠臣の先祖の県守は、勇ましくて力が強かった。
竜のいる渕に臨んで、三つの瓢(ヒョウタン)を水に投げ入れ、
「お前は度々毒を吐いて、道行く人を苦しめた。私はお前を殺そう。お前がこの瓢を水に沈めるなら、私が逃げよう。沈めることができぬなら、お前を斬るだろう」
と言った。
すると竜は鹿になって、瓢を引き入れようとした。
しかし、ヒサゴは沈まなかった。
そこで剣を抜いて水に入り、竜を斬った。
さらに竜の仲間を探した。
諸々の竜の仲間が、淵の底の穴に満ちていた。
それをことごとく斬ると、河水は血に変った。
そこを名づけて県守淵という。
このとき、背く者が一人二人あった。
天皇は、早く起き遅く寝て、税を軽くし徳を布き、恵みを施して人民の困窮を救われた。
死者を弔い、疫者を問い、身寄りのない者に対し恵みを与えた。
それで政令はよく行われ、天下は平らかになり、二十余年無事であった。
八十七年春一月十六日、天皇は崩御された。
冬十月七日、百舌鳥野陵に葬った。
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