日本書紀・日本語訳「第十一巻:仁徳天皇」

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仁徳天皇 大鷦鷯天皇

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菟道稚郎子の謙譲と死

大鷦鷯天皇オオサザキノスメラミコト応神天皇おうじんてんのうの第四子である。
母は五百城入彦皇子イオキイリビコノミコトの孫である仲姫命ナカツヒメという。
天皇は幼い時から聡明で、叙智であらせられた。
容貌が美しく、壮年に至ると、心広く慈悲深くいらっしゃった。

四十一年春二月、応神天皇が亡くなられた。
太子である菟道稚郎子ウジノワキイラツコは、位を大鷦鷯尊オオサザキノミコトに譲ろうとして、まだ即位されなかった。
そして、大鷦鷯尊オオサザキノミコトに対し申された。
「天下に君として万民を治める者は、 民を覆うこと天の如く、受け入れることは地の如くでなければならない。上に民を喜ぶ心があって国民を使えば、国民は欣然として天下は安らかである。私は弟です。また、そうした過去の記録も見られず、どうして兄を越えて位を継ぎ、天業を統べることができましょうか。 大王は立派なご容姿です。仁孝の徳もあり年も上です。天下の君となるのに充分です。先帝が私を太子とされたのは、特に才能があるからというのではなく、ただ愛されたからです。宗廟社稷そうびょうしゃしょく国家・朝廷の意)に仕えることは、重大なことです。私は不肖でとても及びません。兄は上に弟は下に、聖者は君となり、愚者は臣となるのは古今の通則です。どうかみこは疑われず、帝位について下さい。私は臣下としてお助けするばかりです」
と仰せられた。

大鷦鷯尊オオサザキノミコトは答えていわれた。
「先帝も『皇位は一日たりとも空しくしてはならぬ』とおっしゃった。それで前もって明徳の人をえらび、王を皇太子として立てられた。天皇の嗣にさいわいあらしめ、万民をこれに授けられた。寵愛のしるしを尊んで、国中にそれが聞こえるようにされました。私は不肖で、どうして先帝の命に背いて、たやすく弟王の願いに従うことができましようか」

固く辞退して受けられず、譲り合われた。
このとき、額田大中彦皇子ヌカタノオオナカツヒコノミコトが、やまと屯田みた屯倉みやけ天皇の御料田や御倉)を支配しようとして、屯田司みたのつかさ出雲臣いずものおみの先祖である淤宇宿禰オウノスクネに語った。
「この屯田みたは、元から山守りの司る地である。 だから今、自分が治めるから、お前にその用はない」
と言われた。

淤宇宿禰オウノスクネは太子に申し上げた。
太子は、
大鷦鷯尊オオサザキノミコトに申せ」
と言われた。
淤宇宿禰オウノスクネ大鷦鷯尊オオサザキノミコトに、
「私がお預かりしている田は、大中彦皇子オオナカツヒコノミコが妨げられて治められません」
と申し上げた。
大鷦鷯尊オオサザキノミコト倭直やまとのあたいの先祖である麻呂マロに問うた。
やまと屯田みやけは、もとより山守りの地というが、これはどうか」
麻呂マロは、
「私には分かりません。弟の吾子籠アゴコが知っております」
と答えた。
吾子籠アゴコ韓国からくにに遣わされてまだ還っていなかった。
大鷦鷯尊オオサザキノミコト淤宇オウに言った。
「お前は自ら韓国からくにに行って、吾子籠アゴコを連れて来なさい。昼夜兼行ちゅうやけんこうで行け」

そして淡路の海人八十人を差向けて水手とされた。
淤宇オウ韓国からくにに行って、吾子籠アゴコを連れて帰った。
屯田みたのことを尋ねられると、
「伝え聞くところでは、垂仁天皇すいにんてんのう御世みよに、御子の景行天皇に仰せられて、やまと屯田みたを定められたといいます。このときの勅旨ちょくしは『やまと屯田みたは時の天皇のものである。帝の御子といっても、天皇の位になければ司ることはできない』といわれました。これを山守りの地というのは間違いです」

大鷦鷯尊オオサザキノミコトは、吾子籠アゴコ額田大中彦皇子ヌカタノオオナカツヒコノミコのもとに遣わして、このことを知らされた。
大中彦皇子オオナカツヒコノミコは言うべき言葉がなかった。
その良くないことをお知りになったが、許して罰せられなかった。
大山守皇子オオヤマモリノミコは先帝が太子にして下さらなかったことを恨み、重ねてこの屯田みたのことで怨みをもった。
そこで陰謀を企て、
「太子を殺して帝位を取ろう」
と言われた。
大鷦鷯尊オオサザキノミコトはその謀を聞かれて、密かに太子に知らせ、兵を備えて守らせた。

大山守皇子オオヤマモリノミコは備えのあることを知らず、数百の兵を率いて夜中に出発した。
明け方に菟道うじ宇治)に着いて河を渡ろうとした。
そのとき、太子は粗末な麻の服をつけられて、こっそりと渡し守にまじられ、大山守皇子オオヤマモリノミコを船に乗せて漕ぎ出された。
河の中程に至って、渡し守に船を転覆させられた。
大山守皇子オオヤマモリノミコは河にはめられてしまった。
水に浮き流れながら歌った。

チハヤヒト、ウチノワタリニ、サヲトリニ、ハヤケムヒトシ、ワガモコニコム。

菟道うじの渡に巧に船を操る人よ、私を救いに早く来ておくれ。

しかし、伏兵が沢山いて、岸に着くことができなかった。
そして、ついに水死された。
このかばねを探すと、考羅済かわらのわたり京都・河原)に浮かんだ。
太子は屍を見られて、歌を詠んだ。

チハヤヒ卜、ウチノワタリニ、ワタリデニ、タテル、アヅサユミ、マユミ、イキラム卜、ココロハモへ卜、イ卜ラム卜、ココロハモへ卜、モトへハ、キミヲオモヒデ、スヱへハ、イモヲオモヒデ、イラナケク、ソコニオモヒ、カナシケク、ココニオモヒ、イキラズゾクル、アヅサユミ、マユミ。

菟道うじの渡で、渡り場に立っているあずさの木よ。それを伐ろうと心には思うが、それを取ろうと心には思うが、その本辺もとへでは君を思い出し、末辺すえへでは妹を思い出し、悲しい思いがそこここでまとわりついて、とうとうあずさの木を伐らずに帰った。

大山守皇子オオヤマモリノミコ奈良山ならやまに葬った。

太子は宮室おおみや菟道うじに建ててお住みになったが、位を大鷦鷯尊オオサザキノミコトに譲っておられるので長らく即位されなかった。

皇位は空いたままで三年になった。

漁師が鮮魚の献上品を菟道宮うじのみやにお届けした。
太子は漁師に、
「自分は天皇ではないのだ」
と仰せられて、返して難波に奉らせられた。
大鷦鷯尊オオサザキノミコトはそれをまた返して菟道に奉らせられた。

漁師の献上品は両方を往き来している間に、古くなり腐ってしまった。
それでまたあらためて鮮魚を奉ったが、譲り合われることは前と同様であった。

漁師は度々往き来をするのに苦しみ、魚を捨てて泣いた。
諺に、
海人あまでもないのに、自分から出たことが原因で、自分で泣くことよ」
があるが、それはこのことから使われるようになった。

太子は、
「自分は兄の志を変えられないことを知った。長生きをして天下を煩わすのは忍びない」
と言って、ついに自殺をされた。
大鷦鷯尊オオサザキノミコトは太子が亡くなられたことを聞いて、驚いて難波宫なにわのみやから急遽、菟道宮うじのみやに来られた。
太子の死後三日であった。

大鷦鷯尊オオサザキノミコトは胸を打ち泣き叫んで、為すすべを知らぬ様子であった。
髪を解き、屍体したいにまたがって、
「弟の皇子よ」
と三度呼ばれた。
すると、俄かに生き返られた。
大鷦鷯尊オオサザキノミコトは太子に言った。
「悲しいことよ、惜しいことよ。一体何で自殺などなさいますか。もし死なれたと知れたら、先帝は私を何と思われますか」
太子は大鷦鷯尊オオサザキノミコトに、
「天命なのです。誰も止めることはできません。もし先帝の身許に参ることがありましたら、詳しく兄王が聖で、度々辞退されたことを申し上げましょう。あなたは我が死を聞いて、遠路を駆けつけて下さった。お礼を申し上げねばなりません」
とおっしゃり、同母妹の八田皇女ヤタノヒメミコを奉りたいと言われ、
「お引き取り頂くのも迷惑でしょうが、何とか後宮の数に入れて頂けますならば」
と言われた。
そして、また棺に伏せって、ついに亡くなられた。
大鷦鷯尊オオサザキノミコトは麻の白服を着て、悲しみ慟哭されること甚だしかった。
なきがら菟道うじの山の上に葬った。

仁徳天皇即位

高津宮跡
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

元年春一月三日、大鷦鷯尊オオサザキノミコトは即位された。
皇后(応神天皇の皇后)を尊んで皇太后と言われた。

難波なにわに宮を造られ、高津宫たかつのみやという。
宮殿は上塗りもせず、垂木や柱に飾りも付けず、屋根葺きのかやも切り揃えなかった。
これは自分だけのことなので、人民の耕作や機織はたおりの時間を奪ってはならぬとされたのである。

この天皇が生まれられた日に、ミミズクが産殿うぶどのに飛び込んできた。
翌朝、父の応神天皇が武内宿禰タケノウチノスクネを呼んで、
「これは何のしるしだろうか」
と言われた。
宿禰スクネは、
「めでたいしるしです。昨日、私の妻が出産する時、ミソサザイが産屋に飛び込んできました。これもまた不思議なことです」
と言った。
そこで天皇は、
「我が子と宿禰スクネの子は同じ日に生まれた。そして両方ともしるしがあったが、これは天のお示しである。その鳥の名をとって、互いに交換し、子どもに名づけ、後のしるしとしよう」
とおっしゃった。
それでサザキの名をとって太子につけ、大鷦鷯尊オオサザキノミコトとなった。
ツクの名をとって大臣の子に名づけ、木菟宿禰ツクノスクネといった。
これが平群臣へぐりのおみの先祖である。
この年、太歳癸酉たいさいみずのとり

二年春三月八日、磐之姫命イワノヒメノミコトを立てて皇后とした。
皇后は、大兄去来穂別天皇オオエノイザホワケノスミラミコト履中天皇りちゅうてんのう)、住吉中皇子スミノエノナカツミコ瑞歯別天皇ミツハワケノスミラミコト反正天皇はんぜいてんのう)、雄朝津間稚子宿禰天皇オアサヅマワクゴノスクネノスメラミコト允恭天皇いんぎょうてんのう)をお生みになった。
別の妃である日向髪長媛ヒムカノカミナガヒメは、大草香皇子オオクサカノミコ幡梭皇女ハタヒノヒメミコを生んだ。

民の竈の煙

四年春二月六日、群臣に詔して、
「高殿に登って遥かに眺めると、人家の煙があたりに見られない。これは人民たちが貧しくて、炊ぐ人がないのだろう。昔、聖王の御世には、人民は君の徳を讃える声をあげ、家々では平和を喜ぶ歌声があったという。今、自分が政について三年経ったが、褒め讃える声も起こらず、炊煙はまばらになっている。これは五穀が実らず、百姓が窮乏しているのである。都の内ですらこの様子だから、都の外の遠い国ではどんなであろうか」
と言われた。

三月二十一日、詔して、
「今後三年間、すベて課税をやめ、人民の苦しみを柔げよう」
と言われた。

この日から、御衣や履物は破れるまで使用され、御食物は腐らなければ捨てられず、心を削ぎ減らし、志を慎まやかにして、民の負担を減らされた。
宮殿の垣は壊れても作らず、屋根の茅は崩れても葺かず、雨風が漏れて御衣を濡らし、星影が室内から見られる程であった。
この後、天候も穏やかに、五穀豊穣が続き、三年の間に人民は潤ってきて、徳を褒める声も起こり、炊煙も賑やかになってきた。

七年夏四月一日、天皇が高殿に登って一望されると、人家の煙は盛んに立ち上っていた。
そして皇后に語られた。
「私はこのように富んできた。これなら心配はない」
といわれた。
皇后が、
「なぜ富んできたと言えるのでしょうか」
と言われると、
「人家の煙が国に満ちている。人民が富んでいるからそう思うのだ」
皇后はまた、
「宮の垣が崩れて修理もできず、殿舍は破れ、御衣が濡れる有様で、なぜ富んでいると言えるのでしょう」
天皇が答える。
「天が人君を立てるのは、人民の為である。だから、人民が根本である。それで古の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは、自分が貧しいのと同じである。人民が富んだならば、自分自身が富んだことになる。人民が富んでいるのに、人君が貧しいということはないのである」

秋八月九日、大兄去来穂別皇子オオエノイザホワケノミコ履中天皇りちゅうてんのう)のために、壬生部みぶべを定められた。
皇后のために葛城部かずらきべを定められた。

九月、諸国の者が奏請し、
「課役が免除されてもう三年になります。そのため宮殿は壊れ、倉は空になりました。今、人民は豊かになって、道に落ちているものも拾いません。連れ合いに先立たれた人々もなく、家には蓄えができました。こんな時に税をお払いして、宮室を修理しなかったら、天の罰を被るでしょう」
と申し上げた。
けれども、天皇はまだお許しにならなかった。

十年冬十月、初めての課役を命ぜられて、宮室を造られた。
人民たちは促されなくても、老を助け幼き者も連れて、材を運び土籠を背負った。
昼夜を分けず力を尽くしたので、幾何も経ずに宮室は整った。
それで、現在に至るまで「聖帝」と崇められるのである。

池堤の構築

十一年夏四月十七日、群臣くんしんに詔して、
「今、この国を眺めると、土地は広いが田圃は少い。 また、河の水は氾濫し、長雨にあうと潮流は陸に上り、村人は船に頼り、道路は泥に埋まる。群臣くんしんはこれをよく見て、溢れた水は海に通じさせ、逆流を防いで田や家を浸さないようにせよ」
と言われた。

冬十月、宮の北部の野を掘って、南の水を導いて、西の海(大阪湾)に入れた。
その水を名づけて堀江ほりえといった。
また、北の河の塵芥ごみあくたを防ぐために、茨田まんだつつみを築いた。
このとき、築いてもまた壊れ、防ぎにくい所が二ヶ所あった。
天皇が夢をみられ、神が現れて教えた。
「武蔵の人である強頸コワクビと、河内の人である茨田連杉子マンダノムラジコロモノコの二人を、河伯かわのかみに奉れば、きっと防ぐことができるだろう」

それで二人を探し求めて得られた。
そこで河伯かわのかみ人身御供ひとみごくう生贄)した。
強頸コワクビは泣き悲しんで水に入れられた。
そのつつみは完成した。
衫子コロモノコだけは丸いひさご(ヒョウタン)を二個をとって、防ぎにくい河に臨み、その中に投げ入れて神意を伺う占いをして、
河神かわのかみが祟るので、私が生贄にされることになった。自分を必ず得たいのなら、このひさごを沈めて浮かばないようにせよ。そうすれば、私も本当の神意と知って水の中に入りましょう。もしひさごを沈められないなら、偽りの神と思うから、無駄に我が身を亡ぼすことはない」
と言った。
旋風つむじかぜが俄かに起こって、ひさごを水中に引きこもうとしたが、ひさごは波の上に転がるばかりで沈まなかった。
速い流れの水に浮き躍りしながら、遠く流れ去った。
衫子コロモノコは死ななかったが、そのつつみは完成した。
これは、衫子コロモノコの才智でその身が助かったのである。
当時の人は、その二ヶ所を名づけて、それぞれ強頸の断間こわくびのたえま衫子の断間ころものこのたえまといった。

この年、新羅人しらぎびと朝貢ちょうこうがあった。
そして、この工事に使われた。

十二年秋七月三日、高麗国こまくにが鉄の盾、鉄の的を奉った。

八月十日、高麗こまの客を朝廷で饗された。
この日、群臣百寮まちきみたちもものつかさを集めて、高麗こまの奉った鉄の盾と的を試した。
多くの人が的を射通すことができなかった。
ただ、的臣いくはのおみの先祖である盾人宿禰タテヒトノスクネだけが鉄の的を射通した。
高麗の客たちは、その弓射る力の優れたのを見て、共に起って拝礼した。
翌日、盾人宿禰タテヒトノスクネを褒めて、的戸田宿禰イクハノトダノスクネと名を賜わった。
同日、小迫瀬造おはつせのみやつこの先祖である宿禰臣すくねのおみに名を賜わって、賢遺臣サカノコリノオミといった。

冬十月、山城の栗隈県くるくまのあがた宇治市大久保)に、大溝を掘って田に水を引いた。
これによって、その土地の人々は毎年豊かになった。

十三年秋九月、初めて茨田屯倉まんだのみやけを建てた。
そして舂米部つきしねべを定めた。

冬十月、和珥池わにのいけを造った。
この月に横野堤よこののつつみを築いた。

十四年冬十一月、猪飼津いかいのつ大阪市生野周辺)に橋を渡した。
そこを名づけて小橋おばしといった。

この年、大通りを京の中に造った。
これは南の門からまっすぐ丹比邑たじひのむら羽曳野市丹比)に及んだ。
また、大溝を感玖こむく河内の紺口)に掘った。
石河の水を引いて、上鈴鹿かみすずか下鈴鹿しもすずか上豊浦かみとようら下豊浦しもとようらなど、四ヶ所の原を潤し、四万ころあまり(ころとは、中国の地積単位で百畝)の田が得られた。
そこの人民達は豊かな稔りのために、凶作の恐れがなくなった。

十六年秋七月一日、天皇は女官である桑田玖賀媛クワタノクガヒメ丹波国桑田の出身)を、近習の舍人らに見せられて言われた。
「私はこの女官を可愛がりたいと思うが、皇后(磐之媛)の嫉妬が強いので、召すことができない。何年も経って、徒らに盛年を見送るのが惜しい」
ということを歌で問われた。

ミナソコフ、オミノヲトメヲ、タレヤシナハム。

私の臣下の少女を、誰か面倒を見たいと思う者はなかろうか。

播磨国造はりまのくにのみやつこの先祖である速待ハヤマチが、一人進み出て歌った。

ミカシホ、ハリマハヤマチ、イハクダス、力シコクトモ、アレヤシナハム。

播磨はりま速待ハヤマチが、畏れ多くもご面倒を見ましょう。

その日、玖賀媛クガヒメ速待ハヤマチに賜わった。
翌日の夕方、速待ハヤマチ玖賀媛クガヒメの家に行った。
けれども、玖賀媛クガヒメとは打ち解けなかった。
強引に寝間に近づこうとしたが、玖賀媛クガヒメは、
「私は寡婦やもめのまま終りたいと思います。どうしてあなたの妻となりましょうか」
と言った。
天皇は速待ハヤマチの志を遂げさせたいと思われ、玖賀媛クガヒメを速待に付き添わせて、桑田くわたに行かせたが、途中で玖賀媛クガヒメは発病して死んでしまった。
現在でも玖賀媛クガヒメの墓が残っている。

十七年、新羅しらぎ朝貢ちょうこうしなかった。
秋九月、的臣いくはのおみの先祖である砥田宿禰トダノスクネと、小迫瀬造おはつせのみやつこの先祖である賢遺臣サカノコリノオミを遣わして、朝貢せぬことを詰問した。
新羅人しらぎびとは恐れ入って貢を届けた。
調布の絹千四百六十匹、その他種々の品物が、あわせて八十艘であった。

天皇と皇后の不仲

二十二年春一月、天皇が皇后に語った。
八田皇女ヤタノヒメミコを召し入れて妃としたい」
皇后は承知されなかった。
天皇は歌にして皇后に乞われた。

ウマヒ卜ノ、タツルコトタテ、ウサユヅル、タエバツガムニ、ナラべテモガモ。

私がはっきり表明したいのはこんなことだ。予備の弦としたいのだから、本物が切れたときだけ使うのだから、八田皇女ヤタノヒメミコを迎えたい。

皇后が答歌された。

コロモコソ、フタへモヨキ、サヨ卜コヲ、ナラベムキミハ、力シコキロカモ。

衣こそ二重に重ねて着るのもよろしいが、夜床を並べようとなさるあなたは、おそろしい方ですね。

天皇はまた歌詠みした。

オシテル、ナニハノサキノ、ナラビハマ、ナラベムトコソ、ソノコハアリケメ。

難波なにわさきの並び浜のように、私と二人並んでいられるだろうと、その子は思っていただろうに。

これに皇后は答歌された。

ナツムシノ、ヒムシノコロモ、フタヘキテ、カクミヤタリハ、アニヨクモアラズ。

夏の蚕がまゆを二重に着て囲んで宿るように、二人の女を侍らせるのは良くないですよ。

これにも天皇はまた歌詠みした。

アサヅマノ、ヒカノヲサカヲ、カタナキニ、ミチユクモノモ、タグヒテゾヨキ。

朝妻あさづま避介ひかの坂を、半泣きに歩いて行く者も、二人並んで行く道づれがあるのが良い。

しかし、皇后はどうしても許せないと思われたので、黙ってしまって返答はされなかった。

三十年秋九月十一日、皇后は紀の国にお出でになり、熊野岬くまののみさきに着かれ、そこの三つ柏をとってお帰りになった。
天皇は皇后の不在を伺って、八田皇女ヤタノヒメミコを召して大宮の中に入られた。

皇后は難波なにわの渡りに着かれ、天皇が八田皇女ヤタノヒメミコを召されたことを聞かれ、大いに恨まれた。
採ってこられた三つ柏を海に投げ入れて、岸に泊まらなかった。
当時の人は、かしわを散らした海を名づけて葉済かしわのわたりといった。
天皇は皇后が怒って泊られなかったことを知らず、親しく難波なにわ大津おおつにお出でになり、皇后の船をお待ちになった。
そして歌を詠まれた。

ナニハヒ卜、スズフネ卜ラセ、コシナツミ、ソノフネ卜ラセ、オホミフネ卜レ。

難波人なにわひとよ、鈴船すずふねを引け。腰まで水に浸かって、その船を引け。大御船おおみふねを引け。

皇后は大津に泊られず、そこを引き返し川から遡って、山城やましろより回り、やまとに出られた。

翌日、天皇は舎人とねり鳥山トリヤマを遣わして、皇后を連れ返そうとされた。
そのとき歌われた。

ヤマシロニ、イシケ卜リヤマ、イシケシケ、アガモフツマニ、イシキアハムカモ。

山背やましろに早く追いつけ鳥山トリヤマよ。早く追いつけ追いつけ。私の愛しい妻に追いついて、会うことができるだろうか。

皇后は帰らないで、なおも進んでいかれた。
山城河やましろがわ木津川)にお出でになって歌われた。

ツギネフ、ヤマシロガハヲ、力ハノホリ、ワガノボレバ、力ハクマニ、タチサカユル、モモタラズ、ヤソハノキハ、オホキミロカモ。

山城河やましろがわを遡ってくると、河の曲り角に立って、栄えている葉の茂った木は、立派で我が大君にそっくりである。

奈良山ならやまを越え、故郷の葛城かずらきを眺めて歌詠みした。

ツギネフ、ヤマシロガハヲ、ミヤノボリ、ワガノボレバ、アヲニヨシ、ナラヲスギ、ヲタテ、ヤマトヲスギ、ワガミガホシクニハ、カツラギタカミヤ、ワギへノアタリ。

山城河やましろがわを遡ると、奈良を過ぎ、大和を過ぎ、私の見たいと思う国は、葛城かずらき高宮たかみやの我が家のあたりです。

改めて山城に帰って、宮室おおみや筒城岡つつきのおか綴喜郷)の南に造ってお住みになった。

冬十月一日、的臣いくはのおみの先祖のロ持臣クチモチノオミを遣わして、皇后を呼ばれた。
ロ持臣クチモチノオミ筒城宮つつきのみやに着いて、皇后にお目にかかったが、黙っておられてお返事もされない。
ロ持臣クチモチノオミは雨に漏れても、夜昼を重ねても、皇后の殿舍の前に伏して去らなかった。
ロ持臣クチモチノオミの妹の国依媛クニヨリヒメが皇后に仕えていたので、このとき皇后の側に侍り、兄が雨に打たれているのを見て、悲しみ歌った。

ヤマシロノ、ツツキノミヤニ、モノマヲス、ワガセヲミレバ、ナミダグマシモ。

山城やましろ筒城つつきの宮で、皇后に物申し上げようとしている兄をみると、可愛そうで涙ぐまれてきます。

皇后は国依媛クニヨリヒメに、
「なぜお前は泣いているのか」
と言われた。
国依媛クニヨリヒメは答えた。
「今、庭に伏して物申しているのは我が兄です。雨に濡れても避けず、なお伏して申し上げようとしています。それで悲しく泣いています」
皇后は、
「お前の兄に言って早く帰らせなさい。私はどうしても帰りませんから」
ロ持クチモチは宮中に戻って天皇に御報告した。

十一月七日、天皇は河船で山城やましろにお出でになった。
そのとき、桑の木が水に流れてきた。
天皇は桑の枝をご覧になって歌われた。

ツヌサハフ、イハノヒメガ、オホロカニ、キコサヌ、ウラグハノキ、ヨルマシキ、カハノクマクマ、ヨロホヒユクカモ、ウラグハノキ。

磐之媛イワノヒメ皇后が、容易なことではお聞き入れにならない。末桑の木うらくわのき(恋をしている人の意)が、近寄ることのできぬ河の曲り角に、あちこち寄っては流れ、寄っては流れて行く、末桑の木うらくわのきよ。

翌日、天皇の御輿は筒城宮にお越しになり、皇后をお呼びになった。
しかし、皇后は会われなかった。

天皇は歌を詠まれた。

ツギネフ、ヤマシロメノ、コクハモチ、ウチシオホネ、サワサワニ、ナガイへセコソ、ウチワタス、ヤガハエナス、キイリマヰクレ。

山城女やましろめが木の鍬で掘り出した大根。その大根の葉のざわつくように、ざわざわとあなたがいわれるから、見渡す向うにある木の枝の茂るように、多勢人を引きつれて逢いにきたものを。

さらにまた歌を詠まれて、

ツギネフ、ヤマシロメノ、コクハモチ、ウチシオホネ、ネシロノ、シロタダムキ、マカズケバコソ、シラズトモイハメ。

山城女やましろめが木鍬をもって掘り起した大根のような、真白な腕を巻き合ったことがなかったならばこそ、私を知らないとも言えようが。

皇后は、人を遣わし報告させた。
「陛下は、八田皇女ヤタノヒメミコを入れて妃とされました。私は皇女と一緒に、后として侍ろうとは思いません」
と言ってどうしても会われなかった。
天皇の車は都にお帰りになった。

天皇は、皇后が大いに怒っておられることをお恨みになった。
それでもなお、皇后を恋い偲んでおられた。

三十一年春一月十五日、大兄去来穂別尊オオエノイザホワケノミコト履中天皇りちゅうてんのう)を立てて皇太子とされた。

三十五年夏六月、皇后磐之媛命イワノヒメノミコト筒城宮つづきのみやで亡くなられた。

三十七年冬十一月十二日、皇后を奈良山ならやまに葬った。

八田皇女の立后

三十八年春一月六日、八田皇女を立てて皇后とされた。
秋七月、天皇と皇后が高台に登られて、暑を避けておられた。

毎夜、菟餓野とがのの方から鹿の鳴く音が聞こえてきた。
その声はものさびしくて悲しかった。
二人とも哀れを感じられた。
月末になってその鹿の音が聞こえなくなった。
天皇は皇后に、
「今宵は鹿が鳴かなくなったが、一体どうしたのだろう」
と言われた。

翌日、猪名県いなのあがた佐伯部サエキベが贈り物を献上した。
天皇は料理番に、
「その贈り物は何だろう」
と問われた。
料理番は答えた。
「牡鹿です」
天王は、
「何処の鹿だろう」
と言われた。
料理番は、
菟餓野とがののです」
と答えた。
天皇は思われた。
この贈り物はきっと、あの鳴いていた鹿だろうと。

天王は皇后に、
「私はこの頃、物思いに耽っていたが、鹿の声を聞いて心が慰められた。今、佐伯部サエキベが鹿を獲った時間と場所を考えるに、きっとあの鳴いていた鹿だろう。その人は、私が愛していることを知らないで、たまたま捕ってしまったが、やむを得ぬことだが、恨めしいことである。佐伯部サエキベを皇居に近づけたくない」
言った。

役人に命じて安芸の淳田ぬたに移された。
これが現在の淳田ぬた佐伯部さえきべの先祖である。

里人さとびとその土地の人)のこんな話がある。
「昔、ある人が菟餓とがに行き、野中に宿った。その時、二匹の鹿が傍に伏せていて、暁方に牡鹿が牝鹿に語った。『昨夜夢を見た。白い霜が沢山降って、私の体は覆われてしまった。これは何の兆候だろう』。牝鹿は答えた。『あなたが出歩いたら、きっと人に射られて死ぬでしょう。塩をその体に塗られることが、ちょうど霜の白いのと同じになる徴でしょう』。そのとき、野に宿っていた人は不思議に思った。明方、猟師がきて牡鹿を射て殺した。当時の人の諺に、『鳴く鹿でもないのに、夢占いのままになってしまった』といわれるようになった」

四十年春二月、雌鳥皇女メトリノヒメミコを入れて妃にしようと思われた。
異母弟の隼別皇子ハヤブサワケノミコなかだち仲人の意)とされた。
そのとき、隼別皇子ハヤブサワケノミコはこっそり自分のものとしてしまって、長らく復命しなかった。

ところが、天皇は夫のあることを知らないで、自ら雌鳥皇女メトリノヒメミコの寝室にお出でになった。
そのとき、皇女のために機織はたおる女たちが歌った。

ヒサカタノ、アメカナハタ、メトリガ、オルカナハタ、ハヤブサワケノ、ミオスヒガネニ。

空を飛ぶ雌鳥めとりが織る金機は、隼別ハヤブサワケの王のお召し物の材料です。

天皇は、隼別皇子ハヤブサワケノミコが密かに通じていたことを知って、これを恨まれた。
しかし、皇后の言葉に憚られて、また、兄弟の義を重んじられ、堪えて罪せられなかった。

その後、隼別皇子ハヤブサワケノミコは皇女の膝を枕にして寝ていて語った。
「ミソサザキ(仁徳天皇にんとくてんのう)とハヤブサ(隼別皇子ハヤブサワケノミコ)では、どっちが速いだろうか」
隼別皇子ハヤブサワケノミコは、
「ハヤブサが速い」
そして、
「だから自分の方が手が早かったのだ」
と言われた。

天皇はこの言葉を聞かれて、さらに恨みの気持ちを起こされた。

隼別皇子ハヤブサワケノミコ舍人とねり等が歌った。

ハヤブサハ、アメニノボリ、トビ力ケリ、イツキガウへノ、サザキトラサネ。

隼は天に上って飛びかけり、いつき場のあたりにいるサザキを取ってしまいなさい。

天皇はこの歌を聞かれて、大いに怒った。
「私は、私事の恨みで兄弟を失いたくない。 我慢してきた。どうして隙があるからと、私事を世の中に及ぼそうとするのか」
と言われ、隼別皇子を殺そうと思われた。

皇子は雌鳥皇女メトリノヒメミコを連れて、伊勢神宮にお参りしようと急がれた。
天皇は隼別皇子ハヤブサワケノミコが逃亡したと思われて、吉備品遅部雄鮒キビノホムチベノオフナ播磨佐伯直阿餓能胡ハリマノサエキノアタイアガノコを遣わして、
「後を追って捕えたところで殺せ」
と言われた。

皇后が申し上げられるには、
雌鳥皇女メトリノヒメミコは重罪に値するけれども、殺すときに皇女の身に付けた物を取り上げて、身を露わにすることは望みません」
と言われた。
よって、雄鮒オフナらに勅して、
「皇女が身に付けている足玉や手玉を取ってはいけない」
と言われた。

雄鮒オフナらは後を追い、菟田うだ宇陀)に至って素珥山そにのやまに迫った。
そのとき、皇子たちは草の中に隠れて、やっと免れることを得た。
急いで逃げて山を越えた。
皇子は歌って言われた。

ハシタテノ、サガシキヤマモ、ワギモコ卜、フタリコユレバ、ヤスムシロカモ。

梯を立てたような険しい山も、吾妹子あぎもこと二人で越えれば、安らかな筵に坐っているようで楽なものだ。

雄鮒オフナは逃げられたと気づき、急追して伊勢の蔣代野こもしろのので追いつき殺した。
雄鮒オフナらはそのとき、皇女の玉を探して裳の中から見つけた。
二人のみこの屍を廬杵河いおきがわのほとりに埋めて復命した。
皇后は雄鮒オフナらに問わせて、
「皇女の玉を見なかったろうね」
と言われ、雄鮒オフナらは
「見ませんでした」
と答えた。

この年、新嘗祭しんじょうさいの月に宴会があったとき、酒を内外の命婦(五位以上)に賜わった。
近江の山君稚守山ヤマノキミワカモリヤマの妻と、采女磐坂媛ウネノイワサカヒメの二人の女の手に、良いたまが巻かれていた。
皇后がそのたまを見られると、雌鳥皇女メトリノヒメミコの珠に似ていた。
疑いを持たれて役人に調べさせると、
佐伯直阿餓能胡サエキアタイアガノコの妻の玉です」
と答えた。
そこで阿餓能胡アガノコを責め調べると、
「皇女を殺した日に探って取りました」
と述べた。
阿餓能胡アガノコを殺そうとされたが、代わりに自分の土地を差し出して死罪を償いたいと申し上げた。
その土地を納めて死罪を許された。
それで、その地を名づけて玉代といった。

鷹甘部の定め

四十一年春三月、紀角宿禰キノツヌノスクネ百済くだらに遣わして、初めて国郡の境の分け方や、それぞれの郷土の産物を記録することを行った。
このとき、百済王くだらおうの王族である酒君サケノキミが無礼であった。
それで紀角宿禰キノツヌノスクネは百済王を責めた。

百済王くだらおうは畏まって鉄の鎖で酒君サケノキミを縛り、襲津彦ソツヒコに従わせて進上した。
酒君サケノキミ石川錦織首許呂斯イシカワノニシコリノオビトコロシの家に逃げて隠れた。
そこで嘘をついて、
「天皇は私の罪をすでに許して下さった。それであなたに付けて生かして下さった」
と言った。
久しくしてから、天皇はその罪を許された。

四十三年秋九月一日、依網よさみ屯倉みやけ阿珥古アビコが、変った鳥を捕えて天皇に奉り、
「私はいつも網を張って鳥を捕っておりますが、まだこんな鳥を捕ったことはありません。珍しいので献上いたします」
と言った。

天皇が酒君サケノキミを呼んで、これは何の鳥かと尋ねられた。
酒君サケノキミが答えて、
「この鳥の類は百済くだらには沢山います。馴らすと人によく従います。また、速く飛んで、いろいろな鳥を取ります。百済くだらの人は、この鳥を俱知くちといいます」
と言った。
これは現在のたかである。

酒君サケノキミに授けて養わせた。
いくらも経たぬうちに馴れた。
酒君は、鞣し革の紐をその足につけ、小鈴をその尾につけ、腕の上に止まらせ天皇に奉った。
この日、百舌鳥野もずのにお出ましになって狩りをされた。
そのとき、雌雉めきざしが沢山飛び立った。
そこで鷹を放って捕らせると、たちまち数十の雉を得た。
この月、初めて鷹甘部たかかいべを定めた。
当時の人は、その鷹を飼うところを名づけて鷹飼邑たかかいのむらといった。

五十年春三月五日、河内の人が申し上げていうのに、
茨田まむたつつみに雁が子を産みました」
使者を遣わして確認した。
すると、
「本当です」
という。
天皇は歌を詠んで武内宿禰タケノウチノスクネに問われた。

タマキハル、ウチノアソ、ナコソハ、ヨノ卜ホヒ卜、ナコソハ、クニノナガヒ卜、 アキツシマ、ヤマ卜ノクニニ、カリコム卜、ナハキカスヤ。

朝廷に仕える武内宿禰タケノウチノスクネよ。あなたこそこの世の長生きの人だ。あなたこそ国の第一の長生きだ。だから尋ねるのだが、この倭の国で、雁が子を産むとあなたはお聞きですか。

武内宿禰タケノウチノスクネは返し歌を詠った。

ヤスミシシ、ワガオホキミハ、ウベナウべナ、ワレヲトハスナ、アキツシマ、ヤマトノクニニ、カリコム卜、ワレハキカズ。

我が大君が、私にお尋ねになるのはもっともなことですが、やまとの国では雁が産卵するということは、私は聞いておりません。

新羅、蝦夷との紛争

五十三年新羅しらぎが朝貢しなかった。

夏五月、上毛野君かみつけのうじの先祖である竹葉瀬タカハセを遣わして、貢物を奉らないことを問うた。
その途中で白鹿を獲たので、帰って天皇に奉った。
さらにまた日を改めて行った。
しばらくして、竹葉瀬タカハセの弟である田道タジを遣わした。
みことのりして、
「もし新羅しらぎの抵抗を受けたら、兵を挙げて討て」
と言われた。
そして精兵を授けられた。

新羅しらぎは兵を起こしてこれを防いだ。
新羅人しらぎびとは毎日挑戦してきた。
田道タジは守りを固めて出なかった。
時に、新羅しらぎの兵卒が一人陣の外に出た。
捕えて様子を尋ねると、
百衝モモツキという強者がいます。身軽で速く、勇猛です。常に軍の右の先頭です。だから、左を攻めれば敗れるでしょう」
と言った。

新羅軍は左を空けて右に備えていた。
田道タジは精鋭の騎馬を連ねて、左の方を攻めた。
これにより、新羅軍は潰れた。
勢いに乗じて攻め、数百人を殺した。
四つのむらの人民を捕えて連れて帰った。

五十五年、蝦夷えみしが背いた。
田道タジを遣わして討たせた。
しかし、蝦夷えみしに破られて、伊峙いじ水門みと石巻)で死んだ。

従者が田道タジの手に巻いていた玉をとって、その妻に与えた。
妻はそれを抱いて縊死した。
当時の人はこれを聞いて悲しんだ。

この後、また蝦夷えみしが襲って人民を掠めた。
そして、田道タジの墓を掘った。
すると大蛇が現れて、目を怒らして墓から出て喰いついた。
蝦夷えみしは蛇の毒気にやられて沢山死んだ。
わずか一人二人が免れただけであった。
当時の人は、
田道タジは死んだといっても、ついに仇を討った。死者でもよく知っているものだ」
と言った。

五十八年夏五月、荒陵あらはかの松林の南の道に、突然、二本のクヌギが生えた。
路を挟んで、その木の末は一本になっていた。

冬十月、呉国くれくに高麗国こまこくが朝貢した。

六十年冬十月、日本武尊ヤマトタケルノミコトの白鳥陵の陵守みささぎもりを雑役免除にしようとした。
天皇は自ら課役のところへお出でになった。
陵守の目杵メキは、突然、白鹿になって逃げた。
天皇はみことのりして、
「この陵はもとから空であった。それでその陵守を辞めさせようと思って、初めて遥役にあてた。今、この不思議を見ると、はなはだ畏れ多い。陵守は動かしてはいけない」
と言われた。
そして、再び土師連はじのむらじらに授けられた。

六十二年夏五月、遠江国の国司が申し上げた。
「大きな樹があって、大井川から流れて、河の曲り角にとまりました。その大きさは十囲(一囲は三尺に相当)です。根本は一本で、先は二股になっています」
倭直やまとのあたい吾子籠アゴコを遣わして船として造らせた。
南海から巡って、難波津なにわづに持ってきて御船とした。

この年、額田大中彦皇子ヌカタノオオナカツヒコノミコが、闘鶏つげ奈良県都祁)に猟に行かれた。
山の上に登って野の中を見られると、何か物があり、いお庵・小屋)の形であった。
使者に調べさせると、
むろあなぐら)です」
と言う。
それで闘鶏稲置大山主ツケノイナキオオヤマヌシを呼んで問われた。
「あの野中にあるのは何の窟だ」
すると、
氷室ひむろです」
と言う。
皇子は、
「そこに収めた様子はどんなものか、また、何に使うのか」
と聞いた。
すると、
「土を掘ること一丈あまり、かやを以てその上を葺き、厚くかやすすきを敷いて、水を取り、その上に 置きます。夏を越しても消えません。暑い時に水酒みずさけにひたして使います」
と答えた。
皇子はその水をもってきて、御所に奉られた。
天皇はお喜びになった。
これ以後、師走になる毎に、必ず氷を中に納め、春分になると氷を配った。

六十五年、飛驛国ひだのくに宿儺スクナという人があり、体は一つで二つの顔があった。
顔は背き合っていて、いただきは一つになり、うなじはなかった。
それぞれ手足があり、膝はあるが、ひかがみ膝の裏)はなかった。
力は強くて敏捷であった。
左と右に剣をいて、四つの手に弓矢を使った。
皇命に従わず、人民を略奪するのを楽しみとした。
それで、和珥臣わにのおみの先祖の難波根子武振熊ナニワノネコタケフルクマを遣わして殺させた。

六十七年冬十月五日、河内の石津原いしづはらにお出でになり、陵地みささぎのちを定められた。
十八日にみささぎを築いた。
この日、野の中から急に鹿が出てきて、走って役民の中に入り、倒れ死んだ。
それが急に死んだのを怪しんで傷を探した。
百舌鳥もずが耳から出てきて飛び去った。
耳の中を見ると、ことごとく食いかじられていた。
その地を百舌鳥耳原もずのみみはらというのは、これが由来である。

この年、吉備きび中国なかつくにの川島河の川股に、竜がいて人を苦しめた。
道行く人がそこに触れると、毒気にあてられて沢山死んだ。
笠臣かさのおみの先祖の県守アガタモリは、勇ましくて力が強かった。
竜のいる渕に臨んで、三つのひさごヒョウタン)を水に投げ入れ、
「お前は度々毒を吐いて、道行く人を苦しめた。私はお前を殺そう。お前がこのひさごを水に沈めるなら、私が逃げよう。沈めることができぬなら、お前を斬るだろう」
と言った。
すると竜は鹿になって、ひさごを引き入れようとした。
しかし、ヒサゴは沈まなかった。
そこで剣を抜いて水に入り、竜を斬った。

さらに竜の仲間を探した。
諸々の竜の仲間が、淵の底の穴に満ちていた。
それをことごとく斬ると、河水は血に変った。
そこを名づけて県守淵あがたもりのふちという。
このとき、背く者が一人二人あった。
天皇は、早く起き遅く寝て、税を軽くし徳を布き、恵みを施して人民の困窮を救われた。
死者を弔い、疫者を問い、身寄りのない者に対し恵みを与えた。

それで政令はよく行われ、天下は平らかになり、二十余年無事であった。

八十七年春一月十六日、天皇は崩御された。

冬十月七日、百舌鳥野陵もずののみささぎに葬った。

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百舌鳥野陵(百舌鳥耳原中陵)
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons
仁徳天皇陵

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