日本書紀・日本語訳「第十七巻 継体天皇」

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継体天皇 男大迹天皇

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継体天皇の擁立

男大迹天皇をほどのすめらみこと、またの名は彦太尊ひこふとのみことは、応神天皇おうじんてんのうの五世の孫であり、彦主人王ひこうしのおおきみの子である。
母は垂仁天皇すいにんてんのうの七世の孫である振媛ふるひめという。
天皇の父は、振媛ふるひめが容貌端正で大そう美人であるということを聞いて、近江国高島郡おうみのくにたかしまのこおり三尾みおの別邸から、使者を遣わして越前国坂井えちぜんのくにさかいの三国に迎え、召し人れて妃とされた。
そして天皇を産まれた。

天皇が幼年のうちに父王が死なれた。
振媛ふるひめは嘆いて、
「私は今、遠く故郷を離れてしまいました。これではよく孝養をすることができません。私は高向(越前国坂井郡高向郷)に帰り、親の面倒を見ながら天皇をお育てしたい」
と言われた。

成人された天皇は、人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かでいらっしゃった。
武烈天皇ぶれつてんのうは十八歳で、八年冬十二月八日にお隠れになった。
もとより男子も女子もなく、跡嗣あとつぎが絶えてしまうところであった。

十二月二十一日、大伴金村大連おおとものかなむらのおおむらじが皆に譲って、
「今、全く跡嗣あとつぎがない。天下の人々はどこに心を寄せたらよいのだろう。古くから今に至るまで、天下のわざわいはこういうことから起きている。仲哀天皇ちゅうあいてんのうの五世の孫の、倭彦王やまとひこのおおきみ丹波国桑田郡たんばのくにくわたのこおりにお出でになる。試みに兵士を遣わし、御輿みこしをお守りしてお迎えし、人主として奉ったらどうだろうか」
と言った。
大臣おおおみ大連おおむらじらは皆これに従い、計画の如くお迎えすることになった。
ところが倭彦王やまとひこのおおきみは、遥かに迎えにやってきた兵士を望見して恐怖し、顔色を失われた。
そして山中に遁走して行方不明となった。

元年春一月四日、大伴金村大連おおとものかなむらのおおむらじはまた議って、
男大迹王をおどおうは情け深く親孝行で、皇位を継がれるのにふさわしい方である。
ねんごろにお勧め申して、皇統を栄えさせようではないか」
と言った。
物部麁鹿火大連もののべのあらかいのおおむらじ許勢男人大臣こせのおひとのおおおみらは皆、
「ご子孫を調べ選んでみると、賢者はたしかに男大迹王をおどおうだけらしい」
と言った。

六日におみむらじらが、君命を受けた節の旗をもって御輿みこしを備え、三国にお迎えに行った。
兵士が囲み守り、容儀いかめしく先払いして到着すると、男大迹天皇をおどのすめらみことは、ゆったりと常の如く床几しょうぎ折りたたみイス)にかけておられた。
侍臣を整列させ、既に天子の風格がおありになった。
しるしを持った使者たちは、これを見てかしこまり、天皇を仰いで命を捧げて忠誠を尽そうと願った。

けれども天皇は心の中で尚疑いを抱かれて、すぐには承知されなかった。
たまたま河内馬飼首荒籠こうちのうまかいのおびとあらこをご存じであった。
彼は使者を差し上げて、詳しく大臣おおおみ大連おおむらじらがお迎えしようとしている本意をお伝えした。
使者は二日三晚留まっていて、ついに天皇は発たれることになった。
そして嘆息して、
「よかった、馬飼首うまかいのおびとよ。もしお前が使者を送って知らせてくれることがなかったら、私は天下の笑い者になるところだった。世に『貴賤を論ずることなく、ただその心だけを重んずべきである』というのは、思うに荒籠あらこのような者をいうのであろう」
と言われた。
皇位に就かれてから、厚く荒籠あらこを寵愛された。

十二日に天皇は、河内国かわちのくに交野郡葛葉宮かたのごおりくずはのみやにお出でになった。

二月四日、大伴金村大連おおとものかなむらのおおむらじは跪いて、天子の璽符みしるしである鏡と剣を奉って拝礼した。
男大迹天皇をおどのすめらみことは辞退して、
「民を我が子として国を治めることは重大な仕事である。私は天子として才能がなく、力不足である。どうかよく考えて、真の賢者を選んで欲しい。私ではとうていできないから」
と言われた。

大伴大連おおとものおおむらじは地に伏して固くお願いした。
男大迹天皇をおどのすめらみことは西に向って三度、南に向って二度、 辞譲の礼を繰り返された。
大伴大連らはロをそろえて、
「私たちが考えますのに、大王おおきみ男大迹天皇)は、人民を我が子同様に思って国を治められる、最も適任の方です。私たちは国家社会のため、思い図ることは決してゆるがせに致しません。どうか多数の者の願いをお聞き入れ下さい」
とお願いした。

男大迹天皇をおどのすめらみことは、
大臣おおきみ大連おおむらじ将相まえつきみ諸臣くんしんすべてが私を推すのであれば、私も背くわけにはいかない」
と言われた。
そして、天子の璽符みしるしを受けられ、天皇に即位された。

大伴金村大連おおとものかなむらのおおむらじ大連おおむらじとし、許勢男人大臣こせのおひとのおおおみ大臣おおおみとし、物部麁鹿火大連もののべのあらかいのおおむらじ大連おおむらじとし、旧例の職位のままに任じられた。

十日、大伴大連おおとものおおむらじが、
「古来の王が世を治め給うのに、たしかな皇太子がおられないと、天下をよく治めることができません。睦まじい皇妃がないと、良い子孫を得ることができないと聞いております。その通り、清寧天皇せいねいてんのうは、跡嗣あとつぎがなかったので、私の祖父の大伴大連室屋おおとものおおむらじむろやに命じて、国毎に三種の白髪部しらがべを置かせ(三種というのは、一に白髪部舎人しらかべのとねり、二に白髪部供膳しらかべのかしわで、三に白髪部靱負しらかべのゆげいである)、自分の名を後世に残そうとされました。何と痛ましいことではありませんか。どうか手白香皇女たしらかのひめみこを召して皇后とし、神祇伯かむつかさのかみらを遣わして、天神地祇てんじんちぎ天つ神あまつかみ国つ神くにつかみ)をお祀りし、天皇の御子が得られるようお祈りして、人民の望みに答えて下さい」
と奏請した。
天皇は、
「よろしい」
と言われた。

三月一日みことのりして、
「天の神、地の神を祀るには、神主かんぬしがなくてはならず、天下を治めるには君主がなくてはならない。天は人民を生み、元首を立てて人民を助け養わせ、その生を全うさせる。大連おおむらじは朕に子のないことを心配し、国家のために世々忠誠を尽している。決して我が世だけのことではない。礼儀を整えて手白香皇女たしらかのひめみこをお迎えせよ」
と言われた。

五日、手白香皇女たしらかのひめみこを立てて皇后とし、後宮に関することを修めさせられた。
やがて一人の男子が生まれた。
これが天国排開広庭尊あめくにおしはらきひろにわのみこと欽明天皇きんめいてんのう)である。
この方が嫡妻の子であるが、まだ幼かったので二人の兄が国政を執られた後に、天下を治められた(二人の兄は、安閑天皇と宣化天皇である)。

九日、みことのりして、
「男が耕作しないと、天下はそのために飢えることがあり、女が紡がないと、天下は凍えることがある。だから帝王は自ら耕作して農業を勧め、皇妃は自ら養蚕ようさんをして、桑を与える時期を誤らないようにする。まして、百官ひゃっかんから万人に至るまで、農桑を怠っては富み栄えることはできない。役人たちは天下に告げて、私の思うところを人々に知らせるように」
と言われた。

十四日、八人の妃を召し入れられた。
八人の妃を人れなさることは、前後にも例がないわけでないが、この十四日の日に入れ給うということは、即位をされ、良い日を占い選んで、初めて後宮を定められたのでここに記録した。

元からの妃、尾張連草香おわりのむらじくさかの娘を目子媛めのこひめ、またの名を色部しこぶ
二人の子をお生みになり、 皆、天下を治められた。
その一人を勾大兄皇子まがりのおおえのみこといい、これが広国排武金日尊ひろくにおしたけかなひのみこと安閑天皇あんかんてんのう)である。

二番目を桧隈高田皇子ひのくまのたかたのみことといい、これが武小広国排盾尊たけおひろくにおしたてのみこと宣化天皇せんかてんのう)である。

次の妃である三尾角折君みおのつのおりのきみの妹を稚子媛わかこひめといい、大郎皇子おおいらつのみこ出雲皇女いずものひめみこをお生みになった。

次は、坂田大跨王さかたのおおまたのおおきみの娘の広媛ひろひめといい、三人の女子を生み、姉を神前皇女かむさきのひめみこといい、中を茨田皇女まむたのひめみこといい、末娘を馬来田皇女うまくたのひめみこという。

次に息長真手王おきながのまでのおおきみの娘である麻績娘子おみのいらつめといい、竞角皇女ささげのひめみこをお生みになった。
この人は伊勢皇大神宮いせこうたいじんぐう斎宮いわいのみやをされた。

次に茨田連小望まむたのむらじこもちの娘の関媛せきひめといい、三人の女をお生みになった。
姉を茨田大郎皇女まむたのおおきらつめのみこといい、中を白坂活日姫皇女しらさかいくひひめのみこといい、末娘を小野稚郎皇女おののわかいらつめのひめみこという。

次に三尾君堅械みおのきみかたひの娘の倭媛やまとひめといい、二男二女をお生みになった。
その一人を大娘子皇女おおいらつめのひめみこといい、二番目を椀子皇子まろこのみこという。
これは三国公みくにのきみの先祖である。
三番目を耳皇子みみのみこといい、四番目を赤姫皇女あかひめのひめみこという。

次に和珥臣河内わにのおみかわちの娘の荑媛はえひめといい、一男二女をお生みになった。
その第一を稚綾姫皇女わかやひめのみこといい、次を円娘皇女つぶらいらつめのみこといい、三番目を厚皇子あつのみこという。

次に根王ねのおおきみの娘の広媛ひろひめといい、二男を生んだ。
長子を兎皇子うさぎのみこといい、これは酒人公さかひとのきみの先祖である。
弟を中皇子なかつみこといい、これは坂田公さかたのきみの先祖である。

この年、太歳丁亥さいたいひのとい

二年冬十月三日、武烈天皇を傍丘磐杯丘陵かたおかのいわつきのおかのみささぎに葬った。

十二月に、南の海の中の耽羅人たんらびと済州島の人)が、初めて百済国くだらこくに使者を送った。

三年春二月、使者を百済くだらに遣わした。

百済本記に日く、久羅麻致支弥くらまちきみが日本から来た、とあるが詳しくは分らない。

任那みまなの日本の村々に住む百済の人民の逃亡してきたもの、戸籍のなくなった者の三世四世までさかのぼって調べ、百済くだらに送り返し、戸籍につけた。

五年冬十月、都を山城やましろ綴喜つづきに移した。

任那四県の割譲

六年夏四月六日、穂積臣押山ほづみのおみおしやまを百済へ遣わし、筑紫国ちくしのくにの馬四十匹を賜わった。

冬十二月、百済くだらが使者を送り、調を奉った。
別に上表文を奉って、任那国みまなこく上哆嘲おこしたり下哆嘲あろしたり娑陀さだ牟婁むろの四県を欲しいと願った。
哆唎たりの国守、穂積臣押山ほづみのおみおしやまが奏上して、
「この四県は百済くだらに連なり、日本とは遠く隔っています。百済とこれらの地は朝夕に通い易く、鶏犬の声もどちらのものか聞きわけにくいほどであり、今、百済に賜わって同国とすれば、保全のためにこれに過ぐるものはないと思われます。しかし、百済に合併しても、後世の安全は保証しにくく、まして百済と切り離しておいたのでは、何年ともたないと思います」
と言った。
大伴大連金村おおとものおおむらじかなむらも、意見に同調して奏上した。

物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかいを、みことのりを伝える使者とされた。
彼がまさに難波館なにわのやかたに出向き、百済くだらの使者に勅を伝えようという時、その妻が固く諫めて、
住吉大神すみのえのおおかみは、海の彼方の金銀の国である、高麗こま百済くだら新羅しらぎ任那みまななどを、まだ胎中におられる応神天皇にお授けになりました。そこで神功皇后は、大臣の武内宿禰たけのうちのすくねと共に、国毎に官家みやけを設け、海外での我が国の守りとされ、長く続いてきた由来があります。もしこれを割いて他国に与えたら、もとの領域と違ってきます。そうしたら、後世長く非難を受けることになるでしょう」
と言った。
大連おおむらじは言葉を返し、
「言うところは理に適っているが、それでは勅宣みことのりに背くことになるだろう」
と言った。
その妻は強く諫めて、
「病気と申し上げて勅宣をお受けしなかったら」
と言った。
大連おおむらじは諫めに従った。
そこで改めて別人に勅された。
賜物と一緒に制旨せいし通達文)をつけ、上表文に基づく任那みまなの四県を与えられた。
大兄皇子おおえのみこ安閑天皇あんかんてんのう)は、 先に事情があって、国を賜うことに関わられず、あとになって勅宣みことのりのことを知られた。
驚いて改めようとされ、みことのりして、
「応神天皇以来、官家みやけを置いてきた国を、軽々に隣国の言うままに与えてしまってよいものか」
と言われた。
そこで日鷹吉士ひたかのきしを遣わして、改めて百済くだらの使者に伝えた。
すると使者が、
「父天皇が事情をお考えになり、みことのりを賜わったことは、もう過去のことです。子である皇子が、どうして帝の勅に背いて、みだりに改めておっしゃってよいでしょうか。これはきっと、偽りでありましょう。たとえこれが本当だとしても、棒の太い方の端で打つのと、細い方の端で打つのと、どっちが痛いでしょうか(天皇の勅は重く、皇子の命は軽いとの譬え)」
と言って、ついに帰った。
世間では、
大伴大連おおとものおおむらじ哆唎国守たりのくにもり穂積臣押山ほづみのおみおしやまとは、 百済くだらから賄賂をとっている」
という流言があった。

己汶と帯沙をめぐる争い

七年夏六月、百済くだら姐弥文貴さみもんくい将軍と州利即爾つりそに将軍を遣わして、穂積臣押山ほづみのおみおしやまに副えて、五経博士ごきょうはくし儒学の官職)の段楊爾だんようにを奉った。
別に上奏して、
伴跛国はへのくには、私の国の己汶こもんの領土を奪いました。どうか天恩によって、元通りに還付するようお計らい頂きますようお願い申します」
と言った。

秋八月二十六日、百済くだらの太子である淳陀じゅんだが薨去した。

九月、勾大兄皇子まがりのおおけのみこは、春日山田皇女かすがのやまだのひめみこを迎えられた。
月の夜に清らかに語り合われ、思わず夜明けに及んだ。
歌を作ろうとする雅心が、すぐに言葉に現われ、口ずさまれた。

ヤシマクニ、ツママキカネテ、ハルヒノカスガノクニニ、クハシメヲ、アリトキキテ、ヨロシメヲ,アリ卜キキテマキサケ、ヒノイタ卜ヲ、オシヒラキ、ワレイリマシ、アト卜リ,ツマ卜リシテ,マクラトリ、ツマ卜リシテ、イモガテヲ、ワレニマ力シメ、ワガテヲバ、イモニマ力シメ、マサキツラ、タタキ、アザハリシシクシロ、ウマイネン卜ニ、ニハツトリ、カケハナクナリ、ヌツトリ、キキシハトヨム、ハシケクモ、イマダイハズテ、アケニケリ、ワギモ。

八州の国で妻を娶りかねて、春日国に美しい女がいると聞いて、良い女がいると聞いて、立派な桧の板戸を押し開いて、私がお入りになり、女の足の衣の端をとり、頭の方の衣の端をとり、妻の手を自分の体に巻きつかせ、自分の手を妻に巻きつかせ、蔦葛のように交り合って熟睡した間に、鶏の鳴くのが聞こえ、野の鳥の雉は鳴き立てる。可愛いともまだ言わぬ間に、夜は明けてしまった。わが妻よ。

妃が答えて唱われる。

コモリクノ、ハツセノカワユ、ナガレクル、タケノイクミタケヨタケ、モトへヲバ、コトニツクリ、スヱへヲバ、フエニツクリ、フキナス、ミモロガウへニ、ノボリタチ、ワガミセバ、ツヌサハフ、イハレノイケノ、ミナシタフウヲモ、ウへニデテナゲク、ヤスミシシ、ワガオオキミノ、オバセル、ササラノミオビノ、ムスビタレ、タレヤシヒトモ、ウへニデテナゲク。

初瀬川はつせのかわを流れてくる、竹の組み合わさっている節竹。その根本の太い方を琴に作り、末の細い方を笛に作り、吹き鳴らす御諸山みもろやまの上に、登り立って私が眺めると、磐余いわれの池の中の魚も、水面に出て嘆いています。我が大君が締めてお出でになる、細かい模様の御帯を結び垂れて、(そのタレと同音の)たれでもが顔に出して、お別れを嘆いています。

冬十一月五日、朝廷に百済くだら姐弥文貴さみもんくい将軍が、新羅の汶得至もんとくち安羅あら辛己奚しんいけい賁巴委佐ほんはわさ伴跛はへ既殿奚こでんけい竹汶至ちくもんちらを召し連れて来て、詔を賜わって、己汶こもん滞沙たさ百済国くだらこくに賜わった。
この月、伴跛国が戢支しょうきを遣わして、珍宝を献上し、己汶こもんの地を乞うたが、ついに賜わらなかった。

十二月八日、詔して、
「私は皇位を継いで宗廟をお守りし、いつも兢々とお仕えしている。 このところ天下安静で、国内平穏。豊年が続き国を富ませてくれる。有難いことである。麻呂古まろこ勾大兄皇子のこと)は私の心をよく八方に示してくれた。勾大兄まがりのおおけは我が教化を万国に照らし、日本は平和で、名声は天下に誇っている。秋津洲あきつしま赫々かくかくとして誉れも高い。 宝とすべきは賢人であり、善業は最楽である。聖化はこれによって遠くに及び、大きな功業はこれによって長く栄える。まことに汝の力である。汝皇太子の位にあって、私を助け恵みを施し、私の至らぬところを補ってくれよ」
と言われた。

八年春一月、太子の妃、春日皇女かすがのひめみこは、朝なかなか起きて来られず、いつもと異なったところがあった。
太子は変に思って、部屋に人ってご覧になった。
妃は床に伏して涙を流し、悶え苦しんで堪えられない様子であった。
太子は怪しみ尋ね、
「今朝ひどく泣くのは何かの恨みがあるのか」
と言われた。
妃は、
「他事ではありません。ただ妾が悲しむのは、空飛ぶ鳥も自分の子を養うために、こずえに巣を作ります。その愛情が深いからです。地に這う虫も我が子を守るために、土の中に穴を掘り、その守りを厚くします。まして人間たるもの、どうして考えないでおられましょうか。跡嗣あとつぎのない恨みは、太子に集まります。私の名もしたがって絶えてしまうでしょう」
と言われた。
太子は心を痛め、天皇に奏上された。
天皇はみことのりして、
「我が子、麻呂古まろこよ。お前の妃の言葉は誠に理に適っている。どうしてつまらぬことだといって、慰めも与えないでよかろうか。匝布さほ佐保)の屯倉みやけを設け、妃の名を万世に残すように」
と仰せられた。

三月、伴跪はへは城を子呑しとん带沙たさに築いて、満奚まんけいと結び、のろし台、武器庫を設けて日本との戦いに備えた。
また、城を爾列比にれひ麻須比ますひに築いて、麻且奚ましょけい推封すいふにつながるようにした。
軍兵や兵器を集めて新羅しらぎを攻めた。
子女を捕えて村を掠奪した。
賊の襲ったところは残っているものの、あるのは稀であった。
暴虐をほしいままにし、民を悩まし、多くの人を殺害したさまは、詳しく載せられない程であった。

九年春二月四日、百済くだらの使者である文貴もんくい将軍らが帰国を希望した。
よってみことのりを出され、物部至至連もののべのちちのむらじを副えて遣わされることになった。
この月に、巨済島に至り、人の噂を聞くと、伴跛はへの人は日本に恨みを抱き、よからぬことをたくらみ、力をたのみとし無道を憚らないということであ った。

そこで物部連もののべのむらじは水軍五百を率いて、直ちに带沙江たさのえに赴いた。
文貴もんくい将軍は新羅しらぎから百済くだらに入った。

夏四月、物部連もののべのむらじ带沙江たさのえに留ること六日、伴跛はへは軍を興して攻めてきた。
衣類を剝ぎとり、持物を奪い、すべての帷幕きぬまくを焼いた。
物部連もののべのむらじらは怖れて逃げた。
やっと命からがら汶慕羅島もんもらとうに逃げた。

十年夏五月、百済くだら前部木品不麻甲背ぜんほうもくらふまこうはいを遣わして、物部連もののべのむらじらを己汶こもんに迎えてねぎらい、引き連れて国に入った。
群臣くんしんたちはそれぞれ着物や布帛、斧鉄などを出し、土地の産物に加え、朝廷に積み上げ、ねんごろに慰問した。
賜物も少なくなかった。

秋九月、百済くだら州利即次つりそに将軍を遣わし、物部連もののべのむらじに従わせて来朝し、己汶こもんの地を賜わったことを感謝した。
五経博士ごきょうはくし漢高安茂あやのこうあんもを奉って、博士の段楊爾だんようにに替えたいと願ったので、願いのままに交代させた。

十四日、百済くだら約莫古やくまくこ将軍と、日本人の科野阿比多しなのあひたを遣わして、高麗こまの使者である安定あんていらに付き添わせ来朝し、よしみを結んだ。

十二年春三月九日、都を山城国乙訓やましろのくにおとくにに移した。

十七年夏五月、百済の武寧王ぶねいおうが薨じた。

十八年春一月、百済くだらの太子であるめいが即位して聖明王せいめいおうとなった。

二十年秋九月十三日、都を遷して大和やまと磐余の玉穂いわれのたまほに置いた。

磐井の乱

二十一年夏六月三日、近江おうみ毛野臣けなのおみが、兵六万を率いて任那みまなに行き、新羅しらぎに破られた南加羅ありひしのから喙己呑とくことんを回復し、任那みまなに合わせようとした。
このとき、筑紫国造つくしのくにのみやつこ磐井いわいが、密かに反逆を企てたが、躊躇しているうちに年が経ち、事が難しいことを怖れて、隙を窺っていた。
新羅しらぎがこれを知って、こっそり磐井いわいに賄賂を送り、毛野臣けなのおみの軍を妨害するように勧めた。

そこで磐井いわい肥前ひぜん肥後ひご豊前ぶぜん豊後ぶんごなどをおさえて、職務を果せぬようにし、外部では海路を遮断して、高麗こま百済くだら新羅しらぎ任那みまななどの国が、貢物を運ぶ船を欺き奪い、内部では任那みまなに遣わされた毛野臣けなのおみの軍をさえぎち無礼な揚言ようげん大声で公に言うこと)をして、
「今でこそお前は朝廷の使者となっているが、昔は仲間として肩や肘をすり合せ、同じ釜の飯を食った仲だ。使者になったからとて、にわかにお前に俺を従わせることはできるものか」
と言って、交戦して従わず、気勢が盛んであった。

毛野臣けなのおみは前進を阻まれ、中途で停滞してしまった。
天皇は大伴大連金村おおとものおおむらじかねむら物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかい許勢大臣男人こせのおおおみおひとらに詔をして、
筑紫ちくし磐井いわいが反乱して、西の国をわがものとしている。今、誰か将軍の適任者はあるか」
と言われた。

大伴大連おおとものおおむらじら皆が、
「正直で勇に富み、兵事に精通しているのは、今、麁鹿火あらかいの右に出る者はありません」
とお答えすると、 天皇は、
「それが良い」
と言われた。

秋八月一日詔して、
大連おおむらじよ。磐井いわいが背いている。お前が行って討て」
と言われた。
物部麁鹿火大連もののべおあらかいのおおむらじは再拝して、
磐井いわいは西の果てのずるい奴です。山河の険阻なのをたのみとして、恭順を忘れ、乱を起こしたものです。道徳に背き、驕慢でうぬぼれています。私の家系は、祖先から今日まで、帝のために戦いました。人民を苦しみから救うことは、昔も今も変りませぬ。ただ、天の助けを得ることは、私が常に重んずるところです。よく慎しんで討ちましょう」
と言った。
みことのりに、
「良将は出陣にあたっては将士を恵み、思いやりをかける。そして、攻める勢いは怒濤や疾風のようである」
と言われ、また、
「大将は兵士の死命を制し、国家の存在を支配する。謹んで天誅を加えよ」
と言われた。

天皇は将軍の印綬いんじゅ大連おおむらじに授けて、
長門ながとより東の方は私が治めよう。筑紫ちくしより西はお前が統治し、賞罰も思いのままに行なえ。一々に報告することはない」
と言われた。

二十二年冬十一月十一日、大将軍の物部麁鹿火もののべおあらかいは、敵の首領である磐井いわいと、筑紫ちくし三井郡みいのこおりで交戦した。
両軍の旗や鼓が相対し、軍勢のあげる塵埃は入り乱れ、互いに勝機を掴もうと、必死に戦って相ゆずらなかった。
そして麁鹿火あらかいはついに磐井いわいを斬り、反乱を完全に鎮圧した。

十二月、筑紫君葛子つくしのきみくずこは、父(磐井)の罪に連座して誅せられることを恐れ、糟屋の屯倉かすやのみやけを献上して、死罪を免れることを請うた。

二十三年春三月、百済王くだらおう下哆琍国守穂積押山臣あるしたりのくにのみこともちほづみのおしやまのおみに語って、
「日本への朝貢の使者がいつも海中の岬を離れるとき、風波に苦しみます。このため船荷を濡らし、ひどく損壊します。それで加羅国からのくに多沙津たさつを、どうか私の朝貢の海路として頂きとうございます」
といった。
押山臣おしやまのおみはこれを伝奏てんそう天皇に取次報告)した。

この月、物部伊勢連父根もののべのいせのむらじちちね吉士老きしのおきならを遣わして、多沙津たさつを百済の王に賜わった。
このとき、加羅からの王が勅使に、
「この津は官家が置かれて以来、私が朝貢のときの寄港地としているところです。たやすく隣国に与えられては困ります。始めに与えられた境界の侵犯です」
と言った。

勅使である父根らはこのため、その場で百済に加羅の多沙津たさつを賜わるのは難しいと思って、大島に退いて引き返した。
これとは別に録史ふひと記録官)を遣わして、後に扶余ふよ百済)に賜わった。
このため、加羅から新羅しらぎと結んで、日本に恨みを構えた。

加羅王からおう新羅王しらぎおうの女を娶って、子を儲けた。
新羅しんらは当初、女を送るときに一緒に百人のお供をつけた。
これを各県に分散して受け入れ、新羅の衣冠いかんを着けさせた。

加羅の阿利斯等ありしとは、その国の服制を無視したことに怒り、使者をやって女たちを送り返した。
新羅は面目を失って、王女を召還しようとして、
「先に求婚されたから、私もこれを許したのだ。こんなことになったら、王女を返してもらおう」
と言った。
加羅から己富利知伽こほりちかは、
「夫婦として娶わせておいて、今更どうして仲を割くことができようか。子供もあり、これを棄ててどこに行けるものか」
と答えた。
ついに新羅しらぎ刀伽とか古跛こへ布那牟羅ふなむらの三つの城を取り、また、北の境の五つの城も取った。

近江毛野の派遣

この月に、近江毛野臣おうみのけなのおみを使者とし、安羅あんらに遣わされた。
みことのりして新羅に勧め、南加羅ありひしのから喙己呑をとくことん再建させようとした。
百済くだら将軍君尹貴いくさのきみいんくい麻那甲背まなこうはい麻鹵まろらを遣わして、安羅あんらに行き詔を聴かせた。
新羅しらぎは隣の国の官家みやけを破ったことを恐れて、上級の者を遣わさないで、夫智那麻礼ぶちなまれ奚奈麻礼けなまれら下級の者を遣わし、安羅あんらに行きみことのりを聴かせた。

安羅あんらは新しく高堂を建て、 勅使をそこに上らせ、国主はその後から階を昇った。
国内の大臣おおおみでも共に昇殿したのは一、 二人だけで、百済くだらの使者の将軍いくさのきみらは堂の下であった。
数ヶ月にわたり、再三、殿上の謀議は行われたが、将軍いくさのきみらは常に庭におかれたことを恨んだ。

夏四月七日、任那王みまなおう己能末多干岐このまたかんきが来朝した。
己能末多このまたというのは、おそらく阿利斯等ありしとであろう。
大伴大連金村おおとものおおむらじかなむらに、
「海外の諸国に、応神天皇が官家みやけ直轄領)を置かれてから、もとの国王にその土地を任せ、統治させられたのは、まことに道理に合ったことです。今、新羅は当初に決めて与えられた境界を無視して、度々領土を侵害しております。どうか天皇に申し上げ、私の国をお助け下さい」
と言った。
大伴大連おおとものおおむらじは、乞われるままに奏上した。

この月、使者を遣わして、己能末多干岐このまたかんき任那みまなに送らせた。
同時に、任那みまなにいる近江毛野臣おうみけなのおみみことのりされ、
任那王みまなおうの奏上するところをよく問いただし、任那みまな新羅しらぎが互いに疑い合っているのを和解させるように」
と言われた。

そこで毛野臣けなのおみは熊川に宿って、新羅しらぎ百済くだら両国の王を呼んだ。
新羅しらぎの王である佐利遅さりじは、久遅布礼くじふれを遣わし、百済は恩率弥騰利おんそつみどりを遣わして、毛野臣けなのおみのところに赴かせ、それぞれ王自身は来なかった。

毛野臣けなのおみは大いに怒り、二国の使者をなじった。
「小さなものが大きなものに仕えるのは、天の自然の道である。どうして二国の王が自ら出向いて、天皇の詔を受けようとせず、軽臣を遣わしたのか。もうお前たちの王が、自ら来て詔を聞こうとしても、私はあえて伝えない。必ず追い返すだろう」
と言った。
久遅布礼くじふれ恩率弥騰利おんそつみどりは、心に恐怖を抱いて帰り、それぞれの王に伝えた。

これによって新羅は改めて、上臣まかりだろである伊叱夫礼智干岐いしぶれちかんき新羅では大臣を上臣という)を遣わして、兵三千を率いて来て、みことのりを聴きたいと言った。
毛野臣けなのおみは遥かに、武備を整えた兵数千のあるのを見て、熊川から任那みまな己叱己利こしこりの城に入った。
伊叱夫礼智干岐いしぶれちかんきは、多々羅の原たたらのはらに宿り、礼を尽くして来ることをせず、待つこと三ヶ月に及んだ。
たびたびみことのりを聞きたいと言ったが、ついに伝えなかった。

伊叱夫礼智いしぶれちが率いた兵卒は、村落で食を乞うた。
毛野臣けなのおみの従者の河内馬飼首御狩こうちのうまかいのおびとみかりのところに立ち寄った。
御狩みかりは他人の門に隠れ、物を乞う者が立ち去るのを待って、拳を握って遠くから殴るまねをした。兵卒はこれに気づき、
「謹しんで三ヶ月も待ち、勅旨ちょくしを聞こうと望んだが、 やはり述べることをしない。勅旨ちょくしを聴く使者を煩わすのは、騙して上臣を殺そうとしているのだ」
と言った。

そしてその様子をつぶさに上臣にまかりだろ述べた。
上臣は四つの村を掠め金官きんかん背伐へだつ安多あた委陀わだの四村。ある本には、多多羅たたら須那羅すなら和多わた費智ほちとされている。
人々を率いて本国に帰った。
ある人が言った。
「多多羅ら、四つの村が掠められたのは毛野臣けなのおみの失敗であった」

秋九月、巨勢男人大臣こせのおひとのおおおみこうじた。

二十四年春二月一日、詔して、
神武じんむ祟神すじん以来、国の政治を行うには、代々博識の臣たちの補佐を頼りとしてきた。道臣命みちのおみのみことが意見をのべ、これを用いて神武天皇は隆盛になられた。大彦おおひこ(孝元天皇の皇子)が計画をたて、崇神天皇はそれを採用して隆盛になられた。皇位を継いだ者として、中興の功を立てようとするならば、どうしても賢明な人々の謀議に頼らざるを得ない。武烈天皇が天下を治められてより、長い太平のために人民はだんだん眠ったようになり、政治の良くないところも改めようともしなくなった。ただ、しかるべき人が他の人の協力を得て、現れるのを待つだけである。有能多才の者は、少々の短所も咎めない。国家社会を安泰ならしめるならば、よく助けになっているものと見ることができる。私が帝位を継いで二十四年、天下泰平、内外に憂いもなく、土地肥え五穀豊穣である。密かに恐れるのは人民がこれに馴れてしまい、驕りの気持ちを起こすことである。廉節の士を選び、徳化を流布し、優れた官人を登用することは、古来、難しいとされている。我が身に思いを致し慎まなければならぬ」
と言われた。

近江毛野の死

秋九月、任那みまなの使者が奏上して、
毛野臣けなのおみ久斯牟羅くしむらに住居をつくり、滞留二年、政務も怠っています。日本人やまとびと任那人みまなびとの間に生まれた子供の帰属の争いについても、裁定の能力もありません。毛野臣けなのおみは好んで誓湯うけいゆくかたち:神意を窺う方法)を設け、『本当のことをいう者はただれないが、嘘を言う者はきっとただれる』と言って、熱湯の中に手を入れさせ、湯につけられてただれ死ぬ者が多い。また、吉備韓子那多利きびのからこなたり斯希利しふりを殺したり(日本人が朝鮮の土地の女との間に生んだ子を韓子からこという)、常に人民を悩まし、少しも融和するところがありません」
と言った。

天皇はその行状を聞き、人を遣わして召されたが、来ようとはせず、密かに河内母樹馬飼首御狩こうちのおものきのうまかいのおびとみかりを京に送り、奏上させて、
「私はまだ勅命ちょくめいを果さないのに、京に戻ったならば、期待して送り出されながら、空しく帰ることになり面目がありません。どうか任務を果して参内し、謝罪申し上げるのをお待ち下さい」
と言った。
奏上して後に、自ら謀り、
調吉士つきのきしは帝の使者である。もし私よりも先に帰り、実状を奏上すれば、私の罪科はきっと重くなるだろう」
と言い、調吉士つきのきしを遣わして、兵を率いさせ、伊斯枳牟羅城いしきむらを守らせた。

阿利斯等ありしと任那みまなの王)は、毛野臣けなのおみが小さくつまらぬことばかりして、任那みまなの復興の約束を実行しないことを知り、しきりに帰朝を勧めたが、やはり帰還することを聞き入れなかった。
阿利斯等ありしと毛野臣けなのおみの行状をすっかり知って、離反の気持ちを起こした。
久礼斯己母くれしこも新羅しらぎに送り、兵を請わせた。
また、奴須久利ぬすくり百済くだらに使いに出し、兵を請わせた。

毛野臣けなのおみ百済くだらの兵が来るのを背郡へこおりにて迎え撃った。
傷つき、死ぬ者は半ばに達した。
百済は奴須久利ぬすくりを捕虜にして、手かせ足かせ首くさりをつけて、新羅軍と共に城を囲んだ。
阿利斯等ありしとを責め罵って、
毛野臣けなのおみを出せ」
と言った。

毛野臣は城に拠り防備を固めており、容易に取れなかった。
このため二つの国は釘付けされ、一ヶ月になった。

城を築きあげて帰ったが、これを久礼牟羅城くれむらのさしという。
帰る時に道すがら、 騰利枳牟羅とりきむら布那牟羅ふなむら牟雌枳牟羅むしきむら阿夫羅あぶら久知波多枳くちはたきの五つの城を奪った。

冬十月、調吉士つきのきし任那みまなから到着し奏上して、
毛野臣けなのおみは人となりが傲慢でねじけており、政治に習熟しておりません。和解することを知らず、加羅からを掻き乱してしまいました。自分勝手にあれこれ考えて、外患を防ぐことをしません」
と言った。
そこで目頰子めずらこを遣わしてお召しになった。

この年、毛野臣は召されて対馬に至り、病に会って死んだ。
送葬の舟は、河の筋を上って近江についた。
その妻が歌った。

ヒラカタユ、フエフキノボル、アフミノヤ、ケナノワクゴイ、フエフキノボル。

枚方を通って笛を吹きながら淀川を上る。近江おうみ毛野けなの若殿が笛を吹いて淀川を上る。

目頰子めずらこが始めて任那みまなに着いたとき、そこにいた郎党どもが歌を贈った。

カラクニヲ、イカニフコ卜ゾ、メツラコキタル、ムカサクル、イキノワタリヲメツラコキタル。

韓国からくににどんなことを言おうとして、目頰子めずらこが来たのだろう。遠く離れている壱岐の海路を、わざわざ目頰子がやってきた。

継体天皇崩御

二十五年春二月、天皇は病が重くなった。

七日、天皇は磐余いわれ玉穂宮たまほのみやで崩御された。

時に 八十二歳であった。

冬十二月五日、藍野陵あいののみささぎに葬った。

ある記録によると、天皇は二十八年に崩御としている。
それをここで二十五年に崩御としたのは、百済本記によって記したのである。
その文では、
「二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城こつとくのさしを造った。この月、高麗はその王、安を殺した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子、皇子は皆、死んでしまった」
これによって言うと、辛亥の年は二十五年に当る。
後世、調べ考える人が明らかにするだろう。

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