用明天皇 橘豊日天皇
用明即位
橘豊日天皇は欽明天皇の第四子である。
母を堅塩媛(蘇我稲目の娘)という。
天皇は仏法を信じられ、神道を尊ばれた。
十四年秋八月に、敏達天皇が亡くなられた。
九月五日に用明天皇は即位された。
磐余の地に宮を造られた。
名づけて池辺双槻宮という。
蘇我馬子を大臣とし、物部弓削守屋を大連とすることはもとの通りであった。
十九日に詔して、云々といわれた。須加手姫皇女を伊勢神宮に遣わし、斎宮として天照大神にお仕えさせられた。
この皇女は、この天皇の御時から推古天皇の御代まで皇大神宮にお仕えし、後年、母の里の葛城に退いて亡くなられた、と推古天皇紀に見える。
ある本に、この皇女は三十七年間も大神にお仕えした後、自ら退いて亡くなられたとある。
元年春一月一日、穴穂部間人皇女を立てて皇后とした。
この人は四人の男子をお生みになった。
一番目を厩戸皇子という。
またの名を豊耳聡聖徳という。
あるいは豊聡耳法大王という。
あるいは法主王という。
この皇子は初め上宮にお住みになった。
のちに斑鳩に移られた。
推古天皇の御世に皇太子となられた。
すべての政務を統括して、天皇の代理をされた。
そのことは推古天皇紀にある。
二番目を来目皇子という。
三番目を殖栗皇子という。
四番目を茨田皇子という。
蘇我大臣稲目宿禰の娘である石寸名を嬪とされた。
この人は田目皇子をお生みになった。
またの名は豊浦皇子。
葛城直磐村の娘である広子は、一男一女をお生みになった。
男子を麻呂子皇子という。
これは当麻公の先祖である。
女は酢香手姫皇女という。
この人は三代の天皇にわたって、日神(天照皇大神宮)にお仕えした。
三輪逆の死
夏五月、穴穂部皇子(欽明天皇の皇子)が炊屋姫皇后(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯そうとして、皇后が天皇の殯宮におられるところへ押し入った。
天皇の寵臣であった三輪君逆が、兵衛を呼んで宮門(みかど)をさしかためて、防いで入れなかった。
穴穂部皇子は尋ねた。
「誰がここにいるのか」
兵衛は答えた。
「三輪君逆がいます」
七度も、
「門を開けよ」
と呼んだが、逆はついに開けなかった。
そこで穴穂部皇子は蘇我馬子と物部守屋に、
「逆は甚だしく無礼である。殯宮の庭で誄(死者の徳を称える言葉)を読み、『朝庭を荒さぬよう鏡の面の如く浄めお仕えし、私奴がお守り申します』という。これが無礼である。今、天皇の子弟は多く、両大臣もいるのだ。誰が自分勝手に、私だけでお守りしますと言えようか。また、私が殯宮の内を見ようと思っても、防いで入れてくれない。『門を開けよ』と七度も呼んだが答えがない。許せぬことだ。斬り捨てたいと思う」
と語った。
両大臣は、
「仰せのままに」
と言った。
穴穂部皇子は、密かに天下に王たらんことを企てて、口実を設けて逆君を殺そうという下心があった。
ついに物部守屋大連と、兵を率いて磐余の池辺を囲んだ。
逆君は本拠の三輪山に逃れた。
この日の夜中にこっそり山を出て、後宮(敏達天皇の皇后の宫)に隠れた(海石榴市宮である)。
逆の一族の白堤と横山が、逆君の居場所を明かした。
穴穂部皇子は守屋大連を遣わしていうのに(ある本には、穴穂部皇子と泊瀬部皇子が計画して、守屋大連を遣わしたとある)、
「お前が行って、逆君とその二人の子を共に殺せ」
と命じた。
大連はついに兵を引き連れて行った。
蘇我馬子宿禰は、よそにいてこのことを聞き、皇子のところに参り、門のところで逢った。
大連のところへ行こうとしていたので、皇子を諫めて、
「王者は刑を受けた人を近づけないと申します。自らお出でになってはいけません」
と言った。
皇子は聞かないで出かけた。
馬子宿禰はやむなくついて行った。
磐余に至り、しきりに諫めた。
皇子は諫めに従って諦め、その場所で床几に深く腰をおろして、大連の知らせを待った。
大連はしばらくしてやってきた。
兵を率いて来り、復命して、
「逆らを斬って参りました」
と言った。
ある本には、穴穂部皇子が自ら赴き射殺したとある。
馬子宿禰は驚き嘆いて、
「天下は程なく乱れるだろう」
と言った。
大連はこれを聞いて、
「お前ら小物には分らぬことだ」
と言った。
この三輪君逆は、敏達天皇が寵愛され、すべて内外のことを任せられたものであった。
このため炊屋姫皇后と馬子宿禰は、共に穴穂部皇子を恨むようになった。
この年、太歳丙午。
天皇病む
二年夏四月二日、磐余の河上で、新嘗の大祭が行なわれた。
この日、天皇は病にかかられて宫中に帰られた。
群臣がおそばに侍り、天皇は群臣に言われた。
「私は仏、法、僧の三宝に帰依したいと思う。卿らもよく考えて欲しい」
群臣は参内して相談した。
物部守屋大連と中臣勝海連は、勅命の会議に反対して、
「どうして国つ神に背いて、他国の神を敬うことがあろうか。大体、このようなことは今まで聞いたことがない」
と言った。
蘇我馬子大臣は、
「詔に従ってご協力すべきである。誰がそれ以外の相談をすることになろうか」
と言った。
穴穂部皇子は豊国法師をつれて、内裏に入られた。物部守屋大連は、これを睨んで大いに怒った。このとき押坂部史毛屎が慌ててやってきて、こっそりと大連に告げて、
「今、群臣たちは、あなたを陥れようとしています。今にもあなたの退路を絶ってしまうでしょう」
と言った。
大連はこれを聞き、別業のある河内の阿都に退いて人を集めた。
中臣勝海連は自分の家に兵を集め、大連を助けようとした。
ついに太子彦人皇子の像と竹田皇子の像を作ったまじないをかけて呪った。
少し経ってから事の成り難いことを知り、帰って彦人皇子の水派宮の方へ着いた。
舍人迹見檮は、勝海連が彦人皇子の所から退出するのを伺って、刀を抜き、殺した。
大連は阿都の家から、物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を使者に出し、馬子大臣に語らせて、
「私は群臣が、私を図ろうとしていると聞いた。だからここに退いたのである」
と言った。
馬子大臣は、土師八島連を大伴毗羅夫連のところに使わし、つぶさに大連の言葉を述べさせた。
これによって毗羅夫連は、手に弓箭と皮楣をとって、槻曲の大臣の家に行って、昼夜を分たず大臣を守った。
天皇の痘瘡はいよいよ重くなった。
亡くなられようとするときに、 鞍部多須奈が前に進み出て、
「私は天皇のおんために出家して修道致します。また、丈六の仏(大きな仏像の意)と寺をお造り申しましょう」と奏上した。
天皇は悲しんで大声で泣かれた。
現在、南淵の坂田寺にある木造の丈六の仏と脇侍の菩薩がこれである。
九日、天皇は大殿で崩御された。
秋七月二十一日、磐余池上陵(いわれのいけのえのみささぎ)に葬り祀った。
崇崚天皇 泊瀬部天皇
穴穂部皇子の死
泊瀬部天皇は欽明天皇の第十二子である。
母を稲目宿禰の娘の小姉君という。
二年夏四月、用明天皇が崩御された。
五月、物部大連の軍兵が、三度も人々を驚かし騒がせた。
大連は、当初は他の皇子たちを顧みず、穴穂部皇子を立てて天皇にしようとした。
しかし、今になって、狩猟をすることにかこつけて、自分の都合で立て替えようと思い、こっそり人を穴穂部皇子のもとに遣わして、
「願わくば、皇子と共に淡路で狩猟をしたいと思います」
と言った。
しかし、謀が漏れた。
六月七日、蘇我馬子宿禰らは、炊屋姫尊を奉じて、佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真嚙に詔して、
「お前達は兵備を整えて急行し、穴穂部皇子と宅部皇子を殺せ」
と命じた。
この日の夜中に、佐伯連丹経手らは、穴穂部皇子の宮を囲んだ。
兵士はまず楼の上に登って、穴穂部皇子の肩を射た。
皇子は楼の下に落ちて、そばの部屋へ逃げこんだ。
兵士らは火を灯して皇子を見つけ出し、殺した。
八日、宅部皇子を殺した。
宅部皇子は宣化天皇の皇子で上女王の父である。
しかし詳しくは分らない。
皇子が穴穂部皇子と仲が良かったので殺したのである。
二十一日、善信尼らは大臣(馬子)に語って、
「出家の途は、受戒することが根本であります。願わくば百済に行って、受戒の法を学んできたいと思います」
と言った。
この月、百済の調使が来朝したので、大臣は使人に語って、
「この尼達を連れてお前の国に渡り、受戒の法を習わせて欲しい。終わったならば還らせるように」
と言った。
使者は答えて、
「私共が国に帰って、まず国王に申し上げましょう。それから出発させても遅くないでしょう」
と言った。
物部守屋の敗北と捕鳥部万
秋七月、蘇我馬子宿禰大臣は、諸皇子と群臣とに勧めて、物部守屋大連を滅ぼそうと謀った。
泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子、難波皇子、春日皇子、蘇我馬子宿禰大臣、紀男麻呂宿禰、巨勢臣比良夫、膳臣賀陀夫、葛城臣烏那羅らが、一緒になって軍勢を率い、大連を討った。
大伴連嚙、阿倍臣人、平群臣神手、坂本臣糠手、春日臣、これらは軍兵を連れて志紀郡から守屋の渋河の家に至った。
大連は自ら子弟と奴の兵士たちを率いて、稲を積んだ砦を築いて戦った。
大連は衣摺の地の複の木股に登って、上から眺め射かけることは雨のようであった。
その軍は強く勢が盛んで、家に満ち野に溢れた。
皇子たちと群臣の軍は弱くて、恐れをなし三度退却した。
このとき厩戸皇子は瓠形の結髪をして、軍の後に従っていた。
何となく感じて、
「もしかすると、この戦いは負けるかも知れない。願をかけないと叶わないだろう」
と言われた。
そこで白膠木を切りとって、急いで四天王の像を作り、束髪の上に乗せ、誓いを立てて言われた。
「今、もし私を敵に勝たせて下さったら、必ず護世四王のため寺塔を建てましょ う」
と言われた。
蘇我馬子大臣もまた誓いを立て、
「諸天王と大神王たちが我を助け守って勝たせて下さったら、諸天王と大神王のために、寺塔を建てて三宝を広めましょう」
と言った。
誓い終って武備を整え進撃した。
迹見首赤檮が大連を木の股から射落して、大連とその子らを殺した。
これによって大連の軍は、たちまち自然に崩れた。
兵たちはこぞって賤しい者の着る黒衣をつけ、広瀬の勾原に狩りをしているように装って逃げ散った。
この戦役に大連の子と一族とは、あるいは葦原に逃げ隠れ、姓を改め名を変える者もあった。
あるいは逃げ失せて逃亡先も分らなかった。
当時の人は語り合って言った。
「蘇我大臣の妻は、物部守屋の妹だ。大臣は軽々しく妻の計を用いて、大連を殺した」
乱が収まって後に、摂津国に四天王寺を造った。
大連の家の奴(奴隷)の半分と、居宅とを分けて、 大寺(四天王寺)の奴と田荘にした。
田を一万代(一代は百畝)を迹見首赤檮に賜わった。
蘇我大臣は誓願の通りに、飛鳥の地に法興寺(飛鳥寺)を建てた。
物部守屋大連の近侍である捕鳥部万は、百人を率いて難波の守屋の宅を守った。
しかし、大連が滅んだと聞いて、馬に乗り夜逃げして、茅淳県の有真香邑(貝塚市)に行った。
妻の家を抜けて、ついに山に隠れた。
朝廷では相談して、
「万は逆心を抱いていたため、山の中に隠れたのだ。速やかに一族を滅ぼすべきである」
となった。
万は、着物が破れ垢だらけで、顔も憔悴して、弓を持ち剣を帯びて、一人山から出てきた。
役人は数百の兵士を遣わして万を囲んだ。
万は驚いて竹藪に隠れた。
縄を竹につないで引き動かし、自分が逃げ込んだ所を誤魔化した。
兵士たちは欺かれて、揺れ動く竹を目がけて馳けつけ、
「万はここにいる」
と言った。
すると万は矢を放った。
一つとして当らぬものはなかった。
兵士らは恐れて、敢えて近づけなかった。
万は弓の弦を外して脇に挟み、山に向って逃げた。
兵士らは河を挟んで追いかけ、射た。
皆、当てることができなかった。
この時、一人の兵士があり、早く駆けて万の先方に出て、河のそばに伏して、弓に矢をつがえ、万の膝に射当てた。
万は矢を抜きとり、弓を引き矢を放った。
地に伏して呼びかけて言った。
「万は天皇の御楯として、その勇を表そうとしたが、聞いて頂けず、かえってこの窮地に追いこまれてしまった。共に語るに足る人は来い。私を殺そうとするのか捕えようとするのか聞きたい」
兵士らは競い合って万を射た。
万は即座に飛んでくる矢を払い防ぎ、三十余人を殺した。
また持っていた剣で、その弓を三段に切り砕き、その剣を押し曲げて河中に投じた。
別に小刀で自ら頸を剌して果てた。
河内国司は、万の最期の有様を朝廷に報告した。
朝廷は牒符(命令書)を下して述べ、
「八つ切りにして、八つの国に串刺しにしてさらせ」
と命じた。
河内国司が指示に従い、これを切り串刺しにする時に、雷鳴が轟き、大雨が降った。
万が飼っていた白犬があった。
屍のほとりをぐるぐる回り、天に向って吠えた。
やがて万の頭を咥え出して、古い墓に収めた。
犬は頭のそばに横臥して、ついに飢え死んだ。
河内国司はその犬をいぶかしく思って、検べて朝廷に報告した。
哀れに堪えず思われた朝廷では、布告を下し褒められて、
「この犬は世にも珍しい犬である。後世に示すべきだ。万の同族に命じて墓を造り葬らせよ」
と言われた。
これによって万の一族が有真香邑に墓を並べて造り、万と犬とを葬った。
河内国司はまた、
「餌香の川原に殺された人があり、数えると数百もあります。屍体は腐爛して名前も分かりません。ただ衣の色を見てその躯を引き取っています。ところが、桜井田部連胆淳が飼っていた犬は、躯を咥え続けて横たわり、しっかりと守っていました。自分の主を墓に収めさせて、初めて離れて行きました」
と報告した。
八月二日、炊屋姫尊と群臣が、天皇に勧めて即位の礼を行った。
蘇我馬子宿禰を前のように大臣とした。
群卿の位もまた元の如くであった。
この月に、倉梯に宮殿を造った。
元年春三月、大伴糠手連の娘である小手子を立てて妃とした。
蜂子皇子と錦代皇女をお生みになった。
法興寺の創建
この年、百済が使いに合せて、僧である恵総、令斤、恵寔(寔の本来の漢字は、穴冠に是)らを遣わして、仏舎利を献上した。
百済国は、恩率首信、徳率蓋文、那率福富味身らを遣わして調を献上し、同時に仏舍利と僧の聆照律師、令威、恵衆、恵宿、道厳、令開らと、寺院建築工である太良未太、文賈古子、鑪盤博士の将徳白昧淳、瓦博士の麻奈文奴、陽貴文、悛貴文、昔麻带弥、画工の白加を奉った。
蘇我馬子宿禰は百済の僧たちに、受戒の法を請い、善信尼らを、百済の使者である恩率首信らにつ けて、学問をさせるため発たせた。
飛鳥衣縫造の先祖の樹葉の家を壊して、はじめて法興寺を造った。
この地を飛鳥の真神原と名づけた。
または飛鳥の苫田ともいう。
この年、太歳戊申。
二年秋七月一日、近江臣満を東山道の使者として遣わし、蝦夷の国の国境を視察させた。
宍人臣雁を東海道の使者とし、東方の海辺の国を視察させた。
阿倍臣を北陸道の使者とし、越などの諸国の境を視察させた。
三年春三月、学問僧の善信尼らが百済から帰って、桜井寺(別名、向原寺)に住んだ。
冬十月、山に入って寺(法興寺)の用材を伐った。
この年、出家した尼は、大伴狭手彦連の娘である善徳、大伴狍の夫人である新羅媛善妙、百済媛妙光、漢人の善聡、善通、妙徳、法定照、善智聡、善智恵、善光らである。
鞍部司馬達等の子である多須奈も同時に出家した。
名づけて徳斉法師という。
四年夏四月十三日、敏達天皇を磯長陵に葬った。
これはその母の皇后の葬られた陵である。
秋八月一日、天皇は群臣に、
「私は新羅に滅ぼされた任那を再建したいと思うが、卿等はどう思うか」
とお尋ねになった。
群臣はお答えして言った。
「任那の官家を復興すべきであります。皆、陛下の思召しと同じです」
冬十一月四日、紀男麻呂宿禰、巨勢猿臣、大伴嚙連、葛城烏奈良臣を、大将軍に任じ、各氏族の臣や、連を副将や隊長とし、二万余の軍を従えて、筑紫に出兵した。
吉士金を新羅に遣わし、吉士木蓮子を任那に遣わして任那のことを問わせた。
天皇暗殺
五年冬十月四日、猪を奉る者があった。
天皇は猪を指さしておっしゃった。
「いつの日か、この猪の頸を斬るように、私が憎いと思うところの人を斬りたいものだ」
朝廷で武器を集めることが、いつもとどうも違っていることがあった。
十日、蘇我馬子宿禰は、 天皇が仰せられたという言葉を聞いて、自分を嫌っておられることを警戒した。
一族の者を招集して、天皇を殺すことを謀った。
この月、大法興寺(飛鳥寺)の仏堂と歩廊の工を起こした。
十一月三日、馬子宿禰は群臣を騙して言った。
「今日、東の国から調を奉ってくる」
そして東漢直駒を使者として、天皇を殺し奉った。
ある本には、東漢直駒は、東漢直磐井の子であるとある。
この日、天皇を倉梯岡陵に葬った。
ある本には、大伴嬪小手子が、寵愛の衰えたことを恨んで、人を蘇我馬子宿禰のもとに送り、
「この頃、猪を奉った者がありました。天皇は猪を指さして、『猪の頸を斬る如くに、いつの日か、私が思っているある人を斬りたい』と言われました。また、内裏に多くの武器を集めておられます」
と告げた。
これを聞いて馬子宿禰はたいへん驚いたとある。
五日、早馬を筑紫の将軍たちのところに遣わして、
「国内の乱れによって、外事を怠ってはならぬ」
と伝えた。
この月、東漢直駒は、蘇我嬪河上娘(崇峻天皇の嬪)を奪って自分の妻とした。
馬子宿禰は、たまたま河上娘が駒に盗まれたことを知らないで(河上娘は馬子の娘)、死んだものかと思っていた。
駒は嬪を汚したことが露見し、大臣によって殺された。
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