日本書紀・日本語訳「第二十三巻 舒明天皇」

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舒明天皇 息長足日広額天皇

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皇嗣問題難航

息長足日広額天皇おきながたらしひひろのぬかのすめらみことは、敏達天皇びだつてんのうの孫、彦人大兄皇子ひこひとのおおえのみこの子である。
母を糠手姫皇女ぬかでひめのひめみこという。

推古天皇すいこてんのうの二十九年、聖徳太子しょうとくたいし薨去こうきょされた。
けれども後の皇太子を立てられないまま、三十六年三月、天皇が崩御された。

九月に葬礼が終ったが皇位はまだ定まらなかった。

このとき、蘇我蝦夷臣そがのえみしのおみ大臣おおおみであった。
ひとりで皇嗣を決めようと思ったが、群臣こおりおみが承服しないのではないかと恐れた。
阿倍麻呂臣あべのまろのおみはかり、群臣を集めて大臣の家で饗応した。

食事が終って散会しようとするときに、蝦夷えみし阿倍臣あべのおみに命じ、群臣こおりおみに語らせて、
「今,天皇は崩御されたままで後継者がない。もし速やかに決めなかったら、乱れがあろうかと恐れる。ところで、何れの王を日嗣とすべきであろうか。推古天皇が病臥なさった日に、田村皇子たむらのみこみことのりして、『天下を治めるということは大任である。たやすく言うべきものではない。田村皇子よ、慎重によく物事を見通すようにして、しっかりとやりなさい』と仰せられた。次に山背大兄皇子やましろのおおえのみこに詔して、『お前はやかましく騒いではならぬ、必ず群臣の言葉に従って慎しんで道を誤たぬように』と言われた。これが天皇のご遺言である。さて、誰を天皇とすべきだろうか」
と言った。
群臣は黙って答えることがなかった。
もう一度尋ねたが答えはなかった。
強いてまた問うと、大伴鲸連おおとものくじらのむらじが進み出て、
「天皇の遺命のままにすべきでしょう。このうえ、群臣の意見を待つまでもないでしょう」
と言った。
阿倍臣あべのおみは,
「どういうことなのか、思うことをはっきり述べよ」
と言った。
それに答えて、
「天皇はどのように思われて、田村皇子たむらのみこに詔して、『天下を治めることは大任である。しっかりやるように』と言われたのでしょう。このお言葉からすれば、皇位は決まったと同じです。 誰も異議をいうものはないでしょう」
と言った。

そのとき、采女うねめ臣摩礼志おみまれし高向臣宇摩たかむこのおみうま中臣連弥気なかとみのむらじみけ難波吉士身刺なにわのきしむさしの四人の臣が、
「大伴連の言葉の通りまったく異議はありません」
と言った。
許勢臣大麻呂こせのおみおおまろ佐伯連東人さえきのむらじあずまひと紀臣塩手きのおみしおての三人が進み出て、
山背大兄王やましろのおおえのおおきみ、この人を天皇とすべきである」
といった。
ただ、蘇我倉麻呂臣そがのくらまろのおみだけは、
「私はここで即座に申すことができません。もう少し考えて後に申しましょう」
と言った。
蝦夷大臣えみしのおおおみは群臣が折り合わず、 意見を纏めることはできぬと知って退席した。

これより先、蝦夷大臣は、ひとり境部摩理勢臣さかいべのまりせのおみ(蘇我氏の一族)に会い、
「天皇が亡くなられてまだ跡嗣がない。誰を天皇にしたらよいだろうか」
と尋ねた。
摩理勢まりせは、
山背大兄やましろのおおえを天皇に推しましよう」
と答えた。

山背大兄王の抗議

山背大兄やましろのおおえ斑鳩宮いかるがのみやにお出でになって、この議論を漏れ聞かれた。
三国王みくにのおおきみ桜井臣和慈古さくらいのおみわじこの二人を遣わして、こっそり大臣に、
「噂に聞くと叔父上(蝦夷)は、田村皇子たむらのみこを天皇にしよ うと思っておられるということですが、自分はこのことを聞いて、立って思い、座って思っても、まだその理由が分かりません。どうかはっきりと叔父上の考えを知らせて下さい」
と言われた。

蝦夷大臣えみしのおおおみ山背大兄やましろのおおえの訴えに自分からは返答しかねた。
阿倍臣あべのおみ麻呂まろ)、中臣連なかとみのむらじ弥気みけ)、紀臣きのおみ塩手しおて)、河辺臣かわべのおみ禰受ねず)、高向臣たかむこのおみ宇摩うま采女臣うねめのおみ摩礼志まれし)、大伴連おおとものむらじくじら)、許勢臣こせのおみ大麻呂おおまろ)らを呼んで、つぶさに山背大兄の言葉を説明した。
そしてまた蝦夷は大夫まえつきみたちに、
太夫だいぶたちは共に斑鳩宮いかるがのみやに参って、山背大兄やましろのおおえに『賤しい私(蝦夷)がどうしてたやすく皇嗣を定められましょうか。ただ、天皇の遺詔ゆいしょう群臣こおりおみに告げるだけです。群臣らの言うには天皇の遺詔の如くならば、田村皇子がどうしても皇嗣になられるべきです。誰も異議はありませぬと。これは群臣の言葉で、私だけの気持ちではありません。私だけの考えがあったとしても、恐れ多くて人づてには申し上げられませぬ。直接お目にかかったときに、親しく申しましょう』とこのように申し上げよ」
と言った。
そこで大夫たちは蝦夷大臣えみしのおおおみの命を受けて、斑鳩宮いかるがのみやに参った。

三国王みくにのおおきみ桜井臣さくらいのおみを通じて、山背大兄に大臣の言葉を伝えた。
大兄王おおえのおおきみは三国王らを通じて大夫たちに、
「天皇の遺詔ゆいしょうとはどのようなことだったのか」
と言われた。
大夫まえつきみたちは、
「手前共は深いことは分りませぬが、大臣の語っておられるところによると、天皇の病臥された日、田村皇子たむらのみこみことのりして、『軽々しく行く先の国政のことを言ってはならない。それゆえ、田村皇子たむらのみこは、言葉を慎しんで心をゆるめないように』と言われ、次に大兄王おおえのおおきみに詔して、『おまえはまだ未熟であるから、あれこれと言ってはならぬ。必ず群臣の言葉に従いなさい』 と仰せられた。これはお側近くにいた女王および采女うねめなどの全部が知っていることであり、 王も明らかにご存じのことであります」
と言った。
大兄王はまた,
「この遺詔ゆいしょうは誰が聞いたのか」
と言われると、
「手前たちはそのような機密は存じませぬ」
と答えた。
そこでまた群大夫まえつきみたちに、
「親愛なる叔父上の思いやりで、一人の使者ではなく、重臣らを遣わして教え諭して下さり、大きな恵みであると思う。しかるに今、お前たちの述べる天皇のご遺言は、私の聞いたところとは少し違う。私は天皇が病臥されたとうかがって、急いで禁中に参ったのだ。 そのとき、中臣連弥気なかとみのむらじみけが中から出てきて言うのに、『天皇がお召しになっています』と。それで内門に入った。栗隈采女黒女くるくまのうねめくろめが中庭に迎えて、大殿に案内した。入ってみると近習の栗下女王くるもとのひめみこを頭として、女孺鮪女めのわらわしびめら八人と、全部では数十人のものが天皇のお側近くにいた。また、田村皇子もおられた。天皇は病が重くて、私をご覧になれなかった。栗下女王くるもとのひめみこが奏上して、『お召しの山背大兄王やましろのおおえのおおきみが参りました』と言うと、天皇は身を起こしてみことのりりされ、『私はつたない身で久しく大業を務めてきた。しかし、今まさに終ろうとしている。病は避けることができない。お前はもとから私と心の通じ合った仲である。寵愛の心は他に比べるものがない。皇位が国家にとって大切なことは、私の世に限ったことではない。お前はまだ心が未熟であるから、言葉は慎重にするように』と言われた。そこに侍っていた近習の者は皆知っている。それで私はこの有難い言葉を頂いて、一度は恐れ、一度は悲しく思った。しかし、心は躍り上り、感激して為すところを知らぬ有様であった。思うに、天子として国を治めることは重大なことである。私は若くて賢くもない。どうして大任に当たれようか。このとき、叔父や群卿まえつきみに話そうと思ったが、言うべきときがなく、今日まで言えなかった。私はかつて叔父の病気を見舞おうと思って、都(飛鳥)に行き、豊浦寺とゆらでらにいたことがある。この日、天皇は八ロ采女鮪女やくちのうねめしびめを遣わして詔りされ、『お前の叔父の大臣は、常にお前のことを心配して、いつかはきっと皇位がお前に行くのではなかろうか、と言っていた。だから行いを慎み、自愛するように』と仰せられた。すでにはっきりとこんなことがあったので、何を疑おうか。しかし、私は天下を貪る気はない。ただ、私が聞いたことを明らかにするだけである。天神地祇てんじんちぎも証明しておられる。こういうわけで、天皇の遺勅ゆいしょうを知りたく思った。また、大臣の遣わした群卿は、 もとより厳矛いかしほこ厳しい矛)をまっすぐに立てるように、臣下の申し上げることを公正に伝えることを務めとする人々である。それ故、よく叔父に申し伝えて欲しい」
と言われた。

別に、泊瀬仲王はつせのなかみこ(山背大兄の異母弟)は、中臣連なかとみのむらじ河辺臣かわべのおみを呼んで、
「誰でも知っているように、我ら父子(聖徳太子とその子たち)は皆、蘇我そが氏から出ている。それゆえ、蘇我を高い山の如く頼みにしている。どうか皇嗣こうしのことについては、あまり言わないようにして欲しい」
と言われた。

山背大兄やましろのおおえ三国王みくにのおおきみ桜井臣さくらいのおみ群臣こおりおみに付き添わせて大臣のもとに遣わし、
「お返事をお聞かせ下さい」
と言われた。
蝦夷大臣えみしのおおおみ紀臣きのおみ大伴連おおとものむらじとを通じて、三国王みくにのおおきみ桜井臣さくらいのおみに、
「先日すでに申し上げた通りで、何も変ったことはございません。しかし、私がどうしてどの王を軽んじ、どの王を重んずるということがありましょうか」
と言った。

何日か経ってから、山背大兄やましろのおおえはまた桜井臣さくらいのおみを遣わして大臣おおおみに、
「先日のことは私の聞いたこ とを述べただけです。どうして叔父上に違うことがありましょうか」
と言われた。
この日、大臣おおおみは病が起きて、直接桜井臣さくらいのおみにものを言うことができなかった。

翌日、大臣は桜井臣を呼び、阿倍臣あべのおみ中臣連なかとみのむらじ河辺王かわべのおおきみ小墾田臣おはりだのおみ大伴連おおとものむらじを遣わし、山背大兄やましろのおおえに、
欽明天皇きんめいてんのうの御世から現在に至るまで、群卿まえつきみは皆、賢明でよく尽した。ただ、私は不賢にもかかわらず、たまたま人が乏しかったので、間違って群臣の上にいるだけです。それで物事の決定にも手間どりますが、 今回のことは重大です。人伝てには申し上げられませんので、年老いた身ではありますが、 直接お目にかかって申し上げましょう。ただ、遺勅ゆいしょうに反しないようにということで、私意をはさむものではありませぬ」
と言った。

境部摩理勢の最期

一方で大臣は、阿倍臣あべのおみ中臣連なかとみのむらじを通じて、もう一度、境部臣さかいべのおみ摩理勢まりせ)に、
「どの王を天皇にしたらよいか」と尋ねた。
すると、
「先日大臣が親しく問われた時に、私の申し上げることは終りました。今更また申すことはありませぬ」
と言った。
そして大いに怒り、座を立って行った。
たまたまこのとき、蘇我そが一族が皆集まって、馬子大臣うまこのおおおみのために墓を造るべく、墓の地に宿っていた。
摩理勢臣まりせのおみは墓所のいおりを打ち壊し、蘇我の田家たどころ私有地)へ退去し、墓所に仕えようとしなかった。
大臣はこれを怒って、身狹君勝牛むさのきみかつし錦織首赤猪にしこりのおびとあかいを遣わして、教えて、
「私はお前の言うことが正しくないとわかっても、親戚のよしみでお前を貴めることはしない。ただし、他人が間違っていてお前が正しいのなら、私は必ず他人に逆らってもお前に従うだろう。もし他人が正しくお前が間違っているなら、私はお前に背いて、他人に同意するだろう。この道理でお前がついに従わないのなら、自分はお前と離れるだろう。国む乱れよう。後世の人が二人は国を損ったというだろう。これは後代への不名誉である。慎しんで間違った心を起こすべきではない」
と言った。
しかしそれにも従わず、ついに斑鳩いかるがに赴き、泊瀬王の宮はつせのみこのみやに住んだ。
大臣はますます怒って、群卿まえつきみを遣わして山背大兄やましろのおおえに伝えて、
「この頃、摩理勢まりせは私に背いて、泊瀬王の宮に隱れています。どうか摩理勢を頂いて、わけを調べさせていただきたい」
と言った。
すると大兄王は答えて、
摩理勢まりせはもとから太子の可愛がられたもので、今しばらく身を寄せているだけなのです。叔父上の心に背く気はありませんが、どうかお咎めにならないで下さい」
と言われた。
摩理勢には、
「お前は先王(太子)の恩を忘れず、こちらへ来たことは愛すべきである。しかし、お前一人のために、天下が乱れるだろう。また先王が臨終の折、子たちに語って、『諸の悪を行なってはならぬ。諸の善を行ない奉るよう』と仰せられた。私はこの言葉を承って永く戒めとしている。それで私情としては受け入れがたいことがあっても、辛抱して怨みには思わない。また、私としても叔父に背くことはできない。どうか今からでもよい、気にすることなく、心を改め皆に従うがよい。勝手に退出してきてはいけない」
と言われた。

そこで大夫まえつきみらもまた摩理勢臣まりせのおみに教えて、
「大兄王の命に違ってはならぬ」
と言った。
摩理勢臣は依るべきところがなく、泣きつつまた家に帰り、閉じ籠もること十日あまりすると、泊瀬王はにわかに発病して亡くなられた。
摩理勢臣は、
「私は誰を頼りにして生きていけばよいのか」
なげいた。
大臣おおおみ境部臣さかいべのおみを殺そうと思って、兵を遣わした。
境部臣は兵士の来たことを聞いて、中の子にあたる阿椰あやを率い、門に出て床几にかけて待っていた。
そこへ軍兵が押し寄せ、来目物部伊区比くめのもののべのいくひに命じて、摩理勢を絞殺させた。
父子共に死に、同じ所に埋められた。
ただ、長子の毛津だけは、尼寺の瓦舍に逃げ隠れた。
そこで尼一人二人を犯した。
一人の尼がこれを表沙汰にした。
寺を囲んで捕えようとすると、逃げて畝傍山うねびやまに潜った。
山を探ると毛津は逃げ場を失い、自ら頸を刺して山の中で死んだ。
当時の人は童謡に歌っていった。

一方で大臣おおおみは、阿倍臣あべのおみ中臣連なかとみのむらじを通じて、もう一度、境部臣さかいべのおみ摩理勢まりせ)に、
「どの王を天皇にしたらよいか」と尋ねた。
すると、
「先日大臣が親しく問われた時に、私の申し上げることは終りました。今更また申すことはありませぬ」
と言った。
そして大いに怒り、座を立って行った。
たまたまこのとき、蘇我そが一族が皆集まって、馬子大臣うまこのおおおみのために墓を造るべく、墓の地に宿っていた。
摩理勢臣まりせのおみは墓所のいおりを打ち壊し、蘇我の田家たどころ私有地)へ退去し、墓所に仕えようとしなかった。
大臣はこれを怒って、身狹君勝牛むさのきみかつし錦織首赤猪にしこりのおびとあかいを遣わして、教えて、
「私はお前の言うことが正しくないとわかっても、親戚のよしみでお前を貴めることはしない。ただし、他人が間違っていてお前が正しいのなら、私は必ず他人に逆らってもお前に従うだろう。もし他人が正しくお前が間違っているなら、私はお前に背いて、他人に同意するだろう。この道理でお前がついに従わないのなら、自分はお前と離れるだろう。国む乱れよう。後世の人が二人は国を損ったというだろう。これは後代への不名誉である。慎しんで間違った心を起こすべきではない」
と言った。
しかしそれにも従わず、ついに斑鳩いかるがに赴き、泊瀬王の宮はつせのみこのみやに住んだ。
大臣おおおみはますます怒って、群卿まえつきみを遣わして山背大兄やましろのおおえに伝えて、
「この頃、摩理勢まりせは私に背いて、泊瀬王の宮に隱れています。どうか摩理勢を頂いて、わけを調べさせていただきたい」
と言った。
すると大兄王は答えて、
摩理勢まりせはもとから太子の可愛がられたもので、今しばらく身を寄せているだけなのです。叔父上の心に背く気はありませんが、どうかお咎めにならないで下さい」
と言われた。
摩理勢には、
「お前は先王(太子)の恩を忘れず、こちらへ来たことは愛すべきである。しかし、お前一人のために、天下が乱れるだろう。また先王が臨終の折、子たちに語って、『諸の悪を行なってはならぬ。諸の善を行ない奉るよう』と仰せられた。私はこの言葉を承って永く戒めとしている。それで私情としては受け入れがたいことがあっても、辛抱して怨みには思わない。また、私としても叔父に背くことはできない。どうか今からでもよい、気にすることなく、心を改め皆に従うがよい。勝手に退出してきてはいけない」
と言われた。

そこで大夫らもまた摩理勢臣まりせのおみに教えて、
「大兄王の命に違ってはならぬ」
と言った。
摩理勢臣は依るべきところがなく、泣きつつまた家に帰り、閉じ籠もること十日あまりすると、泊瀬王はつせのおおきみはにわかに発病して亡くなられた。
摩理勢臣は、
「私は誰を頼りにして生きていけばよいのか」
なげいた。
大臣おおおみ境部臣さかいべのおみを殺そうと思って、兵を遣わした。
境部臣は兵士の来たことを聞いて、中の子にあたる阿椰あやを率い、門に出て床几にかけて待っていた。
そこへ軍兵が押し寄せ、来目物部伊区比くめのもののべのいくひに命じて、摩理勢を絞殺させた。
父子共に死に、同じ所に埋められた。
ただ、長子ちょうし毛津けつだけは、尼寺あまでら瓦舍がしゃに逃げ隠れた。
そこで尼一人二人を犯した。
一人の尼がこれを表沙汰にした。
寺を囲んで捕えようとすると、逃げて畝傍山うねびやまに潜った。
山を探ると毛津けつは逃げ場を失い、自ら頸を刺して山の中で死んだ。
当時の人は童謡に歌っていった。

ウネビヤマ、コダチウスケド、タノミカモ、ケツノワクコノ、コモラセリケム。

畝傍山うねびやまは木立が少いのに、それをも頼みに思って、毛津けつの若子は籠っておられたのだろうか。
※山背大兄の方は味方も少いのに、それを頼りにした哀れさに同情した気持が流れている。

舒明天皇の即位

元年春一月四日、大臣おおおみ群卿まえつきみは、皇位の璽印みしるし(鏡と剣)を田村皇子たむらのみこに奉った。
すると皇子は辞退して、
「天皇として国を治めることは重大なことである。自分は未熟でその任に堪えない」
と言われた。
群臣こおりおみは伏してお願いして、
「先帝は王を非常に可愛がっておられました。神も人も心を寄せているのです。どうか皇統を継いで人々の上に光を与えて下さい」
と言った。
そこでその日、皇位にお就きになった。

夏四月一日、田辺連たなべのむらじ掖玖やく(屋久島)に遣わした。
この年、太歳己丑たいさいつちのとうし

二年春一月十二日、宝皇女たからのひめみこ(皇極天皇・斉明天皇)を立てて皇后とした。
皇后は二男一女をお生みになった。
第一は葛城皇子かずらきのみこ(天智天皇)、第二は、間人皇女はしひとのひめみこ(孝徳天皇の皇后)、第三は大海皇子おおあまのみこ(天武天皇)である。

夫人の蘇我馬子そがのうまこの娘である法提郎媛ほてのいらつめは、古人皇子ふるひとのみこ(大兄皇子とも名づける)をお生みになった。
また吉備国きびのくに蚊屋采女かやのうねめを召して、蚊屋皇子かやのみこを儲けられた。

三月一日、高麗こま大使たいしである宴子抜あんしばい小使しょうしである若徳にゃとくと百済の大使である恩率素子おんそつすし、小使である徳率武徳とくそつむとくが共に朝貢した。

遣唐使

秋八月五日、大仁犬上君三田耜だいにんいぬかみのきみみたすき大仁薬師恵日だいにんくすしのえにち大唐おおもろこしに遣わした。八日、高麗こま百済くだらの客に朝廷で饗応された。

九月四日、高麗と百済の客は帰国した。
この月、田部連たべのむらじらは掖玖やくより帰った。

冬十月十二日、天皇は飛鳥岡あすかのおかのほとりにお移りになった。
これを岡本宫おかもとのみやという。
この年、改めて難波なにわ大郡なにわのおおごおり三韓みつのからひとの館を修理した。

三年春二月十日、掖玖やくの人が帰化した。

三月一日、百済王、義慈ぎじは王子である豊章ほうしょうを人質として送ってきた。

秋九月十九日、摂津国せっつのくに有馬ありまの湯へ行幸された。

冬十二月十三日、天皇が有馬から帰られた。

四年秋八月、大唐おおもろこし中国・唐)は高表仁こうひょうじんを遣わして、三田耜みたすきを送らせた。
共に対馬つしまに泊った。
このとき、学問僧の霊雲りょううん僧旻そうみんおよび勝鳥養すぐりのとりかい新羅しらぎの送使らがこれに従った。

冬十月四日、もろこしの使者である高表仁こうひょうじんらが難波津なにわづに泊った。
大伴連馬養おおとものむらじうまかいを遣わして、江ロえぐちに迎えさせた。
船三十二艘をそろえ、つづみをうち、ふえをふき、旗幟はたを飾って装いを整えた。
そして高表仁こうひょうじんらに、
もろこしの天子の遣わされた使者が、天皇の朝廷にお出でになったと聞き、お迎えさせます」
とお言葉を伝えると、高表仁は、
「風の吹きすさぶこのような日に、船を装ってお迎え頂きましたこと、嬉しくまた恐縮に存じます」と言った。

難波吉士小槻なにわのきしおつき大河内直矢伏おおしこうちのあたいやふしに命じて先導させ、館の前に案内し、伊岐史乙等いきのふびとおと難波吉士八牛なにわのきしやつしを遣わして、客たちを伴って館に入らせた。
その日、神酒みわを賜わった。

五年春一月二十六日、大唐おおもろこしの客人の高表仁こうひょうじんらは国に帰った。
送使の吉士雄摩呂きしのおまろ黒麻呂くろまろらは対馬つしままで送って帰った。

災異多発

六年秋八月、長い星が南の方角に見えた。
人々は彗星ほうきぼしだと言った。

七年春三月、彗星は廻って東の方に見えた。

夏六月十日、百済は達率柔たつそつぬらを遣わして朝貢をした。

秋七月七日、百済の客に朝廷で饗応をされた。
この月、変わったはす剣池つるぎのいけに生えているのを見つけた。
一本の茎に二つの花が咲いていた。

八年春一月一日、日蝕にっしょくがあった。

三月、采女うねめを犯した者を取り調べて、皆処罰した。
三輪君小鷦鷯みわのきみおさざきは取り調べられたことを苦にしてくびを刺して死んだ。

夏五月、長雨があって洪水になった。

六月、岡本宮おかもとのみやが火災で焼けた。
天皇は臨時の田中宮たなかのみやに移られた。

秋七月一日、大派王おおまたのおおきみ(敏達天皇の皇子)が蝦夷大臣えみしのおおおみに語って、
群卿まえつきみ百寮もものつかさが、朝廷への出仕を怠けている。今後は卯の時(午前六時)の始めに出仕し、巳の時(十時)の後に退出させよう。鐘で時刻を知らせるように」
と言われた。
しかし大臣おおおみは賛成しなかった。

この年、ひどい旱魃かんばつがあって、国中が飢えた。

九年春二月二十三日、大きな星が東から西に流れ、雷に似た大きな音がした。
人々は、
「流れ星の音である」
と言い、あるいはまた、
地雷つちのいかづちである」
と言った。

僧旻そうみんは「流れ星ではない。これは、天狗である。その吠える声が雷に似ているだけだ」
と言った。

三月二日、日蝕にっしょくがあった。

この年、蝦夷えみしが背いて入朝しなかった。
大仁上毛野君形名だいにんかみつけののきみかたなを召して、将軍として討たされた。
しかし、かえって蝦夷のために討たれ、逃げて砦に入った。

ついに敵のために囲まれた。
軍勢は逃亡してしまい、砦は空になり、将軍は成すすべを知らなかった。

ちょうど日が暮れ、かきを越えて逃げようとした。
このとき、形名君きみかたなの妻がなげいて、
「忌々しいことだ。蝦夷のために殺されてしまうとは」
と夫に語って、
「あなたの先祖の方々は青海原あおうなばらを渡り、万里の道を踏み越えて、海の彼方に国を平定し、武勇を後世に伝えました。今、あなたの先祖の名を汚せば、後世の笑いものになるでしょう」
と言った。
酒を汲んで無理に夫に飲ませ、自ら夫の剣をき、十の弓を張って、数十人の女に弦を鳴らさせた。
こうして夫も起ち上り、武器を取って進撃した。

蝦夷えみしは軍勢がなお多くいると思って、少し兵を後退させた。
そこで逃げ散らばっていた兵卒も再び集まり、また隊が整った。
蝦夷を討って大いにこれを破り、ことごとく捕虜とした。

十年秋七月十九日、大風が起こり、木を折り、家を壊した。

九月、長雨があり、桃や李の花が咲いた。

冬十月、有馬ありまの湯に行幸された。
この年、百済くだら新羅しらぎ任那みまなが朝貢した。

十一年春一月八日、天子の一行は有馬ありまから帰られた。

十一日、新嘗にいなめの祀りを行なわれた。
有馬あまりに行幸しておられ、新嘗を行なわれなかったようである。
十二日、天に雲が無いのに雷が鳴った。

二十二日、大風が吹き雨が降った。
二十五日、長い星が西北の空に見えた。
旻師みんしが、
彗星ほうきぼしである。これが現れると凶作になる」
と言った。

秋七月、みことのりして、
「今年、大宫おおみや大寺おおでらを造らせる」
と言われた。

百済川くだらがわのほとりを宮の地とした。
西国の民は大宮(百済宮くだらのみや)を造り、東国の民は大寺(百済大寺)を造った。
また書直県ふみのあたいあがたをそのための大匠おおたくみ(建築技師長)とした。

秋九月、大唐おおもろこしの学問僧である恵隠えおん恵雲えうんが新羅の送使に従って都に入った。

冬十一月一日、新羅の客に朝廷で饗応され、冠位の一級を与えられた。

十二月十四日、伊予いよの湯の宮(道後温泉)に行幸された。
この月、百済川くだらがわのほとりに九重の塔を建てた。

十二年二月七日、星が月の中に入った(これは凶事とされる)。

夏四月十六日、天皇が伊予いよから帰られ、厩坂宫うまやさかのみやにお移りになった。
五月五日、盛大な斎会を催され、僧である恵隠えおんを招いて無量寿経むりょうじゅきょうを説かせられた。

冬十月十一日、大唐おおもろこしの学問僧の清安せいあん、学生の高向漢人玄理たかむこのあやひとげんり新羅しらぎを経由して帰国した。
百済くだら新羅しらぎの朝貢使がついて一緒にきた。
それぞれにこうぶり冠位)一級を賜わった。

この月、百済宫くだらのみやにお移りになった。

十三年冬十月九日、天皇は百済宮くだらのみやで崩御された。

十八日、宮の北に殯宮もがりのみやを設けた。
これを百済の大殯おおもがりという。
この時、東宮もうけのきみ開別皇子ひらかすわけのみこ(天智天皇)は十六歳でしのびごとを読まれた。

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押坂内陵
Takanuka [CC BY 3.0], via Wikimedia Commons

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