天智天皇 天命開別天皇
救援軍渡海
天命開別天皇は舒明天皇の皇太子である。
母を天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)という。
皇極天皇の四年に、天皇は位を孝徳天皇に譲られた。
そのとき、天皇(天智天皇)を立てて皇太子とされた。
孝徳天皇は白雉五年十月にお隠れになった。
翌年に皇祖母(皇極天皇)が重祚して斉明天皇となられた。
七年七月二十四日、斉明天皇がお隠れになった。
皇太子は白の麻衣をお召しになって、即位式は挙げないで、政務をとられた。
この月に、蘇将軍(唐将蘇定方)と突厥(トルコ)の王子である契芯加力らとが水陸両道から進撃して、高麗の城下に迫った。
皇太子は長津宮(博多大津)に移ってお出でになった。
そこで海外の軍の指揮をとられることになった。
八月に、前軍の将軍である大花下の阿曇比邏夫連、小花下の河辺百枝臣ら、後軍の将軍である大花下の阿倍引田比邏夫臣、大山上の物部連熊、大山上の守君大石らを遣わして、百済を救援させ、武器や食糧を送らせられた。
ある本には、このあとに続けて、別に大山下の狭井連檳榔、小山下の秦造田来津を遣わして、百済を守護させたとある。
九月、皇太子は長津宫にあって、織冠を百済の王子の豊璋にお授けになった。
また、多臣蔣敷の妹をその妻とされた。
そして、大山下の狭井連檳榔、小山下の秦造田来律を遣わし、軍兵五千余を率いて、豊璋を本国に護り送らせた。
この豊璋が国に入ると、鬼室福信が迎えにきて、平伏して国の政をすべてお任せ申し上げた。
十二月、高麗が、
「この十二月、高麗国は極寒に襲われ、大河は氷結してしまいました。そこで唐の軍勢は雲車(雲のように高い車)や衝車(破城槌)をもって、鼓や鐘を鳴らして攻めてきました。高麗の軍勢は勇壮で、唐軍の二つの小城を奪いました。あと二つの砦だけが残りました。夜にまた奪う計画でしたが、唐の兵は飢え凍え、膝を抱いて泣くので、剣も力鈍り、ついに奪取できませんでした」
と言った。
手遅れになって後悔するのを「臍を嚙む」というが、これを言うに違いない。
釈道顕が言う。
金春秋(新羅の王族、のちの武烈王)の本意は高麗を討つことにあったが、まず百済を討った。
それは近年新羅が百済から侵略されることが多く、苦しんでいたからそうなったのだ、と。
この年、播磨国司の岸田臣麻呂らが、宝剣を献上して、
「狭夜郡(兵庫県佐用郡)の人の粟畑の穴の中から出ました」
と言った。
また、日本の高麗救援軍の将兵たちが、百済の加巴利の浜に泊って火を焚いた。
燃えた灰の跡が孔になって、かすかな音が聞こえた。
それが鏑矢の鳴る音のようであった。
ある人は、
「高麗と百済の亡びる前兆かもしれない」
と言った。
元年春一月二十七日、百済の佐平鬼室福信に、矢十万隻、糸五百斤、綿一千斤、布一千端、なめし皮一千張、稲種三千石を賜わった。
三月四日、百済王(余豊璋)に布三百端を賜わった。
この月、唐、新羅の軍が高麗を討った。
高麗は救いを日本に求めた。
それで日本は将兵を送って疏留城(都々岐留山)に構えた。
このため唐軍はその南の境を犯すことができず、新羅はその西の塁をおとすことができなくなった。
夏四月に、鼠が馬の尻尾に子を産んだ。
僧道顕が占って、
「北の国の人が、南の国に付こうとしている。恐らく高麗が破れて日本につくだろう」
と言った。
五月に、大将軍である大錦中の阿曇比邏夫連らが、軍船百七十艘を率いて、豊璋らを百済に送り、勅して豊璋に百済王位を継がせた。
また金策を福信に与えて、その背をなでてねぎらい、爵位や禄物を賜った。
そのとき、豊璋、福信らは平伏して仰せを承り、人々は感動して涙を流した。
六月二十八日、百済は達率万智らを遣わして、調を奉り物を献上した。
冬十二月一日、百済王豊璋と、その臣である佐平福信は狭井連、朴市田来律と相談し、
「この都の州柔(率城)は田畝にへだたり、土地がやせている。農桑に適したところでない。戦いの場であって、ここに長らくいると民が飢えるだろう。避城に移ろう。避城は西北に古連旦涇(新坪川)が流れ、東南は貯池の堤があり、一面の田圃があり、水利もよく花咲き実のなる作物に恵まれ、三韓でも優れた土地である。衣食の源があれば、人の住むべきところである。土地は低くても移り住むべきだ」
と言った。
このとき、朴市田来津がひとり身を進め諫めて、
「避城と敵のいるところとは、一夜で行ける道のりです。たいへん近い。もし不意の攻撃を受けたら悔いても遅い。飢えは第二です。存亡は第一です。今、敵がたやすく攻めてこないのは、ここが山険を控え、防御に適し、山が高く谷が狭く、守り易く攻めにくいためです。もし低いところにいれば、どうして堅く守り動かないで、今日に至ることができたでしょうか」
と諫めた。
しかしついに聞かないで避城に都した。
この年、百済を救うために、武器を整え、船を準備し兵糧を蓄えた。
この年、太歳壬戌。
白村江の戦い
二年春二月二日、百済は達率金受らを遣わして調を奉った。
新羅人が百済の南部の四州を焼き討ちし、徳安などの要地を奪った。
このとき、避城は敵と近すぎたので、そこに居ることができず、州柔(率城)に戻った。
田来津が言ったようになった。
この月、佐平福信が、唐の捕虜続守言らを届けてきた。
三月に前軍の将軍上毛野君稚子、間人連大蓋、中軍の将軍である巨勢神前臣訳語、三輪君根麻呂、後軍の将軍である阿倍引田臣比邏夫、大宅臣鎌柄を遣わし、二万七千人を率いて新羅を伐たせた。
夏五月一日、犬上君が高麗に急行し、出兵のことを告げて還ってきた。
そのとき、糺解(豊璋)と石城で出会った。
糺解は犬上君に鬼室福信の罪あることを語った。
六月、前軍の将軍である上毛野君稚子らが、新羅の沙鼻、岐奴江二つの城を取った。
百済王の豊璋は、福信に謀反の心があるのを疑って、掌をうがち革を通して縛った。
しかし、自分で決めかねて困り、諸臣に問うた。
「福信の罪はすでに明かだが、斬るべきかどうか」
そのとき、達率徳執得が、
「この悪者を許してはなりません」
と言うと、福信は執得に唾を吐きかけて言った。
「腐り犬の馬鹿者」
王は兵士に命じて福信を斬り、曝首にするべく酢漬けにした。
秋八月十三日、新羅は、百済王が自分の良将を斬ったことを知り、直ちに攻め入って、まず州柔(率城)を取ろうとした。
ここで百済王は敵の計画を知って、諸将に告げて、
「大日本国の救援将軍の廬原君臣が、兵士一万余を率いて、今に海を越えてやってくる。どうか諸将軍たちは、そのつもりでいて欲しい。私は自分で出かけて、白村江(錦江の川口付近)でお迎えしよう」
と言った。
十七日に敵将が州柔に来て城を囲んだ。
大唐の将軍は軍船百七十艘を率いて、白村江に陣を敷いた。
二十七日に日本の先着の水軍と、大唐の水軍が合戦した。
日本軍は負けて退いた。
大唐軍は陣を堅めて守った。
二十八日、日本の諸将と百済の王とは、そのときの戦況などをよく見極めないで、共に語って、
「我らが先を争って攻めれば、敵は自ずから退くだろう」
と言った。
さらに日本軍で隊伍の乱れた中軍の兵を率い、進んで大唐軍の堅陣の軍を攻めた。
すると、大唐軍は左右から船を挟んで攻撃した。
たちまちに日本軍は破れた。
水中に落ちて溺死する者が多かった。
船の舳先をめぐらすこともできなかった。
朴市田来津は天を仰いで決死を誓い、歯を食い縛って怒り、敵数十人を殺したが、ついに戦死した。
このとき、百済王豊璋は、数人と船に乗り高麗へ逃げた。
九月七日、百済の州柔城は唐に降服した。
このとき、国人、は語り合って、
「州柔城が落ちた。如何とも致しがたい。百済の名前は今日で終りだ。先祖の墓にも二度と行くことができぬ。ただ弖礼城に行って、日本の将軍たちに会い、今後の処置を相談しよう」
と言った。
かねて枕服岐城に在った妻子どもに教えて、いよいよ国を去ることを知らせた。
十一日、牟弖を出発、十三日、弖礼に着いた。
二十四日、日本の水軍と佐平余自信、達率木素貴子、谷那晋首、憶礼福留と、一般人民は弖礼城に着いた。
翌日、船を出してはじめて日本に向かった。
冠位の増設
三年春二月九日、皇太子(中大兄)は弟の大海人皇子に詔して、冠位の階名を増加し変更することと、氏上、民部、家部などを設けることを告げられた。
その冠位は二十六階ある。
大織、小織。
大縫、小縫。
大紫、小紫。
大錦上、大錦中、大錦下。
小錦上、小錦中、小錦下。
大山上、大山中、大山下。
小山上、小山中、小山下。
大乙上、大乙中、大乙下。
小乙上、小乙中、小乙下。
大建、小建。
の二十六である。
以前の花を錦と改めた。
錦より乙に至るまで十階殖えた(六階の誤りかといわれる)。
また、これまでの初位一階を増し、改めて大建、小建の二階とした。
これが異ったところで、他は前のままである。
大氏の氏上には大刀を賜わり、小氏の氏上には小刀を賜わる。
伴造らの氏上には楯、弓矢を賜わり、またその民部と家部を定めた。
三月、百済王の善光らを難波に住まわしめた。
京の北で星が落ちた。
この春、地震があった。
夏五月十七日、百済にあった鎮将(占領軍司令官)の劉仁願は、朝散大夫郭務惊らを遣わして、表凾(上奏文を収めた凾)と献物を奉った。
この月、大紫の蘇我連大臣が死んだ。
六月、嶋皇祖母命(天智天皇の祖母)が薨じた。
冬十月一日、郭務惊らを送り出す勅をお出しになった。
この日、鎌足は沙門智祥を遣わして、品物を郭務惊に贈られた。
四日、郭務惊らに饗応された。
この月、高麗の大臣蓋金が死んだ。
子供らに遺言して、
「お前たち兄弟は、魚と水とのように仲よくし、爵位を争うことがあってはならぬ。もしそんなことがあれば、きっと隣人に笑われるぞ」
と言った。
(後年この心配は的中し、唐に亡ぼされた)
十二月十二日、郭務惊らは帰途についた。
この月、淡海国から言ってきた。
「坂田郡の人、小竹田史身が飼っている猪の水槽の中に、にわかに稲が実りました。身がそれを穫り入れると、その後、日に日に富が増えました。
栗太郡の人、磐城村主殷の新婦の部屋の敷居の端に、一晩のうちに稲が生え穂がついて、翌日はもう熟れて穂が垂れました。次の日の夜、さらに一つの穂が新婦の庭に出て、二箇の鍵が天から落ちて来ました。女は拾って殷に渡し、殷はそれから金持ちになったということです」
西海防備
この年、対馬、壱岐、筑紫国などに防人と烽(のろし台)をおいた。
また、筑紫に大堤を築いて水を貯えた。
これを水城と名づけた。
四年春二月二十五日、間人大后(天智天皇の妹、孝徳天皇妃)が薨去された。
この月、百済国の官位の階級を検討した(百済滅亡後、多数渡来した百済人に冠位を授けるため)。
佐平福信の功績によって、鬼室集斯に、小錦下の位を授けた。
また百済の民、男女四百人あまりを、近江国の神崎郡に住ませた。
三月一日、間人大后のために、三百三十人を得度(出家)させた。
この月、神崎郡の百済人に田を給せられた。
秋八月、達率答ホン春初(ホンは火偏に本)を遣わして、長門国に城を築かせた。
達率憶礼福留と達率四比福夫を、筑紫国に遣わして、大野と椽(大宰府の西南)に二つの城を築かせた。
耽羅が使者を来朝させた。
九月二十三日、唐が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高らを遣わしてきた。
等というのは右戎衛郎将上柱国百済禰軍、朝散大夫柱国である郭務惊のことをいう。
全部で二百五十四人。
七月二十八日に対馬に着く。
九月二十日、筑紫につき、二十二日に表凾を奉った。
冬十月十一日、盛大に菟道で閲兵をした。
十一月十三日、劉徳高らに饗応をされた。
十二月十四日、劉徳高らに物を賜わった。
この月、劉徳高らは帰途についた。
この年、小錦の守君大石等を大唐に遣わした、云々と。
等というのは、小山の坂合部連石積、大乙の吉士岐弥、吉士針間を言う。
推測するに、唐の使者を送ったものであろう。
五年春一月十一日、高麗が前部能婁らを遣わして調を奉った。
この日,耽羅が王子の姑如らを遣わして朝貢した。
三月、皇太子は自ら佐伯子麻呂連の家に行き、その病を見舞われた。
古くから仕えてきた功績を褒め、お嘆きになった(人鹿の誅伐の際に働いた)。
夏六月四日、高麗の前部能婁らが帰途についた。
秋七月、大水があった。
この秋に租と調を免除された。
冬十月二十六日、高麗は臣乙の相奄鄒らを遣わして調を奉った。
大使は臣乙の相奄鄒、副使の達抵遁、二位の玄武若光等である。
この冬、都の鼠が近江国に向かって移動した。
百済の男女二千余人を東国に住まわせた。
百済の人々に対して、僧俗を選ばず三年間、国費による食を賜わった。
倭漢沙門智由が指南車を献上した。
六年春二月二十七日、斉明天皇と妹の孝徳皇后とを小市岡上陵に合葬した。
この日、皇孫である大田皇女(天智皇女、大海人皇子妃)を陵の前の墓に葬った。
高麗、百済、新羅の使者も皆、大路に哀悼を捧げた。
皇太子は群臣に語って、
「自分は斉明天皇の勅を承ってから、万民を憐れむために、石槨の役(石室墳墓造営の労役)は起こさない。願わくば永代にわたって手本として欲しい」
と言われた。
近江遷都と天智天皇の即位
三月十九日、都を近江に移した。
このとき、天下の人民は遷都を喜ばず、諷諫(諷し諫める)するものが多かった。
童謡も多く、夜昼となく出火するところが多かった。
六月、葛野郡より白燕を奉った。
秋七月十一日、耽羅が佐平の椽磨等を遣わして、朝貢した。
八月、皇太子(天智)が倭の京(飛鳥)にお出ましになった。
冬十月、高麗の大兄(高麗の官位)である男生が城を出て国を巡り歩いた。
そのとき、城内の二人の弟が、側近の士大夫にそそのかされ、再び入城させなかった。
このため、男生は大唐に至り、高麗を滅ぼそうと謀った。
十一月九日、百済の鎮将である劉仁願は熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣わして、大山下の境部連石積らを筑紫都督府に送ってきた。
十三日、司馬法聡らは帰途についた。
小山下の伊吉連博徳、大乙下の笠臣諸石を送使とした。
この月、倭国の高安城、讃岐国山田郡の屋島城、対馬国の金田城を築いた。
閏十一月十一日、錦十四匹、纈十九匹、緋二十四匹、紺布二十四端、桃染布五十八端、斧二十六、釤六十四、刀子六十二枚を椽磨らに賜わった。
七年春一月三日、皇太子は天皇に即位された。
ある本には、六年三月即位とある。
七日、群臣を召して内裏で饗応をされた。
二十三日、送使の博徳らが帰朝し、使命を果したことを報告した。
二月二十三日、古人大兄皇子の娘である倭姫王を立てて皇后とした。
全部で四人の嬪を持たれた。
蘇我山田石川麻呂大臣の娘を遠智娘という。
一男二女をお生みになった。
第一を大田皇女、第二を鸕野皇女(天武天皇の皇后、持統天皇)という。
天下を治められるようになったときは、飛鳥浄御原宮にお出でになった。
後に宫を藤原に移された。
第三を建皇子という。
言葉が不自由であった。
ある本に、遠智娘は一男二女を生み、第一を建皇子、第二を大田皇女といい、第三を鸕野皇女としている。
またある本には、蘇我山田石川麻呂大臣の娘を茅淳娘といい、大田皇女と娑羅羅皇女を生んだとある。
次に、遠智娘の妹があり、姪娘という。
御名部皇女と阿陪皇女(後の元明天皇)をお生みになった。
阿陪皇女は天下を治められるようになったときは、藤原宮にお出でになった。
後に都を奈良に移された。
次は阿倍倉梯麻呂大臣の娘があり、橘娘といった。
飛鳥皇女と新田部皇女(天武天皇の妃)とをお生みになった。
次に蘇我赤兄大臣の娘があり、常陸娘といった。山辺皇女をお生みになった。
また後宮の女官で男女の子を生んだ者は四人あった。
忍海造小竜の女があり、色夫古娘といった。
一男二女をお生みになった。
第一を大江皇女といい、第二を川島皇子といい、第三を泉皇女といった。
また栗隈首徳万の娘があり、黒媛娘といった。
水主皇女をお生みになった。
また、越の道君伊羅都売が施基皇子をお生みになった。
また伊賀采女宅子娘があり、伊賀皇子をお生みになった。
後の名を大友皇子という。
夏四月六日、百済は末都師父(まつしぶ)らを遣わして調を奉った。
十六日、末都師父らは帰途についた。
五月五日、天皇は蒲生野に狩りに行かれた。
時に、大皇弟(大海人皇子)、諸王、内臣および群臣みなことごとくお供をした。
六月、伊勢王とその弟王とが日をついで薨去した。
秋七月、高麗が越路(北陸の沿岸)から使者を遣わして、調を奉ったが、浪風が高く帰ることができなかった。
栗隈王を筑紫率(のちの大宰帥)に任じられた。
時に、近江国で武術を講じた。
また多くの牧場を設けて馬を放牧した。
また越の国から燃える土と燃える水を奉った。
また水辺の御殿の下にいろいろな魚が、水の見えなくなる程集まった。
また蝦夷に饗応された。
また舎人らに命じてさまざまな場所で宴をさせられた。
人々は、
「天皇は位を去られるのだろうか」
と言った。
秋九月十二日、新羅は沙トク級サン金東厳らを遣わして調を奉った。
二十六日、中臣鎌足は沙門の法弁と秦筆を遣わして、新羅の上臣である大角干庾信に船一艘を与えられ、東厳らに言付けられた。
二十九日、布勢臣耳麻呂を遣わして、新羅王に調物を運ぶ船を一艘贈り、東厳らに言付けられた。
冬十月、大唐の大将軍である英公は、高麗を打ち滅ぼした。
高麗の仲牟王は、初めて国を建てたとき、千年に渡って治め続けることを願った。
これに対し母夫人が、
「もし国をたいへん善く治めたとしても、まず七百年ぐらいのものだろう」
といった。
今この国の滅亡は、まさに七百年後のことであった。
十一月一日、新羅王に絹五十匹、綿五百斤、なめし皮百枚を贈られ、金東厳らに託した。
東厳らにもそれぞれに応じて物を賜わった。
五日、小山下の道守臣麻呂、吉士小鮪を新羅に遣わした。
この日、金東厳らは帰途についた。
この年、沙門の道行が、草薙剣を盗んで、新羅に逃げた。
しかし途中で風雨にあって、道に迷いまた戻った。
八年春一月九日、蘇我赤兄臣を筑紫宰(大宰帥)に任じた。
三月十一日、耽羅が王子久麻伎らを遣わして調を奉った。
十八日、耽羅王に五穀の種を賜わった。
この日、王子の久麻伎らは帰国の途についた。
夏五月五日、天皇は山科野に薬狩りをされた。
大皇弟(大海人皇子)、藤原内大臣(鎌足)および群臣らがことごとくお供をした。
秋八月三日、天皇は高安山に登って、城を築くことを相談された。
しかし、まだ人民の疲れていることを哀れんで、築造はされなかった。
当時の人はこれに感じて、
「仁愛の徳が深くいらっしゃる」
云々と言った。
この秋、藤原内大臣(鎌足)の家に落雷があった。
九月十一日、新羅は沙サン督儒らを遣わして調を奉った。
藤原鎌足の死
冬十月十日、天皇は藤原内大臣(鎌足)の家にお越しになり、親しく病を見舞われた。
しかし、衰弱が甚しかった。
それで詔して、
「天道が仁者を助けるということに偽りがあろうか。積善の家に余慶があるというのに、そのしるしがない答はない。もし望むことがあるなら何でも言うがよい」
と言われた。
鎌足は、
「私のような愚か者に、何を申し上げることがありましょうか。ただ一つ私の葬儀は簡素にして頂きたい。生きては軍国のためにお役に立てず(百済救援の失敗のこと)、死にあたってどうして御厄介をかけることができましょうか」
云々、とお答えした。
時の賢者は褒めて、
「この一言は昔の哲人の名言にも比すべきものだ。大樹将軍(後漢の馮異)が、賞を辞退したという話と、とても同じには語れない」
と言った。
十五日、天皇は東宮太皇弟(大海人皇子)を藤原内大臣(鎌足)の家に遣わし、大織の冠と大臣の位を授けられた。
姓を賜わって藤原氏とされた。
これ以後、通称、藤原内大臣といった。
十六日、藤原内大臣(鎌足)は死んだ。
——日本世記(高句麗の僧である道顕の著)に言う。
「内大臣は五十歳で自宅で亡くなった。遺骸を山科の山の南に移して殯した。天はどうして心なくも、しばらくこの老人を遺さなかったのか。哀しいかな。碑文には春秋五十六にして薨ずとある」
十九日、天皇は藤原内大臣の家にお出ましになり、大錦上の蘇我赤兄臣に命じて、恵みふかい詔を詠みあげさせられた。
また金の香鑪を賜わった。
十二月、大蔵に出火があった。
この冬、高安城を造って、畿内の田税をそこに集めた。
このとき斑鳩寺(法隆寺)に出火があった。
この年、小錦中の河内直鯨らを大唐に遣わした。
また佐平余自信、佐平鬼室集斯ら男女七百余人を近江国の蒲生郡に移住させた。
また大唐が郭務惊ら二千余人を遣わしてきた。
(十年十一月条と重出)
九年春一月七日、士大夫らに詔して、宮廷内で大射礼があった。
十四日、朝廷の礼儀と、道路で貴人と行きあったとき、道を避けるべきことを仰せ出された。
また誣告、流言などを禁じられた。
二月、戸籍を造り、盗人と浮浪者とを取締った。
同月、天皇は蒲生郡の日野にお越しになり、宮を造営すべき地をご覧になった。
また高安城を造って穀と塩とを蓄えた。
また長門に一城、筑紫に二城を築いた。
三月九日、山の井(三井寺の泉)のそばに、諸神の座を設け、幣帛を捧げられた。
中臣金連が祝詞を奏した。
夏四月三十日、暁に法隆寺で出火があった。
ー舍も残らず焼けた。
大雨が降り、雷鳴が轟いた。
五月、童謡が行なわれた。
ウチハシノ、ツメノアソビニ、イデマセコ、タマデノイへノ、ヤへコノトジ、イデマシノ、クイハアラジゾ、イデマセコ、タマデノイへノ、ヤへコノトジ。
板を渡した仮橋のたもとの遊びに出ておいで、玉手の家の八重子さん、お出でになっても悔いはありませんよ。出ていらっしやい。玉手の家の八重子さん。
六月、ある村の中で亀をつかまえた。
背中に申の字が書かれてあった。
上部は黄色で下は黒かった。
長さは六寸程であった。
秋九月一日、阿曇連頰垂を新羅に遣わした。
この年、水碓(水力の臼)を造って鉄を鋳た。
大友皇子、太政大臣に
十年春一月二日、大錦上の蘇我赤兄と大錦下の巨勢人臣が宮殿の前に進んで、新年の賀詞を奏上した。
五日、大錦上の中臣金連が命によって、神々への寿詞を述べた。
同日、大友皇子を太政大臣に任じられた。
蘇我赤兄臣を左大臣に、中臣金連を右大臣とされた。
蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣を御史大夫とした。
六日、東宮太皇弟(大海人皇子)が詔した。
ある本には、大友皇子が言一命すとある。
冠位、法度のことを施行された。
天下に大赦を行なわれた。
法度、冠位の名は、詳しく新しい律令にのせてある。
九日、高麗が上部大相可婁らを遣わして調を奉った。
十三日、百済にある鎮将の劉仁願が、李守真らを遣わして、上表文を奉った。
この月、佐平余自信、沙宅紹明(法官大輔)に大錦下を授けられた。
鬼室集斯(学頭職)に小錦下を授け、達率谷那晋首(兵法に詳しい)、木素貴子(兵法に詳しい)、憶礼福留(兵法)、答ホン春初(兵法)、ホン日比子賛波羅金羅金須(薬に通ずる)、鬼室集信(薬に通ずる)に大山下を授けた。
小山上を達率徳頂上(薬に通ずる)、吉大尚(薬に通ず)、許率母(五経に通ず)、角福牟(陰陽に通ずる)に授けた。
小山下を他の達率たち五十余人に授けた。
童謡があった。
タチバナハ、オノガエダエダ、ナレレドモ、タマニヌクトキ、オナジヲニヌク。
橘の実は、それぞれ異なった枝になっているが、玉として緒に通す時は、みんな一本の緒に通される。
(身分や才能がそれぞれ異なっている者に、大がかりに沢山の爵位を与えた大盤振舞いを咎めたものか)
二月二十三日、百済が台久用善らを遣わして調を奉った。
三月三日、黄書造本実が水はかり(水準器)を奉った。
十七日、常陸国から中臣部若子を奉った。
丈が一尺六寸。
生まれてからこの年まで十六年である。
夏四月二十五日、漏刻(水時計)を新しい台の上におき、はじめて鐘、鼓を打って時刻を知らせた。
この漏刻は天皇がまだ皇太子であった時に、始めて自分でお造りになったものであるという。云々。
この月に、筑紫国から、
「八本足の鹿が生まれて、間もなく死んでしまいました」
と言ってきた。
五月五日、天皇は西の小殿にお出でになり、皇太子や群臣は宴席に侍った。
ここで田舞が二度演じられた。
六月四日、百済の三部の使者が要請した軍事について仰せ事があった。
十五日、百済が羿真子らを遣わして調を奉った。
この月、栗隈王を筑紫率(大宰帥)とした。
新羅が使者を遣わして調を奉った。
別に水牛一頭、山鶏一羽を奉った。
秋七月十一日、唐人李守真らと、百済の使者らは共に帰途についた。
八月三日、高麗の上部大相可婁らが帰途についた。
十八日、蝦夷に饗応された。
天智天皇崩御
九月、天皇が病気になられた。
冬十月七日、新羅が沙サン金万物らを遣わして調を奉った。
八日、内裏で百体の仏像の開眼供養があった。
この月、天皇が使者を遣わして、袈裟、金鉢、象牙、沈水香、栴檀香および数々の珍宝を、法興寺(飛鳥寺)の仏に奉らせられた。
十七日、天皇は病が重くなり、東宮(大海人皇子)を呼ばれ、寝所に召されて詔し、
「私の病は重いので後事をお前に任せたい」
云々と言われた。
東宮(大海人皇子)は病と称して、何度も固辞して受けられず、
「どうか大業は大后(皇后)にお授け下さい。そして、大友皇子に諸政を行なわせてください。私は天皇のために出家して、仏道修行をしたいと思います」
と言われた。
天皇はこれを許された。
東宮は立って再拝した。
内裏の仏殿の南にお出でになり、胡床に深く腰かけて、頭髪をおろされ、沙門の姿となられた。
天皇は次田生磐を遣わして袈裟を送られた。
十九日、東宮は天皇にお目にかかり、
「これから吉野に参り、仏道修行を致します」
といわれた。
天皇は許された。
東宮は吉野に入られ、大臣たちがお仕えし宇治までお送りした。
十一月十日、対馬国司が使者を大宰府に遣わして、
「今月の二日に、沙門道久、筑紫君薩野馬(百済救援の役で唐の捕虜となった)、韓島勝裟婆、布師首磐の四人が唐からやってきて、『唐の使者である郭務惊ら六百人、送使の沙宅孫登ら千四百人、総計二千人が、船四十七隻に乗って比知島に着きました。語り合って、今、我らの人も船も多い。すぐ向こうに行ったら、恐らく向うの防人は驚いて射かけてくるだろう。まず道久らを遣わして、前もって来朝の意を明らかにさせることに致しました』と申しております」
と報告した。
二十三日、大友皇子は内裏の西殿の織物の仏像の前におられた。
左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣が侍っていた。
大友皇子は手に香鑪をとり、まず立ち上って、
「六人は心を同じくして、天皇の詔を承ります。もし違背することがあれば、必ず天罰を受けるでしょう」
云々とお誓いになった。
そこで左大臣蘇我赤兄らも手に香爐を取り、順序に従って立ち上り涙を流しつつ、
「臣ら五人は殿下と共に、天皇の詔を承ります。もしそれに違うことがあれば、四天王が我々を打ち、天地の神々もまた罰を与えるでしょう。三十三天(仏の守護神たち)も、このことをはっきり御承知おきください。子孫もまさに絶え、家門も必ず滅びるでしよう」
云々と誓いあった。
二十四日、近江宮に火災があった。
大蔵省の第三倉から出火したものである。
二十九日、五人の臣は大友皇子を奉じて、天皇の前に誓った。
この日、新羅王に、絹五十匹、絁五十匹、綿一千斤、なめし皮一百枚を賜わった。
十二月三日、天皇は近江宮で崩御された。
十一日、新宮で殯した。
この時、次のような童謡があった。
ミエシヌノ、エシヌノアユ、アユコソハ、シマへモエキ、エクルシヱ、ナギノモ卜、セリノモ卜、アレハクルシヱ。
み吉野の鮎こそは、島の辺りにいるのもよかろうが、私はああ苦しい、水葱の下、芹の下にいて、ああ苦しい。(その一)
オミノコノ、ヤへノヒモトク、ヒ卜へダニ、イマダトカネバ、ミコノヒモトク。
臣下の私が、自分の紐を一重すらも解かないのに、御子は御自分の紐をすっかりお解きになっている。(その二)
アカゴマノ、イユキハバカル、マクズハラ、ナニノツテコ卜、タダニシエケム。
赤駒が行きなやむ葛の原、そのようにまだるこい伝言などなされずに、直接におっしゃればよいのに。(その三)
天智天皇崩御後の、皇位継承の争いを諷したものか。
一は吉野に入った大海人皇子の苦しみ。
二は吉野方の戦争準備の成ったこと。
三は近江方と吉野方の直接の交渉を勧めるものか。
十七日、新羅の調を奉る使者の沙サン金万物らが帰途についた。
この年、讃岐国の山田郡の人の家に、四本足のひよこが生まれた。
また、宮中の大炊察に、八つの鼎(儀式用の釜)があり、それがひとりでに鳴った。
ある時は一つ鳴り、ある時は二つ、ある時は三つ一緒に鳴った。
またある時は八つ共一緒に鳴った。
(宮中の不吉の兆しを思わせる)またある時は八つ共一緒に鳴った。
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