天武天皇 天淳中原瀛真人天皇 上
大海人皇子、吉野人り
天淳中原瀛真人天皇は天智天皇の同母弟である。
幼時には大海人皇子といった。
生来すぐれた素質をもたれた立派なお方であった。
成人してからは雄々しく、武徳に優れていた。
天文や占星の術をよくされた。
天智天皇の女の菟野皇女を迎えて正妃とされた。天智天皇の元年に、立って東宮(皇太子)となられた。
四年冬十月十七日、天皇は病臥されて重態であった。
蘇我臣安麻呂を遣わして、東宮を呼び寄せられ、寝所に引き入れられた。
安麻呂は元から東宮に好かれていた。
密かに東宮を顧みて、
「よく注意してお答えください」
と言った。
東宮は隠された謀があるかも知れないと疑って、用心された。
天皇は東宮に皇位を譲りたいと言われた。
そこで辞退して、
「私は不幸にして、元から多病で、とても国家を保つことはできません。願わくば陛下は、皇后に天下を託して下さい。そして大友皇子を立てて、皇太子として下さい。私は今日にも出家して、陛下のため仏事を修行することを望みます」
と言われた。
天皇はそれを許された。
即日出家して法服に替えられた。
それで自家の武器をことごとく公に納められた。
十九日、吉野宮に入られることになった。
左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連および大納言蘇賀果安臣らがお見送りし、宇治まで行き、そこから引き返した。
ある人が言った。
「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」
この夕方、嶋宮(明日香村島の庄の離宮)へお着きになった。
二十日、吉野へお着きになった。
このとき、多くの舎人を集めて、
「自分はこれから仏道に入り修行をする。自分と一緒に修道をしようと思う者は留まるがよい。朝廷に仕えて名を成そうと思う者は、引き返して役所へ戻るように」
と言われた。
しかし帰る者はなかった。
さらに舍人を集めて、前の如く告げられると、舍人の半分は留まり半分は退出した。
十二月、天智天皇はお崩れになった。
元年春三月十八日、朝廷は内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣わして、天皇のお崩れになったことを郭務惊らに告げさせた。
郭務惊らはことごとく喪服を着て、三度挙哀(声をあげて哀悼を表わす礼)をし、東に向って拝んだ。
二十一日、郭務惊らは再拝して、唐の皇帝の国書の書函と信物(その地の産物)とを奉った。
夏五月十二日、鎧、甲、弓矢を郭務惊らに賜わった。
この日、郭務惊らに賜わったものは、合わせて絁千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六斤であった。
二十八日に、高麗は前部富加柞らを遣わして、調を奉った。
三十日、郭務惊らは帰途についた。
挙兵決意
この月、朴井連雄君は天皇(大海人皇子)に奏上して、
「私が私用で一人美濃に行きました。時に近江朝では、美濃と尾張両国の国司に仰せ言をして、『天智天皇の山陵を造るために、あらかじめ人夫を指定しておけ』と命じておりました。ところがそれぞれに武器をもたせてあります。私の思いますのに、山陵を造るのではありますまい。これは必ず変事があるでしょう。もし速やかに避けられないと、きっと危いことがあるでしょう」
と言った。
また、
「近江京より大和京に至るあちらこちらに監視人を置いてある。また宇治橋の橋守に命じて、皇大弟(大海人皇子)の宮の舎人が、自分達の食糧を運ぶことさえ禁じている」
という人もあった。
天皇が問い調べさせたところ、事が本当であることを知られた。
そこで詔して、
「私が皇位を辞退して、身を引いたのは、一人で療養に努め、天命を全うしようと思ったからである。それなのに今、避けられない災いを受けようとしている。どうしてこのまま黙っておられようか」
と言われた。
六月二十二日、村国連男依、和珥部臣君手、身気君広に詔して、
「聞くところによると、近江朝の廷臣らは私を亡き者にしようと謀っている。お前たち三人は、速やかに美濃国に行き、安八磨郡(安八郡)の湯沐令(湯沐は東宮に給される食封の一つ。令はその地を支配し収納を行う役人)の多臣品治に機密を打ち明け、まずその地の兵を集めよ。なお国司らに触れて軍勢を発し、速やかに不破道(近江美濃両国の境にあり、東国へ向う要路の一つ)を塞げ。私もすぐ出発する」
と言われた。
二十四日、東国に向かおうとしたとき、一人の臣が、
「近江方の群臣は元から策謀の心があります。ですからきっと国中に妨害を巡らし、道路は通りにくいでしょう。どうして無勢で戦の備えもなく東国に行くことができましょうか」
と言った。
天皇はその言葉に従って、男依らを召し返そうと思われた。
大分君恵尺、黄書造大伴、逢臣志摩らを、飛鳥守衛の高坂王のもとに遣わして、駅鈴(駅馬使用のための公用の鈴)を求めさせた。
恵尺らに語って、
「もし鈴を得られなかったら、志摩はすぐ戻って報告せよ。恵尺は馬を馳せて近江に行き、高市皇子、大津皇子(共に天武天皇の皇子)を呼び出し、伊勢で落ち合えるようにせよ」
と言われた。
恵尺らは高坂王のところに行き、東宮の命を告げて、駅鈴を求めたが許されなかった。
そこで恵尺は近江に行った。
志摩は戻って、
「鈴は得られませんでした」
と報告した。
東国への出発
この日、天皇は出発して東国に入られた。
事は急であったので乗物もなく、徒歩でお出でになった。
思いがけず県犬養連大伴の乗馬に出会い、それにお乗りになった。
皇后は輿に乗って従われた。
津振川(吉野町津風呂)に至って、はじめて乗馬が届き、これに乗られた。
このときに始めから従った人々は、草壁皇子、忍壁皇子(共に天武天皇の皇子)、および舍人朴井連雄君、県犬養連大伴、佐伯連大目、大伴連友国、稚桜部臣五百瀬、書首根摩呂、書直智徳、山背直小林、山背部小田、安斗連智徳、調首淡海ら二十人あまり、女孺十人あまりであった。
その日に菟田の安騎(奈良県宇陀町)に着いた。
大伴連馬来田、黄書造大伴は吉野宮から追って駆けつけた。
このとき、屯田司の舍人土師連馬手は、天皇の従者の人々の食事を奉った。
甘羅村を過ぎると、漁師二十人あまりを見出した。
大伴朴本連大国は漁師の首領であったので、ことごとく召して一行の仲間に入れた。
また美濃国の王(豪族)を召された。
するとやってきてお供に加わった。
湯沐の米を運ぶ伊勢国の駄馬五十匹と、菟田郡(宇陀郡)の屯倉のあたりで遇った。
そこでみな、米を捨てさせ、徒歩の者を乗らせた。
大野に至って日が暮れた。
山は暗くて進むことができない。
その村の家の籬を壊して燭とした。
夜半に隠郡(名張郡)につき、隠の駅家を焼いた。
村の中に呼びかけて、
「天皇が東国においでになる。それゆえ人夫として従う者はみんな集まれ」
と言った。
しかし誰一人出てこなかった。
横川に着こうとする頃、黒雲が現れ、広さ十余丈ばかりに拡がり天を覆った。
天皇は怪しまれ、燭を灯して占いの式(筮竹)を取り、占っていわれるのに、
「天下が二分されるしるしだ。しかし最後に自分が天下を取るだろう」
急行して伊賀郡に至り、伊賀の駅家を焼いた。
伊賀の山中に至るころ、その国の郡司らが、数百の兵を連れて従ってきた。
明方に莉萩野に着き、しばらく休息して食事をした。
積殖(伊賀国拓殖)の山ロに至り、高市皇子が鹿深(甲賀)を越えて合流した。
民直大火、赤染造徳足、大蔵直広隅、坂上直国麻呂、古市黒麻呂、竹田大徳、胆香互臣安倍が従っていた。
大山(鈴鹿山脈)を越えて、伊勢の鈴鹿についた。
伊勢国司三宅連石床、介三輪君子首および湯沐令田中臣足麻呂、高田首新家らが、鈴鹿郡で天皇の一行をお迎えした。
そこでまた五百の軍勢を集めて、鈴鹿の山道の守りをかためた。
川曲(三重県鈴鹿市)の坂下に至り、日が暮れた。
皇后がお疲れになられたので、しばらく輿を留めて休んだ。
ところが夜、空がくもり雨が降りそうになって、ゆっくり休むこともできず出発した。
寒くなってきて、雷が鳴り雨も激しくなった。
お供に従う者はみな衣類が濡れて、寒さに堪えられなかった。
三重の郡家について、家一つを焼いて凍えた者を温まらせた。
この夜中に鈴鹿関の司が使者を遣わしてきて、
「山部王と石川王らが、服属するためにやって参りましたので、関に留めてあります」
と言ってきた。
天皇は路直益人を遣わして呼ばれた。
二十六日、朝、朝明郡(三重県三重郡)の迹太川のほとりで、天照大神を遥拝された。
このとき、益人が到着して奏上し、
「関にお出でになったのは、山部王、石川王ではなく、大津皇子でありました」
と言った。
やがて益人の後から大津皇子が参られた。
大分君恵尺、難波吉士三綱、駒田勝忍人、山辺君安麻呂、小墾田猎手、泥部胝枳、大分君稚臣、根連金身、漆部友背らがお供をしてきた。
天皇は大いに喜ばれた。
郡家に行こうとされていると、男依が駅馬に乗って駆けつけ、
「美濃の軍勢三千人を集め、不破の道を塞ぐことができました」
と報告した。
天皇は男依の手柄を褒めて、郡家に着くと、まず高市皇子を不破に遣わし、軍事の監督をすることを決められた。
山背部小田、安斗連阿加布を遣わして、東海道諸国の軍兵を募り、また稚桜部臣五百瀬、土師連馬手を遣わして、東山道の軍兵のことに当らせた。
この日、天皇は桑名の郡家に泊られ、進むことはされなかった。
近江朝廷の対応
一方、近江の朝廷では、大皇弟(大海人皇子)が東国に赴かれたことを聞いて、群臣はことごとく恐れをなし、京の内は騒がしかった。
ある者は逃げて東国に入ろうとしたり、ある者は山に隠れようとした。
大友皇子は群臣に語って、
「どのようにすべきか」
と言われた。
一人の臣が進み出て、
「早く対処しないと手遅れになります。速やかに騎馬隊を集めて、急追すべきでしょう」
と言った。
皇子はそれに従われなかった。
韋那公磐鍬、書直薬、忍坂直大麻侶を東国に遣わした。
穂積臣百足と弟の五百枝、物部首日向を倭の京(飛鳥)に遣わした。
また、佐伯連男を筑紫に遣わした。
樟使主磐手を吉備国に遣わして、軍兵をことごとく徴発させた。
男と磐手とに語って、
「筑紫大宰栗隈王と、吉備国守当摩公広嶋の二人は、元から大皇弟についていた。どうかすると背くかも知れない。もし従わないような顔色を見せたらすぐ殺せ」
と言われた。
磐手は吉備国に行き、官符(命令書)を渡す日、言葉巧に広嶋を欺いて、刀をはずさせておいた。
磐手はそこで刀を抜いて殺した。
男は筑紫に行った。
栗隈王は官符を受けて対えて、
「筑紫の国はもともと外敵への備えであり、城を高くし堀を深くし、海に向って守備しているのは、内賊のためにではありません。今、命に従って軍を起こせば、国の備えが空になります。思いがけない変事でもあれば、一挙に国が傾きます。その後で臣を百度殺されても何の益もありません。天皇のご稜威にそむく気はありませんが、兵を動かすことができないのは、以上のようなわけです」
と言った。
時に、栗隈王の二人の子、三野王と武家王は、大刀を佩き、傍に立っていて離れなかった。
男はここで剣をとることは、かえって殺されると恐れた。
それで任務を果たし得ないで空しく帰った。
東国への急使である磐鍬らが不破に人ろうとするとき、磐鍬は山中に伏兵があるかも知れないと疑って、遅れて入った。
時に、伏兵が山から現れ、薬らの背後を絶った。
磐鍬はこれを見て、薬らが捕えられることを知り、引き返し、逃げてかろうじて捕まるのを免れた。
大伴吹負の奇計
このとき、大伴連馬来田の弟である吹負は、戦況の不利なことを知り、病と称して大和の家に退いた。
そして皇位を継がれるのは、吉野におられる大皇弟(大海人皇子)であろうと思った。
そこで馬来田はまず天皇に随っておき、吹負だけは留まることにし、一気に名を挙げて災いを転じようと思った。
同族の者一人、二人と豪族たちに呼びかけ、やっと数十人を得た。
二十七日、高市皇子は、使者を桑名の郡家に遣わして、
「お出でになる所と距っていると、軍事を行うのにはなはだ不便です。どうか近い所へお出で頂きたい」
と言われた。
その日、天皇は皇后を残して、不破に入られた。
不破の郡家に至る頃に、尾張国司の小子部連組鉤が、二万の兵を率いて帰属した。
天皇は褒められ、その軍を分けて方々の道の守りにつかせた。
野上(関ヶ原町の野上)にお出でになると、高市皇子が和蹔(関ヶ原の地)からお迎えに上って、
「昨夜、近江の朝廷から駅使が参りました。伏兵を置いて捕えると、書直薬と忍坂直大麻呂でした。何処へ行くかと問うと、『吉野においでの大皇弟を討つために、東国の兵を集めに遣わされた韋那公磐鍬の輩下です。しかし磐鍬は伏兵の現れたのを見て、逃げ帰りました』との答えでありました」
と申しあげた。
天皇は高市皇子に、
「近江の朝廷には左右の大臣や智略に優れた群臣がいて、共に議ることができるが、自分には事を謀る人物がいない。ただ、年若い子供があるだけである。どうしたらよいだろう」
と言われた。
皇子は腕まくりをして剣を握って、
「近江に群臣あろうとも、どうして我が天皇の霊威に逆らうことができようか。天皇はひとりでいらっしゃっても、私、高市が神々の霊に頼り、勅命を受けて諸将を率いて戦えば、敵は防ぐことができぬでしょう」
と言われた。
天皇はこれを褒め、手をとり背を撫でて、
「しっかりやれ、油断するなよ」
と言われた。
乗馬を賜わって、軍事をすべて託された。
皇子は和蹔に帰り、天皇は野上に行宮を設けられた。
この夜、雷鳴があり豪雨が降った。
天皇は祈り占って、
「天地の神々よ、私を助けて下さるのであれば、雷雨をやめ給え」
と言われた。
言い終られるとすぐに雷雨は止んだ。
二十八日、天皇は和蹔にお出でになり、軍隊の様子を検閲され、お帰りになった。
二十九日、天皇は和蹔にお出でになり、高市皇子に命じ、総軍に号令をさせられた。
そしてまた、野上行宮に帰られた。
この日、大伴連吹負は、密かに留守司の坂上直熊毛(倭漢人)と謀って、一人二人の漢直らに語り、
「俺は偽って高市皇子と名のり、数十騎を率いて、飛鳥寺の北の路から出て、軍営に現れるから、お前たちはそのとき寝返りをうて」
と言った。
すでに自分は兵を百済の家に揃え、南門から出た。
まず秦造熊を櫝鼻渾姿で馬に乗せて(衣服をつける暇もない程、急いだ様子を見せて)走らせ、寺の西の軍営の中へ大声で、
「高市皇子が不破から来られたぞ。軍勢がいっぱいだ」
と言わせた。
留守司の高坂王と、近江の募兵の使者の穂積臣百足らは、飛鳥寺の西の槻の木の下に、軍営を構えていた。
ただ、百足だけは小墾田の武器庫にいて、武器を近江に運ぼうとしていたが、軍営の中の兵たちは、秦造熊の叫ぶ声を聞いてことごとく散り逃げた。
大伴連吹負は、数十騎を率いて不意に現れた。
熊毛をはじめ多勢の漢直の人たちはそろって吹負につき、兵士たちもまた服従した。
高市皇子の命令と称して、穂積臣百足を小墾田の武器庫から呼び出した。
百足は馬に乗ってやってきた。
飛鳥寺の西の槻の木の下についたとき、誰かが、
「馬からおりろ」
と言った。
ところが百足はぐずぐずしていた。
そこでその襟首をとって引き落し、弓で一矢射た。
ついで刀を抜き斬り殺した。
穂積臣五百枝、物部首日向を捕えたが、しばらく後、許して軍中に入れた。
また高坂王、稚狭王を呼んで軍に従わせた。
大伴連安麻呂、坂上直老、佐味君宿那麻呂らを不破宮に遣わし、状況を報告させた。
天皇は大いに喜ばれた。
そして吹負を大和の将軍に任命された。
このとき、三輪君高市麻呂、鴨君蝦夷と諸豪族らは響が声に応ずるように、ことごとく将軍の旗の下に集った。
そこで近江を襲うことをはかり、軍の中の優れた者を選んで、副将軍および軍監とした。
七月一日、奈良に向かった。
秋七月二日、天皇は紀臣阿閉麻呂、多臣品治、三輪君子首、置始連菟を遣わし、数万の兵を率いて、伊勢の大山を越えて大和に向かわせた(鈴鹿越え)。
また村国連男依、書首根麻呂、和珥部臣君手、胆香瓦臣安倍を遣わし、数万の兵を率い不破から出て、まっすぐに近江に入らせた。
その軍が近江軍と判別し難いことを案じて、赤いきれを衣服の上につけさせた。
のち、多臣品治に命じて、三千の兵を率い莉萩野に駐屯させ、また田中臣足麻呂を遣わして、倉歴道(近江国甲賀郡蔵部)を守らせた。
近江方では山部王、蘇我臣果安、臣勢臣比等に命じて、数万の兵を率い、不破を襲おうとして、犬上川のほとりに軍を集めた。
しかし、山部王は蘇我臣果安、巨勢臣比等らのために殺され、混乱のため軍は進まなかった。
蘇我臣果安は犬上から引き返し、頸を刺し自殺した。
このとき、近江軍の将軍である羽田公矢国は、その子の大人らと、一族を率いて降ってきた。
それで印綬を与えて将軍に任じ、北のかた越の地方に入らせた。
その後、近江方は精兵を放って、玉倉部村を急襲したが、これに対し出雲臣狛を遣わして撃退させた。
三日、将軍の吹負は奈良山の上に駐屯した。
荒田尾直赤麻呂は将軍に、
「古京(飛鳥)は我々の本拠地ですから、固守しなければなりません」
と言った。
吹負も同意し、赤麻呂、忌部首子人らを遣わして古京を守らせることとした。
赤麻呂らは古京に入り、道路の橋の板を剥いで楯に造り、京の街のあちこちに立てて守りとした。
四日、吹負は近江の将軍の大野君果安と奈良山で戦った。
果安のために敗れ、兵卒は皆遁走した。
将軍の吹負は辛うじて逃れることができた。
果安は追撃して八ロに至り、高所から京を見ると、街角ごとに楯が立ててあったので、伏兵があるかも知れないと思って、兵を引いて逃げた。
五日、近江軍の副将である田辺小隅は、鹿深山(甲賀の山)を越え、人に知られぬよう、旗を巻き鼓を抱いて倉歴に着いた。
夜中、枚(ロに含み、声を出さぬようにするもの)を含み、城栅を崩し、にわかに田中臣足麻呂の陣営の中に入った。
小隅は敵味方の区別をするため、兵たちの合言葉に「金」と言わせた。
守っていた田中臣足麻呂の軍は大混乱に陥り、為すことを知らなかった。
しかし足麻呂だけは早く気づいて、ひとり「金」と言ってわずかに免れることができた。
六日、小隅はまた進んで莉萩野の陣営を急襲した。
将軍の多臣品治はこれを防ぎ、精兵をもって追撃した。
小隅はなんとか逃げて再び現れなかった。
大津京陥落
七日、男依らは近江軍と息長の横河にて戦って破った。
その将、境部連薬を斬った。
九日、男依らはさらに、近江の将の秦友足を鳥籠山にて斬った。
この日、東道将軍の紀臣阿閉麻呂らは、大和の将軍である大伴連吹負が近江軍に破られたことを聞いて、軍勢を分け、置始連菟に千余騎を率いさせ、大和京に急行させた。
十三日、男依らは安河の辺の戦いで大勝した。社戸臣大口、土師連千島を捕虜とした。
十七日、栗太の軍を追撃した。
二十二日、男依らは瀬田に着いた。
大友皇子と群臣らは瀬田橋の西に大きな陣営を構えていた。
陣の後ろの方が何処まであるか分らない程であった。
旗幟(軍旗)は野を覆い、土埃は天に連なっていた。
打ちならす鉦鼓の音は数十里に響き、弓の列からは矢が雨の降るように放たれた。
近江方の将である智尊は精兵を率い、先鋒として防戦した。
橋の中央を杖三本程の巾に切断し、一つの長板を渡してあった。
もし板を踏んで渡る者があれば、板を引いて下に落そうというのである。
このため進んで襲うことができなかった。
ここに一人の勇士があった。
大分君稚臣という。
矛を捨て鎧を重ね着して、刀を抜いて一気に板を踏んで渡った。
板につけられた綱を切り、射られながらも敵陣に突入した。
近江方の陣は混乱し、逃げ散るのを止められなかった。
将軍の智尊は刀を抜き、逃げる者を斬ったが、留めることは出来なかった。
智尊は橋のほとりで斬られた。
大友皇子と左右の大臣たちは、その身だけ辛うじてのがれ逃げた。
男依らは粟津岡の麓に、軍を集結した。
この日、羽田公矢国、出雲臣狛は連合して、三尾城を攻めて落した。
二十三日、男依らは近江軍の将、犬養連五十君と、谷直塩手を粟津市で斬った。
こうして大友皇子は逃げ入る所もなくなった。
そこで引き返して山前に身を隠し、自ら首をくくって死んだ。
左右の大臣や群臣は皆、散り逃げた。
ただ物部連麻呂と、一人、二人の舎人だけが皇子に従っていた。
大和の戦場
その後、(七月一日)将軍吹負は奈良に向かって、稗田(大和郡山市稗田)に至った時、ある人が、
「河内の方から軍勢が沢山やって来ます」
と言った。
吹負は坂本臣財、長尾直真墨、倉墻直麻呂、民直小鮪、谷直根麻呂に、三百の兵士を率いて、竜田を守らせた。
また、佐味君少麻呂に数百人を率いて、大坂(奈良県逢坂)に駐屯させた。
鴨君蝦夷に、数百人を率いて石手道を守らせた。
この日、坂本臣財らは平石野に宿ったが、近江軍が高安城にいると聞いて山に登った。
近江軍は財らが来ると知って、税倉(田税を納めた倉)をことごとく焼いて、皆、散り逃げた。
それで財らは城の中で夜をあかした。
明方、西の方を望見すると、大津、丹比の二つの道から、軍勢がたくさんやってくる旗が見えた。
誰かが、
「近江の将である壱伎史韓国の軍である」
と言った。
財は高安城から下って、衛我河を渡り、韓国と河の西で戦った。
財らは兵が少くて防ぐことができなかった。
これより先、紀臣大音が、懼坂道を守るため派遣されていたので、財らは懼坂道に退いて、大音の陣営に入った。
このとき、河内国司の来目臣塩籠が、不破宫に帰順する心があって、兵を集めていた。
ここへ韓国が着いて、密かにその謀を聞き、塩籠を殺そうと思った。
塩籠は事の漏れたことを知り自殺した。
一日経って、近江軍は諸道から集まってきた。
吹負の軍は防戦できず退却した。
この日、将軍吹負は近江軍のため破られ、ただ一人、二人の騎馬兵を連れて逃げた。
墨坂に至って、たまたま菟の軍に逢った。
そこでまた引き返して金綱井に屯して散った兵士を集めた。
そのとき、近江軍が大坂道から来るとの知らせがあり、将軍は軍を引いて西に行った。
当麻の村で、壱伎史韓国の軍と、葦池のほとりで戦った。
このとき、勇士来目という者があって、刀を抜き、馬を駆け、軍の中に突入した。
騎士が後から後からと進んだ。
近江軍はことごとく逃げ、追いかけて大いに斬った。
将軍は軍中に号令して、
「戦いをする本意は、人民を殺すことではない。元兇を討てば良いのだ。だから、みだりに殺してはならぬ」
と言った。
韓国は軍を離れて一人逃げた。
将軍は遥かにそれを見て来目に射させた。
しかし、当たらないでついに逃げ去った。
将軍が本営の飛鳥に帰ると、東国からの本隊の軍が続々やってきた。
そこで軍を分けて、それぞれ上道、中道、下道にあてて配置した。
将軍吹負は自ら中道にあたった。
折しも近江の将、犬養連五十君は、中道からきて村屋に駐屯し、別将の廬井造鯨に、二百の精兵を率いさせ、将軍吹負の陣営を襲わせた。
たまたま陣には兵が少なくて、防ぐことができなかった。
近くの大井寺の奴の徳麻呂ら五人が従軍しており、徳麻呂らは先鋒となって進んで射かけたので、鯨の軍は進むことができなかった。
この日、三輪君高市麻呂、置始連菟は上道の守りに当っていて、箸陵のほとりで戦った。
大いに近江軍を破り、勝ちに乗じて鯨の軍の後続を断った。
鯨の軍はちりぢりになって逃走し、多くの部下が殺された。
鯨は白馬に乗って逃げたが、馬は深田にはまって進むことができなかった。
将軍吹負は甲斐国の勇者に、
「あの白馬に乗っているのは、廬井鯨である。早く追いかけて射よ」
と命じた。
甲斐の勇者は馬を馳せて追った。
鯨に迫る頃に、鯨は激しく馬に鞭打ったので、馬は上手く抜け出して、逃げることができた。将軍はまた飛鳥の本営に帰り、軍を構えた。
これ以後、近江軍はもう来なかった。
その後、金綱井に集結した時、高市軍の大領の高市県主許梅は、にわかにロをつぐんでものを言うことが出来なくなった。
三日の後、神憑りのようになって言うのに、
「我は高市社にいる事代主神である。また身狭社(牟佐社)にいる生霊神である」
と言い、神の言葉として、
「神武天皇の山陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」
と言った。
さらに、
「我は皇御孫命(大海人皇子)の前後に立って、不破までお送り申して帰った。今もまた官軍の中に立って護っている」
と言った。
また、
「西の道から軍勢がやってくる。用心せよ」
と言い、言い終って醒めた。
それで急いで許梅を遣わし、御陵に参拝させ、馬と武器を奉った。
また、御幣を捧げ、高市、身狭の二社の神をお祀りした。
その後、壱伎史韓国が大坂から来襲したので、人々は、
「二社の神の教えられた言葉は、誠にこれであった」
と言った。
また、村屋神(守屋神社)の祭神も、祝(神官)に神憑って、
「今、我が社の中の道から軍勢がくる。それで社の中の道を防げ」
と言った。
何日もせぬ中に、廬井造鯨の軍が中の道から襲来した。
人々は、
「神の教えられた言葉は、これであったのだ」
と言った。
戦いが終ったのち、将軍たちは、この三神の教えられたことを天皇に奏上したところ、天皇は勅して三神の位階を引き上げてお祀りになった。
大海人皇子の大和回復
二十二日、将軍吹負は、大和の地を完全に平定し、大坂を越えて難波に向かった。
この他の別将らはそれぞれ三つの道(上道、中道、下道)から進んで、山崎に至り、河の南に集結した。
吹負は難波の小郡(迎賓施設)に留まって、以西の諸国の国司たちに、官鑰(税倉、武器庫の鍵)、駅鈴、伝印(駅馬、伝馬を使用する時に使う)を奉らせた。
二十四日、将軍たちはことごとく筱波(大津宮一帯の地)に会し、左右大臣や罪人どもを捜索、逮捕した。
二十六日、将軍たちは不破宮に向かった。
大友皇子の頭を捧げて、天皇の軍営の前に奉った。
八月二十五日、高市皇子に命じて、近江方の群臣の罪状と処分を発表された。
重罪八人を極刑(死罪)とした。
右大臣中臣連金を、浅井郡の田根で斬った。
この日、左大臣蘇我臣赤兄、大納言巨勢臣比等およびその子孫と、中臣連金の子、蘇我臣果安の子はことごとく流罪とした。
これ以外はすべて赦した。
その後、尾張国司の少子部連鉏鉤は、山に隠れて自殺した。
天皇は、
「鉏鉤は功のある者であったが、罪なくして死ぬこともないので、何か隠した謀があったのだろうか」
と言われた。
二十七日、武勲を立てた人々に勅して、功を褒め、恩賞を賜わった。
九月八日、天皇は帰路につかれ、伊勢の桑名に宿られた。
九日、鈴鹿に宿られ、十日、阿閉(伊勢国阿拝)に宿られた。
十一日、名張に宿られた。
十二日、大和京(飛鳥)にお着きになり、嶋宫にお入りになった。
十五日、嶋宮から岡本宮にお移りになった。
この年、宮殿を岡本宮の南に造り、その冬、移り住まわれた。
これを飛鳥浄御原宮という。
冬十一月二十四日、新羅の客人である金押実らを、筑紫で饗応され、それぞれに物を賜った。
十二月四日、武勲を立てた人々を選んで、冠位を加増され、小山位以上の位をそれぞれに応じて与えられた。
十五日、船一隻を新羅の客に賜わった。
二十六日、金押実らは帰途についた。
この月、大紫の韋那公高見が薨じた。
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