崇神天皇
皇后と御子
御真木入日子印恵命は、磯城の水垣宮で天下をお治めになった。
この天皇が、木国造の名は荒河刀弁という人の娘の、遠津年魚目目微比売を妻としてお生みになった御子は、
豊木入日子命、
次に豊鉏入日売命の二柱である。
また尾張連の祖先の意富阿麻比売を妻としてお生みになった御子は、
大入杵命、
次に八坂之入日子命、
次に沼名木之入日売命、
次に十市之入日売命の四柱である。
また大毘古命の娘の御真津比売命を妻としてお生みになった御子は、
伊玖米入日子伊沙知命、
次に伊耶能真若命、
次に国片比売命、
次に千千都久和比売命、
次に伊賀比売命、
次に倭日子命の六柱である。
この天皇の御子たちは、合わせて十二柱である。
皇子七柱、皇女五柱である。
伊玖米伊理毘子伊沙知は天下をお治めになった。
次に豊木入日子は、上毛野君、下毛野君らの祖先である。
妹の豊鉏比売は、伊勢の大神宮を斎き祭った。
次に大入杵は、能登臣の祖先である。
次に倭日子。
この王の時に、始めて陵墓の周りに人垣(生贄)を立てた。
三輪山の大物主神
この天皇の御代に、疫病が大流行して、国民が絶滅しそうになった。
そこで天皇は、これをご心配になりお嘆きになって、神意を請うための床にお寝みになった夜、大物主大神が御夢の中に現われて、
「疫病の流行は私の意志によるのだ。だから意富多々泥古という人に、私を祭らせなさるならば、神の祟りは起こらなくなり、国内も安らかになるだろう」
と仰せになった。
そこで急使(緊急用の使者)を四方に分かち遣わして、意富多々泥古という人を尋ね求められたと頃、河内国の美努村にその人を見いだして朝廷に差し出した。
そこで天皇が、
「そなたは誰の子か」
とお尋ねになると、意富多々泥古が答えて、
「私は、大物主が、陶津耳命の娘である活玉依毘売を妻としてお生みになった子の、名は櫛御方命という方の子の、飯肩巣見命の子の建甕槌命の子が、この私、意富多々泥古なのです」
と申し上げた。
すると天皇はとても喜んで、
「これで天下は穏やかになり、国民は栄えるであろう」
と仰せられた。
そして、ただちに意富多々泥古を神主として、三輪山に意富美和之大神を斎き祭られた。
また伊迦賀色許男命に命じて、祭りに用いる多くの平たい土器を作って、天つ神の社地つ祇の社を定めてお祭りになった。
また宇陀の墨坂の神に赤色の楯と矛を奉り、また大坂の神に黒色の楯と矛を奉り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまで、ことごとく漏れ残すことなく幣帛を奉ってお祭りになった。
これによって疫病がすっかりやんで、国内は平穏になった。
この意富多々泥古いう人を、神の子孫と知ったわけは次のとおりである。
上に述べた活玉依毘売は、容姿が美しく輝くほどであった。
ここに一人の男がいて、その姿といい、装いといい、比類のない気高い男が、夜中に突然姫のもとに訪れて来た。
そして愛し合って結婚して、共に暮らしている間に、まだ時日もたたないのに、その少女は身籠った。
そこで父母は、娘が身籠ったことを不審に思い、その娘に尋ねて、
「おまえはいつしか身重になっているが、夫がいないのにどういうわけで身籠ったのか」
というと、娘が答えて、
「とても立派な男の人で、その姓も名も知らない人が、夜ごとに通ってきて、共に住んでいる間に、いつの間にか身籠ってしまったのです」
といった。
これを聞いて娘の父母は、その男の素性を知ろうと思って、その娘に教えていうには、
「赤土を床の前に撒き散らし、糸巻きに巻いた麻糸を針に通して、男の着物の裾に刺しなさい」
と言った。
で、教えのとおりにして翌朝見ると、針につけた麻糸は、戸の鍵穴から抜け通って出て、糸巻きに残っている麻糸はわずかに三勾だけであった。
それで男が鍵穴から出ていったことを知って、その糸をたどって尋ねて行くと、三輪山に続いていて神の社で留まっていた。
それで生まれる子が、三輪の大物主の子であることがわかった。
そして、その麻糸が三勾だけ糸巻きに残っていたのにもとづいて、その地を名づけて美和というのである。
この意富多々泥古は神君、鴨君の祖先である。
武波邇安王の反逆
またこの天皇の御代に、大毘古を越国に遣わし、その子の建沼河別命を東方の十二国に遣わして、そこの従わない人々を服従おさせになった。
また日子坐王を丹波国に遣わして、玖賀耳之御笠という人を討たした。
さて、大毘古が越国に下って行ったとき、腰裳を着けた少女が、山城の幣羅坂に立って歌を詠んだ。
御真木入日子はまあ、御真木入日子はまあ。
自分の命を密かに狙って殺そうとする者が、
人が来ると後ろの戸から行きちがい、
前の戸から行きちがいして、
こっそりと伺っているのも知らないで、
御真木入日子はまあ。(二三)
と歌った。
そこで大毘古は、不思議に思って馬を返して、その少女に尋ねて、
「おまえが今言ったことばは、どういう意味なのか」
といった。
すると少女は答えて、
「私はものを言ったのではありません。ただ歌を詠んだだけなのです」
と言った。
そして少女は、たちまち行くえも知れず姿を消してしまった。
そこで大毘古は、さらに都に引き返して、天皇に申しあげてお指図を乞うと、天皇が答えて、
「これは山城国にいるあなたの異母兄の建波邇安王が、反逆の野心を起した瑞に違いあるまい。伯父上よ、軍勢を整えてお出かけなさい」
と仰せられて、丸邇臣の祖先の日子国夫玖命を副えて遣わされた。
そのとき、日子国夫玖は丸邇坂に斎み清めた酒瓶を据えて神を祭り、下って行かれた。
ところが山城の和訶羅河にやって来たとき、かの建波邇安は、軍勢を整えて待ちうけて行くてを遮り、それぞれ川を間に挟んで向かい立って、互いに戦をしかけた。
それでその地を名づけて伊抒美という。
今は伊豆美という。
そこで日子国夫玖が相手に求めて、
「まずそちらの人から合戦の合図の矢を放て」
といった。
そこで建波邇安が矢を射たけれども命中しなかった。
ところが国夫玖の放った矢は、建波邇安に命中して王は死んだので、その軍勢は総崩れとなって逃げ散った。
そこでその逃げる軍勢を追いつめて久須婆の渡りにやって来たとき、王の軍はみな攻め苦しめられて、屎が出て袴にかかった。
それでその地を名づけて屎襌という。
今は久須婆という。
またその逃げる軍勢の行くてを遮って斬りつけたので、死体が鵜のように川に浮かんだ。
それでその川を名づけて鵜河という。
またその兵士を斬り屠ったので、その地を名づけて波布理曾能という。
こうして大毘古は平定し終わって、都に上って天皇に復命した。
初国知らしし天皇
ところで大毘古は、先の詔に従って越国の平定に下って行った。
ところが東方に遣わされた建沼河別は、その父の大毘古と会津で行き会った。
それでそこを会津というのである。
こうしてそれぞれ遣わされた国を平定し服従させる任務を果たして、これを天皇に復命した。
そして天下は平になり、国民は富み栄えることになった。
そこで初めて天皇は、男の弓矢で得た獲物や、女の手で織った織物などの調の品を貢納させられた。
それでその御世をたたえて、
「初国知らしし御真木天皇」
と申すのである。
またこの御世に、灌漑のために依網池を作り、また軽の酒折池を作った。
天皇の御年は百六十八歳。
戌寅の年の十二月に崩御になった。
御陵は、山辺道の勾の岡のほとりにある。
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