神武東征
東進と五瀬の戦死
神倭伊波礼毘古命は、兄の五瀬命と二柱で、高千穂宮にいた。
そして、
「どこの地にいたならば、安らかに天下の政治を行なうことができるだろうか。やはり、東の方に都の地を求めて行こうと思う」
と相談し、ただちに日向から出発して筑紫国へ向かった。
豊国の宇沙に到着された時、その国の住民である宇沙都比古、宇沙都比売という二人が、足一騰宮を作って、御食膳を奉った。
そこからさらに移動し、筑紫の岡田宫にー年間滞在した。
またその国から移動して、安芸国の多祁理宮に七年間滞在した。
さらにその国から移動し、吉備の高島宮に八年間滞在した。
そしてその国から進んだ時、亀の甲に乗って釣りをしながら、両袖を振ってやって来る者がいて、速吸門(豊予海峡、または明石海峡および児島付近)で遭遇した。
「お前は誰か」
と尋ねると、
「私は国つ神です」
答えた。
「お前は海路を知っているか」
とお尋ねになると、
「よく存じています」
と返事をする。
「私に従ってお仕えするか」
と尋ねると、
「お仕えいたしましょう」
と答えた。
さらに進み、浪速渡を経て白肩津に船を停めた。
このとき、登美の那賀須泥毘古が軍勢を起こしており、待ち受けて戦った。
こうして那賀須泥毘古と戦ったとき、五瀬は手痛い矢を受けた。
そこで五瀬が言うには、
「私は日の神の御子として、日に向かって戦うのは良くなかった。それで、賤しい奴の矢で重傷を負ったのだ。今後は遠回りをして、日を背に負うて敵を撃とう」
と誓い、南の方から回ってお進みになった。
そこから紀伊国の男之水門に至って、
「賤しい奴のために手傷を負うて私は死のか」
と雄々しく振る舞ったが、そこでお亡くなりになった。
布都御魂と八咫烏
神倭伊波礼毘古は、そこから南に回って進み、熊野村に到着した。
そのとき、大きな熊がちらりと見え隠れして、やがて姿を消した。
すると神倭伊波礼毘古は、急に正気を失われ、また兵士たちも皆気を失って倒れた。
このとき、熊野の高倉下という者が、一振りの太刀を持って天つ神の御子が倒れている所にやって来た。
そしてその太刀を奉ると、天つ神の御子は、即座に正気を取り戻して起き上がり、
「長い間寝ていたのか」
と言った。
そしてその太刀をお受け取りなさると同時に、その熊野の山の荒ぶる神は、自然に皆切り倒されてしまった。
そしてその気を失って倒れていた兵士たちも、皆正気を取り戻して起き上がった。
そこで天つ神の御子が、その太刀を手に入れたわけをお尋ねになると、高倉下がは、
「武御雷から戴いた」
と言う。
そこでまた高木から指示があり、
「今、天上から八咫烏を遣わそう。そしてその八咫烏が先導するであろう。その烏の飛び立つあとについて行ってお進みなさい」
と行った。
それで八咫烏の後について進んだ。
兄宇迦斯と弟宇迦斯
宇陀に着くと、兄宇迦斯、弟宇迦斯の二人がいた。
そこでまず八咫烏を遣わして、二人に尋ねさせた。
「あなたたちは神倭伊波礼毘古にお仕え申しあげるか」
すると兄宇迦斯は、八咫烏を待ち受けて射て追い返した。
ところが兄宇迦斯は軍勢を集めることができなかったので、仕える振りをして偽って、御殿を作り、その御殿の中に押罠を仕掛けて待っていた。
そのとき、弟宇迦斯が伊波礼毘古をお迎えにゆき、こう言った。
「御殿の中に押罠を仕掛けて待ち受けて殺そうとしています」
そして、大伴連らの祖先の道臣と、久米直らの祖先の大久米の二人が、兄宇迦斯を呼んで罵ってこう言った。
「おまえがお仕え申すために作った御殿の中には、まずは貴様が入って、お仕え申そうとする有様をはっきり見せろ」
宇迦斯は自分の作った押罠に打たれて死んでしまった。
さらに、兄宇迦斯を引き出して、斬り散らした。
橿原入り
そこから進み、忍坂の大室に着いたとき、尾の生えた土雲という大勢の強者(八十建)が、その岩屋の中で待ち受けて、唸り声をあげていた。
そこで伊波礼毘古の命令で、御馳走を大勢の強者に賜わった。
このとき、多くの兵士を料理人にさせ、一人一人に太刀を佩かせ、その料理人たちに、
「歌を聞いたら、一斉に斬りつけよ」
と指示した。
そして歌を合図に、一斉に打ち殺してしまった。
その後、那賀須泥毘古や、兄師木と弟師木を討ち、伊波礼毘古の軍勢は疲労がたまった。
すると、邇芸速日命が伊波礼毘古のもとに参上し、申しあげた。
「天つ神の御子が天降って来られたと聞きましたので、あとを追って天降って参りました」
やがて天つ神の子である瑞の宝物を奉って、お仕え申しあげた。
邇芸速日は、那賀須泥毘古の妹である登美夜毘売と結婚した。
このようにして伊波礼毘古は、荒ぶる神たちを平定し、服従しない人たちを撃退して、畝火の白橿原宮において天下をお治めになった。
伊須気余理比売
伊波礼毘古が日向にいたときに、阿多の小椅君の妹である、阿比良比売という名の女性と結婚していた。
お生みになった子に、多芸志美美と岐須美美の二柱がいた。
さらに皇后とする少女を探し求められたとき、大久米が言うには、
「ここに良い少女がおります。この少女を神の御子と伝えています。神の御子というわけは、三輪の大物主神がこの少女を見て気に入って、やがてその少女と結婚して生んだ子の名が、富登多多良須須岐比売といい、またの名を比売多多良伊須気余理比売といいます」
七人の少女が、高佐士野に出て野遊びをしていた。
伊須気余理比売もその中に加わっていた。
すると大久米は、伊須気余理比売の姿を見て、天皇に申し上げた。
こうしてその少女は、天皇に「お仕えいたしましょう」と言った。
そしてお生まれになった御子の名は、日子八井、次に神八井耳、次に神沼河耳の三柱である。
当芸志美美命の反逆
神武天皇が亡くなられてのち、天皇の異母兄の当芸志美美が、皇后の伊須気余理比売を妻としたときに、その三人の弟たちを殺そうと計画した。
そこで御子は陰謀を知って驚き、すぐに当芸志美美を殺そうとした。
そのとき、神沼河耳はその兄の神八井耳に、
「兄上よ、あなたは武器を持って入って、当芸志美美を殺しなさい」
と言った。
それで、武器を持って入って殺そうとしたとき、手足が震えて、殺すことができなかった。
そこでその弟の神沼河耳は、その兄の持っている武器をもらい受け、入って行って当芸志美美を殺した。
こうして神八井耳は、弟の建沼河耳に皇位を譲って申すには、
「私は敵を殺すことができなかった。あなたは完全に敵を殺すことできた。だから、私は兄であるけれども、上に立つべきではない。あなたが天皇となって、天下をお治めなさい。私はあなたを助けて、祭事を司る者となってお仕え申しましょう」
と言った。
神倭伊波礼毘古の天皇(神武天皇)の年齢は百三十七歳。
御陵は畝火山の北の方の白橿尾のあたりにある。
綏靖天皇
神沼河耳命は、葛城の高岡宮で天下を治めた。
磯城県主の祖先である川俣毘売を妻としてお生みになった御子が、師木津日子玉手命である。
天皇の年齢は四十五歳。
御陵は衝田岡にある。
安寧天皇
師木津日子玉手命は、片塩の浮穴宮で天下を治めた。
川俣毘売の兄の県主波延の娘である阿久斗比売を妻としてお生みになった御子が、常根津日子伊呂泥命、
次に大倭日子鉏友命、
次に師木津日子命である。
天皇の年齢は四十九歳。
御陵は畝傍山の美富登にある。
懿徳天皇
大倭日子鉏友命は、軽の境岡宮で天下を治めた。
師木県主の祖先の賦登麻和訶比売命、またの名は飯日比売命を妻としてお生みになった御子が、御真津日子訶恵志泥命、
次に多芸志比古命の二柱である。
天皇の年齢は四十五歳。
御陵は畝傍山の真名子谷の近くにある。
孝昭天皇
御真津日子訶恵志泥命は、葛城の掖上宮で天下を治めた。
尾張連の祖先の奥津余曾の妹である余曾多本毘売命を妻としてお生みになった御子は、天押帯日子命、
次に大倭帯日子国押人命の二柱である。
天皇の年齢は九十三歳。
御陵は掖上の博多山のほとりにある。
孝安天皇
大倭帯日子国押人命は、葛城の室の秋津島宮で天下を治めた。
姪である忍鹿比売命を妻としてお生みになった御子は、大吉備諸進命、
次に大倭根子日子賦斗邇命の二柱である。
天皇の御年は百二十三歳。
御陵は玉手岡の上にある。
孝霊天皇
大倭根子日子賦斗邇命は、黒田の廬戸宮で天下を治めた。
十市県主の祖先の大目の娘である細比売を妻として、お生みになった御子は、大倭根子日子国玖琉命である。
また春日の千千速真若比売を妻としてお生みになった御子は、千千速比売である。
さらに、意富夜麻登玖邇阿礼比売命を妻としてお生みになった御子は、夜麻登母々曾毘売命、
次に日子刺肩別命、
次に比子伊佐勢理毘古命、またの名は大吉備津日子命、
次に倭飛羽矢若屋比売の四柱である。
また阿礼比売命の妹の蝿伊呂杼を妻としてお生みになった御子は、日子寤間命、次に若日子建吉備津日子命の二柱である。
天皇の御年は百六歳。
御陵は片岡の馬坂の上にある。
孝元天皇
大倭根子日子国玖琉は、軽の堺原宮で天下を治めた。
穂積臣らの祖先である内色許男命の妹である内色許売命を妻としてお生みになった御子は、
大毘古、
次に少名日子建猪心命、
次に若倭根子日子大毘々命の三柱である。
また内色許男の娘である伊迦賀色許売命を妻として、お生みになった御子は、比古布都押之信命である。
また河内の青玉の娘である波邇夜須毘売を妻として、お生みになった御子は、建波邇夜須毘古命である。
この天皇の御年は五十七歳。
御陵は剣池の中の岡の上にある。
開化天皇
若倭根子日子大毘々命は、春日の伊耶河宮で天下を治めた。
丹波の大県主の由碁理の娘である竹野比売を妻として、お生みになった御子は比古由牟須美命である。
また、庶母の伊迦賀色許売を妻としてお生みになった御子は、御真木入日子印恵命と、御真津比売命との二柱である。
また丸邇臣の祖先である日子国意祁都命の妹の意祁都比売命を妻として、お生みになった御子は、日子坐王である。
また葛城の垂見宿禰の娘の鸇比売を妻として、お生みになった御子は、建豊波豆羅和気である。
天皇の年齢は六十三歳。
御陵は伊耶河の坂の上にある。
崇神天皇
皇后と御子
御真木入日子印恵命は、磯城の水垣宮で天下をお治めになった。
この天皇が、木国造の名は荒河刀弁という人の娘の、遠津年魚目目微比売を妻としてお生みになった御子は、
豊木入日子命、
次に豊鉏入日売命の二柱である。
また尾張連の祖先の意富阿麻比売を妻としてお生みになった御子は、
大入杵命、
次に八坂之入日子命、
次に沼名木之入日売命、
次に十市之入日売命の四柱である。
また大毘古命の娘の御真津比売命を妻としてお生みになった御子は、
伊玖米入日子伊沙知命、
次に伊耶能真若命、
次に国片比売命、
次に千千都久和比売命、
次に伊賀比売命、
次に倭日子命の六柱である。
三輪山の大物主神
この天皇の御代に、疫病が大流行して、国民が絶滅しそうになった。
そこで天皇は、これをご心配になりお嘆きになって、神意を請うための床にお寝みになった夜、大物主大神が御夢の中に現われて、
「疫病の流行は私の意志によるのだ。だから意富多々泥古という人に、私を祭らせなさるならば、神の祟りは起こらなくなり、国内も安らかになるだろう」
と仰せになった。
ただちに意富多々泥古を神主として、三輪山に意富美和之大神を斎き祭られた。
これによって疫病がすっかりやんで、国内は平穏になった。
武波邇安王の反逆
この天皇の御代に、大毘古を越国に遣わし、その子の建沼河別命を東方の十二国に遣わして、そこの従わない人々を服従させた。
大毘古が越国に下って行ったとき、腰裳を着けた少女が、山城の幣羅坂に立って歌を詠んだ。
御真木入日子はまあ、御真木入日子はまあ。
自分の命を密かに狙って殺そうとする者が、
人が来ると後ろの戸から行きちがい、
前の戸から行きちがいして、
こっそりと伺っているのも知らないで、
御真木入日子はまあ。
大毘古は不思議に思って馬を返して、その少女に尋ねて、
「おまえが今言ったことばは、どういう意味なのか」
といった。
すると少女は、
「私はものを言ったのではありません。ただ歌を詠んだだけなのです」
と言った。
そして少女は、たちまち行くえも知れず姿を消してしまった。
そこで大毘古は都に引き返して、天皇に申しあげてお指図を乞うと、天皇が答えて、
「これは山城国にいるあなたの異母兄の建波邇安王が、反逆の野心を起した瑞に違いあるまい。伯父上よ、軍勢を整えてお出かけなさい」
と仰せられて、丸邇臣の祖先の日子国夫玖命を副えて遣わされた。
山城の和訶羅河にやって来たとき、建波邇安は軍勢を整えて待ちうけて行くてを遮り、それぞれ川を間に挟んで向かい立って、互いに戦をしかけた。
国夫玖の放った矢が建波邇安に命中して死んだので、その軍勢は総崩れとなって逃げ散った。
こうして大毘古は平定し終わって、都に上って天皇に復命した。
初国知らしし天皇
そして天下は平になり、国民は富み栄えることになった。
それでその御世をたたえて、
「初国知らしし御真木天皇」
と申すのである。
天皇の御年は百六十八歳。
戌寅の年の十二月に崩御になった。
御陵は、山辺道の勾の岡のほとりにある。
垂仁天皇
皇妃と御子
伊久米伊理毘古伊佐知命は、磯城の玉垣宫で天下を治めた。
この天皇が沙本毘古命の妹の佐波遅比売命を妻としてお生みになった御子は、品牟都和気命である。
また旦波比古多々須美知宇斯王の娘の氷羽州比売命を妻としてお生みになった御子は、
印色入日子命、
次に大帯日子淤斯呂和気命、
次に大中津日子命、
次に倭比売命、
次に若木入日子命である。
またその氷羽州比売の妹の沼羽田之入毘売命を妻としてお生みになった御子は、
沼帯別命、
次に伊賀帯日子命である。
またその沼羽田之入日売の妹の阿耶美能伊理毘売命を妻としてお生みになった御子は、
伊許婆夜和気命、
次に阿耶美都比売命である。
また大筒木垂根王の女の迦具夜比売命を妻としてお生みになった御子は、袁耶弁王である。
また山城の大国之淵の娘の苅羽田刀弁を妻としてお生みになった御子は、
落別王、
次に五十日帯日子王、
次に伊登志別王である。
またその大国之淵の娘である苅羽田刀弁を妻としてお生みになった御子は、
石衝別王、
次に石衝毘売命、またの名は布多遅能伊理毘売命である。
沙本毘古と沙本毘売
この垂仁天皇が沙本毘売を皇后にしていた時、沙本毘売の同母の兄の沙本毘古が反逆を計画した。
「あなたが本当に私をいとしいと思うなら、私とあなたとで天下を治めよう」
と言って、紐小刀を妹に与えて、
「この短刀で、天皇の寝ているところを刺し殺しなさい」
と言った。
皇后が紐小刀で天皇の首を剌そうとして、三度も振り上げられたが、悲しい思いに堪えきれず、刺すことができなくて、泣く涙が天皇のお顔に落ちて流れた。
すると天皇は目を覚まして、その皇后に向かって、
「今、私は変な夢を見た。佐保の方から俄雨が降って来て、急に私の顔を濡らした。また錦のような色の小蛇が、私の首に巻きついた。こういう夢は、いったい何の瑞であろうか」
とお尋ねになった。
そこで皇后は、とても隠しきれまいとお思いになって、即座に天皇に打ちあけて、沙本毘古の反逆を打ち明けた。
そこで天皇は軍勢を出して沙本毘古を討伐なさったとき、沙本毘古は稲城を作り、待ち受けて戦った。
このとき沙本毘売はその兄を思う情に堪えかねて、こっそり裏門から逃げ出して、その稲城の中にお入りになった。
このとき、皇后は懐妊しておられた。
戦いが停滞している間に、懐妊しておられる御子が、とうとうお生まれになった。
皇后は、その御子を抱いて稲城の外にさし出された。
その御子を受け取ることはできたが、その母君を捕えることはできなかった。
その皇后に仰せられるには、
「すべて子の名は、かならず母親が名づけるものであるが、何とこの子の名前をつけたらよかろうか。今、火が稲城を焼くときに火の中でお生まれになりました。だからその御子の名は本牟智和気と名づけましょう」
と申しあげた。
かくして天皇は、ついにその沙本毘古をお討ちになったので、その妹の沙本毘売も兄に従って亡くなった。
時じくの香の木の実
天皇は、三宅連らの祖先で、名は多遅摩毛理という人をはるか遠い常世国に遣わして、時を定めずに良い香りを放つ木の実(橘)を求めさせられた。
それで多遅摩毛理は、ついにその国にやって来て、その木の実を採って、縵橘八本、矛橘八本をたずさえて帰って来る間に、天皇は既にお亡くなりになっていた。
そこで多遅摩毛理は、縵橘四本と矛橘四本を分けて皇后に奉り、縵橘四本と矛橘四本を天皇の御陵の入口に供えて、その木の実を捧げ持って、大声で叫び泣きながら、
「常世国の時じくの香の木の実を持って参上いたしました」
と申しあげて、ついに泣き叫びながら死んでしまった。
その時じくの香の木の実というのは、今の橘のことである。
この天皇の御年は百五十三歳。
御陵は菅原の御立野の中にある。
景行天皇
后妃と御子
大帯日子淤斯呂和気天皇は、纒向の日代宮で天下を治めた。
この天皇が、吉備臣らの祖先の若建吉備津日子の娘の、名は針間之伊那毘能大郎女という方を妻としてお生みになった御子は、
櫛角別王、
次に大碓命、
次に小碓命でまたの名は倭男具那命、
次に倭根子命、
次に神櫛王 である。
また八尺入日子命の娘である八尺之入日売命を妻としてお生みになった御子は、
若帯日子命、
次に五百木之入日子命、
次に押別命、
次に五百木之入日売命である。
またある妃の生んだ子は、
豊戸別王、
次に沼代郎女である。
また別の妃の生んだ子は、
沼名木郎女、
次に香余理比売命、
次に若木之入日子王、
次に吉備之兄日子王、
次に高木比売命、
次に弟比売命である。
また日向の美波迦斯毘売を妻としてお生みになった御子は、豊国別王である。
また伊那毘能大郎女の妹である伊那毘能若郎女を妻としてお生みになった御子は、
真若王、
次に日子人之大兄王である。
また倭建命の曾孫の須売伊呂大中津日子王の娘である訶具漏比売を妻としてお生みになった御子は大枝王である。
倭健命の熊襲征伐
あるとき、天皇が小碓に言った。
「どういうわけで、そなたの兄は朝夕の食膳に出て参らないのか。よくおまえから優しく教え諭しなさい」
しかし、五日経ってもやはり大碓は出て参らなかった。
そこで天皇が小碓に尋ねた。
「どうしてそなたの兄は出て参らないのか。もしや、まだ伝えていないのではないか」
と聞くと、小碓は、
「すでに教えております」
と申し上げた。
「どのように伝えたのか」
と尋ねると、
「夜明けに兄が厠に入った時、待ち受けて捕え、掴み打って、その手足をもぎ取り、薦に包んで投げました」
と述べた。
天皇は小碓の猛々しく荒々しい性格を恐れて、
「西の方に熊曾建が二人がいる。彼らは朝廷に服従しない無礼な者どもである。だからその者どもを打ち取りなさい」
と命じて、小碓を遣わした。
このとき小碓は、髪を額で結っている少年であった。
熊曾建の家にやって来て見てみると、その家の周辺には軍勢が三重に囲んでおり、室(屋敷)を造っていた。
そして新室の完成祝い(新築祝い)の宴を開くため、食物の準備をしていた。
それで小碓は、周囲を歩き回りながら、祝宴の日を待った。
祝宴の日になると、小碓はその結っている御髪を少女の髪形のように櫛けずって垂らし、叔母からもらった衣と裳を着て、少女の姿に変装して女たちの中にまぎれ込み、その室の内に入っていた。
小碓は、その祝宴の最高潮になった時を見計らって、懐から剣を出して、熊曾の衣の衿を掴んで、剣をその胸から刺し通された。
そのとき、弟の建はこれを見て恐れをなして逃げ出したが、これを追いかけ、その背の皮をとらえて、剣を尻から刺し通された。
このとき、熊曾建が言った、
「あなた様はどなたでいらっしゃいますか」
と尋ねたので、小碓は、
「私は、大帯日子淤斯呂和気天皇の皇子で、名は倭男具名である。おまえたちを討ち取れと仰せられ、私をお遣わしになったのだ」
と言った。
そこでその熊曾建は、
「西の方には我ら二人を除いては、猛く強い者はおりません。私はお名前を奉りましょう。今後は倭建命と称えて申しましょう」
と言った。
それで、その時から名前を倭建という。
そうして大和へ帰って来られるときに、山の神、河の神、また海峡の神をみな服従させ平定して、都にお上りになった。
倭健命の出雲建征伐
倭建は出雲国に入って、その首長である出雲建を討ち殺すことになり、到着するとすぐに親しい友情を交わされた。
そして、密かに赤檮の木で偽の太刀を作り、それを身に帯びて、出雲建とともに肥河で沐浴した。
倭建が先に川からお上がりになって、出雲建が解いて置いた太刀を取って佩き、
「太刀を取り換えよう」
と仰せられた。
それで後に出雲建は川から上がって、倭建の偽りの太刀を身に着けた。
そこで倭建は、
「さあ、太刀合わせをしよう」
と挑戦を申し出た。
そこで各々がその太刀を抜いた時、出雲建は偽の太刀を抜くことができなかった。
倭建は、その太刀を抜いて出雲建を打ち殺してしまわれた。
そして、このように賊を追い払い平定して、都に上り復命した。
倭健命の東国征伐
天皇は、さらに重ねて倭建に命じた。
「東方十二ヶ国の荒れすさぶ神や、また服従しない人々を平定し、従わせよ」
勅命を受けて東国に下って行かれるとき、伊勢神宮に参って、神殿を礼拝し、やがてその叔母の倭比売に述べた。
「天皇は、私を死んでしまえばよい、と思っておられるのでしょうか。西の方の討伐から都に返ってまだ幾らも時が経っていないのに、兵士も与えず、今度はさらに東国十二ヶ国の平定にお遣わしなさる」
そう言って嘆き泣き悲しんで発つ時、倭比売は草薙剣をお授けになり、また袋もお授けて、
「もしも火急のことがあったら、この袋の口をお開けなさい」
と伝えた。
尾張国に到着して、尾張国造の祖先の美夜受比売の家に入った。
そこで美夜受比売と結婚しようと思ったが、またここに帰って来たときに結婚しようと思い、結婚の約束をして東国に向かった。
そして、すべての山や川の荒れすさぶ神々、服従しない人々を平定した。
そして相模国に着いたとき、その国造が倭建を騙して、
「この野の中に大きな沼があります。この沼の中に住んでいる神は、ひどく強暴な神でございます」
と伝え、倭建が野に入ると火をつけた。
それで倭建は、騙されたと気づいて、叔母の倭比売からもらった袋の口を解いて開けて見ると、中に火打石があった。
そこでまず刀で草を刈り払い、その火打石で火を打ち出して向い火をつけて、燃え迫って来る火を退けて、その野を無事に出ると、その国造たちを皆斬り殺して、火をつけて焼いた。
そこからさらに進み、走水海を渡ろうとした時、その海峡の神が荒波を立て、船をぐるぐる回して、倭建は先へ渡って進むことができなかった。
すると、后である弟橘比売が、
「私が皇子の身代りとなって海中に身を沈めましょう。皇子は、遣わされた東征の任務を成しとげて、天皇に御報告なさいませ」
と言って海に降りた。
するとその荒波は自然に穏やかになって、御船は先へ進むことができた。
それから七日たって後に、后の御櫛が海岸に流れ着いた。
そこでその櫛を取って、御陵を作ってその中に納め葬った。
倭建は、そこからさらに奥へ進み、ことごとく荒れ狂う蝦夷どもを平定し、また山や川の荒れすさぶ神々を平定し、都に上って帰っていた。
そして足柄山の坂の上に登り立って、三回嘆息し、
「ああ、我が妻よ」
と仰せになった。
それでその国を名づけて吾妻(東)というのである。
美夜受比売
甲斐国から信濃国に越えて、そこで信濃の坂の神を帰順させ、尾張国に帰って来ると、まず再会を約束していた美夜受比売の家に入った。
そして結婚し、その帯びていた草那芸剣を美夜受比売のところに置いたまま、伊吹山の神を討ち取るために出発した。
倭健命の死
倭建は、
「この山の神は素手でじかに討ち取ってやろう」
と言って、その山にお登った時、山のほとりで白い猪に出会った。
その大きさは牛のようであった。
この白い猪に化身していたのは、山の神自身であった。
山の神は激しい雹を降らせて、倭建を打ち惑わせた。
病に伏せながらも山から帰って来て、大和を目指して能煩野に着いた時、故郷の大和国を偲んで歌を詠んだ。
歌い終わってすぐにお隠れになった。
そこで早馬の急使を朝廷に奉って、このことを報告した。
白智鳥と御葬歌
大和にいる后たちや御子たちは、皆降って来て御陵を造り、その周囲の田の中を這い回って、泣き悲しんだ。
すると倭建の魂は、大きな白い千鳥となって空に飛び立って、海に向かって飛び去った。
白鳥は、伊勢国から飛び翔って行って、河内国の志幾に留まった。
そこでその地に御陵を造って、御魂を鎮座させた。
そこでその御陵を名づけて白鳥御陵という。
しかし、白鳥はまたそこからさらに空高く天翔って飛び去って行った。
この大帯日子の年齢は、百三十七歳。
御陵は山辺道のほとりにある。
成務天皇
若帯日子天皇は、近江の志賀の高穴穂宮で天下を治めた。
この天皇が、穂積臣等の祖先である、建忍山垂根の娘の弟財郎女を妻としてお生みになった御子が和訶奴気王である。
そして、建内宿禰を大臣として、大小の国々の国造を定め、また国々の境界と、大小の県の県主を定めた。
天皇の年齢は九十五歳である。
乙卯の年の三月十五日に崩御した。
御陵は狭城の盾列にある。
仲哀天皇
后妃と御子
帯中日子天皇は、穴門の豊浦宮、および筑紫の香椎宮で天下を治めた。
この天皇が、大江王の大中津比売命を妻としてお生みになった御子は、香坂王と忍熊王の二柱である。
また息長帯比売命(この方は皇后である)を妻としてお生みになった御子は、品夜和気命と大鞆和気命、またの名を品陀和気命の二柱である。
神功皇后の神がかりと神託
仲哀天皇の皇后である息長帯比売は、天皇の筑紫巡幸の折に神がかりになられた。
「西の方に国がある。その国には、金や銀をはじめとして、目のくらむようないろいろの珍しい宝物がたくさんある。私は今、その国を服属させてあげようと思う」
ところが天皇がこれに答えて言う。
「高い所に登って西の方を見ると、国土は見えないで、ただ大海があるだけだ」
そして偽りを言う神だとお思いになって、お琴を押しやってお弾きにならず、黙っておられた。
するとその神がひどく怒って言う。
「そもそもこの天下は、そなたが統治すべき国ではない。そなたは黄泉国への一道に向かいなさい」
そして天皇は亡なっていた。
そこで驚き恐れて、御遺体を殯宮にお移し申し上げ、国家的な大祓の儀礼を行ない、また武内宿禰が神おろしの場所にいて神託を求めた。
そこで神が教え諭したことは、すべて先日の神託と同じで、
「全てこの国は、皇后様のお腹におられる御子が統治されるべき国である」
というものであった。
神功皇后の新羅遠征
そこで皇后は、すべて神が教えたとおりにして、軍勢を整え船を並べて海を渡って征伐した。
こういうわけで、新羅国は馬飼とお定めになり、百済国は海を渡った地の屯倉と定めた。
新羅征討の政務がまだ終わっていないうちに、皇后の身籠っておられる御子が生まれになりそうになった。
そこで皇后は、お腹を鎮めようとして、石を取って裳の腰に付けて出産を抑え、筑紫国に還られてから、その御子は生まれた。
忍熊王の反逆
こうして大和へ上って来られる時、香坂と忍熊はこれを聞いて、皇后を待ち受けて討ち取ろうと思った。
そこで香坂が櫟に登っていると、そこに大きな怒り狂った猪が現われて、その櫟を掘って倒し、たちまち香坂を食い殺した。
その弟の忍熊は、その凶兆を恐れることなく、軍勢を起こして皇后を待ち受け迎えたが、結局は湖に身を投じてともに死んでしまった。
およそ仲哀天皇の年齢は五十二歳。
壬把の年の六月十一日に崩御になった。
御陵は河内国の恵賀の長江にある。
皇后は百歳でお亡くなりになった。
そして狭城の楯列陵に葬り申し上げた。
応神天皇
后妃と御子
品陀和気命は、軽島の明宮で天下を治めた。
応神天皇は、品陀真若王の娘の三柱の女王と結婚した。
高木之入日売命、次に中日売命、次に弟日売命である。
高木之入日売の御子は、
額田大中日子命、
次に大山守命、
次に伊奢之真若命、
次に妹の大原郎女、
次に高目郎女の五人である。
中日売命の御子は、
木之荒田郎女、
次に大雀命、
次に根鳥命のお三名である。
弟日売の御子は、
阿部郎女、
次に阿貝知能三腹郎女、
次に木之菟野郎女、
次に三野郎女の五人である。
また天皇が丸邇氏の比布礼能意富美の娘の宮主矢河枝比売と結婚してお生みになった御子は、
宇遅能和紀郎子、
次に妹の八田若郎女、
次に女鳥王の三名である。
矢河枝比売の妹の袁那弁郎女と結婚してお生みになった御子は、宇遅之若郎女である。
咋俣長日子王の娘の、息長真若中比売と結婚してお生みになった御子は、若沼毛二俣王である。
桜井の田部連の祖先の島垂根の娘である糸井比売と結婚してお生みになった御子は、速総別命である。
日向の泉長比売と結婚してお生みになった御子は、
大羽江王、
次に小羽江王、
次に幡日之若郎女の三名である。
迦具漏日売と結婚してお生みになった御子は、
川原田郎女、
次に玉郎女、
次に忍坂大中比売、
次に登富志郎女、
次に迦多遅王の五人である。
葛城の野伊呂売と結婚してお生みになった御子は、伊奢能麻和迦王である。
この天皇の御子たちは、合わせて二十六であった。
大山守命と大雀命
応神天皇は、大山守と大雀とに尋ねて、
「お前たちは年上の子と年下の子と、どちらがかわいいか」
と言った。
天皇がこの問を発せられた理由は、宇遅能和紀郎子に天下を治めさせようとの考えがあったからである。
そこで大山守は、
「年上の子の方がかわいく思われます」
と答えた。
次に大雀は、天皇がお尋ねになった心中を察して、
「年上の子は既に成人していますので、こちらは気にかかることもありませんが、年下の子はまだ成人しておりませんので、このほうがかわいく思われます」
と答えた。
すると天皇は、
「大雀よ、お前の言ったことは私の思っているとおりだ」
と言って、三人の皇子の任務を分けて、
「大山守は、山と海の部を管理しなさい。大雀は、私の統治する国の政治を執行して奏上しなさい。宇遅能和紀郎子は皇位を継承しなさい」
と言った。
百済の朝貢
この天皇の御代に、海部、山部、山守部、伊勢部を定めた。
また、剣池を作った。
さらに、新羅の人々が渡来した。
そこで武内宿禰がこれらの人々を率いて、渡の堤池として百済池を作った。
百済の国王の照古王は、牡馬一頭と牝馬ー頭を阿知吉師に託して奉った。
また照古王は、太刀と大鏡とを献上した。
天皇は百済国に、
「もし百済に賢人がいたら奉るように」
と言った。
そこで勅を受けて献った人の名は和邇吉師という。
そして、ただちに『論語』を十巻、『千字文』を一巻、合わせて十一巻をこの人に託してすぐに献上した。
およそこの品陀天皇の年齢は、百三十歳で、甲午の年の九月九日に崩御した。
御陵は、河内国の恵賀の裳伏崗にある。
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