神功皇后 気長足姫尊
神功皇后の熊襲征伐
気長足姫尊は、開化天皇の曽孫、気長宿禰王の娘である。
母を葛城高顙媛という。
仲哀天皇の二年にその皇后となられた。
幼時から聡明で、叡智であらせられた。
容貌もすぐれて美しく、父もいぶかしがられる程であった。
九年春二月、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で亡くなられた。
皇后は天皇が神のお告げに従わなかったことで、早く亡くなられたことを傷んで思われるのに、祟られる神を知って、財宝のある国を求めようとされた。
群臣と百寮に命ぜられ、罪を払い過ちを改めて、さらに斎宮を小山田邑に造らせられた。
三月一日、皇后は吉日を選んで斎宮に入り、自ら神主となられた。
武内宿禰に命じて琴を弾かせ、中臣である烏賊津使主を呼び、審神者(神託を聞いてその意味を解釈する人)とされた。
幣帛を数多く積んで、琴の頭部と尾部に置き、祈り求めた。
「先の日に天皇に教えられたのはどこの神でしよう。どうかその御名を知りたいのです」
と申された。
七日七夜に至って、
「伊勢の国の度会の県の、五十鈴宫にお出でになる、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命である」
と答えられた。
またお尋ねした。
「この神の他に、まだ神がお出でになりますか」
すると、
「形に現れた我は、尾田の吾田節の淡郡にいる神である」
と答えられた。
「まだおられますか」
と聞くと、
「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神がある」
と答えられた。
「まだありますか」
と尋ねると、
「有るか無いか分らない」
との返答だった。
審神者は、
「ここで答えられないで、あとで言われることがありますか」
と尋ねた。
それに答えて、
「日向国の橘の水底にいて、海藻のように若々し く生命に満ちている神。名は表筒男、中筒男、底筒男(住吉三神のこと)の神がいる」
とのことだった。
「まだありますか」
と聞くと、
「有るかないか分らない」
と答えた。
ついにまだ神があるとは言われなかった。
その神の言葉を聞いて、教えのままに祀った。
その後、吉備臣の祖である鴨別を遣わして、熊襲の国を討った。
いくらも経たぬのに自然と服従した。
荷持田村に羽白熊鷲という者があり、その人となりは強健で、翼があり、よく高く飛ぶことができる。
皇命に従わず、常に人民を掠めている。
十七日に皇后は熊鷲を討とうとして、香椎宮から松峡宮に移られた。
そのとき、旋風がにわかに吹いて、御笠が吹きとばされた。
当時の人は、そこを名づけて御笠といった。
二十日、層増岐野に行き、兵をあげて羽白熊鷲を殺した。
そばの人に、
「熊鷲を取って心安らかになった」
と言われた。
それで、そこを名づけて安という。
二十五日、移って山門県に行き、土蜘蛛である田油津媛を殺した。
田油津媛の兄、夏羽が兵を構えて迎えたが、妹が殺されたことを聞いて逃げた。
夏四月三日、北方の肥前国、松浦県に行き、玉島里の小川のほとりで食事をされた。
皇后は針を曲げて釣針をつくり、飯粒を餌にして、裳の糸をとって釣糸にし、河の中の石に登っ て、釣針を垂れて神意をうかがう占いをした。
「私は西の方の財の国を求めています。もし事を成すことができるなら、河の魚よ釣針を食え」
と言われた。
竿をあげると鮎がかかった。
皇后は、
「珍しい魚だ」
と言われた。
当時の人は、そこを名づけて梅豆羅国という。
今、松浦というのは、これが訛ったものである。
それでその国の女の人は、四月の上旬になるたびに、針を垂れて年魚をとることが今も絶えない。
ただし、男は釣っても魚を獲ることができない。
皇后は神の教えがその通りであることを知られて、さらに神祇を祭り、自ら西方を討とうと思われた。
そこで神田を定められた。
那珂川の水を引いて、神田に入れようと思われ、溝を掘られた。
迹驚岡に及んで、大岩が塞がっており、溝を通すことができなかった。
皇后は武内宿禰を召して、剣と鏡を捧げて神祇に祈りをさせられ、溝を通すことを求められた。
そのとき、急に雷が激しく鳴り、その岩を踏み裂いて水を通じさせた。
当時の人は、それを名づけて裂田溝と言った。
皇后は香椎宫に帰り、髪を解いて海に臨み、
「私は神祇の教えをうけ、皇祖の霊に頼って、青海原を渡り、自ら西方を討とうと思います。それで頭を海水で濯ぎますが、もし霊験があるのなら、髪がひとりでに分れて二つになりますように」
と言われた。
海に入って濯がれると、髪はひとりでに分れた。
皇后は分れた髪をそれぞれに結いあげて髻(男子の髮型)にされた。
そして群臣に語って、
「軍を起こし、衆を動かすのは国の大事である。安危と成敗はここにかかっている。今討つところがあり、群臣たちに委ねる。もし失敗すれば罪は群臣たちにある。これは甚だつらいことである。私は女でそのうえ未熟である。けれども、しばらく男の姿にやつして、強いて雄々しい計画をたてよう。上は神祇の霊をこうむり、下は群臣の助けにより、軍を興して高い波を渡り、船団を整えて宝の国に臨む。 もし事が成れば、群臣は共に功績があるが、事が成らなかったら、自分ひとりの罪である。 すでにこの覚悟であるから皆でよく相談をせよ」
と言われた。
群臣はみな、
「皇后は天下のために、国家の社稷を安泰にすることを計っておられます。破れて、罪が臣下に及ぶことはありますまい。慎んで詔を承ります」
と言った。
新羅出兵
秋九月十日、諸国に令して船舶を集め兵を練られた。
その際、軍卒が集まりにくかった。
皇后は、
「これは神のお心なのだろう」
と言われた。
そして大三輪の神社を立て、刀と矛を奉られた。
すると、軍兵が自然に集まった。
吾瓮海人烏摩呂を使って、西の海に出て、国があるかと見させられた。
還って、
「国は見えません」
と答えた。
また、磯鹿(志賀島)の海人である草を遣わして見させた。
何日か経って還ってきて、
「西北方に山があり、雲が横たわっています。きっと国があるのでしょう」
と言った。
そこで吉日を占い、出発されるまで日があった。
皇后は自ら斧鉞(刑罰の道具)をとって、三軍に令していわれるのに、
「士気を励ます鐘鼓の音が乱れ、軍の旗が乱れるときには、軍卒が整わず、財を貪り、物を欲しいと思ったり、私事に未練があると、きっと敵に捕えられるだろう。敵が少なくとも侮ってはなら ぬ。敵が多くてもくじけてはならぬ。暴力で婦女を犯すのを許してはならぬ。自ら降参する者を殺してはならぬ。戦いに勝てば必ず賞がある。逃げ走る者は処罰される」
と仰せられた。
神の教えとして、
「和魂は王の身の命を守り、荒魂は先鋒として軍船を導くだろう」
と述べた。
神の教えを頂いて皇后は拝礼された。
依網吾彦男垂見を、祭りの神主とした。
時期が、たまたま皇后の臨月になっていた。
皇后は石をとって腰に挟み、お祈りし、
「事が終って還る日に、ここで産まれて欲しい」
と言われた。
その石は今、筑前怡土郡の道のほとりにある。
こうして、荒魂を招き寄せて軍の先鋒とし、和魂を請じて船のお守りとされた。
冬十月三日、鰐浦から出発された。
そのとき、風の神は風を起こし、波の神は波をあげ、海中の大魚はすべて浮かんで船を助けた。
風は順風が吹き、帆船は波に送られた。
舵や櫂を使わないで新羅に着いた。
そのとき、船をのせた波が国の中にまで及んだ。
これは天神地紙がお助けになっているらしい。
新羅の王は戦慄して、なすべきを知らなかった。
多くの人を集めていうのに、
「新羅の建国以来、かつて海水が国の中にまで上ってきたことは聞かない。天運が尽きて、国が海となるのかも知れない」
その言葉も終らない中に、軍船が海に満ち、 旗は日に輝き、鼓笛の音は山川に響いた。
新羅の王は遥かに眺めて、思いの外の強兵が我が国を滅ぼそうとしていると恐れ迷った。
やっと気がついて、
「東に神の国があり、日本というそうだ。聖王があり、天皇という。きっとその国の神兵だろう。とても兵を挙げて戦うことはできない」
と言った。
白旗をあげて降伏し、白い緩を首にかけて自ら捕われた。
地図や戸籍は封印して差出した。
そして、
「今後は末長く服従して、馬飼いとなりましよう。 船使を絶やさず、春秋には馬手入れの刷毛とか、鞭を奉りましよう。また求められることなくても、男女の手に成る生産物を献上しましよう」と言った。
重ねて誓って、
「東に昇る日が西に出るのでなかったら、また阿利那礼河(閼川?)の水が、逆さまに流れ、河の石が天に上って星となることがない限り、春秋の朝貢を欠けたり、馬の梳や鞭の献上を怠ったら天地の神の罰を受けてもよろしい」
と言った。
ある人は新羅の王を殺そうというのもあったが、皇后は、
「神の教えによって、 金銀の国を授かろうとしているのである。降伏を申し出ている者を殺してはならぬ」
と言った。
その縛を解いて馬飼いとされた。
その国の中に入り、重宝の倉を封じ、地図や戸籍を没収した。
皇后が持っておられた矛を、新羅王の門にたて、後世への印とした。
その矛は今も、新羅王の門に立っている。
新羅の王の波沙寝錦は、微叱己知波珍干岐を人質とし、 金、銀、彩色、綾、羅、嫌絹を沢山の船にのせて、軍船に従わせた。
それ故、新羅王は、常に沢山の船で、貢を日本に送っているのである。
高麗、百済二国の王は、新羅が地図や戸籍も差出して、日本に降ったと聞いて、その勢力を伺い、とても勝つことができないことを知って、陣の外に出て頭を下げ、
「今後は永く西蕃(西の未開の国という意味の中国語)と称して、朝貢を絶やしません」
と言った。
それで内官家屯倉を定めた。
これがいわゆる三韓である。
皇后は新羅から還られた。
十二月十四日、後の応神天皇を筑紫で産まれた。
時の人は、その産処を名づけて宇瀰(福岡県宇美町)といった。
ある説によると、仲哀天皇が筑紫の香椎宮においでになった時、神が沙麼県主の先祖である、内避高国避高松屋種に神がかりして、天皇に教えて、
「天皇がもし宝の国を得たく思われるのなら、実際に授けてもよい」
と言われた。
また、
「琴を持ってきて皇后に差し上げよ」
と言われた。
神の言葉に従って、皇后が琴を弾かれた。
すると神は皇后に神がかりして、
「今、天皇の願われる国は、ちょうど鹿の角のようで、中味のない国である。今、天皇がお乗りになる船と、穴戸直践立が奉った水田、名は大田をお供えとして、私をよく祀れぱ、美女の眉のようで、金銀の多い、眼の輝く国を天皇に授けよう」
と言われた。
天皇は神に答えて、
「神とはいっても欺かれては困ります。どこに国がありましょう。また、私が乗る船を神に奉って、私はどこの船に乗れましょうか。しかもまだ、どの神ということも分りません。どうかその名を知らせて下さい」
と言われた。
神は名を告げて、「表筒雄、仲筒雄、底筒雄」という三神の名を言って、さらに言われた。
「我が名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊である」
天皇は皇后に語った。
「聞きにくいことを言われる婦人だ。どうして速狭騰というのだ」
神は天皇に語った。
「天皇がこれを信じないならば、 その国を得られないだろう。ただし、今の皇后の孕んでおられる皇子は、きっとそれを得られるだろう」
この夜、天皇は急病によって亡くなられた。
皇后は神の教えのままにお祭りされた。
皇后は男装をして新羅を討たれた。
神はこれを導かれた。
船をのせた波は、遠く新羅国の中まで押し寄せた。
新羅王である宇留助富利智干は、お出迎えして頭を地につけ、
「手前は今後、日本国にお出でになる神の御子に、内官家として、絶えることなく朝貢いたします」
と申し上げた。
また別の一説によると、新羅王をとりこにして海辺に行き、膝の骨を抜いて、石の上に腹ばわせた。
その後、斬って砂の中に埋めた。
一人の男を残して、新羅における日本の使者として帰還された。
その後、新羅王の妻が、夫の屍を埋めた地が分からないので、男を誘惑するつもりで言った。
「お前が王の屍を埋めたところを知らせたら、厚く報いてやろう。また、自分はお前の妻になってやろう」
男は嘘を信用して屍を埋めたところを告げた。
王の妻と国人は、謀って男を殺した。
さらに、王の屍を取り出して別の場所に葬った。
そのとき、男の屍をとって、王の墓の土の底に埋め、王の棺の下にして、
「尊い者と卑しい者の順番は、このようなのだ」
といったとされる。
天皇はこれを聞いてまた怒られ、大兵を送って新羅を滅ぼそうとされた。
軍船は海に満ちて新羅に至った。
このとき、新羅の国人は大いに怖れ、皆で謀って王の妻を殺して罪を謝った。
軍に従った神の表筒男、中筒男、底筒男の住吉三神は、皇后に、
「我が荒魂を穴門の山田邑に祭りなさい」
と言われた。
穴門直の先祖である践立、津守連の先祖である田裳見宿禰が皇后に申し上げて、
「神の居りたいと思われる地を定めましょう」
と言った。
そこで践立を荒魂をお祀する神主とし、社を穴門の山田邑にたてた。
廣坂王・忍熊王の策謀
新羅を討たれた翌年二月、皇后は群卿百寮を率いて、穴門の豊浦宮に移られた。
天皇の遺骸をおさめて海路より京に向かわれた。
そのときに、籠坂王、忍熊王(仲哀天皇の御子)は、 天皇は亡くなり、皇后は新羅を討たれ、皇子が新たに生まれられたと聞いて、密かに謀って、
「今、皇后は子があり、群臣は皆従っている。きっと共に議って幼い王を立てるだろう。我らは兄であるのに、どうして弟に従うことができようか」
と言った。
そこで天皇の為に陵を造るまねをして、播磨に行って山陵を明石に立てることとし、船団をつくって淡路島に渡し、その島の石を運んだ。
人々に武器を取らせて皇后を待った。
犬上君の先祖の倉見別と、吉師の先祖の五十狭茅宿禰とは、共に籠坂王の側についた。
それで将軍として東国の兵を起こさせた。
籠坂王と忍熊王は、共に菟餓野に出て、神意を伺う占いをして、
「もしこのことが成功するのなら、きっと良い獲物が取れるだろう」
と言い、二人の王は仮りの桟敷におられた。
すると、赤い猪が急に飛び出してきて桟敷に上って、籠坂王を喰い殺した。
兵士たちは皆おじけづいた。
忍熊王は倉見別に語った。
「これは大変なことだ。ここでは敵を待つことはできない」
軍を率いて退却し、住吉に駐屯した。
皇后は忍熊王が軍を率いて待ち構えていると聞き、武内宿禰に命じて、皇子を預けて迂回させ、南海から出て、紀伊水門に停泊させた。
一方、皇后の船はまっすぐ難波に向った。
ところが、船は海上でぐるぐる回って進まなかった。
それで武庫の港(武庫川・西宮)に還って占われた。
すると、天照大神が教えてくれた。
「我が荒魂を皇后の近くに置くのは良くない。広田国(西宮・廣田神社のある場所)に置くのが良い」
これに対しては、山背根子の娘である葉山媛に祭らせた。
また、稚日女尊(天照大神の妹)が教えてくれたのは、
「私は活田長峡国(神戸三宮・生田神社のある場所)に居りたい」
そこで、海上五十狭茅に祭らせた。
また、事代主命が教えてくれたのは、
「私を長田国(神戸・長田神社のある場所)に祠るように」
これは、葉山媛の妹の長媛に祭らせた。
表筒男、中筒男、底筒男の三神が教えてくれたのは、
「我が和魂を大津の淳名倉の長峡(大阪・住吉大社のある場所)に居さしむべきである。そうすれば、往来する船を見守ることもできる」
そこで、神の教えのままに鎮座して頂いた。
それで平穩に海を渡ることができるようになった。
忍熊王は軍を率いて退き、宇治に陣取った。
皇后は紀伊国にお出でになって、太子(応神天皇)に日高でお会いになった。
群臣とは、かつて忍熊王を攻めようとして、更に小竹宮(和歌山・小竹)に移られた。
このとき、ちょうど夜のような暗さとなって何日も経った。
当時の人は、
「常夜を行く」
と言ったそうだ。
皇后は紀直の先祖である豊耳に問われた。
「この変事は何のせいだろう」
一人の翁が、
「聞くところでは、このような変事を阿豆那比の罪と言うそうです」
と言った。
「どういうわけか」
と皇后が問われると、答えて、
「二の社の祝者を一緒に葬ってあるからでしょうか」
という。
それで村人に問わせると、ある者が、
「小竹の祝と、天野の祝は、仲の良い友人であった。小竹の祝が病になり死ぬと、天野の祝が激しく泣いて『私は彼が生きているとき、良い友達であった。どうして死後、穴を同じくすることが避けられようか』といい、屍のそばに自ら伏して死んだ。それで合葬したが、思うにこれだろうか」
と言った。
墓を開いてみると本当だった。
棺を改めて、それぞれ別のところへ埋めた。
すると日の光が輝いて、昼と夜の区別ができた。
三月五日、武内宿禰と和珥の臣の先祖武振熊に命じて、数万の兵を率いて忍熊王を討たせた。
武内宿禰らは精兵を選び、山城方面に進出した。
宇治に至って、川の北に陣を敷いた。
忍熊王は陣営を出て戦おうとした。
そのときに、熊之凝という者があり、忍熊王の軍の先鋒となった。
味方の兵を激励しようと、声高らかに歌を詠んだ。
ヲチカタノ、アララマツバラ、マツバラニ、ワタリユキテ、ツクユミニ、ナリヤヲタグへ、ウマヒ卜ハ、ウマヒ卜ドチヤ、イトコハモ、イトコドチ、イザアハナ、 ワレハ、タマキハル、ウチノアソガ、ハラヌチハ、イサゴアレヤ、イザアハナ、ワレハ。
彼方の疎林の松原に進んで行って、槻弓に鎬矢をつがえ、貴人は貴人同士、親友は親友同士、さあ戦おう、我々は。
武内朝臣の腹の中には、小石が詰まっている筈はない。さあ戦おう、我々は。
武内宿禰は三軍に命令して、全部髪を結い上げさせた。
そして号令し、
「各自、控えの弓弦を髪に隠しておき、また木刀を带びよ」
と言った。
皇后の命令を告げて、忍熊王に対して、
「私は天下を欲しがってなどおらず、ただ若い王を抱いて君に従うだけです。どうして戦う必要があるでしょうか。どうか、ともに弦を絶って武器を捨て、和睦しましょう。あなたは皇位につき、安らかにこの国の政治をなさればよいのです」
と言って騙した。
そして軍に命令して、すべての弓の弦を切り、刀を解いて、河に投げ入れさせた。
忍熊王はその偽りの言葉を信じて、全軍に命令して武器を解き、河に投げ入れ弦を切らせた。
すると、武内宿禰は三軍に命令して、控えの弦を取り出して張り、真刀を佩かせて河を渡って進んだ。
忍熊王は騙されたことを知り、倉見別と五十狭茅宿禰に言って、
「私は騙された。控えの武器はない。 戦うこともできない」
と言って、兵を率いて逃げた。
武内宿禰は精兵を出して追った。
近江の逢坂で追いついて破った。
それで、そこを名づけて逢坂という。
さらに逃げた兵は、狭狭浪の栗林まで来て、多く斬られた。
血は流れて栗林に溢れた。
このことを忌み嫌って、今に至るまで、栗林の菓を御所には奉らない。
忍熊王は逃げて隠れるところもなく、五十狭茅宿禰を呼んで歌を詠んだ。
イザアギ、イサチスクネ、タマキハル、ウチノアソガ、クプツチノ、イタデオハズハ、ニホドリノ、カヴキセナ。
さあ、我が君、五十狭茅宿禰よ。武内宿禰の手痛い攻擊を身に受けずに、鳰鳥(カイツブリのこと)のように水に潜って死のう。
共に瀬田の渡りに沈んで死んだ。
そのときに、武内宿禰は歌って言った。
アフミノミ、セタノワタリニ、カヅク卜リ、メニシミエネバ、イキドホロシモ。
淡海の海の瀬田の渡りで、水に潜る鳥が見当たらなくなったので、不安だなあ。
その屍を探したが、見つからず何日か経ってから、宇治河で見つかった。
武内宿禰はまた歌を詠んだ。
アフミノミ、セタノワタリニ、カヅクトリ、タナカミスギテ、ウヂニトラへツ。
近江の海の瀬田の渡りで、水に潜った鳥は田上を過ぎて、下流の宇治で捕らえられた。
冬十月二日、群臣は皇后を尊んで皇太后と呼んだ。
この年、太歳辛已。
これを摂政元年とした。
二年冬十一月八日、天皇(仲哀天皇)を河内国の長野陵に葬った。
誉田別皇子の立太子
三年春一月三日、誉田別皇子を立てて皇太子として、大和国の磐余に都を造った。
これを若桜宮という。
五年春三月七日、新羅王が汗礼斯伐、毛麻利叱智、富羅母智らを遣わして朝貢した。
そして、王は先の人質である微叱許智伐旱を取り返そうという気があった。
そこで、許智伐旱は嘘を言った。
「使者である汗礼斯伐と毛麻利叱智らが私に告げたのは、『我が王は、私が長らく帰らないので、妻子を没収して官奴としてしまった』といいます。どうか本国に還って、嘘か本当か調べさせて欲しいと思います」
神功皇后はお許しになった。
葛城襲津彦(その娘である磐之媛は、仁徳天皇の皇后)をつき添わせてお遣わしになった。
対馬に着いて鰐浦に泊った。
そのとき、新羅の毛麻利叱智らは、密かに船の水手を手配し、微叱旱岐を乗せて新羅へ逃れさせた。
草で人形をつくり、微叱許智の床に置き、いかにも病気になったように偽り、襲津彦には、
「微叱許智は病気になり、死にかかっています」
と告げた。
襲津彦は人を遣わして病者を見させた。
そこで騙されたことが分り、新羅の使いである三人を捕えて、檻の中に入れ、火をつけて焼き殺した。
襲津彦は新羅に行き多大浦に陣し、草羅城を攻め陥して還った。
このときの捕虜たちは、今の桑原、佐糜、高宮、忍海などの四つの村の漢人の先祖である。
十三年春二月八日、武内宿禰に命じて皇太子に従わせ、敦賀の笥飯大神にお参りした。
十七日、太子は敦賀から還られた。
この日、皇太后は太子のため、大殿で大宴会を催された。
皇太后は盃をささげて、お祝いの言葉を述べられた。
そして、歌を詠まれた。
コノミキハ、ワガミキナラズ、クシノカミ、卜コヨニイマス、イハタタス、スクナミ力ミノ、卜ヨホキ、ホキモ卜ヘシ、カムホキ、ホキクルホシ、マツリコシミキソ、アサズヲセササ。
この神酒は私だけの酒ではない。神酒の司で常世の国におられる少御神が、そばで歌舞に狂って醸して、天皇に献上してきた酒である。さあさあ、残さずにお飲みなさい。
武内宿禰が太子のために返歌をお作りして歌った。
コノミキラ、力ミケムヒ卜ハ、ソノツツミ、ウスニタテテ、ウタヒツツ、力ミケメカモ、コノミキノ、アヤニウタタノシササ。
この神酒を醸した人は、その鼓を臼のように立てて、歌いながら醸したからであろう。この神酒の何とも言えずおいしいことよ。
三十九年、この年、太歳己未。
魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢を持ってきた。
太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。
四十年、魏志にいう、正始元年。建忠校尉梯携らを遣わして、詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。
四十三年、——魏志にいう、正始四年。倭王はまた、使者の大夫の伊声者掖耶ら八人を遣わして、献上品を届けた。
四十六年春三月一日、斯摩宿禰を卓淳国に遣わした。
卓淳の王、末錦旱岐が、斯摩宿禰に、
「甲子の年の七月中旬、百済人の久氐、弥州流、莫古の三人が我が国にやってきて、『百済王は、東の方に日本という貴い国があることを聞いて、我らを遣わして、その国に行かせた。もし、よく我々に道を教えて、通わせて頂けば、我が王は深く君を徳とするでしょう』と。そのとき、久氐らに語って、『以前から東方に貴い国のあることは聞いていた。しかし、まだ交通が開けていないので、その道が分らない。海路は遠く波は険しい。大船に乗れば何とか通うことができるだろう。途中に中継所があったとしても、叶わぬことである』と。久氐らが『もう一度帰って船舶を用意して出直しましょう』と言う。また重ねて『もし貴い国の使いが来ることがあれば、我が国にも知らせて欲しい」と。このように話し合って帰った」
と言った。
そこで斯摩宿禰は、従者の爾波移と、卓淳の人である過去の二人を、百済国に遣わし、その王を労わせた。
百済の肖古王は大変喜んで厚遇された。
五色の綵絹(色染めの絹)各一匹、角弓箭(角を飾りの材料に使った弓)、鉄铤(鉄材)四十枚を爾波移に与えた。
また宝の蔵を開いて、いろいろと珍しい物を示して、
「我が国には沢山の宝物がある。貴い国に奉ろうと思っても道が分らない。志があってもかなわないが、今、使者に託して、ついでに献上しましょう」
と言った。
爾波移は承って帰り、斯摩宿禰に告げた。
斯摩宿禰は卓淳国から帰還した。
百済・新羅の朝貢
四十七年夏四月、百済王は久氐、弥州流、莫古を遣わして朝貢した。
そのとき、新羅の国の調の使者が久氐と一緒にやってきた。
皇太后と太子である誉田別尊は、大いに喜んで、
「先王の望んでおられた国の人々が、今やってこられたか。在世にならなくて誠に残念であった」
と言われた。
群臣は皆、涙を流さぬ者はなかった。
二つの国の貢物を調べた。
すると、新羅の貢物は珍しい物が多くあった。
一方、百済の貢物は少くてしかも良くなかった。
久氐に尋ねられ、
「百済の貢物が新羅に及ばないのはなぜか」
彼らはそれに答えた。
「私共は、道に迷って新羅に入ってしまいました。新羅人は私共を捕えて牢屋に入れました。三ヶ月経って、殺そうとしました。久氐らは天に向って呪いました。新羅人は その呪いを怖れて殺しませんでした。そして、我々の貢物を奪って、自分の国の貢物としました。新羅の賤しいものを以て、我が国の貢物と入れ替えました。そして私共に、『もしこのことを漏らせば、還ってきた日にお前らを殺してしまう』と言いました。それで久氐らは恐れて、それに従ったのです。そしてやっと日本に着いたのです」
と言った。
皇太后と誉田別尊は新羅の使者を責めて、天つ神に神意を伺う占いをされて、
「誰を百済に遣わして嘘か本当か調べさせましょうか。誰を新羅に遣わして、その罪を問わせたらよいでしょうか」
と言われた。
すると天神が教えて、
「武内宿禰に議らせるがよい。千熊長彦を使者とすれば、願いが叶うだろう」
と言われた。
千熊長彦を新羅に遣わし、百済の献上物を穢し、乱したということを責めた。
新羅再征
四十九年三月、荒田別と鹿我別を将軍とした。
久氐らと共に兵を整えて卓淳国に至り、まさに新羅を襲おうとした。
そのとき、ある人が、
「兵が少なくては新羅を破ることはできぬ。沙白、蓋盧を送って増兵を請え」
と言った。
木羅斤資、沙沙奴跪に命じて、精兵を率いて沙白、蓋盧と一緒に遣わされた。
ともに卓淳国に集まり、新羅を討ち破った。
そして、比自㶱、南加羅、喙国、安羅、多羅、卓淳、加羅の七ヶ国を平定した。
兵を移して西方の古奚津に至り、 南蛮の耽羅(済州島)を亡ぼして百済に与えた。
百済王の肖古と皇子の貴須は、また兵を率いてやってきた。
比利、辟中、布弥支、半古の四つの邑が自然に降服した。
こうして百済王の父子と荒田別、木羅斤資らは共に、意流村で一緒になり、対面して喜び、礼を厚くして送った。
千熊長彦と百済王とは百済国に行き、辟支山に登って誓い、また古沙山に登り、共に磐石の上に居り、百済王が誓いをたてて、
「もし草を敷いて座れば、草はいつか火に焼かれるかも知れない。木をとって座とすれば、いつか水のために流されるかも知れない。それで、磐石の上に居て誓うことは、永遠に朽ちないということである。それだから、今から後、千秋万歳に絶えることはないでしよう。常に西蕃と称えて、春秋に朝貢しましょう」
と言った。
千熊長彦をつれて都に至り、厚く礼遇した。
そしてまた久氐らをつき添わせて送った。
五十年春二月、荒田別らが還った。
夏五月、千熊長彦、久氐らが百済より還った。
皇太后は喜んで久氐に尋ねて、
「海の西の多くの国をすでにお前の国に与えた。今、何事があってまた来たのであるか」
と言われた。
久氐らが申し上げるのに、
「帝のお恵みは遠い国々にまで及んでいます。我が王は押さえきれぬ程の喜びに溢れています。それで、還る使いに託して誠心を表わしたものです。万世に至るまで朝貢を怠たることはございません」
と言った。
皇太后は勅して、
「良い事を言ってくれた。 それは我が願いでもある」
と仰せられた。
多沙城をつけ足し賜わって、往還の道の駅とされた。
五十一年春三月、百済王はまた久氐を遣わし朝貢した。
皇太后は太子と武内宿禰に語って、
「我が親交する百済国は、天の賜りものである。人為によるものではない。見たこともない珍しい物など、時をおかず献上してくる。自分はこの誠を見て、常に喜んで用いている。私と同じく私の後々までも恩恵を加えるように」
と仰せられた。
この年に千熊長彦を、久氐らにつけて百済国に遣わされた。
そして、
「私は神のお示しに従って、往き来の道を開いた。海の西を平定して 百済に与えた。今、誼を結んで長く寵賞しよう」
と言われた。
このとき、百済王父子は、共に額を地にすりつけて拝み、
「貴い国の大恩は天地よりも重く、何れの日何れの時にも、忘れることはないでしょう。聖王が上にお出でになり、日月のごとく明らかです。今、私は下に侍って、堅固なことは山岳のようで、西蕃となってどこまでも二心を持つことはないでしょう」
と申し上げた。
五十二年秋九月十日、久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。
そして、七枝刀を一口、七子鏡を一面、および種々の重宝を奉った。
そして、
「我が国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは、七日間行っても行きつきません。まさに、この河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」
と申し上げた。
そして、孫の枕流王に語って、
「今、私が通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて、海の西の地を割いて我が国に賜わった。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上することを絶やさなかったら、死んでも何の悔いもない」
と言った。
それ以後、毎年相ついで朝貢した。
五十五年、百済の肖古王が薨じた。
五十六年、百済の皇子である貴須が王となった。
六十ニ年、新羅が朝貢しなかった。
その年に襲津彦を遣わして新羅を討たせた。
百済記に述べられている、壬午の年。
新羅が日本に朝貢しなかった。
日本は沙至比跪を遣わして討たせた。
新羅人は美女二人を飾って、港に迎えあざむいた。
沙至比跪はその美女を受け入れ、反対に加羅国を討った。
加羅国の国王である己本旱岐、および児百久至、阿首至、国沙利、伊羅麻酒、爾汶至らは、その人民をつれて百済に逃げた。
百済はそれを厚遇した。
加羅の国王の妹である既殿至が、大和の国にやってきて申し上げた。
「天皇は沙至比跪を遣わして新羅を討とうとしたが、新羅の美女を納れて討つことやめて、反対に加羅国を滅しました。 兄弟や人民は皆流浪しました。憂え悲しみに堪えず参上して申し上げるのです」
天皇は大いに怒られ、木羅斤資を遣わして、兵士を率いて加羅に来り、その国を回復されたという。
ある説によると、沙至比跪は天皇の怒りを知って、公には帰らず、自ら身を隠した。
その妹が帝に仕えることがあり、沙至比跪はこっそり使者を出し、天皇の怒りが解けたかどうか探らせた。
妹は夢に託し、
「今日の夢に沙至比跪を見ました」
と申し上げた。
天皇は大いに怒られ、
「沙至比跪はどうしてやってきたのだ」
と言われた。
妹は天皇の言葉を報告した。
沙至比跪は許されないことを知って、岩穴に入って死んだという。
六十四年に百済国の貴須王が薨じた。
その王子である枕流王が王となった。
六十五年、百済の枕流王が薨じた。
王子の阿花が年若く、叔父の辰斯が位を奪って王となった。
六十六年、この年は晋の武帝の泰初ニ年である。
晋の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初ニ年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。
六十九年夏四月十七日、皇太后が稚桜宮に崩御された。
年一百歳。
冬十月十五日、狭城盾列陵に葬った。
この日に皇太后に諡を奉って、気長足姫尊という。
この年、太歳己丑。
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