日本書紀・日本語訳「第二十七巻 天智天皇」

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天智天皇 天命開別天皇

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救援軍渡海

天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみこと舒明天皇じょめいてんのうの皇太子である。
母を天豊財重日足姫天皇あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと皇極天皇こうぎょくてんのう)という。

皇極天皇の四年に、天皇は位を孝徳天皇に譲られた。
そのとき、天皇(天智天皇てんちてんのう)を立てて皇太子とされた。
孝徳天皇こうとくてんのうは白雉五年十月にお隠れになった。
翌年に皇祖母(皇極天皇)が重祚して斉明天皇となられた。

七年七月二十四日、斉明天皇さいめいてんのうがお隠れになった。
皇太子は白の麻衣をお召しになって、即位式は挙げないで、政務をとられた。

この月に、蘇将軍(唐将蘇定方)と突厥とつけつトルコ)の王子である契芯加力けいひっかりきらとが水陸両道から進撃して、高麗こまの城下に迫った。
皇太子は長津宮ながつのみや(博多大津)に移ってお出でになった。
そこで海外の軍の指揮をとられることになった。

八月に、前軍の将軍である大花下の阿曇比邏夫連あずみのひらぶのむらじ、小花下の河辺百枝臣かわべのももえのおみら、後軍の将軍である大花下の阿倍引田比邏夫臣あべのひたのひらぶのおみ、大山上の物部連熊もののべのむらじくま、大山上の守君大石もりのきみおおいわらを遣わして、百済くだらを救援させ、武器や食糧を送らせられた。

ある本には、このあとに続けて、別に大山下の狭井連檳榔さいのむらじあじまさ、小山下の秦造田来津はたのみやつこたくつを遣わして、百済を守護させたとある。

九月、皇太子は長津宫ながつのみやにあって、織冠おりもののこうぶり百済くだらの王子の豊璋ほうしょうにお授けになった。
また、多臣蔣敷おおのおみこもしきの妹をその妻とされた。
そして、大山下の狭井連檳榔さいのむらじあじまさ、小山下の秦造田来律はたのみやつこたくつを遣わし、軍兵五千余を率いて、豊璋ほうしょうを本国に護り送らせた。
この豊璋が国に入ると、鬼室福信きしつふくしんが迎えにきて、平伏して国の政をすべてお任せ申し上げた。

十二月、高麗こまが、
「この十二月、高麗国こまこくは極寒に襲われ、大河は氷結してしまいました。そこで唐の軍勢は雲車たかくるま雲のように高い車)や衝車つきくるま破城槌)をもって、鼓や鐘を鳴らして攻めてきました。高麗こまの軍勢は勇壮で、唐軍の二つの小城を奪いました。あと二つの砦だけが残りました。夜にまた奪う計画でしたが、もろこしの兵は飢え凍え、膝を抱いて泣くので、剣も力鈍り、ついに奪取できませんでした」
と言った。
手遅れになって後悔するのを「ほぞを嚙む」というが、これを言うに違いない。

釈道顕ほうしどうけんが言う。
金春秋きんしゅんじゅう新羅しらぎの王族、のちの武烈王ぶれつおう)の本意は高麗こまを討つことにあったが、まず百済くだらを討った。
それは近年新羅が百済から侵略されることが多く、苦しんでいたからそうなったのだ、と。

この年、播磨国司はりまのくにのつかさ岸田臣麻呂きしたのおみまろらが、宝剣を献上して、
狭夜郡さよのこおり兵庫県佐用郡)の人の粟畑の穴の中から出ました」
と言った。
また、日本の高麗救援軍の将兵たちが、百済くだら加巴利かはりの浜に泊って火を焚いた。
燃えた灰の跡が孔になって、かすかな音が聞こえた。
それが鏑矢かぶらやの鳴る音のようであった。
ある人は、
高麗こま百済くだらの亡びる前兆かもしれない」
と言った。

元年春一月二十七日、百済の佐平鬼室福信さへいきしつふくしんに、矢十万隻、糸五百斤、綿一千斤、布一千端、なめし皮一千張、稲種たなしね三千石を賜わった。

三月四日、百済王くだらおう余豊璋よほうしょう)に布三百端を賜わった。

この月、唐、新羅の軍が高麗を討った。
高麗は救いを日本に求めた。
それで日本は将兵を送って疏留城そるさし都々岐留山つつきるのむれ)に構えた。
このため唐軍はその南の境を犯すことができず、新羅はその西の塁をおとすことができなくなった。

夏四月に、ねずみが馬の尻尾に子を産んだ。
僧道顕そうどうけんが占って、
「北の国の人が、南の国に付こうとしている。恐らく高麗が破れて日本につくだろう」
と言った。

五月に、大将軍である大錦中の阿曇比邏夫連あずみのひらぶのむらじらが、軍船百七十艘を率いて、豊璋ほうしょうらを百済くだらに送り、勅して豊璋に百済王位を継がせた。
また金策こがねのふだ福信ふくしんに与えて、その背をなでてねぎらい、爵位や禄物を賜った。
そのとき、豊璋、福信らは平伏して仰せを承り、人々は感動して涙を流した。

六月二十八日、百済は達率万智たつそつまちらを遣わして、調を奉り物を献上した。

冬十二月一日、百済王くだらおう豊璋ほうしょうと、その臣である佐平福信さへいふくしん狭井連さいのむらじ朴市田来律えちのたくつと相談し、
「この都の州柔つぬ(率城)は田畝たはたにへだたり、土地がやせている。農桑に適したところでない。戦いの場であって、ここに長らくいると民が飢えるだろう。避城へさしに移ろう。避城は西北に古連旦涇これんたんけい(新坪川)が流れ、東南は貯池の堤があり、一面の田圃があり、水利もよく花咲き実のなる作物に恵まれ、三韓でも優れた土地である。衣食の源があれば、人の住むべきところである。土地は低くても移り住むべきだ」
と言った。
このとき、朴市田来津えちのたくつがひとり身を進め諫めて、
避城へきしと敵のいるところとは、一夜で行ける道のりです。たいへん近い。もし不意の攻撃を受けたら悔いても遅い。飢えは第二です。存亡は第一です。今、敵がたやすく攻めてこないのは、ここが山険を控え、防御に適し、山が高く谷が狭く、守り易く攻めにくいためです。もし低いところにいれば、どうして堅く守り動かないで、今日に至ることができたでしょうか」
と諫めた。
しかしついに聞かないで避城へきしに都した。

この年、百済を救うために、武器を整え、船を準備し兵糧を蓄えた。
この年、太歳壬戌たいさいみずのえいぬ

6世紀ごろの朝鮮半島勢力図
Historiographer at the English Wikipedia [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

白村江の戦い

二年春二月二日、百済くだら達率金受たつそつこんじゅらを遣わして調を奉った。
新羅人が百済の南部の四州を焼き討ちし、徳安とくあんなどの要地を奪った。
このとき、避城へきしは敵と近すぎたので、そこに居ることができず、州柔(率城)に戻った。
田来津たくつが言ったようになった。

この月、佐平福信さへいふくしんが、唐の捕虜続守言しょくしゅげんらを届けてきた。

三月に前軍の将軍上毛野君稚子かみつけののきみわかこ間人連大蓋はしひとのむらじおおふた、中軍の将軍である巨勢神前臣訳語こせのかんざきのおみおさ三輪君根麻呂みわのきみねまろ、後軍の将軍である阿倍引田臣比邏夫あべのひけたのおみひらぶ大宅臣鎌柄おおやけのおみかまつかを遣わし、二万七千人を率いて新羅しらぎを伐たせた。

夏五月一日、犬上君が高麗に急行し、出兵のことを告げて還ってきた。
そのとき、糺解くげ(豊璋)と石城しゃくきしで出会った。
糺解くげ犬上君いぬかみのきみ鬼室福信きしつふくしんの罪あることを語った。

六月、前軍の将軍である上毛野君稚子かみつけののきみわかこらが、新羅しらぎ沙鼻さび岐奴江きぬえ二つの城を取った。
百済王くだらおう豊璋ほうしょうは、福信ふくしんに謀反の心があるのを疑って、掌をうがち革を通して縛った。
しかし、自分で決めかねて困り、諸臣に問うた。
福信ふくしんの罪はすでに明かだが、斬るべきかどうか」
そのとき、達率徳執得たつそつとくしゅうとくが、
「この悪者を許してはなりません」
と言うと、福信ふくしん執得しゅうとくに唾を吐きかけて言った。
「腐り犬の馬鹿者」

王は兵士に命じて福信ふくしんを斬り、曝首さらしくびにするべく酢漬けにした。

秋八月十三日、新羅しらぎは、百済王くだらおうが自分の良将を斬ったことを知り、直ちに攻め入って、まず州柔つぬ(率城)を取ろうとした。
ここで百済王は敵の計画を知って、諸将に告げて、
「大日本国の救援将軍の廬原君臣いおはらのきみおみが、兵士一万余を率いて、今に海を越えてやってくる。どうか諸将軍たちは、そのつもりでいて欲しい。私は自分で出かけて、白村江はくすきのえ錦江の川口付近)でお迎えしよう」
と言った。

十七日に敵将が州柔つぬに来て城を囲んだ。
大唐の将軍は軍船百七十艘を率いて、白村江はくすきのえに陣を敷いた。

二十七日に日本の先着の水軍と、大唐おおもろこしの水軍が合戦した。
日本軍は負けて退いた。
大唐軍は陣を堅めて守った。

二十八日、日本の諸将と百済の王とは、そのときの戦況などをよく見極めないで、共に語って、
「我らが先を争って攻めれば、敵は自ずから退くだろう」
と言った。
さらに日本軍で隊伍の乱れた中軍の兵を率い、進んで大唐軍の堅陣の軍を攻めた。
すると、大唐軍は左右から船を挟んで攻撃した。
たちまちに日本軍は破れた。
水中に落ちて溺死する者が多かった。
船の舳先をめぐらすこともできなかった。

朴市田来津えちのたくつは天を仰いで決死を誓い、歯を食い縛って怒り、敵数十人を殺したが、ついに戦死した。
このとき、百済王豊璋くだらおうほうしょうは、数人と船に乗り高麗こまへ逃げた。

九月七日、百済の州柔城つぬさしは唐に降服した。
このとき、国人くにひと、は語り合って、
州柔城つぬさしが落ちた。如何とも致しがたい。百済の名前は今日で終りだ。先祖の墓にも二度と行くことができぬ。ただ弖礼城てれさしに行って、日本の将軍たちに会い、今後の処置を相談しよう」
と言った。

かねて枕服岐城しんぷくぎさしに在った妻子どもに教えて、いよいよ国を去ることを知らせた。
十一日、牟弖むてを出発、十三日、弖礼てれに着いた。

二十四日、日本の水軍と佐平余自信さへいよじしん達率木素貴子たつそつもくそきし谷那晋首こくなしんす憶礼福留おくらいふくると、一般人民は弖礼城てれさしに着いた。

翌日、船を出してはじめて日本に向かった。

冠位の増設

三年春二月九日、皇太子(中大兄なかのおおえ)は弟の大海人皇子おおあまのみこみことのりして、冠位の階名を増加し変更することと、氏上このかみ民部かきべ家部やかべなどを設けることを告げられた。

その冠位は二十六階ある。
大織だいしき小織しょうしょく
大縫だいぶう小縫しょうぶう
大紫だいし小紫しょうし
大錦上だいきんじょう大錦中だいきんちゅう大錦下だいきんか
小錦上しょうきんじょう小錦中しょうきんちゅう小錦下しょうきんか
大山上だいせんじょう大山中だいせんちゅう大山下だいせんか
小山上しょうせんじょう小山中しょうせんちゅう小山下しょうせんか
大乙上だいおつじょう大乙中だいおつちゅう大乙下だいおつか
小乙上しょうおつじょう小乙中しょうおつちゅう小乙下しょうおつか
大建だいこん小建しょうこん
の二十六である。

以前の花を錦と改めた。
錦より乙に至るまで十階殖えた(六階の誤りかといわれる)。
また、これまでの初位一階を増し、改めて大建、だいこん小建しょうこんの二階とした。
これが異ったところで、他は前のままである。

大氏おおうじ氏上このかみには大刀たちを賜わり、小氏の氏上には小刀かたなを賜わる。
伴造とものみやつこらの氏上にはたて、弓矢を賜わり、またその民部かきべ家部やかべを定めた。

三月、百済王くだらおう善光ぜんこうらを難波なにわに住まわしめた。
京の北で星が落ちた。
この春、地震があった。

夏五月十七日、百済にあった鎮将ちんしょう占領軍司令官)の劉仁願りゅうじんがんは、朝散大夫郭務惊ちょうさんだいぶかくむそうらを遣わして、表凾ふみひつ(上奏文を収めたひつ)と献物を奉った。

この月、大紫だいし蘇我連大臣そがのむらじのおおおみが死んだ。

六月、嶋皇祖母命しまのすめみおやのみこと(天智天皇の祖母)がこうじた。

冬十月一日、郭務惊かくむそうらを送り出す勅をお出しになった。
この日、鎌足かまたりは沙門智祥ちしょうを遣わして、品物を郭務惊かくむそうに贈られた。

四日、郭務惊らに饗応きょうおうされた。

この月、高麗こまの大臣蓋金こうきんが死んだ。
子供らに遺言して、
「お前たち兄弟は、魚と水とのように仲よくし、爵位を争うことがあってはならぬ。もしそんなことがあれば、きっと隣人に笑われるぞ」
と言った。
(後年この心配は的中し、唐に亡ぼされた)

十二月十二日、郭務惊かくむそうらは帰途についた。

この月、淡海国おうみのくにから言ってきた。
坂田郡さかたのこおりの人、小竹田史身しのだのふびとむが飼っている猪の水槽みずおけの中に、にわかに稲が実りました。がそれを穫り入れると、その後、日に日に富が増えました。
栗太郡くるもとのこおりの人、磐城村主殷いわきのすぐりおおの新婦の部屋の敷居の端に、一晩のうちに稲が生え穂がついて、翌日はもう熟れて穂が垂れました。次の日の夜、さらに一つの穂が新婦の庭に出て、二箇の鍵が天から落ちて来ました。女は拾っておおに渡し、殷はそれから金持ちになったということです」

西海防備

この年、つしま馬、壱岐いき筑紫国つくしのくになどに防人さきもりすすみのろし台)をおいた。
また、筑紫に大堤おおつつみを築いて水を貯えた。
これを水城みずきと名づけた。

四年春二月二十五日、間人大后はしひとのおおきさき(天智天皇の妹、孝徳天皇妃)が薨去こうきょされた。

この月、百済国の官位の階級を検討した(百済滅亡後、多数渡来した百済人に冠位を授けるため)。
佐平福信さへいふくしんの功績によって、鬼室集斯きしつしゅうしに、小錦下の位を授けた。
また百済の民、男女四百人あまりを、近江国おうみのくに神崎郡かんさきのこおりに住ませた。

三月一日、間人大后はしひとのおおきさきのために、三百三十人を得度とくど出家)させた。

この月、神崎郡かんさきのこおり百済人くだらびとに田を給せられた。

秋八月、達率答ホン春初たつそつとうほんしゅんそホンは火偏に本)を遣わして、長門国ながとのくにに城を築かせた。
達率憶礼福留たつそつおくらいふくる達率四比福夫たつそつしひふくぶを、筑紫国ちくしのくにに遣わして、大野おおの大宰府の西南)に二つの城を築かせた。
耽羅たんらが使者を来朝させた。

九月二十三日、唐が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高ちょうさんだいぶいぶきしゅうのしばしょうちゆうこくりゅうとくこうらを遣わしてきた。
等というのは右戎衛郎将上柱国百済禰軍ゆうじゆえいろうしょうしょうちゅうこくくだらのねぐん、朝散大夫柱国である郭務惊かくむそうのことをいう。
全部で二百五十四人。

七月二十八日に対馬に着く。

九月二十日、筑紫につき、二十二日に表凾ふみびつを奉った。

冬十月十一日、盛大に菟道うじで閲兵をした。

十一月十三日、劉徳高りゅうとくこうらに饗応をされた。

十二月十四日、劉徳高らに物を賜わった。

この月、劉徳高らは帰途についた。

この年、小錦の守君大石もりきみのおおいわ等を大唐に遣わした、云々と。
等というのは、小山の坂合部連石積さかいべのむらじいわつみ、大乙の吉士岐弥きしのみき吉士針間きしのはりまを言う。
推測するに、唐の使者を送ったものであろう。

五年春一月十一日、高こま前部能婁ぜんほうのうるらを遣わして調を奉った。
この日,耽羅たんらが王子の姑如こにょらを遣わして朝貢した。

三月、皇太子は自ら佐伯子麻呂連さえきのこまろのむらじの家に行き、その病を見舞われた。
古くから仕えてきた功績を褒め、お嘆きになった(人鹿いるかの誅伐の際に働いた)。

夏六月四日、高麗こま前部能婁ぜんほうのうるらが帰途についた。

秋七月、大水があった。
この秋に租と調を免除された。

冬十月二十六日、高麗こま臣乙まえつきみ相奄鄒おつそうあんすらを遣わして調を奉った。
大使は臣乙の相奄鄒おつそうあんす、副使の達抵遁たつそうどん、二位の玄武若光げんむじゃくこう等である。

この冬、都のねずみ近江国おうみのくにに向かって移動した。
百済くだらの男女二千余人を東国あずまのくにに住まわせた。

百済の人々に対して、僧俗を選ばず三年間、国費による食を賜わった。
倭漢沙門智由やまとのあやのほうしちゆ指南車しなんのくるまを献上した。

六年春二月二十七日、斉明天皇さいめいてんのうと妹の孝徳皇后こうとくこうごうとを小市岡上陵おちのおかのうえのみささぎに合葬した。
この日、皇孫である大田皇女おおたのひめみこ(天智皇女、大海人皇子妃)をみささぎの前の墓に葬った。
高麗、百済、新羅の使者も皆、大路に哀悼を捧げた。
皇太子は群臣まえつきみに語って、
「自分は斉明天皇のみことのりを承ってから、万民を憐れむために、石槨の役いわきのえだち石室墳墓造営の労役)は起こさない。願わくば永代にわたって手本として欲しい」
と言われた。

近江遷都と天智天皇の即位

三月十九日、都を近江に移した。
このとき、天下の人民は遷都を喜ばず、諷諫ふうかん(諷し諫める)するものが多かった。
童謡わざうたも多く、夜昼となく出火するところが多かった。

六月、葛野郡かずらののこおりより白燕しろつばくらめを奉った。

秋七月十一日、耽羅たんらが佐平の椽磨でんま等を遣わして、朝貢した。

八月、皇太子(天智)がやまとの京(飛鳥)にお出ましになった。

冬十月、高麗こま大兄だいきょう(高麗の官位)である男生なんしょうが城を出て国を巡り歩いた。
そのとき、城内の二人の弟が、側近の士大夫にそそのかされ、再び入城させなかった。
このため、男生は大唐に至り、高麗を滅ぼそうと謀った。

十一月九日、百済の鎮将ちんしょうである劉仁願りゅうじんがん熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡ゆうしんととくふゆうせんのけんれいしょうちゅうこくしばほうそうらを遣わして、大山下の境部連石積さかいべのむらじいわつみらを筑紫都督府に送ってきた。

十三日、司馬法聡しばほうそうらは帰途についた。
小山下の伊吉連博徳いきのむらじはかとこ、大乙下の笠臣諸石かさのおみもろいわを送使とした。

この月、倭国やまとのくに高安城たかやすのき讃岐国山田郡さぬきのやまだのこおり屋島城やしまのき、対馬国の金田城かなたのきを築いた。

うるう十一月十一日、錦十四匹、ゆはた十九匹、あけ二十四匹、紺布はなだのぬの二十四端、桃染布つきそめのぬの五十八端、おの二十六、なた六十四、刀子かたな六十二枚を椽磨でんまらに賜わった。

七年春一月三日、皇太子は天皇に即位された。

ある本には、六年三月即位とある。

七日、群臣まえつきみを召して内裏で饗応きょうおうをされた。
二十三日、送使の博徳はかとこらが帰朝し、使命を果したことを報告した。

二月二十三日、古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこの娘である倭姫王やまとのひめのおおきみを立てて皇后とした。
全部で四人のみめを持たれた。
蘇我山田石川麻呂大臣そがのやまだのいしかわのまろのおおおみの娘を遠智娘おちのいらつめという。
一男二女をお生みになった。
第一を大田皇女おおたのひめみこ、第二を鸕野皇女うののひめみこ(天武天皇の皇后、持統天皇)という。
天下を治められるようになったときは、飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやにお出でになった。
後に宫を藤原に移された。
第三を建皇子たけるのみこという。
言葉が不自由であった。

ある本に、遠智娘おちのいらつめは一男二女を生み、第一を建皇子たけるのみこ、第二を大田皇女おおたのひめみこといい、第三を鸕野皇女うののひめみことしている。
またある本には、蘇我山田石川麻呂大臣そがのやまだいしかわまろのおおおみの娘を茅淳娘ちぬのいらつめといい、大田皇女おおたのひめみこ娑羅羅皇女さららのひめみこを生んだとある。

次に、遠智娘おちのいらつめの妹があり、姪娘めいのいらつめという。
御名部皇女みなべのひめみこ阿陪皇女あべのひめみこ(後の元明天皇)をお生みになった。
阿陪皇女は天下を治められるようになったときは、藤原宮ふじわらのみやにお出でになった。
後に都を奈良に移された。
次は阿倍倉梯麻呂大臣あべのくらはしまろのおおおみの娘があり、橘娘たちばなのいらつめといった。
飛鳥皇女あすかのひめみこ新田部皇女にいたべのひめみこ(天武天皇の妃)とをお生みになった。
次に蘇我赤兄大臣そがのあかえのおおおみの娘があり、常陸娘ひたちのいらつめといった。山辺皇女やまべのひめみこをお生みになった。

また後宮の女官で男女の子を生んだ者は四人あった。
忍海造小竜の女があり、色夫古娘といった。
一男二女をお生みになった。
第一を大江皇女おおえのひめみこといい、第二を川島皇子かわしまのみこといい、第三を泉皇女いずみのひめみこといった。
また栗隈首徳万くるくまのおびととこまろの娘があり、黒媛娘くろめのいらつめといった。
水主皇女もひとりのひめみこをお生みになった。
また、こし道君伊羅都売みちのきみいらつめ施基皇子しきのみこをお生みになった。
また伊賀采女宅子娘いがのうねめやかこのいらつめがあり、伊賀皇子いがのみこをお生みになった。
後の名を大友皇子おおとものみこという。

夏四月六日、百済は末都師父(まつしぶ)らを遣わして調を奉った。
十六日、末都師父らは帰途についた。

五月五日、天皇は蒲生野がもうのに狩りに行かれた。
時に、大皇弟ひつぎのみこ大海人皇子おおあまのみこ)、諸王、内臣および群臣みなことごとくお供をした。

六月、伊勢王とその弟王とが日をついで薨去こうきょした。

秋七月、高麗こま越路こしのみち北陸の沿岸)から使者を遣わして、調を奉ったが、浪風が高く帰ることができなかった。
栗隈王くるくまのおおきみ筑紫率つくしのかみ(のちの大宰帥)に任じられた。

時に、近江国おうみのくにで武術を講じた。
また多くの牧場を設けて馬を放牧した。
またこしの国から燃える土と燃える水を奉った。
また水辺の御殿の下にいろいろな魚が、水の見えなくなる程集まった。

また蝦夷えみし饗応きょうおうされた。

また舎人とねりらに命じてさまざまな場所で宴をさせられた。
人々は、
「天皇は位を去られるのだろうか」
と言った。

秋九月十二日、新羅は沙トク級サン金東厳さとくきゆうさんこんとうげんらを遣わして調を奉った。

二十六日、中臣鎌足なかとみのかまたりは沙門の法弁ほうべん秦筆じんひつを遣わして、新羅の上臣である大角干庾信だいかくかんゆしんに船一艘を与えられ、東厳とうげんらに言付けられた。

二十九日、布勢臣耳麻呂ふせのおみみみまろを遣わして、新羅王しらぎおうに調物を運ぶ船を一艘贈り、東厳とうげんらに言付けられた。

冬十月、大唐の大将軍である英公えいこうは、高麗こまを打ち滅ぼした。
高麗の仲牟王ちゅうむおうは、初めて国を建てたとき、千年に渡って治め続けることを願った。
これに対し母夫人が、
「もし国をたいへん善く治めたとしても、まず七百年ぐらいのものだろう」
といった。
今この国の滅亡は、まさに七百年後のことであった。

十一月一日、新羅王に絹五十匹、綿五百斤、なめし皮百枚を贈られ、金東厳こんとうげんらに託した。
東厳とうげんらにもそれぞれに応じて物を賜わった。

五日、小山下の道守臣麻呂ちもりのおみまろ吉士小鮪きしのおしびを新羅に遣わした。
この日、金東厳こんとうげんらは帰途についた。

この年、沙門の道行どうぎょうが、草薙剣くさなぎのつるぎを盗んで、新羅に逃げた。
しかし途中で風雨にあって、道に迷いまた戻った。

八年春一月九日、蘇我赤兄臣そがのあかえのおみ筑紫宰つくしのかみ(大宰帥)に任じた。

三月十一日、耽羅たんらが王子久麻伎くまきらを遣わして調を奉った。
十八日、耽羅王たんらおうに五穀の種を賜わった。
この日、王子の久麻伎くまきらは帰国の途についた。

夏五月五日、天皇は山科野やましなののに薬狩りをされた。
大皇弟ひつぎのみこ大海人皇子おおあまのみこ)、藤原内大臣ふじわらのうちつおおおみ(鎌足)および群臣らがことごとくお供をした。

秋八月三日、天皇は高安山たかやすやまに登って、城を築くことを相談された。
しかし、まだ人民の疲れていることを哀れんで、築造はされなかった。
当時の人はこれに感じて、
「仁愛の徳が深くいらっしゃる」
云々と言った。

この秋、藤原内大臣(鎌足)の家に落雷があった。

九月十一日、新羅しらぎ沙サン督儒ささんとくじゅらを遣わして調を奉った。

藤原鎌足の死

冬十月十日、天皇は藤原内大臣ふじわらのうちつおおおみ(鎌足)の家にお越しになり、親しく病を見舞われた。
しかし、衰弱が甚しかった。
それでみことのりして、
「天道が仁者を助けるということに偽りがあろうか。積善の家に余慶があるというのに、そのしるしがない答はない。もし望むことがあるなら何でも言うがよい」
と言われた。
鎌足は、
「私のような愚か者に、何を申し上げることがありましょうか。ただ一つ私の葬儀は簡素にして頂きたい。生きては軍国のためにお役に立てず(百済救援の失敗のこと)、死にあたってどうして御厄介をかけることができましょうか」
云々、とお答えした。

時の賢者は褒めて、
「この一言は昔の哲人の名言にも比すべきものだ。大樹将軍たいじゅしょうぐん(後漢の馮異ふうい)が、賞を辞退したという話と、とても同じには語れない」
と言った。

十五日、天皇は東宮太皇弟ひつぎのみこ大海人皇子おおあまのみこ)を藤原内大臣ふじわらのうちつおおおみ(鎌足)の家に遣わし、大織だいしきの冠と大臣の位を授けられた。
姓を賜わって藤原氏とされた。
これ以後、通称、藤原内大臣ふじわらのうちつおおおみといった。

十六日、藤原内大臣(鎌足)は死んだ。

——日本世記(高句麗こうくりの僧である道顕どうけんの著)に言う。
内大臣うちつおおおみは五十歳で自宅で亡くなった。遺骸を山科やましなの山の南に移してもがりした。天はどうして心なくも、しばらくこの老人を遺さなかったのか。哀しいかな。碑文には春秋五十六にしてこうずとある」

十九日、天皇は藤原内大臣ふじわらのうちつおおおみの家にお出ましになり、大錦上の蘇我赤兄臣そがのあかえのおみに命じて、恵みふかいみことのりを詠みあげさせられた。
また金の香鑪こうろを賜わった。

十二月、大蔵おおくらに出火があった。

この冬、高安城たかやすのきを造って、畿内うちつくにの田税をそこに集めた。
このとき斑鳩寺いかるがてら(法隆寺)に出火があった。

この年、小錦中の河内直鯨こうちのあたいくじららを大唐に遣わした。
また佐平余自信さへいよじしん佐平鬼室集斯さへいきしつしゅうしら男女七百余人を近江国おうみのくに蒲生郡がもうのこおりに移住させた。

また大唐が郭務惊かくむそうら二千余人を遣わしてきた。
(十年十一月条と重出)

九年春一月七日、士大夫まえつきみらにみことのりして、宮廷内で大射礼だいじゃらいがあった。

十四日、朝廷の礼儀と、道路で貴人と行きあったとき、道を避けるべきことを仰せ出された。
また誣告たわごと流言るげんなどを禁じられた。

二月、戸籍を造り、盗人と浮浪者とを取締った。
同月、天皇は蒲生郡がもうのこおり日野ひのにお越しになり、宮を造営すべき地をご覧になった。
また高安城たかやすのきを造って穀と塩とを蓄えた。
また長門に一城、筑紫に二城を築いた。

三月九日、山の井(三井寺の泉)のそばに、諸神の座を設け、幣帛みてぐらを捧げられた。
中臣金連なかとみのかねのむらじ祝詞のりとを奏した。

夏四月三十日、暁に法隆寺で出火があった。
ー舍も残らず焼けた。
大雨が降り、雷鳴が轟いた。

五月、童謡わざうたが行なわれた。

ウチハシノ、ツメノアソビニ、イデマセコ、タマデノイへノ、ヤへコノトジ、イデマシノ、クイハアラジゾ、イデマセコ、タマデノイへノ、ヤへコノトジ。

板を渡した仮橋のたもとの遊びに出ておいで、玉手の家の八重子やえこさん、お出でになっても悔いはありませんよ。出ていらっしやい。玉手の家の八重子やえこさん。

六月、ある村の中で亀をつかまえた。
背中に申の字が書かれてあった。
上部は黄色で下は黒かった。
長さは六寸程であった。

秋九月一日、阿曇連頰垂あずみのむらじつらたりを新羅に遣わした。
この年、水碓みずうす(水力の臼)を造って鉄をた。

大友皇子、太政大臣に

十年春一月二日、大錦上の蘇我赤兄そがのあかえと大錦下の巨勢人臣こせのひとのおみが宮殿の前に進んで、新年の賀詞を奏上した。

五日、大錦上の中臣金連なかとみのかねのむらじが命によって、神々への寿詞よごとを述べた。
同日、大友皇子おおとものみこを太政大臣に任じられた。
蘇我赤兄臣そがのあかえのおみ左大臣ひだりのおとどに、中臣金連なかとみのかねのむらじ右大臣みぎのおとどとされた。
蘇我果安臣そがのはたやすのおみ巨勢人臣こせのひとのおみ紀大人臣きのうしのおみ御史大夫ぎょしたいふとした。

六日、東宮太皇弟ひつぎのみこ大海人皇子おおあまのみこ)がみことのりした。

ある本には、大友皇子おおとものみこが言一命すとある。
冠位、法度のことを施行された。
天下に大赦を行なわれた。
法度、冠位の名は、詳しく新しい律令にのせてある。

九日、高麗こま上部大相可婁じょうほうたいそうかるらを遣わして調を奉った。

十三日、百済にある鎮将ちんしょう劉仁願りゅうじんがんが、李守真りしゅしんらを遣わして、上表文を奉った。

この月、佐平余自信さへいよじしん沙宅紹明さたくしょうみょう(法官大輔)に大錦下を授けられた。
鬼室集斯きしつしゅうし(学頭職)に小錦下を授け、達率谷那晋首たつそつこくなしんしゅ(兵法に詳しい)、木素貴子もくすきし(兵法に詳しい)、憶礼福留おくらいふくる(兵法)、答ホン春初とうほんしゅんそ(兵法)、ホン日比子賛波羅金羅金須ほんにちひしさんはらこんらこんす(薬に通ずる)、鬼室集信きしつしゅうしん(薬に通ずる)に大山下を授けた。
小山上を達率徳頂上たつそつとくちょうじょう(薬に通ずる)、吉大尚こそつも(薬に通ず)、許率母こそつも(五経に通ず)、角福牟ろくふくむ(陰陽に通ずる)に授けた。
小山下を他の達率たつそつたち五十余人に授けた。

童謡わざうたがあった。

タチバナハ、オノガエダエダ、ナレレドモ、タマニヌクトキ、オナジヲニヌク。

たちばなの実は、それぞれ異なった枝になっているが、玉として緒に通す時は、みんな一本の緒に通される。
(身分や才能がそれぞれ異なっている者に、大がかりに沢山の爵位を与えた大盤振舞いを咎めたものか)

二月二十三日、百済くだら台久用善だいくようぜんらを遣わして調を奉った。

三月三日、黄書造本実きふみのみやつこほんじつが水はかり(水準器)を奉った。

十七日、常陸国ひたちのくにから中臣部若子なかとみべのわくこを奉った。
丈が一尺六寸。
生まれてからこの年まで十六年である。

夏四月二十五日、漏刻ろこく水時計)を新しい台の上におき、はじめて鐘、鼓を打って時刻を知らせた。
この漏刻ろこくは天皇がまだ皇太子であった時に、始めて自分でお造りになったものであるという。云々。

この月に、筑紫国ちくしのくにから、
「八本足の鹿が生まれて、間もなく死んでしまいました」
と言ってきた。

五月五日、天皇は西の小殿にお出でになり、皇太子や群臣まえつきみは宴席に侍った。
ここで田舞たまいが二度演じられた。

六月四日、百済くだらの三部の使者が要請した軍事について仰せ事があった。

十五日、百済が羿真子げいしんしらを遣わして調を奉った。

この月、栗隈王くるくまのおおきみ筑紫率つくしのかみ(大宰帥)とした。
新羅が使者を遣わして調を奉った。
別に水牛一頭、山鶏やまどり一羽を奉った。

秋七月十一日、唐人李守真らと、百済の使者らは共に帰途についた。

八月三日、高麗こま上部大相可婁じょうほうたいそうかるらが帰途についた。
十八日、蝦夷えみし饗応きょうおうされた。

天智天皇崩御

九月、天皇が病気になられた。

冬十月七日、新羅しらぎ沙サン金万物ささんこんまんもつらを遣わして調を奉った。
八日、内裏で百体の仏像の開眼供養かいげんくようがあった。
この月、天皇が使者を遣わして、袈裟けさ金鉢こがねのはち象牙ぞうげ沈水香じんこう栴檀香せんだんこうおよび数々の珍宝を、法興寺ほうこうじ(飛鳥寺)の仏に奉らせられた。

十七日、天皇は病が重くなり、東宮(大海人皇子おおあまのみこ)を呼ばれ、寝所に召されてみことのりし、
「私の病は重いので後事をお前に任せたい」
云々と言われた。
東宮(大海人皇子おおあまのみこ)は病と称して、何度も固辞して受けられず、
「どうか大業は大后(皇后)にお授け下さい。そして、大友皇子おおとものみこに諸政を行なわせてください。私は天皇のために出家して、仏道修行をしたいと思います」
と言われた。
天皇はこれを許された。
東宮は立って再拝した。
内裏の仏殿の南にお出でになり、胡床に深く腰かけて、頭髪をおろされ、沙門さもんの姿となられた。
天皇は次田生磐すぎたのおいわを遣わして袈裟を送られた。

十九日、東宮は天皇にお目にかかり、
「これから吉野に参り、仏道修行を致します」
といわれた。
天皇は許された。
東宮は吉野よしのに入られ、大臣おおおみたちがお仕えし宇治うじまでお送りした。

十一月十日、対馬国司つしまのくにのみこともちが使者を大宰府だざいふに遣わして、
「今月の二日に、沙門道久どうく筑紫君薩野馬つくしのきみさちやま(百済救援の役で唐の捕虜となった)、韓島勝裟婆からしまのすぐりさば布師首磐ぬのしのおびといわの四人が唐からやってきて、『唐の使者である郭務惊かくむそうら六百人、送使の沙宅孫登さたくそんこうら千四百人、総計二千人が、船四十七隻に乗って比知島ひちしまに着きました。語り合って、今、我らの人も船も多い。すぐ向こうに行ったら、恐らく向うの防人さきもりは驚いてかけてくるだろう。まず道久どうくらを遣わして、前もって来朝の意を明らかにさせることに致しました』と申しております」
と報告した。

二十三日、大友皇子おおとものみこは内裏の西殿の織物の仏像の前におられた。
左大臣ひだりのおとど蘇我赤兄臣そがのあかえのおみ右大臣みぎのおとど中臣金連なかとみのかねのむらじ蘇我果安臣そがのはたやすのおみ巨勢人臣こせのひとのおみ紀大人臣きのうしのおみが侍っていた。
大友皇子おおとものみこは手に香鑪こうろをとり、まず立ち上って、
「六人は心を同じくして、天皇のみことのりを承ります。もし違背することがあれば、必ず天罰を受けるでしょう」
云々とお誓いになった。
そこで左大臣ひだりのおとど蘇我赤兄そがのあかえらも手に香爐こうろを取り、順序に従って立ち上り涙を流しつつ、
おみら五人は殿下と共に、天皇のみことのりを承ります。もしそれに違うことがあれば、四天王が我々を打ち、天地の神々もまた罰を与えるでしょう。三十三天(仏の守護神たち)も、このことをはっきり御承知おきください。子孫もまさに絶え、家門も必ず滅びるでしよう」
云々と誓いあった。

二十四日、近江宮おうみのみやに火災があった。
大蔵省おおくらしょうの第三倉から出火したものである。
二十九日、五人の臣は大友皇子おおとものみこを奉じて、天皇の前に誓った。
この日、新羅王しらぎおうに、絹五十匹、ふとぎぬ五十匹、綿一千斤、なめし皮一百枚を賜わった。

十二月三日、天皇は近江宮おうみのくにで崩御された。
十一日、新宮でもがりした。
この時、次のような童謡わざうたがあった。

ミエシヌノ、エシヌノアユ、アユコソハ、シマへモエキ、エクルシヱ、ナギノモ卜、セリノモ卜、アレハクルシヱ。

吉野えしぬの鮎こそは、島の辺りにいるのもよかろうが、私はああ苦しい、水葱なぎの下、せりの下にいて、ああ苦しい。(その一)

オミノコノ、ヤへノヒモトク、ヒ卜へダニ、イマダトカネバ、ミコノヒモトク。

臣下おみのこの私が、自分の紐を一重すらも解かないのに、御子は御自分の紐をすっかりお解きになっている。(その二)

アカゴマノ、イユキハバカル、マクズハラ、ナニノツテコ卜、タダニシエケム。

赤駒あかごまが行きなやむくずの原、そのようにまだるこい伝言などなされずに、直接におっしゃればよいのに。(その三)

天智天皇てんちてんのう崩御後の、皇位継承の争いをふうしたものか。
一は吉野よしのに入った大海人皇子おおあまのみこの苦しみ。
二は吉野方よしのがたの戦争準備の成ったこと。
三は近江方おうみがた吉野方よしのがたの直接の交渉を勧めるものか。

十七日、新羅しらぎの調を奉る使者の沙サン金万物ささんこんまんもつらが帰途についた。

この年、讃岐国さぬきのくに山田郡やまだのこおりの人の家に、四本足のひよこが生まれた。
また、宮中の大炊察おおいりょうに、八つのかなえ儀式用の釜)があり、それがひとりでに鳴った。
ある時は一つ鳴り、ある時は二つ、ある時は三つ一緒に鳴った。
またある時は八つ共一緒に鳴った。
(宮中の不吉の兆しを思わせる)またある時は八つ共一緒に鳴った。

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