古代における「人の移動力」の推定は、文化波及や勢力拡大、統治範囲を推測する上で極めて重要である。
これを基に、邪馬台国の比定や神話の読み解きが可能となる。
ここでは、古代日本国内における水路での移動力をまとめた。
古代日本における船の性能
船での移動は、海・川・湖といった環境条件と、船の性能に依存する。
まず古代日本における船の性能について整理しておこう。
参考文献
丸木舟(縄文時代〜弥生時代末期まで)
木は水に対する比重が約0.8であるため水に浮かぶ。
これをまとめることで「筏(いかだ)」ができる。
最初の頃は筏を使っていたと考えられるが、これでは重い荷物が運べず、操船も困難である。
そこで、大木の丸太を刳り抜いて浮力を高めたものが「丸木舟(まるきぶね)」である。
日本では、弥生時代末期まで最先端の船は丸木舟であり、その後、準構造船や構造船が登場してからも、沿岸部や河川では活躍し続けた。
丸木舟は1本の大木を刳り抜いて作成されているため壊れにくく、転覆しても浮き続けることができるため安全性が高かったからである。
実際、現代でも船を自作して生活に利用する人たちは多い。
丸木舟の性能や大きさは、使用する木に左右される。
一般的には、上図のように約5〜7mで、人が3〜5人乗れるものである。
2つの丸木舟を継ぎ合わせて製作されたものも見つかっている。
大阪市今福鯰江川の三郷橋で出土した複合の丸木舟は、全長13.46メートル、全幅1.89メートルあった。
速度は、パドルやオールを使って推進して、3〜5km/hで進むことができる。
徒歩と同じ速度と考えていい。
丸木舟の欠点は、丸太の形状に依存するため、喫水線から下の構造を深く取りにくいことである。
このため、大きな波や風を受けると転覆しやすく、丸木舟の利用は季節・天候に大きく左右される。
しかし、古代日本では丸木舟が活躍していた痕跡が残されている。
古代日本人は、季節ごとの潮の満ち引きや、天候の影響を考慮した水行術を会得していたはずである。
準構造船(弥生時代末期〜古墳時代)
準構造船とは、丸木舟に舷側板を取り付けて、耐航性を高くした船である。
丸木舟の側面に板を取り付け、波による浸水を防ぐ仕組みになっている。
舷側板の取り付け方法の技術レベルが上がり、丸木舟部以上に喫水線が上がっても浸水しなくなると、浮力と安定性を高めることにつながった。
これにより積載量が向上し、交易のレベルも上がってゆく。
大きさは基礎となる丸木舟に依存するが、これまでに出土したものには、2つの丸木舟をつなぎ合わせた船も見つかっている。
全長は丸木舟1本の単純構造で5m〜7m、複合構造で大きなものであれば15m〜20mのものがあったとされる。
準構造船も丸木舟と同様、パドルやオールを使って推進し、約3〜5km/hで進むことができる。
大型の準構造船であれば人員を割いて推進できるため、もっと速度が出せた可能性が高い。
例えば、以下の石版に描かれている「ガレー船」のような運用をするようになったのは、古墳時代以降の準構造船である。
古代日本の船での移動力
丸木舟や準構造船は、パドルやオールを使って推進し、水流を無視すれば3〜5km/hで進むことができた。
これは徒歩と同じ速度である。
徒歩での1日の移動力は約10km〜30kmであるため、これに準じて考えることができる。
しかし、湖でもない限り、水流の無い場所はほとんどない。
海流・潮流や、川の流れに応じる必要がある。
対馬海峡であれば、最も距離のある釜山(韓国)から対馬までが、約60kmである。
また、縄文時代より交易のあったことが分かっている隠岐の島(隠岐諸島)から本州までは、最も短い距離で約45km。
つまり、潮流を読んで進めば、30km以上の距離を進むことができたのである。
逆に言えば、時速3km以上の潮流に逆らって移動することはできない上に、天候により少しでも波が高い場合は丸木舟は利用できない。
そもそも丸木舟は放っておいたら浸水状態にあるため、常に水を掬い出しながら航行する船である。
それでも古代日本では船での移動が好まれたようである。
それは、古代日本には地域間を跨ぐためのまともな道路が整備されていなかったからである。
詳細は、古代日本の陸路での移動力を参照のこと。
船は危険な乗り物であったが、登山道や獣道のような場所を移動するよりも効率的だと考えられた。
川も「下り」は流れに乗れば楽であるため、「上り」は人力で曳いたり、担いで移動していた。
丸木舟での日本海(対馬海峡)横断
弥生時代まで、丸木舟のような非常に不安定な船で、古代日本人は朝鮮半島や中国との交易をしていたことになる。
パドルを使って推進する丸木舟で対馬海峡を渡るためには、潮流を読む必要がある。
「潮待ち」をして絶好の時期・時間を見定め、対馬・壱岐島を渡っていたものと考えられる。
なお、丸木舟であれば大破することがないため、潮を見誤って目標から外れても漂流できる。
運が良い漂流者は対馬海流に乗って、沖ノ島(対馬の東沖)、見島(山口県沖)、隠岐の島、北陸地方(能登)といった場所に流れ着くことも多かったようである。
そのなかでも、対馬の東沖にあって女人禁制の神聖な場所として祀られている「沖ノ島」は、対馬海峡を渡ろうとした漂流者が、なんとか生きながらえられた島として特別視されていたことであろう。
現在、沖ノ島は「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群として世界遺産に登録されている。
丸木舟で瀬戸内海を航行できたか?
対馬海峡ほどではないが、意外と航行が難しい海が瀬戸内海である。
瀬戸内海は諸島が多い多島海であり、それだけに潮流が複雑で急で、「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸」と謳われるほどの海の難所である。
しかし、潮流を読むことが出来る地元民であれば、座礁・転覆しても助かりやすい丸木舟を使った交易や漁業が発達しやすい場所と考えられる。
言い換えれば、船同士の衝突や座礁が心配になる、大型の準構造船・構造船にとっては、瀬戸内海は極めて危険な場所である。
それでも古代日本が瀬戸内海を使って交易ができたのは、当時、この地域の沿岸部が非常に発展していたからである。
当時の船の移動力は1日あたり10km〜30km。
しかも、天候や積載量が大きく影響する乗り物である。
そのような乗り物を現実的に運用するためには、当時の瀬戸内海の沿岸部には、10kmごとに船舶集団が停泊できる村落や船宿街があったことを意味している。
九州と畿内を結ぶ交易路であった瀬戸内海沿岸部は、「船宿(航行者の休息場所)」が発達しており、古代日本における政治経済の大動脈として機能したと考えられる。
古代の船の移動能力を推測できる重要資料「土佐日記」
古代の船の移動力を推測する資料は意外と少ない。
その中でも、移動の様子をしっかり描写した資料として、紀貫之『土佐日記』がある。
古代日本の船移動を考える上で重要なことは、「船宿」である。
紀貫之の『土佐日記』は、土佐(高知市付近)から京都までの航路の様子を伝えるエッセイである。
「土佐日記」に記されているのは、高知市付近から出発し、室戸岬をまわって徳島・淡路島へと至り、大阪南部(和泉地域)に渡って北上して淀川で京都に向かう航路である。
しかし、この「高知〜徳島〜京都」の航路が出来たのは平安時代以降であるとされている。
それ以前は、瀬戸内海から回って、高知県西部の「幡多地域(波多国)」から高知に入っていた。
下図のような航路である。
その考古学的な理由は、土佐国の形成以前に、幡多地域(波多国)の発展と中央(京都)とのつながりが早かったからとされている。
単純な距離を比べれば、徳島から室戸岬を経由するルートの方が圧倒的に早い。
しかし、「土佐日記」によれば、この経路であっても「高知〜京都」の所要時間は50日である。
なお、土佐日記のルートは全部で約350kmであるため、1日あたり約7km進む計算になる。
(土佐日記には、潮待ちで何日も船宿で待機した記述もあるため、純粋な移動速度ではない)
つまり、前述したように沿岸部に10kmごと「船宿」などの退避場所が整備されていなければ、
「国境をまたぐ(港を移り渡る)長距離航行」
は現実的ではないのだ。
土佐国より波多国が先に発展したのも、瀬戸内海の方が船移動の設備(船宿や退避地)が整っていたからであろう。
船による行軍
もし船で行軍するのであれば、その移動ルートには船宿をしっかり配置するか、その土地の村落を略奪することが重要となる。
まさに北欧のヴァイキングのような様相を呈する。
より現実的に考えれば、神武東征や三韓征伐のような船による大軍団の行軍は「象徴的なもの」であったと推測できる。
しかしその一方で、船で移動する方が、陸を移動するよりも安全な行軍になる。
それを裏付けるように、古代日本は集落間を移動する道路が整備されていかなったとされている。
もともと日本は険しい山岳と河川で分断されており、陸路での長距離移動は難しい。
そのような敵地を徒歩により行軍している最中に、地の利の有る現地軍から奇襲されれば軍団は壊滅する。
そのため、古代日本における「行軍」とは、数十人規模の部隊でひっそりと数kmを移動し、沿岸部にゲリラ戦を仕掛ける戦い方が一般的だったのかもしれない。
これも北欧ヴァイキングと同じ戦法である。
ヴァイキング(ウィキペディア)
つまり、こうした「戦い方」が船による大軍団の行軍物語として、古事記・日本書紀などに記された可能性がある。
帆船はあったか?
古代日本において帆船が利用されていたことを証明するものは見当たらない。
一般的には、古墳時代を過ぎて「飛鳥時代(7世紀)」に入って以降、中国のジャンク船を遣隋使で使用するようになった形跡がある。
ただ、大きな構造船であるジャンク船を利用するより以前に、小規模な船で沿岸部を帆走していた可能性はある。
いずれにせよ、日本が帆船を利用するようになったのは、古代においても末期、どんなに古くても古墳時代に入ってからである。
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