垂仁天皇 活目入彦五十狭茅天皇
即位
活目入彦五十狭茅天皇は崇神天皇の第三子である。
母は大彦命の娘である御間城姫という。
天皇は崇神天皇の二十九年一月一日、瑞籬宮に生まれられた。
生まれつきしっかりとしたお姿で、壮年になる頃には非常に度量が大きかった。
人となりが正直で、飾ったり偏屈なところがなかった。
父の天皇が可愛がられて、常に身辺に留めおかれた。
二十四歳の時、夢のお告げにより皇太子となられた。
六十八年冬十二月、崇神天皇が亡くなられた。
元年春一月二日、皇太子は皇位につかれた。
冬十月十一日、崇神天皇を山辺道上陵に葬った。
十一月二日、先の皇后を尊んで皇太后といわれた。
この年、太歳壬辰。
二年春二月九日、狭穂姫を立てて皇后とされた。
誉津別命を生まれた。
天皇はこれを愛して、常に身近におかれた。
大きくなっても物を言われなかった。
冬十月さらに纏向に都をつくり、珠城宮といった。
任那(みなま)・新羅(しらぎ)抗争のはじまり
この年、任那の人である蘇那曷叱智が、
「国に帰りたい」
と言った。
先皇の御世に来朝して、まだ帰らなかったのであろうか。
彼を厚くもてなされ、赤絹を百匹(100枚)を持たせて任那の王に贈られた。
ところが、新羅の人が途中でこれを奪った。
両国の争いはこのとき始まった。
また一説によると、崇神天皇の御世に、額に角の生えた人が、ひとつの船に乗って越の国の笱飯の浦に着いた。
それで、そこを名づけて角鹿(敦賀)という。
「何処の国の人か」と尋ねると、
「大加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐という。日本の国に聖王がお出でになると聞いてやってきました。穴門(長門国の古称)に着いたとき、その国の伊都都比古が私に、『私はこの国の王である。私の他に二人の王はない。他の所に勝手に行ってはならぬ』と言いました。しかし、私はよくよくその人となりを見て、これは王ではあるまいと思いました。そこで、そこから退出しました。しかし、道が分らず島浦を伝い歩き、北海から回って出雲国を経てここに来ました」
と述べた。
このとき、天皇の崩御があった。
そこで、留まって垂仁天皇に仕え三年たった。
天皇は都怒我阿羅斯等に尋ねられ、
「自分の国に帰りたいか」
と問うと、
「大変帰りたいです」
と答えた。
天皇は彼に、
「お前が道に迷わず速くやってきていたら、先皇にも会えたことだろう。そこでお前の本国の名を改めて、御間城天皇の御名をとって、お前の国の名にせよ」
と言われた。
そして、赤織の絹を阿羅斯等に賜わり、元の国に返された。
ゆえに、その国を名づけてミマナの国というのは、この縁によるものである。
阿羅斯等は賜った赤絹を自分の国の蔵に収めた。
新羅の人がそれを聞いて兵を伴いやってきて、その絹を皆、奪った。
これから両国の争いが始まったという。
また別の説によると、はじめ、都怒我阿羅斯等は国にいたとき、黄牛に農具を負わせて田舍に行った。
ところが、黄牛が急にいなくなった。
跡を追って行った。
足跡がある邑の中に留まっていた。
一人の老人が言った。
「お前の探している牛は、この村の中に入った。村役人が言うのに、『牛が背負っていた物から考えると、きっと殺して食べようとしているのだろう。もしその主がやってきたら、物で償いをしよう』と言って、殺して食べてしまった。もし『牛の代価に何を望むか』と言われたら、財物を望むな。『村にお祀りしてある神を欲しい』と言いなさい」
と言った。
しばらくして、村の役人が来て言った。
「牛の代価は何を望むか」
回答は、老人に言われたようにした。
その祀る神は、白い石であった。
それで、白い石を牛の代りとした。
それを持ち帰って寝屋の中に置いた。
すると、石は美しい乙女になった。
阿羅斯等は大変喜んで交合しようとした。
しかし阿羅斯等がちょっと離れたすきに、娘は失せてしまった。
阿羅斯等は大変驚き、妻に尋ねた。
妻は答えて、
「東の方に行きました」
と言う。
探して追って行くと、海を越えて日本国に入った。
探し求めた乙女は、難波に至って比売語曽社神となった。
また、豊国の国前郡に行って、比売語曽社神となった。
そして、この二箇所に祀られているという。
三年春三月、新羅の王の子、天日槍がきた。
持ってきたのは、羽太の玉一つ、足高の玉一つ、鵜鹿鹿の赤石の玉一つ、出石(但馬国のこと)の小刀一つ、出石の样一つ、日鏡一つ、熊の神籬一具、合せて七点であった。
それを但馬国におさめて、神宝とした。
一説には、はじめ、天日槍は、船に乗って播磨国に来て、宍粟邑にいた。
天皇が三輪君の祖の大友主と、倭直の祖の長尾市を遣わして、天日槍に、
「お前は誰か。またどこの国の人か」
と尋ねられた。
天日槍は、
「私は新羅の国の王の子です。日本の国に聖王がおられると聞いて、私の国を弟である知古に授けてやってきました」
と言う。
そして奉ったのは、葉細の珠、足高の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠、出石の刀子、出石の槍、日鏡、熊の神籬、胆狭浅の太刀、合せて八種類である。
天皇は天日槍に詔して、
「播磨国の宍粟邑と、淡路島の出浅邑の二つに、汝の心のままに住みなさい」
と言われた。
しかし天日槍は申し上げた。
「私の住む所は、もし私の望みを許して頂けるなら、自ら諸国を巡り歩いて、私の心に適った所を 選ばせて頂きたい」
と言った。
そのお許しがあった。
そこで、天日槍は宇治河を遡って、近江国の吾名邑に入ってしばらく住んだ。
近江からまた若狭国を経て、但馬国に至り居処を定めた。
近江国の鏡邑の谷の陶人は、天日槍に従っていた者である。
天日槍は但馬国の出石の人、太耳の娘である麻多烏を娶って、但馬諸助を生んだ。
諸助は但馬日樁杵を生んだ。
日播杵は清彦を生んだ。
清彦は田道間守を生んだとされる。
狭穂彦王の謀反
四年秋九月二十三日、皇后の兄である狭穂彦王は、謀反を企てて国を傾けようとした。
皇后が休息して家におられるときを伺い、皇后に語って、
「お前は兄と夫と何れが大事か」
と言った。
皇后は、尋ねられた意味が分らず、
「兄が大事です」
と言った。
すると皇后に、
「容色を以て人に仕えるのは、色香が衰えたら寵愛は終る。今、天下に美人は多い。それぞれ寵愛されることを求めている。どうして容色だけを頼みにできようか。それでもし自分が皇位につけば、お前と一緒に天下に臨むことができる。枕を高くして百年でもいられるのは快いことではないか。どうか、私の為に天皇を殺してくれ」
と言った。
そして匕首(短刀)を皇后に授けて、
「この匕首を衣の中に忍ばせ、天皇が眠っておられるときに頸を刺して殺せ」
と言った。
皇后は心戦慄き、なすべきを知らなかった。
しかし、兄の志を思うと、たやすく諫めることもできなかった。
その匕首を独り隠すこともできず、衣の中につけた。
五年冬十月一日、天皇は来目にお越しになり、高宮におられた。
時に、天皇は皇后の膝を 枕に昼寝をされた。
しかし、皇后は事を行われなかった。
「兄の謀反はこの時なのに」
と思うと、涙が流れて帝の顔に落ちた。
天皇は驚いて目を覚まされ、皇后に語って言われた。
「私は今、夢をみた。錦色の小さな蛇が、我が頸に巻きついた。大雨が狭穂から降ってきて、顔を 濡らすと見えたのは、何の兆しなのだろう」
皇后は謀を隠し得ないことを知って、 恐れて地に伏し、詳しく兄王の謀反のことを申し上げられた。
「私は兄の王の志に違うこともできず、天皇の御恩に背くこともできません。告白すれば兄の王を殺すことになり、言わなければ国を傾けることになります。それで恐れと悲しみで、仰いでは咽び、感極まって血涙を流しました。昼も夜も苦悩のために胸につかえて、訴え申し上げることもできません。天皇が今日、私の膝を枕に休まれ、もし狂った女が兄のため、この時にとでも思ったら、手間もかけずに成功するでしょうと、この思いがまだ終わらないのに、涙が溢れ、袖より落ちて、帝の顔を濡らしました。夢にご覧になったのは、このことの現れでしょう。錦の小蛇というの は、私が預かった匕首です。雨が降ったのは私の涙です」
天皇は皇后に、
「これはお前の罪ではない」
と言われた。
身近にいる兵を遣わして、上毛野の君の祖である八綱田に命じて、狭穂彦を討たせた。
狭穂彦は軍を起こして防いだ。
急いで稲を積んで城塞とした。
それが仲々破れなかった。
これを稲城という。
月が替っても降伏しなかった。
皇后は悲しんで、
「私は皇后といっても、兄王をこんなことで失っては、何の面目があって天下に臨めようか」
と言い、王子である誉津別命を抱いて、兄王の稲城の中に入られた。
天皇は軍勢を増やし、完全に城を取り囲み、詔して、
「速かに皇后と皇子を出しなさい」
と言われた。
それでも出てこないので、八綱田は火をつけて城を焼いた。
そこで皇后は皇子を抱いて、城の上を越えて出てこられた。
そして、
「私が兄の城に逃げ込んだのは、もしかしたら私と子のために、兄の罪を許されるかも知れぬと思ったからです。許されないならば、私に罪があることを知りました。捕われるよりは、自殺をいたします。私は死んでも天皇の御恩は忘れません。どうか私がやっていた後宮の仕事は、良い女の人にさせて下さい。丹波の国に五人の婦人がいます。貞潔の人たちです。丹波道主王の娘です(道主王は、開化天皇の子孫である彦坐王子である。また他の説では、彦湯産隅王の子とされる)。後宮に召入れて、補充として使って下さい」
と言った。
天皇は聞き入れられた。
火は燃え上がり、城は崩れて軍卒はことごとく逃げた。
狭穂王と妹は城の中で死んだ。
天皇は八綱田の功を褒めて、名を授けられた。
これを倭日向武火向彦八綱田という。
角力の元祖
七年秋七月七日、お傍の者が申し上げた。
「当麻邑に勇敢な人がいます。当麻蹶速といい、その人は力が強くて、角を折ったり、曲がった鈎を伸ばしたりします。人々に、『四方に求めても、自分の力に並ぶ者はないだろう。何とかして強い力の者に会い、生死を問わず力比ベをしたい』と言っています」
と言った。
天皇はこれをお聞きになり、群卿たちに詔して、
「当麻蹶速は天下の力持ちだという。これにかなう者はあるだろうか」
と言われた。
ひとりの臣が進み出て、
「出雲国に野見宿禰という勇士がいると聞いています。この人を蹶速に取り組ませてみたらよいと思います」
と言った。
その日に倭直の祖、長尾市を遣わして、野見宿禰が呼ばれた。
野見宿禰は出雲からやってきた。
当麻蹶速と野見宿禰に角力をさせた。
二人は向かい合って立った。
互いに足を挙げて蹴り合った。
野見宿禰は当麻蹶速のあばら骨を踏み砕いた。
また、彼の腰を踏みくじいて殺した。
そこで当麻蹶速の土地を没収して、すべて野見宿禰に与えられた。
これが、その邑に腰折田(山裾の折れ曲がった田)がある由来である。
野見宿禰は、そのまま留まってお仕えした。
十五年春二月十日、丹波の五人の女を召して後宮に入れた。
一番上を日葉酢媛という。
次を淳葉田瓊入媛という。
第三を、真砥野媛という。
第四を薊瓊入媛という。
第五を竹野媛という。
秋八月一日、日葉酢援を立てて皇后とされた。
皇后の妹の三人を妃とされた。
竹野媛だけは不器量であったので、里に返された。
その返されることを恥じて、葛野で自ら輿より落ちて死んだ。
それで、その地を名づけて堕国という。
今、弟国(乙訓)と呼ばれているのは、それが訛ったものである。
皇后である日葉酢媛命は三男二女を生んだ。
第ーを五十瓊敷入彦命という。
第ニを大足彦命(景行天皇)という。
第三を大中姫命という。
第四を倭姫命という。
第五を稚城瓊入彦命という。
次の妃である濘葉田瓊入媛は、鐸石別命と、胆香足姫命とを生んだ。
その次の妃である薊瓊入媛は、池速別命と稚麻津媛命を生んだ。
鳥取の姓
二十三年秋九月二日、群卿に詔して、
「誉津別命は三十歳になり、長い顎髯が伸びるまで、赤児のように泣いてばかりいる。そして、声を出して物を言うことがないのは何故か。皆で考えて欲しい」
と言われた。
冬十月八日、天皇は大殿の前にお立ちになり、誉津別皇子はその傍に付き従っていた。
そのとき白鳥の鵠が、大空を飛んでいった。
皇子は空を仰いで、鵠をごらんになり、
「あれは何物か」
と言われた。
天皇は皇子が鵠を見て、ロを利くことができたのを知り、喜ばれた。
傍の者に詔して、
「誰かこの鳥を捕えて献上せよ」
と言われた。
そこで、鳥取造の祖である天湯河板挙が、
「手前が必ず捕まえましょう」
と言った。
天皇は天湯河板挙に言われた。
「お前がこの鳥を捕えたら、きっと充分褒美をやろう」
湯河板挙は鵠の飛んで行った方向を追って、出雲まで行き、ついに捕えた。
ある人は「但馬国で捕えた」とも言う。
十一月二日、湯河板挙が鵠を奉った。
誉津別命はこの鵠を調教し、ついに物が言えるようになった。
これによって湯河板挙に賞を賜わり、姓を授けられ、鳥取造という。
そして鳥取部、鳥養部、誉津部を定めた。
伊勢の祭祀
二十五年春二月八日、阿倍臣の先祖である武淳川別、和珥臣の先祖である彦国葺、中臣連の先祖である大鹿島、物部連の先祖である十千根、大伴連の先祖である武日といった五大夫たちに詔して、
「先帝、崇神天皇は賢くて聖であり、聡明豁達、政治をよくご覧になり、神々を救い、躬を慎しまれた。それで人民は豊かになり、天下は太平であった。私の代にも神祇をお祀りすることを、怠ってはならない」
と言われた。
三月十日、天照大神を豊耜入姫命から離して、倭姫命に託された。
倭姫命は大神を鎮座申し上げるところを探し、宇陀の篠幡に行った。
さらに引返して近江国に入り、美濃をめぐって伊勢国に至った。そのとき天照大神は、倭姫命に教えて言われたのが、
「伊勢国はしきりに波が打ち寄せる、傍国(中心ではない国)の美しい国である。この国にいたいと思う」
というものである。
そこで大神のことばのままに、その祠を伊勢国に立てられた。
そして斎宮(斎王のいる宮)を五十鈴川のほとりに立てた。
これを磯宮という。
天照大神が、初めて天より降りられたところである。
一説には、天皇は、倭姫命を依代として、天照大神に差し上げられた。
それで倭姫命は、天照大神を磯城の神木の本にお祀りした。
その後、神のお告げにより、二十六年十月、甲子の日、伊勢国の渡遇宮にお移しした。
このとき、倭大国魂神が、穂積臣の先祖である大水ロ宿禰に乗り移って言われたのが、
「最初、はじまりのときに約束して、『天照大神は、全ての天原を治めよう。代々の天皇は、葦原中国の諸神を治め、私には自ら地主の神を治めるように』ということであった。ここで仰せ言が終った。先皇の崇神天皇は神祀をお祭りなさったが、詳しくその根源を探らないで、枝葉に走っておられた。それで天皇は命が短かった。今、汝は先皇の及ばなかったところを悔い、よくお祀りすれば、 汝の命も永く天下も太平であろう」
といわれた。
天皇はこの言葉を聞いて、誰に大倭大神を祀らせればよいのか、中臣連の祖である探湯主に仰せられて占わせた。
そして、淳名城稚姫命が占いに出た。
そこで、淳名城稚姫命に命じて、神地として穴磯邑に定め、大市の長岡の崎にお祠りした。
しかし、淳名城稚姫命は、すでに体が痩せ弱っていて、お祀りすることができなかった。
それで、大倭直の祖である長尾市宿禰に命じて祀らせたという。
二十六年秋八月三日、天皇は物部十千大連に詔して、
「たびたび使者を出雲に遣わして、その国の神宝を検めさせたが、はっきりと申す者もない。お前が自ら出雲に行って調べて来なさい」
と言われた。
十千根大連は、神宝をよく調べてはっきりと報告した。
それで神宝のことを司らさせた。
二十七年秋八月七日、神官に命じて、武具を神々にお供えすることの可否を占わせたら、吉(きち)と出た。
そこで、弓矢と太刀を諸々の神社に奉納した。
さらに、神地、神戸(神の料田や神社の民戸)を定めて、時期を決めてお祭りさせた。
武具を以て神祇を祭るということは、この時に始まったのである。
この年、屯倉(朝廷の直轄地)を来目邑にした。
野見宿踊と埴輪
二十八年冬十月五日、天皇の母の弟の倭彦命が亡くなられた。
十一月二日、倭彦命を身狭(橿原)の桃花鳥坂(築坂)に葬った。
このとき、近習の者を集めて、全員を生きたままで、陵(墓)のまわりに埋めた。
日が経っても死なず、昼夜泣き呻いた。
ついには死んで腐っていき、犬や鳥が集まり食べた。
天皇は、この泣き呻く声を聞かれて、心を痛められた。
群卿に詔して、
「生きている時に愛し使われた人々を、亡者に殉死させるのは痛々しいことだ。古の風であるといっても、良くないことは従わなくてもよい。これから後は、合議して殉死を止めるように」
と言われた。
三十年春一月六日、天皇は五十瓊敷命と大足彦尊に詔して、
「お前たち、それぞれに欲しい物を言ってみよ」
と言われた。
兄王は、
「弓矢が欲しいです」
といわれた。
弟王は、
「天皇の位が欲しいです」
といわれた。
そこで天皇は詔して、
「それぞれの望みのままにしよう」
と言われた。
弓矢を五十瓊敷命に賜わり、大足彦命には、
「お前は必ず、我が位を継げ」
と仰せられた。
三十二年秋七月六日、皇后である日葉酢媛命が亡くなられた。
葬るのにはまだ日があった。
天皇は群卿に詔して、
「殉死が良くないことは前に分った。今度の葬はどうしようか」
と言われた。
野見宿禰が進んで言った。
「君王の陵墓に、生きている人を埋め立てるのはよくないことです。どうして後の世に伝えられましょうか。どうか今、適当な方法を考えて奏上させて下さい」
使者を出して出雲国の土部を百人を呼んで、土部たちを使い、埴土で人や馬やいろいろの物の形を造って、天皇に献上し、
「これから後、この土物を以て生きた人に替え、陵墓に立て後世の決まりとしましょう」
と言った。
天皇は大いに喜ばれ、野見宿禰に詔して、
「お前の便法は誠にに我が意を得たものだ」
と言われ、その土物を始めて日葉酢媛命の墓に立てた。
よって、この土物を名づけて埴輪と呼んだ。
あるいは、立物ともいった。
命を下されて、
「今から後、陵墓には必ずこの土物をたてて、人を損ってはならぬ」
と言われた。
天皇は厚く野見宿禰の功を褒められて、鍛地(陶器を成熟させる地)を賜った。
そして、土師の職に任ぜられた。
それで本姓を改めて土部臣という。
これが土部連らが、天皇の喪葬を司る謂れである。
つまり、野見宿禰は土部連の先祖である。
三十四年春三月二日、天皇は山城にお出でになった。
時に、側仕えの者が言った。
「この国に美人がいます。綺戸辺といい、顔かたちが良く、山城大国の不遅の娘です」
天皇はそこで矛をとってこれに祈をされて、
「その美人に会ったら、必ず道路にめでたい瑞があるように」
と仰せられた。
行宮にお着きになる頃に、大亀が河の中から出てきた。
天皇は矛を挙げて亀を刺された。
亀は、たちまち岩になった。
お傍の人に、
「この物から推測すると、きっと霊験があるだろう」
と仰せられた。
こうして綺戸辺を召して後宮に入れられた。
そして磐衝別命を生んだ。
これは三尾君の先祖である。
これより先に、山城の莉幡戸辺を召された。
そして三人の男子を生んだ。
第一を、祖別命という。
第二を、五十日足彦命という。
第三を、胆武別命という。
五十日足彦命の子は石田君の先祖である。
三十五年秋九月、五十瓊敷命を河内国に遣わして、高石池(たかしのいけ)、茅淳池(ちぬのいけ)を造らせた。
冬十月に倭の狭城池と迹見池を造った。
この年、諸国に令して、池や溝を沢山開かせた。
その数は八百あまり。
農業を大切な仕事とし、これによって百姓は富み豊かになり、天下太平となった。
三十七年春一月一日、大足彦命を立てて皇太子とされた。
石上神宮
三十九年冬十月、五十瓊敷命は、茅濘(和泉の海域)の菟砥の川上宮にお出でになり、剣一千ロを造らせられた。
よってその剣を川上部という。
またの名を裸伴という。
これを石上神宮に納めた。
この後に五十瓊敷命に仰せられて、石上神宮の神宝を司らせた。
ある説によれば、五十瓊敷皇子は、茅淳の菟砥の河上にお出でになり、鍛冶の名は河上という者をお呼びになり、太刀一千ロを造らせられた。
この時に、楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊衝部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部など、合わせて十種の品部を五十瓊敷皇子に賜った。
その一千ロの太刀を忍坂邑に納めた。
その後、忍坂から移して石上神宮に納めた。
このときに神が、
「春日臣の一族で、名は市河という者に治めさせよ」
と言われた。
よって、市河に命じて治めさせた。
これが現在の、物部首(もののべのおびと)の先祖である。
八十七年春二月五日、五十瓊敷命が妹の大中姫に、
「私は年をとったから、神宝を司ることができない。今後はお前がやりなさい」
と言われた。
大中姫は辞退して言われる。
「私はか弱い女です。どうしてよく神宝を収める高い宝庫に登れましょうか」
五十瓊敷命は、
「神庫が高いといっても、私が梯子を造るから、庫に登るのが難しいことはない」
と言われた。
諺にも言う、「天の神庫は樹梯のままに」というのは、これがその由来である。
そして大中姫命は、物部十千根大連に授けて治めさせられた。
物部連が今に至るまで、石上 の神宝を治めているのは、これがその元である。
昔、丹波国(たんばのくに)の桑田村に、名を甕襲という人がいた。
甕襲の家に犬がいた。
名を足往という。
この犬は山の獣であるムジナを食い殺した。
獣の腹に八尺瓊勾玉があった。
それを献上した。
この宝は現在、石上神宮にある。
天日槍と神宝
八十八年秋七月十日、群卿に詔して、
「新羅の王子、天日槍が初めてやって来た時に、持ってきた宝物はいま但馬にある。国人に尊ばれて神宝となっている。私は今、その宝を見たいと思う」
と言われた。
その日に使者を遣わして、天日槍の曽孫である清彦に詔された。
清彦は勅を受けて、自ら神宝を捧げて献上した。
羽太の玉一つ、足高の玉一つ、鵜鹿鹿の赤石の玉一つ、日鏡一つ、熊の神籬一つである。
ただ、刀子が一つだけあり、名を出石という。
清彦は急に刀子は奉るまいと思って、衣のなかに隠して、自分の身につけた。
天皇はそれには気づかれず、清彦を労うため御所で酒を賜った。
ところが、刀子は衣の中から現れてしまった。
天皇はご覧になって清彦に尋ねて、
「お前の衣の中の刀子は何の刀子か」
と言われた。
清彦は隠すことはできないと思って白状して、
「奉るところの神宝の一つです」
と言った。
天皇は、
「その神宝は仲間と一 緒でなくても差し支えないのか」
と言われた。
そこでこれを差し出し奉った。
神宝は全部、神府に納められた。
その後、神府を開いてみると、刀子はなくなっていた。
清彦に尋ねさせられ、
「お前が奉った刀子が急になくなった。お前の所へ行っているのではないか」
と言われた。
清彦は答えた。
「昨夕、刀子がひとりで私の家にやって来ましたが、今朝はもうありません」
天皇は畏れ慎しまれて、また欲しがろうとはしなかった。
この後、出石の刀子は、ひとりでに淡路島に行った。
その島の人は、それは神だと思って、刀子のために祠を立て、今でも祀っている。
昔、一人の人間が小舟に乗って、但馬国にやってきた。
「何処の国の人か」
と尋ねると、こう答えた。
「新羅の王の子、名を天日槍という」
そして但馬に留まり、その国の前津耳の娘の麻拕能烏を娶とって、但馬諸助を生んだ。
これは清彦の祖父である。
田道間守
九十年春二月一日、天皇は田道間守に命じて、常世国に遣わして、「非時の香果」を求められた。
現在の橘のことである。
九十九年秋七月一日、天皇は纏向宮で崩御された。
時に、年百四十歳。
冬十二月十日、菅原の伏見陵に葬った。
翌年春三月十二日、田道間守は常世国から帰ってきた。
持ってきたのは、非時の香果を八竿八縵である。
田道間守は泣き嘆いて言った。
「命を承って遠く遥かな国に行き、万里の波を越えて帰ってきました。この常世国は、神仙の秘密の国で、俗人の行ける所ではありません。そのため、行ってくるのに十年も経ちました。本土に再び戻れるとは思いもかけなかったことです。しかし、聖帝の神霊の加護により、やっと帰ることができました。今、天皇は既に亡く、復命することもできません。私は生きていても何のためになりましょうか」
天皇の陵にお参りし、泣き叫んで死んだ。
群臣はこれを聞いて皆、泣いた。
田道間守は三宅連の先祖である。
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