日本書紀・日本語訳「第十二巻:履中天皇 反正天皇」

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履中天皇 去来穂別天皇

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仲皇子が黒緩を犯す

去来穂別天皇イザホワケノスメラミコト仁徳天皇にんとくてんのうの第一皇子である。
母は葛城襲津彦カズラキノソツヒコの娘である磐之媛命イワノヒメノミコトという。

仁徳天皇の三十一年春一月、立って皇太子となられた。
年十五歳。

八十七年春一月、仁徳天皇が崩御された。
太子は天皇の喪から出られて、まだ帝位につかれない期間に、羽田八代宿禰ハタノヤシロノスクネの娘である黒媛クロヒメを妃みしようと思われた。
婚約も整って、同母弟の住吉仲皇子スミノエノナカツミコを遣わして、婚礼の日取りを告げさせた。
そのとき、仲皇子ナカツミコは太子であると偽って黒媛クロヒメを犯した。

この夜、仲皇子ナカツミコは、手に巻いていた鈴を黒媛クロヒメの家に置き忘れて帰った。
翌日の夜、太子は仲皇子ナカツミコが犯したことを知らないでやってこられた。
太子は寝室に入り、とばりを開けて寝台に居られた。
その時に、寝台の上部で鈴の音がした。
太子は怪しんで黒媛クロヒメに問われた。
「何の鈴だろう」
黒媛クロヒメは、
「昨夜太子が持っておられた鈴ではありませんか。どうして私に尋ねられるのでしよう」
と答えた。
太子は仲皇子ナカツミコが名を偽って、黒媛クロヒメを犯したことを知り、しばらく黙ってそこを去られた。

仲皇子ナカツミコは大事に至ることを恐れて、太子を殺そうとした。
密かに兵を挙げて、太子の宮を囲んだ。
平群へぐり木菟宿禰ツクノスクネ物部大前宿禰モノノベノオオマエノスクネ漢直あやのあたいの先祖である阿知使主アチノオミの三人が、この事態を太子に申し上げたが、太子は聞かれなかった。
一説によると、太子は祀りの酒に酔って起きられなかったとされる。
そこで三人は太子を助けて、馬に乗せて逃げた。
一説には、大前宿禰オオマエノスクネが太子を抱いて馬に乗せたという。

仲皇子ナカツミコは太子の所在を知らないまま、太子の宮を焼いた。
一晩中燃えた。
太子は河内国かわちのくに埴生坂はにゅうのさかに着いて、ようやく醒められた。
難波なにわの方を望み見て、火の光りに大いに驚かれた。
急いで走り、大坂おおさかからやまとに向かった。

飛鳥山あすかやま大阪府羽曳野市の山)に着いて、登り口で少女に会った。
「この山に人がいるか」
と問われると、少女は答えて、
「武器を持った者が山中にいっぱいいます。引返して当麻道たぎまのみちから越えなさい」
と言った。

太子は少女の言葉を聞いて、難を免れることができたと思われ、歌を詠まれた。

オホサカニ、アフヤヲ卜メヲ、ミチトへハ、夕ダニハノラズ、タギマヂヲノル。

大坂で会った少女に道を尋ねると、まっすぐに行く道は教えず、迂回する当麻道を教えてくれた。

少し戻って、そこの県の兵を集めて味方とされ、竜田山たつたやま生駒山地の南部)から越えられた。
その際、数十人の武器を持って追いかけてくる者があった。
太子はそれを見て、
「あのやってくるのは誰だろう。何と早いではないか。賊だろうか」
と言われた。
山中に隠れて待ち、近づいた時に一人を遣わして尋ねられた。
「誰だ。どこへ行くのか」
彼らは、
「淡路の野島の漁師です。阿曇連浜子あずみのむらじハマコの命令で、仲皇子のために太子を追っているのです」
と答えた。
伏兵を出して取り囲み、ことごとく捕えた。

倭直吾子籠やまとのあたいアゴコは仲皇子と親しかった。
あらかじめこの陰謀を知って、精兵数百を攪食かきはみの栗林に集めて、仲皇子のために太子を捕らえようとしていた。
太子は兵がいることを知らないで、山を出て数里のところに来て、道に兵が溢れていて進めなかった。
そこで使者を出して、
「誰だ」
と問うと、
倭直吾子籠やまとのあたいアゴコである」
と答えてくる。
そこで、逆に使者に尋ねて、
「誰の使いか」
と聞くと、
「皇太子の使いだ」
と言う。

吾子籠アゴコは、兵が沢山あるのを恐れて、太子の使者に、
「聞くところによると、皇太子には大変なことがおありになるということなので、お助けしたいと兵を備えて、お待ちしていたのです」
と言った。
しかし太子はその心を疑って殺そうとされた。

吾子籠アゴコは恐れて、妹の日野媛ヒノヒメを奉って許しを乞うた。
太子はお許しになった。
倭直やまとのあたいらが宮中に采女うねめを奉ることは、このときに始まったようである。

太子は石上いそのかみ振神宮ふるのかみのみやにお出でになった。
瑞歯別皇子ミツハワケノミコ反正天皇はんぜいてんのう)は、太子がお出でにならぬことに気づいて、尋ねて追ってこられた。
しかし、太子は弟王の心を疑われて呼ばれなかった。
瑞歯別皇子ミツハワケノミコは、
「私は黒い心はありません。ただ、太子がお出でにならぬのを心配してやって来たのです」
と言われた。
太子は弟王に伝えた。
「私は仲皇子ナカツミコの反逆を恐れて、一人ここに来ている。お前をも疑わないでおれないのだ。仲皇子ナカツミコがいるのは、私の病いのようなものだ。だから除かなければならぬ。お前は本当に異心がなかったら、難波なにわに帰って仲皇子ナカツミコを殺せ。それから会おう」
と言われた。
瑞歯別皇子ミツハワケノミコは、
「あなたは酷くご心配のようですが、今、仲皇子ナカツミコは無道で、群臣くんしんも人民も共に恨んでいます。またその配下の人も、皆、背いて敵となっています。孤立して相談相手もありません。私はその間違っていることを知っていても、まだ太子の命を受けていません。それで、ひとり憤り嘆いておりました。しかし今、命令を受けて、仲皇子ナカツミコを殺すことは恐れません。ただ恐れるのは、仲皇子ナカツミコを殺しても、また私を疑われるのではないでしょうか。どうか心の正しい人を、太子から遣わして頂き、その人によって私の太子に対する忠誠心を、間違いないものとして証明させたいと思います」
と言われた。

太子は木菟宿禰ツクノスクネを付き添わせて遣わされた。
瑞歯別皇子ミツハワケノミコは嘆いて言われた。
「太子と仲皇子とは共に私の兄である。誰に従い、誰に背くべきか迷う。しかし、無道を滅ぼし、道のある人につけば、誰が私を疑うだろうか」

難波なにわに至って、仲皇子ナカツミコの様子を伺われた。
仲皇子ナカツミコは太子が逃げ出してしまったと思って、備えをしていなかった。

時に、近習きんじゅう側近の意)の隼人はやとがいた。
刺領巾サシヒレという。
瑞歯別皇子ミツハワケノミコは密かに刺領巾サシヒレを呼んで言われた。
「私のために皇子を殺してくれ。私はきっとお前に厚く報いるから」
そして、錦の衣とはかまを脱いで与えられた。

刺領巾サシヒレは依頼された言葉どおり、一人で矛をとり、仲皇子が厠に入るところを伺って、刺し殺した。
そして瑞歯別皇子ミツハワケノミコについた。
木菟宿禰ツクノスクネ瑞歯別皇子ミツハワケノミコに、
刺領巾サシヒレは人のために己の君を殺した。それは、自分のためには大きな功があるけれども、私の君に対しては慈悲の無いこと甚だしく、生かしてはおけない」
と言った。
そして刺領巾サシヒレを殺した。
その日、やまとに向った。
夜中に石上に至り、去来穂別皇子イザホワケノミコに報告した。
瑞歯別皇子ミツハワケノミコを厚くもてなされた。
そして、村合屯倉むらあわせのみやけを賜わった。
この日、阿曇連浜子あずみのむらじハマコを捕えた。

磐余の稚桜宮

元年春二月一日、皇太子は磐余いわれ稚桜宮わかさくらのみやで即位された。

夏四月十七日、阿曇連浜子あずみのむらじハマコを召して言われた。
「お前は仲皇子ナカツミコと共に反逆を謀って、国家を傾けようとした。死罪にあたる。しかし、大恩を垂れて、死を免じて、顔に入墨の刑とする」
その日、目の縁に入墨をした。
当時の人は、それを阿曇目あずみめといった。
浜子ハマコに従った野島の漁師たちは、その罪を許して、やまと蒋代屯倉こもしろのみやけでの労働に服させられた。

秋七月四日、葦田宿禰アシタノスクネの娘である黒媛クロヒメを妃とした。
妃は、磐坂市辺押羽皇子イワサカノイチノヘノオシワノミコ御馬皇子ミマノミコ青海皇女アオミノヒメミコ(一説では飯豊皇女イイトヨノヒメミコとされる)をお生みになった。
次の妃である幡梭皇女ハタビノヒメミコは、中磯皇女ナカシノヒメミコをお生みになった。
この年、太歳庚子たいさいかのえね

二年春一月四日、瑞歯別皇子ミツハワケノミコを立てて皇太子とした。

冬十月、磐余いわれに都を造った。
このとき、平群木菟宿禰ヘグリノツクノスクネ蘇賀満智宿禰ソガノマチノスクネ物部伊莒弗大連モノノベノイコフノオオムラジ円大使主ツブラノオオミらは、共に国の政治に携わった。

十一月、磐余いわれの池を作った。

三年冬十一月六日、天皇は両股船ふたまたぶね磐余いわれ市磯池いちしのいけに浮かべられた。
妃とそれぞれの船に分乗して遊ばれた。
膳臣かしわでのおみ余磯アレシが酒を奉った。
そのとき、桜の花びらが盃に散った。
天皇は怪しまれて、物部長真胆連モノノベノナガマイノムラジを呼び出し、
「この花は咲くべきでない時に散ってきた。どこの花だろうか。お前が探してこい」
と言われた。

長真胆連ナガマイノムラジは、ひとり花を尋ねて、腋上わきかみの室山で、花を手に入れて奉った。
天皇はその珍しいことを喜んで、宮の名とされた。
磐余若桜宫といわれさくらのみやいうのはこれがその由来である。
この日、長真胆連ナガマイノムラジの本姓を改めて、稚桜部造わかさくらべのみやつことし、膳臣余磯かしわでのおみアレシを名づけて稚桜部臣わかさくらべのおみとされた。

四年秋八月八日、初めて諸国に国史ふみひと書記官)を置かれた。
これは事を記し、諸国の情報を報告するものである。

冬十月、石上いそのかみの用水路を掘った。

五年春三月一日、筑紫ちくしにお出でになる三柱の神(宗像神社の田心姫タゴリヒメ湍津姫タギツヒメ市杵島姫イチキシマヒメ) が宮中に現れて、
「なぜ我が民を奪うのか。お前に今に恥を与えるから」
と言われた。
しかし、祈禱だけを行って、祀ることをしなかった。

秋九月十八日、天皇は淡路島に狩りをされた。
この日に河内かわち飼部うまかいべらがお供をして、馬のくつわを取った。
すると、これより先に行われた飼部うまかいべの目先の傷がすべて治らず、島にお出でになった伊奘諾神イザナギノカミは、祝部はふりべに神憑りして、
「血の匂いに堪えられない」
と言われた。
それで占って聞くと、
飼部うまかいべらの目先の傷の匂いを憎む」
と言われた。
そのためこれ以後、飼部うまかいべに対し入墨いれずみをすることをやめた。

十九日、風の音のように大空に呼ぶ声があって、
剣刀太子王ツルギタチヒツギノミコ
という。
また呼んで言う。
「鳥往来う、羽田の汝妹なにもは、羽狭はきに葬り立ちぬ」
また、
狭名来田蔣津之命サナクタコモツノミコト羽狭はきに葬り立ちぬ」
と言った。

急使がやってきて申し上げた。
「皇妃がお隠れになりました」
天皇は大いに驚き、馬に乗ってお帰りになり、二十二日、淡路よりお着きになった。

冬十月十一日、妃を葬られた。
天皇は神の祟りをおさめないで、妃を亡くされたことを悔いられ、その咎のもとを探された。
ある人が言ったのは、
車持君くるまもちのきみが筑紫に行き、車持部くるまもちべをすベて調査し収め、その上、充神民かむべらのたみを奪ってしまいました。きっとこの罪でしょう」
というものであった。

天皇は車持君くるまもちのきみを呼んで、調べ尋ねられると、それは事実であった。
そこで責めて言われた。
「お前は車持君くるまもちのきみといっても、勝手に天子の人民を検校した。罪の第一である。また、神にお配り申した車持部くるまもちべを奪いとった。罪の第二である」
それで、悪解除あしはらえ善解除よしはらえ犯した罪をあがなうためのお祓いと禊の事)を負わせて、長渚崎なかすのさき兵庫県尼崎の海岸)に出かけさせて、祓い禊をさせた。
そして詔をして、
「今から後、筑紫ちくし車持部くるまもちべを司ってはならぬ」
とされた。
そこでことごとく取上げて、あらためて三柱(宗像神社の三女神)の神に奉られた。

六年春一月六日、草香幡梭皇女をクサカノハタビノヒメミコ立てて皇后とされた。
二十九日、初めて蔵職くらのつかさを立て、蔵部くらひとべを定められた。

二月一日、鮒魚磯別王フナシワケノオオキミの娘である太姫郎姫フトヒメノイラツメ高鶴郎姫タカツルノイラツメを召し、後宮に入れてみめとされた。
この二人は常に嘆いて、
「悲しい。我が兄王はどこに行かれたのだろう」
と言った。
天皇はその嘆きを聞いて尋ねられ、
「なぜ嘆くのか」
と言われた。
彼女らは答えた。
「私どもの兄である鷲住王はワシスミノオオキミ、力強く敏捷で、一人で八尋屋やひろや高く大きい家)を飛び越えていってしまいました。もう何日も経ったのに、会って語ることができません。それで嘆くのです」
と言った。

天皇は、その力の強いことを喜んでお召しになった。
しかし、彼は来なかった。
また使者を出されたが、それでもやはり来なかった。

鷲住王はいつも住吉邑すみのえのむらに居た。
これ以後、呼ぶのはやめて求められなかった。
これが讃岐国造さぬきのくにのみやつこと、阿波国あわのくに脚咋別あしくいわけの二族の先祖である。

三月十五日、天皇は病気になられて、身体の不調から臭みが増してきた。
稚桜宮わかさくらのみやで崩御された。
年七十。

冬十月四日、百舌鳥耳原陵もずのみみはらのみさぎに葬った。

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百舌鳥耳原南陵
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反正天皇 瑞歯別天皇

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瑞歯別天皇ミツハワケノスメラミコト履中天皇りちゅうてんのうの同母弟である。
履中天皇の二年、立って皇太子となられた。

天皇は淡路島でお生まれになった。
生まれながら歯が一本の骨のようであり、容姿うるわしかった。
瑞井みずのいという井戸があった。
その水を汲んで太子を洗われた。
そのとき、多遅たじの花が井戸の中にあったので、これを太子の名とした。
多遅のたじ花とは、現在の虎杖イタドリの花である。
それで多遅比瑞歯別皇子タジヒミツハワケノスメラミコトと讃え申したのである。

六年春三月、履中天皇が亡くなられた。

元年春一月二日、瑞歯別皇子ミツハワケノミコが天皇に即位された。

秋八月六日、大宅臣おおやけのおみの先祖の木事コゴトの娘である津野媛ツノヒメを立てて皇夫人とされた。
香火姫皇女カヒノヒメミコ円皇女ツブラノヒメミコをお生みになった。
また、夫人の妹である弟媛オトヒメを入れて、財皇女タカラノヒメミコ高部皇子タカベノミコをお生みになった。

冬十月、河内かわち丹比たじひに都を造った。
これを柴籬宫しばかきのみやという。

この時期は雨風、季節が正しく、五穀豊穣で人民は富み賑い、天下太平であった。
この年、大歳丙午たいさいひのえうま

五年春一月二十三日、天皇は正殿で崩御された。

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百舌鳥耳原北陵
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

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