日本書紀・日本語訳「第十六巻 武烈天皇」

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武烈天皇 小泊瀬稚鷦鷯天皇

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影媛と鮪

小泊瀬稚鷦鷯天皇おはつせのわかさざきのすめらみことは、仁賢天皇にんけんてんのうの皇太子である。
母を春日大娘皇后かすがのおおいらつめのきさきという。
仁賢天皇の七年に、立って皇太子となられた。

長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令にも詳しかった。
日の暮れるまで政務に従われ、知られないでいる無実の罪などは、必ず見抜いて明らかにされた。
訴えを処断することがうまかった。
また、しきりにいろいろな悪事を行われた。
一つも良いことを修められず、およそさまざまの極刑を親しくご覧にならないということはなかっ た。
国中の人民たちは皆、震え恐れた。

十一年八月、仁賢天皇が崩御された。
大臣おおおみ平群真鳥臣へぐりのまとりのおみが、国政をほしいままにして、日本の王となろうと欲した。
表向きは太子のために宫を造ることにして、完成すると自分から住みこんだ。
ことごとに驕り高ぶって、全く臣下としての節度をわきまえなかった。
このとき太子は物部麁鹿火大連もののべのあらかいのおおむらじの娘である影媛かげひめを娶ろうと思われて、仲人を命じて影媛の家に赴かせ、双方行き合う約束をされた。

影援かげひめは以前に真鳥大臣まとりのおおおみの子のしびに犯されていた。
太子の期待に背くことを恐れて、ご返事申し上げた。
「わたしめは、海柘榴市つばきちつじ交差点)でお待ちいたしましょう」
と伝えた。
そこで太子は約束した場所へお出でになろうとした。
近習きんじゅうの者を遣わして、平群大臣へぐりおおおみの家へ行かせ、太子の命令として官馬を出すように求められた。
大臣おおおみはふざけて偽りを申し上げた。
「官馬は誰のためのものでもありません。あなたのお心のままにお使い下さい」
と言ったきり、 一向に差上げなかった。

太子は心中変に思われたが、堪えて顔色に出されなかった。
約束通りの所へ行き、歌垣の人の中に混じって、影媛かげひめの衣の袖をとらえ、立ちどまったり歩いたりしながら、そっと誘いかけた。
しばらくすると鮪臣しびのおみがやってきて、太子と影媛かげひめの間を押しのけて中に入った。
そこで太子は影媛の袖を放し、向きを変え前に回って、しびと面と向き合われ、歌って言われた。

シホセノ、ナオリヲミレバ、アソビクル、シビガハタテニ、ツマタテリミユ。

潮の流れている早瀬の、波の折り重なりを見ると、泳いでくるしびのそばに、私の女が立っているのが見える。

鮪が返歌した。

オミノコノ、ヤへノカラカキ、ユルセトヤミコ。

おみの子(しび)の、幾重にも囲った立派な垣の中に、自由に入らせよと御子はおっしゃるのですか。

太子が歌って言われる。

オホタチヲ、タレハキタチテ、ヌカズトモ、スヱハタシテモ、アハム卜ゾオモフ。

私は大きな太刀を腰に垂らして立つているが、今それを抜かなくても、いつかは思い通り影媛かげひめと会おうと思う。

それに対する鮪臣しびのおみの返し歌。

オホキミノ、ヤへノクミカキ、力カメトモ、ナヲアマシビミ、カカヌクミカキ。

大君は立派な組垣を編んで、媛を取られぬようにしたいだろうが、あなたは編めないだろうから、立派な組垣くみがきはできはしない。

太子は歌った。

オミノコノ、ヤフノシバガキ、シタ卜ヨミ、ナヰガヨリコバ、ヤレムシバガキ。

鮪臣しびのおみの編目の多い立派な柴垣しばがき。それは見かけは立派だが、地下が鳴動して地震が襲えば、すぐに壊れるような柴垣だ。

太子はまた影媛かげひめに歌を送った。

コトカミニ、キヰルカゲヒメ、タマナラバ、アガホルタマノ、アハビシラタマ。

琴の音にひかれて、琴のそばに神が影になって寄ってくるという影媛かげひめは、もし玉に譬えるならば、私の最も欲しいと思うアワビの真珠しらたまのようだ。

鮪臣しびのおみ影媛かげひめのために返し歌をした。

オホキミノ、ミオビノシツハタ、ムスビタレ、タレヤシヒ卜モ、アヒオモハナクニ。

大君の御帯の倭文織の布を垂れる。そのタレという言葉のように、タレか別の人に私が思いをかけることはありませんのに。
しびだけを思っています、という意)

太子は初めて、しびが既に影媛かげひめと通じていたことを知られた。
ことごとに無礼な父子の有様を知られて、太子は真赤になって大いに怒られた。

その夜、早速、大伴金村連おおとものかなむらのむらじの家に行かれて、兵を集めて計画をされた。
大伴連おおとものむらじは数千の兵を率い、逃げ路を塞ぎ、鮪臣しびのおみ奈良山ならやまにて殺した。
このとき、影媛かげひめは殺された所へ追って行って、その殺されるまでを見た。
驚き怖れて気を失い、悲涙目に溢れた。
そして歌を作った。

イスノカミ、フルヲスギテ、コモマクラ、タカハシスギ、モノサハニ、オホヤケスギ、ハルヒノ、カスガヲスギ、ツマコモル、ヲサホヲスギ、タマケニハ、イヒサへモリ、タマモヒニ、ミヅサへモリ、ナキソホチユクモ、カゲヒメアハレ。

石上いそのかみ布留ふるを過ぎ、高橋たかはしを過ぎ、大宅おおやけを過ぎ、春日かすがを過ぎ、小佐保おさほを過ぎ、死者に供える美しい食器には飯まで盛り、美しい椀に水まで盛って、泣きぬれて行くよ。影媛かげひめは、ああ。

こうして影媛かげひめは埋葬も終って、家に帰ろうとするに当って、むせび泣いた言った。
「つらい事だ、今日我が愛する夫を失ってしまった」
さめざめと涙を流し、重い心に歌った。

アヲニヨシ、ナラノハサマニ、シシジモノ、ミヅクへコモリ、ミナソソグ、シビノワクコヲ、アサリツナヰノコ。

奈良山ならやまの谷間に、鹿が水びたしになるように死んで、水を浴びているしびの若子を、あさり出すようなことはするなよ。猪よ。(猪とは、太子の兵を指し、鮪の骸を堀り出さないで欲しい、という意)

冬十一月十一日、大伴金村連おおとものかなむらのむらじが太子に申し上げた。
真鳥まとりの奴をお討ちなさい。仰せがあれば討伐いたします」
太子は、
「天下争乱の恐れがある。世に優れた人物でなければ治めることができぬ。よくこれを安らかにできるのはお前であろう」
と言われた。
そこで一緒に相談をした。
そして大伴大連おおとものおおむらじが兵を率いて自ら将となり、大臣の家を囲み火をかけて焼き払った。
人々は指揮に雲のようになびき従った。
真鳥大臣まとりのおおおみは自分の計画の失敗を知り、逃れ難いことを悟った。

計画は挫折し、望みは絶えた。
広い海の潮を指さして呪いをかけ、ついに殺された。
とがはその一族に及んだ。
呪う時に、ただ敦賀つるがの海の潮だけを忘れて、呪いをかけなかった。
このために敦賀の海から取れる塩は、天皇の御食用に使われたが、他の海の塩は天皇の忌まれるところとなった。

十二月、大伴金村連おおとものかなむらのむらじぞくを平定し終って、政を太子にお返し申した。
尊号そんごうを奉りたいと奏上して、
「今、仁賢天皇にんけんてんのうの御子は、ただ陛下だけであります。人民たちの上に頂くところは、二つあったことはありませぬ。また、天の御加護で仇を払い除きました。英略雄断は天皇の威光や天皇の位を盛んにしました。日本には必ず王がお出でになります。日本に王があるとしたら、陛下でなくて誰でしょう。伏して願わくは、陛下は天地の神にお応えして、大きなみことのりを弘め宣ベ、日本をお照らし下さい。大いに銀郷たからのくにをお受け下さい」
と言った。
そこで太子は役人に仰せられて、高御倉たかみくら泊瀬はつせ列城ならしろに設けて即位をされた。
そして都を定められた。
この日に、大伴金村連おおとものかなむらのむらじ大連おおむらじとした。

武烈天皇の暴虐

元年春三月二日、春日娘子かすがのいらつめを立てて皇后とした。
この年、太歳己卯たいさいつちのとう

二年秋九月、妊婦の腹を割いてその胎児を見られた。

三年冬十月、人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた。

十一月、大伴室屋大連おおとものむろやのおおむらじに命じて、
信濃国しなののくに壮丁そうてい(成人男子)を集めて、城を大和やまと水派村みたまのむらに造れ」
と言われた。
よって、そこを城上きのえ奈良県北葛城郡広陵町)という。

この月に、百済くだら意多郎王おたらおうが亡くなった。
高田の岡の上に葬った。

四年夏四月、人の頭の髪を抜いて樹の頂きに登らせ、樹の本を切り倒して、登った者を落し殺して面白がった。

この年、百済くだら末多王またおう(東城王)が無道を行い、民を苦しめた。
国人はついに王を捨てて、嶋王せまきしを立てた。
これが武寧王ぶねいおうである。

百済新撰くだらしんせんでは、末多王またおうは無道で、民に暴虐を加えた。
国人はこれを捨てた。
武寧王ぶねいおうが立った。
諱は嶋王という。
これは琨支王子こんきおうの子である。
則ち、末多王またおうの異母兄である。
琨支こんきは倭に向った。
そのとき筑紫ちくしの島に着いて嶋王せまきしを生んだ。
島から返し送ったが京に至らないで、島で生まれたのでそのように名づけた。
今、各羅かからの海中ににりむ(国王)島がある。
王の生まれた島である。
だから百済人くだらびとが名づけてにりむ古代朝鮮語で王の意)島とした。
今考えるに、嶋王せまきし蓋鹵王こうろおうの子である。
末多王またおう琨支王こんきおうの子である。
これを異母兄というのは、まだ詳しく判らない。

五年夏六月、人を池の堤の樋の中に入らせて、外に流れ出るのを三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ。

六年秋九月一日、詔して、
「国政を伝える要は、自分の子を跡嗣あとつぎに立てることが重要である。私は跡嗣がない。何をもって名を後世に伝えようか。前の天皇の古い例によって、『小泊瀬おはつせ舎人とねり』を設けて、我が治世の名を伝え、いつまでも忘れられないようにせよ」
と仰せられた。

冬十月、百済国くだらこく麻那王まなきしを遣わして、調を奉った。
天皇は、百済くだらは長く貢物を持ってこなかつたことをお思いになって、王を留めておいて返さなかった。

七年春二月、人を樹に登らせて、弓で射落いおとして笑った。

夏四月、百済王くだらおう斯我君しがきしを遣わして調を奉った。
別に書状を奉って、
「前に調を奉った使者の麻那まなは、百済くだらの国王の一族ではありません。故に謹んで斯我しがを遣わし、朝廷にお仕えさせます」
と言う。
その後、子が生まれて法師君ほうしきしという。
これが倭君やまとのきみの先祖で ある。

八年春三月、女たちを裸にして、平板の上に座らせ、馬をひき出して面前で馬に交尾させた。
女の陰部を調べ、潤っている者は殺し、潤っていない者は、官婢かんぴ女奴隷)として召しあげた。
これが楽しみであった。

その頃、池を掘り、そのを造って鳥や獣を満たした。
そして狩りを好み、犬に追わせて馬を試した。
大風や大雨も避けることがなく、出入りが気ままで、自らは暖衣だんいをまとい、百姓おおみたからの凍えることは意に介せず、美食を口にして天下の民の飢えを忘れた。
大いに侏儒や俳優わざおぎ(役者)を集め、淫らな音楽を奏し、奇怪な遊び事をさせて、ふしだらな騒ぎをほしいままにした。

日夜、後宮の女たちと酒におぼれ、錦の織物をしとね布団)とした。
あやあざやかな色の生地)や白絹しらきぬを着た者も多かった。

冬十二月八日、天皇は列城宮なみきのみやに崩御された。

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傍丘磐坏丘北陵
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

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