日本書紀・日本語訳「第二十巻 敏達天皇」

文献
スポンサーリンク

敏達天皇 濘中倉太珠敷天皇

全てのタイトルに戻る

烏羽の表

渟倉太珠敷天皇ぬなくらのふとたましきのすめらみこと欽明天皇きんめいてんのうの第二子である。
母は宣化天皇せんかてんのうの娘の石姫皇后いしひめのきさきである。
天皇は仏法を信じられなくて、文章や史学を愛された。

二十九年に立って皇太子となられた。

三十ニ年四月、欽明天皇が亡くなられた。

元年夏四月三日、皇太子は天皇に即位された。
先帝の皇后を尊んで皇太后といった。

この月、百済の大井おおいに宮を造った。
物部弓削守屋大連もののべのゆげのもりやおおむらじを大連とすることは、元のようであった。
蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくねを大臣とした。

五月一日、天皇は皇子(彦人大兄皇子か)と大臣おおおみとに尋ねられて、
高麗こま高句麗こうくり)の使者(前年、越の海岸に漂着した者)は、今、何処にいるか」
と言われた。
大臣はお答えして、
相楽さがらか京都府相楽郡)にむろつみを頂いております」
と言った。
天皇はお聞きになって、たいへん痛ましく思われた。
悲しみに心動かされて嘆かれ、
「悲しいことだ。この使者らは、既に名前を先帝(欽明天皇)に申し上げてあるのに」
と言われた。

群臣まえつきみ相楽さがらかの館に遣わして、もたらした調物を検べ、記録して京へ送らせられた。

十五日、天皇は高麗の国書をとって、大臣に授けられた。
多くのふひと(文書係りの役員)を召し集めて、解読された。
このとき史たちは三日かかっても、誰も読むことができなかった。
そのとき、船史ふねのふびとの祖先である王辰爾おうじんにが読み解いて奉ったので、天皇と大臣は共に褒められて、
「よくやった。辰爾じんに。立派なことだ。お前がもし学問に親しんでいなかったら、誰がこの文章を読み得たろうか。今後は殿内に侍って仕えるように」
と言われた。
そして東西の(大和、河内の)史に、
「お前たちの習業はまだ足りない。お前たちの数は多いが、辰爾じんに一人に及ばないではないか」
と言われた。

また、高麗の奉った文書は、烏の羽に書いてあった。
字は烏の羽の黒いのに紛れて、誰も読める人がなかった。
辰爾じんには羽を炊飯の湯気で蒸して、ねりきぬ(柔かい上等の絹布)に羽を押しつけ、全部その字を写しとった。
朝廷の人々は一様にこれに驚いた。

六月、高麗の大使が副使たちに語っていうのに、
「欽明天皇の時に、お前らは私の考えと違い、人に欺かれて、勝手に国の調を分けて、つまらぬ人間に渡してしまった。お前たちの過失ではないか。もし我が国王が聞かれたら、きっとお前らを処罰されるだろう」
と言った。

副使らは仲間うちで語り合って、
「我々が国に帰った時、大使が我々の過ちを打ち明けてしまったら、まずいことになる。こっそり殺してそのロを塞ごうと思うがどうか」
と言った。

この夜、謀が漏れた。
気付いた大使は衣服をあらため、ひとりこっそり抜け出した。
館の中庭に立って、どうしたものかと思っているときに、賊の一人が、杖を持って出てきて、大使の頭を一撃して逃げた。
次に賊の一人が、まっすぐに大使に向って、頭と手を打って逃げた。
大使はなお黙って地面に立って、顔の血を拭いた。
また、賊の一人が刀をもって急襲し、大使の腹を刺して逃げた。
大使は恐れて地に伏して拝んだ。
後で賊の一人がついにこれを殺して逃げた。

翌朝、外国使臣の接待役の、東漢坂上直子麻呂やまとのあやのさかのうえのあたいこまろらが、その事件を取り調べた。
副使らは偽りを述べて、
「天皇が大使に妻を賜わりましたが、大使は勅に背いて受けませんでした。誠に無礼なので私どもが天皇のため、彼を殺したのです」
と言った。
役人は礼式に従って、骸を収め葬った。

秋七月、高麗の使者は帰って行った。
この年、太歳壬辰たいさいみずのえたつ

吉備海部直難波の処罰

二年夏五月三日、高麗こまの使者がこしの海に停泊した。
船は壊れて溺れ死ぬ者が多かった。
朝廷では高麗人こまびとが海路に迷うことを案じられて、饗応されないで返されることになった。
吉備海部直難波きびのあまのあたいなにわに命じて、高麗の使者を送らせられた。

秋七月一日、こしの海岸で難波と高麗の使者らとは相談し、送使おくるつかい難波なにわの船人、大島首磐日おおしまのおびといわれひ狭丘首間狭さおかのおびとませを高麗の使者の船に乗らせ、高麗の二人を送使の船に乗らせた。
このように互いに入れ違えて乗らせ、悪事を企むことへの用意とした。
一緒に出発して数里ほど行ったとき、送使おくるつかい難波なにわは荒波を恐れて、高麗の二人を海に投げ入れた。

八月十四日、送使おくるつかい難波なにわは帰ってきて報告し、
「海の中に大きなくじらが現れ、待ち受けて船とかいとを嚙みました。難波なにわらは鯨が船を呑んでしまうことを恐れて、海に入り助けることもできませんでした」
と言った。
天皇はこれをお聞きになって、そのデタラメであることをお知りになった。
朝廷の雑用に使役して、郷里に帰ることを許されなかった。

三年夏五月五日、高麗こまの使者がこしの海岸に停泊した。

秋七月二十日、高麗の使者が入京して、
「私共は去年送使に従って国に帰りました。私共の方が先に着き、国は送使に準じて大島首磐日おおしまのおびといわれひらを礼遇しました。ところが送使の船は今に至るも到着しません。そこで再び使者と磐日いわひらを遣わして、私共の使い(海に投げ入れられた二人)が帰って来ない理由を尋ねられております」
と奏上した。
天皇はこれをお聞きになり、 難波なにわの罪を責められ、
「朝廷を欺いたことが一つ、隣りの国の使いを溺れさせ殺したことが二つ、この大罪があっては、釈放することはできぬ」
と言われ刑罰に処された。

冬十月九日、蘇我馬子大臣そがのうまこおおおみ吉備国きびのくにに遣わして、白猪の屯倉しらいのみやけ田部たべの農民をやされた。
田部たべ名籍なのふみ白猪胆津しらいのいつに授けられた。

十一日、船史王辰爾ふねのふびとおうじんにの弟であるうしみことのりされ、姓を賜って津史つのふびととされた。

十一月、新羅しらぎが使者を遣わして調を奉った。

四年春一月九日、息長真手王おきながのまでのおおきみの娘である広姫ひろひめを立てて皇后とした。
一男二女をお生みになった。
第一が押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこ、またの名は麻呂古皇子まろこのみつという。舒明天皇じょめいてんのうの父。
第二が逆登皇女さかのぼりのひめみこ
第三が菟道磯津貝皇女うじのしつかいのひめみこという。

この月に、一人の夫人を立てた。
春日臣仲君かすがのおみなかつきみの娘で、老女子夫人おみなごのおおとじ、またの名は薬君娘くすりこのいらつめといい、三男一女をお生みになった。
第一を難波皇子なにわのみこ、第二を春日皇子かすがのみこ、第三を桑田皇女くわたのひめみこ、第四を大派皇子おおまたのみこという。

次に采女うねめで、伊勢大鹿首小熊いせのおおかのおびとおぐまの娘の菟名子夫人うなこのおおとじ太姫皇女ふとひめのひめみこ、またの名は桜井皇女さくらいのひめみこという。
そして、糠手姫皇女ぬかてひめのみこ、またの名は田村皇女たむらのひめみこ舒明天皇じょめいてんのうの母をお生みになった。

二月一日、馬子宿禰大臣うまこのすくねおおおみは京に帰り、屯倉みやけのことを復命された。

十一日、百済くだらが使者を遣わして調を奉った。
調は例年よりも多かった。
天皇は新羅しらぎがまだ任那みまなを復興しないので、皇子と大臣とにみことのりして、
任那みあなのことを怠らないように」
と言われた。

夏四月六日、吉子金子きしかねを遣わして、新羅に向かわせた。
吉士木蓮子きしのいたび任那みまなに遣わした。
吉士訳語彦きしのおさひこ百済くだらに遣わした。

六月、新羅しらぎが使者を遣わし、調を奉った。
恒例よりも多かった。
同時に多多羅たたら須奈羅すなら和陀わだ発鬼ほちくいの四力村(元・任那の地域)の村の調を奉った。

この年、卜者うらべに命じて、海部王あまのおおきみ家地いえどころ糸井王いといのおおきみ家地いえどころを占わせたら、結果は吉と出た。
そこで宮を訳語田おさだに造った。
これを幸玉宮さきたまのみやという。

冬十一月、皇后広姫ひろひめが薨じられた。

五年春三月十日、役人が皇后を立てられるよう申し上げた。
そこでみことのりして豊御食炊屋姫尊とよみけかしきやひめのみこと推古天皇すいこてんのう)を立てて皇后とした。
二男五女を生まれた。
第一を菟道貝銷皇女うじのかいだこのひめみこ、またの名は菟道磯津貝皇女うじのしつかいのひめみこという。
この人は聖徳太子しょうとくたいしの妃となる。
第二を竹田皇子たけだのみこという。
第三を小墾田皇女おはりだのひめみこという。
彦人大兄皇子ひこひとのおおえのみこに嫁いだ。
第四を鸕鶿守皇女うもりのひめみこ、またの名は軽守皇女かるのもりのひめみこという。
第五を尾張皇子おわりのみこという。
第六を田眼皇女ためのひめみこという。舒明天皇に嫁した。
第七を桜井弓張皇女さくらいのゆみはりのひめみこという。

六年春二月一日、みことのりにより日祀部ひのまつりべ私部ささいちべ皇妃のために設けた部)を置いた。

夏五月五日、大別王おおわけのおおきみ小黒吉士おぐろのきしとを遣わして、百済国のみこともちとした。

王の使者が命令を受けて三韓に遣わされると、自らをみこともちと称した。
韓国の宰になるということは、思うに、古の決まりなのであろう。
現在は使みつかいという。
他の場合もこれと同じである。
大別王おおわけのおおきみは出所が詳かではない。

冬十一月一日、百済国王は日本に還使かえるのつかい大別王おおわけのおおきみらにつけて、経論きょうろんを若干、律師りっし禅師ぜんじ比丘尼びくに呪禁師じゅこんのはかせ造仏工ほとけつくるたくみ造寺工てらつくるたくみの六人を献上した。
これを難波なにわ大別王おおわけのおおきみの寺に配置した。

七年春三月五日、菟道皇女うじのひめみこを伊勢神宮に侍らせた。
しかし、池辺皇子いけのべのみこに犯されるということがあり、露わになったので任を解かれた。

八年冬十月、新羅しらぎ枳叱政奈末きしさなまを遣わして、調を奉り、一緒に仏像を届けた。

九年夏六月、新羅は安刀奈末あとなま失消奈末ししょうなまを遣わして、調を献上した。
しかし、納められないでこれを返された。

十年春うるう二月、蝦夷えみし数千が辺境を犯し荒らした。
これにより、その首領の綾柏あやかすらを召してみことのりされ、
「思うに、お前たち蝦夷えみしらを景行天皇けいこうてんのうの御世に討伐され、殺すべきものは殺し、許せるものは許された。今、私は前例に従って、首領者である者は殺そうと思う」
と言われた。
綾柏あやかすらは恐れかしこみ、泊瀬川の川中に入り水をすすって、三輪山に向かい誓って、
「私ども蝦夷えみしは、今から後、子々孫々に至るまで、清く明き心をもって、帝にお仕え致します、もし誓いに背いたなら、天地の諸神と天皇の霊に、私どもの種族は絶滅されるでしょう」
と言った。

十一年冬十月、新羅しらぎ安刀奈末あとなま失消奈末ししょうなまを遣わして、調を奉った。
しかし納められないで返された。(重出

日羅の進言

十二年秋七月一日みことのりして、
「亡き父、欽明天皇きんめいてんのうの御代に、新羅しらぎ任那みまな内官家うちのみやけを滅ぼした。欽明天皇二十三年に、任那は新羅のために滅ぼされた。それで新羅は我が内官家うちのみやけを滅ぼしたというのである。先帝(欽明天皇)は、任那の回復を図られた。しかし、果されないで亡くなられた。それで自分は尊い計画をお助けして、任那を復興しようと思う。今、百済にいる肥の葦北国造阿利斯登ひのあしきたのくにのみやつこありしとの子である達率日羅たっそにちらは賢くて勇気がある。それで私は彼と計画を立てたい」
と言われた。
そこで紀国造押勝きのくにのみやつこおしかつ吉備海部直羽島きびのあまのあたいはしまとを遣わして、百済に召しにやられた。

冬十月、紀国造押勝きのくにのみやつこおしかつらは百済から帰り、朝廷に復命して、
「百済国王は日羅にちらを惜しんで、日本に来させることを許しません」
と言った。

この年、また吉備海部直羽島きびのあまのあたいはしまを遣わして、百済に日羅にちらを召された。
羽島はしまは百済に行き、まず密かに日羅にちらを見ようとして、一人自ら日羅にちらの家の門のところまで行った。
しばらくすると、家の中から韓夫人からのおおとじが現れ、韓語で言った。
「あなたの根を私の根の内に入れよ」
といって家の中へ戻った。
羽島はしまはすぐその意を解して、後について行った。
すると日羅にちらが迎えにきて、手をとって座席へ座らせた。
そしてこっそり告げて、
「手前が密かに聞くところでは、百済王くだらおう天朝みかどを疑っているらしく、もし手前を遣わしたら、きっと引き止めて返されないと思い、惜しんで聞こうとしないのである。 みことのりを宣する時に、いかめしく怖い顔色で、性急に召して下さい」
と言った。

羽島はしまはそこでその計に従って、日羅にちらを召した。
すると百済国王くだらこくおう天朝みかどを畏れかしこみ、あえて勅命ちょくめいに背かなかった。
日羅にちら恩率おんそつ徳爾とくに余怒よぬ奇奴知がぬち参官さんかん柁師徳率次干徳かじとりとくそつしかんとく水夫かこら若干の人を奉った。

日羅にちららは吉備児島屯倉きびのこじまのみやけに着いた。
朝廷は大伴糠手子連おおとものあらてこのむらじを遣わして、慰労された。
また、大夫まえつきみらを難波なにわむろつみに遣わし、日羅にちらを訪ねさせられた。
このとき、日羅は甲を着、馬に乗って、門のところに出て政庁の前に進んだ。
立居も恭しく深く感に堪え、
宣化天皇せんかてんのうの御世に、我らの君の大伴金村大連おおとものかなむらのおおむらじが、帝のため海外に遣わした葦北国造刑部靱部阿利斯登ひのあしきたのくにのみやつこおさかべのゆけいありしとの子である達率日羅たつそつにちらは、天皇がお召しになっていると聞いて、恐れかしこみ帰って参りました」
と言った。
そしてその甲を脱ぎ、天皇に奉った。
むろつみ阿斗桑市あとのくわいちに営んで、日羅を住まわせ、願いのままに何でも支給された。

また、阿倍目臣あべのめのおみ物部贄子連もののべのにえこのむらじ大伴糠手子連おおとものあらてこのむらじを遣わして、国政について日羅にちらに問われた。
日羅は答えて、
「天皇が天下を治め給う政治は、必ず人民を養うことであり、にわかに兵を興して、民力を失い滅ぼすようなことをすべきではないと思います。それゆえ、今、国政を議る人は、朝廷に仕えるおみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこから下百姓に至るまで、皆、富み栄え、足らないところのないように努め、このようにすること三年。食糧や兵力を充たし、人民が喜んで使われ、水火も辞せず、上下一つになって、国の災を憂えるようにします。その後で多くの船舶を造り、港ごとにつらねおき、隣国の使者に見せて、恐れの心を起こさせ、そして有能な人物を百済に遣わして、その国王をお召しになるとよいでしょう。もし来ないようでしたら、その太佐平だいさへい(朝鮮の最高官職)か、王子らを来させましょう。そうすれば、自ずと天皇の命に服従する気持ちが生ずるでしょう。その後で、任那の復興に協力的でない百済の罪を問われるのがよいでしょう」
と言った。

また奏上して、
百済人くだらびとは謀略をもって、『船三百隻の人間が、筑紫に居住したいと願っています』と言う。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。百済がそこで国を造ろうと思うのなら、きっとまず、女と子供を船に乗せてくるでしょう。これに対して、壱岐と対馬に多くの伏兵を置き、やってくるのを待って殺すべきです。逆に欺かれないように用心して、すべての要害には、しっかりと城塞を築かれますように」
と言った。

恩率おんそつ、参官は国に帰るときに、密かに徳爾とくにらに語って、
「私が筑紫ちくしを離れるころを見はからって、お前らがこっそり日羅にちらを殺したら、詳しく国王に申し上げて、高い官位を賜わるようにしてやろう。本人ばかりか、妻子とも後々まで栄えるだろう」
と言った。
徳爾とくに余奴よぬらはこれを承知した。
参官らが血鹿ちかに出発すると、日羅にちらは、桑市くわち村から難波なにわむろつみに移った。
徳爾とくにらは昼夜、日羅を殺そうと狙った。

時に、日羅は体から炎のような光が出ていた。
このため徳爾とくにらは恐れて殺せなかった。

画像:ドラゴンボールより:鳥山明

それが十二月の晦日つごもりに、光が無くなった時を狙ってついに殺した。

日羅はしかし、蘇生して言った。
「これは我が召使いの奴どもの仕業である。新羅のやったことではない」
言い終えて死んだ。

この時、新羅の使者があったので、そのように言ったのである。

天皇は贄子大連にえのこのおおむらじ糠手子連あらてこのむらじに詔して、小郡おごおりの西のほとりの丘の先に収め葬り、その妻子と水夫かこらを石川に住まわせることとされたが、大伴糠手子連おおとものあらてこのむらじが譲って、
「一ヶ所に纏めて置いては、恐らく何か変事を起こすかも知れません」
と言った。

そこで妻子は石川百済村いしかわのくだらのむらに置き、水夫かこらを石川大伴村いしかわのおおとものむらに置いた。
徳爾とくにらを捕縛して、下百済しもつくだらの河田村に置いた。

大夫たちを遣わして尋問した。
徳爾とくにらは罪を認めて、
「本当でございます。これは恩率おんそつと参官が教えてさせたのです。私たちは部下として、命令に背けなかったのです」
と言った。
これにより獄舍に下して、朝廷に報告した。

使者を肥後ひご葦北あしきたに遣わし、日羅にちらの一族を呼び、心のままに徳爾とくにらの罪を償わさせた。
この時、葦北君あしきたのきみらは、これを受け取り殺して弥売島みめしまに捨てた。
日羅にちら葦北あしきたに移し葬った。

その後、海辺の人たちは言った。
「恩率の船は、強風のために海に没した。参官の船は対馬に漂って、それから帰ることができた」

蘇我馬子の崇仏

十三年春二月八日、難波吉士木蓮子なにわのきしいたびを遣わして、新羅しらぎに遣わせた。
そして任那みまなまで行った。

秋九月、百済くだらから来た鹿深臣かふかのおみが、弥勒菩薩みろくぼさつの石像一体をもたらした。
佐伯連さえきのむらじも仏像一体を持ってきた。

この年、蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくねは、その仏像二体を請いうけ、鞍作村主司馬達等くらつくりのすぐりしめたつと池辺直水田いけべのあたいひたを四方に遣わして、修行者を探させた。
播磨国はりまのくにに僧で還俗した、高麗人こまびと恵便えべんという人があった。
馬子大臣うまこのおおおみはその人を仏法の師とした。
司馬達等しめたつとの娘で、しまを出家させて善信尼ぜんしんのあまといった。
年齢十一歳。
善信尼ぜんしんのあまの弟子二人も出家させた。

その一人は漢人夜菩あやひとやほの娘の豊女とよめで、別名を禅蔵尼ぜんぞうのあまといった。
もう一人は錦織壺にしこりのつぶの娘の石女いしめで、別名を恵善尼えぜんのあまといった。
馬子うまこはひとり、仏法に帰依し、三人の尼を崇め尊んだ。

三人の尼を氷田直ひたのあたい達等たっとに託して衣食を供させた。
仏殿を馬子うまこの家の東方に造って、弥勒みろくの石像を安置した。
三人の尼を招いて、法会のいもい食(仏に供える食を盛った椀)を供した。

このとき達等たっとは、斎食いもいの上に仏舍利ほとけのしゃりを見つけた。
その舍利しゃり馬子宿禰うまこのすくねに献じた。
馬子宿禰うまこのすくねは、ためしに舎利しゃりを鉄床の上において、鉄の鎚で打った。
鎚と台とは破れ砕けたが、舎利は損われなかった。
また舎利を水に投げ入れると、舍利は心に願う通り浮かんだり沈んだりした。
これによって馬子宿禰うまこのすくね池辺水田いけべのひた司馬達等しめたつとたちは、仏法を深く信じて修行を怠らなかった。
馬子宿禰うまこのすくねはまた、石川の家に仏殿を造った。
仏法の広まりはここから始まった。

十四年春二月十五日、蘇我大臣馬子宿禰そがのおおおみうまこのすくねは、塔を大野丘おおののおかの北に建てて、法会の設斎を行った。
先に達等たつとが得た舎利しゃりを、塔の心柱の下に納めた。
二十四日に蘇我大臣そがのおおおみは病気になった。
卜者うらべに占わせると、卜者は、
「父の時に祀った仏に祟られています」
と言った。

大臣おおおみは子弟を遣わして、その占いに表われた亀裂の形を奏上した。
みかどは、
卜者うらべの言葉に従って、父の崇めた仏をお祀りするように」
と言われた。
大臣は仰せに従い石像を礼拝し、寿命を延べ給えとお祈りした。
このとき、国内に疫病が起こって人民の死ぬ者が多かった。

物部守屋の排仏

三月一日、物部弓削守屋大連もののべのゆげのもりやおおむらじと、中臣勝海大夫なかとみのかつみのまえつきみは奏上して、
「どうして私どもの申し上げたことをお用いにならないのですか。欽明天皇より陛下の代に至るまで、疫病が流行し、国民も死に絶えそうなのは、ひとえに蘇我そが氏が仏法を広めたことによるものに相違ありませぬ」
と言った。
天皇はみことのりして、
「これは明白である。早速仏法をやめよ」
と言われた。

三十日、物部弓削守屋大連もののべのゆげのもりやおおむらじは、自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、その塔を切り倒させ、火をつけて焼いた。
同時に仏像と仏殿も焼いた。
焼け残った仏像を集めて、難波なにわ堀江ほりえに捨てさせた。
この日、雲がないのに風が吹き雨が降った。
大連おおむらじは雨衣をつけた。
馬子宿禰うまこのすくねと、これに従った僧侶たちを責めて、人々に侮りの心を持たせるようにした。

佐伯造御室さえきみやつこのみむろを遣わして、馬子宿禰うまこのすくねの供養する善信尼ぜんしんのあまらを呼ばせた。
馬子宿禰はあえて命に抗せず、ひどく嘆き泣き叫びながら、尼らを呼び出して御室みむろに託した。
役人はたちまち尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市つばきち馬屋館うまやたちにつなぎ、尻や肩を鞭打つ刑にした。

天皇は任那の再興を考え、坂田耳子王さかたのみみこのおおきみを遣いに選ばれた。
このとき、天皇と大連おおむらじが急に疱瘡ほうそう疫病)に冒された。
それで遣わされることをやめた。

橘豊日皇子たちばなのとよひのみこ用明天皇ようめいてんのう)にみことのりして、
「先帝の勅に背かぬように、任那みまな復興の政策を怠るな」
と言われた。
疱瘡ほうそうで死ぬ者が国に満ちた。
その瘡を病む者が、
「体が焼かれ、打たれ砕かれるように苦しい」
と言って泣き叫びながら死んでいった。
老いも若きも密かに語り合って、
「これは仏像を焼いた罪だろう」
と言った。

夏六月、馬子宿禰うまこのすくねが奏上して、
「私の病気が重く、今に至るも治りません。仏の力をこうぶらなくては、治ることは難しいでしょう」といった。
そこで馬子宿禰うまこのすくねみことのりして、
「お前一人で仏法を行いなさい。他の人にはさせてはならぬ」
と言われた。
三人の尼を馬子宿禰に返し渡された。
馬子宿禰はこれを受けて喜んだ。
珍しいことだと感嘆し、三人の尼を拝んだ。
新しく寺院を造り、仏像を迎え入れ、供養した。

ある本には、物部弓削守屋大連もののべのゆげのもりやおおむらじ大三輪逆君おおみわのさかうのきみ中臣磐余連なかとみのいわれのむらじが仏教を滅ぼそうと共謀し、寺塔を焼き、仏像を捨てようとしたが、馬子宿禰うまこのすくねが反対し、それをさせなかったという。

秋八月十五日、天皇は病が重くなり、大殿で崩御された。

この時、殯宮もがりのみや広瀬ひろせに建てた。
馬子宿禰大臣うまこのすくねおおおみは、刀をびて死者を慕うしのびごとを述べた。
物部弓削守屋大連もものべのゆげのもりやおおむらじはあざ笑って、
撖箭ししや獣を射る大きな矢)で射られたすずめのようだ」
と言って、小柄な身に大きな大刀を带びた馬子うまこの不恰好な姿を笑った。

次に、弓削守屋大連ゆげのもりやおおむらじは、手足を震わせ、戦慄わなないてしのびごとを読んだ。
馬子宿禰大連うまこのすくねおおむらじは笑って、「鈴をつけたら面白い」と言った。
ここから二人の臣は、だんだん怨みを抱き合うようになった。

三輪君逆みわのきみさかうは、隼人はやとを使ってもがりの庭を警備をさせた。
穴穂部皇子あなほべのみこ(欽明天皇の皇子)は、皇位を狙っていたので、声も露わに、
「なぜ生きている自分には仕えないで、死んだ王の葬いに仕えねばならぬのだ」
と怒声を発した。

全てのタイトルに戻る

河内磯長中尾陵
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

コメント

タイトルとURLをコピーしました