日本書紀・日本語訳「第二十九巻 天武天皇 下」

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天武天皇 天淳中原瀛真人天皇 下

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天武天皇即位

二年春一月七日、酒を用意して群臣まえつきみに大宴会を賜わった。

二月二十七日、天皇は有司に命じて壇場を設け、飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやで即位の儀をされた。
正妃(菟野皇女うののひめみこ)を立てて皇后とされた。
后は草壁皇子くさかべのみこ(文武天皇と元正天皇の父)をお生みになった。
その後、皇后の姉である大田皇女おおたのひめみこを召して妃とされ、大来皇女おおくのひめみこ大津皇子おおつのみこをお生みになった。

次の妃である大江皇女おおえのひめみこ(天智天皇の娘)は、長皇子ながのみこ弓削皇子ゆげのみことをお生みになった。

次の妃、新田部皇女にいたべのひめみこ舍人皇子とねりのみこ日本書紀の編纂者)をお生みになった。
また夫人おととじの藤原大臣(鎌足)の娘である氷上娘ひかみのいらつめ但馬皇女たじまのひめみこをお生みになった。
次の夫人おととじである水上娘の妹である五百重娘いおえのいらつめは、新田部皇子にいたべのみこをお生みになった。
次の夫人の蘇我赤兄大臣そがのあかえのおおおみの娘の太蕤娘おおぬのいらつめ)は、一男二女をお生みになった。

第一を穂積皇子ほづみのみこといい、第二を紀皇女きのひめみこ、第三を田形皇女たかたのひめみこという。

天皇は初め鏡王かがみのおおきみの娘、額田姫王ぬかたのおおきみを召して十市皇女とおちのひめみこ(大友皇子の室)をお生みになった。

次に、胸形君徳善むなかたのきみとくぜんの娘である尼子娘あまこのいらつめを召して高市皇子たけちのみこをお生みになった。

次に宍人臣大麻呂ししひとのおみおおまろの娘であるカジ媛娘かじひめのいらつめカジは木偏に穀)は二男二女をお生みになった。
第一を忍壁皇子おさかべのみこ、第二を磯城皇子しきのみこ、第三を泊瀬部皇女はつせべのひめみこ、第四を託基皇女たきのひめみこという。

二十九日、勲功のあった人々に、それぞれに爵位を賜わった。

三月十七日、備後国司が、白雉しろきぎす亀石郡かめしのこおり(神石郡)で捕らえて朝廷に奉った。
そこでその郡の課役を全免され、全国に大赦令たいしゃれいを出された。
この月、写経生を集めて、川原寺で始めて一切経の写経を始められた。

夏四月十四日、大来皇女おおくのひめみこを伊勢神宮の斎王いつきのみやにされるために、まず泊瀬はつせ斎宮いつきのみやにお住まわせになった。
ここはまず身を潔めて、次第に神に近づくためのところである。

五月一日、公卿大夫まえつきみたちおよび諸臣、連、伴造らに詔して、
「初めて宮仕えする者は、まず大舎人おおとねり宮中で雑務に任ずる役人)として仕え、そのうえで才能を考え適職に当らせよ。また、婦女は夫の有無及び長幼を問うことなく、宮仕えしたいと望む者を受け入れよ。その選考は一般男子役人の例に準ずる」
とされた。

二十九日、大錦上の坂本財臣さかもとのたからのおみが卒した。
壬申じんしんの年の功労によって、小紫の位を賜わった。

うるう六月六日、大錦下である百済くだら沙宅昭明さたくしょうみょうが卒した。
人となり聡明親智で秀才と謳われた人である。
天皇は驚かれて外小紫の位を贈られ、重ねて出身国の百済くだらの最高位の大佐平だいさへいの位を賜わった。

八日、耽羅たんら済州島)は王子の久麻芸くまぎ都羅つら宇麻うまら)を遣わして調を奉った。

十五日、新羅は韓阿サン金承元かんあさんこんじょうがん(サンは二水に食)、阿サン金祇山あさんこんぎせん大舍霜雪だいさそうせつらを遣わして、即位の祝賀を申し上げた。
同時にー吉サン金薩儒いつきつさんこんさちぬ韓奈末金池山かんなまこんちせんらを遣わし、先皇の喪を弔った。
その送使である貴干宝きかんほう真毛しんもう承元じょうがん薩儒さちぬを筑紫に送ってきた。

二十四日、貴干宝きかんほうらを筑紫で饗応きょうおうされた。
それぞれに応じた物を賜わり、筑紫から帰国した。

秋八月九日、伊賀国いがのくに紀臣阿閉麻呂きのおみあへまろらに、壬申じんしんの年の功労を表彰して恩賞を賜わった。

ニ十日、高麗こま上部位頭大兄邯子しょうほうずだいきょうかんし前部大兄碩干ぜんほうだいきょうせきかんらを遣わして調を奉った。
そこで新羅は韓奈末金利益かんなまこんりやくを遣わして、高麗こまの使者を筑紫ちくしまで送ってきた。

二十五日、即位祝賀使の金承元こんじょうがんらの、中客なかつまろうと以上の位の者二十七人を、京に呼ばれた。
そこで筑紫の大宰に命じて、耽羅たんらの使者に伝え、
「天皇は天下を平定し、初めて即位したので、祝賀使以外は会っておられない。それはお前たちも見ているであろう。この頃、寒さに向かい海も荒れており、長く逗留すると気がかりも多かろうから、なるべく早く帰国するように」
と言われた。
そして本国にいる王および使者の久麻芸くまぎらに、初めて日本の官位を賜わった。
その位は大乙上であり、さらにこうぶり錦繡にしきぬいもので飾り、佐平位さへいのくらいに相当するものであった。
筑紫から帰国させた。

九月二十八日、金承元こんじょうがんらに難波なにわ饗応きょうおうされた。
種々の歌舞を奏し、それぞれへの賜物があった。

冬十一月一日、金承元が帰途についた。

二十一日、高麗こま邯子かんし新羅しらぎ薩儒さちぬらに筑紫の大郡で饗応きょうおうされ、それぞれに賜物があった。

十二月五日、大嘗祭だいじょうさい即位後最初の新穀感謝祭)に奉仕した中臣なかとみ忌部いんべ、および神官の人たち、並びに播磨はりま丹波たんば悠紀ゆき主基すきの両田を奉仕した)両国の郡司こおりつかさ以下の人夫たちに、すべて賜物があった。
郡司たちにはそれぞれ爵一級を賜わった。

十七日、小紫美濃王しょうしみののおおきみ小錦下紀臣訶多麻呂しょうきんげきのおみかたまろを、高市大寺たけちのおおでらもとの百済大寺、後の大安寺) の造司に任じられた。
そのとき、知事(寺の管理職)福林僧が、老齢のため知事を辞したが許されなかった。

二十七日、僧である義成ぎじょう小僧都しょうぞうずとした。
この日、さらに佐官の二人を加えた。
四人の佐官のあるのは、このときから始まった。
この年、太歳癸酉みずのととり

三年春一月十日、百済王の昌成しょうじょうが薨じた。
小紫の位を贈られた。
二月二十八日、紀臣阿閉麻呂きのおみあへまろが卒した。
天皇は大いに悲しまれ、壬申じんしんの年の戦功によって大紫の位を贈られた。

三月七日、対馬国司つしまのくにのみこともち守忍海造大国おしぬみのみやつこおおくにが、
「この国で初めて銀が出ましたので、奉ります」
と言ってきた。
これによって大国に小錦下の位を授けられた。
銀が我が国に産出したのは、このときが初めてである。
それですべてを神々に奉り、また小錦以上の大夫まえつきみたちにもあまねくそれを賜わった。

秋八月三日、忍壁皇子おさかべのみこ石上神社いそのかみじんじゃに遣わして、膏油こうゆで神宝の武器を磨かせた。
その日にみことのりして、
「神府に納められている以前からの諸家の宝物は、今、皆その子孫に返せ」
と仰せられた。
(皇室の武器庫とするためか)

冬十月九日、大来皇女おおくのひめみこ泊瀬はつせ斎宮いわいのみやから、伊勢神宮に移られた。

四年春一月一日、大学寮の諸学生である陰陽寮おんようのつかさ外薬寮とのくすりのつかさのちの典薬寮)および舎衛さえの娘である堕羅たらの娘の百済王くだらおう善光ぜんこう新羅しらぎ仕丁つかいのはららが、薬や珍しい物どもを捧げ、天皇に奉った。

二日、皇子以下百察もものつかさの諸人が、賀正の礼に列した。

三日、百寮の人々の初位以上の者すべてが、宮廷で使われる薪を奉る行事が行なわれた。

五日、はじめて占星台せんせいだい天文の観察、吉凶の占いなどを行なう)を建てた。

七日、群臣に朝廷で宴会を賜わった。

十七日、公卿大夫まえつきみたち百官ひゃっかんの人々の、初位以上の者が、西門の庭で射礼の行事を行なった。
この日、大和国やまとのくにから瑞鶏ずいけいめでたい鶏)を奉った。
東国から白鷹しろたかを、近江国おうみのくにから白鵄しろとびを、それぞれ奉った。

二十三日、諸社に幣帛みてぐらを奉った。

二月九日、大倭やまと河内かわち摂津せっつ山背やましろ播磨はりま淡路あわじ丹波たんば(たには)但馬たじま近江おうみ若狭わかさ伊勢いせ美濃みの尾張おわりらの国にみことのりして、
「管内の人民で歌の上手な男女、侏儒、伎人わざひと俳優わざおぎ)を選んで奉れ」
と言われた。

十三日、十市皇女とおちのひめみこ阿閉皇女あへのひめみこは伊勢神宮に詣でられた。

十五日、みことのりして、
天智てんち三年に諸氏に賜わった民部、家部は以後中止する。また親王、諸王および諸臣、並びに諸寺に賜わった山沢やまさわ島浦しまうら林野はやしのいけは大化以前と以後を問わず、皆、国に返させる」
と言われた。

十九日、詔して、
群臣まえつきみ百察もものつかさおよび天下の人民は諸悪をなしてはならぬ(涅槃経などにある)。もし犯すことがあれば、相応の処罰をする」
と言われた。

二十三日、天皇は高安城たかやすのきにお出でになった。

この月、新羅しらぎは王子の忠元ちゅうがん大監級サン金比蘇だいけんきゅうさんこんひそ大監奈末金天沖だいかんなまこんてんちゅう第監大麻朴武摩だいけんたいまぼくむま第監大舎金洛水だいかんだいさこんらくすいらを遣わして調を奉った。
その送使である奈末なま金風那こんふな、奈末の金孝福こんこうふくは、王子の忠元ちゅうげんを筑紫まで送ってきた。

三月二日、土佐大神とさのおおかみ高知市一宮)から神刀一口を天皇に奉った。

十四日、金風那こんふならを筑紫にもてなされ、筑紫から帰途についた。

十六日、諸王位の四位にある栗隈王くるくまのおおきみを兵政官長(後の兵部卿)とし、小錦上の大伴連御行おおとものむらじみゆ大輔おおすけ(次官)とした。

この月、高麗こま大兄富干だいきょうふかん大兄多武だいきょうたむらを遣わして調を奉った。
新羅しらぎ級遣朴勤修きゅうあんぼくごんじゅ大奈末だいなま金美賀こんみがを遣わして調を奉った。

夏四月五日、憎尼二千四百余を召して盛大な斎会さいえを行なわれた。

八日、みことのりして、
「小錦上の当麻公広麻呂たぎまのきみひろまろ、小錦下の久努臣麻呂くめのおみまろの二人は朝廷への出仕を禁ずる」
と言われた。(理由は不明)

 九日、みことのりして、
「諸国の貸税いらしのおおちから種籾を貸し利稲を払わせる)は、今後、民の貧富をよく監察して、三階級に分け、中戸より以下の者に貸与せよ」
と言われた。

広瀬、竜田の神祭り

十日、小紫美濃王みののおおきみ、小錦下佐伯連広足さえきのむらじひろたりを遣わして、風神を竜田たつた立野たつの奈良県生駒郡三郷村立野)に祭らせた。
小錦中間人連大蓋はしひとのむらじおおふた、大山中曽禰連韓犬そねのむらじからいぬを遣わして、大忌神おおいみのかみ広瀬ひろせの河原に祭らせた。

十四日、小錦下久努臣麻呂くののおみまろは、詔命ちょくめいをおびた使者に従わなかったので、官位をことごとく奪われた。

十七日、諸国にみことのりして、
「今後、漁業や狩猸に従事する者は、檻や落とし穴、仕掛け槍などを造ってはならぬ。四月一日以後、九月三十日までは、隙間のせまいはりを設けて魚を獲ってはならぬ(稚魚の保護)。また牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食べてはならぬ。それ以外は禁制に触れない。もし禁を犯した場合は処罰がある」
と言われた。

十八日、三位麻続王まみのおおきみに罪があって因幡いなばに流された。
一子を伊豆島いずのしまに、一子を血鹿島ちかのしま長崎の五島列島)に流した。

二十三日、種々の才芸のある者を選んで禄物を賜わった。
この月、新羅しらぎの王子忠元ちゅうげん難波なにわに着いた。

六月二十三日、大分君恵尺おおきだのきみえさかは病が重くなり、天皇は大いに驚かれてみことのりし、
恵尺えさかよ、お前は滅私奉公して身命を惜しまず、雄々しい心で壬申の乱に勲功を立てた。私はいつもお前の努力に報いたいと思っていた。お前がもし死んだとしても、子孫に手厚く賞を与えよ」
と言われた。
外小紫の位に昇進させられた。
いくばくもなく自宅で薨じた。

秋七月七日、小錦上の大伴連国麻呂おおとものむらじくにまろを大使とし、小錦下の三宅吉士入石みやけのきしいりしを副使として新羅しらぎに遣わした。

八月一日、耽羅たんらの調使である王子の久麻伎くまきが筑紫に着いた。

二十二日、大風が吹いて、砂を巻き上げ、家を壊した。

二十五日、新羅しらぎの王子忠元ちゅうげんは拝礼を終えて、難波なにわから帰途に着いた。

二十八日、新羅しらぎ高麗こま二国の調使を筑紫で饗応きょうおうされ、それぞれに物を賜わった。

九月二十七日、耽羅たんらの王である姑如くにょ難波なにわに着いた。

冬十月三日、使者を各地に遣わして一切経を求めさせた。

十日、群臣に酒宴を賜わった。

十六日、筑紫から唐人からひと三十人を奉ったので、遠江国とおとうみのくにに住まわせられた。

二十日、みことのりして、
「諸王以下初位以上の者は、各人で武器を備えよ」
と言われた。
この日、相模国さがみのくにから、
高倉郡たかくらのこおりで、三つ子の男子を生んだ女があります」
という報告があった。
(多産の奨励

十一月三日、ある人が宮の東の岡に上って、何か人を惑わす言葉を言って、自ら首をはねて死んだ。
この夜、当直であった者には、すべてに爵一級を賜わった。
この月、大きな地震があった。

五年春一月一日、群臣百察まえつきみもものつかさは賀正の礼を行なった。
四日、高市皇子たけちのみこ以下、小錦以上の大夫らに、衣、袴、褶、腰帯、脚带および、机、杖を賜わった。
ただし小錦の三つの階のみは机がなかった。

七日、小錦以上の大夫らにそれぞれに応じた賜物があった。

十五日、百寮もものつかさの初位以上が薪を奉った。
その日朝廷に全員を集めて宴を賜わった。

十六日、西の門の広場で弓競ゆみくらべがあり、的への当り方によって、それぞれ禄を賜わった。
この日、天皇は嶋宮にお出でになって宴会を催された。

二十五日、みことのりして、
「国司を任命するには、畿内うちつくにおよび陸奥みちのく長門ながと以外は、すべて大山の位以下の人を任ぜよ」
と言われた。

二月二十四日、客の耽羅王たんらおうに船一隻を賜わった。

この月、大伴連国麻呂おおとものむらじくにまろらが新羅しらぎから帰ってきた。

夏四月四日、竜田たつたの風神、広瀬ひろせ大忌神おおいみのかみを祭った。
大和国添下郡やまとのくにそうのしものこおり鰐積吉事わにつみのよごとが、瑞鶏ずいけいを奉った。
そのとさかは椿の花のようで美しかった。

この月、大和国やまとのくに飽波郡あくなみのこおり(平群郡)から、
「雌鶏が雄鶏に変わりました」
という報告があった。

十四日みことのりして、
「諸王、諸臣が賜わった封戸の税は、京以西の国をやめて、京より東の国に替えるように。また畿外そとつくにの者で、朝廷に仕えたいと欲するものは、おみむらじ伴造とものみやつこの子および国造くにのみやつこの子は、許すこととする。これ以下の庶民でも、才能の優れている者は許せ」
と言われた。

二十二日、美濃国司みののくにのつかさみことのりして、
礪杵郡ときのこおり(土岐郡)にいる紀臣訶佐麻呂きのおみかさまろの子を東国に移して、その国の人民とせよ」
と言われた。
(公民として課役を徴するの意)

五月三日、調の納期を守れない国司らの状況を、云々と述べられた。

七日、下野国司しもつけのくにのつかさが、
「国内の百姓は凶作のため飢えて、子を売ろうとする者があります」
と言ったが許されなかった。

この月、みことのりして、
南淵山みなみぶちやま細川山ほそかわやまは草木を切ることを禁ずる。また畿内うちつくにの山野の、もとから禁制のところは、勝手に切ったり焼いたりしてはならぬ」
と言われた。

論功行賞と倭漢氏

六月、四位栗隈王くるくまのおおきみは病になって薨じた。
物部雄君連もののべのおきみのむらじは急病で卒した。
天皇は驚かれ、壬申じんしんの年に車駕にお供して東国に入り、功績があったので、内大紫の位を賜わり、物部もののべの氏上の地位を与えられた。
この夏、大旱魃だいかんばつがあった。使者を各地に遣わし、幣帛みてぐらを捧げてあらゆる神々に祈らせになり、また多くの僧尼をまねいて三宝に祈らせられた。
しかし、雨が降らず五穀はみのらず百姓おおみたからは飢えた。

秋七月二日、卿大夫まえつきみたち百寮もものつかさの人々に対して、それぞれに応じた爵位の昇進を行なわれた。

八日、耽羅たんらの客が帰国した。

十六日、竜田たつたの風神、広瀬ひろせ大忌神おおいみのかみを祭った。

この月、村国連雄依むらくにのむらじおよりが卒した。
壬申じんしんの年の功により、外小紫の位を賜わった。
彗星ほうきぼしが東に現れた。
長さは、七、八尺であった。
九月になって大空にかかった。

八月二日、親王以下小錦以上の大夫まえつきみおよび皇女、姫王、内命婦ひめまえつきみ五位以上の官位を有する女性)らに、それぞれに応じ食封へひとを賜わった。

十六日、みことのりして、
「国々で大祓おおはらいをしよう。供物は国ごとに国造くにのみやつこは馬一匹、布一常(一尺三寸)、郡司こおりつかさはそれぞれたち一口、鹿皮しかがわ一張、くわ一口、刀子一口、かま一口、そろいいねつか。また家ごとにあさじょうを出すよに」
と言われた。

十七日、詔して、
「死刑、没官、三つの流刑(遠、中、近)はいずれも一級ずつ下げる。
徒刑以下の罪は、すでに発覚したものも、これから後のものも、すべて赦免しゃめんとする。ただし、すでに配流はいるされたものはこの限りでない」

この日、諸国に詔して、放生令ほうじょうれい(捕えられている動物を放つ)をしかれた。

この月、大三輪真上田子人君おおみわのまかみだのこびとのきみが卒した。
天皇は大いに悲しまれ、壬申の年の功で、内小紫の位を賜わった。
大三輪真上田迎君おおみわのまかみだのむかえのきみ諡号しごうを賜わった。

九月一日、雨が降ったので告朔ついたちもうし毎月一日、朝堂で諸司の奏する公文をみる儀式)がなかった。

十日、王卿おおきみけいみやこ畿内うちつくにに遣わして、人別ひとごとに兵器を調べさせた。

十二日、筑紫大宰三位の屋垣王やかきおうを罪によって土佐国とさのくにに流した。

十三日、百寮もものつかさの人および諸蕃の人たちに物を賜わった。

二十一日、神官が、
新嘗祭にいなめまつりのための国郡くにこおりを占いましたら、斎忌ゆき尾張国山田郡おわりのくにやまだのむら、次は丹波国訶沙郡たんばのくにかさのこおり(加佐郡)となりました」
と奏上した。
この月、坂田公雷さかたのきみいかずちが卒した。
壬申じんしんの年の功により大紫の位を贈られた。

冬十月一日、群臣にうたげを賜わった(孟夂もうとう孟夏もうかにはうたげがあった)。
三日、相嘗祭あいにえまつり(新嘗祭に先立つ新穀祭)に祀る諸神に幣帛みてぐらを捧げた。

十日、大乙上の物部連麻呂もののべのむらじまろを大使とし、大乙中の山背直百足やましろのあたいももたりを小使として、新羅しらぎに遣わされた。

十一月一日、新嘗祭にいなめまつりのため告朔ついたちもうしがなかった。

三日、新羅は沙サン金清平ささこんしょうびょうを遣わしてまつりごとを報告し、合せて汲サン金好儒きゅうさんこんこうぬ、弟の監大舎金欽吉けんだいさこんおんきちらを遣わして、調を奉った。
その送使の奈末被珍奈なまひちんな、副使の奈末好福なまこうふくは、清平らを筑紫まで送ってきた。
この月に粛慎みしはせの七人が、清平しょうびょうらに従ってきた。

十九日、京に近い国々にみことのりして、放生令ほうしょうれいを行なわれた。

二十日、諸国に使者を遣わし、金光明経こんこうみょうぎょう仁王経におうぎょうを説かされた。

二十三日、高麗こまが大使の後部主簿阿宇こうほうしゅぼあう、副使の前部大兄徳富ぜんほうだいきょうとくふを遣わして、調を奉った。
このため新羅は、大奈末だいなま金揚原こんようげんを遣わして、高麗こまの使者を筑紫に送ってきた。

この年、新木にいきに都を造ろうと思われた。
予定地の田畑は公私を問わず耕作されなかったので、たいへん荒廃した。
しかしついに都は造られなかった。

六年春一月十七日、南門で大射たいしゃがあった。

二月一日、物部連麻呂もののべのむらじまろが新羅から帰った。
この月、多禰嶋たねのしま種子島)の人らに、飛鳥寺の西のつきの木の下で饗応きょうおうされた。

三月十九日、新羅しらぎの使者である清平しょうびょうおよび以下十三人を京に召された。

夏四月十一日、杙田史名倉くいたのふびとなくらは、天皇をそしまつったということで、伊豆島に流された。

十四日、送使の珍奈ちんならを筑紫で饗応され、珍奈ちんならは筑紫から帰途についた。

五月一日、告朔ついたちもうしはなかった。

三日、大博士百済人率母おおきはかせくだらのひとそつもちょくして、大山下の位を授けられた。
食封へひととして三十戸を賜わった。
この日に、倭画師音檮やまとのえしおとかしに小山下の位を授けられ、食封へひと二十戸を賜わった。

七日、新羅の人である阿サン朴刺破あさんぼくしは(サンは二水に食)、従者の三人と僧の三人が血鹿島ちかのしま五島列島)に漂着した。

二十八日、みことのりして、
「諸国の神社に属する田租は三分して、一つを神に供え、二つを神主に分け与えよ」
と言われた。

この月、旱魃かんばつがあり、京や畿内では雨乞いをした。

六月十四日、大地震があった。
この月、東漢直やまとのあやのあたいらにみことのりして、
「お前たちの仲間は、今までに七つの良からぬことを行なった。このため小墾田おはりだの御代(推古天皇の時代)から、近江おうみみかど天智天皇の時代)にいたるまで、常にお前たちを警戒されてきた。今、私の世において、お前たちがよからぬことを行なえば、罪の通りに処罰する。しかし漢直あやのあたいの氏族を絶やそうというのではない。大恩をもって許す。今後もし犯す者があれば必ず処罰を行なう」
と言われた。

秋七月三日、竜田たつたの風神、広瀬ひろせ大忌神おおいみのかみをお祭りした。

八月十五日、飛鳥寺あすかでらで盛大な斎会さいえを設け、一切経いっさいきょうを読ませられた。
天皇は寺の南門にお出ましになり、仏を拝礼された。
このとき、親王と諸王および群卿まえつきみに詔して、各々について一人ずつが出家することを許され、その出家者は男女長幼を問わず、皆、願に従って得度とくどさせ、この大斎会だいさいえに参会させた。

二十七日、金清平こんしょうびょうは帰途についた。
漂着した朴刺破ぼくしはらは、清平しょうびょうにつけて本土に帰された。

二十八日、耽羅たんらは王子の都羅つらを遣わして調を奉った。

九月三十日、みことのりして、
「およそ浮浪者で、その本籍地に送られた者が、また戻った場合は、向こうでもこちらでも、双方の課役を科せよ」
と言われた。

冬十月十四日、内小錦上の河辺臣百枝かわべのおみももえ民部卿かきべのかみとした。
内大錦下の丹比公麻呂たじひのきみまろ摂津職大夫せっつのまえつきみとした。

十一月一日、雨が降って告朔ついたちもうしがなかった。
筑紫大宰が赤烏あかがらす上瑞とされる)を奉った。
大宰府の諸官司の人々に、それぞれ禄物を賜わった。
また赤烏を捕えた当人には、爵位五級を賜わった。
その郡の郡司らには爵位を加増された。
郡内の百姓には一年分の課役の負担を免除し、この日、全国に大赦令たいしゃれいを出された。

二十一日、新嘗しんじょうの祭を行なわれた。

二十三日、百寮もものつかさ(諸官司)の有位の者に、新穀を賜わった。

二十七日、新嘗に奉仕した神官や国司らに禄物を賜わった。

十二月一日、雪が降って告朔がなかった。

七年春一月十七日、南門で大射たいしゃがあった。

二十二日、耽羅人たんらびとが京に来た。

この春、天地の神々を祭るため、全国で大祓おおはらえを行なった。
斎宮いつきのみや(天皇が神事を行なうために籠もる場所)を倉橋河くらはしのかわの河上に立てた。

夏四月一日、斎宮いつきのみやにお出でになろうとして、占いをされたところ、七日が良いということになった。
よって平旦とら午前四時頃)の刻に、先払いが出発、百寮もものつかさが列をなし、御輿みこしには蓋を召して出られよとする時、十市皇女とおちのひめみこが急病になられ、宮中でこうじられた。
このため、天皇の行列は停止して行幸はできなかった。
神々の祭りもなくなった。

十三日、新宮の西庁の柱に落雷があった。

十四日、十市皇女とおちのひめみこ赤穂あかほに葬った。

天皇は葬儀に臨まれ、心の籠もった言葉を賜わり声を出し泣かれた。

九月、忍海造能麻呂おしぬみのみやつこよしまろが瑞稲五株を奉った。
この稲は株ごとに枝があった。
これによって徒罪以下のものは、すべて許された。
三位の稚狭王わかあのおおきみが薨じた。

冬十月一日、綿のよなものが難波なにわに降った。
長さ五、六尺、広さ七、八寸で、風に乗って松林と葦原でひるがえっていた。
人々は「甘露かんろである」といった。

二十六日、みことのりして、
「およそ内外の文武官は、毎年、ふびと(四等官の第四)以上の官人の、公平で仕事に忠実なものについて優劣を議し、昇進すべき位階を定めよ。一月の上旬より前に詳しく記して、法官に送れ。法官はよく調べて大弁官に申し送れ。しかし公事で遣いに出るべき日に、真実の病気や父母の喪以外で、小さなことに関わり、出ない者は昇進させることはない」
と言われた。

十二月二十七日、臘子鳥あとりが空を覆って、西南より東北に飛んだ。
この月、筑紫国で大地震があった。
地面が広さ二丈、長さ三千余丈にわたって裂け、どの村でも多数の民家が崩壊した。

このとき、岡の上にあったある民家は、地震の夜、岡が崩れて移動した。
しかし、家は全く壊れず、家人は岡が壊れて移動したことを知らず、夜が明けてからこれに気づいて大いに驚いたという。

この年、新羅しらぎの送使の奈末加良井山なまからじょうせん奈末金紅世なまこんぐせは筑紫について、
新羅王しらぎおう沙サン金消勿ささんこんしょうもつ大奈末金世世だいなまこんせいせいらを遣わして、今年の調を奉ります。よって臣井山やつがれじょうせんを遣わし、消勿しょうもつらを送らせました。ところが共に海上で暴風にあい、散り散りになって、どこに行ったものとも分りません。井山じょうせんだけは辛くも岸に着くことができました」
と言った。
けれども消勿しょうもつらはついに来なかった。

八年春一月五日、新羅の送使である加良井山からじょうせん金紅世こんぐせらが京に向かった。

七日、みことのりして、
「正月の節会のときに、諸臣および百察は、兄姉以上の親族および自分の氏上を除いて、この他には拝礼を行なうことを禁ずる。諸王は母であっても王の姓(親王を除き五世孫まで)の者でなければ、拝礼してはならぬ。諸臣もまた自分より出自の低い母を拝礼してはならぬ。正月の節会のとき以外も、またこれにならうこととする。もし違反する者があれば、ことに応じて処罰する」
と言われた。

十八日、西門で射礼じゃらいがあった。

二月一日、高麗こま上部大相桓父じょうほうだいそうかんぶ下部大相師需婁かほうだいそうしずるらを遣わして、調を奉った。
よって新羅は奈末甘勿那なまかんもつなを遣わして、桓父かんぶらを筑紫まで送ってきた。

三日、紀臣堅麻呂きのおみかたまろが卒した。
壬申の年の功によって、大錦上の位を贈られた。

四日、みことのりして、
「天武十年に、親王、諸臣や百寮の人たちの武器や馬の検査を行なうから、あらかじめ準備しておくよに」
と言われた。
この月、大恩をもって貧者に施しをされ、飢えこごえた者たちに物を賜わった。

三月六日、兵衛大分君稚見とねりおおきだのきみわかみが死んだ。
壬申の年の大役に、先鋒として敵陣を破った。
この功によって外小錦上とのしょうきんじょうの位を贈られた。

七日、天皇は越智おちに行幸され、斉明天皇さいめいてんのうみささぎに参拝された。

九日、吉備大宰石川王きびのおおみこともちいしかわのおおきみは、病で吉備にこうじた。
天皇はこれを聞いてたいへん悲しまれ、恵み深い言葉を賜わって云々といわれ、諸王二位を贈られた。

二十二日、貧しい僧尼にふとぎぬ、綿、布を施された。

夏四月五日、みことのりして、
食封へひとを与えられている諸寺の由緒を調べ、加えるべきものは加え、やめるべきところはやめよ」
と言われた。
この日、諸寺の名をえらび定めた。

九日、広瀬、竜田の神を祭った。

吉野の会盟

五月五日、吉野宮よしののみやに行幸された。

六日、天皇は皇后および草壁皇子くさかべのみこ大津皇子おおつのみこ高市皇子たけちのみこ河嶋皇子かわしまのみこ忍壁皇子おさかべのみこ芝基皇子しきのみこみことのりして、
「私は、今日、お前たちと共に朝廷で盟約し、千年の後まで、継承の争いを起こすことのないように図りたいと思うがどうか」
と言われた。
皇子たちは共に答えて、
「ごもっともでございます」
と言った。

草壁皇子尊くさかべのみこのみことがまず進み出て誓って、
「天地の神々および天皇よ、はっきりとお聞き下さい。我ら兄弟長幼合せて十余人は、それぞれ母を異にしておりますが、同母であろうとなかろうと、天皇のお言葉に従って、助け合って争いは致しますまい。もし今後このちかいに背いたならば、命は亡び子孫も絶えるでしょう。これを忘れず過ちを犯しますまい」
と申された。
五人の皇子は後を継いで、順次、先のように誓われた。

そうしたのち、天皇は、
「我が子供たちよ。それぞれ母を異にしているが、皆、同じ母から生まれたも同様に思われ愛しい」
と言われた。
そして衣の襟を開いて、その六人の皇子を抱かれた。
そして盟いの言葉を述べられ、
「もし自分がこの盟いに背いたら、たちまち我が身を亡ぼすであろう」
と言われた。
皇后もまた天皇と同じように、盟いの言葉を述べられた。

七日、天皇は宮に帰られた。

十日、六人の皇子は揃って大殿の前で天皇に拝礼された。

六月一日、ひょうが降った。
大きさは桃の実ほどあった。

二十三日、雨乞いをした。

二十六日、大錦上大伴社屋連だいきんじょうおおとものもりやのむらじが卒した。

秋七月六日、雨乞いをした。

十四日、広瀬ひろせ竜田たつたの神を祭った。

十七日、四位、葛城王かずらきのおおきみが卒した。

八月一日、みことのりして、
「諸の氏は、それぞれ女人おんなを奉れ」
と言われた。

十一日、泊瀬はつせに行幸され、泊瀬川のとどろきのふちのほとりで、宴会を催された。
これより先、王卿らおおきみまえつきみみことのりして、
「乗用馬の他に、さらに別の良馬を用意し、召されることがあった時は直ぐ差出せるように」
と言われた。

泊瀬から宮に帰られた日、群卿まえつきみが揃えた良馬を、迹見とみの駅家の路上でご覧になり、皆走らせてみられた。

二十二日、縵造忍勝かずらのみやつこおしかつ嘉禾よきいねを奉った。
その稲は株が別であるのに、穂が一つになっていた。
(中国で天下和同の象であるという)

二十五日、大宅王おおやけのおおきみが卒した。

九月十六日、新羅に遣わした使人らが帰って拝朝した。

二十三日、高麗に遣わした使人、耽羅に遣わした使人が帰って共に拝朝した。

冬十月二日、詔して、
「この頃乱暴で悪事をはたらく者が里に多いと聞く。これは王卿おおきみまえつきみらの落度である。乱暴で悪事を働く者があると聞いても、面倒と思って表沙汰にせず、悪い者を見ても怠って隠して正そうとしない。それを見聞きしたらすぐ糺すようにすれば、暴悪の者はなくなる。今後、煩らい怠ることなく、上に立つ者は下の者の誤りを責め、下の者は上の者の粗暴な振舞いを諫めれば、国家は治まるだろう」
と言われた。

十一日、地震があった。

十三日、みことのりして僧尼らの威儀や衣の色、それに馬、従者などが街なかを往き来する時の決まりについて定められた。

十七日、新羅は阿サン金項那あさんこんこうな沙サン薩蕞生ささんさちるいしょうを遣わして朝貢した。
調物は金、銀、鉄、鼎、錦、絹、布、皮、馬、狗、騾、駱駝など十余種であり、また別に献上物があった。
天皇、皇后、太子にも金、銀、刀、旗の類を相当数奉った。

この月、勅して、
「そもそも僧尼は、常に寺内に住して仏法を護持すべきである。しかし老いたり病んだりして、狭い僧坊に寝たまま、長らく苦しむのでは’動くにも不自由であり、清浄なるべき場所もけがれる。それ故今後はそれぞれの親族か、信心の厚い者をこれにつけ、一つ二つの屋舎を空いた所に建てて、老人は身を養い、病人は薬を服するよにせよ」
と言われた。

十一月十四日、地震があった。

二十三日、大乙下の倭馬飼部造連やまとのうまかいべのみやつこむらじを大使とし、小乙下の上寸主光父うえのすぐりこうぶを小使として、多禰島たねしま種子島)に遣わし爵位一級を賜わった。

この月、初めて竜田山、大坂山に関所を設け、難波なにわ羅城らじょう四方にめぐらす城壁)を築いた。

十二月二日、嘉禾よきいねが現れたことによって、親王、諸王、諸臣や百官の人々に、それぞれ禄物を賜わり、死罪以下の罪人をことごとく赦免した。

この年、紀伊国の伊刀郡いとのこおり(和歌山県伊都郡)が芝草しそう(霊芝)を奉った。その形はきのこのようで茎の長さは一尺、蓋は二囲(周囲六尺)ほどあった。
また、因幡国いなばのくにが瑞稲(めでたい稲)を奉った。
その稲は株ごとに枝が分れ出ていた。

九年春一月八日、天皇は向小殿にお出ましになり、王卿は大殿の庭で宴を賜わった。
この日、忌部首首いんべのおびとこびとに姓を賜わってむらじと言った。
首は、弟である色弗しこぶちと共に喜びの心を申し上げた。

十七日、親王以下小建以上の者が、南門で射礼じゃらいを行なった。

二十日に摂津国せっつのくにが、
活田村いくたのむら神戸市生田)で桃や李が実をつけました」
と報告した。

二月十八日、鼓のような音が、東の方角に聞こえた。

二十六日、ある人が、
葛城山かずらきやまで鹿の角を拾いました。その角は根本がニ本で、先が一つになり肉がついています。肉の上に長さ一寸ほどの毛があります。不思議ですので献上します」
と言った。
これはりんの角であろうか。

二十七日、新羅の仕丁が八人、本国に帰った。
そこでお言葉を賜わり禄物を頂いた。

三月十日、摂津国が白い巫鳥しとりアオジの類で白色が珍しかったもの)を奉った。

二十三日、菟田うだ吾城あき壬申の乱の時の故地)に行幸された。

四月十日、広瀬、竜田の神を祭った。

十一日、橘寺の尼房あまむろで失火があり十房を焼いた。

二十五日、新羅の使者の項那らに筑紫で饗応され禄物を賜わった。

この月、勅して、
「およそ諸寺は、今後、国の大寺の二、三を除いて、その他は官司の管理をやめる。ただし食封を所有しているものは、三十年を限度とする。また思うに、飛鳥寺は官治すべきではない。しかし、古い大寺として官治が行なわれたし、かつて功労のあった歴史があるので、今後も官治する中に入れてよい」
と言われた。

五月一日、勅してふとぎぬ、綿、糸、布を、京の内の二十四寺にそれぞれ施入された。
この日、はじめて金光明経こんこうみょうぎょうを宮中と諸寺で説かせ始められた。

十三日、高麗は南部大使卯問なんほうたいしもうもん西部大兄俊徳さいほうだいきょうしゅんとくらを遣わして朝貢した。
よって新羅は大奈末考那だいなまこうなを遣わして、高麗の使者の卯問もうもんらを筑紫に送ってきた。

二十一日、小錦下の秦造綱手はたのみやつこなでが卒した。
壬申の年の功により、大錦上の位を贈られた。

ニ十七日、小錦中の星川臣摩呂ほしかわのおみまろが卒した。
壬申の年の功により、大紫の位を贈られた。

六月五日、新羅の客人である項那こうならが帰途についた。

八日、灰が降った。

十四日、雷電らいでんが甚だしかった。

秋七月一日、飛鳥寺の西のつきの木の枝が、ひとりでに折れて落ちた。

五日、天皇は犬養連大伴いぬかいのむらじおおともの家にお出でになり、病を見舞われた。
恵み深いお言葉を賜わって云々と言われた。
この日、雨乞いをした。

八日、広瀬、竜田の神を祭った。

十日、朱雀あかすずめ(すざく)が南門にいるのが見られた。

十七日、朴井連子麻呂えのいのむらじこまろに小錦下の位を授けられた。

二十日、飛鳥寺の僧弘聡ぐそうが死んだ。
大津皇子おおつのみこ高市皇子をたけちのみこ遣わして弔われた。
二十三日、小錦下の三宅連岩床みやけのむらじいわとこしゅっした。

壬申の年の功により、大錦下の位を贈られた。

二十五日、納言兼宮内卿みやうちのつかさ五位舎人王とねりのおおきみが病死しそうであった。
高市皇子たけちのみこを遣わして見舞われた。
その翌日、卒した。

天皇は大いに驚かれ、高市皇子たけちのみこ川嶋皇子かわしまのみこを遣わされた。
もがりに臨まれて挙哀し泣かれた。
百寮もものつかさの者もこれに従って泣いた。

八月五日、法官の者が嘉禾よいいねを奉った。
この日から始まって三日間雨が降り、大水が出た。

十四日、大風が吹き、木を折り、家を壊した。

九月九日、朝妻あさつまにお出でになった。
大山位だいせんい以下の者の馬を、長柄杜ながらのもりでご覧になり、そこで騎射を行なわせられた。

二十三日、地震。

二十七日、桑内王くわうちのおおきみが自宅でしゅっした。
冬十月四日、京の諸寺の貧しい僧尼と人民に服給しんきゅう食糧や物を与える)をされた。
僧尼一人ごとに、各々にふとぎぬ四匹、綿四屯、布六端。
沙弥しゃみと俗人には各ふとぎぬ二匹、綿二屯、布四端であった。

十一月一日、日蝕にっしょくがあった。

三日、いぬ午後十時)から午後十二時)まで、東の方が明るかった。

四日、高麗こまの人十九人が本土に帰った。
これは斉明天皇の喪のために、弔使としてきて、留まっていたものである。

七日、百官ひゃっかんみことのりして、
「もし国家に利益となり、人民を豊かにする術があれば、朝に参って自ら申し述べよ。言うところが理にかなえば取り上げて、法律として実施しよう」
と言われた。
(これは律令選定事業に関わるものか)

十日、西方にかみなりあり。

十二日、皇后が病気になられた。

皇后のために誓願をたて、薬師寺を建立することとなり、百人の僧を得度させたところ、病気は平癒された。
この日、罪人を赦免された。

十六日、月蝕げっしょくがあった。
草壁皇子くさかべのみこを遣わして、僧恵妙えみょうの病気を見舞わされた。

翌日、恵妙えみょうは死んだ。
三皇子(草壁くさかべ大津おおつ高市たけち)を遣わして弔わされた。

二十四日、新羅しらぎ沙サン金若弼ささんこんにゃくひつ大奈末金原升だいなまこんげんしょうを遣わして調を奉った。
習言者ことならいひと日本語を学習する者)を三人が若弼にゃくひつについてきた。

二十六日、天皇が病気になられた。
よって百人の僧を得度させた。
すると、しばらくして天皇の病が癒えた。

三十日、臘子鳥あとりが天を覆って東南から西北に飛んでいった。

十年春一月二日、幣帛みてぐらを神々にわかち奉った。

三日、百察もものつかさの人々が拝賀の礼を行なった。

七日、天皇は向小殿にお出ましになり、節会が行なわれた。

この日、親王、諸王を内安殿へお召しになった。
諸臣は皆、小安殿に侍り、酒を振舞われ舞楽を見せられた。
大山上草香部吉士大形くさかべのきしおおかたに、小錦下の位を授けられた。
姓を賜わって難波連なにわのむらじといった。

十一日、境部連石積さかいべのむらじいわつみに勅して、六十戸の食封へひとを与えられ、ふとぎぬ三十匹、綿百五十斤、布百五十端、くわー百ロを賜わった。

十七日、親王以下、小建以上の者が朝廷で大射礼だいじゃらいをした。

十九日、畿内うちつくにおよび諸国にみことのりして、諸々の神社の社殿の修理をさせた。

律令編募と帝紀の記録

二月二十五日、天皇、皇后ご一緒に大極殿にお出ましになり、親王、諸王および諸臣を召してみことのりし、
「私は今ここに律令を定め、法式を改めたいと思う。それゆえ、皆この事に取りかかるように。しかし、急にこれのみを仕事とすれば、公事を欠くことがあろうから、分担して行うようにせよ」
と言われた。
この日、草壁皇子くさかべのみこを立てて皇太子とし、一切の政務に預からせられた。

二十九日、阿倍夫人あべのおおとじが薨じた。

三十日、小紫位の当摩公豊浜たぎまのきみとよはまこうじた。

三月四日、阿倍夫人あべのおおとじを葬った。

十七日、天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子かわしまのみこ忍壁皇子おさかべのみこ広瀬王ひろせのおおきみ竹田王たけだのおおきみ桑田王くわたのおおきみ三野王みののおおきみ、大錦下の上毛野君三千、小錦中の忌部連首いんべのむらじおびと、小錦下の阿曇連稲敷あずみのむらじいなしき難波連大形なにわのむらじおおかた、大山上の中臣連大嶋なかとみのむらじおおしま、大山下の平群臣子首へぐりのおみこびとみことのりして、帝紀および上古の諸事を記し校定させられた。
大嶋おおしま子首こびとが自ら筆をとって記した。

二十一日、地震があった。

二十五日、天皇は新宫にいみやの井のそばにお出でになり、試みに鼓や笛の音を出してみられ、練習をさせられた。

夏四月二日、広瀬ひろせ竜田たつたの神を祭った。

三日、禁式九十ニ条を制定し、みことのりして、
「親王以下庶民に至るまで、身につける金、銀、珠玉、紫、錦、ぬいもの、綾および氈褥おりしかものとこしき毛織の敷物)、冠、帯その他種々のものを着用するには、それぞれ身分に応じたものを用いよ」
と言われた。
詳しいことは詔書ちょくしょに述べられている。

十二日、錦織造小分にしこりのみやつこおきだ田井直吉摩呂たいのあたいよしまろ次田倉人椹足すきたのくらひとむくたり、同じく石勝いしかつ川内直県かわちのあたいあがた忍海造鏡おしぬみのみやつこかがみ、同じく荒田あらた、同じく能麻呂よしまろ大狛造百枝おおこまのみやつこももえ、同じく足坏あしつき倭直竜麻呂やまとのあたいたつまろ門部直大嶋かどべのあたいおおしま宍人造老ししひとのみやつこおきな山背狛烏賊麻呂やましろのこまのいかまろら合わせて十四人に、姓を賜わって連といった。

十七日、高麗こまの客である卯問もうもんらに筑紫ちくし饗応きょうおうされ、それぞれに物を賜わった。

五月十一日、皇祖の御魂を祭った。
この日、詔して、
「およそ百寮もものつかさの人々が、宮廷の女官に対する崇め方には行き過ぎがある。あるいはその人の家にまで行って、自分の訴えの取り次ぎを頼み、あるいは品物を贈って、その家にびへつらったりしている。今後、もしこのよなことがあれば、事実に即して、行なった者も宮人も共に罪に処する」
と言われた。

二十六日、高麗こま卯問もうもんが帰途についた。

六月五日、新羅しらぎの客、若弼にゃくひつに筑紫で饗応きょうおうされ、それぞれに禄物を賜わった。

十七日、雨乞いをした。

二十四日、地震があった。

秋七月一日、朱雀すざくが現れた。

四日、小錦下采女臣竹羅うねめのおみちくらを大使とし、当麻公楯たぎまのきみたてを小使として新羅国しらぎこくに遣わした。
この日、小錦下の佐伯連広足さえきのむらじひろたりを大使とし、小墾田臣麻呂おはりだのおみまろを小使として高麗国こまこくに遣わした。

十日、広瀬ひろせ竜田たつたの神を祭った。

三十日、全国に命じてことごとくに大祓おおはらえをさせた。
このとき、国造らはそれぞれはらえの供物として、奴婢ぬひ賤民せんみん)一口を出した。

閏七月十五日、皇后は仏に誓願して盛大な斎会さいえを催され、経を京内の諸寺で説かせられた。

八月十一日、大錦下の上毛野君三千かみつけののきみみちぢしゅっした。

十日、三韓(百済くだら高句麗こうくり新羅しらぎ)からきた人々にみことのりして、
「以前、十年間の調税を免除することとした。またこれに加えて、帰化の年、一緒に連れてきた子孫は、すべて課役を免除する」
と言われた。

十六日、伊勢国いせのくにから白い茅鷓いいどよフクロウ)を奉った。

二十日、多禰島たねのしまに遣わした使者らが、多禰島の地図を奉った。
その国は京を去ること五千余里、筑紫の南の海中にある。
住民は髪を短く切って草の裳をつけている。
稲は常に豊かに実り、年に一度植えれば二度収穫できる。
土地の産物は支子くちなし染料になる草)、莞子かま)および種々の海産物が多い。
この日、若弼にゃくひつが帰途についた。

九月三日、高麗こま新羅しらぎに遣わした使者らが共に帰り、天皇に拝謁した。

五日、周防国すおうのくに赤亀あかがめ(瑞祥)を奉ったので嶋宮しまのみやの池に放った。

八日みことのりして、
「諸氏の中で氏上(氏の首領)がまだ決まっていないものがあれば、氏上を決めて、理官おさむるつかさ(治部省)に申告せよ」
と言われた。

十四日、多禰島たねのしまの人たちに、飛鳥寺の西の川のほとりで饗応きょうおうされた。
さまざまの舞楽を奏した。

十六日、彗星ほうきぼしが現れた。

十七日、火星が月と重なった。

冬十月一日、日蝕があった。

十八日、地震があった。

二十日、新羅しらぎ沙喙一吉喰金忠平さとくいっきさんこんちゅうびょう大奈末金壱世だいなまこんいつせを遣わして調を奉った。
金、銀、銅、鉄、錦、絹、鹿皮、細布ほそぬのなどの類がそれぞれ数多くあった。
別に天皇、皇后、太子に奉る金、銀、霞錦かすみにしき新羅の特産物)、はた、皮などもそれぞれ数多くあった。

二十五日、詔して、
「大山位以下小建以上の人たちは、それぞれ国政についての意見を述べよ」
と言われた。

この月、天皇は広瀬野ひろせの百官ひゃっかんの観閲を行なおうとして、行宮かりみやを造り終わり準備は整った。
しかし、天皇は結局お出ましにならなかった。
ただし、親王以下群卿まえつきみはみな軽市かるのいち檯原市大軽)で、装いをこらした鞍馬を検閲した。
小錦以上の大夫まえつきみは皆、木の下に座をつらね、大山位以下の者は皆、馬に乗って、共に大路を通って南から北へ進んだ。
そこへ新羅の使者が来て、
「国王(文武王もんむおう)がなくなりました」
と報告した。

十一月二日、地震があった。

十二月十日、小錦下河部臣子首かわべのおみこびとを筑紫に遣わして、新羅の客、忠平に饗を賜わった。

二十九日、田中臣鍛師たなかのおみかぬち柿本臣猨かきもとのおみさる田部連国忍たべのむらじくにおし高向臣麻呂たかむこのおみまろ粟田臣真人あわたのおみまひと物部連麻呂もののべのむらじまろ中臣連大嶋なかとみのむらじまろ曽禰連韓犬そねのむらじからいぬ書直智徳ふみのあたいちことら合わせて十人(舍人造の糠虫ぬかむしは、少し遅れて)に、小錦下の位を授けられた。
この日、舍人造糠虫とねりのみやつこぬかむし書直智徳ふみのあたいちことに姓を賜わってむらじと言った。

十一年春一月九日、大山上舎人連糠虫とねりのみやつこぬかむしに小錦下の位を賜わった。

十一日、金忠平こんちゅうびょうに筑紫で饗応された。

十八日、水上夫人ひかみのおおとじ(天皇の夫人)が宮中でこうじた。

十九日、地震があった。

ニ十七日、水上夫人ひかみのおおとじ赤穂あかほに葬った。

二月十二日、金忠平こんちゅうびょうが帰途についた。
この月、小錦下舍人連糠虫とねりのみやつこぬかむししゅっした。
壬申の年の功をもって、大錦上の位を贈られた。

服装その他の改定

三月一日、小紫三野王みののおおきみと宮内官大夫まえつきみらに命じて新城にいき大和郡山市新木)に遣わし、その地形を見させられた。
都を造ろうとするためであった。

二日、陸奥国みちのくのくに蝦夷えみし二十二人に爵位を賜わった。

七日、地震があった。

十三日、境部連石積さかいべのむらじいわつみらに命じて、新字にいな一部四十四巻をお造らせになった。

十六日、新城にいきにお出ましになった。

二十八日、みことのりして、
「親王以下百寮の諸人は、今後、位冠(位をあらわす冠)及びまえも(前裳)、ひらおび脛裳はばきも(袴の一種)を着用してはならぬ。また膳夫かしわで采女うねめたちの手鏹たすき肩巾ひれも着用してはいけない」
と言われた。
この日、みことのりして、
「親王以下諸臣に至るまで、賜わっていた食封へひとは、皆、取りやめて公に返すこととせよ」
と言われた。

この月、土師連真敷はじのむらじましきしゅっした。
壬申の年の功により、大錦上の位を贈られた。

夏四月九日、広瀬、竜田の神を祭った。

二十一日、筑紫大宰の丹比真人嶋たじひのまひとしまらが、大きな鐘を奉った。

二十二日、こし蝦夷伊高岐那えみしのいこきならが、浮虜ふりょ七十戸をもって一郡としたいと請うて許された。

二十三日、みことのりして、
「今後、男女とも皆、髪を結い上げることとし、十二月三十日までにあげ終わるようにせよ。ただし髪を結い上げる日は、またみことのりで示すからそれを待て」
と言われた。
婦女が男子のように(中国の風習にならって鞍に跨って)馬に乗るようになったのは、この日からである。

五月十二日、倭漢直やまとのあやのあたいらに姓を賜わってむらじといった。

十六日、高麗こまに遣わした大使の佐伯連広足さえきのむらじひろたり、小使の小墾田臣麻呂おはりだのおみまろらが帰国し、遣いの旨を果たしたことを報告した。

二十七日、倭漢直やまとのあやのあたいの人々が、男も女も皆、参上し、姓を賜わったことを喜んで天皇を拝した。

六月一日、高麗王こまおう下部助有卦婁毛切かほうじょうけるもうせち大古昂加だいこきょうかを遣わして、国の産物を奉った。
このため、新羅しらぎ大那末金釈起だいなまこんしゃくきを遣わして、高麗こまの使者を筑紫まで送ってきた。

六日、男は始めて髪結げをした。
そして漆紗冠うるしぬりのうすはたのこうぶりを着用した。

十二日、五位殖栗王えくりのおおきみしゅっした。

秋七月三日、隼人はやとがたくさん来て国の産物を奉った。
この日、大隅おおすみ隼人はやと阿多あたの隼人が、朝廷で相撲をとり、大隅の隼人が勝った。

九日、小錦中の膳臣摩漏かしわでのおみまろが病気になった。
草壁皇子くさかべのみこ高市皇子たけちのみこを遣わして病を見舞わされた。

十二日、広瀬、竜田の神を祭った。

十七日、地震があった。

十八日、膳臣摩漏かしわでのおみまろしゅっした。
天皇は驚き大いに悲しまれた。

二十一日、摩漏臣まろのおみに、壬申じんしんの年の功により、大紫の位および禄を贈られた。
また皇后も官賜に応じて禄を賜わった。

二十五日、多禰たねの人、掖玖やくの人(屋久島の人)、阿麻弥あまみの人(奄美大島の人)に、それぞれ禄を賜わった。

二十七日、隼人はやとらに明日香寺あすかでら飛鳥寺)の西で饗を賜わった。
さまざまの舞楽を奏し、それぞれに禄を賜わった。
出家者も俗人も皆それを見た。
この日、信濃国しなののくに吉備国きびのくにがともに、
「霜が降り大風が吹いて、五穀がみな実りません」
と報告した。

八月一日、親王以下諸臣に命じて、法令として定めるのに適当なことを、上申させられた。

三日、高麗こまの客を筑紫でもてなされた。
この夜の昏の時(午後八時頃)、大星ゆうずつ金星)が東から西の空によぎった。

五日、造法令殿のりのふみつくるみあらかの内に大きなにじが立った。

十一日、灌頂幡かんじょうのはたのような形で、火の色をしたものが、空に浮かんで北に流れた。
これはどの国でも見られた。
こしの海(日本海)に入った」
というものもあった。
この日、白気が東の山に現れ、その大きさは四囲(一丈ニ尺)であった。

十二日、大地震があった。

十七日、また地震あり。
この日、平旦とらのとき午後4時)に、虹が天の中央に日に向かい合って現れた。

十三日、筑紫大宰ちくしのおおみこともちが、
「三本足のすずめが現われました」
と報告した。

二十二日、宮中での礼儀や言葉遣いのことについてみことのりされた。
また詔しみことのりて、
「およそ諸の選考を行なうには、よくその族姓や成績を考えてきめよ。たとえ成績が著しく良くても、族姓のはっきりしない者は、選ぶべきでない」
と言われた。

二十八日、みことのりして、日高皇女ひたかのひめみこ草壁皇子くさかべのみこの娘、後の元正天皇)の病のため、死罪以下の男女、合わせて百九十八人を赦した。

二十九日、百四十余人を大官大寺だいかんだいじ(もとの百済大寺、後の大安寺)で得度とくどさせた。

九月二日、みことのりして、
「今後、跪礼ひざまずくいやひざまずく礼法)、匍匐礼はういや宮内の出入りに両手を地につけ足をかがめ進む礼)などは止め、難波朝廷なにわのみかど(孝徳天皇)のときの立礼を用いることとする」
と言われた。

十日の日中ひるごろ、数百のおおとり(つる)が、大宫(おおみや浄御原宮きよみはらのみや)の方に向かって、空高く飛んだ。
二時間ほどして、皆散っていった。

冬十月八日、盛大な酒宴を催された。

十一月十六日、みことのりして、
「親王、諸王、諸臣より庶民に至るまで皆承るがよい。およそ法を犯した者を取り調べるときには、内裏でも政庁でも、その現場において、見聞きした通りに、隠すところなく取り調べよ。もし重罪を犯した者があれば、勅裁ちょくさいを受けるべき者(身分の高い者)は上奏し、捕らえるべき者であれば逮捕せよ。もし抵抗する者があれば、そこの兵を動かして捕えよ。杖罪に相当する場合は、百以下、等級に従って打て。また犯行が明白なのに、罪を否認し抗弁して、訴え出たよな場合は、それに対する罪を、本来の罪に加えるようにせよ」
と言われた。

十二月三日、詔して、
「諸氏の人たちは、それぞれ氏上に適当な人を選んで申告せよ。また一族の者が多い場合は、分割してそれぞれの氏上を定め官司に申告せよ。官司では事情を調ベた上で決定するので、官司の判定に従え。ただしとるに足らぬ理由によって、自分の一族でない者まで、自分のうからに加えてはならぬ」
と言われた。

十二年春一月二日、百察もものつかさが賀正の礼を行なった。
筑紫大宰ちくしのおおみこともち丹比真人嶋たじひのまひとしまが三本足のすずめ(样瑞)を奉った(十一年八月発見されたもの)。

七日、親王以下群卿に至るまでを、大極殿の前に召して、正月七日の節会を行なわれた。
三つ足の雀を群臣に示された。

十八日、詔して、
「明神御大八洲倭根子天皇(大事の際に用いられる修飾的な辞)の勅令を、諸国の国司、国造、郡司および百姓たちよ、皆共に聞け。自分が皇位を継いでより、天瑞てんずい(天の祥瑞)がーつ二つでなく数多く現れている。伝えられるところでは、こうした天瑞は、政道が天道にかなっているとき、示されるという。自分の治世に毎年相ついで現れることを、あるいは恐れあるいは喜んでいる。親王、諸王、群卿まえつきみ百寮もものつかさおよび全国の黎民も、共に喜んでもらいたいので、小建以上の者にそれぞれ禄物を賜い、死罪以下の者はみな赦免する。また百姓の課役はすべて免除する」
と言われた。
この日、小墾田儛おはりだのまいおよび高麗こま百済くだら新羅しらぎ三国の舞楽を朝廷で演奏した。

二月一日、大津皇子おおつのみこがはじめて朝政をお執りになった。

三月二日、僧正そうじょう僧都そうず律師りっしを任命しちょくして、
「僧尼令に従い、僧尼を統べ治めるようにせよ」
云々と言われた。

十九日、多禰たねに遣わされていた使者が帰ってきた。

夏四月十五日、みことのりして、
「今後は必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いてはならぬ」
と言われた。

十八日、詔して、
「銀を使用することはやめなくてもよい」
と言われた。

二十一日、広瀬、竜田の神を祭った。

六月三日、大伴連望多おおとものむらじまぐたこうじた。

天皇は大いに驚かれ、泊瀬王はつせのおおきみを遣わして弔わされた。
壬申じんしんの年の武勲および先祖が代々たててきた功績をたたえて厚く恩賞を賜わった。
大紫の位を贈られ、鼓や笛の音もまじえて葬儀を行なわせられた。

六日、三位高坂王たかさかのおおきみが薨じた。

秋七月四日、天皇は鏡姫王かがみのおおきみ(藤原鎌足の嫡室)の家にお越しになり、病気を見舞われた。

五日、鏡姫王かがみのおおきみは薨じた。
この夏はじめて僧尼を招いて宮中で安居あんごある期間憎堂に籠って修行すること)をさせられ、よく仏道を修行する者三十人を選んで得度させられた。

十五日、雨乞いをした。

十八日、天皇は京の中を巡行された。

二十日、広瀬、竜田の神を祭った。
この月から始まって八月までひでりが続いた。
百済くだらの僧道蔵どうぞうが雨乞いをして、雨が降った。

八月五日、全国に大赦を行った。
大伴連男吹負おおとものむらじおふけいしゅっした。
壬申じんしんの年の功により、大錦中の位を贈られた。

九月二日、大風が吹いた。

二十三日、倭直やまとのあたい栗隈首くるくまのおびと水取造もいとりのみやつこ矢田部造やたべのみやつこ藤原部造ふじわらべのみやつこ刑部造おさかべのみやつこ福草部造さきくさべのみやつこ凡河内直おおしこうちのあたい川内漢直かわちのあやのあたい物部首もののべのおびと山背直やましろのあたい葛城直かずらきのあたい殿服部造とのはとりのみやつこ門部直かどべのあたい錦織造にしこりのみやつこ縵造かずらのみやつこ鳥取造ととりのみやつこ来目舎人造くるめのとねりのみやつこ桧隈舎人造ひのくまのとねりのみやつこ大狛造おおこまのみやつこ秦造はたのみやつこ川瀬舎人造かわせのとねりのみやつこ倭馬飼造やまとのうまかいのみやつこ川内馬飼造かわちのうまかいのみやつこ黄文造きふみのみやつこ蓆集造こもつめのみやつこ勾筥作造まがりはこつくりのみやつこ石上部造いそのかみべのみやつこ財日奉造たからのひまつりのみやつこ泥部造はつかしべのみやつこ穴穂部造あなほべのみやつこ白髪部造しらかべのみやつこ忍海造おしぬみのみやつこ羽束造はつかしのみやつこ文首ふみのおびと小泊瀬造おはつせのみやつこ百済造くだらのみやつこ語造かたりのみやつこ、全部で三十八氏に姓を賜わってむらじとした。

冬十月五日、三宅吉士みやけのきし草壁吉士くさかべのきし伯耆造ははきのみやつこ船史ふねのふびと壱岐史いきのふびと娑羅羅馬飼造さららのうまかいのみやつこ菟野馬飼造うののうまかいのみやつこ吉野首よしののおびと紀酒人直きのさかひとのあたい采女造うねめのみやつこ阿直史あときのふびと高市県主たけちのあがたぬし磯城県主しきのあがたぬし鏡作造かがみつくりのみやつこ、全部で十四氏に姓を賜わってむらじといった。

十三日、天皇は倉梯くらはしで狩りをされた。

十一月四日、諸国にみことのりして、陣法いくさののりを習わせた。

十三日、新羅しらぎ沙サン金主山ささんこんしゅせん大那末金長志だいなまこんちょうしを遣わして、調を奉った。

十二月十三日、諸王五位の伊勢王いせのおおきみ、大錦下羽田公八国はたのきみやくに、小錦下多臣品治おおのおみほんじ、小錦下中臣連大嶋なかとみのむらじおおしまと判官(三等官)、録史ふびと(四等官)、工匠たくみなどを遣わし、全国を巡行し諸国の境界を区分させたが、この年、区分はできあがらなかった。

十七日、みことのりして、
「すべての文武官および畿内の有位者たちは、四季の始めの月(一、四、七、十の月)に、必ず参朝し天皇に拝礼せよ。もし重病のため参集できない時は、所属の官司が詳しく理由を記して法官に申し送れ」
と言われた。
また詔して、
都城みやこ宮室おおみやは一ヶ所だけということなく、必ず二、三ヶ所あるべきである。それゆえ、まず難波なにわに都を造ろうと思う。百寮もものつかさの者はそれぞれ難波に行き、家地いえどころを賜わるように願え」
と言われた。

十三年春一月十七日、三野県主みののあがたぬし内蔵衣縫造くらのきぬぬいのみやつこの二氏に姓を賜わってむらじといった。

二十三日、天皇は東庭にお出ましになり、群卿まえつきみもこれに侍した。
そしてよく弓を射る者、および侏儒しゅじゅ、左右の舍人とねりたちを召して、射を行なわせられた。

二月二十四日、金主山こんしゅせんに筑紫で饗を賜わった。

二十八日、浄広肆広瀬王じょうこうしひろせのおおきみ、小錦中の大伴連安麻呂おおとものむらじやすまろおよび判官、録事、陰陽師、工匠らを畿内に遣わして、都を造るのに適当な所を視察し占わせた。
この日、三野王みののおおきみ、小錦下の采女臣筑羅うねめのおみつくららを信濃に遣わして、地形を視察させられた。
この地に都を造ろうとされるのであろうか。

三月八日、吉野の人である宇閉直弓うへのあたいゆみ白椿しろつばきを奉った。

九日、天皇は京内を巡行されて、宮室に適当な場所を定められた。

二十三日、金主山こんしゅせんが帰途についた。

夏四月五日、徒罪以下(徒、杖、答の刑)のものはみな赦免された。

十三日、広瀬の大忌神おおいみのかみ竜田たつたの風神を祭った。

二十日、小錦下の高向臣麻呂たかむこのおみまろを大使とし、小山下の都努臣牛甘つぬのおみうしかいを小使として新羅に遣わした。

うるう四月五日、みことのりして、
「来年九月、必ず検閲を行なうから、百寮の宮中での進止、威儀を教習しておくように」
と言われた。
また詔して、
「そもそも政治の要は軍事である。それゆえ、文武官の人々は、努めて武器を使い、乗馬を習え。馬、武器、それに本人が着用する物は、仔細に調べ揃えておけ。馬のある者を騎士とし、馬のない者は歩兵とし、それぞれ訓練を積んで、集合の際に差し支えのないようにせよ。もし詔の趣旨に違反し、馬、武器に不都合なところがあり、装備に欠けるよなところがあれば、親王以下諸臣に至るまで、皆、処罰する。大山位以下の者は処罰すべきは処罰し、杖の刑の者は実際に杖で打つ。訓練に努め技術を習得した者は、もし死罪にあたる罪を犯しても、罪二等を減ずる。ただし、自分の才能をたのみ、それによって故意に罪を犯した者は、赦すことはない」
と言われた。
また詔して、
「男女とも衣服は、すそつきがあってもなくても、また紐を短く結んでも長く垂らしても、自由である。ただし、朝廷に参集する日は、欄のある衣を着用して、長い紐を垂らせ。男子は圭冠はしはこうぶり烏帽子えぼしのこと)があればそれをかぶり、括緒襌くくりおのはかますそに緒をつけ、くるぶしの上でくくる方式の袴)を着けよ。女の四十歳以上の者は、髪は結い上げても結い上げなくても、馬の乗り方が縦でも横でも任意とする。このほか、巫女やはふり神官)などは、髪を結い上げなくてもよい」
と言われた。

十一日、三野王みののおおきみらが信濃国しなののくにの図面を奉った。

十六日、宮中で斎会さいえを設け、罪を犯した舍人とねりたちを赦免した。

二十四日、飛鳥寺の僧福楊ふくようが罪を犯して、獄に入れられた。

二十九日、福楊ふくようは自ら首を刺して死んだ。

五月十四日、帰化を望んできた百済くだらの僧尼および俗人の男女合わせて二十三人は、皆、武蔵国むさしのくにに住まわせた。

二十八日、三輪引田君難波麻みわのひけたのきみなにわまろ呂を大使とし、桑原連人足くわはらのむらじひとたりを小使として高麗こまに遣わした。

六月四日、雨乞いを行なった。

七月四日、広瀬ひろせにお出ましになった。

九日、広瀬、竜田の神を祭った。

二十三日、彗星ほうきぼしが西北の空に現れた。
長さ一丈余であった。

八色の姓と新位階制

冬十月一日、みことのりして、
「諸氏の族姓を改めて、八種の姓をつくり、天下のすべての姓を一本化する。第一に真人まひと。第二に朝臣あそん。第三に宿禰すくね。第四に忌寸いみき。第五に道師みちのし。第六におみ。第七にむらじ。第八に稲置いなきである」
と言われた。

この日、守山公もりやまのきみ路公みちのきみ高橋公たかはしのきみ三国公みくにのきみ当麻公たぎまのきみ茨城公うまらきのきみ丹比公たじひのきみ猪名公いなのきみ坂田公さかたのきみ羽田公はたのきみ息長公おきながのきみ酒人公さかひとのきみ山道公やまじのきみの十三氏に、姓を賜わって真人まひとといった。

三日、伊勢王いせのおおきみらを遣わして、諸国の境界を定めさせた。
この日、県犬養連手糨あがたいぬかいのむらじたすきを大使とし、川原連加尼かわはらのむらじかねを小使として耽羅たんらに遣わした。

十四日、入定いのとき夜10時頃)に大地震があった。
国中の男も女も叫び合い逃げまどった。
山は崩れ河は溢れた。
諸国の郡の官舍や百姓おおみたからの家屋、倉庫、社寺の破壊されたものは数知れず、人畜の被害は多大であった。
伊予いよ道後温泉どうごおんせんも、埋もれて湯が出なくなった。
土佐国とさのくにでは田畑五十余万ころ約一千町歩)が埋まって海となった。

古老おきなは、
「このような地震は、かつて無かったことだ」
と言った。
この夕方、鼓の鳴るような音が、東方で聞こえた。
伊豆島いずのしま伊豆大島)の西と北の二面がひとりでに三百丈あまり広がり、もう一つの島になった。鼓の音のように聞こえたのは、神がこの島をお造りになる響きだったのだ」
という人があった。

十六日、多くの王卿に禄物を賜わった。

十一月一日、大三輪君おおみわのきみ大春日臣おおかすがのおみ阿倍臣あべのおみ巨勢臣こせのおみ膳臣かしわでのおみ紀臣きのおみ波多臣はたのおみ物部連もののべのおみ平群臣へぐりのおみ雀部臣ささきべのおみ中臣連なかとみのおみ大宅臣おおやけのおみ粟田臣あわたのおみ石川臣いしかわのおみ桜井臣さくらいのおみ采女臣うねめのおみ田中臣たなかのおみ小墾田臣おはりだのおみ穂積臣ほづみのおみ山背臣やましろのおみ鴨君かものきみ小野臣おののおみ川辺臣かわべのおみ檪井臣いちいのおみ柿本臣かきもとのおみ軽部臣かるべのおみ若桜部臣わかさくらべのおみ岸田臣きしだのおみ高向臣たかむこのおみ宍人臣ししひとのおみ来目臣くめのおみ犬上君いぬかみのおみ上毛野君かみつけののきみ角臣つののおみ星川臣ほしかわのおみ多臣おおのおみ胸方君むなかたのきみ車持君くるまもちのおみ綾君あやのきみ下道臣しもつみちのおみ伊賀臣いがのおみ阿閉臣あへのおみ林臣はやしのおみ波弥臣はみのおみ下毛野君しもつけののきみ佐味臣さみのおみ道守臣ちもりのおみ大野君おおののきみ坂本臣さかもとのおみ池田君いけだのきみ玉手臣たまてのおみ笠臣かさのおみの五十二氏に、姓を賜わって朝臣あそんと言った。

三日、土佐国司とさのくにのつかさが、
「高波が押し寄せ、海水が湧き返り、調税を運ぶ舟がたくさん流失しました」
と報告した。

二十一日、昏時いぬのとき午後8時頃)七つの星が、一緒に東北の方向に流れ落ちた。

二十三日、日没時とりのとき午後6時頃)に星が東の方角に落ちた。
大きさはほとき(湯や水を入れるロが小さくて胴の太い瓦器)くらいであった。
いぬのとき夜8時頃)になると、大空がすっかり乱れて、雨のよに隕石いんせきが落ちてきた。

この月、天の中央にぽんやりと光る星があり、昴星すばると並んで動いていた。
月末に至ってなくなった。

この年、みことのりして、
伊賀いが伊勢いせ美濃みの尾張おわりの四ヶ国は、今後、調のある年にはえだち(労役)を免除し、役のある年には調を免除せよ」
と言われた(壬申の年の労に報いる措置か)。

やまと葛城下郡かずらきのしものこおりが、
「四本足の鶏が見つかりました」
と報告した。
丹波国水上郡たんばのくにひかみのこおりが、
「十二の角のある子牛が生まれました」
と報告した。

十二月二日、大伴連おおとものむらじ佐伯連さえきのむらじ阿曇連あずみのむらじ忌部連いんべのむらじ尾張連おわりのむらじ倉連くらのむらじ中臣酒人連なかとのみのさかひとのむらじ土師連はじのむらじ掃部連かにもりのむらじ境部連さかいべのむらじ桜井田部連さくらいのたべのむらじ伊福部連いおきべのむらじ巫部連かんなきべのむらじ忍壁連おさかべのむらじ草壁連くさかべのむらじ三宅連みやけのむらじ児部連こべのむらじ手糨丹比連たすきのたじひのむらじ靱丹比連ゆきのたじひのむらじ漆部連うるしべのむらじ大湯人連おおゆえのむらじ若湯人連わかゆえのむらじ弓削連ゆげのむらじ神服部連かみはとりのむらじ額田部連ぬかたべのむらじ津守連つもりのむらじ県犬養連あがたのいぬかいのむらじ稚犬養連わかいぬかいのむらじ玉祖連たまのやのむらじ新田部連にいたべのむらじ倭文連しつおりのむらじ氷連ひのむらじ凡海連おおしあまのむらじ山部連やまべのむらじ矢集連やつめのむらじ狭井連さいのむらじ爪工連はたくみのむらじ阿刀連あとのむらじ茨田連まんたのむらじ田目連ためのむらじ少子部連ちいさこべのむらじ菟道連うじのむらじ小治田連おはりだのむらじ猪使連いつかいのむらじ海犬養連あまのいぬかいのむらじ間人連はひとのむらじ舂米連つきよねのむらじ美濃矢集連みののやつめのむらじ諸会臣もろかいのおみ布留連ふるのむらじの五十氏に、姓を賜わって宿禰すくねといった。

六日、唐に派遣される留学生の土師宿禰甥はじのすくねおい白猪史宝然しらいのふびとほねおよび、百済の戦役の時、唐に捕らえられた猪使連子首いつかいのむらじこびと筑紫三宅連得許つくしのみやけのむらじとくこが、新羅を経由して帰国した。
新羅は大奈末金物儒だいなまこんもつぬを遣わして、おいらを筑紫に送ってきた。

十三日、死刑以外の罪人は全部赦免された。

十四年春一月二日、百寮もものつかさは賀正の礼を行なった。

二十一日、さらに爵位の名を改め階級を増加した。
明位は二階、浄位は四階、各階に大と広があり、合わせて十二階、これは諸王以上の位である。
正位は四階、直位は四階、勤位は四階、務位は四階、追位は四階、進位は四階、階ごとに大と広とあり、合わせて四十八階。これは諸臣の位である。
この日、草壁皇子尊くさかべのみこのみことに(尊は皇太子もしくはそれに準じる皇子への尊称浄広じょうこう一位を授けられた。
大津皇子おおつのみこ浄大じょうだい二位を授けられた。
高市皇子たけちのみこ浄広じょうこう二位を授けられた。
川嶋皇子かわしまのみこ忍壁皇子おさかべのみこ浄大じょうだい三位を授けられた。
これ以下の諸王、諸臣らに、それぞれ爵位を加増された。

二月四日、大唐の人、百済の人、高麗の人合わせて百四十七人に爵位を賜わった。

三月十四日、金物儒こんもつぬ筑紫ちくしあえを賜わり、筑紫から帰途についた。
漂着した新羅の人七人を物儒につけて帰国させた。

十六日、京職大夫直大参許勢朝臣辛檀努みさとのつかさのかみじきだいさんこせのあそんしたのしゅっした。

二十七日、詔して、
「国々で、家ごとに仏舎をつくり、仏像と経典を置いて、礼拝供養せよ」
と言われた。

この月、信濃国しなののくにに灰が降って草木が皆枯れた。

夏四月四日、紀伊国司きいのくにのつかさが、
牟婁温泉むろのゆ(和歌山県西牟婁郡の湯崎温泉)が埋もれて湯が出なくなりました」
と報告した。

十二日、広瀬ひろせ竜田たつたの神を祭った。
十七日、新羅の人、金主山こんしゅせんが帰途についた。

十五日、この日から僧尼を招いて宮中で安居あんごを行なった。

五月五日、南門で射礼じゃらいを行なった。
天皇は飛鳥寺にお出ましになり、珍宝を仏に捧げて礼拝された。

十九日、直大肆粟田朝臣真人じきだいしあわたのあそうまひとは、位を父に譲ることを請うたが、天皇はちょくしてこれを許されなかった。
この日、直大参当麻真人広麻呂じきだいさんたぎまのまひとひろまろしゅっした。
壬申じんしんの年の功により、直大壱じきだいいちの位を贈られた。

二十六日、高向朝臣麻呂たかむこのあそんまろ都努朝臣牛飼つぬのあそんうしかいらが新羅しらぎから帰った。
学問僧の観常かんじょう霊観りょうかんがこれに従って帰国した。
新羅王から奉ってきたのは、馬二匹、犬三頭、鸚鵡おうむ二羽、かささぎ二羽と種々の物であった。

六月二十日、大倭連おおやまとのむらじ葛城連かずらきのむらじ凡川内連おおしこうちのむらじ山背連やましろのむらじ難波連なにわのむらじ紀酒人連きのさかひとのむらじ倭漢連やまとのあやのむらじ河内漢連かわちのあやむらじ秦連はたのむらじ大隅直おおすみのあたい書連ふみのむらじ、合わせて十一氏に姓を賜わって忌寸いみきといった。

秋七月二十一日、広瀬ひろせ竜田たつたの神を祭った。

二十六日、みことのりして明位以下進位以上の者の朝服の色を定めた。
浄位じょうい以上はみな朱花はねず朱色)、正位しょういは深紫、直位じきいは浅紫、勤位ごんいは深緑、務位むいは浅緑、追位ついい深蒲萄ふかえびそめ紺色)、進位しんいは浅蒲萄。

二十七日、詔して、
「東山道は美濃以東、東海道は伊勢以東の諸国の有位の人たちには、課役を免除する」
と言われた。

八月十二日、天皇は浄土寺じょうどじ山田寺)にお出ましになった。

十三日、川原寺かわらでらへお出ましになった。
僧たちに稲をお贈りになった。

二十日、耽羅たんらに遣わされた使者が帰国した。

九月九日、天皇は旧宮の安殿の広庭で宴を催された(重陽ちょうよううたげ)。
この日、皇太子以下忍壁皇子おさかべのみこに至るまで、それぞれに布を賜わった。

十一日、宮処王みやところのおおきみ広瀬王ひろせのおおきみ難波王なにわのおおきみ竹田王たけだのおおきみ弥努王みぬのおおきみみやこおよび畿内うちつくにに遣わし、人々の用意した武器を校閲した。

十五日、直広肆都努朝臣牛飼じきこうしつぬのあそんうしかいを東海の使者に、直広肆石川朝臣虫名じきこうしいしかわのあそんむしなを東山の使者に、直広肆佐味朝臣少麻呂じきこうしさみのあそんすくなまろを山陽の使者に、直広肆巨勢朝臣粟持じきこうしこせのあそんあわもちを山陰の使者に、直広参路真人迹見をじきこうさんみちのまひととみ南海の使者に、直広肆佐伯宿禰広足じきこうしさえきのすくねひろたりを筑紫の使者とし、それぞれに判官一人、ふびと一人をつけて、国司くにのつかさ郡司こおりつかさおよび百姓おおみたからの消息を巡察させられた。
この日、みことのりして、
「およそすベての歌男うたお歌女うため、笛を吹く者は、自分の技術を子孫に伝え、歌や笛に習熟させよ」
と言われた。

天皇の発病と崩御

十八日、天皇は大安殿おおあんどの内裏の正殿)にお出ましになり、王卿らを前に召して博戯はくぎ(双六などのかけごと)をされた。
この日、宫処王みやところのおおきみ難波王なにわのおおきみ竹田王たけだのおおきみ三国真人友足みくにのまひとともたり県犬養宿禰大侶あがたのいぬかいのすくねおおとも大伴宿禰御行おおとものすくねみゆき境部宿禰石積さかいべのすくねいわつみ多朝臣品治おおのあそんほんじ采女朝臣竹羅うねめのあそんつくら藤原朝臣大嶋ふじわらのあそんおおしまの合わせて十人に、ご自身の衣と袴を賜わった。

十九日、皇太子以下諸王卿合わせて四十八人に、熊の皮、山羊かもしかの皮を賜わった。

二十日、高麗国こまこくに遣わした使者らが帰国した。

二十四日、天皇が病気になられたので、三日間、大官大寺だいかんだいじ川原寺かわらでら飛鳥寺あすかでら誦経ずきょうさせ、三寺に稲をお納めになった。

二十七日、帰化してきた高麗人こまびとたちに禄物を賜わった。

冬十月四日、百済くだらの僧の常輝じょうき食封へひと三十戸を賜わった。
この僧は百歳であった。

八日、百済くだらの僧の法蔵ほうぞう優婆塞うばく俗人の男性で、仏教を信じ五戒を守る者)である益田直金鐘ますだのあたいこんじょうを、美濃に遣わして白朮おけら胃の薬)を求め、煎じ薬を作らせた。
これを労ってふとぎぬ、綿、布を賜わった。

十日、軽部朝臣足瀬かるべのあそんたるせ高田首新家たかたのおびとにいのみ荒田尾連麻呂あらたのおのむらじまろを信濃に遣わし、行宮かりみやつくりを命じられた。
おそらく束間温湯つかのまのゆ浅間温泉)にお出でになろうとしたのであろうか。

十二日、浄大肆じょうだいし泊瀬王はつせのおおきみ直広肆じょうこうし巨勢朝臣馬飼こせのあそんうまかいおよび判官以下合わせて二十人に、畿内うちつくにの役を任ぜられた。

十七日、伊勢王いせのおおきみらはまた東国に向かうので、衣、袴を賜わった。
この月、金剛般若経を宮中で説かせられた。

十一月二日、官用の鉄一万斤を、周防総令すおうすぶるおさのもとに送った。
この日、筑紫大宰ちくしのおおみこともちが、官用のふとぎぬ百匹、糸百斤、布三百端、庸布ちからぬの四百常、鉄一万斤、箭竹やのしの二千本を申請してきたので、それらを筑紫に発送した。

四日、全国にみことのりして、
大角ほら小角くだいずれも吹奏楽器)、鼓、吹、幡旗はたおおゆみいしはじきの類は個人の家においてはならない。すべて郡家こおりのみやけに収めよ」
と言われた。

六日、白錦後菀しらにしきのみそのにお出ましになった。

二十四日、法蔵法師ほうぞうほうし金鐘こんじょうは、白朮おけらの煎じたものを奉った。
この日、天皇のために招魂みたまふり鎮魂祭。魂が遊離していかないように、身体の中に鎮め長寿を祈る)をした。

二十七日、新羅しらぎ波珍サン金智祥はちんさんこんちじょう大阿サン金健勲たいあさんこんごんくんを遣わして、国政を奏上し、調を奉った。

十二月四日、筑紫ちくしに遣わした防人さきもりらが、海上で難破漂流し、皆、衣服をなくした。
防人さきもりの衣服にあてるため、布四百五十八端を筑紫ちくしに発送した。

十日、西の方から地震が起こった。

十六日、ふとぎぬ、綿、布を大官大寺だいかんだいじの僧たちにお贈りになった。

十九日、皇后の命で、王卿ら五十五人に、朝服みかどころも各一揃いを賜わった。

朱鳥あかみとり元年一月二日、大極殿にお出ましになり、宴を諸王たちに賜わった。
この日、詔して、
「私が王卿に無端事あとなしことなぞなぞ)を尋ねよう。答えて当たっていたら必ず賜物をしよう」
と言われた。

高市皇子たけちのみこは問われて正しく答え、蓁措はたすりの御衣(ハンの木の実で摺って染めた衣)を三揃い、錦のはかま二揃いとふとぎぬ二十匹、糸五十斤、綿百斤、布百端を賜わった。
伊勢王いせのおおきみも答が当たり、くりそめ(黒色)の御衣三揃い、紫の袴二揃い、ふとぎぬ七匹、糸二十斤、綿四十斤、布四十端を賜わった。
この日、摂津国せっつのくにの人である百済新興くだらのにいき白瑪瑙しろめのうを奉った。

九日、三綱さんごう(僧綱)の律師りつしおよび大官大寺だいかんだいじの知事、佐官、合わせて九人の僧を招いて、俗人の食物で供養し、ふとぎぬ、綿、布を贈られた。

十日、王卿たちにそれぞれ袍袴きぬはかま一揃いを賜わった。

十三日、種々の才芸ある人、博士はかせ陰陽師おんみょうじ医師くすし、合わせて二十余人を召して、食事と禄物を賜わった。

十四日、とり午後6時頃)の時、難波なにわ大蔵省おおくらのつかさから失火して、宮室みやむろがことごとく焼けた。
阿斗連薬あとのむらじくすりの家の失火が延焼して宮室に及んだのだ」
と言う人もあった。
ただし、兵庫職(兵器庫)だけは焼けなかった。

十六日、天皇は大安殿おおあんどのにお出ましになり、王卿らを召してうたげを催され、ふとぎぬ、綿、布を賜わった。
この日、天皇は群臣に無端事を問われ、答が当たっているとふとぎぬ、綿を賜わった。

十七日、後宮で宴を催された。

十八日、朝廷で盛大な酒宴を催された。
この日、御窟殿みむろのとのの前にお出ましになり、倡優わざひとたちにそれぞれ禄物を賜わった。
歌人たちにも袍袴きぬはかまを賜わった。

十九日、地震があった。

この月に、新羅しらぎ金智祥こんちじょうに饗を賜わるために、浄広肆川内王かわちのおおきみ、直広参大伴宿禰安麻呂おおとものすくねやすまろ、直大肆藤原朝臣大嶋ふじわらのあそんおおしま、直広肆境部宿禰鯯魚さかいべのすくねこのしろ、直広肆穂積朝臣虫麻呂ほずみのあそんむしまろらを筑紫に遣わした。

二月四日、大安殿おおあんどのにお出ましになり、侍臣六人に勤位を授けられた。

五日、みことのりして諸国の国司くにのつかさの中から、功績のある者九人を選んで、勤位を授けられた。

三月六日、大弁官おおともいのつかさ直大参羽田真人八国はたのまひとやくにが病気になったので、僧三人を得度とくどさせた。

十日、雪が降った。

二十五日、羽田真人八国はたのまひとやくにしゅっした。
壬申じんしんの年の功により、直大壱じきだいいちの位を贈られた。

夏四月八日、侍医桑原村主訶都くわはらのすぐりかつ直広肆じきこうしを授けられた。
姓を賜わってむらじといった。

十三日、新羅しらぎの客らに饗を賜わるため、川原寺かわらでら伎楽くれがく(舞人、楽人、楽器、衣裳など)を筑紫に運んだ。
このことにより、皇后宮の私稲五千束を川原寺に納めた。

十九日、新羅が奉った調が、筑紫から届いた。
良馬一匹、ラバ)一頭、犬二匹、彫刻を施した金の器および金、銀、霞錦かすみにしき綾羅あやうすはた、虎と豹の皮および薬物の類、合わせて百余種。
また智祥ちじょう健勲ごんくんらが別に奉ったものは、金、銀、霞錦かすみにしき綾羅あやうすはた、金器、屏風びょうぶ、鞍皮、絹布、薬物の類、各六十余種。
別に皇后、皇太子および諸の親王たちに奉る物もそれぞれ数多くあった。

二十七日、多紀皇女たきのひめみこ山背姫王やましろのおおきみ石川夫人いしかわのおおとじを伊勢神宮へ遣わされた。

五月九日、多紀皇女たきのひめみこらは伊勢より帰られた。
この日、侍医の百済人くだらびとである億仁おくにが、病気で死にそうになったので、勤大壱ごんだいいちの位を授け、百戸の食封へひとを賜わった。

十四日、みことのりして大官大寺だいかんだいじ食封へひと七百戸を賜わり、税(出挙稲のこと。諸国の正税を農民に出挙し、利稲を寺の収益とする)三十万つかを寺に納められた。

十七日、宮人みやひと宮廷の女官)らに爵位を加増された。

二十四日、天皇の病が重くなられたので、川原寺かわらでら薬師経やくしきょうを説かせ、宮中で安居あんごさせた。

二十九日、金智祥こんちじょうらは筑紫ちくしで饗を受け、禄物を賜わり、筑紫から退去した。

この月、みことのりして左右の大舎人おおとねりらを遣わし、諸寺の堂塔を掃き清めさせた。
また全国に大赦たいしゃをし、獄舎はすっかり空になった。

六月一日、槻本村主勝麻呂つきもとのすぐりかちまろに姓を賜わりむらじといった。
勤大壱ごんだいいちの位を加え、二十戸の食封へひとを賜わった。

二日、工匠たくみ陰陽師おんみょうじ、侍医、大唐もろこしの学生および一、二人の官人合わせて三十四人に爵位を授けられた。

七日、諸司の人たちの功績のある者二十八人を選んで、爵位を加増された。

十日、天皇の病を占うと、草薙剣くさなぎのつるぎたたりがあると出た。
即日、尾張国熱田社おわりのくにあつたのやしろに送って安置させた。

十二日、雨乞いをした。

十六日、伊勢王いせのおおきみおよび官人らを飛鳥寺あすかでらに遣わして、衆僧もろもろのほうしみことのりして、
「この頃、我が体が臭くなった。願わくば仏の威光で身体が安らかになりたい。それゆえ、僧正そうじょう僧都そうずおよび衆僧もろもろのほうしたちよ、仏に誓願してほしい」
と言われ、珍宝を仏に奉られた。
この日、三綱さんごう律師りつしや四寺の和上わじょう衆僧の師たる者)、知事、それに現に師位を有する僧たちに、御衣御被おおみそおおみふすま各一揃いを賜わった。

十九日、みことのりして、百官ひゃっかんの人たちを川原寺かわらでらに遣わし、燃灯供養ねんとうくよう沢山の火を灯して仏を供養する)を行ない、盛大な斎会さいえによりとがの消滅を願った。

二十八日、僧の法忍ほうにん、僧の義照ぎしょうに老後のために、食封へひと各三十戸をそれぞれに賜わった。

二十二日、名張なばり厨司くりやのつかさ天皇の食膳に供する鳥、魚、貝などをとるためにおかれた施設)に火災が起きた。

秋七月二日、みことのりして、
「今後はもと通り、男は脛裳はばきも袴の一種)を着け、女は髪を背に垂らしてもよい」
と言われた(十一年四月の令の解除)。
この日、僧正そうじょう僧都そうずたちは宮中に参上し、悔過けかとがの消滅を願う)を行なった。

三日、諸国にみことのりして、大赦おおはらえを行なった。

四日、全国の調を半減し、徭役ようえき(労役)を全免した。

五日、幣帛みてぐら紀伊国きいのくに国懸神くにかかすかみ、飛鳥の四社(飛鳥神社)、住吉大社に奉られた。

八日、百人の僧を招いて、金光明経こんこうみょうぎょうを宮中で読誦どくじゅさせた。

十日、雷が南方の空に光って、一度大雷雨があり、民部省の庸を収めた舎屋(仕丁、采女のための庸布、庸米を納めてあった倉)に火災が起きた。
忍壁皇子おさかべのみこの宮の失火が延焼し、民部省かきべのつかさを焼いた」
という者もあった。

十五日、みことのりして、
「天下のことは大小となく、ことごとく皇后および皇太子に申せ」
といわれた。
この日、大赦おおはらえをした。

十六日、広瀬と竜田の神を祭った。

十九日、詔して、
「諸国の百姓おおみたからで、貧しいために、稲と資材を貸し与えられた者は、十四年十二月三十日以前の分は、公私を問わずすべて返済を免除せよ」
と言われた。

二十日、改元して朱鳥あかみどり元年とした。
宮を名づけて飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやといった。

二十八日、仏道を修行する者の中から、七十人を選んで得度とくどさせ、宮中の御窟院みむろのまち斎会さいえを設けた。
この月、諸王と諸臣は協力して天皇のために観世音像かんぜおんぞうを造り、観世音経かんぜおんきょう大官大寺だいかんだいじ講説こうせつさせた。

八月一日、天皇のために八十人の僧を得度させた。

二日、僧尼合わせて百人を得度させた。
百の菩薩像ぼさつぞうを宮中に安置し、観世音経かんぜおんきょう二百巻を読ませた。

九日、天皇の病気平癒へいゆを神々に析った。

十三日、秦忌寸石勝はたのいみきいわかつを遣わして、幣帛みてぐら土左大神とさのおおかみに奉った。
この日、皇太子(草壁皇子くさかべのみこ)、大津皇子おおつのみこ高市皇子たけちのみこに、それぞれ食封へひと四百戸を、川嶋皇子かわしまのみこ忍壁皇子おさかべのみこにそれぞれ百戸を加えられた。

十五日、芝基皇子しきのみこ磯城皇子しきのみこにそれぞれ二百戸を加えられた。

二十一日、桧隈寺ひのくまでら軽寺かるでら大窪寺おおくぼでらいずれも飛鳥付近にあった寺院)に食封へひとそれぞれ百戸を、三十年を限り賜わった。

二十三日、巨勢寺こせでらに二百戸を賜わった。

九月四日、親王以下諸臣に至るまで、川原寺かわらでらに集い、天皇の御病平癒へいゆのために云々と誓願した。

九日、天皇の病ついに癒えず、正宮で崩御された。

十一日、初めて発哀みね人の死にあたり、声を出して哀惜を表す礼)が行なわれ、殯宮もがりのみやを南庭に建てた。

二十四日、南庭でもがりをし、発哀みねした。
このとき、大津皇子おおつのみこが皇太子に謀反むほんを企てた。

二十七日、平旦とらのとき午前4時頃)多勢の僧尼が、殯宮もがりのみや発哀みねをして退出した。
この日、初めてみけ死者への供えもの)を奉って、しのびごとを述べた。
第一に大海宿禰蒭蒲おおしあまのすくねあらかま壬生みぶのこと(天皇をお育てした幼時のこと)をしのびごとし、奉った。
次に浄大肆の伊勢王いせのおおきみが諸王のことを誄した。
次に直大参の県犬養宿禰大伴あがたのいぬかいのすくねおおともが、宮内省関係のことを誄した。
次に浄広肆の河内王かわちのおおきみが左右の大舎人おおとねりのことを誄した。
次に直大参の当麻真人国見たぎまのまひとくにみが、左右の兵衛とねりのことを誄した。
次に直大肆の采女朝臣竺羅うねめのあそんつくら内命婦ひめまえつぎみ五位以上を帯する婦人)のことを誄した。
次に直広肆の紀朝臣真人きのあそんまひと膳職かしわでのつかさのことを誄した。

二十八日、憎尼たちがまた殯宮もがりのみや発哀みねした。
この日、直大参の布勢朝臣御主人ふせのあそんみぬしが大政官のことをしのびごとした。
次に直広参の石上朝臣麻呂いそのかみのあそんまろが法官のことを誄した。
次に直大肆の大三輪朝臣高市麻呂おおみわのあそんたけちまろが理官のことを誄した。
次に直広参の大伴宿禰安麻呂おおとものすくねやすまろが大蔵のことを誄した。
次に直大肆の藤原朝臣大嶋ふじわらのあそんおおしまが兵政官のことを誄した。

二十九日、僧尼がまた発哀みねした。
この日、直広肆の阿倍久努朝臣麻呂あべのくののあそんまろが刑官のことをしのびごとした。
次に直広肆の紀朝臣弓張きのあそんゆみはりが民官のことを誄した。
次に直広肆の穂積朝臣虫麻呂ほづみのあそんむしまろが諸国の国司くにのつかさのことを誄した。
次に大隅おおすみ阿多あた隼人はやとおよびやまと河内かわち馬飼部造うまかいべのみやつこが、それぞれに誄した。

三十日、僧尼が発哀みねした。
この日、百済王くだらおう良虞りょうぐは、百済王善光ぜんこうに代ってしのびごとした。
次に国々のみやつこたちが参上するにしたがって、それぞれ誄をし、さまざまな歌舞を演奏した。

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