履中天皇
皇后と御子
仁徳天皇の御子の伊耶本和気王は、磐余の若桜宮で天下を治めた。
この履中天皇が、葛城の曾都比古の子の葦田宿禰の娘である黒比売命という方を娶って、お生みになった御子は、
市辺の忍歯王、
次に御馬王、
次に妹の青海郎女、またの名は飯豊郎女の三柱である。
墨江中王の反逆
当初、履中天皇が難波宮にお出でになった頃に、新嘗祭で酒宴を催したときに、天皇はそのお酒にいい気分で酔ってお眠りになった。
すると、その弟の墨江中王は、天皇を殺そうと思って火を天皇の御殿につけた。
そこで倭の漢の直の祖先の阿知の直が、天皇を密かに連れ出し、馬に乗せて大和に連れ出した。
すると、河内の丹比野に着いたとき、天皇はお目覚めになって、
「ここはどこか」
と尋ねた。
そこで阿知が申すには、
「墨江中が火を御殿におつけになりました。それで天皇をお連れして大和に逃げるのです」
そこで天皇が歌を詠んだ。
丹比野に寝ることがわかっていたら、
風よけに立てる薦でも用意して来るのだったのに。
丹比野に寝ることがわかっていたら。(七六)
河内の埴生坂に着いて、難波宮を遠く眺められると、御殿を焼く火はまだ赤々と燃えていた。
そこで天皇がまた歌を詠んだ。
埴生坂に立って眺めると、
陽炎の立ちのぼる家群が見える。
あそこが妻の家のあたりだ。(七七)
そして、大坂の山口においでになったときに、一人の女に会った。
その女が述べた。
「武器を持った人たちが、大勢がこの山を塞いでおります。だから当芸麻道を回って越えて行かれるほうがよいでしょう」
と申しあげた。
そこで天皇が歌を詠んだ。
大坂で出会った娘子に、
大和への道を尋ねると、
まっすぐ行く近道を告げず、
遠まわりの当芸麻道を教えてくれた。(七八)
こうして、大和に上って来られて、石上神宮に到着した。
水歯別命と曽婆訶理
石上神宫に入った履中天皇のもとに、同母弟の水歯別命が参上して、拝謁を申し入れた。
ところが天皇が言うには、
「私はあなたがもしや墨江中と同じ志ではあるまいかと疑っている。だから語り合うことはすまい」
そこで水歯別は答えて、
「私は反逆の心はもっておりません。また墨江中と心を同じくしているわけではありません」
と言った。
天皇は、
「それならば、今すぐ難波に帰り下って墨江中を殺して戻ってこい。その時に私は必ず語り合おう」
と言った。
そこで水歯別は、すぐ難波に引き返して、墨江中のそば近く仕える隼人で曾婆加里という者を騙して、
「もしおまえが私の言葉に従えば、私は天皇となり、おまえを大臣として天下を治めようと思うが、どうだ」
言った。
曾婆加里は、
「仰せのとおりに」
と答え。
それで水歯別は、多くの品物をその隼人に与えて、
「それならばおまえの主君を殺せ」
と言った。
そこで曾婆加里は自分の主君が厠に入ったのを密かに伺って矛で刺して殺した。
こうして水歯別は、曾婆加里を連れて大和に上って行かれたが、大坂の山の入口に着いて、
「曾婆加里は私のために大きな手柄を立てたけれども、現に自分の主君を殺してしまったのは、これは人の道に背くことだ。しかし、その手柄に報いないのは信義に反するということになろう。といって約束を完全に実行すれば、今度は逆に曾婆加里の心情が恐ろしい。だから、その手柄には報いても、当人は亡きものにしてしまおう」
と考えた。
こう考えて曾婆加里に、
「今日はここに泊って、まずおまえに大臣の位を授けて、明日大和へ上ろう」
と言った。
その山の入口に留まって、さっそく仮宮殿を造り、急に酒宴を催されて、その場でその隼人に大臣の位を授け、多くの官人に、隼人に対して大臣としての抨礼をさせた。
隼人は喜んで、
「自分の願いが叶った」
と思いこんだ。
そこで水歯別はその隼人に、
「今日は大臣と同じ杯の酒を飲もう」
と言って、一緒にお飲みになるとき、顔を隠すような大きな椀にその勧める酒を盛った。
そして王子がまず飲み、隼人はそのあと飲んだ。
さてその隼人が飲むときに大きな椀が顔を覆った。
そこで水歯別は敷物の下に置いてあった剣を取り出して隼人の首を斬り、翌日、大和に上られた。
それでその地を名づけて近つ飛鳥という。
水歯別は大和にお着きになって言うには、
「今日はここに泊って禊をして、明日参上して天皇のいらっしゃる石上神宮を拝礼しよう」
と言った。
それでその地を名づけて遠つ飛鳥という。
そして石上神宮に参上して天皇に、
「御命令はすっかり平定しおえて参上いたしました」
と奏上した。
そこで天皇は水歯別を中に呼び入れて、ともに話をした。
天皇は阿知を初めて蔵官に任命し、私有地をお与えになった。
この御代に若桜部臣等に若桜部の名を授け、比売陀君等に姓を授けて比売陀君といった。
また、伊波礼部を定めた。
天皇の年齢は六十四歳。
丑申の年の正月三日に崩御された。
御陵は河内の毛受にある。
反正天皇
履中天皇の弟、水歯別命は多治比の柴垣宫で天下を治めた。
この天皇は御身の丈が九尺二寸半、御歯の長さが一寸、広さが二分。
上下の歯並びが同じように揃っていて、珠を貫いたように見事であった。
天皇が丸邇氏の許碁登の臣の娘である都怒郎女を妻としてお生みになった御子は、
甲斐郎女、
次に都夫良郎女の二柱である。
また、同じ許碁登の娘である、弟比売を妻としてお生みになった御子は
財王、
次に多訶弁郎女、合わせて四柱である。
天皇の年齢は六十歳。
丁丑の年の七月に崩御された。
御陵は毛受野にある。
允恭天皇
皇后と御子
先帝の弟、男浅津間若子宿禰命は、遠つ飛鳥宮で天下を治めた。
この天皇が、意富本杼王の妹、忍坂之大中津比売命を妻としてお生みになった御子は、
木梨之軽王、
次に長田大郎女、
次に境之黒日子王、
次に穴穂命、
次に軽大郎女、またの名は衣通郎女(名前に衣通と名づけている理由は、その体の光が衣服を通って外に出るからである)、
次に八瓜之白日子王、
次に大長谷命、
次に橘大郎女、
次に酒見郎女の九柱である。
すべて天皇の御子たちは、九柱である。
皇子五人、皇女四人である。
この九王の中で、穴穂、次に大長谷が天下を治めた。
即位と政治
天皇が初め皇位を継承なさろうとしたとき、天皇は辞退して、
「私には長い病がある。皇位を継承することはできないだろう」
と言った。
しかし、皇后を初めとして多くの高官侍臣たちが、即位するように強く申し上げたので、天下を治めることになった。
このとき、新羅の国王が貢物を積んだ船八十一隻を献上した。
この貢物献上の大使は名を金波鎮漢紀武というが、この人は薬の処方についてよく知っていた。
そこで天皇の病気を治した。
天皇は天下のそれぞれ氏名をもつ人々の氏と姓の誤っていることに心を痛められて、甘樫の丘の言八十禍津日の埼に、盟神探湯の釜をすえて、国中の多くの部の長の氏姓を正しく定めた。
また、木梨之軽の御名代として軽部を定め、皇后の御名代として刑部を定め、また皇后の妹である田井中比売の御名代として河部を定めた。
天皇の年齢は七十八歳である。
甲午の年の正月十五日に崩御になった。
御陵は河内国恵賀の長枝にある。
軽太子と軽大郎女
天皇が崩御になった後、皇太子の木梨之軽は皇位を継ぐことに決まっていたが、まだ即位なさらない間に、その同母妹の軽大郎女に密通して歌った。
(あしひきの)山田を作り、
山が高いので水を引くために下樋を走らせる。
そのように、人目につかぬようにひそかに私が言い寄る妹に、
人目を忍んで私がひそかに慕い泣く妻に、
今夜こそは心安らかに肌に触れることよ。(七九)
これは志良宜歌である。
また詠んだ歌は、
笹の葉に打ちかかる霰の音のたしだしのように、
たしかに共寝をした後ならば、
あなたが離れて行っても構わない。
愛しいと思って寝さえしたなら。
(かりこもの)二人が離れ離れになっても構わない。
いっしよに寝さえしたなら。(八〇)
これは夷振という歌の上歌である。
この密通事件を知って、朝廷の官吏や国民たちは、軽の太子に背いて穴穂の御子に心を寄せた。
そこで軽は恐ろしく思って、大前小前宿禰の大臣の家に逃げこみ、武器を作って備えた。
その時に作った矢は、内部を銅にした。
それで、その矢を名づけて軽箭という。
穴穂も武器を作った。
この皇子の作った矢は、今日使われている矢である。
これを穴穂箭という。
さて穴穂は軍勢を興して大前小前宿禰の家を包囲した。
そしてその家の門前に到着した時、激しい氷雨が降ってきた。
そこで歌を詠んだ。
大前小前宿禰の家の金門の陰に、
このように寄って来い。
ここに立って雨のやむのを待とう。(八一)
すると当の大前小前宿禰が手を挙げ膝を打ち、舞を舞い、歌を歌いながらやって来た。
その歌は、
宮人の脚結の紐につけた小鈴が落ちてしまったと、
宮人が騒ぎ立てている。
里人も騒ぐことなく斎み慎めよ。(八二)
この歌は宮人振という歌である。
大前小前宿禰は、このように歌いながらやって来て申し上げた。
「天皇である我が皇子よ、同母兄に対して兵をお差し向けなさいますな。もし兵をお遣わしになればかならず世間は笑うでしょう。私が捕えてお引き渡しいたしましょう」
そこで穴穂は兵の囲みを解いて後方に退いた。
そして大前小前宿禰はその軽を捕え、伴って参上して差し出した。
その皇太子は捕えられて歌を詠んだ。
(あまだむ)軽の少女よ。
おまえがひどく泣けば、
人が私たちの仲を知ってしまうだろう。
だから、波佐の山の鳩のように、
おまえは忍び泣きに泣くよ。(八三)
また歌った。
(あまだむ)軽の少女よ。
しっかりと私に寄り添って寝ておいで。
軽の少女たちよ。(八四)
その軽は伊予の湯に流した。
軽は流されようとしたとき、歌を詠んだ。
空を飛ぶ鳥も使者なのだ。
鶴の声が聞こえたら、
私の名を言って、
私のことを尋ねておくれ。(八五)
この三つの歌は天田振という歌である。
軽はまた歌を詠んだ。
王である私を、
四国の島に追放したら、
私は(船余り)帰って来るぞ。
その間、私の畳はそのままにして汚さぬよう気をつけよ。
言葉でこそ畳というが、
実は、我が妻は決して汚れぬように慎めよ。(八六)
この歌は夷振という歌の片下しである。
その相手である衣通(軽大郎女)は軽に歌を献上した。
その歌は、
(夏草の)あいねの浜の牡蠣の貝殼に
足を踏み入れて怪我をなさいますな。
ここで夜を明かしてからお通りなさい。(八七)
そして、王の立たれた後に、衣通はなお恋い慕う思いに堪え切れず、軽の王を追って行くときに、歌を詠んだ。
あなたの旅は日数が長くなりました。
(山たづの)お迎えに参りましょう。
もうお待ちすることはいたしますまい。
(ここで山たづというのは今の造木のことである)(八八)
そこで衣通が、軽に追いついたとき、太子は待ち迎えて懐かしく思って歌を詠んだ。
(こもりくの)泊瀬の山の大きな峰には幡を張り立て、
小さな峰にも幡を張り立て、
(おほをよし)仲も定まった私の愛しい妻よ、ああ。
(槻弓の)臥しているときも、
(梓弓の)立っているときも、
これから後も世話をしたい愛しい妻よ、ああ。(八九)
という歌である。
またさらに歌を詠んだ。
(こもりくの)泊瀬の川の、
上流の瀬には神聖な杭を打ち、
下流の瀬には立派な杭を立て、
神聖な杭には鏡を懸け、
立派な杭には玉を懸け、
その立派な玉のように大切に思う妻、
その鏡のように私が大切に思う妻。
その妻がいるというのならば、
家に訪ねても行こうし、
故郷を懐かしく思いもしようけれど。(九〇)
と歌った。
このように歌って、そのまま軽は衣通と共に自ら死んだ。
そして、この二つの歌は読歌という歌である。
安康天皇
大日下王と根臣
允恭天皇の御子の穴穂命は石上の穴穂宮で天下を治めた。
天皇は、同腹の弟である大長谷王子のために、坂本臣等の祖先である根臣を大日下王のもとに遣わし、
「あなた様の妹の若日下王を、大長谷と結婚させたいと思うから、妹を差し出しなさい」
と伝言させた。
すると大日下は四度も拝むという丁重な礼をして申し上げた。
「もしやこのような勅命もあるのではないかと存じました。それで妹を外に出さずに置きました。まことに畏れ多いことです。勅命に従って、妹を差し上げましょう」
けれども、言葉だけで返事することは無礼であると思って、すぐその妹の奉り物として、押木の玉縵を根臣に持たせて献上した。
ところが根臣は、そのままその奉り物の玉縵を盗み取って、大日下のことは謝言して、
「大日下は勅命を受けずに『私の妹は同族の者の下敷きになどなるものか』といって、太刀の柄を握ってお怒りになりました」
と申し上げた。
そこで天皇は非常に恨み、大日下を殺して、その正妻である長田大郎女を奪って来て皇后にした。
目弱王
この事があってから後に、安康天皇は神託を受けるための神床にいらっしゃって昼寝した。
そのとき、天皇が皇后である長田大郎女に対して、
「おまえは何か心配ごとがあるか」
と言ったところ、皇后はお答えた。
「天皇の厚いご寵愛をいただいて、なんの心配ごとがございましょう」
と述べた。
さて、その皇后の先夫との間に生まれた目弱王は当時七歳であった。
この王が、天皇のいらっしゃる御殿の下で遊んでいた。
一方、天皇はその幼い王が御殿の下で遊んでいることをご存じなくて、皇后に、
「私はいつも心配していることがある。それはなにかというと、おまえの子の目弱が成人したときに、私がその父である大日下を殺したことを知ったら、心が変って、反逆の心を起すのではなかろうかということだ」
と言った。
さて、その御殿の下で遊んでいた目弱はこの言葉をすべて聞いて、すぐに天皇の眠っている隙をうかがい、その傍らにあった太刀を取って天皇の首を打ち、都夫良意富美の家に逃げ込んだ。
天皇の年齢は五十六歳。
御陵は菅原の伏見の岡にある。
ところで大長谷は、その時まだ少年だったが、この変事をお聞きになって憤り、怨み怒って、すぐにその兄の黒日子王の所に行って、
「人が天皇を殺しました。どうしましょう」
と言った。
ところがその黒日子は驚きもせず、いい加減に思っていた。
そこで大長谷は兄を罵って、
「殺された方は一方では天皇でいらっしゃり、また一方では兄弟でいらっしゃるのに、どうして頼もし気もなく、人が自分の兄を殺したということを聞いても驚かず、いい加減な態度でいるのか」
と言って、ただちに黒日子の襟首を掴んで引きずり出し、刀を抜いて打ち殺された。
大長谷はまたもう一人の兄の白日子王の所に行って、事情を告げること前と同じようであったが、いい加減な態度であることもまた黒日子と同じであった。
そこで即座にその襟首を掴んで引いて、小治田まで連れて来て、穴を掘って立ったままの状態で埋めたところ、腰まで埋めたときに、両方の目の玉が飛び出して死んだ。
大長谷はまた軍を興して都夫良意美の家を包囲した。
対する都夫良意美も軍を興して応戦し、互いに射放つ矢が風に飛ぶ芦の花のように盛んに飛び散った。
この時、大長谷は矛を杖にして、都夫良意美の家の中を伺い、
「私が言い交した少女は、もしやこの家にいはしないか」
と言った。
すると都夫良意美はこの言葉を聞いて、自ら出て、身につけていた武器を外して八度も礼拝し、
「先日妻問いなさった私の娘、訶良比売はおそばにお仕えいたしましょう。またそれに五ヶ所の屯倉を添えて献上いたしましょう(いわゆる五村の屯倉は今の葛城の五村の苑人のことである)。けれども私自身が参上しない理由は次のようなことです。昔から今に至るまで、臣下の者が皇族の宮殿に隠れる例は聞きますが、皇子が臣下の者の家にお隠れになった例は、いまだに聞いたことがございません。このことから思いますに、賤しい私である意富美は全力を尽して戦っても、到底あなた様に勝つことはできますまい。けれども、私を頼ってこの賤しい家にお入りになった目弱は、死んでもお見捨て申し上げますまい」
と言った。
こう申し上げて都夫良意美はまた武器をとり、家に帰って行って戦った。
そして力尽き矢もなくなったので、目弱に、
「私はすっかり痛手を負い、矢も無くなってしまいました。今はもう戦うことはできますまい。どういたしましょう」
と申し上げた。
目弱は答えて、
「それならもう致し方ない。今は私を殺してくれ」
と言った。
そこで都夫良意美は刀で王を刺し殺し、そのまま返す刀で自分の首を斬って死んだ。
市辺之忍歯王
この出来事の後、近江の佐々紀の山君の祖先で韓帒という名の者が大長谷に言った。
「近江の久多綿の蚊屋野には猪や鹿がたくさんおります。その立っている足はススキ原のようであり、頭にいただく角は枯れた松の枝のようでございます」
そこで大長谷は市辺之忍歯王を伴って近江にお出かけになり、その蚊屋野に到着すると、それぞれ別に仮宮を作ってお泊りになった。
そして翌朝、まだ日も上らないうちに忍歯はいつもと変らぬ気持ちで馬に乗ったままでやって来て、大長谷の仮宮のそばにお立ちになり、大長谷のお伴の者に言った。
「王はまだお目ざめにならないのか。はやくこう申し上げよ。夜はもうすっかり明けた。狩場にお出かけくださいと」
そしてそのまま馬を進めて出ておいでになった。
するとその大長谷のおそばに仕えている者たちは王に、
「感じのよくない言い方をする王子でございます。ご用心なさいませ。また武装なさいませ」
と申し上げた。
そこで大長谷は衣服の下に鎧をつけ、弓矢を携えて馬に乗ってお出かけになり、たちまち忍歯と馬を並べると、矢を抜いて忍歯を射殺し、その場でその体を斬って飼葉桶に入れて、地面と同じ高さに埋められた。
ところで、市辺の御子たち、意祁と袁祁の二人は、この変事のことを聞いてそこから逃げ出された。
そして山城の苅羽井に着いて乾飯を召し上っていると、顔に入れ墨をした老人がやって来てその乾飯を奪った。
そこでその二人の王子が、
「乾飯は惜しくない。しかし、それにしてもおまえは誰だ」
と言うと、その老人はお答えして、
「私は山代の豚飼いだ」
と言った。
こうして二皇子はさらに逃げて玖須婆の河を渡って播磨国に行き、その国の住人で志自牟という名の人の家に入って、身分を隠して馬飼い、牛飼いとして使った。
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