崇神天皇 御間城入彦五十瓊殖天皇
天皇即位
御間城入彦五十瓊殖天皇は開化天皇の第二子である。
母を伊香色謎命という。
物部氏の先祖である大綜麻杵の娘である。
天皇は十九歳で皇太子となられた。
善悪を識別する力が勝れておられ、早くから大きな策謀を好まれた。
壮年には心ひろく慎み深く、天神地祇をあがめられた。
常に帝王としての大業を治めようと思われる心があった。
六十年夏四月開化天皇が亡くなられた。
元年春一月十三日、皇太子が皇位につかれた。
皇后を尊んで皇太后とよばれた。
二月十六日、御間城姫を立てて皇后とされた。
これより先、后は活目入彦五十狭茅天皇(垂仁天皇)、彦五十狭茅命、国方姫命、千千衝倭姫命、倭彦命、五十日鶴彦命を生まれた。
次の妃である紀伊国の荒河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛は、豊城入彦命、豊鍬入姫命を生んだ。
次の妃である尾張大海媛は、八坂入彦命、渟名城入姫命、十市瓊入姫命を生んだ。
この年、太歳甲申。
三年秋九月、都を磯城に移した。
これを瑞籬宮という。
四年冬十月二十三日、詔をして、
「我が皇祖の諸天皇たちが、その位に臨まれたのはただ一身のためではない。神や人を整え天下を治めるためである。だから、代々良い政治を広め、徳を布かれた。今、私は大業を承って、国民を恵み養うこととなった。どのようにして皇祖の跡を継ぎ、無窮の位を保とうか。群卿百僚たちよ、汝らの忠貞の心を尽くして共に天下を安ずることは、また良いことではないか」
と言われた。
大物主大神を祀る
五年、国内には疫病が多く、民の死亡者は、半数以上に及ぶほどであった。
六年、百姓の流離する者、或いは反逆する者あり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。
そこで一日中、天神地祇にお祈りをした。
その後、天照大神、倭大国魂の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。
ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。
そこで天照大神を豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀った。
そして、堅固な石の神籬(神が降臨されるところ)を造った。
また日本大国魂神は、淳名城入姫命に預けて祀られた。
ところが渟名城入姫命は、髪が落ち体が瘦せてお祀りすることができなかった。
七年春二月十五日、詔して、
「昔、我が皇祖が大業を開き、その後歴代の御徳は高く王風は盛んであった。ところが思いがけず、今我が世になってしばしば災害にあった。朝廷に善政なく、神が咎を与えておられるのではないかと恐れる。占によって災いの起こるわけを究めよう」
と言われた。
天皇はそこで神浅茅原にお出ましになって、八十万の神々をお招きして占いをされた。
このときに、神明は倭迹迹日百襲姫命に神憑りして言った。
「天皇はどうして国が治まらないことを憂えるのか。もし、よく私を敬い祀れば、きっと自然に安定するだろう」
天皇は問う。
「このようにおっしゃるのはどちらの神ですか」
その声は答える。
「私は倭国の域の内にいる神で、名を大物主神という」
この神のお告げを得て、教えのままにお祀りしたけれども、なお、験が現れなかった。
天皇はそこで斎戒沐浴して、殿内を浄めてお祈りし、
「私の神を敬うことがまだ不充分なのでしょうか、どうしてそんなに受け入れて頂けないのでしょう。どうかまた夢の中で教えていただき、神恩をお垂れ下さい」
と言われた。
この夜の夢に一人の貴人が現われ、そして殿舎に向って自ら大物主神と名乗って、
「天皇よ、そんなに憂えなさるな。国が治まらないのは、私の意によるものだ。もし我が子である大田田根子に私を祀らせたら、たちどころに安定するだろう。また、海外の国も自ら降伏するだろう」
と告げた。
八月七日、倭迹速神浅茅原目妙姫、穂積臣の先祖である大水ロ宿禰、伊勢麻績君の三人が、共に同じ夢をみて申し上げた。
「昨夜、夢をみましたが、一人の貴人が現れ、教えて言われたのが、『大田田根子命を、大物主神を祀る祭主とし、また市磯長尾市を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、必ず天下は安定するだろう』と言われました」
ということだった。
天皇は夢の言葉を得て、ますます喜ばれた。
あまねく天下に告げ、大田田根子を探した。
すると、茅淳県の陶邑に、大田田根子が見つかり、これをお連れした。
天皇は自ら神浅茅原にお出ましになり、多くの王卿や各種の伴の首長を召集めて、大田田根子に尋ねられた。
「お前は一体誰の子か」
大田田根子は答える。
「父を大物主大神、母を活玉依姫といいます。陶津耳の女です」
他の言い伝えでは、「奇日方天日方武茅淳祀の娘」とも言われている。
天皇は、
「ああ、私はきっと発展するだろう」
といわれた。
そこで物部連の先祖の伊香色雄を、神班物者(神に捧げるものを分つ人)としようと占うと吉(きち)と出て、またついでに他神を祭ろうと占うと吉からずと出た。
十一月十三日、伊香色雄に命じて、沢山の平瓮を祭神の供物とさせた。
大田田根子を、大物主大神を祀る祭主とした。
また長尾市を倭の大国魂神を祀る祭主とした。
それから他神を祀ろうと占うと吉と出た。
そこで別に八十万の群神を祀った。
そして、天つ社、国つ社、神地、神戸(神社の用に充てられた民戸)を決めた。
ここで疫病がやっと収まり、国内はようやく鎮まった。
五穀はよく捻って百姓は賑わった。
八年夏四月十六日、高橋邑の活日を、大物主神にたてまつる酒を司る人とした。
冬十二月二十日、天皇は大田田根子に大物主神を祀らせた。
この日、活日は御酒を天皇に奉り、歌を詠んでいうのに、
コノミキハ、ワガミキナラズ、ヤマ卜ナス、オホモノヌシノ、力ミシミキ、イクヒサ、イクヒサ。
この神酒は私の造った神酒ではありません。倭の国をお造りになった大物主神が醸成された神酒です。幾世までも久しく栄えよ、栄えよ。
このように歌って神の宮で宴を催された。
宴が終り、諸大夫が歌った。
ウマザケ、ミワノ卜ノノ、アサ卜ニモ、イデテユカナ、ミワノ卜ノドヲ。
一晩中酒宴をして、三輪の社殿の朝開く戸口を通って帰って行こう。
天皇も歌っていわれた。
ウマザケ、ミワノトノノ、アサ卜ニモ、オシヒラカネ、ミワノ卜ノドヲ。
一晩中酒宴をして、三輪の社殿の朝の戸を押し開こう。三輪の戸を。
そして神の宮の戸を開いてお出ましになつた。
この大田田根子は今の三輪君らの先祖である。
九年春三月十五日、天皇の夢の中に、神人が現れて教えていわれた。
「赤の楯を八枚、 赤の矛を八本で、墨坂の神を祀りなさい。また黒の楯を八枚、黒の矛を八本で、大坂の神を祀りなさい」
四月十六日、夢の教えのままに、墨坂神と大坂神をお祀りになった。
十年秋七月二十四日、多くの卿に詔りして、
「民を導く根本は教化にある。今、神々をお祀りして、災害はすべてなくなった。けれども遠国の人々は、まだ王化に預かっていない。 そこで卿たちを四方に遣わして、我が教化を広めたい」
と言われた。
四道将軍(しどうしょうぐん)
九月九日、大彦命を北陸道に、武淳川別を東海道に、吉備津彦を西海道に、丹波道主命を丹波に遣わされた。
そして、詔りして、
「もし教えに従わない者があれば兵を以て討て」
と言われた。
それぞれ印綬を授かって将軍となった。
二十七日、大彦命は和珥の坂(もしくは、山背の平坂)に着いた。
時に、少女が歌った。
ミマキイリビコハヤ、オノガヲヲ、シセム卜、ヌスマクシラニ、ヒメナソビスモ。
御間城入彦(崇神天皇)よ。あなたの命を殺そうと、その時を窺っていることを知らないで、若い娘と遊んでいるよ。
そこで大彦命はこれを怪しんで少女に尋ねた。
「お前が言っていることは何のことか」
少女は答えた。
「言っているのではなく、ただ歌っているのです」
またその歌を歌うと、急に姿が見えなくなった。
大彦は引き返して、その仔細を報告した。
天皇の姑である倭迹迹日百襲姫命は聡明で、よく物事を予知された。
その歌に不吉な前兆を感じられ、天皇に、
「これは武埴安彦(孝元天皇の皇子)が謀反を企てている兆候であろう。聞くところによると、武埴安彦の妻である吾田媛がこっそりきて、倭の香具山の土をとって、頒巾(女性が襟から肩にかけた布)の端に包んで呪言をして、『これは倭の国のかわりの土』と言って帰ったという。これでことが分った。速やかに備えなくては、きっと遅れをとるだろう」
と言った。
そこで諸将を集めて議せられた。
幾時もせぬうちに、武埴安彦と妻の吾田媛が、軍を率いてやってきた。
それぞれ道を分けて、夫は山背より、妻は大坂から、共に京を襲おうとした。
そのとき、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)を遣わして、吾田媛の軍を討たせた。
大坂で迎えて大いに破った。
吾田媛を殺し、その軍卒を尽く斬った。
また、大彦と和珥氏の先祖、彦国葺を遣わして山背に行かせ、埴安彦を討たせた。
そのとき、忌瓮(神祭りに用いる瓮)を和珥の武録坂の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って戦った。
そして、官軍が多数集まって草木を踏みならした。
それでその山を名づけて奈良山とよんだ。
また 奈良山を去って輪韓河に至り、埴安彦と河をはさんで陣取り挑み合った。
このことから、当時の人は改めて、その河を挑河と呼んだ。
今、泉河というのは、これが訛ったものである。
埴安彦は彦国葺に尋ねた。
「何のためにお前は軍を率いてやってきたのだ」
彦国葺は答えた。
「お前は天に逆らって無道である。王室を覆そうとしている。だから、義兵を挙げてお前を討つのだ。これは天皇の命令だ」
そこでそれぞれ先に射ることを争った。
武埴安彦がまず彦国葺を射たが、当らなかった。
ついで彦国葺が埴安彦を射た。
これが胸に当って殺された。
その部下たちは怯えて逃げた。
それを河の北に追って破り、半分以上首を斬った。
屍が溢れた。
そこを名づけて羽振苑(屍体を捨てた場所。今の祝園)という。
また、その兵たちが恐れ逃げるとき、屎が襌より漏れた。
それで甲をぬぎ捨てて逃げた。
逃れられないことを知って、地に頭をつけて「我君」(我が君お許し下さい)といった。
当時の人は、その甲を脱いだところを伽和羅と言った。
揮から屎が落ちたところを屎揮と言った。
今、樟葉と言うのは、これが訛ったものである。
また地に頭をつけて「我君」といったところを「我君」(和伎の地)という。
この後、倭迹迹日百襲姫命は、大物主神の妻となった。
けれどもその神は昼は来ないで、 夜だけやってきた。
倭迹迹日姫命は夫に言った。
「あなたはいつも昼はお出でにならぬので、 そのお顔を見ることができません。どうか、しばらく留って下さい。朝になったら麗しいお姿を見られるでしょうから」
大神は答えて、
「もっともなことである。あしたの朝あなたの櫛函に入っていよう。どうか私の形に驚かないように」
と言われた。
倭迹迹日姫命は変に思った。
明けるのを待って櫛函を見ると、誠に麗しい小蛇が入っていた。
その長さ太さは衣紐ほどであった。
驚いて叫んだ。
すると大神は恥じて、たちまち人の形となった。
そして、
「お前は我慢できなくて、私に恥をかかせた。今度は私がお前に恥ずかしい思いをさせよう」
と言い、大空を踏んで御諸山(三輪山)に登られた。
倭迹迹日姫命は仰ぎみて悔い、どすんと坐りこんだ。
そのとき、箸で陰部を突いて死んでしまわれた。
それで大市に葬った。
当時の人は、その墓を名づけて箸墓という。
その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。
大坂山の石を運んで造った。
山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。
当時の人は歌って言った。
オホサカニ、ツギノボレル、イシムラヲ、夕ゴシニコサバ、コシガテムカモ。
大坂山に人々が並んで登って、沢山の石を手渡しして、渡して行けば渡せるだろうかなあ。
冬十月一日、群臣に詔して、
「今は、反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐに出発せよ」
と言われた。
二十二日、将軍たちは共に出発した。
十一年夏四月二十八日、四道将軍は地方の敵を平定した様子を報告した。
この年、異俗の人達が多勢やってきて、国内は安らかとなった。
御肇国天皇の称号
十二年春三月十一日、詔して、
「私は、初めて天位を継いで、宗廟を保つことはできたが、光りも届かぬところがある。徳も及ばぬところがある。このため陰陽が狂って、寒さ暑さが乱れている。疫病が起こり、百姓は災いを被っている。それを今、罪を祓い、過ちを改めて敦く神祇を敬い、また教えを垂れて荒ぶる人どもを和らげ、兵を挙げて服しない者を討った。だから官に廃れた事なく、下に隠遁者もない。教化は行き渡って、庶民は生活を楽しんでいる。異俗の人々もやってきて、周囲の人までも帰化している。このときに当って、戸ロのことを調べ、長幼の序、課役の先後のことを知らせるべきである」
と言われた。
秋九月十六日、ここに初めて人民の戸口を調べ、課役を仰せつけられた。
これが男の弭調、女の手末調である。
これによって天神地祇ともに和やかに、風雨も時を得て百穀もよく実り、家々には人や物が充足され、天下は平穏になった。
そこで天皇を誉め讃えて、「御肇国天皇」という。
十七年秋七月一日、詔して、
「船は天下の大切なものである。今、海辺の民は船がないので献上物を運ぶのに苦しんでいる。それで国々に命じて船を造らせよ」
と言われた。
冬十月、初めて船舶を造った。
四十八年春一月十日、天皇は豊城命、活目尊に勅して、
「お前達二人の子は、どちらも同じように可愛い、何れを後嗣とするのがよいか分からない。それぞれ夢を見なさい。夢で占うことにしよう」
と言われた。
二人の息子は命を承って、浄沐(川での水浴や、髪を洗うこと)してお祈りをして寝た。
そして、それぞれ夢をみた。
夜明けに兄の豊城命は、夢のことを天皇に申し上げられた。
「御諸山に登って東に向って、八度槍を突き出し、八度刀を空に振りました」
弟の活目尊は、
「御諸山の頂きに登って、縄を四方に引き渡して、粟を食む雀を追い払いました」
と言われた。
天皇は夢の占いをして、二人の子に、
「兄はもっぱら東に向って武器を用いたので、 東国を治めるのによいだろう。弟は四方に心を配って、稔りを考えているので、我が位を継ぐのに良いだろう」
と言われた。
四月十九日、活目尊を立てて皇太子とされた。
豊城命に東国を治めさせた。
これが上毛野君、下毛野君の先祖である。
神宝
六十年秋七月十四日、群臣に詔して、
「武日照命の、天から持ってこられた神宝を、出雲大神の宮に収めてあるのだが、これを見たい」
と言われた。
矢田部造の先祖の、武諸隅を遣わして奉らせた。
このとき、出雲臣の先祖の出雲振根が神宝を管理していた。
しかし、筑紫の国に行っていたので会えなかった。
その弟の飯入根が皇命を承り、弟の甘美韓日狭と子の鷓濡淳に持たせて奉った。
出雲振根は筑紫から帰ってきて、神宝を朝廷に差出したということを聞いて、弟の飯入根を責め、「数日待つべきであった。何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」
と言った。
これから何年か経ったが、なお恨みと怒りは去らず、弟を殺そうと思った。
それで弟を欺いて、
「この頃、止屋の淵に水草が生い茂っている。一緒に行って見て欲しい」
と言った。
弟は兄について行った。
そして、兄は密かに木刀を造っていた。
形は本当の太刀に似ていた。
それを自分で差していた。
弟は本物の刀を差していた。
淵のそばに行って兄が弟に言った。
「淵の水がきれいだ。一緒に水浴しようか」
弟は兄に従い、それぞれ差していた刀を外して、淵の端に置き、水に入った。
兄は先に陸にあがって、弟の本物の刀を取って自分に差した。
後からあがった弟は、驚いて兄の木刀を取った。
互いに斬り合うことになったが、弟は木刀で抜くことができなかった。
兄は弟の飯入根を斬り殺した。
当時の人は歌に詠んで言った。
ヤクモタツ、イヅモタケルガ、ハケルタチ、ツヅラサハマキ、サミナシニ、アハレ。
出雲建が佩いていた太刀は、葛を沢山巻いてはいたが、中身がなくて、気の毒であった。
ここに、甘美韓日狭と鸕濡淳は朝廷に参って、詳しくその様子を報告した。
そこで吉備津彦と武淳河別とを遣わして、出雲振根を殺させた。
出雲臣らはこのことを恐れて、しばらく出雲大神を祭らないでいた。
丹波の氷上の人で、名は水香戸辺が、皇太子である活目尊に申し上げて、
「私のところの小さな子供が、ひとりで歌っています。
水草の中に沈んでいる玉のような石。
出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。
力強く活力を振るう立派な御神の鏡。
水底の宝。
宝の主。
山河の水の洗う御魂。
沈んで掛かっている立派な御神の鏡。
水底の宝。
宝の主。
これらは、子供の言葉のようではありません。あるいは、神が取り憑いて言うのかもしれません」
と言った。
そこで皇太子は、天皇に申し上げられた。
天皇は勅して、鏡を祭らせることにした。
六十ニ年秋七月二日、詔して、
「農業は国の本である。人民のたのみとして生きるところである。今、河内の狭山の田圃は水が少い。それで、その国の農民は農業を怠っている。そこで池や溝を掘って、民の生業を広めよう」
と言われた。
冬十月に依網池を造った。
十一月、荊坂池、反折池を造った。
六十五年秋七月、任那国が蘇那易叱智を遣わして朝貢してきた。
任那は筑紫を去ること二千余里。
北の方、海を隔てて鶏林(新羅)の西南にある。
天皇は即位されてから、六十八年の冬十二月五日、崩御された。
時に、年百二十歳。
翌年八月十一日、山辺道上陵に葬った。
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