日本書紀・日本語訳「第二十五巻 孝徳天皇」

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孝徳天皇 天万豊日天皇

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皇位の互譲

天万豊日天皇あめのよろずとよひめのすめらみこと皇極天皇こうぎょくてんのうの同母弟である。
仏法を尊んで神々の祭りを軽んじられた。
生国魂社いくくにたまのやしろの木を切られたことなどがこれである。

人となりは情け深く、学者を好まれた。
貴賤に関わりなく、しきりに恵みふかいみことのりを下されることが多かった。

皇極天皇の四年六月十四日、皇極天皇が位を中大兄に伝えようと思われ、みことのりして云々と言われた。
中大兄なかのおおえは退出して中臣鎌子なかとみのかまこに相談された。
中臣鎌子連なかとみのかまこむらじは意見を述べて、
古人大兄ふるひとのおおえは殿下の兄上です。軽皇子かるのみこ(孝徳天皇)は殿下の叔父上です。古人大兄がお出でになる今、殿下が皇位を継がれたら、人の弟として兄に従うという道に背くでしょう。しばらく叔父上を立てられて、人々の望みに叶うなら良いではありませんか」
と言った。

中大兄は深くその意見を褒められて、密かに天皇に奏上された。
皇極天皇は神器を軽皇子に授けて位を譲られ、
「ああ、なんじ軽皇子よ」
云々と言われた。

軽皇子かるのみこはいくども固辞され、ますます古人大兄ふるひとのおおえに譲って、
大兄命おおえのみことは舒明天皇の御子です。そしてまた年長です。この二つの理由で天位におつきになるべきです」
と言われた。
すると古人大兄ふるひとのおおえは座を去り、退いて手を胸の前で重ねて、
「天皇の仰せのままに従いましょう。どうして無理をして私に譲られることがありましょうか。私は出家して吉野に入ります。仏道の修行につとめ、天皇の幸せをお祈りします」
と言われお断りになった。

言い終わって腰の太刀を解いて地に投げ出された。
また舍人とねりらに命じて、皆、太刀を脱がされた。
そして法興寺ほうこうじの仏殿と塔との間にお出でになり、みずから髭や髪を剃って袈裟けさを召された。
このため軽皇子も辞退することができなくなり、壇に上って即位された。
そのとき大伴長徳連馬飼おおとものながとこのむらじうまかいは、金のゆき矢を入れる武具)をつけて壇の右に立った。
犬上健部君いぬかみのたけべのきみは、金の靭をつけて壇の左に立った。
百官ひゃっかんおみむらじ国造くにのみやつこ、数多の伴緒ともおが連なり並んで拝礼した。

新政権の発足

この日、号を皇極天皇に奉って皇祖母尊すめみおやのみことと呼んだ。
中大兄なかのおおえを皇太子とした。
阿倍内麻呂臣あべのうちまろのおみ左大臣ひだりのおとどとし、蘇我倉山田石川麻呂臣そがのくらのやまだのいしかわのまろのおみ右大臣みぎのおとどとした。
大錦の冠位を中臣鎌子連なかとみのかまこむらじに授けて内臣うちつおみとした。
へひと(食封)も若干増加した、云々と。

中臣鎌子連は至忠の誠を抱き、宰臣として諸官の上にあった。
その計画は人々によく従われ、物事の処置はきちんと決まった。
沙門旻法師のりのしみんほうし高向史玄理たかむこのふびとげんり国博士くにのはかせ(国政顧問)とした。

十五日、金策こがねのふみた金泥で書いた冊書)を阿倍倉梯麻呂大臣あべのくらはしまろのおおおみと、蘇我山田石川麻呂大臣そがのやまだのいしかわのまろのおおおみとに賜わった。
十九日、天皇、皇祖母尊すめみおやのみこと、皇太子は、大槻おおつきの木の下に群臣を召し集めて盟約をさせられた。
天神地祇てんじんちぎに告げて、
「天は覆い地は載す。その変わらないように帝道はただ一つである。それなのに、末世道おとろえ君臣の秩序も失われてしまった。幸い、天は我が手をお借りになり暴逆の者を誅滅した。今、共に心の誠をあらわしてお誓いします。今から後、君に二つの政無く、臣下はみかどに二心を抱かない。もしこの盟に背いたなら、天変地異が起こり、鬼や人がこれを懲らすでしょう。それは日月のようにはっきりしたことです」
と誓った。

皇極天皇の四年を改めて大化元年とした。
大化元年秋七月二日、舒明天皇の娘の間人皇女はしひとのひめみこを立てて皇后とした。
二人の妃を立てた。
第一の妃は阿倍倉梯麻呂大臣あべのくらはしまろのおおおみの女で小足媛おたらしひめという。
有間皇子ありまのみこをお生みになった。
第二の妃は蘇我山田石川麻呂大臣そがのやまだのいしかわのまろのおおおみの娘で乳娘ちのいらつめといった。

十日、高麗、百済、新羅が使者を遣わして調を奉った。
百済の調の使者が、任那の使者を兼ねて、任那の調も奉った。
ただ、百済の大使である佐平縁福さへいえんふくだけは病になり、難波津なにわづの対外館舍に留まり、京に入らなかった。
巨勢徳太臣こせのとこだのおみが高麗の使者に詔を伝えた。
「明神として天下を治められる日本天皇が、みことのりを宣う。天皇の遣わす使者と、高麗の神の子が遣わした使者とは、過去は短いが将来は長いだろう。この故に温和な心をもって、末永く往来したい」

また、百済の使者にみことのりして、
明神あきつみかみとして天下を治められる日本天皇やまとのすめらみことが、詔として次のように仰せられる。始め、遠い我が皇祖の世に、百済国を内官家うちのみやけとしたもうたことは、例えて言えば、三つ組みの綱のようであった。なかごろ、任那国を百済に属させた。後に三輪栗隈君東人みわのくるくまのきみあずまひとを遣わして、任那国の境界を視察させたところ、百済王はみことのりのままにすべてその境界を示した。しかし、この度の調みつきは欠けるところがあった。そのため、調みつきを返却される。任那の奉った物は天皇が親しく御覧になるところである。今後は詳しく国名とその調をしるすようにせよ。汝、佐平さへいらよ、心変わりせず、また来朝せよ。ぜひとも早く王に報告するように。今、重ねて三輪君東人みわのきみあずまひと馬飼造うまかいのみやつこを遣わすことにする」
と言われた。
またみことのりして、
鬼部達率意斯くいほうたつそつおしの妻子を百済に送り遣わすように」
と言われた。

十二日、天皇は阿倍倉梯万侶大臣あべのくらはしまろのおおおみ蘇我石川万侶大臣そがのいしかわのまろおおおみみことのりして、
「まさに上古の聖王の跡に従い、天下を治めよう。また、信をもって天下を治めよう」
と言われた。

十三日、天皇は阿倍倉梯麻呂大臣あべのくらはしまろのおおおみ蘇我石川万侶大臣そがのいしかわのまろおおおみに詔して、
「大夫たちと多くの伴造らに、人民が喜びをもって使われるような方法を尋ねよ」
と言われた。

十四日、蘇我石川万侶大臣そがのいしかわのまろおおおみが奏上して、
「まず神祇を祭り鎮めて、のち政事を議るべきであります」
と言った。
この日、倭漢直比羅夫やまとのあやのあたいひらぶを尾張国に、忌部首子麻呂いんべのおびとこまろ美濃国みののくにに遣わし、神に供えるまいないを課せられた。

東国国司の発遣

八月五日、東国の国司くにのつかさを召された。
国司らにみことのりして、
天つ神あまつかみの命ぜられるままに、今、はじめて日本国内のすべての国々を治めようと思う。およそ国家の所有する公民や、大小の豪族の支配する人々について、汝らが任国に赴いてみな戸籍をつくり、田畑の大きさを調べよ。それ以外の園池や土地や用水の利得は百姓おおみたからが共に受けるようにせよ。また国司らはその国の裁判権をもたない。他人からのまいないをとって、民を貧苦に陥れてはならぬ。京に上る時は多くの百姓を従えてはならぬ。ただ、国造くにのみやつこ郡領ぐんりょうだけを従わせよ。ただし、公用のため通うときには、管内の馬に乗ることができ、管内の飯を食することができる。すけ次官)以上の者に対して、よく法に従ったときは褒賞ほうしょうを行なえ。法に背いたらしゃく冠位)を降等せよ。判官以下の者が、他人のまいないを取ったときは二倍にして徴収する。軽重によって罪科を負わせる。国司の長官は従者九人、次官は従者七人、主典は従者五人、もし限度を越える者があったら主従共に処罰される。もし名誉や地位を求める人があって、元からの国造くにのみやつこ伴造とものみやつこ県稲置こおりのいなきではないのに、偽って、『我が先祖のときからこの官家を預かり、この郡県こおりを治めていました』と訴えるのを、汝ら国司が偽りのままに、たやすく朝に報告してはいけない。詳しく実情を調べてから報告せよ。また、空地に兵庫を造って、国郡くにこおりの刀、甲、弓、矢を集め収め、辺境で蝦夷と境を接する国は、すべてその武器を数え調べ、元の所有者に保管させよ。倭の国の六つの県(高市、葛木、十市、志貴、山辺、曽布)に遣わされる使者は、 戸籍を造り同時に田畑を検地せよ。汝ら国司よく承って退出せよ」
と言われた。
布帛きぬをそれぞれに賜った。

鐘匱および男女の法

この日、かねひつを朝廷に設けて詔し、
「もし訴えごとのある人が伴造に訴えたら、伴造とものみやつこはまずよく調べて奏上せよ。尊長ひとごのかみ一族の首長)の場合は、その尊長ひとごのかみがまずよく調べて奏上せよ。もし伴造や尊長がその訴えを審かにしないで、ふみひつに収めただけであれば、その罪を処罰される。収牒しゅうちょうの任にあたる者は、夜明けに牒を取って内裏おおうちへ奏上せよ、私は年月を記して群卿まえつきみに示そう。もし怠って審理せず、あるいはえこひいきをして曲げる者があれば、訴えの者は鐘を撞くがよい。このため朝廷にかねひつとを設けておく。天下の人民は私の意を知ってほしい。男女の法は、良男と良女の間に生まれた子はその父につけよ。良男がめのこやつこ女奴隷)に生ませた子は、その母につけよ。もし良女がおのこやっこ奴隷)に嫁して生んだ子はその父につけよ。もし両家の奴と婢が生んだ子はその母につけよ。もし寺院の仕丁の子ならば良に準じて法に従え。もし寺院の仕丁が奴婢の場合は奴婢の法に従え。これによって今よく人々に法の制定されたことを示そうと思う」
と言われた。

八日、使者を大寺に遣わして、僧尼を召し集めみことのりして、
「欽明天皇の十三年に、百済の聖明王が仏法を我がみかどに伝えた。このとき、群臣まえつきみは皆広めることを欲しなかった。 ところが蘇我稲目宿禰そがのいなめのすくねは、ひとりその法を受け入れた。天皇は稲目いなめに詔して、その法を信奉させられた。敏達天皇の世に蘇我馬子そがのうまこは、父の遺法を尊び仏の教を信じた。しかし、他の臣たちは信じなかったので、ほとんど滅びそうであった。敏達天皇は馬子うまこに詔してその法を尊ばせられた。推古天皇の御世に、馬子は天皇のために、丈六の纏像ぬいのみかた、丈六の銅像を造った。仏教を顕揚し僧尼を慎み敬った。自分はまた正教を崇め、大きな道を照らし開こうと思う。沙門狛大法師のりのしこまだいほうし福亮ふくりょう恵雲えうん常安じょうあん霊雲りょううん恵至えし寺主僧旻てらしゅそうみん道登どうとう恵隣えりん恵妙えみょうを十師とした。別に恵妙法師えみょうほうしを百済寺の寺主とする。この十師たちは、よく多勢の僧を教え導いて、釈教を行なうこと必ず法の如くせよ。およそ天皇から伴造に至るまでの身分の人の建てたところの寺が、営むことの難しい場合は、自分が皆、助けてやろう。今、寺司てらのつかさ寺院の役人)と寺主とを任命する。諸寺を巡って僧尼、奴婢、田地の実状を調べて、ことごとく明かにし報告せよ」
と言われた。
来目臣くめのおみ三輪色夫君みわのしこふのきみ額田部連甥ぬかたべのむらじおい法頭ほうずとした。

古人大兄の死

九月一日、使者を諸国に遣わし武器を管理した。

ある本によると、六月より九月に至るまで、使者を四方に遣わして種々の兵器を集めさせたと。

三日、古人皇子ふるひとのみこ蘇我田ロ臣川堀そがのたぐちのおみかわほり物部朴井連椎子もののべのえのいのむらじしいのみ吉備笠臣垂きびのかさのおみしだる倭漢文直麻呂やまとのあやのふみのあたいまろ朴市秦造田来津えちのはたのみやつこたくつと共に謀反を企てた。

ある本によると古人太子ふるひとのひつぎのみこといい、ある本では古人大兄ふるひとのおおえという。吉野山に入ったので、ある時は吉野太子よしののひつぎのみこともいった。

十二日、吉備笠臣垂きびのかさのおみしだるは中大兄に自首して、
「吉野の古人皇子は、蘇我田ロ臣川堀そがのたぐちのおみかわほりらと謀反を企てています。私もその仲間でありました」
と言った。

ある本に、吉備笠臣垂きびのかさのおみしだる阿倍大臣あべのおおおみ蘇我大臣そがのおおおみに申すのに、
「私は吉野皇子の謀反の仲間に加わっていましたが、今自首します」
と言ったとされる。

中大兄は菟田朴室古うだのえむろのふる高麗宮知こまのみやしりに、兵若干を率いて古人大兄皇子らを討たせた。

ある本に十一月三十日、中大兄は阿倍渠曽倍臣あべのこそへのおみ佐伯部子麻呂さえきべのこまろの二人に命じ、兵四十人を率い古人大兄ふるひとのおおえを攻めて、古人大兄とその子を殺させた。
その妃妾は自殺したとある。
またある本には十一月に、吉野大兄王よしののおおえのおおきみは謀反を謀り事あらわれて殺されたとある。

十九日、使者を国々に遣わして、人民の総数を記録させた。
みことのりして、
「古来、天皇の御代ごとに名代をおいて、天皇の名を後世に残そうとした。おみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこも自分の支配する民をおいて、気の向くままに使った。また国と県の山海、林野、池田を割きとって、自分の財産だとして争い戦うことが多かった。あるいは数万ころころは一たんの50分の1)の田を、一人で所有する者がある一方で、ある人は針先程の地もない人もある。調を納める時に、そこの臣、連、伴造らがまず自分で取ることを先にし、その後を分けて奉る。宮殿を造り御陵みささぎを築くのに、それぞれ自分の民を召し集め適当に使っている。易経に、『上は損しても下の利を益するように努め、制度を守り、財を傷つけ民を損わないように』とある。今、人民は貧しい。 ところが勢力ある者は、水陸を分割して私有地とし、人民に貸し与えて年々地代をとる。今後、そのようなことを禁ずる。みだりに主となって力の弱い者を併呑してはいけない」
と言われた。
人民は大いに喜んだ。

冬十二月九日、天皇は都を難波長柄豊琦なにわのながえらとよさきに移された。
老人たちは語り合い、
「春から夏にかけて、ねずみ難波なにわの方に向かったのは、都遷りの前兆だった」
と言った。
二十四日、越国こしのくに北陸地域)から言ってきた。
「浜辺に漂っていた枯木の切株が東に向かって流れていきました。砂の上に残った跡をみると、田地を耕したようなかたちをしておりました」

この年、太歳乙巳たいさいきのとみ

改新の詔

二年春一月一日、賀正の礼が終って、改新のみことのりを発せられた。
「その第一。昔の天皇たちの立てられた子代の民、各地の屯倉みやけおみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこ、村の首長の支配する部民と豪族の経営する各所の土地を廃止する。そして、食封へひと給与される戸口)を大夫まえつきみ(四位・五位)より以上にそれぞれに応じて賜わる。以下は、布帛きぬを官人、百姓にそれぞれに賜わることとする。そもそも、大夫は人民を直接治めるものである。よくその政治に力を尽せぱ人民は信頼する。故に大夫の封禄を重くすることは、人民のためにすることなのである。その第二。京師みやこ(都城)を創設し、畿内の国司くにのつかさ郡司こおりつかさ関塞せきそこ重要な場所の守塁)、斥候うかみ防人さきもり駅馬はいま伝馬つたわりうまを置き、鈴契すずしるし駅馬と伝馬を利用する際に使用する)を造り、地方の土地の区画を定める。京ではまちごとにおさを一人置き、四つの坊にうながしを一人置き、戸口を管理し、正しくないことをする者を監督せよ。その坊令まちのうながしには、まちの中で行ないが正しく、しっかりして時務に堪える者をあてよ。里坊さとまちの長には、里坊の人民で清く正しく強い者をあてよ。もしその里坊に適当な人がなければ、近くの里坊から選んでも差支えない。およそ畿内うちつくにとは、東は名墾なはり横河よこかわよりこちら、南は紀伊の背山せのやまよりこちら、西は明石あかし櫛淵くしふちよりこちら、北は近江の楽浪さざなみ逢坂山おうさかやまよりこちらを指す。こおりは四十里あるものを大郡おおごおりとし、三十里以下四里以上を中郡なかごおり、三里を小郡こごおりとする。郡司こおりつかさには国造くにのみやつこの中で、性質が清廉で時務に堪える者をえらんで、 大領おおみやつこ少領すけのみやつことし、聡明で強く、書算に巧みな者を主政まつりごとひと王帳ふびととせよ。駅馬と伝馬を支給されるのは、駅鈴と伝符に記された規定の数に従う。諸国と関には鈴契すずしるしを支給される。 これは長官が管理するが、長官が無ければ次官が行なう。その第三。初めて戸籍、計帳、班田収授の法をつくる。五十戸を里とし、里ごとに里長を一人置く。戸口を管理し農桑を割当て、法に違反する者を取り締まり、賦役を督励することを司れ。もし山や谷が険しく、人稀なところでは、ついでの良い所に設けよ。田は長さ三十歩、広さ十二歩を段とする。十段を町とする。段ごとに租稲(たちからのいね)二束二把、一町につき租稲二十二束とする。その第四。従来の賦役えつきはやめて、田の調を行なう。絹、ふとぎぬ目の荒い絹)、糸、綿は土地の事情によっていずれかを選べ。田は一町に絹一丈、四町に一匹、一匹の長さは四丈、広さ二尺半、ふとぎぬは二丈、二町で一匹。長さ広さは絹と同じ。布は四丈、長さ広さは絹、絁と同じ。一町で一端、別に戸ごとの調をとる。一戸に粗布一丈二尺、調の副物の塩と贄(にえ:土産品) は土地の事情によりいずれかを選べ。官馬は中級のものであれば、百戸につき一匹、良馬なら二百戸に一匹、その馬の代りに布なら一戸に一丈二尺、武器は各自、刀、甲、弓、矢、幡、鼓を出せ。仕丁つかえのよほろはもとの三十戸ごとに一人であったのを改めて、五十戸ごとに一人をとり、各官司に割り当てる。五十戸で仕丁一人の食糧を負え。一戸に庸布ちからしろぬのー丈二尺、庸米五斗を出させる。采女うねめは郡の少領以上の者の姉妹や子女で、容貌端正の者を奉れ。従丁一人、従女二人を従わせる。百戸で采女一人の食糧を負担せよ。そのための庸布、庸米は皆、仕丁に准ずる」

この月、天皇は子代離宮こしろのかりみやにお出でになった。
使者を遣わし、郡国こおりくにみことのりして武器庫を造らせた。
蝦夷が帰順してきた。

ある本に難波狭屋部邑なにわのさやべのむら子代屯倉こしろのみやけを壊して行宮かりみやを建てたとある。

鐘匱の反応

二月十五日、天皇は離宮の東門にお出でになり、蘇我右大臣そがのおおおみみことのりを伝えさせ、
「明神として天下を治める日本天皇は、ここに集ったまえつきみら(大臣、大夫)、おみむらじ国造くにのみやつこ伴造とものみやつこおよび諸の人民に告げる。明哲の人が民を治めるには、鐘を宮殿に掛け、それをつかせて人民の憂えを聞かれ、舎を街角に作って、通行人の不平を聴取すると。草刈りや木樵の言うことでも、親しく問うて手本とされるという。先にみことのりを出して、『古の君が天下を治めるのに、善言を進める者は、道に設けた旗の下で自由に述べさせ、不平を述べたい者は、橋上の木に勝手に書かせたのは、諫めを聞き下の意見を問うためであった。管子の言に、黄帝は明堂の議を設け、上は賢人のなすところをよく見、堯は衢室(政を聴く室)で民衆の声をよく聴いた。舜は善言を述べる者の旗を設け、禹は鼓を朝に立て望む者に打たせた。湯王は総術の庭(辻に設けた庭)を造って、人民の非難を聞くところとした。武王には霊台の園があって、賢者の言を聞いた。このようにして聖帝明王ひじりのきみは過ちのない政治を行なった、と。それで自分もかねを掛けひつを設け、収表の係を命じた。訴えのある者は表を匱に入れさせる。収表人は毎朝奏上をする。私はそれを見たうえで群卿まえつきみに示し、処置を講じさせる。処置が滞ることのないのを望む。もし群卿が怠ったり、よくないことに加担したり、自分の諫めも聴き入れなかったりしたら、訴えをする人は鐘をつくがよい』と言った。このようなみことのりを下したところ、人民のまっすぐで明るい心に、国を思う気風が生じ、政治の非を忠告する申し文を、用意の匱に入れた。今それを公表すると、国役や納税のため都にきた人民を、引き留めて雑役に使っている、云々とのことである。私もこれをいたましく思う。民もきっと思いがけなかったことであろう。都を移して間もないため、旅人のようで落ち着く所もない。このため使ってならないのに、やむを得ず使う。こういうことを思うごとに安く寝ぬることも出来ぬ。私はこの表を見て、よく言ってくれたとほめる言葉を止めがたい。故に忠告に従って、各所で行なわれている雑役を停止する。前の詔に諫める者は記名せよと述べたが、守られていない。しかし自らの利を求めるのではなく、国を助けようとする気持ちに出たものであろう。これからも記名の有無は問わず、私が怠り忘れていることを諫めてもらいたい」
と言われた。
またみことのりして、
「集まった国民からの訴えは多かった。今、これを審理しようと思うので、述べる所をよく聴いて欲しい。愁訴のため上京し参集した者は、しばらく退去しないで待っているように」
と言われた。
高麗こま百済くだら任那みまな新羅しらぎなどが使者を遣わして調を奉った。

二十二日、天皇は子代離宮こしろのみやけから帰られた。

朝集使

三月二日、東国の国司くにのつかさたちにみことのりして、
「ここに集った群卿大夫まえつきみたちおよびおみむらじ国造くにのみやつこ伴造とものみやつこ、それにすベての百姓おおみたからたち皆聴け。天地の間に君として万民を治めることは、ひとりではできることでない。必ずおみの助けが必要である。それゆえ、代々の皇祖すめみおやは、汝らの先祖の協力によって治めてこられた。私も神の加護を頂いて、汝らと共に治めていきたい。先に良家の大夫を、東国の八道に国司とし遣わした。その中六人は法に従ったが、二人はこれに違反した。謗ったり、あるいは誉めるそれぞれの噂があった。法に従った者は褒めるが、違反した者は遺憾である。民を治めようと思えば、君も臣もまず己を正しくして、後に人を正すのでなくてはならぬ。私が正しくなくては、どうして他の人を正すことができようか。それ故に、自ら正せない者は、君臣を問わず災を受けるであろう。慎まねばならぬ。お前たちが正しければ、皆が正しくなる。今、先のみことのりに従って裁断することとする」
と言われた。

十九日、東国より帰還した朝集使(国使)たちにみことのりして、
「ここに集まった群卿大夫まえつきみたちおよび国造くにのみやつこ伴造とものみやつこおよび人民たち皆、承るがよい。去年八月、自分の述べたように、『役人の権勢に任せて、公私の物を取ることがあってはならぬ。自分の管内の場合のみ、部内の飯を食することができ、部内の馬に乗ることができる。もし命に違反すれば、次官すけ以上は冠位を降等し、主典以下の者の場合は、太い鞭あるいは細い鞭による鞭打ちの刑とする。不当に自分の身に取り入れたものは、倍にして徴収せよ』となっている。今、朝集使や国造くにのみやつこたちに尋ね、国司くにのつかさは任所でこの教えを守っているかどうかと聞いた。朝集使たちは詳しくその有様を申し述べた。穂積臣昨が犯したことは、人民に対して不当に物を求め、後で悔いて物を返したが、全部は返さなかったことである。その次官の富制臣ふせのおみ巨勢臣紫檀こせのおみしたんの二人の科は、その上官の過を正さなかったことである、云々と。以下の官人もみな科があった。巨勢徳禰臣こせのとこねのおみの犯したことは、人民に対し不当に物を求め、悔いて返したが全部は返さず、 また田部たべの馬を不当に奪ったことである。その次官朴井連すけのえのいのむらじ押坂連おしさかのむらじの二人は上官の過ちを正さなかったばかりか、かえって自分たちも利を貪った。また国造くにのみやつこの馬を不当に奪った。台直須弥うてなのあたいすみは初めは上官を諫めていたが、そのうち一緒に汚職した。そこの以下の官人はみなとががある。紀麻利耆拕臣きのまりきたのおみの犯したことは、人を朝倉君あさくらのきみ井上君いのうえのきみの二人のもとにやって、勝手にその馬を引いてこさせて、品定めしたりしたことである。また朝倉君に自分の刀を作らせた。また、朝倉君の弓と布を取った。また国造が奉る武器に用いる物を、再び持主に返すべきところ、みだりに国造に渡した。また任国において他人に刀を盗まれた。また倭国やまとのくにでも他に刀を盗まれた。これはその紀臣きのおみと、次官三輪君大口すけのみわのきみおおぐち河辺臣百依かわべのおみももよりらのとがである。以下の官人河辺臣磯泊つかさかわべのおみしはつ丹比深目たじひのふかめ百舌鳥長兄もずのながえ葛城福草かずらきのさきくさ難波癬亀なにわのくいかめ犬養五十君いぬかいのいきみ伊岐史麻呂いきのふびとまろ丹比大眼たじひのおおめら八人はすべて科がある。阿曇連あずみのむらじの犯したことは、和徳史わとこのふびとが病のとき、国造に申しつけて官物を送らせたことである。また湯部ゆべ皇子養育の費用を出すため置かれた部)の馬を勝手に使った。その次官の膳部臣百依かしわでのおみももよりが犯したことは、草代くさしろ朝廷の牧場の牧草)の物を自分の家に取り込んでしまった。また、国造の馬を取って他人の馬とすり替えた。河辺臣磐管かわべのおみいわつつ湯麻呂ゆまろの兄弟二人もとががあった。大市連おおちのむらじの犯したことは前年のみことのりに反したことである。『国司は任国で人民の訴えを自ら処理 してはならぬ』とあるのに、これに反して自ら菟礪うと(駿河国有度)の人の訴え、および中臣徳なかとみのとこやっこのことを判決した。そのことは中臣徳も同罪である。涯田臣きしたのおみとが倭国やまとのくににあって、官の刀を盗まれた不注意である。小緑臣おみどりのおみ丹波臣たにはのおみは政治がまずかったが罪には当たらない。忌部木菓いんべのこのみ中臣連正月なかとみのむつきの二人はとががある。羽田臣はたのおみ田ロ臣たぐちのおみの二人はとがなし。平群臣へぐりのおみの犯したことは、三国の人の訴えがあったが、まだ調査していない、と言っている。これをもってみると紀麻利耆拕臣きのまりきたのおみ巨勢徳禰臣こえのとこねのおみ穂積咋臣ほづみのくいのおみら三人の怠慢はまずいことであった。前のみことのりに反することを思うと、心を傷めないことがあろうか。そもそも君臣となって人民を養う者が、自分の身を正したなら、他の者も見習うであろう。もし君あるいは臣が心を正さなかったら、当に罪を受けるだろう。悔いても及ばない。このため諸の国司は、科の軽重により罰せられるであろう。また、国造たちが詔に背き、財貨を自分の国の国司に送り、共に利を求めるのは犯意を抱くもので、裁かないわけにはいかない。思うことはこのようであるが、今、新しい難波宮において、まさに諸神に幣白みてぐらを捧げようという年に当っている(即位の大嘗祭か)。また今、農事の月(三月)で、民を使うべきでないが、新しい造宮をしたため、誠に止むを得ない次第である。神事と農事と二つのことに鑑みて、大赦令を発することとする。今後、国司と郡司は心して努めよ。勝手気ままなことをしてはならぬ。使者を遣わして諸国の流人、獄中の囚人を皆、放免せよ。ことに塩屋鯯魚しおやのこのしろ神社福草かんこそのさきくさ朝倉君あさくらのきみ椀子連まろこのむらじ三河大伴直みかわのおおとものあたい蘆尾直すすきおのあたい、この六人は天皇に恭順の意を表している。自分はその心をほめる。官司の直営田ちょくえいでん吉備嶋皇祖母きびのしまのすめみおや(皇極天皇の母、故人)の各地の貸稲(いらしのいね稲を貸して利息をとるもの)を廃止し、その田地は群臣と伴造の班田としよう。また、まだ帳簿に載っていない寺の田や山を拾い出せ」
と言われた。

二十日、皇太子(中大兄)は使者を遣わして奏上し、
「昔の天皇たちの御世には、天下は混然と一つに纏まり治められましたが、当今は分かれ離れすぎて、国の仕事が行ない難くなっています。我が天皇が万民を統べられるに当り、天も人も相応じ、その政が新たになってきています。謹んでお慶び申し上げます。現つ神あきつかみとして八嶋国やしまくにを治らす天皇が、私にお問いになりました、『群臣、連、及び伴造、国造の所有する昔の天皇の時代に置かれた子代入部、皇子たち私有の名入りの私民、皇祖大兄すめみおやのおおえ(孝徳天皇の祖父)の名入りの部とその屯倉みやけなどを、昔のままにしておくべきかどうか』というお尋ねを謹んで承り、『天に二日なく国に二王なしといいます。天下を一つにまとめ、万民をお使いになるのは、ただ天皇のみであります。ことに入部と食封へひとの民(貴族の私民)を国の仕丁にあてることは、先の規定に従ってよいでしょう。これ以外は私用に召し使われることを恐れます。故に入部は五百二十四ロ、屯倉みやけは百八十一所を献上するのが良いと思います』とお答えします」
と言われた。

厚葬と旧俗の廃止

二十二日、みことのりして、
「私が聞くのに、唐土もろこしの君がその民を戒めて、『古の葬礼は丘陵の上に墓を造った。封土ほうども植樹もなかった。棺は骨を朽ちさせるに足ればよい。衣衿きものは身体を朽ちさせるに足ればよい。我の墓は丘の上の開墾できない所に造り、代がかわった後にはその場所が知れなくてもよい。金、銀、銅、鉄を墓に収める必要はない。土器で古の車の形を作り、草を束ねて従者の人形を作ればよい。棺は板の隙間に漆を塗ること三年に一度でよい。死者に含ませる珠玉は必要ない。玉の飾りを用いた衣や、珠玉の飾り箱は無用。それらのことは衆愚の人のすることである』と述べている。また『葬うのは隠すことである。人に見られないのがよい』。この頃、我が人民が貧しいのは、むやみに立派な墓を造るためである。ここにその墓制を設けて、尊卑の別を立てよう。皇族以上の墓は内(玄室)の長さ九尺、はば五尺。外域は縦横九ひろ(一ひろは両手をひろげた長さ)、高さ五尋、労役に服するのは千人、七日で終了するよう。葬礼の時の垂帛たれきぬなどは白布がよい。きくるま(葬星)と車はあってもよい。上臣(大臣か)の墓は内の大きさは上記に準ずる。外域は縦横七ひろ、高さ三ひろ、役夫は五百人、五日で終了。葬礼の垂帛たれきぬは白布、車は用いず輿こしを担って行け。下臣の墓は内は上記の通り、外域は縦横五尋、高さ二尋半。役夫は二百五十人、三日で終了。垂帛は白布を用いること、また上記に同じ。大仁だいにん小仁しょうにんの墓は内の長さ九尺、高さ巾四尺、封土ほうどなく平坦。役夫百人、一日で終了。大礼だいらい以下小智しょうち以上の墓は皆大仁だいにんに準ずる。役夫五十人。一日で終り、おおきみ以下小智しょうち以上の墓は小さい石を用いよ。垂帛は白布。庶民の死者は土中に埋めよ。垂帛は麁布あらきぬの。一日もとどめることなくすぐ葬れ。王以下庶民に至るまで、もがりを作ってはいけない。畿内うちつくにより諸国に至るまで場所を決めて収め埋め、方々に汚らわしく埋めてはならぬ。およそ人が死んだ時に、殉死したりあるいは殉死を強制したり、死者の馬を殉死させたり、死者のために宝を墓に収め、あるいは死者のために生きている者が断髪したり、股を刺したりして、しのびごとを述べたりする旧俗はことごとく皆やめよ。

ある本に金、銀、錦、綾、五綵いつくさのしみものを蔵めることもしてはならぬと。また諸臣より庶民に至るまで金、銀を使用してはならぬ、とある。

もしみことのりに背いて禁令を犯せば、必ずその一族を処罰する。また見ていながら見ないといつたり、見ないのに見たと言ったり、聞いていながら聞かなかったと言ったり、聞いていないのに聞いたなどと言う者がある。正しく語り正しく見ることなくして、巧みに偽る者も多い。また奴婢の身分の者で、主家の貧しいのを見限って富んだ家に移り、良い生活を求める者がある。富家は事情を知りつつ、自己のもとに留め、もとの主に代価を送らないということ も多い。また妻妾が夫に捨てられ、何年か後に他の人に嫁ぐのは普通のことであるが、この前夫が三、四年後に、後夫の財物を貪り取って、自分の物とする者も多い。また権勢を誇る男が、みだりに人の娘と契り、まだ家に迎えないうちに、女が他家の者になると、前の男は怒って、両家の財物を奪って、自分の物とする者も多い。また夫を亡くした女が、十年、二十年の後、人妻となったり、あるいははじめて嫁ぐ女にも嫉妬し、祓除の財物を強要することも多い。また、妻に嫌われた夫が、ひとり悩まされるのを恥じて、強いて離縁したように見せかけて、妻を事瑕ことさかめのこやっこ(掟に背いたためにめのこやっこ(女奴隷)とされたもの)とするものもある。またみ だりに自分の妻が、他人と通じたと疑って、官に訴えて裁きを乞う者がある。たとえ明らかな三人の証人があっても、皆で事実を明らかに申し立てて、その後に官にはかるべきである。 みだりに訴えをすべきでない。また辺境の役民が、任が終って郷里に帰る時、途中で病気になり路頭で死んだりする。すると路傍ろぼうの家の者が、『何故、自分の家の近くで人を死なせた』と責めて、死者のれに対して、はらえのつぐないを強要する。このため兄が道中で死んでも、弟がその始末をしないということも多い。また溺死した者があった時、それを目にした者が、『何故、溺死者を人に見せた』 と言って、れに祓えの償いを要求する。このため兄が河に溺れても救おうとしない者も多い。また役民が旅の途中、家のほとりで飯を炊ぐと、路傍の家の者が、『何故勝手に人の家の近くで飯を炊いた』と言って償いを要求する。またある人がこしきを借りて飯を炊いた。そのこしきが物に触れてひっくり返ったというだけで、持主が祓えはらえを強要する。このようなことは愚かしい習わしである。今、すベてやめて二度とすべきでない。また、ある人が京に上るとき、乗ってきた馬が疲労して、先に進めぬのを案じ、布二ひろ、麻二たば三河とみかわ尾張おわりの国の人に渡して雇い、馬を飼わせた。入京を果して帰還の時、すき一口を渡す答であった。ところが三河の人たちはうまく飼えないで、かえって馬をせさせ死なせてしまった。もしこれが良馬であれば、欲を起して巧みに偽り盗まれたなどと言う。もし牝馬ひんばで自分の家で孕めば、償いを要求してその馬を取ってしまう。噂に聴くとこのようである。故に今、制令を設けることとする。道中の国で馬を飼うには、人を雇ってそこの村長に詳しく告げ、報酬を払え。帰還の日に重ねて支払いをすることはない。もし馬を損なった時は、報酬の要はない。この掟に違背したら重罪に処す。市司いちのつかさ(市に出入りする商人より税を徴収する役人)や、要路の津済の渡子(渡し場で交通税を取る者)が、調賦を収めていたのをやめさせて、口分田を与え田租を徴する。畿内うちつくにおよび四方の国々に至るまで、農耕の月には田作りに専念させ、美物(魚)や酒を食することを禁ずる。心の正しい使者を遣わして、この旨を畿内うちつくにに告げよ。諸国の国造くにのみやつこたちも、ふさわしい人を使者に選び、みことのりの旨に従って、人々 を勤めさせよ」
と言われた。

品部の廃止

秋八月十四日、みことのりして、
「尋ねみれば天地陰陽は、四時を乱れさせることがない。思えばこの天地が万物を生じ、万物の中で人間が最も勝れている。その最も勝れたものの中で、聖なるものが人主である。それゆえ、聖主ひじりである天皇は、天の意志に従って天下を治めて、人々がその所を得ることを願い、少しも休むことがない。それなのに代々の天皇の御名をはじめとする名を、おみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこらは、自らが支配する品部しなじなのとものおにつけ、私有の民と品部とを同じ土地に雑居させている。そのため父子、兄弟、夫婦でも姓が変わって、一家が四分五裂し、このための争いや訴えが充満している。治まらず混乱すること甚だしい。それゆえ、現在の天皇からおみむらじに至るまで、持てる品部しなじなのとものおはすべてやめて、国家の民とする。代々の天皇の名を借りて伴造とものみやつこの名とし、その先祖の名を氏の名としている臣、連たちの、深く事情を解せぬものは、急にこの布告を聞いて、きっと思うであろう。『それでは先祖の名も、お借りした天皇の御名も消えてしまう』と。それであらかじめ自分の思うことを知らせよう。天皇の子が相ついで天下を治めれば、たしかにそのときの君と先祖の名とは世に忘れられないことは分る。しかし、天皇の名を軽々しく地名につけて、人民が呼びならすのは誠に恐れ多い。天皇の名は日月と共に長く伝わり、皇子の名は天地と共に長く存在する。このように思うから申し述べるが、皇子を始め卿大夫まえつきみたちおみむらじ伴造とものみやつこ、氏々の人々みな聞け。これからお前たちを使うかたちは、元の職を捨てて新たに百官を設け、位階を定めて官位を授けるのである。これから遣わす国司と国造は次のことを承知せよ。前年朝集使に命じた政は先のままにする。官に収め計測した田地は、口分田として公平に民に給し、不公平のないようにする。およそ田地を給するには、民の家に近い田を優先させる。この旨承知せよ。およそ調賦は男の身による調とする。仕丁は五十戸ごとに一人、国々の境界を見て文書に記すか、あるいは図に書いて持ってきて見せよ。国や県の名は報告にきた時に定めよう。国々のつつみを築くべき所、水路を掘るべき所、開墾すべき所は公平に与えて工事させよ。以上述べたことを承り理解せよ」
と言われた。

九月、小徳高向博士黒麻呂しょうとくたかむこのはかせくろまろ新羅しらぎに遣わして、人質を差出させるとともに、新羅から任那みまなの調を奉らせることを取り止めさせた。黒麻呂くろまろの別名は玄理げんり

この月、天皇は蝦蟇行宮かわずのかりみや(大阪高津)にお出でになった。

この年、越国こしのくにねずみが昼夜連なって東に向かって移動した。

三年春一月十五日、朝廷で射礼じゃらいがあった。
この日、高麗こま新羅しらぎが使者を遣わして調を奉った。

夏四月二十六日、みことのりして、
「神々は皇孫にこの国を治めさせようと授けられた。それゆえ天地の始めから天皇の治められる国であり、神武天皇の御代から、天下は皆ひとしく、民はあれこれの差別はなかった。ところがこの頃神の名、天皇の名が、民につけられたのをはじめ、民が別れて臣、連の氏人となったり、造らに属したりするようになった。このため国内の民心はあれこれ立場を固執するようになった。また愚かなおみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこはその姓とした神の名、天皇の名を、自分の心のままにみだりに人々や土地につけた。神の名や天皇の名をつけた部民が賂物まいない(不正な贈り物)とされて、他人の奴婢に入れられ、清い名を汚すことになる。ひいては民心も整わず、国政も治め難くなる。そこでこの度、天にまします神の心のままに治めるべき世に当たり、これらを悟らせ、国を治めることと民を治めることの、いずれを後先にすべきか、今日明日と順序を追ってみことのりをしよう。もともと天皇の仁政に頼り、旧俗になじんでいる民は、詔を待ちかねているであろう。故に皇子、群臣より諸の臣に至るまで、庸調を禄として与えるであろう」
と言われた。

この年、小郡おごりの建物を壊して宮を造った。
天皇はこの小郡宮おごおりのみやで礼法をつくられた。
その法に、
「およそ位にある者は、必ずとらの刻(午前4時)に南門の外に左右に並んで、日の射し昇る時を待って、広場に行って再拝し、それから政庁に入れ。もし遅刻した者は中に入ってはならぬ。うしの時(正午)になって鐘が鳴ったら帰ってよい。その鐘を鳴らす役人は、赤い布を前に垂らせ。その鐘の台は中庭に建てよ」

工人たくみ大山位倭漢直荒田井比羅夫だいせんいやまとのあやのあたいあらたいのひらぶは、溝を掘るのに誤って難波なにわに引き、そしてまた改めて掘ったため、人民を疲れさせた。
そこで上表して切に諫める者があった。
天皇はみことのりして、
「軽率に比羅夫ひらぶの間違った説を聞き、無駄な溝を掘ったのは自分の過ちであった」
と言われ、直ちに役を中止された。

冬十月十一日、天皇は有馬の湯にお出でになった。
左右の大臣おおおみ群卿大夫まえつきみたちらがお供した。

十二月のつごもり、天皇は湯から帰られて武庫むこ行宮かりみやに留まられた。
この日、皇太子の宮に火災が起きた。
当時の人は大いに驚き怪しんだ。

新冠位制

この年、七種十三階の冠位を制定した。
第一を織冠おりもののこうぶりといい、大小二階がある。
織物(綴錦つづれにしき)で作られ、刺纏ししゅうの飾りで冠のふちを取巻いている。
服の色は揃いで深紫である。
第二を繡冠ぬいもののこうぶりといい、大小二階がある。
繡で作られ、冠の縁や服の色は織冠おりもののこうぶりと同じ。
第三を紫冠むらさきのこうぶりといい、大小二階がある。
紫で作りおりもので冠の縁を取巻く。
服の色は浅紫あさむらさき
第四を錦冠にしきのこうぶりといい、大小二階がある。
その大錦冠だいきんのこうぶり大伯仙だいはくせん(錦の文様の一種)の錦で作られ、織で冠の縁を取巻いている。
小錦冠しょうきんのこうぶり小伯仙しょうはくせんの錦で作られ、大伯仙だいはくせんの錦で冠の縁を取り巻いている。
服の色は同じく真緋あけを用いる。
第五を青冠あおきこうぶりといい、青絹で作られ、大小二階がある。
大青冠だいしょうのこうぶりは大伯仙の錦で冠の縁を取巻いている。
小青冠しょうしょうのこうぶりは小伯仙の錦で、冠の縁を取巻いている。
服の色は共に紺を用いる。
第六を黒冠くろきこうぶりといい、大小二階がある。
大黒冠だいこくのこうぶりは車形の錦で冠の縁を取巻いている。
小黒冠しょうこくのこうぶりは菱形の錦で冠の縁を取巻く。
服の色は共に緑を用いる。
第七を建武けんむといい、これは黒絹くろきぬで作られ、ふかきはなだで冠の縁を取巻く。
十三階とは別に鐙冠つぼこうぶりというのがある。
黒絹で作られる。
冠の鉢巻きはうるし塗りのうすはたを張り、縁と細(正面の飾り)の高さ短さで区別する。
うずの形はせみに似ている。
小錦冠しょうきんのこうぶり以上のうずは金と銀を使って作る。
大小青冠だいしょうしょうのこうぶりの鈿は銀製である。
大小黒冠だいしょうこくのこうぶりの鈿は銅製で、建武けんむの冠は鈿はない。
これらの冠は大きな儀式の時、外国使臣の接待、四月(灌仏会)、七月(盂蘭盆会うらぼんえ)の斎式の時などに着用する。

新羅が上臣大阿滄金春秋じょうしんだいあさんこんしゅんじゅう(のちの武烈王)らを遣わして、博士小徳高向黒麻呂はかせしょうとくたかむこのくろまろ小山中中臣連押熊しょうせんちゅうなかとみのむらじおしくまを送り、孔雀くじゃく一羽、鸚鵡おうむ一羽を献上した。
春秋は人質として留まった。
春秋は容色美しく快活に談笑した。

淳足ぬたり新潟市沼垂)の栅を設けて栅戸(栅に配置した屯田兵とんでんへい)を置いた。
老人らは語りあって、
「このところ毎年ねずみが東に向って行くのは、栅が造られる前兆だったか」
といった。

四年一月一日、拝賀の礼があった。
この夕方、天皇は難波豊琦宮なにわとよさきのみやにお出でになった。

二月一日、三韓に学問僧を遣わした。

八日に阿倍大臣あべのおおおみが四衆(比丘びく比丘尼びくに優婆塞うばそく優婆夷うばい)を四天王寺に招き、仏像四軀を迎えて塔の内に納めた。
霊鷲山りょうじゅせん釈迦しゃかの浄土)の形を造った。
つづみを累積してこれを造った。

夏四月一日、古い冠制を廃した。
しかし左右両大臣はなお古冠を用いた。

この年、新羅しらぎが使者を遣して調を奉った。
磐船栅いわふねのき(新潟県村上市岩船)を作り、蝦夷えみしに備えた。
越国こしのくに信濃国しなののくにの民を選んで、栅戸きのへとして配した。

五年春一月一日、拝賀の式をした。

二月、前の冠制を改め、冠位十九階を制定した。
第一、大織だいしき
第二、小織しょうしき
第三、大繡だいしゅう
第四、小纏しょうしゅう
第五、大紫だいし
第六、小紫しょうし
第七、大花上だいかじょう
第八、大花下だいかげ
第九、小花上しょうかじょう
第十、小花下しょうかげ
第十一、大山上だいせんじょう
第十二、大山下だいせんげ
第十三、小山上しょうせんじょう
第十四、小山下しょうせんげ
第十五、大乙上だいおつじょう
第十六、大乙下だいおつげ
第十七、小乙上しょうおつじょう
第十八、小乙下しょうおつげ
第十九、立身りゅうしんという。

この月、博士高向玄理はかせたかむこのげんりと僧みんとにみことのりして、八省百官の制度を考えさせた。

蘇我倉山田麻呂冤罪

三月十七日、阿倍左大臣あべのひだりのおとど薨去こうきょした。
天皇は朱雀門すざくもんにおでましになり、死者を悼んで挙哀こあい死者の前で哭泣する儀礼)して号泣された。
皇極上皇、皇太子および諸公卿すべて付き従って哭泣こくきゅうした。
二十四日、蘇我臣日向そがのおみひむか右大臣蘇我倉山田麻呂みぎのおとどそがのくらのやまだのまろを皇太子に讒言ざんげんし、
「私の異母兄麻呂は、皇太子が海辺にお出でになっている時を狙って、そこなうことを企んでいます。背くことは遠くはないでしょう」
と言った。
皇太子はそれを信用された。

天皇は大伴狍連おおとものこまのむらじ三国麻呂公みくにのまろのきみ穂積嚙臣ほづみのくいのおみ蘇我倉山田麻呂そがのくらのやまだのまろのもとに遣わして、謀反のことの虚実を問われた。
大臣は答えて、
「御返事は直接天皇の面前で申し上げたい」
と言った。
天皇はまた三国麻呂みくにまろ穂積嚙臣ほづみのくいのおみを遣わして、審かにしようとされたが、麻呂大臣まろのおおおみはまた前のごとく述べた。

天皇は兵を遣わして大臣の家を包囲させようとした。
大臣は二人の子、法師と赤猪をつれて、茅淳ちぬの道から逃れて、大和の国の境に行った。
大臣の長子の興志こごしは、これより先大和にあって、山田寺を造っていた。
突然父が逃げてくるということを聞いて、今来いまき高市郡たけちのこおり)の大概の木の下に迎えて、先に立って寺に入った。
興志こごしは大臣に、
「私が先に立って襲撃軍を防ぎましょう」
と言った。
大臣は許さなかった。
興志こごしは心に小墾田宮おはりだのみやを焼こうと思い、兵士を集めた。
二十五日、大臣は興志こごしに、
「お前は命が惜しいか」
と言った。
興志は
「惜しくはあり ません」
と言った。
大臣はそこで山田寺の衆僧及び興志と、数十人に語った。
「人の臣たる者は、どうして君に逆らうことを企て、父に孝を失すべきであろうか。およそこの寺は、もともと自分のために造ったものではない。天皇のためをお祈りして造ったものである。今、私は日向ひむかに讒言されて、無謀に誅されようとしている。せめてもの願いは、黄泉国よみのくにに行っても、忠を忘れないことである。寺にやってきたのは、安らかに終りのときを迎えようと思ったまでである」

言い終って金堂の戸を開いて誓いを立てて、
「私は世々の末まで決して我が君を恨みません」
と言い、誓い終って自ら首をくくって死んだ。
妻子ら死に殉ずる者は八人であった。

この日、大伴狛連おおとものこまのむらじ蘇我日向臣そがのひむかのおみを将として、兵を率い大臣を追わされた。
大伴連おおとものむらじらが黒山くろやま(大阪府黒山)に至ると、土師連身はじのむらじむ采女臣使主麻呂うねめのおみおみまろが、山田寺から馳せ来たって告げ、
蘇我大臣そがのおおおみはすでに三男一女と共に、首をくくって死にました」
と言った。
将軍らは丹比坂たじひのさかから引き返した。

二十六日、山田大臣やまだのおおおみの妻子や従者で、自ら首をくくって死ぬ者が多かった。

穂積臣嚙ほずみのおみくいは大臣の一党の田ロ臣筑紫たぐちのおみつくしらを拉致し、首かせをかけ、後ろ手に縛った。
この夕方、木臣麻呂きのおみまろ蘇我臣日向すがのおみひむか穂積臣嚙ほずみのおみくいは兵を率いて寺を囲んだ。
物部二田造塩もののべのふつたのみやつこしおを呼んで、大臣の首を斬らせた。
二田塩ふつたのしおは太刀を抜いてその肉を刺し、叫び声を挙げてこれを斬った。

三十日に山田大臣やまだのおおおみのことに連座して殺された者は、田ロ臣筑紫たつぎのおみつくし耳梨道徳みみなしのどうとこ高田醜雄たかたのしこお額田部湯坐連ぬかたべのゆえのむらじ秦吾寺はたのあてららすべて十四人。
絞首された者九人。
流された者十五人であった。

この月、使者を遣わして、山田大臣の資財を没収した。
資財の中の優れた書物の上には皇太子の書、重宝の上には皇太子の物と記してあった。
使者は帰ってその有様を報告した。
皇太子は始めて大臣の心の貞潔なことを知って、深く後悔し、悲しみ嘆くことがやまなかった。
日向臣ひむかのおみ筑紫宰つくしのかみに命じた。
世間の人々は語って、
「これは隠流しのびながし栄転のかたちで配流すること)だろう」
と言った。

皇太子の妃蘇我造媛みめそがのみやつこひめ(山田大臣の娘)は父の大臣が塩に斬られたときいて、心を傷つけ悲しみもだえた。
しおの名を聞くことを憎んだ。
このため造媛みやつこひめに近侍する者は、しおの名を言うことを忌み、改めて堅塩かたしおと言った。
造媛みやつこひめは心を傷つけられ死に至った。
皇太子は造媛の死を聞いて、悲しみいたみ激しく泣かれた。
野中川原史満のなかのかわらのふびとみつが歌をつくって奉った。

ヤマカハニ、ヲシフタツヰテ、タグヒヨク、夕グへルイモヲ、夕レカヰニケム。

山川に鴛鴦おしどりが二つ並んでいるように、仲良く並んでいる媛を、誰が連れ去ったのだろうか。(その一)


モ卜ゴ卜ニ、ハナハサケドモ、ナニ卜カモ、ウツクシイモガ、マタサキテコヌ。

一本一本にそれぞれ花は咲くのに、どうしていとしい妹という花が、また咲いてこないのだろう。(そのニ)

皇太子は悲しみながら褒めて、
「良い歌だ、悲しいことだ」
と言われ、琴を授けて唱和させられ、絹四匹、布二十端、綿二かますを褒美に賜わった。

夏四月二十日、小紫しょうし巨勢徳陀古臣こせのとこだこのおみ大紫だいしの位を授け左大臣ひだりのおとどとした。
小紫の大伴長徳連おおとものながとこのむらじに大紫を授けて右大臣みぎのおとどとした。

五月一日、小花下しょうかげ三輪君色夫みわのきみしこぶ大山上だいせんじょう掃部連角麻呂かにもりのむらじつのまろらを新羅しらぎに遣わした。
この年、新羅王は沙喙部沙滄金多遂さとくほうささんこんたすいを遣わして人質とした。
従者は三十七人であった。
そう一人、侍郎じろう二人、 よう一人、達官郎だちかんろう一人、中客なかつまろうと五人、オ伎てひと十人、通訳つうやく一人、雑仕ぞうし十六人、計三十七人。

白雉の出現

白雉元年一月一日、天子は御車で味経宮あじふのみやにお越しになり、拝賀の礼を行われた。この日に御車は宮に帰られた。
二月九日、長門国司草壁連醜経ながとのくにのみこともちくさかべのむらじしこぶ白雉しろきぎすを奉って、
国造首くにのみやつこのおびとの一族のにえが、一月九日に麻山おのやまで手に入れました」
と言った。
これを百済君豊璋くだらのきみほうしょうに尋ねられた。
百済君は、
「後漢の明帝の永平十一年に、白雉があちこちにみられたと申します」
云々といった。
また法師たちに問われた。
法師たちは答えて、
「まだ耳にせぬことで、目にも見ません。天下に罪を許して民の心を喜ばせられたらよいでしょう」
と言った。
道登法師どうとうほうしが言うのに、
「昔、高麗こまの国で伽藍てらを造ろうとして、建てるべき地をくまなく探しましたところ、白鹿しろしかがゆっくり歩いているところがあって、そこに伽藍を造って、白鹿薗寺びゃくろくおんじと名づけ仏法を守ったといいます。また白雀しろきすずみが、ある寺の寺領で見つかり、国人はみな『休祥よきさが(大きな吉祥)だなあ』と言いました。また、大唐に遣わされた使者が、死んだ三本足の烏を持ち帰った時も、国人はまた『めでたいしるしだ』と申しました。これらは些細なものですが、それでも祥瑞しょうずいと言われました。まして白雉しろきぎすとあればおめでたいことです」

みんも、
「これは休祥よきさがといって珍しいものです。私の聞きますところ、王者の徳が四方に行き渡るときに、白雉しろきぎすが現れるということです。また、王者の祭祀が正しく行なわれ、宴会、衣服等に節度のあるときに現れると。また、王者の行ないが清素しずかなときは、山に白雉が出て、また王者が仁政を行なっておられるときに現れる、と申します。しゅう成王じょうおうの時に越裳おつじょう氏が来て、白雉を奉って、『国の老人の言うのを聞くと、長らく大風淫雨もなく、海の波も荒れず三年になります。これは思うに聖人が国の中におられるからでしょう。何故、行って拝朝しないのだ、とのことでした。それで三ヵ国の通訳を重ねて、はるばるやって来ました』と言ったということです。またしん武帝ぶてい咸寧かんねい元年に、松滋しょうじ県でも見られたことです。正しく吉祥でありますので、天下に罪を許されるがよいでしょう」
と言った。

それで白雉しろきぎすを園に放たれた。
十五日に朝廷では元日の儀式のように、儀仗兵ぎじょうへいが威儀を整えた。
左右大臣、百官の人々が四列に御門の外に並んだ。

粟田臣飯虫あわたのおみいいむしら四人にきぎす輿こしを担がせ、先払いをして進み、左右大臣、百官ひゃっかん及び百済くだら豊璋ほうしょう君、その弟の塞城さいじょう忠勝ちゅうしょう高麗こまの侍医である毛治もうじ、新羅の侍学士じがくし家庭教師)などがこれに従って、中庭に進んだ。
三国公麻呂みくにのきみまろ猪名公高見いなのきみたかみ三輪君甕穂みわのきみみかほ紀臣乎麻呂岐太きのおみおまろきだの四人が、代ってきぎす輿こしをとり、御殿の前に進み、そこで左右大臣が輿の前をかき、伊勢王いせのおおきみ三国公麻呂みくにのきみまろ倉臣小屎くらのおみおくそが輿の後をかき、御座の前に置いた。
天皇は皇太子を召され、共に雉を手にとって御覧になった。
皇太子は退いて再拝された。
巨勢大臣こせのおおおみに賀詞を奉らせ、
「公卿百官の者どもが賀詞を奉ります。陛下がお徳をもって、平らかに天下を治められますので、ここに白雉しろきぎすが西の方から現れました。何とぞ陛下は千秋万歳ちよよろずに至るまで、四方の大八島をお治め下さい。公卿、百官、あらゆる百姓も忠誠を尽して、勤めお仕えいたします」
と述べ奉り、終って再拝した。

すると天皇はみことのりされて、
聖王ひじりのきみが世に出でて天下を治めるときに、天が応えてめでたい徴を示すという。昔、西の国の君、しゅう成王じょうおうの世と、かん明帝みょうだいの時とに白雉しろきぎすが現れた。我が国では応神天皇おうじんてんのうの世に、白いからすが宮殿に巣を作り、仁徳天皇にんとくてんのうの時に竜馬りゅうめが西に現れた。このように古くから今に至るまで、祥瑞しょうずいが現れて有徳の君に応えることは、その例が多い。いわゆる鳳凰ほうおう麒麟きりん白雉びゃくち白烏びゃくう、こうして鳥獣から草木に至るまで、めでたいしるしとして現れるのは、皆、天地の生むところのものである。英明の君がこのような祥瑞しょうずいを受けられるのはもっともであるが、不肖ふしょうの私がどうしてこれを受けるに値しようか。思うに、これは専ら、私を助けてくれる公卿くぎょうおみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこらが、それぞれの誠を尽して、制度を遵奉じゅんぽうしてくれるからである。ゆえに、公卿くぎょうより百官ひゃっかんに至るまで、清く明らかな心をもって、神祇を敬い、皆でこの吉祥を受けて、天下をいよいよ栄えさせて欲しい」
と言われた。

またみことのりして、
「四方の諸のくにこおりなど、天が委ね授けられるので、私がまとめ天下を統治している。今、我が祖先の神のお治めになる長門国ながとのくにからめでたいしるしがあった。それゆえに、天下に大赦たいしゃを行い、白雉はくち元年と改元する」
と言われた。

よって鷹を長門の地方に放って生きものを捕えることを禁じ、公卿大夫まえつきみたち以下、ふびとに至るまで、位に応じて下賜品を頂いた。
国司草壁連醜経くにのつかさくさかべのむらじしこぶを褒めて、大山だいせんの位を授け、また多くのろくを賜わった。
また長門国ながとのくにに三年間の調役を免除された。

夏四月、新羅が使者を遣わして調を奉った。
冬十月、宫の地に編入されるために、墓を壊された人、及び住居を遷された人々に、それぞれに応じた御下賜があった。
将作大匠荒田井直比羅夫たくみのつかさあらたいのあたいひらぶを遣わして、宮地の境界標を立てさせた。

この月、丈六の繡仏ぬいもののほとけ脇侍きょうじ八部はつぶ(八部衆)などの三十六体の像を造りにかかった。

この年、漢山ロ直大口あやのやまぐちのあたいおおくちみことのりを承って、千仏の像を刻んだ。
倭漢直県やまとのあやのあたいあがた白髪部連鐙しらかべのむらじあぶみ難波吉士胡床なにわのきしあぐら安芸国あきのくにに遣わして、百済船二隻を造らせられた。

二年春三月十四日、丈六の繡仏ぬいもののほとけなどが出来上った。

十五日、皇極上皇こうぎょくじょうこうは十人の法師たちを招いて斎会さいえを行なわれた。

夏六月、百済くだら新羅しらぎが使者を遣わして調を奉り、物を献上した。

冬十二月の晦日、味経宮あじふのみやで二千百余人の僧尼を招いて、一切経いっさいきょうを読ませられた。
この夕、 二千七百余の灯を朝の庭にともして、安宅経あんたくきょう土側経どそくきょうなどの経を読まされた。

このとき天皇は大郡おおごおりから遷って、新宮にお出でになった。
この宫を名づけて難波長柄豊琦宮なにわながらとよさきのみやという。
この年、新羅しらぎの貢調使知万沙滄ちまささんらは、もろこしの国の服を着て筑紫ちくしに着いた。
朝廷では勝手に服制を変えたことを悪んで、責めて追い返された。
巨勢大臣こせのおおおみがそのとき申し上げた。
「今、新羅を討たれなかったら、きっと後に悔いを残すことになるでしょう。そのやり方は難しくはありません。難波津なにわづから筑紫の海に至るまで、船をいっぱいに並べて、新羅を呼びつけてその罪をただせば、たやすく出来るでしょう」

三年春一月一日、元日の拝礼が終って、みかどの車駕は大郡宮おおごおりのみやにお出でになった。
正月から この月に至るまでに、班田はんだ(公民に田地を分ち与える)は終った、およそ田は長さ三十歩を段とする。
広さ十二歩が省略か脱落。このあたり脱落のため難解となっている
十段を町とする。
一段につき租稲一束半、一町につき租稲十五束。

三月九日、車駕は宮に帰られた。

夏四月十五日、僧恵隠えおんを内裏に召され、無量寿経むりょうじゅきょうを説かしめられた。
恵隠えおんを講者に、僧恵資えしを問者にして法門論議ほうもんろんぎが行なわれ、僧一千人が作聴衆さちょうじゅ聴衆)となった。

二十日、講が終った。
この日から雨が降り続き、九日間に及んで、家が壊れ、水田が損なわれた。
人および牛馬の溺死するものが多かった。

この月に戸籍を造った。
五十戸を里とし、里ごとに長一人を置いた。
戸主は家長をあてる。
五戸をもって保(隣保団体)とする。
中の一人を長とし、検察の役目をする。

新羅、百済が使者を遣わし調を奉った。

秋九月、豊琦宮とよさきのみやの造営は終わった。
その宮殿の有様は、例えようのない程のものであった。

冬十二月晦日、天下の僧尼を内裏に招いて斎会さいえを設け、大捨だいしゃ(座禅修行)と燃灯ねんとう(沢山の火を灯して供養する行事)を行なった。

四年夏五月十二日、大唐に遣わす大使である小山上の吉士長丹きしのながに、副使である小乙の上吉士駒きしのこま、学問僧の道厳どうごん道通どうつう道光どうこう恵施えせ覚勝かくしょう弁正べんしょう恵照えしょう僧忍そうにん知聡ちそう道昭どうしょう定恵じょうえ安達あんだち道観どうかん、学生の巨勢臣薬x、氷連老人(ひのむらじおきな)

白雉元年一月一日、天子は御車で味経宮あじふのみやにお越しになり、拝賀の礼を行われた。この日に御車は宮に帰られた。
二月九日、長門国司草壁連醜経ながとのくにのみこともちくさかべのむらじしこぶ白雉しろきぎすを奉って、
国造首くにのみやつこのおびとの一族のにえが、一月九日に麻山おのやまで手に入れました」
と言った。
これを百済君豊璋くだらのきみほうしょうに尋ねられた。
百済君は、
「後漢の明帝の永平十一年に、白雉があちこちにみられたと申します」
云々といった。
また法師たちに問われた。
法師たちは答えて、
「まだ耳にせぬことで、目にも見ません。天下に罪を許して民の心を喜ばせられたらよいでしょう」
と言った。
道登法師どうとうほうしが言うのに、
「昔、高麗こまの国で伽藍てらを造ろうとして、建てるべき地をくまなく探しましたところ、白鹿しろしかがゆっくり歩いているところがあって、そこに伽藍を造って、白鹿薗寺びゃくろくおんじと名づけ仏法を守ったといいます。また白雀しろきすずみが、ある寺の寺領で見つかり、国人はみな『休祥よきさが(大きな吉祥)だなあ』と言いました。また、大唐に遣わされた使者が、死んだ三本足の烏を持ち帰った時も、国人はまた『めでたいしるしだ』と申しました。これらは些細なものですが、それでも祥瑞しょうずいと言われました。まして白雉しろきぎすとあればおめでたいことです」

みんも、
「これは休祥よきさがといって珍しいものです。私の聞きますところ、王者の徳が四方に行き渡るときに、白雉しろきぎすが現れるということです。また、王者の祭祀が正しく行なわれ、宴会、衣服等に節度のあるときに現れると。また、王者の行ないが清素しずかなときは、山に白雉が出て、また王者が仁政を行なっておられるときに現れる、と申します。しゅう成王じょうおうの時に越裳おつじょう氏が来て、白雉を奉って、『国の老人の言うのを聞くと、長らく大風淫雨もなく、海の波も荒れず三年になります。これは思うに聖人が国の中におられるからでしょう。何故、行って拝朝しないのだ、とのことでした。それで三ヵ国の通訳を重ねて、はるばるやって来ました』と言ったということです。またしん武帝ぶてい咸寧かんねい元年に、松滋しょうじ県でも見られたことです。正しく吉祥でありますので、天下に罪を許されるがよいでしょう」
と言った。

それで白雉しろきぎすを園に放たれた。
十五日に朝廷では元日の儀式のように、儀仗兵ぎじょうへいが威儀を整えた。
左右大臣、百官の人々が四列に御門の外に並んだ。

粟田臣飯虫あわたのおみいいむしら四人にきぎす輿こしを担がせ、先払いをして進み、左右大臣、百官ひゃっかん及び百済くだら豊璋ほうしょう君、その弟の塞城さいじょう忠勝ちゅうしょう高麗こまの侍医である毛治もうじ、新羅の侍学士じがくし家庭教師)などがこれに従って、中庭に進んだ。
三国公麻呂みくにのきみまろ猪名公高見いなのきみたかみ三輪君甕穂みわのきみみかほ紀臣乎麻呂岐太きのおみおまろきだの四人が、代ってきぎす輿こしをとり、御殿の前に進み、そこで左右大臣が輿の前をかき、伊勢王いせのおおきみ三国公麻呂みくにのきみまろ倉臣小屎くらのおみおくそが輿の後をかき、御座の前に置いた。
天皇は皇太子を召され、共に雉を手にとって御覧になった。
皇太子は退いて再拝された。
巨勢大臣こせのおおおみに賀詞を奉らせ、
「公卿百官の者どもが賀詞を奉ります。陛下がお徳をもって、平らかに天下を治められますので、ここに白雉しろきぎすが西の方から現れました。何とぞ陛下は千秋万歳ちよよろずに至るまで、四方の大八島をお治め下さい。公卿、百官、あらゆる百姓も忠誠を尽して、勤めお仕えいたします」
と述べ奉り、終って再拝した。

すると天皇はみことのりされて、
聖王ひじりのきみが世に出でて天下を治めるときに、天が応えてめでたい徴を示すという。昔、西の国の君、しゅう成王じょうおうの世と、かん明帝みょうだいの時とに白雉しろきぎすが現れた。我が国では応神天皇おうじんてんのうの世に、白いからすが宮殿に巣を作り、仁徳天皇にんとくてんのうの時に竜馬りゅうめが西に現れた。このように古くから今に至るまで、祥瑞しょうずいが現れて有徳の君に応えることは、その例が多い。いわゆる鳳凰ほうおう麒麟きりん白雉びゃくち白烏びゃくう、こうして鳥獣から草木に至るまで、めでたいしるしとして現れるのは、皆、天地の生むところのものである。英明の君がこのような祥瑞しょうずいを受けられるのはもっともであるが、不肖ふしょうの私がどうしてこれを受けるに値しようか。思うに、これは専ら、私を助けてくれる公卿くぎょうおみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこらが、それぞれの誠を尽して、制度を遵奉じゅんぽうしてくれるからである。ゆえに、公卿くぎょうより百官ひゃっかんに至るまで、清く明らかな心をもって、神祇を敬い、皆でこの吉祥を受けて、天下をいよいよ栄えさせて欲しい」
と言われた。

またみことのりして、
「四方の諸のくにこおりなど、天が委ね授けられるので、私がまとめ天下を統治している。今、我が祖先の神のお治めになる長門国ながとのくにからめでたいしるしがあった。それゆえに、天下に大赦たいしゃを行い、白雉はくち元年と改元する」
と言われた。

よって鷹を長門の地方に放って生きものを捕えることを禁じ、公卿大夫まえつきみたち以下、ふびとに至るまで、位に応じて下賜品を頂いた。
国司草壁連醜経くにのつかさくさかべのむらじしこぶを褒めて、大山だいせんの位を授け、また多くのろくを賜わった。
また長門国ながとのくにに三年間の調役を免除された。

夏四月、新羅が使者を遣わして調を奉った。
冬十月、宫の地に編入されるために、墓を壊された人、及び住居を遷された人々に、それぞれに応じた御下賜があった。
将作大匠荒田井直比羅夫たくみのつかさあらたいのあたいひらぶを遣わして、宮地の境界標を立てさせた。

この月、丈六の繡仏ぬいもののほとけ脇侍きょうじ八部はつぶ(八部衆)などの三十六体の像を造りにかかった。

この年、漢山ロ直大口あやのやまぐちのあたいおおくちみことのりを承って、千仏の像を刻んだ。
倭漢直県やまとのあやのあたいあがた白髪部連鐙しらかべのむらじあぶみ難波吉士胡床なにわのきしあぐら安芸国あきのくにに遣わして、百済船二隻を造らせられた。

二年春三月十四日、丈六の繡仏ぬいもののほとけなどが出来上った。

十五日、皇極上皇こうぎょくじょうこうは十人の法師たちを招いて斎会さいえを行なわれた。

夏六月、百済くだら新羅しらぎが使者を遣わして調を奉り、物を献上した。

冬十二月の晦日、味経宮あじふのみやで二千百余人の僧尼を招いて、一切経いっさいきょうを読ませられた。
この夕、 二千七百余の灯を朝の庭にともして、安宅経あんたくきょう土側経どそくきょうなどの経を読まされた。

このとき天皇は大郡おおごおりから遷って、新宮にお出でになった。
この宫を名づけて難波長柄豊琦宮なにわながらとよさきのみやという。
この年、新羅しらぎの貢調使知万沙滄ちまささんらは、もろこしの国の服を着て筑紫に着いた。
朝廷では勝手に服制を変えたことを悪んで、責めて追い返された。
巨勢大臣こせのおおおみがそのとき申し上げた。
「今、新羅を討たれなかったら、きっと後に悔いを残すことになるでしょう。そのやり方は難しくはありません。難波津なにわづから筑紫の海に至るまで、船をいっぱいに並べて、新羅を呼びつけてその罪をただせば、たやすく出来るでしょう」

三年春一月一日、元日の拝礼が終って、帝の車駕は大郡宮おおごおりのみやにお出でになった。
正月から この月に至るまでに、班田はんだ(公民に田地を分ち与える)は終った、およそ田は長さ三十歩を段とする。
(広さ十二歩が省略か脱落。このあたり脱落のため難解となっている)
十段を町とする。
一段につき租稲一束半、一町につき租稲十五束。

三月九日、車駕は宮に帰られた。

夏四月十五日、僧恵隠えおんを内裏に召され、無量寿経むりょうじゅきょうを説かしめられた。
恵隠えおんを講者に、僧恵資えしを問者にして法門論議ほうもんろんぎが行なわれ、僧一千人が作聴衆さちょうじゅ(聴衆)となった。

二十日、講が終った。
この日から雨が降り続き、九日間に及んで、家が壊れ、水田が損なわれた。
人および牛馬の溺死するものが多かった。

この月に戸籍を造った。
五十戸を里とし、里ごとに長一人を置いた。
戸主は家長をあてる。
五戸をもって保(隣保団体)とする。
中の一人を長とし、検察の役目をする。

新羅しらぎ百済くだらが使者を遣わし調を奉った。

秋九月、豊琦宮とよさきのみやの造営は終わった。
その宮殿の有様は、例えようのない程のものであった。

冬十二月晦日、天下の僧尼を内裏に招いて斎会さいえを設け、大捨たいしゃ座禅修行)と燃灯ねんとう沢山の火を灯して供養する行事)を行なった。

四年夏五月十二日、大唐おおもろこしに遣わす大使である小山上の吉士長丹きしのながに、副使である小乙の上吉士駒きしのこま、学問僧の道厳どうごん道通どうつう道光どうこう恵施えせ覚勝かくしょう弁正べんしょう恵照えしょう僧忍そうにん知聡ちそう道昭どうしょう定恵じょうえ安達あんだち道観どうかん、学生の巨勢臣薬こせのおみくすり氷連老人ひのむらじおきな

ある本には、学問僧の知弁ちべん義徳ぎとく、学生の坂合部連磐積さかいべのむらじいわつみを加えている

すべて百二十一人が、一つの船に乗った。
室原首御田むろはらのおびとみやを送使とした。
第二組の大使である大山下の高田首根麻呂たかたのおびとねまろ、副使である小乙上の掃守連小麻呂かにもりのむらじおまろ、学問僧の道福どうふく義尚ぎきょう、すべて百二十人が別の一つの船に乗った。
土師連八手はじのむらじやつでを送使とした。

この月、天皇はみん法師の僧房にお出でになり、病を見舞われ、親しくお言葉を伝えられた。

ある本によると、五年七月、僧みん阿曇寺あずみでらで病臥し、天皇が行幸され、親しく手を取っ て、
「もし法師が今日亡くなれば、自分はお前を追って明日にでも死ぬだろう」
と仰せられたとある。

六月、百済、新羅が使者を遣わして調を奉り、物を献上した。
また各所の大道を修理した。
天皇は僧旻が死んだことを聞かれ、弔問使を遣わし、たくさんの贈物を贈られた。
皇極上皇こうぎょくじょうこう、皇太子ら皆、使者を遣わして、喪を弔わせ、法師のために画工拍竪部子麻呂えかきこまのたてべのこまろ鯽魚戸直ふなとのあたいらに命じて、仏像や菩薩の像を多く造り、川原寺かわらでらに安置した。

ある本には山田寺にとある。

秋七月、大唐おおもろこしに遣わされる使者である高田根麻呂たかたのねまろらが、薩摩さつまくま竹島たかしまの間で、船が衝突し、沈没して死んだ。
ただ五人だけが胸を板に託して竹島に流れついたが、何とも致し方なかった。

五人の中の門部金かどべのかねが、竹を採っていかだを作り神島しとけしまに着いた。
この五人は六日六夜の間、全く食べ物もなかった。
後、かねを褒めて位を進めろくを賜わった。

皇太子、飛鳥に移る

この年、太子は奏上して、
やまとの京に遷りたいと思います」
と言われた。
しかし、天皇は許されなかった。

皇太子は皇極上皇こうぎょくじょうこう間人皇后はしひとのきさき大海人皇子おおあまのみこらを率いて、倭の飛鳥河辺行宮あすかかわべのかりみやにお入りになった。
公卿大夫まえつきみたち百官ひゃっかんの人々など、皆、つき従って遷った。
これによって、天皇は恨んで位を去ろうと思われ、宮を山琦やまさき京都府大山崎)に造らせられた。
歌を間人皇后はしひとのきさきに送られた。

カナキツケ、アガカフコマハ、ヒキデセズ、アガカフコマヲ、ヒトミツラム力。

かなき馬が逃げないように首にはめておく木)をつけて、私が飼っている馬は、うまやから引き出しもせずに、大切に飼っていたのに、どうして他人が親しく見知るようになり、連れ去ったのだろう。

と詠まれた。

五年春一月一日、夜、ねずみやまとの都に向って走った。
紫冠を中臣鎌足連なかとみのかまたりのむらじに授け、若干の増封をされた。

二月、大唐おおもろこしに遣わす押使すべつかい身分の高い使者)である大錦上の高向史玄理たかむこのふびとげんり、大使である小錦下の河辺臣麻呂かわべのおみまろ、副使である大山下の薬師恵日くすしのえにち、判官である大乙上の書直麻呂ふみのあたいまろ宮首阿弥陀みやのおびとあみだ、小乙上の岡君宜おかのきみよろし置始連大伯おきそめのむらじおおく、小乙下の中臣間人連老なかとみのはしひとのむらじおゆ田辺史鳥たなべのふびととりらが二船に分乗した。
数ヶ月かけて新羅道(北路)を辿り、 萊州らいしゅう(山東半島の北岸)に着いた。
ようやく長安京ちょうあんのみやこに至って、高宗帝こうそうていに拝謁した。
東宮監門郭丈挙とうぐうのかんもんかくじょきょは、詳しく日本国の地理と国初の神の名などを尋ねた。
皆、問いに対して答えた。
押使すべつかい高向玄理たかむこのふびとげんり大唐おおもろこしの地で死んだ。

伊吉博徳いきのはかとこが言うところによると、学問僧恵妙えみょうもろこしで死に、知聡ちそうは海で死んだ。
智国ちこくも海で死んだ。
智宗ちそうは庚寅の年(持統四年)に新羅の船にのって帰国した。
覚勝かくしょうは唐で死んだ。
義通ぎつうは海で死んだ。
定恵じょうえは乙丑の年(天智四年)、劉徳高りゅうとくこうらの船に乗って帰った。
妙位みょうい法勝ほうしょう、学生の氷連老人ひのむらじおきな高黄金こうおんこんら合せて十二人、それに倭種やまとのうじ日本人との混血児)の韓智興かんちこう趙元宝ちょうがんほうは今年、使者と共に帰国した。

夏四月、吐火羅国とからこくの男二人、女二人、舎衛しゃえの女一人、風に会って日向ひむかに漂着した。

秋七月二十四日、西海使にしのみちのつかい(前年の遣唐使の第一組)の吉士長丹きしのながにらが、百済、新羅の送使と共に筑紫に着いた。

この月、西海使にしのみちのつかいらがもろこしの天子にお目にかかり、多くの文書、宝物を得たことを褒めて、小山上の大使である吉士長丹きしのながにに少花下を授け、二百戸の封戸ふこを賜った。

また呉氏くれのうじの姓を賜わった。
小乙上の副使である吉士駒きしのこまに小山上を授けられた。

冬十月一日、皇太子は天皇が病気になられたと聞かれて、皇極上皇こうぎょくじょうこう間人皇后はしひとのきさき大海人皇子おおあまのみこ公卿らくぎょうを率いて、難波宮なにわのみやに赴かれた。

十日、天皇は正殿で崩御された。
殯宮もがりのみやを南庭に建てた。
小山上の百舌鳥土師連土徳もずのはじのむらじつちとこに殯宮のことを司らせた。

十二月八日、大坂磯長陵おおさかしながのみささぎに葬った。
この日、皇太子は皇極上皇を尊んで、 倭河辺行宮やまとのかわらのかりみやにお移し申された。
ある老人は語って、
ねずみやまとの都に向かって行ったのは、都を移す前兆だったのだ」
と言った。

この年、高こま百済くだら新羅しらぎが使者を遣わして弔い奉った。

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