日本書紀・日本語訳「第三巻:神武天皇」

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神武天皇・神日本磐余彦天皇

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東征への出発

日本磐余彦天皇カムヤマトイワレビコノスメラミコトただのみな(実名)は、彦火火出見ヒコホホデミという。
鸕鷀草葺不合尊ウガヤフキアエズノミコトの第四子である。
母は玉依姫タマヨリヒメといい、海神豊玉彦ワタツミトヨタマヒコの二番目の娘である。
天皇は生まれながらにして賢い人で、気性がしっかりしておられた。
十五歳で皇太子となられた。
成長されて、日向国吾田邑ひむかのくにあたのむら吾平津媛アヒラツヒメを娶とって妃とされた。
手研耳命タギシミミノミコトを生まれた。

四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに語られた。
「昔、高皇産霊尊タカミムスヒノミコト天照大神アマテラスオオミカミが、この豊葦原瑞穂国とよあしはらみずほのくにを、祖先の璦瓊杵尊ニニギノミコトに授けられた。そこで瓊瓊杵尊は天の戸を押し開き、路をおし分け先払いを走らせてお出でになった。このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨されてから、百七十九万ニ千四百七十余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた塩土シオツツの翁に聞くと、『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟いわふねに乗って、とび降ってきた者がある』と言うのです。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日ニギハヤヒというものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」

諸皇子たちも、
「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」
と申された。
この年は太歳の甲寅たいさいのきのえとらである。

その年冬十月五日に、天皇は自ら諸皇子と舟軍を率いて、東征に向われた。

豊予海峡(速吸之門)

速吸之門はやすいなと豊予海峡)にお出でになると、一人の漁人あまが小舟に乗ってやってきた。
天皇は呼びよせてお尋ねになり、
「お前は誰か」
と言われた。

漁人は、
「私は土着の神で、珍彦ウズヒコと申します。曲の浦わだのうらに釣りにきており、天つ神あまつかみの御子がおいでになると聞いて、特にお迎えに参りました」
と答えた。
天皇はまた尋ねる。
「お前は私のために道案内をしてくれるか」
すると海人は、
「御案内しましょう」
と言った。

天皇は命じて、漁人あま椎竿しいさおの先を差し出し、つかまらせて舟の中に引き入れ、水先案内とされた。
そこで特に名を賜って椎根津彦シイネツヒコとされた。
これが倭直やまとのあたいの先祖である。

宇佐・宇佐神宮

筑紫ちくしの国の宇佐に着いた。
すると宇佐の国造くにのみやつこの先祖で宇佐津彦ウサツヒコ宇佐津姫ウサツヒメという者があった。
宇佐の川のほとりに、足一つあがりの宮(川の中へ片側を入れ、もう一方は川岸へかけて構えられた宮)を造っておもてなしをした。
このときに宇佐津姫ウサツヒメ侍臣ししん天種子命アマノタネノミコトに娶あわされた。 天種子命アマノタネノミコト中臣氏なかおみのうじの先祖である。

十一月九日、天皇は筑紫国ちくしのくに岡水門おかのみなとに着かれた。

十二月二十七日、安芸国あきのくにについて埃宮えのみやにお出でになった。

安芸・多家神社(埃宮)

翌年、乙卯きのとう春三月六日に、吉備国きびのくにに移られ、行館かりのみやを造ってお入りになった。
これを高島宮たかしまのみやという。
三年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。

戊午の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向った。
舳艫じくろあいつぎ、まさに難波琦なにわのみさきに着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。
よって名づけて浪速国なみはやのくにとした。
また浪花なみはなともいう。
現在、難波なにわと呼ばれるのは訛ったものである。

三月十日、川を遡って、河内国草香村くさかむら日下村)の青雲の白肩津しらかたのつに着いた。

五瀬命の死

夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。
その道は狭く険しくて、人が並んで行くことができなかった。
そこで引き返して、さらに東の方、生駒山いこまやまを越えて内つ国に入ろうとした。

生駒山

そのときに長髄彦ナガスネヒコがそれを聞き、
天神あまつかみの子がやってくるわけは、きっと我が国を奪おうとするのだろう」
と言って、全軍を率いて孔舍衛坂くさえのさかで戦った。
流れ矢が当たって五瀬命イツセノミコト肘脛ひじはぎに当った。
天皇の軍は進むことができなかった。

天皇はこれを憂えて、謀をめぐらされた。
「今回、私は日神ヒノカミの子孫であるのに、日に向って敵を討とうとしているのは、天道に逆らっている。そこで、一度撤退して相手を油断させ、天神地祇てんじんちぎをお祀りし、背中に太陽を負って、日神の威光をかりて襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば、刃に血を付けずとも、敵はきっと敗れるだろう」
と言われた。
皆は、
「その通りです」
と言った。

そこで軍中に告げた。
「いったん止まれ。ここから進むな」

そして軍兵を率いて帰られた。
敵もあえてこれを後を追わなかった。
草香津くさかのつに引き返すと、盾を立てて雄叫びをし、士気を鼓舞された。
このことから、その津を盾津たてつと呼ぶようになった。
いま寥津たでつと呼ばれているのは、この訛りである。

孔舎衛くさえの戦いでは、ある者が大きな樹に隠れていて難を免れることができた。
それで、その木を指して、
「この恩は母のようだ」
と言った。
当時の人はこれを聞き、そこを母木邑おものきのむらといった。
現在、「おものき」というのは、これが訛ったものである。

五月八日、軍は茅淳ちぬ和泉地域の海)の山城水門やまきのみなとに着いた。
その頃、五瀬命イツセノミコトの矢傷がひどく痛んだ。
そこでみことは剣を撫でて雄叫びして、
「残念だ。丈夫ますらおが賊に傷つけられたのに、それに報いないで死ぬことは」
と言われた。
当時の人は、その地を雄水門おのみなとと名づけた。

進軍して紀国きのくに竈山かまやまに行き、五瀬命イツセノミコトは軍中に亡くなった。
五瀬命イツセノミコト竈山かまやまに葬られた。

彦五瀬命

六月二十三日、軍は名草邑なくさむらに着いた。
そこで名草戸畔なくさとべという女賊にょぞくを誅された。
ついに佐野を越えて、熊野の神邑みわのむらに至り、天磐盾あまのいわたてに登った。
そうして軍を率いてさらに進んでいった。

海を渡ろうとするとき、急に暴風に遇った。
船は波に奔弄されて進まない。
稲飯命イナヒノミコト神武天皇の兄)が嘆いて言われたのは、
「ああ、我が先祖は天つ神あまつかみ、母は海神わたつみであるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」
そう言い終って剣を抜き、海に入り、鋤持神サビモチノカミとなられた。
三毛入野命ミケイリノミコト神武天皇の兄)もまた恨んで言われた。
「我が母とおばは二人とも海神わたつみである。それなのに、どうして波を立てて我らを溺れさすのか」
波頭を踏んで常世国とこよのくににお出でになった。

竈山墓(彦五瀬命の墓陵)

八咫烏

天皇はひとり、皇子である手研耳命タギシミミノミコトと、軍を率いて進み、熊野の荒坂の津あらさかのつに着かれた。
そこで丹敷戸畔タキシトベという女賊にょぞくちゅうされた。

そのとき、神が毒気を吐いて人々を弱らせた。
このため皇軍はまた振わなかった。
するとそこに、熊野の高倉下タカクラジという人がいた。

この人のその夜の夢に、天照大神アマテラスオオミカミ武甕雷神タケミカヅチノカミに語ってたことが、
葦原中国あしはらのなかつくには、まだ乱れ騒がしい。お前が往って平げなさい」
というものだった。
武甕雷神タケミカヅチノカミは、
「私が行かなくても、私が国を平定したときの剣を差向けたら、国は自ら安定するでしょう」
と言われた。
天照大神アマテラスオオミカミは、
「もっともだ」
と答える。

そこで武甕雷神タケミカツチノカミは、高倉下タカクラジに、
「私の剣は名を赴屠能瀰哆磨ふつのみたまという。それをあなたの倉の中に置こう。それを取って天孫に献上しなさい」
と語った。
高倉下タカクラジは、
「承知しました」
と答えると、目が覚めた。

翌朝、 夢のお告げに従って倉を開いてみると、案の定、そこに落ちている剣があり、庫の底板に逆さに刺さっていた。
高倉下は、それを取って天皇に差し上げた。
そのときに天皇はよく眠っておられたが、たちまち目覚め、
「自分はどうしてこんなに長く眠ったのだろう」
と言い、ついで毒気に当っていた兵卒たちも、全員目が覚めて起き上がった。

皇軍は内つ国に赴こうとした。
しかし、山の中は険しく、行くべき道もなかった。
進むことも退くこともままならず迷っているとき、夜、また夢を見た。

天照大神アマテラスオオミカミが天皇に語りかける。
「吾は今、八咫烏ヤタガラスを遣わすから、これを案内にせよ」

すると、八咫烏ヤタガラスが大空から飛びくだってきた。
天皇は、
「この烏のやってくることは、瑞夢ずいむに適っている。偉大なこと、栄誉なことだ。天照大神アマテラスオオミカミが、我々の仕事を助けようとして下さっている」
と言った。

このときに、大伴氏おおとものうじの先祖の日臣命ヒノオミノミコトは、大来目オオクメを率いて、大軍の監督者として、山を越え、路を踏み分けて、烏の導きのままに、仰ぎ見ながら追いかけた。

そしてついに、宇陀の下県うだのしもつこおりに着いた。
よって、その着かれた場所を名づけて宇陀の穿邑うだのうかちのむらと呼ぶ。

そのとき天皇は日臣命ヒオミノミコトをほめて、
「お前は忠勇の士で、また、軍をよく導いた手柄がある。お前の名を改めて道臣ミチノオミとしよう」
と仰せられた。

兄猾と弟猾

秋八月二日、兄猾エウカシ弟猾オトカシを呼んだ。
この二人は、宇陀の県うだのこおりの人々の頭である。

ところが、兄猾エウカシはこれに応じなかったが、弟猾オトカシはやってきた。
そして、軍門みかどを拝んで申し上げてきたのは、
「私の兄、兄猾エウカシの計略は、天孫がお出でになると聞いて、兵を率いてこれを襲おうとしているのです。皇軍の軍勢を眺めると、戦いにくいことを恐れて、こっそり兵を隠しておき、仮りの新宮にいのみやを造っておき、その御殿の中に仕掛けを設け、おもてなしをするように見せかけて事を起こそうとしています。どうかこの謀を知っていただき、これによく備えて下さい」
とのことだった。

天皇は道臣命ミチノオミを遣わして、その計略を調べさせた。
道臣命ミチノオミはこれを仔細に調べて、彼に暗殺の心があったことを知り、大いに怒って叱責し、
「卑怯者だ。お前が造った部屋に、自分で入るがよい」
と言って剣を構え、弓をつがえて中へ追い詰めた。
兄猾エウカシは天を欺いたため、言い逃れすることもできない。
自ら仕掛けに落ちて圧死した。

その屍を引き出して斬ると、流れる血はくるぶしを埋める程に溢れた。
それで、その場所を名づけて宇陀の血原うだのちはらと呼ぶ。

弟猾オトカシは、沢山の肉と酒とを用意して、皇軍を労い、もてなした。
天皇は酒肉を兵士たちに分け与え、歌を詠んだ。

ウタノタカキニ、シギワナハル、ワガマツヤ、シギハサヤラズ、イスクハシ、クデラサヤリ、コナミガ、ナコハサバ、タチソバノミノ、ナケクヲ、コキシヒエネ、ウハナリガ、ナコハサバ、イチサカキミノ、オホケクヲ、コキタヒエネ。

宇陀うだ高城たかきに嶋をとるワナを張って、俺が待っていると鴨はかからず鷹がかかった。これは大漁だ。古女房が獲物をくれと言ったら、ヤセソバの実のないところをうんとやれ。若女房が獲物をくれと言ったら、斎賢木いちさかきのような実の多いところをうんとやれ。

これを来目歌くめうたという。
現在、楽府おおうたどころでこの歌を歌うときは、手の拡げ方の大小や声の太さ細さの別があるが、これは古からの遺法である。

この後、天皇は吉野のあたりを見たいと思われて、宇陀の穿邑うだのうかちのむらから軽装の兵をつれて巡幸された。
吉野に着いたとき、そこに人がいて、井戸の中から出てきた。
その人は体が光って尻尾があった。
天皇は、
「お前は何者か」
と問われた。
「手前は国つ神くにつかみで、名は井光イヒカといいます」
とそれを答えた。
これは吉野の首部きびのおびとらの先祖である。

さらに少し進むと、また尾のある人が岩を押し分けて出てきた。
天皇は、
「お前は何者か」
と問われた。
すると、
「手前は石押分イワオシワクの子です」
と言う。
これは吉野の国栖きびのくずの先祖である。

川に沿って西においでになると、またやなを設けて漁をする者があった。
天皇が尋ねられると、
「手前は苞苴担ニエモツの子です」
と言う。
これは阿太の養鸕部あだのうかいらの先祖である。

九月五日、天皇は宇陀の高倉山の頂きに登って、国の中を眺められた。
そのころ国見丘くにみのたけの上に、八十梟帥ヤソタケルがいた。
女坂めさかには女軍めのいくさを置き、男坂おさかには男軍おのいくさを置き、墨坂すみさかにはおこし炭を置いていた。
女坂・男坂・墨坂の名はこれから起きた。

また兄磯城えしきの軍は磐余邑いわれのむらに溢れていた。
敵の拠点はみな要害の地である。
このため、道は絶え塞がれて通るべきところがない。
天皇はこれを憎まれた。

この夜、神に祈って寝られた。
すると、夢に天つ神あまつかみが現われてこう言った。
天香具山あまのかぐやまの社の中の土を取って、平瓦八十枚をつくり、同じくお神酒みきを入れる瓶をつくり、天神地祇をお祀りせよ。また身を清めて行う呪詛をせよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう」

天香具山

天皇は夢の教えを謹しみ承り、これを行おうとした。
そのとき、弟猾オトカシがまた申し上げたことが、
「倭の国の磯城邑しきのむらに、磯城しき八十梟帥ヤソタケルがいます。また葛城邑かずらきむらに、赤銅あかがね八十梟帥ヤソタケルがいます。この者たちは皆、天皇にそむき、戦おうとしています。手前は天皇のために案じます。今、天香具山あまのかぐやまの赤土をとって平瓦をつくり、天神地祇てんじんちぎをお祀り下さい。それから敵を討たれたら討ち払いやすいでしょう」
というものだった。

天皇は、やはり夢のお告げが吉兆であると思っておられた。
弟猾オトカシの言葉を聞いて、心中喜ばれた。
そこで椎根津彦シイネツヒコに、着古した衣服と蓑笠をつけさせ、老人のかたちにつくり、また弟猾オトカシみのを着せて、老婆のかたちに作って、
「お前達二人、香具山かぐやまに行って、こっそりと頂きの土を取ってきなさい。大業の成否は、お前達で占おう。しっかりやってこい」
と仰せられた。

このとき、敵兵は道を覆い尽くしており、通ることも難しかった。
椎根津彦シイネツヒコは神意を占い、
「我が君が、よくこの国を定められるものならば、行く道が自ら開け、もしできないのなら、敵がきっと道を塞ぐだろう」
と言った。
言い終って直ちに出かけた。

そのとき敵兵は二人の様子を見て、大いに笑い、
「汚らしい老人どもだ」
と言って道を開けて行かせた。
二人は無事に山について、土を取って帰った。

天皇はこれに大いに喜び、この土で多くの平瓦や、手抉たくじり丸めた土の真中を指先で窪めて造った土器)、厳瓮いつへ御神酒瓷のこと)などを造り、丹生の川上に上って、天神地祇を祀られた。

宇陀川うだがわの朝原で、ちょうど水沫のように固まり着くところがあった。
天皇はまた神意を占い、
「私は今、沢山の平瓦で水なしに飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで、天下を居ながらに平げるだろう」
と言われた。

飴造りをされると、たやすく飴はできた。
そしてまた神意を占って言われた。
「私は今、御神酒瓮おみさかめを、丹生にふの川に沈めよう。 もし魚が大小となく全部酔って流れるのが、ちょうど槇の葉のように浮き流れるようであれば、 私はきっとこの国を平定するだろう。もしそうでなければ、事を成し遂げられぬだろう」

そして瓮を川に沈めた。
するとそのロが下に向いた。
しばらくすると、魚は皆浮き上がってロをパクパク開いた。

椎根津彦シイネツヒコはそれを報告した。
天皇は大いに喜んで、丹生の川上の沢山の榊を根こぎにして、諸々の神をお祀りされた。
このときから、祭儀には御神酒瓮おみさかめの置物がおかれるようになった。

天皇は道臣命ミチノオミノミコトに対し、
「今、高皇産霊尊タカミムスヒノミコトを、私が顕斎うつしいわい神の姿が見えるようにする祭り)しよう。お前を斎主いわいのうしとして、女性らしく厳媛イツヒメと名づけよう。そこに置いた土瓮を厳瓮いつへとし、また火の名を厳香来雷イツノカグツチとし、水の名を厳罔象女イツノミツハノメ、食物の名を厳稲魂女イツノウカノメ、 薪の名を厳山雷イツノヤマツチ、草の名を厳野椎イツノノヅチとする」
と言った。

冬十月一日、天皇はその厳瓮いつへの供物を召上がられ、兵を整えて出かけられた。
まず八十梟帥ヤソタケル国見丘くにみのおかに撃って斬られた。
この戦いに天皇は必ず勝つと思われた。
そこで次のように歌われた。

カムカゼノ、イセノウミノ、才ホイシニヤ、イハヒモトへル、シタダミノ、シタダミノ、アゴヨ、アゴヨ、シタダミノ、イハヒモ卜ヘリ、ウチテシヤマム、ウチ テシヤマム。

伊勢の海の大石に這いまわる細螺しただみキシャゴ)のように、我が軍勢よ、我が軍勢よ。細螺のように這いまわって、必ず敵を討ち負かしてしまおう。

歌の心は、大いなる石をもって国見丘くにみのおかに喩えている。
残党はなお多く、その情勢は測りがたかった。
そこで、密かに道臣命ミチノオミノミコトに言われた。
「お前は大来目部おおくらめべを率いて、大室おおむろ忍坂邑おさかのむらに造って、盛んに酒宴を催し、敵を騙して討ち取れ」

道臣命ミチノオミノミコトはこの密命により、室を忍坂おさかに掘り、味方の強者を選んで、敵と同居させた。
密かに示し合わせて、
「酒宴たけなわになった後、自分は立って舞おう。お前達は私の声を聞いたら、一斉に敵を刺せ」
と言った。

みんな座について酒を飲んだ。敵は陰謀のあることを知らず、心のままに酒に酔った。
そのとき、道臣命は立って歌った。

オサカノ、オホムロヤニ、ヒ卜サハニ、イリヲリトモ、ヒ卜サハニ、キイリヲリトモ、ミツミツシ、クメノコラガ、クブツツイ、イシツツイモチ、ウチテシヤマム。

忍坂おさかの大きい室屋むろやに、人が多勢入っているが、入っていても、御稜威みいつを負った来目部くらめべの軍勢の頭椎くぶつつ柄頭が推の形をした剣のこと石椎いしつつ柄頭を石で作った剣のこと)で敵を討ち敗かそう。

味方の兵はこの歌を聞いて、一斉に頭椎くぶつつの剣を抜いて、敵を皆殺しにした。
皇軍は大いに悦び、天を仰いで笑った。
そして歌を読んだ。

イマハヨ、イマハヨ、アアシヤヲ、イマダニモアゴヨ、イマダニモアゴヨ。

今はもう、今はもう、ああしゃを(敵をすっかりやっつけた)、今だけでも、今だけでも、我が軍よ、我が軍よ。

現在、来目部くらめべが歌って後に大いに笑うのは、これがその由来である。
また歌っていう。

エミシヲ、ヒタリモモナヒト、ヒ卜ハイへドモ、タムカヒモセズ。

えみしを、一人で百人に当る強い兵だと、人は言うけれど、抵抗もせず負けてしまった。

これは皆、密旨をうけて歌ったので、自分勝手にしたことではない。
そのときに天皇が言われたのは、
「戦いに勝っておごることのないのは良将である。今、大きな敵はすでに滅んだが、 同じように悪い者は恐れおののき、その仲間は多い。その実状は分らない。長く同じ所にいて難には会いたくはない」
というものだった。
そこを捨てて別の所に移った。

十一月七日、皇軍は大挙して磯城彦しきひこを攻めようとしていた。
まず使者を送って兄磯城エシキを呼んだ。
兄磯城は答えなかった。

さらに頭八咫烏ヤタノカラスを遣わして呼んだ。
そのとき烏は軍営に行って鳴いて言った、
天つ神あまつかみの子がお前を呼んでおられる。さあさあ」
兄磯城エシキは怒り、
天つ神あまつかみが来たと聞いて憤っている時に、なぜ烏がこんなに悪く鳴くのか」
と言った。
そして弓を構えて射た。
烏は逃げ去った。

次いで弟磯城オトシキの家に行き鳴いて言った、
天つ神あまつかみの子がお前を呼んでいる。さあ、さあ」
弟磯城オトシキはおじてかしこまって、
「手前は天つ神が来られたと聞いて、朝夕、畏れかしこまっていました。烏よ、お前がこんなに鳴くのは良いことだ」

そこで平らな皿八枚に、食物を盛ってもてなした。
そして烏に導かれてやってきて申し上げた。
「我が兄の兄磯城エシキは、天神の御子がお出でになったと聞いて、八十梟帥ヤソタケルを集めて、武器を整え決戦をしようとしています。速やかに準備をすべきです」

天皇は諸将を集め、
兄磯城エシキはやはり戦うつもりらしい。呼びにやっても来ない。どうしようか」
諸将は言う。
兄磯城エシキは悪賢い敵です。まず、弟磯城オトシキを遣わして教え諭し、合わせて兄倉下エクラジ弟會下オトクラジにも諭させ、どうしても従わないならば、それから兵を送って戦っても遅くないでしょう」

そこで、弟磯城オトシキを遣わして利害を説かせた。
だが兄磯城エシキらは、 なお愚かな謀をして承伏しなかった。

これに椎根津彦シイネツヒコが計略を立てた。
「今はまず女軍めのいくさを遣わして、忍坂おさかの道から行きましよう。敵はきっと精兵を出してくるでしよう。こちらは強兵を走らせて、直ちに墨坂を目指し、宇陀川うだがわの水をとって、敵軍が起こした炭の火に注ぎ、驚いている間にその不意をつけば、きっと敗れるでしよう」

天皇はその計略を褒めて、まず女軍めのいくさを出してご覧になった。
敵は大兵が来たと思って、力を尽くして迎え撃った。

これまで皇軍は攻めれば必ず向かい、戦えば必ず勝った。
しかし甲冑かっちゅうの兵士たちは疲労しなかったわけではない。
そこで少し将兵の心を慰めるために歌を作られた。

タタナメテ、イナサノヤマノ、コノマユモ、イユキマモラヒ、タタ力へパ、ワレハヤヱヌ、シマツトリ、ウカヒガトモ、イマスケニコネ。

盾を並べ、伊那搓いなさの山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので我らは腹が空いた。鵜飼をする仲間達よ。今こそ、助けに来てくれよ。

そうするうち、男軍おのいくさ墨坂すみさかを越え、後方から夾み討ちにして敵を破り、梟雄兄磯城タケルエシキを斬った。

長髄彦(ナガスネヒコ)と金鵄(キンシ)

十二月四日、皇軍はついに長髄彦ナガスネヒコを討つことになった。

戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。
そのとき急に空が暗くなってきて、雹が降ってきた。
そこへ金色の不思議なとびが飛んできて、天皇の弓の先にとまった。
そのとびは光り輝いていて、まるで雷光のようであった。
このため長髄彦ナガスネヒコの軍勢は、皆、眩惑されてしまい力を発揮できなかった。

長髄ながすねというのはもとむら村・領地)の名であり、それを人名とした。

皇軍がとびの瑞兆を得たことから、当時の人たちは鵄の邑とびのむらと名づけた。
現在、鳥見とみというのは、これが訛ったものである。

昔、孔舍衛くさえの戦いに、五瀬命イツセノミコトが矢に当って歿くなられた。
天皇はこれを忘れず、常に恨みに思っておられた。
この戦いにおいて仇をとりたいと思われた。
そして歌っていわれた。

ミツミツシ、クメノコラガ、「力キモトニ」アハフニハ、カミラヒトモト、ソノガモト、ソネメツナギテ、ウチテシヤマム。

天皇の御稜威みいつを負った来目部くめべの軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮が一本まじっている。その韮の根本から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう。

天皇はさらに歌う。

ミツミツシ、クメノコラガ、力キモ卜ニ、ウエシハジカミ、クチビヒク、ワレハワスレズ、ウチテシヤマム。

天皇の御稜威みいつを負った来目部くめべの軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、ロに入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう。

敵兵を放って、さらに急追した。
すべて諸々の御歌を、みな来目歌と呼ばれる。
これは歌った人を指して名づけたものである。

時に、長髄彦ナガスネヒコは使者を送って、天皇に言上し、
「昔、天神の御子が、天磐船あめのいわふねに乗って天降られました。櫛玉饒速日命クシタマニギハヤヒノミコトといいます。この人が我が妹の三炊屋媛ミカシキヤヒメを娶とって子ができました。名を可美真手命ウマシマデノミコトといいます。それで私は、饒速日命ニギハヤヒノミコトを君として仕えています。一体、天つ神あまつかみの子は二人おられるのですか? どうしてまた、天つ神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。私が思うのに、それは偽者でしょう」

天皇が答えた。
天つ神あまつかみの子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天つ神の子ならば、必ずしるし証拠)があるだろう。それを示しなさい」

長髄彦ナガスネヒコは、饒速日命ニギハヤヒノミコト天羽羽矢あまのははや蛇の呪力を負った矢)と、歩靭かちゆき徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ)を天皇に示した。

これを天皇はご覧になって、
「偽りではない」
と言われ、帰って所持の天羽羽矢あまのははや一本と、歩靭かちゆき長髄彦ナガスネヒコに示された。
長髄彦はその天つ神あまつかみの表を見て、ますます恐れ、畏まった。

けれども、兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。
そして、間違った考えを捨てず、改心の気持ちがなかった。

饒速日命ニギハヤヒノミコトは、天つ神あまつかみたちが深く心配されているのは、天孫のことだけであることを知っていた。
長髄彦ナガスネヒコは、性格が捻れたところがあり、天つ神と人とは全く異なるのだと教えても理解しそうもなかったため、饒速日命ニギハヤヒノミコトにより殺害された。

そして、饒速日命ニギハヤヒノミコトはその部下達を率いて帰順された。
天皇は饒速日命ニギハヤヒノミコトが天から下ってきたということが分かり、今ここに忠誠を尽くしたので、これを褒めて寵愛された。
これが物部氏もののべのうじの先祖である。

翌年、己未の春二月二十日、諸将に命じて士卒を選び訓練された。
このときに、そほのあがた(添県)の波哆の丘岬はたのおかざきに、新城戸畔ニイキトベという女賊にょぞくがあり、また和珥わに天理周辺)の坂下に、居勢祝コセノハフリという者があり、臍見ほそみ長柄の丘岬ながらのおかさきに、猪祝イノハフリという者があり、その三力所の土賊は、その力を誇示して帰順しなかった。

そこで天皇は、軍の一部を派兵して皆殺しにさせた。
また、高尾張邑たかおわりのむら土蜘蛛つちぐもがいて、その人態は、身丈が短く、手足が長かった。
侏儒しゅじゅと似ていた。
皇軍は葛の網かつらのあみを作って、覆い捕えてこれを殺した。

そこでその邑を改めて葛城かずらきとした。
磐余いわれの地の元の名は、片居かたいまたは片立かたたちという。
皇軍が敵を破り、大軍が集まってその地に溢れたので磐余いわれとした。
また、ある人が言うには、
「天皇が昔、厳瓮いつへの供物を召し上がられ、出陣して西片を討たれた。このとき、磯城しき八十梟帥ヤソタケルがそこに屯聚みいわみ(集兵)した。天皇軍と大いに戦ったが、ついに滅ぼされた。それで名づけて磐余邑いわれのむらという」

また、皇軍が叫び声たけびごえを立てたところを、猛田たけだと呼び、を造った所を名づけて城田きたという。
また、賊軍が戦って倒れた屍が、ひじを枕にしていたので頰枕田つらまきたという。

天皇は前年の秋九月、密かに天香山あまのかぐやま埴土はにつちを取り、沢山の平瓮を造り、自ら斎戒さいかいして諸神を祀られた。
そしてついに、天下を平定することができた。
それで、土を取ったところを名づけて埴安はにやすと呼ぶ。

宮殿造営

三月七日、のりごとを下して言われた。
「東征についてから六年になった。天つ神あまつかみの勢威のお蔭で凶徒は殺された。しかし、周辺の地はまだ治まらない。残りの災いはなお根強いが、内州うちつくにの地は騒ぐものもない。皇都みやこを開き広めて御殿を造ろう。しかし、今、世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の慣わしが変わらずにある。そもそも大人ひじり聖人)がのりを立てて、道理が正しく行われる。人民の利益となるならば、どんなことであっても聖の行うわざとして間違いはない。まさに、山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人民を安ずべきである。上は、天つ神あまつかみの国をお授け下さった御徳に答え、下は、皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。その後、国中を一つにして都を開き、天の下を掩いて一つの家とすることは、また良いことではないか。見れば、かの畝傍山うねびやまの東南の橿原の地は、思うに国の真中である。ここに都を造るべきである」

この月、役人に命ぜられて都造りに着手された。

橿原宮(橿原神宮)

庚申の年秋八月十六日、天皇は正妃を立てようと思われた。
改めて貴族の女子を探された。
時にある人が奏し、
事代主神コトシロヌシノカミが、三島溝橛耳神ミシマゾクイミミノカミの娘、玉櫛媛タマクシヒメと結婚され、その生まれた子を名づけて、媛蹈鞴五十鈴媛命ヒメタタライスズヒメノミコトといい、容色に優れた人です」
と言った。
これを聞いて天皇は喜ばれた。
九月二十四日、媛蹈鞴五十鈴媛ヒメタタライスズヒメノミコトを召して正妃とされた。

橿原即位

辛酉の年春一月一日、天皇は橿原宮かしはらのみやにご即位になった。
この年を天皇の元年とする。

正妃を尊んで皇后とされた。
皇子の神八井命カムヤイノミコト神淳名川耳尊カムヌナカワミミノミコトを生まれた。
そのため、古語にもこれを称して次のようにいう。
畝傍の橿原うねびのかしはらに、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立て、高天原たかまがはらに千木高くそびえ、初めて天下を治められた天皇」
名づけて神日本磐余彦火火出見天皇カムヤマトイワレビコホホデミノスメラミコトという。

初めて天皇が国政を始められる日に、大伴氏おおとものうじの先祖の道臣命ミチノオミノミコトが、大来目部おおくらめべを率いて密命を受け、よく諷歌そえうた比喩的な歌)、倒語さかしまごと合言葉・暗号)をもって、災いを払い除いた。
倒語さかしまごとが用いられるのは、ここに始まった。

二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われた。
道臣命ミチノオミノミコトは宅地を賜わり、築坂邑つきさかのむらに居らしめられ、特に目をかけられた。
また、大来目オオクメを畝傍山の西、川辺の地に居らしめられた。
現在、来目邑くめのむらと呼ぶのはこれが由来である。

椎根津彦シイネツヒコ倭国造やまとのくにのみやつことした。
また弟猾オトカシ猛田邑たけだのむらを与えられた。
それで猛田の県主タケダノムラノアガタヌシという。
これは宇陀の主水部もいとりべの先祖である。
弟磯城オトシキ、名は黒速クロハヤ磯城の県主しきのあがたぬしとされた。
また剣根ツルギネという者を、葛城国造かずらきのくにのみやつことした。
また、八咫烏ヤタガラスも賞の内に入った。
その子孫は、葛野主殿県主かずらののとのもりあがたぬしがこれである。

四年春二月二十三日、詔して、
「我が皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて、天下は何事もない。そこで天つ神あまつかみを祀って大孝を申上げたい」
と述べた。

神々の祀りの場を、鳥見山の中に設け、そこを上小野の榛原かみつおののはりはら下小野の榛原しもつおののはりはらという。
そして、高皇産霊尊タカミムスヒノミコトを祀った。

三十一年夏四月一日、天皇の御巡幸があった。
腋上の嗛間わきかみのほほまの丘に登られ、国のかたちを望見し、
「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉あきつトンボ)がトナメ(交尾)しているように、山々が連なり囲んでいる国であるな」
と言われた。

これによって、始めて秋津洲あきつしまの名ができた。

かつて、伊奘諾尊イザナギノミコトがこの国を名づけて、
日本やまとは心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、優れて良く整った国」
と言われた。

また大己貴大神オオアナムチノオオカミは、名づけて、
玉牆たまかき内つ国なかつくに美しい垣のような山々に囲まれた国)」
と言われた。

饒速日命ニギハヤヒノミコトは、天磐船あめのいわふねに乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名づけて、
「空見つ日本やまとの国(大空から眺めて、良い国だと選ばれた国・日本)」と呼ばれた。

四十二年春一月三日、皇子である神淳名川耳尊カムヌナカワミミノミコトを立てて、皇太子とされた。

七十六年春三月十一日、天皇は橿原宮かしはらのみや崩御ほうぎょされた。
年百二十七歳であった。

翌年秋九月十二日、畝傍山の東北の陵うねびやまのうしとらのすみのみささぎに葬った。

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畝傍山の東北の陵

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