綏靖天皇(すいぜいてんのう):神淳名川耳天皇
神淳名川耳天皇は神武天皇の第三子である。
母を媛蹈鞴五十鈴媛命という。
事代主神の長女である。
天皇は風采が整い、立派であった。
幼い時から気性が雄々しく、壮年になって容貌が優れ堂々としていた。
武芸は人に勝り、志は高く、厳かであった。
四十八歳になった時、神武天皇が崩御された。
そのとき神淳名川耳尊は、孝行の気持が大変深くて、悲しみ慕う心がやまなかった。
特にその葬式に心を配られた。
腹違いの兄である手研耳命は、年が大きくて長らく朝政の経験があった。
それで自由に任せられていたが、彼は心ばえが仁義に背いていた。
ついに天子の服喪の期間に、その権力を欲しいままにした。
邪な心を包み隠し、二人の弟を暗殺しようと図った。
時に、太歳己卯。
冬十一月、神淳名川耳尊は、兄の神八井耳命と共に、その企てを密かに知られて、これを防がれた。
先帝の山陵の建造が終ると、弓部雅彦に弓を造らせ、倭鍛部天津真浦に鹿を射る鏃を造らせ、矢部には箭を造らせた。
弓矢の準備がすっかり出来上がると、神淳名川耳尊は手研耳命を射殺そうと思われた。
たまたま手研耳命は、片丘の大室の中にいて、独りで床にふせっていた。
そのとき、淳名川耳尊は神八井耳命に、
「今こそ好機である。そもそも、密事はこっそり行わねばならぬ。だからわが計画も誰にも相談していない。今日のことは私とお前とだけでやろう。自分がまず家の戸を開けるから、お前はすぐそれを射よ」
と言われた。
それで二人は一緒に大室に進入した。
神淳名川耳尊がその戸を突き開いた。
神八井耳命は、手足が震え慄き、矢を射ることができない。
そのとき、神淳名川耳尊は、兄の持っていた弓矢を引きとって、手研耳命を射られた。
一発で胸に命中させ、二つめを背中に当てついに殺した。
そこで神八井耳命は、恥じて自分から弟に従った。
神淳名川耳尊に譲って言われた。
「私はお前の兄だが、気が弱くてとてもうまくはできない。ところがお前は武勇にすぐれ、自ら仇人を倒した。お前が天位について、皇祖の業を受けつぐのが当然である。私はお前の助けとなって、神々のお祀りを受け持とう」
これが多臣の始祖である。
元年の春一月八日に、神淳名川耳尊は即位された。
葛城に都を造られた。
これを高丘宮という。
先の皇后を尊んで皇太后といった。この年、太歳庚辰。
二年春一月に、五十鈴依姫を立てて皇后とした。
天皇の母の姨である。
后は、磯城津彦玉手看天皇(安寧天皇)をお生みになった。
四年夏四月に、兄であった神八井耳尊が亡くなられた。
畝傍山の北に葬った。
二十五年春一月七日、皇子である磯城津彦玉手看尊を立てて皇太子とした。
三十三年夏五月、天皇は病気になられ、癸酉の日に崩御された。
年八十四歳。
安寧天皇(あんねいてんのう):磯城津彦玉手看天皇
磯城津彦玉手看天皇は綏靖天皇の嫡子である。
母は、事代主神の次女である五十鈴依媛命という。
天皇は綏靖天皇の二十五年に立って、皇太子となられた。
年二十一歳である。
三十三年夏五月、綏靖天皇が亡くなられた。
その年の七月三日に、太子は皇位につかれた。
元年冬十月十一日、綏靖天皇を倭の桃花鳥田丘上陵に葬った。
先の皇后を尊んで皇太后と申し上げた。
この年、太歳癸丑。
二年、都を片塩に移した。
これを浮孔宮という。
三年春一月五日、淳名底仲媛命を立てて皇后とした。
これより先に后は二人の皇子を生まれた。
第一を息石耳命という。
第二を大日本彦耜友天皇(懿徳天皇)という。
十一年春一月一日、大日本彦耜友尊を立てて皇太子とした。
弟である磯城津彦命は、猪使連の始祖となった。
三十八年冬十二月六日、天皇はお隠れになった。
年五十七歳。
懿徳天皇(いとくてんのう):大日本彦耜友天皇
大日本彦耜友天皇は、安寧天皇の第二子である。
母を渟名底仲媛命という。
事代主神の孫、鴨王(鴨王)の女である。
安寧天皇の十一年春一月一日に皇太子となられた。
年十六歳。
三十八年冬十二月、安寧天皇がお亡くなりになった。
元年春二月四日、皇太子が皇位に着かれた。
秋八月一日、安寧天皇を、畝傍山の南の御蔭井上陵に葬った。
九月、先の皇后を尊んで皇太后と呼んだ。
この年、太歳辛卯。
二年春一月五日、都を軽の地に移した。
これを曲峡宮という。
二月十一日、天豊津媛命を立てて皇后とした。
后は、観松彦香殖稲天皇(孝昭天皇)をお生みになった。
二十ニ年春二月十二日、観松彦香殖稲尊を立てて皇太子とした。
年十八歳。
三十四年秋九月八日、天皇は崩御された。
孝昭天皇(こうしょうてんのう):観松彦香殖稲天皇
観松彦香殖稲天皇は懿徳天皇の太子である。
母の皇后、天豊津媛命は息石耳命の娘である。
天皇は懿徳天皇の二十二年春二月十二日に皇太子となられた。
三十四年秋九月、懿徳天皇は亡くなられた。
翌年冬十月十三日に懿徳天皇を畝傍山の南繊沙谿上陵に葬られた。
元年春一月九日、皇太子は天皇に即位された。
夏四月五日、先の皇后を尊んで皇太后とよばれた。
秋七月、都を掖上に移した。
これを池心宮という。
この年、太歳丙寅。
二十九年春一月三日、世襲足媛を立てて皇后とした。
后は天足彦国押人命と、日本足彦国押人天皇(孝安天皇)とを生まれた。
六十八年春一月十四日、日本足彦国押人尊を立てて皇太子とされた。
年二十歳。
天足彦国押人命は、和珥臣の先祖である。
八十三年秋八月五日、天皇は崩御された。
孝安天皇(こうあんてんのう):日本足彦国押人天皇
日本足彦国押人天皇は孝昭天皇の第二子である。
母を、尾張連の先祖である瀛津世襲の妹の世襲足媛という。
天皇は孝昭天皇の六十八年春一月、皇太子となられた。
八十三年秋八月に孝昭天皇は亡くなられた。
元年春一月二十七日、皇太子は天皇に即位された。
秋八月一日、先の皇后を尊んで皇太后といわれた。
この年、太歳己丑。
二年冬十月、都を室の地に移した。
これを秋津嶋宮という。
二十六年春二月十四日、姪押媛を立てて皇后とされた。
后は大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)をお生みになった。
三十八年秋八月十四日、孝昭天皇を掖上博多山上陵に葬られた。
七十六年春一月五日、大日本根子彦太瓊尊を立てて皇太子とされた。
年二十六。
百二年春一月九日、天皇は亡くなられた。
孝霊天皇(こうれいてんのう):大日本根子彦太瓊天皇
大日本根子彦太瓊天皇は孝安天皇の太子である。
母を押媛という。
天足彦国押人命の娘とされている。
天皇は孝安天皇の七十六年春一月、皇太子となられた。
百二年春一月、孝安天皇は亡くなられた。
秋九月十三日、孝安天皇を玉手丘上陵に葬られた。
冬十二月四日、皇太子は都を黒田に移された。
これを廬戸宮という。
元年春一月十二日、太子は天皇に即位された。
先の皇后を尊んで皇太后とされた。
この年、太歳辛未。
二年春二月十一日、細媛命を立てて皇后とされた。
后は大日本根子彦国牽天皇(孝元天皇)をお生みになった。
妃である、倭国香媛は、倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命、倭迹迹稚屋姫命をお生みになった。
また別の妃、絚某弟は、彦狭島命、稚武彦命をお生みになった。
稚武彦命は吉備臣の先祖である。
三十六年春一月一日、彦国牽尊を立てて皇太子とされた。
七十六年春二月八日、天皇は亡くなられた。
孝元天皇(こうげんてんのう):大日本根子彦国牽天皇
大日本根子彦国牽天皇は孝霊天皇の太子である。
母を、磯城県主大目の娘ある細媛命という。
天皇は孝霊天皇の三十六年春一月、皇太子となられた。
年十九。
七十六年春二月、孝霊天皇が亡くなられた。
元年春一月十四日、太子は皇位に就かれた。
先の皇后を尊んで皇太后とされた。この年、太歳丁亥。
四年春三月十一日、都を軽の地に移された。
これを境原宮という。
六年秋九月六日、孝霊天皇を片丘馬坂陵に葬った。
七年春二月二日、欝色謎命を立てて皇后とされた。
后は、二男一女をお生みになった。
第一を大彦命という。
第二を稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)という。
第三を倭迹迹姫命という。
別の妃である伊香色謎命は、彦太忍信命をお生みになった。
次の妃である、河内青玉繫の娘の、埴安媛は、武埴安彦命をお生みになった。
兄の大彦命は、阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣といった七族の先祖である。
彦太忍信命は武内宿禰の祖父である。
二十二年春一月十四日、稚日本根子彦大日日尊を立てて皇太子とした。
年十六。
五十七年秋九月二日、天皇は亡くなられた。
開化天皇(かいかてんのう):稚日本根子彦大日日天皇
稚日本根子彦大日日天皇は孝元天皇の第二子である。
母は、穂積臣の先祖、欝色雄命の妹である欝色謎命という。
天皇は孝元天皇の二十二年春一月、皇太子となられた。
年十六。
五十七年秋九月、孝元天皇が亡くなられた。
冬十一月十二日、太子は天皇に即位された。
元年春一月四日、先の皇后を尊んで皇太后とよばれた。
冬十月十三日、都を春日の地に移された。
これを率川宮という。
この年、太歳甲申。
五年春二月六日、孝元天皇を剣池嶋上陵に葬った。
六年春一月十四日、伊香色謎命を立てて皇后とした。
后は御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)を生まれた。
その後、天皇は丹波竹野媛を妃とされた。
彦湯産隅命を生まれた。
次の妃は、和珥臣の先祖の姥津命の妹である姥津媛は、彦坐王を生んだ。
二十八年春一月五日。
御間城入彦尊を立てて皇太子とした。
年十九。
六十年夏四月九日、天皇は亡くなられた。
冬十月三日、春日率川坂本陵に葬った。
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