応神天皇 誉田天皇
天皇の誕生と即位
誉田天皇は仲哀天皇の第四子である。
母を気長足姫尊という。
天皇は神功皇后が新羅を討たれた仲哀九年十二月に、筑紫の蚊田でお生まれになった。
幼少から聡明で、物事を深く遠くまで見通された。
立居振る舞いに不思議にも聖帝の兆しがあった。
皇太后の摂政三年に、立って皇太子となられた。
時に、年三歳。
天皇が孕まれておられるとき、天神地祇は三韓を授けられた。
生まれられた時に、腕の上に盛り上った肉があった。
その形がちようど鞆(弓を射た時、反動で弦が腕に当ることを防ぐ革の防具)のようであった。
これは皇太后(神功皇后)が男装して、鞆を装着したことに似られたのであろう。
それで、その名を称えて誉田天皇というのである。
古の人は、弓の鞆のことを、「ほむた」と言った。
ある説によると、天皇が初め、皇太子となられたとき、越国(北陸地域)にお出でになり、敦賀の笥飯大神にお参りになった。
そのとき、大神と太子と名を入れ替えられた。
それで大神を名づけて去来紗別神といい、太子を誉田別尊と名づけたという。
それだと大神のもとの名を誉田別神、太子のもとの名を去来紗別尊ということになる。
けれども、そういった記録はなく、まだ詳らかではない。
皇后の摂政六十九年夏四月、皇太后が崩御された。
ときに年百歳。
元年の春一月一日、皇太子は皇位につかれた。
この年、太歳庚寅。
二年春三月三日、仲姫を立てて皇后とされた。
皇后は、荒田皇女、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)、
根鳥皇子をお生みになった。
そのあと天皇は、皇后の姉の高城入姫を妃として、額田大中彦皇子、大山守皇子、去来真稚皇子、大原皇女、澇来田皇女をお生みになった。
また別の妃である皇后の妹の弟姫は、阿倍皇女、淡路御原皇女、紀之蒐野皇女をお生みになった。
その次の妃である和珥臣の祖の日触使主の娘、宮主宅媛は、蒐道稚郎子皇子、矢田皇女、雌鳥皇女をお生みになった。
また次の妃である宅姫の妹の小甌媛は、蒐道稚郎姫皇女をお生みになった。
またその次の妃である河派仲彦の娘の弟姫は、稚野毛二派皇子を生んだ。
その次の妃である桜井田部連男組の妹の糸媛は、隼総別皇子をお生みになった。
次の妃である日向泉長媛は、大葉枝皇子、小葉枝皇子をお生みになった。
この天皇の男女は、合わせて二十人お出でになる。
根鳥皇子は大田君の先祖である。
大山守皇子は、土形君、榛原君の二族の先祖である。
去来真稚皇子は深河別の先祖である。
三年冬十月三日、東の蝦夷が皆、朝貢してきた。
その蝦夷を使って厩坂道を造らせた。
十一月に、各地の漁民が騒いて、命に従わなかった。
阿曇連の先祖である大浜宿禰を遣わして、その騒ぎを平定した。
それで漁民の統率者とされた。
当時の人々の諺に「佐麼阿摩」と言うのは、これが由来である。
この年、百済の辰斯王が位につき、貴国(日本)の天皇に対して礼を失することをした。
そこで、紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木蒐宿禰を遣わして、その礼に背くことを責めた。
それで百済国は、辰斯王を殺して陳謝した。
紀角宿禰らは、阿花を立てて王として帰ってきた。
五年秋八月十三日、諸国に令して、海人部と山守部を定めた。
冬十月、伊豆国に命じて船を造らせた。
長さ十丈(約30m)の船ができた。
ためしに海に浮かべると、 軽く浮かんで早く行くことは、走るようであった。
その船を名づけて枯野といった。
船が軽く早く走るのに、枯野と名づけるのは、道理に合わない。
もしかすると軽野と言ったのを、後の人が訛ったのかもしれない。
六年春二月、天皇は近江国にお出ましになり、途中、蒐進野(宇治)のほとりにお出でになったとき、歌をお詠みになった。
チハノ、カゾヌヲミレバ、モモチタル、ヤニハモミユ、クニノホモミユ。
葛野を見渡すと、豊かな家どころも見える。国の優れたところも見える。
七年秋九月、高麗人、百済人、任那人、新羅人等が来朝した。
武内宿禰に命ぜられ、諸々の韓人らを率いて池を造らせられた。
そこで、その池を韓人池という。
八年春三月、百済人が来朝した。
百済記に述べているのは、阿花王が立って貴国に無礼をした。
それで、我が枕弥多礼、峴南、支侵、谷那、東韓の地を奪われた。
このため、王子直支を天朝に遣わして、先王の好を修交した。
武内宿禰に弟の讒言
九年夏四月、武内宿禰を筑紫に遣わして、人民を監察させた。
そのとき、宿禰の弟の甘美内宿禰は、兄を排除しようとして天皇に讒言し、
「武内宿禰は常に天下を狙う野心があります。 今、筑紫にいて、密かに語っていうのに、『筑紫を割いて取り、三韓を自分に従わせたら、 天下を取ることができる』と言っているそうです」
と言った。
天皇は使者を遣わして、武内宿禰を殺すことを命じた。
武内宿禰はこれを欺いて、
「手前はもとより二心はない。忠心をもって君に仕えている。今、何の科で罪も無く死なねばならぬのか」
と言った。
壱岐直の先祖の真根子という人があり、その容貌が武内宿禰によく似ていた。
武内宿禰が罪も無く空しく死ぬのを惜しみ、宿禰に、
「大臣は忠心をもって君にお仕えし、腹黒い心のないことは天下の人が皆知っています。密かに朝廷に参り、自ら罪の無いことを弁明してから後に死んでも遅くないでしょう。他の人も、『お前の顔かたちは武内宿禰に似ている』と言います。今、私が大臣に代って死んで、大臣の赤心を明らかにしましょう」
と言い、即座に自分に剣を当てて死んだ。
武内宿禰は大いに悲しみ、密かに筑紫を逃れて、舟で南海を回り、紀伊の港に泊った。
やっと朝廷に辿り着き、罪の無いことを弁明した。
天皇は武内宿禰と甘美内宿禰を対決させて、問われた。
二人は互いにゆずらず、是非を決め難かった。
天皇は神祇に祈り、探湯(神に析誓して手を熱湯に入れ、皮膚がただれた者を邪とする占い)をさせられた。
武内宿禰と甘美内宿禰は磯城川のほとりで探湯をした。
そして、武内宿禰が勝った。
そこで武内宿禰は大刀をとって、甘美内宿禰を殺してしまおうとした。
しかし、天皇のお言葉で許されて、紀直の先祖を賜わった。
髪長媛と大鶬鵪尊
十一年冬十月、剣池、軽池、鹿垣池、厩坂池を造った。
この年、ある人が申し上げて、
「日向国に髪長緩という嬢女がいて、諸県の君牛諸井の娘です。これは国中での美人です」
と言った。
天皇は心中喜ばれて、これを召そうと思われた。
十三年春三月、天皇は専使(その用事だけの使者)を遣わして、髪長媛を召された。
秋九月中旬、髪長媛は日向からやってきた。
摂津国の桑津邑に置かれた。
皇子の大鷦鷯尊は、髪長媛をご覧になり、その容貌の美しさに感じて、引かれる心が強かった。
天皇は大鷦鷯尊が、髪長媛を気に入っているのを見て、娶合わせようと思われた。
後宮で宴会を催されたとき、初めて髪長媛を呼んで、宴の席に侍らされた。
大鵷鵪尊をさし招き、髪長媛を指さして歌を詠んだ。
イザアギ、ヌニヒルツミニ、ヒルツミニ、ワガユクミチニ、力グハシ、ハナタチバナ、シツエラハ、ヒ卜ミナトリ、ホツエハ、トリヰ力ラシ、ミツクリノ、ナカツエノ、フホコモリ、アガレルヲトメ、イザサカバエナ。
さあ我が君よ。野に蒜(ニンニク)摘みに行きましよう。蒜摘みに行く私の道に、よい香りの花橘が咲いています。その下枝の花は人が皆取り、上枝は鳥がきて散らしましたが、中の枝のこれから咲く美しい赤味を含んだ、花のような美しい女がいます。さあ、花咲くといいですね。
大鷀鵪尊は御歌を賜わって、髪長媛を賜わることを知り、大いに喜び返し歌をされた。
ミゾタマル、ヨサミノイケニ、ヌナハクリ、ハへケクシラニ、ヰクヒツク、カハマタエノ、ヒシガラノ、サシケクシラニ、アガココロシ、イヤウコニシテ。
依網池で蓴菜を手繰って、ずっと先まで気を配っていたのを知らずに、また岸辺に護岸の杭を打つ川俣の江の菱茎が、遠くまで伸びているのを知らず、(天皇が髪長媛を賜うように、配慮されていたのを知らないで)私は全く愚かでした。
大鷀鵪尊は髪長媛とすでに同衾され、仲睦まじかった。
髪長媛に向かって、歌を詠んだ。
ミチノシリ、コハタヲトメヲ、力ミノゴ卜、キコエシカド、アヒマクラマク。
遠い国の、こはた乙女は、恐ろしいほど美しいと噂が高かったが、今は私と枕を交わす仲となった。
さらに歌を詠まれた。
ミチノシリ、コハタヲ卜メ、アラソハズ、ネシクヲシゾ、ウルハシミモフ。
こはた嬢女が逆わずに、一緒に寝てくれたことを素晴しいと思う。
ある説によると、日向の諸県君牛は、朝廷に仕えて老齢となり、仕えをやめて、本国に帰った。
そして、娘の髪長媛を奉った。
播磨国にやってきた天皇は、淡路島で狩りをなさった。
そして西の方をご覧になると、数十の大鹿が海に浮いてやってきて、播磨の加古の港に入った。
天皇はそばの者に、
「あれはどういう鹿だろう。大海に浮かんで沢山やってくるが」
と言われた。
お側の者も怪しんで、使いをやって見させた。
見ると皆、人である。
ただ角のついた鹿の皮を、着物としていたのである。
「何者か」
というと、答えて、
「諸県君牛です。年老いて宮仕えができなくなりましたが、朝廷を忘れることができず、それで私の娘である、髪長媛を奉ります」
と言った。
天皇は喜んで娘を宮仕えさせられた。
それで、当時の人は、その岸に着いた処を名づけて、鹿子水門といった。
水手(船員のこと)を鹿子というのは、この時から初めて発生したという。
弓月君、阿直岐、王仁
十四年春二月、百済王が縫衣工女(裁縫業)を奉った。
真毛津という。
これが現在の来目衣縫の先祖である。
この年、弓月君が百済からやってきた。
奏上して、
「私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし、新羅人が邪魔をしているので、皆、加羅国に留っています」
と言った。
そこで、葛城襲津彦を遣わして、弓月の民を加羅国に呼ばれた。
しかし、三年経っても襲津彦は帰ってこなかった。
十五年秋八月六日、百済王は阿直岐を遣わして、良馬二匹を奉った。
それを大和の軽の坂上の厩で飼わせた。
阿直岐に司らせて養わされた。
その馬飼いをしたところを厩坂という。
阿直岐はまた、よく経書を読んだ。
それで太子の菟道稚郎子の学問の師とされた。
天皇は阿直岐に、
「お前よりも優れた学者がいるかどうか」
と言われた。
阿直岐は、
「王仁という優れた人がいます」
と答えた。
上毛野君の先祖の荒田別、巫別を百済に遣わして、王仁を召された。
阿直岐は阿直岐史の先祖である。
十六年春二月、王仁がきた。
太子の菟道稚郎子はこれを師とされ、諸々の典籍を学ばれた。
全てによく通達していた。
王仁は書首の先祖である。
この年、百済の阿花王が薨じた。
天皇は直支王(阿花王の長子)を呼んで語った。
「あなたは国に帰って位に就きなさい」
よって、東韓の地を賜わり遣わされた。
東韓とは、甘羅城、高難城、爾林城がこれである。
八月、平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣わした。
精兵を授けて詔して、
「襲津彦が長らく還ってこない。きっと新羅が邪魔をしているので滞っているのだろう。お前たちは速やかに行って新羅を討ち、その道を開け」
と言われた。
木菟宿禰らは兵を進めて、新羅の国境に臨んだ。
新羅の王は恐れてその罪に服した。
そこで弓月の民を率いて、襲津彦と共に還ってきた。
十九年冬十月ー日、吉野宮にお出でになった。
国樔人が醴酒を天皇に奉り、歌を詠んだ。
カシノフニ、ヨクスヲツクリ、ヨクスニ、カメルオホミキ、ウマラニ、キコシモチヲセ、マロガチ。
橿の林で横臼を造り、その横臼に醸した大御酒を、おいしく召上れ、我が父よ。
歌が終ると、半ば開いたロを、掌で叩いて仰いで笑った。
現在、国樔の人が土地の産物を奉る日に、歌が終ってロを打ち笑うのは古の遺風である。
国樔は人となりが純朴であり、常は山の木の実を取って食べている。
また、カエルを煮て上等の食物としており、名づけて毛瀰という。
その地は京より東南で、山を隔てて吉野川のほとりにいる。
峯高く谷深く道は険しい。
このため京に遠くはないが、もとから訪れることが稀であった。
けれども、これ以後はしばしばやってきて、土地の物を奉った。
その産物は栗、茸、鮎の類である。
二十年秋九月、倭漢直の先祖である阿知使主が、その子の都加使主、並びに十七県の自分の輩を率いてやってきた。
兄媛の嘆き
二十二年春三月五日、天皇は難波にお出でになり、大隅宮に居られた。
十四日、高台に登って遠くを眺められた。
そのとき、妃である兄媛が、西の方を望んで大いに嘆かれた。
兄媛は、吉備臣の先祖の御友別の妹である。
天皇が兄媛に、
「何でお前はそんなに嘆き悲しむのか」
と尋ねられた。
兄媛は答えて、
「この頃、私は父母が恋しく、西の方を遠く眺めましたので、ひとりでに悲しくなったのです。どうかしばらく帰らせて、親の顔を見させてください」
と言った。
天皇は、兄媛が親を思う心の篤さに感心され、
「お前は両親を見ないで、もう何年か経っている。帰って親を見舞いたいと思うのは当然である」
とお語りになって、ただちにお許しになった。
淡路の三原の海人部八十人を呼んで、水手として吉備に送られた。
夏四月、兄媛は難波の大津から船出した。
天皇は高殿にいて、兄媛の船を見送り歌われた。
アハヂシマ、イヤフタナラビ、アヅキシマ、イヤフタナラビ、ヨロシキシマシマ、夕カタサレアラチシ、キビナルイモヲ、アヒミツルモノ。
淡路島は小豆島と二つ並んでいる。私が立ち寄りたいような島には、皆二つ並んでいるのに、私はひとりにされてしまった。誰が遠くへ行き去らせてしまったのだ。吉備の兄媛を折角親しんでいたのに。
秋九月六日、天皇は淡路島に狩りをされた。
この島は難波の西にあり、巌や岸が入りまじり、陵や谷が続いている。
芳草が盛んに茂り、水は勢よく流れている。
大鹿、鳧、雁などが沢山いる。
それで天皇は、度々遊びにお出でになった。
天皇は淡路から回って、吉備にお出でになり、小豆島で遊ばれた。
十日、また葉田の葦守宮に移り、お住みになった。
そのとき、御友別が来て、その兄弟子孫を料理番として奉仕させた。
天皇は御友別が畏まり仕えまつる様子をご覧になり、お喜びの気持ちを抱かれた。
それで吉備国を割いて、その子たちに治めさせられた。
川島県を分けて、長子の稲速別に当てた。
これが下道臣の先祖である。
次に、上道県を中子の仲彦に。
これが上道臣、香屋臣の先祖である。
次に三野県を弟彦に。
これが三野臣の先祖である。
また波区芸県を、御友別の弟である鴨別に。
これが笠臣の先祖である。
苑県は、兄の浦凝別に。
これが苑臣の先祖である。
そして、織部を兄媛に賜わった。
こうして、その子孫は現在、吉備国にいる。
これがその発祥である。
二十五年、百済の直支王が薨じた。
その子の久爾辛が王となった。
王は年が若かったので、木満致が国政を執った。
王の母と通じて、無礼が多かった。
天皇はこれを聞いてお呼びになった。
百済記によると、木満致は木羅斤資が新羅を討ったときに、その国の女性を娶とって生んだ者である。
その父の功を以て、任那を拠点にした。
我が国(百済)に来て、日本と往き来した。
職制を賜わり、我が国の政を執った。
権勢が盛んであったが、天皇はそのよからぬことを聞いて呼ばれたのである。
二十八年秋九月、高麗の王が使者を送って朝貢した。
その上表文には、
「高麗の王、日本国に教え知らせる」
とあった。
太子の菟道稚郎子は、その表を読んで怒り、表の書き方の無礼なことで、高麗の使者を責められ、その表を破り捨てられた。
武庫の船火災
三十一年秋八月、群卿に詔して、
「官船の枯野は、伊豆の国から奉ったものであるが、現在は朽ちて使用に堪えない。しかし、長らく官用を勤め、その功績は忘れられない。この船の名を絶やさず、後に伝えるには何か良い方法はないか」
と言われた。
群卿は有司に命じて、その船の材を取り、薪として塩を焼かせた。
五百籠の塩が得られた。
それをあまねく諸国に施された。
そして船を造ることになり、諸国から五百の船が献上された。
それが武庫(兵庫県西宮)の港に集まった。
そのとき、新羅の調の使者が武庫に宿っており、そこから失火した。
その延焼で多数の船が焼けたので、新羅の人を責めた。
新羅王はこれを聞き、大いに驚いて優れた工匠を奉った。
これが猪名部の先祖である。
以前に、枯野船を塩の薪にして焼いた日に、余り物の焼け残りがあった。
それらが燃えないことを不思議に思って献上した。
天皇は怪しんで、琴を造らされた。
その音は、さやか(大きく明瞭)で遠くまで響いた。
このとき、天皇が歌った。
カラヌヲ、シホニヤキ、シガアマリ、コトニツクリ、カキヒクヤ、ユラノトノ、卜ナカノイクリニ、フレタツ、ナヅノキノ、サヤサヤ。
「枯野」を塩焼きの材として焼き、その余りを琴に造って、かき鳴らすと、由良の瀬戸の海石に触れて、生えているナズの木が、潮に打たれて鳴るような、大きな音で鳴ることだ。
三十七年春二月一日、阿知使主、都加使主を呉に遣わして、縫工女を求めさせた。
阿知使主らは高麗国に渡って、呉に行こうと思った。
しかし、高麗に着いたが道が分らず、道を知っている者を高麗に求めた。
高麗王は久礼波と久礼志の二人をつけて道案内させた。
これによって呉に行くことができた。
呉の王は縫女の兄媛、弟媛、呉織、穴織の四人を与えた。
三十九年春二月、百済の直支王は、その妹である新斉都媛を遣わして仕えさせた。
このとき、新斉都媛は七人の女を連れてやってきた。
四十年春一月八日、天皇は大山守命と大鷦鷯尊を呼んで尋ねられた。
「お前達は自分の子供は可愛いか」
「大変可愛いです」
と答えられた。
さらに尋ねて、
「大きくなったのと、小さいときではどっちが可愛いか」
大山守命は、
「大きくなった方が良いです」
と答えた。
天皇は喜ばれないご様子であった。
大鷦鷯尊は、天皇のお心を察して申し上げられるのに、
「大きくなった方は、年を重ねて一人前となっているので、もう不安がありません。ただ、若い方はそれが一人前となれるか、なれないかも分らないので、若い方は可愛そうです」
と言われた。
天皇は大いに喜んで、
「お前の言葉は、誠に朕の心にかなっている」
と言われた。
このとき天皇は、常に菟道稚郎子を立てて、太子にしたいと思われる心があった。
それで二人の皇子の心を知りたいと思われ、そのためにこの問いをされたのであった。
だから大山守命のお答えを喜ばれなかった。
二十四日に菟道稚郎子を立てて後嗣とされた。
その日、大山守命を山川林野を司る役目とされた。
大鷦鷯尊は太子の補佐として国事を任せた。
四十一年春二月十五日、天皇は明宮で崩御された。
時に御歳百十歳。
一説では、大隅宮でお亡くなりになったとも言われる。
この月、阿知使主らが呉から筑紫に着いた。
そのときに宗像大神が工女らを欲しいと言われ、兄媛を大神に奉った。
これが現在、筑紫の国にある御使君の先祖である。
あとの三人の女をつれて津国に至り、武庫に着いた時に天皇が崩御された。
ついに間に合わなかったので、 大鷦鷯尊に奉った。
この女たちの子孫が、現在の呉衣縫、蚊屋衣縫である。
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