日本書紀・日本語訳「第十巻:応神天皇」

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応神天皇 誉田天皇

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天皇の誕生と即位

誉田天皇ホムタノスメラミコト仲哀天皇ちゅうあいてんのうの第四子である。
母を気長足姫尊オキナガタラシヒメノミコトという。

天皇は神功皇后じんぐうこうごう新羅しらぎを討たれた仲哀九年十二月に、筑紫ちくし蚊田かだでお生まれになった。
幼少から聡明で、物事を深く遠くまで見通された。
立居振る舞いに不思議にも聖帝の兆しがあった。
皇太后の摂政三年に、立って皇太子となられた。

時に、年三歳。
天皇が孕まれておられるとき、天神地祇てんじんちぎは三韓を授けられた。
生まれられた時に、腕の上に盛り上った肉があった。
その形がちようどほむた弓を射た時、反動で弦が腕に当ることを防ぐ革の防具)のようであった。
これは皇太后(神功皇后)が男装して、ほむたを装着したことに似られたのであろう。
それで、その名を称えて誉田天皇ほむたのすめらみことというのである。

古の人は、弓の鞆のことを、「ほむた」と言った。
ある説によると、天皇が初め、皇太子となられたとき、越国こしのくに北陸地域)にお出でになり、敦賀の笥飯大神ヒケノオオカミにお参りになった。
そのとき、大神と太子と名を入れ替えられた。
それで大神を名づけて去来紗別神イザサワケノカミといい、太子を誉田別尊ホムタワケノミコトと名づけたという。
それだと大神のもとの名を誉田別神ホムタワケノミコト、太子のもとの名を去来紗別尊イザサワケノカミということになる。
けれども、そういった記録はなく、まだ詳らかではない。

皇后の摂政六十九年夏四月、皇太后が崩御された。
ときに年百歳。

元年の春一月一日、皇太子は皇位につかれた。
この年、太歳庚寅たいさいかのえとら

二年春三月三日、仲姫ナカツヒメを立てて皇后とされた。
皇后は、荒田皇女アラタノヒメミコ大鷦鷯天皇オオサザキノスメラミコト仁徳天皇)、
根鳥皇子ネトリノミコをお生みになった。
そのあと天皇は、皇后の姉の高城入姫タカキノイリビメを妃として、額田大中彦皇子ヌカタノオオナカツヒコノミコ大山守皇子オオヤマモリノミコ去来真稚皇子イザノマワカノミコ大原皇女オオハラノヒメミコ澇来田皇女コムクタノヒメミコをお生みになった。
また別の妃である皇后の妹の弟姫オトヒメは、阿倍皇女アベノヒメミコ淡路御原皇女アワジノミハラヒメミコ紀之蒐野皇女キノウノノヒメミコをお生みになった。
その次の妃である和珥臣わにのおみの祖の日触使主ヒフレノオミの娘、宮主宅媛ミヤヌシヤカヒメは、蒐道稚郎子皇子ウジノワキイラツコノミコ矢田皇女ヤダノヒメミコ雌鳥皇女メトリノヒメミコをお生みになった。
また次の妃である宅姫ヤカヒメの妹の小甌媛オナベヒメは、蒐道稚郎姫皇女ウジノワキイラツメノヒメミコをお生みになった。
またその次の妃である河派仲彦カワマタナカツヒコの娘の弟姫オトヒメは、稚野毛二派皇子ワカノケフタマタノミコを生んだ。
その次の妃である桜井田部連男組サクライタベノムラジオサイの妹の糸媛イトヒメは、隼総別皇子ハヤブサワケノミコをお生みになった。
次の妃である日向泉長媛ヒムカイノイズミノナガヒメは、大葉枝皇子オオバエノミコ小葉枝皇子オバエノミコをお生みになった。
この天皇の男女は、合わせて二十人お出でになる。

根鳥皇子ネトリノミコ大田君おおたのきみの先祖である。
大山守皇子オオヤマモリノミコは、土形君ひじかたのきみ榛原君はりはらのきみの二族の先祖である。
去来真稚皇子イザノマワカノミコ深河別ふかかわわけの先祖である。

三年冬十月三日、あずま蝦夷えみしが皆、朝貢してきた。
その蝦夷えみしを使って厩坂道うまやさかのみちを造らせた。

十一月に、各地の漁民が騒いて、命に従わなかった。
阿曇連あずみのむらじの先祖である大浜宿禰オオハマノスクネを遣わして、その騒ぎを平定した。
それで漁民の統率者とされた。
当時の人々の諺に「佐麼阿摩さばあま」と言うのは、これが由来である。

この年、百済くだら辰斯王シンシオウが位につき、貴国かしこきくに日本)の天皇に対して礼を失することをした。
そこで、紀角宿禰キノツノスクネ羽田矢代宿禰ハタノヤシロノスクネ石川宿禰イシカワノスクネ木蒐宿禰ツクノスクネを遣わして、その礼に背くことを責めた。
それで百済国くだらこくは、辰斯王シンシオウを殺して陳謝した。
紀角宿禰キノツノスクネらは、阿花アクエを立てて王として帰ってきた。

五年秋八月十三日、諸国に令して、海人部あまべ山守部やまもりべを定めた。

冬十月、伊豆国いずのくにに命じて船を造らせた。
長さ十丈(約30m)の船ができた。
ためしに海に浮かべると、 軽く浮かんで早く行くことは、走るようであった。
その船を名づけて枯野からのといった。

船が軽く早く走るのに、枯野と名づけるのは、道理に合わない。
もしかすると軽野と言ったのを、後の人が訛ったのかもしれない。

六年春二月、天皇は近江国にお出ましになり、途中、蒐進野うじの(宇治)のほとりにお出でになったとき、歌をお詠みになった。

チハノ、カゾヌヲミレバ、モモチタル、ヤニハモミユ、クニノホモミユ。

葛野かずのを見渡すと、豊かな家どころも見える。国の優れたところも見える。

七年秋九月、高麗人こまびと百済人くだらびと任那人みまなびと新羅人しらぎびと等が来朝した。
武内宿禰タケノウチノスクネに命ぜられ、諸々の韓人からひとらを率いて池を造らせられた。
そこで、その池を韓人池からひとのいけという。

八年春三月、百済人が来朝した。

百済記くだらきに述べているのは、阿花王アクエオウが立って貴国かしこきくにに無礼をした。
それで、我が枕弥多礼トムタレ峴南ケムナム支侵シシム谷那コクナ東韓トウカンの地を奪われた。
このため、王子直支セシムトキを天朝に遣わして、先王の好を修交した。

武内宿禰に弟の讒言

九年夏四月、武内宿禰タケノウチノスクネ筑紫ちくしに遣わして、人民を監察させた。
そのとき、宿禰すくねの弟の甘美内宿禰ウマシウチノスクネは、兄を排除しようとして天皇に讒言ざんげんし、
武内宿禰タケノウチノスクネは常に天下を狙う野心があります。 今、筑紫ちくしにいて、密かに語っていうのに、『筑紫を割いて取り、三韓を自分に従わせたら、 天下を取ることができる』と言っているそうです」
と言った。

天皇は使者を遣わして、武内宿禰タケノウチノスクネを殺すことを命じた。
武内宿禰タケノウチノスクネはこれを欺いて、
「手前はもとより二心はない。忠心をもって君に仕えている。今、何の科で罪も無く死なねばならぬのか」
と言った。

壱岐直いきのあたいの先祖の真根子マネコという人があり、その容貌が武内宿禰タケノウチノスクネによく似ていた。
武内宿禰タケノウチノスクネが罪も無く空しく死ぬのを惜しみ、宿禰すくねに、
「大臣は忠心をもって君にお仕えし、腹黒い心のないことは天下の人が皆知っています。密かに朝廷に参り、自ら罪の無いことを弁明してから後に死んでも遅くないでしょう。他の人も、『お前の顔かたちは武内宿禰タケノウチノスクネに似ている』と言います。今、私が大臣に代って死んで、大臣の赤心を明らかにしましょう」
と言い、即座に自分に剣を当てて死んだ。

武内宿禰タケノウチノスクネは大いに悲しみ、密かに筑紫ちくしを逃れて、舟で南海を回り、紀伊の港に泊った。
やっと朝廷に辿り着き、罪の無いことを弁明した。
天皇は武内宿禰タケノウチノスクネ甘美内宿禰ウマシウチノスクネを対決させて、問われた。
二人は互いにゆずらず、是非を決め難かった。

天皇は神祇に祈り、探湯くがたち神に析誓して手を熱湯に入れ、皮膚がただれた者を邪とする占い)をさせられた。
武内宿禰タケノウチノスクネ甘美内宿禰ウマシウチノスクネ磯城川しきがわのほとりで探湯くがたちをした。
そして、武内宿禰が勝った。

そこで武内宿禰タケノウチノスクネは大刀をとって、甘美内宿禰ウマシウチノスクネを殺してしまおうとした。
しかし、天皇のお言葉で許されて、紀直きのあたらいの先祖を賜わった。

髪長媛と大鶬鵪尊

十一年冬十月、剣池つるぎのいけ軽池かるのいけ鹿垣池ししかきのいけ厩坂池うまやさかのいけを造った。

この年、ある人が申し上げて、
「日向国に髪長緩カミナガヒメという嬢女おとめがいて、諸県もろかた君牛諸井ウシモロイの娘です。これは国中での美人です」
と言った。
天皇は心中喜ばれて、これを召そうと思われた。
十三年春三月、天皇は専使たくめつかいその用事だけの使者)を遣わして、髪長媛カミナガヒメを召された。

秋九月中旬、髪長媛カミナガヒメ日向ひむかからやってきた。
摂津国せっつのくに桑津邑くわつのむらに置かれた。
皇子の大鷦鷯尊オオサザキノミコトは、髪長媛をご覧になり、その容貌の美しさに感じて、引かれる心が強かった。
天皇は大鷦鷯尊が、髪長媛を気に入っているのを見て、娶合わせようと思われた。
後宮で宴会を催されたとき、初めて髪長媛を呼んで、宴の席に侍らされた。
大鵷鵪尊をさし招き、髪長媛を指さして歌を詠んだ。

イザアギ、ヌニヒルツミニ、ヒルツミニ、ワガユクミチニ、力グハシ、ハナタチバナ、シツエラハ、ヒ卜ミナトリ、ホツエハ、トリヰ力ラシ、ミツクリノ、ナカツエノ、フホコモリ、アガレルヲトメ、イザサカバエナ。

さあ我が君よ。野にひるニンニク)摘みに行きましよう。ひる摘みに行く私の道に、よい香りの花橘はなたちばなが咲いています。その下枝の花は人が皆取り、上枝は鳥がきて散らしましたが、中の枝のこれから咲く美しい赤味を含んだ、花のような美しい女がいます。さあ、花咲くといいですね。

大鷀鵪尊オオサザキノミコトは御歌を賜わって、髪長媛カミナガヒメを賜わることを知り、大いに喜び返し歌をされた。

ミゾタマル、ヨサミノイケニ、ヌナハクリ、ハへケクシラニ、ヰクヒツク、カハマタエノ、ヒシガラノ、サシケクシラニ、アガココロシ、イヤウコニシテ。

依網池よさみのいけ蓴菜じゅんさいを手繰って、ずっと先まで気を配っていたのを知らずに、また岸辺に護岸の杭を打つ川俣の江の菱茎ひしがらが、遠くまで伸びているのを知らず、(天皇が髪長媛を賜うように、配慮されていたのを知らないで)私は全く愚かでした。

大鷀鵪尊オオサザキノミコト髪長媛カミナガヒメとすでに同衾どうきんされ、仲睦まじかった。
髪長媛に向かって、歌を詠んだ。

ミチノシリ、コハタヲトメヲ、力ミノゴ卜、キコエシカド、アヒマクラマク。

遠い国の、こはた乙女は、恐ろしいほど美しいと噂が高かったが、今は私と枕を交わす仲となった。

さらに歌を詠まれた。

ミチノシリ、コハタヲ卜メ、アラソハズ、ネシクヲシゾ、ウルハシミモフ。

こはた嬢女おとめが逆わずに、一緒に寝てくれたことを素晴しいと思う。

ある説によると、日向ひむか諸県君牛モロガタノキミウシは、朝廷に仕えて老齢となり、仕えをやめて、本国に帰った。
そして、娘の髪長媛カミナガヒメを奉った。
播磨国はりまのくににやってきた天皇は、淡路島で狩りをなさった。
そして西の方をご覧になると、数十の大鹿が海に浮いてやってきて、播磨はりま加古の港かこのみなとに入った。

天皇はそばの者に、
「あれはどういう鹿だろう。大海に浮かんで沢山やってくるが」
と言われた。
お側の者も怪しんで、使いをやって見させた。
見ると皆、人である。

ただ角のついた鹿の皮を、着物としていたのである。
「何者か」
というと、答えて、
諸県君牛モロガタノキミウシです。年老いて宮仕えができなくなりましたが、朝廷を忘れることができず、それで私の娘である、髪長媛カミナガヒメを奉ります」
と言った。
天皇は喜んで娘を宮仕えさせられた。
それで、当時の人は、その岸に着いた処を名づけて、鹿子水門かこのみなとといった。
水手かこ船員のこと)を鹿子というのは、この時から初めて発生したという。

弓月君、阿直岐、王仁

十四年春二月、百済王くだらおう縫衣工女きぬぬいおみな裁縫業)を奉った。
真毛津マケツという。
これが現在の来目衣縫くめのきぬぬいの先祖である。

この年、弓月君ユミズキノキミ百済くだらからやってきた。
奏上して、
「私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし、新羅人しらぎびとが邪魔をしているので、皆、加羅国からこくに留っています」
と言った。
そこで、葛城襲津彦カズラキノソツヒコを遣わして、弓月ユミズキの民を加羅国に呼ばれた。
しかし、三年経っても襲津彦ソツヒコは帰ってこなかった。

十五年秋八月六日、百済王は阿直岐アチキを遣わして、良馬二匹を奉った。
それを大和やまとかるの坂上のうまやで飼わせた。
阿直岐アチキに司らせて養わされた。

その馬飼いをしたところを厩坂うまやさかという。
阿直岐アチキはまた、よく経書を読んだ。
それで太子の菟道稚郎子ウジノワキイラツコの学問の師とされた。

天皇は阿直岐アチキに、
「お前よりも優れた学者がいるかどうか」
と言われた。
阿直岐アチキは、
王仁ワニという優れた人がいます」
と答えた。
上毛野君かみつけのきみの先祖の荒田別アラタワケ巫別カムナギワケ百済くだらに遣わして、王仁ワニを召された。
阿直岐アチキ阿直岐史あちきのふびとの先祖である。

十六年春二月、王仁ワニがきた。
太子の菟道稚郎子ウジノワキイラツコはこれを師とされ、諸々の典籍を学ばれた。
全てによく通達していた。
王仁ワニ書首ふみのおびとの先祖である。

この年、百済くだら阿花王アカオウが薨じた。
天皇は直支王トキオウ阿花王アカオウの長子)を呼んで語った。
「あなたは国に帰って位に就きなさい」
よって、東韓とうかんの地を賜わり遣わされた。
東韓とは、甘羅城かむらのさし高難城こうなんのさし爾林城にりんのさしがこれである。

八月、平群木菟宿禰ヘグリノツクノスクネ的戸田宿禰イクハノトダノスクネ加羅からに遣わした。
精兵を授けて詔して、
襲津彦ソツヒコが長らく還ってこない。きっと新羅が邪魔をしているので滞っているのだろう。お前たちは速やかに行って新羅を討ち、その道を開け」
と言われた。
木菟宿禰ツクノスクネらは兵を進めて、新羅の国境に臨んだ。
新羅の王は恐れてその罪に服した。
そこで弓月の民を率いて、襲津彦ソツヒコと共に還ってきた。

十九年冬十月ー日、吉野宮よしののみやにお出でになった。
国樔人くずひとが醴酒を天皇に奉り、歌を詠んだ。

カシノフニ、ヨクスヲツクリ、ヨクスニ、カメルオホミキ、ウマラニ、キコシモチヲセ、マロガチ。

橿かしの林で横臼よこすを造り、その横臼にかもした大御酒おおみきを、おいしく召上れ、我が父よ。

歌が終ると、半ば開いたロを、掌で叩いて仰いで笑った。

現在、国樔くずの人が土地の産物を奉る日に、歌が終ってロを打ち笑うのは古の遺風である。
国樔くずは人となりが純朴であり、常は山の木の実を取って食べている。
また、カエルを煮て上等の食物としており、名づけて毛瀰もみという。
その地は京より東南で、山を隔てて吉野川よしのがわのほとりにいる。
峯高く谷深く道は険しい。
このため京に遠くはないが、もとから訪れることが稀であった。
けれども、これ以後はしばしばやってきて、土地の物を奉った。
その産物はくりたけあゆの類である。

二十年秋九月、倭漢直やまとのあやのあたいの先祖である阿知使主アチノオミが、その子の都加使主ツカノオミ、並びに十七県の自分のともがらを率いてやってきた。

兄媛の嘆き

二十二年春三月五日、天皇は難波なにわにお出でになり、大隅宮おおすみのみやに居られた。
十四日、高台に登って遠くを眺められた。
そのとき、妃である兄媛エヒメが、西の方を望んで大いに嘆かれた。
兄媛エヒメは、吉備臣きびのおみの先祖の御友別ミトモワケの妹である。

天皇が兄媛エヒメに、
「何でお前はそんなに嘆き悲しむのか」
と尋ねられた。
兄媛は答えて、
「この頃、私は父母が恋しく、西の方を遠く眺めましたので、ひとりでに悲しくなったのです。どうかしばらく帰らせて、親の顔を見させてください」
と言った。
天皇は、兄媛が親を思う心の篤さに感心され、
「お前は両親を見ないで、もう何年か経っている。帰って親を見舞いたいと思うのは当然である」
とお語りになって、ただちにお許しになった。
淡路の三原の海人部あまべ八十人を呼んで、水手かことして吉備きびに送られた。

夏四月、兄媛エヒメ難波なにわ大津おおつから船出した。
天皇は高殿たかどのにいて、兄媛の船を見送り歌われた。

アハヂシマ、イヤフタナラビ、アヅキシマ、イヤフタナラビ、ヨロシキシマシマ、夕カタサレアラチシ、キビナルイモヲ、アヒミツルモノ。

淡路島は小豆島と二つ並んでいる。私が立ち寄りたいような島には、皆二つ並んでいるのに、私はひとりにされてしまった。誰が遠くへ行き去らせてしまったのだ。吉備の兄媛を折角親しんでいたのに。

秋九月六日、天皇は淡路島に狩りをされた。
この島は難波なにわの西にあり、いわおや岸が入りまじり、みささぎや谷が続いている。
芳草が盛んに茂り、水は勢よく流れている。
大鹿、かもがんなどが沢山いる。
それで天皇は、度々遊びにお出でになった。

天皇は淡路から回って、吉備きびにお出でになり、小豆島しょうどしまで遊ばれた。
十日、また葉田はた葦守宮あしもりのみやに移り、お住みになった。
そのとき、御友別ミトモワケが来て、その兄弟子孫を料理番として奉仕させた。
天皇は御友別ミトモワケが畏まり仕えまつる様子をご覧になり、お喜びの気持ちを抱かれた。
それで吉備国きびのくにを割いて、その子たちに治めさせられた。

川島県かわしまのあがたを分けて、長子の稲速別イナハヤワケに当てた。
これが下道臣しものみちのおみの先祖である。

次に、上道県かみつみちのあがたを中子の仲彦ナカヒコに。
これが上道臣かみつみちのおみ香屋臣かやのおみの先祖である。

次に三野県みののあがた弟彦オトヒコに。
これが三野臣みののおみの先祖である。

また波区芸県はくぎのあがたを、御友別ミトモワケの弟である鴨別カモワケに。
これが笠臣かさのおみの先祖である。

苑県そののあがたは、兄の浦凝別ウラコリワケに。
これが苑臣そののおみの先祖である。

そして、織部はとりべ兄媛エヒメに賜わった。
こうして、その子孫は現在、吉備国きびのおみにいる。
これがその発祥である。

二十五年、百済くだら直支王トキオウが薨じた。
その子の久爾辛クニシンが王となった。
王は年が若かったので、木満致モクマンチが国政を執った。
王の母と通じて、無礼が多かった。
天皇はこれを聞いてお呼びになった。

百済記くだらきによると、木満致モクマンチ木羅斤資モクラコンシ新羅しらぎを討ったときに、その国の女性を娶とって生んだ者である。
その父の功を以て、任那みまなを拠点にした。
我が国(百済)に来て、日本と往き来した。
職制を賜わり、我が国のまつりごとを執った。
権勢が盛んであったが、天皇はそのよからぬことを聞いて呼ばれたのである。

二十八年秋九月、高麗こまの王が使者を送って朝貢した。
その上表文じょうひょうぶんには、
高麗こまの王、日本国に教え知らせる」
とあった。
太子の菟道稚郎子ウジノワキイラツコは、その表を読んで怒り、表の書き方の無礼なことで、高麗こまの使者を責められ、その表を破り捨てられた。

武庫の船火災

三十一年秋八月、群卿まちきみたちみことのりして、
「官船の枯野からのは、伊豆いずの国から奉ったものであるが、現在はちて使用に堪えない。しかし、長らく官用を勤め、その功績は忘れられない。この船の名を絶やさず、後に伝えるには何か良い方法はないか」
と言われた。

群卿まちきみたち有司ゆうしに命じて、その船の材を取り、まきとして塩を焼かせた。
五百かごの塩が得られた。
それをあまねく諸国に施された。
そして船を造ることになり、諸国から五百の船が献上された。
それが武庫むこ兵庫県西宮)の港に集まった。

そのとき、新羅しらぎ調ちょうの使者が武庫むこに宿っており、そこから失火した。
その延焼で多数の船が焼けたので、新羅しらぎの人を責めた。
新羅王しらぎおうはこれを聞き、大いに驚いて優れた工匠こうしょうを奉った。
これが猪名部いなべの先祖である。

以前に、枯野船からののふねを塩の薪にして焼いた日に、余り物の焼け残りがあった。
それらが燃えないことを不思議に思って献上した。
天皇は怪しんで、ことを造らされた。
その音は、さやか(大きく明瞭)で遠くまで響いた。
このとき、天皇が歌った。

カラヌヲ、シホニヤキ、シガアマリ、コトニツクリ、カキヒクヤ、ユラノトノ、卜ナカノイクリニ、フレタツ、ナヅノキノ、サヤサヤ。

枯野からの」を塩焼きの材として焼き、その余りをことに造って、かき鳴らすと、由良ゆら瀬戸せとの海石に触れて、生えているナズの木が、潮に打たれて鳴るような、大きな音で鳴ることだ。

三十七年春二月一日、阿知使主アチノオミ都加使主ツカノオミを呉に遣わして、縫工女を求めさせた。
阿知使主アチノオミらは高麗国こまこくに渡って、くれに行こうと思った。
しかし、高麗こまに着いたが道が分らず、道を知っている者を高麗に求めた。
高麗王こまおう久礼波クレハ久礼志クレシの二人をつけて道案内させた。
これによってくれに行くことができた。
くれの王は縫女ぬいめ兄媛エヒメ弟媛オトヒメ呉織クレハトリ穴織アナハトリの四人を与えた。

三十九年春二月、百済くだら直支王トキオウは、その妹である新斉都媛シセツヒメを遣わして仕えさせた。
このとき、新斉都媛シセツヒメは七人の女を連れてやってきた。

四十年春一月八日、天皇は大山守命オオヤマモリノミコト大鷦鷯尊オオサザキノミコトを呼んで尋ねられた。
「お前達は自分の子供は可愛いか」
「大変可愛いです」
と答えられた。
さらに尋ねて、
「大きくなったのと、小さいときではどっちが可愛いか」
大山守命オオヤマモリノミコトは、
「大きくなった方が良いです」
と答えた。
天皇は喜ばれないご様子であった。
大鷦鷯尊オオサザキノミコトは、天皇のお心を察して申し上げられるのに、
「大きくなった方は、年を重ねて一人前となっているので、もう不安がありません。ただ、若い方はそれが一人前となれるか、なれないかも分らないので、若い方は可愛そうです」
と言われた。
天皇は大いに喜んで、
「お前の言葉は、誠に朕の心にかなっている」
と言われた。

このとき天皇は、常に菟道稚郎子ウジノワキイラツコを立てて、太子にしたいと思われる心があった。
それで二人の皇子の心を知りたいと思われ、そのためにこの問いをされたのであった。
だから大山守命オオヤマモリノミコトのお答えを喜ばれなかった。

二十四日に菟道稚郎子ウジノワキイラツコを立てて後嗣とされた。
その日、大山守命オオヤマモリノミコトを山川林野を司る役目とされた。
大鷦鷯尊オオサザキノミコトは太子の補佐として国事を任せた。

四十一年春二月十五日、天皇は明宮あきらのみやで崩御された。
時に御歳百十歳。
一説では、大隅宮おおすみのみやでお亡くなりになったとも言われる。

この月、阿知使主アチノオミらがくれから筑紫ちくしに着いた。
そのときに宗像大神ムナカタノオオカミが工女らを欲しいと言われ、兄媛エヒメを大神に奉った。
これが現在、筑紫ちくしの国にある御使君みつかいのきみの先祖である。
あとの三人の女をつれて津国つのくにに至り、武庫むこに着いた時に天皇が崩御された。
ついに間に合わなかったので、 大鷦鷯尊オオサザキノミコトに奉った。
この女たちの子孫が、現在の呉衣縫くれのきぬぬい蚊屋衣縫かやのきぬぬいである。

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惠我藻伏崗陵
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

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