日本書紀・日本語訳「第十五巻 清寧天皇 顕宗天皇 仁賢天皇」

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清寧天皇 白髪武広国押稚日本根子天皇

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星川皇子の乱

白髪武広国押稚日本根子天皇しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみことは、雄略天皇の第三子である。
母を葛城韓媛かずらきのからひめという。
天皇は生まれながらにして白髪であった。
成長してからは、人民を慈しまれた。
雄略天皇の多勢の皇子たちの中で、特に不思議で変ったところがおありになった。

二十ニ年、立って皇太子となられた。

二十三年八月、雄略天皇が亡くなられた。
夫人である吉備稚媛きびのわかひめは、秘かに幼い星川皇子ほしかわのみこに語って、
「天子の位に登ろうと思うなら、まず大蔵の役所を取りなさい」
と言われた。

長子の磐城皇子いわきのみこは、母夫人が星川皇子に教えることばを聞いて、
「皇太子は、我が弟であるけれども、欺くことはできようか。してはならぬことです」
と言われた。
星川皇子はそれを聞かないで、たやすく母夫人の意向に従った。

そしてついに大蔵の役所をとった。
外門を閉ざし固めて、攻撃に備えた。
権勢をふるい、官物を勝手に使った。

大伴室屋大連はおおとものむろやのおおむらじ東漢掬直やまとのあやのつかのあたいに、
「雄略天皇が言い遺したことが、今到来しようとしている。遺詔ゆいじょうに従って、皇太子にお仕えせねばならぬ」
と言った。

兵士を出動させて大蔵を取り囲んだ。
外から防ぎ固めて、火をつけて焼き殺した。
このとき、吉備稚媛と磐城皇子の異父兄の兄君と城丘前来目きのおかさきのくめも星川皇子と共に焼殺された。
このとき河内三野県主小根かわちのみののあがたぬしおねは、恐れおののいて火を避け脱出した。
草香部吉士漢彦くさかべのきしあやひこの脚に抱きつき、助命を大伴室屋大連に乞うて欲しいといい、
「私が星川皇子に仕えたことは事実です。しかし、皇太子に背くことはございません。どうか大きな恵みにより命をお助け下さい」
と言った。

漢彦は、大伴大連にいろいろと詳しく申し立てて処刑の中に入れられなかった。
小根は漢彦から大連に申し上げさせ、
「大伴大連さま、君の大きな恵みによって、切迫していた私の命が長らえて、また日の目を見ることができました」
といい、難波の来目邑くめむら大井戸おおいへ田十町たとところを大連に贈った。
また田地を漢彦に与えてその恩に報いた。

この月、吉備上道臣らは、朝廷に乱ありと聞いて、稚媛の腹に生まれた星川皇子を救おうと思い、船軍四十艘を率いて海上をやって来たが、既に皇子が焼き殺されたと聞き、海路で帰った。
天皇は使者を遣わし上道臣らを責め、その管理していた山部やまべを召し上げられた。

冬十月四日、大伴室屋大連は、臣と連たちを率いて皇位のしるし(鏡と剣:三種の神器と思われる)を皇太子に奉った。

天皇即位と億計・弘計

元年春一月十五日、役人に命じて、壇場たかみくら磐余いわれ甕栗みかくりに設け、即位式をされて宮を定められた。
葛城韓媛かずらきのからひめを尊んで、皇太夫人とされた。
大伴室屋大連おおとものむろやのおおむらじ大連おおむらじの役に、平群真鳥大臣へぐりのまとりのおおおみ大臣おおおみの役とされたことは、元の通りであった。
臣、連、伴造らも、それぞれ元の位のままでお仕えした。

冬十月九日、雄略天皇を丹比高鷲原陵たじひのたかわしのはらのみささぎに葬った。
このときに近習の隼人たちは、昼夜、みささぎのそばで大声で悲しみ、食物を与えても食べず、七日目に死んだ。
役人は墓を陵の北に造り、礼をもって葬った。
この年、太歳庚申たいさいかのえさる

二年春二月、天皇は子がいないことを残念に思われ、大伴室屋大連を諸国に遣わし、白髪部舎人しらかべのとねり白髪部膳夫しらかべのかしわで白髪部靱負しらかべのゆげいをおかれた。
遺跡を残して後世に名を伝えようと思われたのである。

冬十一月、大嘗祭の供物を調えるために、播磨国はりまのくにに遣わした山部連やまべのむらじの先祖である伊予来目部小楯いよのくめべのおだてが、明石郡あかしのこおり縮見屯倉首しじみのみやけのおびとである忍海部造細目おしぬべのみやつこほそめの家を新築にした宴で、市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこ(履中天皇の子)の息子たちである、億計おけ(仁賢天皇)と弘計をけ(顕宗天皇)を発見した。

うやまって、共にお抱き申して、君として崇め奉ろうと思い、大いに謹んで養い、私財を供し、柴宮を建てて、仮りにお住み頂き、早馬を馳せて天皇にお知らせした。
天皇は驚き、嘆息してしばらく悼まれてから、
「めでたいことだ、悦ばしいことだ。天は大きな恵みを垂れて、二人のこどもを賜わった」
と言われた。

この月、小楯に節刀しるしを持たせ、側近の舎人とねりをつけて、明石に行かせてお迎えさせた。
これらことは、弘計をけ(顕宗)天皇の巻に記されている。

三年春一月一日、小楯おだてらは億計おけ弘計をけを奉じて摂津国せっつのくににきた。
臣と連に節刀しるしを持たせ、王の青蓋車みくるまにお乗せして、宮中に迎え入れられた。

飯豊皇女

夏四月七日、億計王おけのきみを皇太子とし、弘計王をけのきみを皇子とされた。

秋七月、飯豊皇女いいどよのひめみこ市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの娘で、仁賢天皇と顕宗天皇の姉)が角刺宮つのさしのみやで、男と交合をされたが、人に語って、
「人並に女の道を知ったが、別に変ったこともない。以後、男と交わりたいとも思わぬ」
と言われた。
九月二日、おみむらじを遣わして、民の風俗を巡察させられた。

冬十月四日、みことのりして、
「犬や馬などの生き物の玩弄物もてあそびものは、献上してはならぬ」
と言われた。
十一月十八日、おみむらじを召して、大庭で宴会を催された。
綿ときぬを賜わった。
自分の力でもてるだけ欲しいままに頂いて退出した。
この月、海外の諸蕃しょばんが使者を送り、貢物を奉った。

四年春一月七日、海外の使者たちを集め、朝堂で宴会を催された。
そして、それぞれに応じた賜物があった。

うるう五月、大宴会を五日間にわたり行われた。

秋八月七日、天皇は親しく囚徒を訪われた。
この日に蝦夷えみし隼人はやとも共に付き従った。

九月一日、天皇は弓殿ゆみどのにお出でになり、百寮もものつかさと海外の使者にみことのりして、弓を射させた。
それぞれに応じた賜物があった。

五年春一月十六日、天皇は大宮で崩御された。
年は明確ではない。

冬十一月九日、河内かわち坂戸原陵さかとのはらのみささぎに葬った。

顕宗天皇 弘計天皇

弘計・億計兄弟の苦難

弘計天皇をけのすめらみことは履中天皇の孫であり、市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの子である。
母を荑媛はえひめという。

譜第かばねのついでのふみには、市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこは、蟻臣ありのおみの娘である荑媛はえひめを妻とされた。
三男二女をもうけた。
第一を居夏媛いなつひめ
第二を億計王おけのみこ、またの名を嶋稚子しまのわくご、あるいは大石尊おおいしのみこと
第三を弘計王をけのきみ、 またの名を来目稚子くめのわくご
第四を飯豊女王いいどよのひめみこ、またの名を忍海部女王おしぬべのひめみこ
第五を橘王たちばなのみこという。
ある本では、飯豊女王いいどよのひめみこを、億計王おけのみこの上に入れている。
蟻臣ありのおみ葦田宿禰あしだのすくねの子であるとされる。

天皇は長らく辺境の地にお出でになって、万民の憂え苦しみを全てよく知っておられた。
虐げられた者を見ると、自分の体を溝に投げ入れられるように感じられた。
徳を布き、恵みを施して、政令をよく行われた。
貧しきを恵み、寡婦かふを養い、人民は親しみなついた。

安康天皇の三年十月、天皇の父、市辺押磐皇いちのべのおしわのみこ子と舍人である佐伯部仲子さえきべのなかちこは、近江国おうみのくに蚊屋野かやので、雄略天皇のために殺された。
それで、二人を一つ穴に埋めた。
そこで弘計王をけのみこ億計王おけのみこは、父が射殺いころされたことを聞き、恐れて共に逃げて身を隠した。
舍人とねり日下部連使主くさかべのむらじおみと、吾田彦あたひこ使主おみの子)は、二人のみこをお守りして、難を丹波国たんばのくに与謝郡よさのこおりに避けた。
使主おみは名を改め、田疾来たとくとした。
なお殺されることを恐れて、ここから播磨国はりまのくに縮見山しじみのやまの石屋に逃れ、自ら首をくくって死んだ。

天皇(顕宗天皇)は使主おみの行先を知らなかった。
兄の億計王を促し、播磨国の明石に行き、共に名を変えて丹波小子たにはのわらわといった。
縮見屯倉首しじみのみやけのおびとに仕えた。
吾田彦あたひこは離れないで、長く従い仕えた。

二人の王子、身分を明かす

清寧天皇の二年冬十一月、播磨国司はりまのくにのつかさ山部連やまべのむらじの先祖である伊予来目部小楯いよのくめべおだてが、明石郡あかしのこおりで親しく新嘗の供物を供えた。
たまたま縮見屯倉首しじみのみやけのおびとが新築祝いにきて、夜通しの酒宴に会った。

天皇(顕宗)は兄の億計王おけのみこに、
「ここに災いを逃れて何年にもなった。名を明かし、貴い身分であることを知らせるのに、今宵はちょうど良い」
と言った。
億計王おけのみこは嘆息して、
「自分から暴露して殺されるのと、身分を隠して災厄を免れるのと、どちらが良いか」
と言われた。
天皇(顕宗)は、
「私は履中天皇の孫なのだ。それなのに苦しんで人に仕え、牛馬の世話をしている。名を明らかにして、殺されるなら殺される方がマシだ」
と言った。
億計王と抱き合って泣き、自制できなかった。
億計王は、
「弟以外に誰も、大事を明かし、人に示すことのできる者はない」
と言った。
天皇(顕宗)は否定して、
「私は才がなく、大業を明らかにすることはできようか」
と言われた。
億計王は、
「弟は賢く徳があり、これに勝る人はない」
と言われた。

このように譲り合われること二度、三度に及んだ。
ついに、天皇が自ら述ベられることを許され、共に部屋の外に行き、座の末にお着きになった。
屯倉首みやけのおびとは、かまどのそばに座らせて、此方彼方に火を灯させた。
夜がふけ、縁竹縄えんたけなわとなり、舞いも終えた。
屯倉首みやけのおびとは小楯に語った。
「手前がこの火ともしの者を見るに、人を貴んで己を賤しくし、人に先を譲り己を後にしている。謹しみ敬って節に従い、退き譲って礼節を明かにしている。君子というべきでしょう」
小楯おだては琴を弾き二人に命じて、
「立って舞え」
と言った。
兄弟は譲り合ってなかなか立たなかった。
小楯は兄弟を責めた。
「何をしているのか、大変遅い。 早く立って舞いなさい」

億計おけは立って舞い、舞い終った。
天皇(顕宗)は次に立って、衣帯を整え、家賞めの歌を詠われた。

築き立つる稚室葛根、築立つる柱は、此の家長の御心の鎮まりなり。
取り挙ぐる棟梁むねうつばりは、此の家長の御心の林なり。
取り置ける椽撩はへきは、此の家長の御心のととのほりなり。
取り置ける蘆萑えつりは、此の家長の御心のたいらなるなり。
取り結べる縄葛なはかつらは、此の家長の御寿のかためなり。
取り葺ける草葉かやは、此の家長の御富みとみの余りなり。
出雲は新墾にひはり、新墾の十握の稲穂を、浅甕あさらけめる酒、美飲喫哉うまらにをやらふるかね、吾が子等。
脚日木あしひきの此の傍山かたやまの、牡鹿さおしか角挙つのささげて、吾が舞すれば、旨酒餌香市うまさけゑかのいち直以あたひて買はぬ。
手掌謀耶羅羅儞たなそこもやららに、拍上げ賜へ、吾が常世等とこよたち

築き立てる新しい室の綱や柱は、この家長の御心を鎮めるもの。
しっかり上げる棟や梁は、この家長の御心をもてはやすもの。
しっかり置く垂木は、この家長の御心を整えるもの。
しっかり置くえつり(下葺き)は、この家長の御心を平らかにするもの。
しっかり結んだ縄や葛は、この家長の寿命を堅くするもの。
葺いた茅は、この家長の富の豊かさを示すもの。
出雲田の新墾にいばりの十握稲を、浅いかめんで造ったお酒を、おいしく飲むことかな、我が友たちよ。
この山の傍で、私が牡鹿さおしかの角のように捧げて、舞をすると、この手造りの旨い酒は、餌香えかの市(良い香りのする旨い酒を売っていた有名な市場)でも、値段をつけて買うことはできないものだ。
手を打つ音も爽やかに、この酒を頂いた。
我が永久の友たちよ。

家賞めが終って、琴の音に合わせて、歌っていわれた。

イナムシロ、カハソヒヤナギ、ミヅユケバ、ナビキオキタチ、ソノネハウセズ。

川沿いに立っている川楊は、川の水の流れにつれて、なびいたり起き立ったりしているが、その根は決して失せることはない。

小楯おだてが言う。
「これは面白い。どうかまた聞きたいものだ」

天皇はさらに、殊舞たつづのまい立ったり座ったりして舞う)をされた。
そして叫び声をあげて歌われ、

倭は彼彼茅原(そそのちはら)、淺茅原(あさちはら)、弟日僕(おとひやつこ)らま。

倭はそよそよと茅原の音を立てる国である。私はその浅茅原の大和の国の弟王である

小楯おだてはこれによって深く怪しみ、さらに歌うことを求めた。
天皇はまた叫び歌われた。

石上いそのかみの、布留ふるの神杉を、本を伐りまた末を押し払うように、四周をなびかせて、市辺宮で天下をお治めになった、押磐尊おしわのみことの御子であるぞ、我は。

小楯おだては大いに驚いて席を離れ、いたみ入りながら再拝申し上げた。
一族を率いて謹しみお仕えし、人民を集めて造宮みやづくりに従った。
日ならずして出来た宮に、仮りにお入り頂き、京に申し上げて、二人の王子をお迎え頂くよう求めた。

清寧天皇はこれを聞いてお喜びになり、感激して、
「私は子がなくて困っていた。丁度よい後継ぎができた」
と言われて大臣おおおみ大連おおむらじとで相談され、播磨国司はりまのくにのつかさ来目部小楯くめべのおだてしるしを持たせ、 左右の舍人とねりを連れて明石に行き、お迎えさせた。

皇位の譲り合い

清寧天皇の三年春一月、天皇(顕宗)は兄の億計王おけのみこに従って、摂津国せっつのくににお出でになった。
おみむらじしるしを捧げ、青蓋車みくるまにお乗りになり、宮中にお入りになった。

夏四月、億計王おけのみこを立てて皇太子とし、天皇(顕宗)を皇子とした。

五年春一月、清寧天皇は崩御された。

この月、皇太子の億計王おけのみこと天皇が位を譲り合われた。
長らく位につかれなかった。
このため、天皇の姉の飯豊青皇女いいどよのあおのひめみこが、忍海の角刺宮おしぬみのつのさしのみやで、仮りに朝政をご覧になった。
自ら忍海飯豊青尊おしぬみいいどよのあおのみことと名乗られた。

当時、歌の上手な人が歌に詠んだ。

ヤマトへニ、ミガホシモノハ、オシヌミノ、コノタカキナル、ツヌサシノミヤ。

やまとのあたりで見ておきたいものは、忍海おしぬみの地のこの高城にある、立派な角刺つのさしの宮である。

冬十一月、飯豊青尊いいどよのあおのみことは崩御された。

葛城の埴ロ丘陵はにくちのおかのみささぎに葬った。

埴ロ丘陵
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

十二月、百官が集合し、億計皇太子おけのみこが、天皇のしるしを天皇(顕宗)の前に置かれた。
再拝して臣下の座につかれて、
「この天子の位は、功のあった人が居るべきである。貴い身分であることを明らかにして、迎え入れられたのは、皆、弟の考えによるものであった」
と言われた。

そして、天下を天皇に譲られた。
天皇は弟であるからと、あえて位につかれなかった。
また、清寧天皇が、まず兄に伝えようと思われて、皇太子に立てられたことをおっしゃって、何度も 固く辞退され、
「太陽や月が昇って、灯火をつけておくと、その光りはかえってうるさいものとなるだろう。農作物に慈雨が降って、その後もなお水を注ぐと、無意味につかれることになる。人の弟として貴い所は、兄によく仕えて、兄が難を逃れられるように謀り、兄の徳を照らし、紛争を解決して、自分は表に立たないことにある。もし表面に立つようなことがあれば、弟として恭敬の大義に背くことになる。私はそんな立場に居るに忍びない。兄が弟を愛し、弟が兄を敬うのは、万古不易の定めである。私は古老からこのように聞いている。どうしてひとりで自ら軽々しく動けましょうか」
と言われた。

億計おけ皇太子は、
「清寧天皇は、私が兄であることから、天下のことをまず私にさせなさったが、私はそれを恥ずかしいと思う。思えば、大王がはじめに、巧みに逃れる道をたてられたとき、それを聞く者は皆、嘆息した。帝の子孫であることを明らかにした時には、見る者は恐懼のあまり涙を流した。心配にたえなかった百官たちは、天を共に頂く喜びを感じた。哀しんでいた人民は、喜んで大地を踏んで生きる恩を感じた。これによって、よく四方の隅までも固めて、長く万代に国を栄えさせるであろう。その功績は天地の万物を創造した神に近く、清明なはかりごとは、世を照らしている。その偉大さは何とも表現しがたい。だから兄だからといって、先に位につくことができようか。功あらずして位にある時は、咎めや悔いが必ず至るであろう。天皇の位は、長く空しくしてはならぬと聞いている。 天命は避け防ぐことはできない。大王は国家を経営し、人民のことをその心として下さい」
と述べられた。

言葉を述べるうちに、感情的になって涙を流されるに至った。
天皇はそこに居るまいと思われたが、兄のお心に逆らえないと思われ、ついにお聞き入れになった。
けれども、まだ御位には就かれなかった。
天下の人は誠心からよくお譲りになったことを美しいこととして、
「結構なことだ。兄弟が喜びやわらいで、天下は徳に帰した。親族が仲睦まじいと、人民にも仁の心が盛んになるだろう」
と言った。

弘計王の即位

元年春一月一日、大臣おおおみ大連おおむらじらが申し上げた。
億計おけ皇太子は聖明の徳が盛んで、天下をお譲りになりました。陛下は正統でいらっしゃいます。日嗣ひつぎの位をうけて、天下の主となり、皇祖の無窮の業を受け継いで、上は天の心に副い、下は人民の心を満足させて下さい。ですから践祚せんそを御承知いただけませんと、金銀を産する隣りの諸国の群僚など、遠近の全てのものが、失望致します。皇太子の推し譲られることによって、聖徳はいよいよ盛んとなり、幸いは大変明らかであります。幼い時からへり下り敬い、慈しみしたがうお心でいられました。兄のご命令をお受けになって、大業を受けついで下さい」
と言った。
ついにみことのりをして、
「ゆるす」
とおっしゃった。
そこで公卿まえつきみ百官ひゃっかんを、近飛鳥八釣宮ちかつあすかのやつりのみやに召されて、天皇に即位された。

お仕えする百官ひゃっかんは皆喜んだ。

ある本には、弘計天皇をけのすめらみことの宮は二ヶ所あって、その一つの宫は小野おのに、その二の宮は池野いけのにあったという。
またある本には、甕栗みかくりに宮を造ったという。

この月、難波小野王なにわのおののみこを皇后に立てられた。
天下に恩赦をされた。
難波小野王は、雄浅津間稚子宿禰(允恭天皇)の曽孫で、磐城王の孫にあたり、丘稚子王の娘である。

二月五日詔して、
「先王は難に遇われて、荒野にて落命された。私はまだ幼かったので、逃けて身を隠した。強いて求められて、大業を継いだ。お骨を得たいと思って探したが、よく知っている者がいなかった」
と言われた。
仰せ終って、億計皇太子と共に声をあげて泣かれ、堪えられない御様子であった。

老婆置目の功績

この月、古老を召し集めて、天皇自ら、一人びとりに尋ねられた。
一人の老婆が進んで申し上げるのに、
置目おきめはお骨の埋められた所を知っています。お示しいたしましょう」
と言った(置目おきめとは老婆の名である。近江国狭々城山君ささきやまのきみの先祖の倭袋宿禰やまとふくろのすくねの妹である)。
そこで天皇と億計おけ皇太子は、老婆を連れて近江国の来田綿くたわたの、蚊屋野かやのの中にお出でになり、掘り起こしてご覧になると、果して老婆の言葉の通りであった。
穴を視いて号泣され、嘆き悼まれた。
古から今まで、こんな酷いことがあったろうか。
仲子なかちこ押磐皇子おしいわれのみこの舎人である佐伯部売輪さえきべのうるわのまたの名)の屍と、皇子の屍が入り交って、見分けがつかなかった。

そこに押磐皇子おしいわれのみこの乳母がいて申し上げるのに、
仲子なかちこは上歯が抜けておりました。それで見分けがつくでしょう」と。
乳母の言葉に従い、髑髏を分けてみたが、ついに手足や胴体を判別することはできなかった。
そこで蚊屋野かやのの中に、二つのみささぎを立て、全く同じように造った。
葬儀も同じようにした。
置目おきめの老婆にみことのりして、宮の近くに住まわされ、敬い恵んで、不自由のないようにされた。

この月、みことのりして、
「老婆はよろめき歩き、衰えてしっかりできない。縄を引き渡して、それに掴まって出入りしなさい。縄の端に鈴をつけて、取り次ぎの者をわずらわすことなく、入ってきたら鳴らしなさい。来たことが私に分るように」
と言われた。

老婆は仰せを承って、鈴を鳴らして入った。
天皇は鈴の音を遠くに聞かれて、歌を詠まれた。

アサヂハラ、ヲソネヲスギ、モモツタフ、ヌデユラグモヨ、オキメクラシモ。

浅茅あさじの原、痩せ地を遠く駅鈴の音が、伝って行くように、鈴が鳴っている。置目おきめの老婆がやってくるらしい。

三月三日、御苑ぎょえんにお出ましになって、曲水きょくすいの宴を行われた。

夏四月十一日、みことのりして、
「およそ人君が、人民を勧め励ます方法は、授官であり、国を興す方法は、功賞を行うことである。前播磨国司さきのはりまのくにのつかさ来目部小楯くめべのおだては、朕を探し出して立ててくれた。その功は大きい。願わしいことがあったら遠慮なく申せ」
と言われた。
小楯おだては畏まって、
山官やまのつかさ山守部やまもりべを管理する役目で、大きな権利を有する)の役が願わしゅうございます」
と言った。
その役を賜わって、姓を改め山部連やまべのむらじとなった。
吉備臣きびのおみを副官とし、山守部やまもりべを部民とした。
功を褒めて名誉を顕わし、恩に報い厚遇された。
寵愛を蒙り、富は並ぶ者がないほどであった。

五月、狭々城山君ささきやまのきみ韓袋宿禰からふくろのすくねは、陰謀に加わり、押磐皇子おしいわれのみこの殺害に加担したので、誅されることになったが、そのとき叩頭して申し上げた言葉が、酷く哀れであった。
天皇は殺すに忍ばれず、陵戸はかもりに貶し賤民にされ、官籍を削って、山部連やまべのむらじの下につけさせられた。
一族である倭袋宿禰やまとふくろのすくねは、妹の置目おきめの功により救われて、本姓の狭々城山君ささきやまのきみの氏を賜わった。

六月、避暑殿にすずみどのお出ましになって、奏楽をお聞きになった。
群臣くんしんを集めて酒食を賜わった。
この年、太歳乙丑たいさいきのとうし

復讐の思い

二年春三月上巳の日、そそのにお出ましになり、曲水きょくすいの宴を催された。
このとき、公卿まえつきみ大夫だいぶおみむらじ国造くにのみやつこ伴造とものみやつこを集めて、大宴会をされた。
群臣くんしんらは、盛んに喜びを申し上げた。

秋八月一日、天皇は億計おけ皇太子に語られた。
「我が父王は、罪なくして雄略天皇に殺され、屍を野良に捨てられ、今だにはっきりとしない。憤りの心は一杯にある。臥しては泣き、行きては喚き、仇を晴らしたいと思う。『父の仇とは共に天を戴かず、兄弟の仇とは、いつでも戦えるよう備えをしておく。友の仇とは同じところに住まない』と聞いたことがある。匹夫ひっぷの子でも、父母の仇を討つには、とま茅や藁で編んだテント)に寝て、たて盾のこと)を枕にして君に仕えず、国を共にせず、どんなところで出会っても、いつでも戦えるようにすると。ましてや、私は天子となって二年、願うことは雄略天皇の墓を壊し、遺骨を砕いて投げ散らしたい。今、この仕返しをしたら、親孝行になるのではないか」
と言われた。

億計おけ皇太子は嘆いて答えなかった。
そして諫めて言われた。
「よろしくない。雄略天皇は万機を統べて天下に照臨された。都、田舍の人が皆喜び仰いだのは、天皇の力である。我が父王は天皇の子であるといっても、難に遇って天位に登られなかった。これを見れば、尊卑が異っている。それでみささぎ)を壊したりすれば、誰を君として祖霊に仕えようか。壊してはならない一つの理由である。天皇と私は、今までに清寧天皇の厚い寵愛と深い恩をこうむらなかったら、どうして天位にあり得ようか。雄略天皇は清寧天皇の父である。私は多くの賢い老人に聞いた。老人が言ったことは、『言葉は報いられないことはなく、徳は応えられないことはない。恩を受けながらこれに応えられないのは、人を損うこと深きものである』 ということだ。陛下は国を治められ、徳行は天下に聞こえている。それなのに、陵を壊して天下に示せば、 国に臨み、人民を子とすることはできないだろうと恐れます。これが第二の理由です」
と言われた。

天皇は、
「良いことを言ってくれた」
と言われ、民を使役することをやめられた。

九月、置目おきめが老窮して郷に帰りたいと申し出た。
「もう気力が衰えて耄碌しました。たとえ縄に頼っても歩くことができません。郷里に帰り、生を終りたいと思います」
と言った。
天皇はこれを聞き悼まれて、賜物を多く下さった。
別れることを悲しみ、再び会えないことを嘆かれ、そこで歌を賜わった。

オキメモヨ、アフミノオキメ、アスヨリハ、ミヤマカクリテ、ミエズカモアラム。

置目おきめよ。近江おうみ置目おきめよ。明日からは故郷に去り、山に隠れて見えないだろう。

冬十月六日、群臣くんしんと宴会を催された。
このとき天下は平安で、人民は遥役ようえき苦しい雑用)に使われることもなかった。
穀物はよく稔り、百姓は富み栄えた。
稲は高価に購われ、馬は野にはびこった。

任那と高麗との通交

三年春二月一日、阿閉臣事代あへのおみことしろが、命令を受け任那みまなに使いに出た。
このとき、月の神が人に憑いて、
「我が祖、高皇産霊たかみむすひは、天地をお造りになった功がある。田地でんじを我が月の神に奉れ。求めのままに献上すれば、慶福けいふくが得られるだろう」
と言われた。
事代ことしろは京に帰って、詳しく申し 上げた。
山城国やましろのくに葛野郡かずらののこおり歌荒檄田うたあらすだ葛野郡の村)を奉られた。
そして、壱岐県主いきのあがたぬしの先祖の、押見宿禰おしみのすくねがそこにお祠りして仕えた。

三月三日、そそのにお出ましになり、曲水きょくすいの宴を催された。

夏四月五日、日の神が人に憑かれて、阿閉臣事代あへのおみことしろに、
やまと磐余いわれの田を、我が祖高皇産霊たかみむすひに奉れ」
と言われた。
事代ことしろは奏上し、神の求めのままに、田十四町を奉った。
対馬の下県直しもつあがたのあたいが、これをお祠りしお仕えした。

十三日、福草部さきくさべを置かれた。

二十五日、天皇は八釣宮やつりのみや近飛鳥八釣宮のこと)にて崩御された。

この年、紀生磐宿禰きのおいわのすくねが、任那みまなから高麗こまへ行き通い、三韓に王たらんとして、官府を整え、自ら神聖かみと名乗った。
任那みまな佐魯さる那奇他甲背なかたこうはいらが計を用い、百済くだら適莫爾解ちゃくまくにげ爾林城にりんじょうにて殺した。
帯山城しとろもろのさしを築いて東道やまとじを守った。
食糧を運ぶ港をおさえて、軍を飢え苦しませた。
百済王くだらおうは大いに怒り、古爾解こにげ内頭莫古解ないとうのまくこげらを遣わし、兵を率いて带山しとろもろを攻めさせた。
生磐宿禰おいわのすくねは軍を進め迎え討った。
勢い盛んで向う所敵なしであった。
一をもって百に当る勢いであったが、しばらくしてその力も尽きた。
失敗を悟り、任那みまなから帰った。
これによって百済国くだらこくは、佐魯さる那奇他甲背なかたこうはいらの三百余人を殺した。

傍丘磐坏丘南陵
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

仁賢天皇 億計天皇

億計天皇の即位

億計天皇おけのすめらみこといみな実名)は大脚おし
あざな嶋郎しまのいらつこ
弘計天皇をけのすめらみことの同母兄である。

幼い時から聡明で、敏才多識であった。
壮年に及んで恵み深く、遠慮深く穏やかであられた。
安康天皇がお隠れになり、難を避けて丹波国与謝郡たんばのくによさのこおりにお出でになった。
清寧天皇の元年冬十一月、播磨国司はりまのくにのつかさ山部連小楯やまべのむらじおだてが、京に行きお迎え申し上げることを求めた。
清寧天皇は引き続き小楯おだてを遣わし、しるしを持たせて左右の舎人とねりをつけ、明石に至りお迎えした。

三年夏四月、億計天皇おけのすめらみことは皇太子となられた。

五年、清寧天皇が崩御された。
天皇は天下を弘計をけ(顕宗)天皇に譲られた。
皇太子でいらっしゃることは元のままであった。

三年夏四月、弘計天皇をけのすめらみことが亡くなられた。

元年春一月五日、皇太子は石上広高宮いそのかみのひろたかのみやに即位された。

二月二日、前からの妃である春日大娘皇女かすがのおおいらつめのひめみこを立てて、皇后とされた。
春日大娘皇女かすがのおおいらつめのひめみこは、雄略天皇が、和珥臣深目わにのおみふかめの娘の童女君おおみなぎみを召して生まれた方である。
一男六女をお生みになった。
第一を高橋大娘皇女たかはしのおおいらつめのひめみこ
第二を朝嬬皇女あさづまのひめみこ
第三を手白重女たしらかのひめみこ
第四を樟水皇女くすひのひめみこ
第五を橘皇女たちばなのひめみこ
第六を小泊瀬稚鷦鷯尊おはつせのわかさざきのすめらみこと(武烈天皇)という。
天下を治められるようになって、泊瀬の列城はつせのなみきを都とされた。
第七を真稚皇女まわかのひめみこという。
次に、和珥臣日爪わにのおみひつめの娘の糠君娘あらきみのいらつめが一女をお生みになった。
春日山田皇女かすがのやまだのひめみこという。

冬十月三日、弘計天皇をけのすめらみこと傍丘磐杯丘陵かたおかのいわつきのおかのみささぎに葬った。
この年、太歳戊辰たいさいつちのえたつ

二年秋九月、難波小野皇后なにわのおののきさき(顕宗天皇の皇后)は、以前から皇太子に対し、礼に反した行いがあったことを恐れて、自殺された。

弘計天皇をけのすめらみことの時、億計おけ皇太子が宴会に侍っておられた。
うりをとって食べようとされたが、刀子とうす小刀)が無かった。
弘計天皇をけのすめらみことは自ら刀子をとって、夫人である小野に命じて渡されたが、夫人は前に行って立ったまま、刀子を瓜皿に置いた。
この日、さらに酒を汲んで、立ちながら皇太子を呼んだ。
この無礼な行いで、罰せられることを恐れて自殺されたとされる。

三年春二月一日、石上部いそのかみべ舍人とねりを置いた。

四年夏五月、的臣鹿嶋いくはのおみかしま穂瓮君ほえのきみは、罪を犯し獄に下されて皆死んだ。

五年春二月五日、広く国郡くにこおりに散り逃げていた佐伯部さえきべを探し求められた。
押磐皇子おしいわれのみこに仕えた佐伯部仲子さえきべのなかちこの子孫を、佐伯造さえきのみやつことされた。

日鷹吉士、高麗に使す

六年秋九月四日、日鷹吉士ひたかのきしを遣わして高麗こまに送り、巧手者てひと職人)を召された。
この秋、日鷹吉士ひたかのきしが使者に遣わされた後に、女が難波なにわの御津にいて、泣き声をあげて言った。
「私の母にとってであり、私にとってもである、やさしい我が夫は、 ああ遠くへ行ってしまった」
泣く声は酷く悲しくて、聞く人に断腸の思いをさせた。

菱城邑ひしきのむらの人である鹿父かかそはこれを聞いて、
「どうしてこんなに哀しげに泣くのか」
と言った。
女は答えた。
「秋蒔きの葱の二茎が、一皮に包まれているように、二重に密接な私たちの間柄を思って欲しい」
と言う。
鹿父かかそは、
(分かった)」
と言った。

友達がいて、その意味が分からないので尋ねて、
「なぜ分かったのか」
と言った。
難波の玉造部なにわのたまつくりべ鮒魚女ふなめが、韓白水郎嘆からまのはたけ「嘆」の字は、本来は口が田)に嫁いで哭女なくめを生んだ。のちに住道すむちの人である山杵やまきに嫁いで、飽田女あくためを生んだ。韓白水郎嘆からまのはたけとその娘の哭女なくめは先年に死んだ。山杵やまきは先に玉作部たまつくりべ鮒魚女ふなめを犯して、麁寸あらきを生んでいた。麁寸は飽田女を娶った。今回、麁寸は日鷹吉士に従って、高麗に発った。それで妻の飽田女は這いずり回って、心迷い悲しんでいる。哭く声は切なく、人に腸を絶つの思いをさせるのだ」

この年、日鷹吉士は高麗から帰って、工匠須流枳てひとするるき奴流枳ぬるきらを奉った。
倭国やまとのくに山辺郡やまべのこおり額田邑ぬかたのむら革工高麗かわおしこま朝鮮由来の革職人)は、その子孫である。

七年春一月三日、小泊瀬稚鷦鷯尊おはつせのわかさざきのみこと(武烈天皇)を立てて、皇太子とした。

八年冬十月、人民は、
「このとき、国中は何事もなく、役人は皆その役にふさわしく、天下は仁に帰し、民はその業に安んじている」
と言った。

この年、五穀豊穣、蚕や麦は良い出来で、都鄙とひ首都と地方)とも平穏、戸ロはますます繁栄した。

十一年秋八月八日、天皇は正寝おおとので崩御された。

冬十一月五日、埴生坂本陵はにゅうのさかもとのみささぎに葬った。

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埴生坂本陵
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

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