安閑天皇 広国押武金日天皇
天皇即位と屯倉の設置
勾大兄広国押武金日天皇は、継体天皇の長子である。
母を目子媛という。
この天皇の人となりは、幼少のときから器量が優れ、計ることができないほどであった。
武威に優れ寛大で、人君としてふさわしい人柄であった。
二十五年春二月七日、継体天皇は安閑天皇を即位させられた。
その日に、天皇は崩御された。
この月、大伴大連金村を大連とし、物部麁鹿火大連を大連とすることは、共に元の通りであった。
元年春一月、都を倭国の勾金橋(橿原市曲川周辺)に移した。
よって、これを宮の名とした。
三月六日、役人は天皇のために、
仁賢天皇の娘の春日山田皇女に婚礼のしるしを贈り、皇后として迎えた(またの名を山田赤見皇女)。
別に三人の妃を立てた。
許勢男人大臣の娘である妙手媛、紗手媛の妹である香香有嫒、物部木蓮子大連の娘である宅媛の三人である。
夏四月一日、内膳卿膳臣大麻呂が勅命を受けて使者を遣わし、真珠を上総の夷隅に求めさせた。
夷隅の国造らは、京に出てくることが遅く、長らく奉ることがなかった。
膳臣大麻呂は大変怒って、国造らを捕え縛って、そのわけを質した。
国造の稚子直らは恐れかしこまって、後宮の寝殿に逃げ隠れた。
春日皇后は、知らない者に出し抜けに入って来られて驚き、息をはずませて倒れてしまわれた。
そしてひどく恥かしく思われた。
稚子直らはみだりに宮中にまぎれ入った罪で、罪科は重大であった。
恐れ謹んで、もっぱら皇后のために、夷隅の屯倉を献上し、乱入の罪を償いたいとお願いした。
それによって夷隅の屯倉が設けられた。
現在、これを分けて郡とし、上総国に属している。
五月、百済が下部脩徳の嫡徳孫、上部都徳の己州己婁らを遣わして、調を奉り、別に上表文を奉った。
秋七月一日、詔して、
「皇后は身分は天皇に等しいが、後宮にあるため外部には知らぬ者も多い。それで屯倉の地を充てて、皇后の宮殿を建て、後の世に跡を残すことにしたい」
と言われた。
そこで勅使を遣わして良田を探させた。
勅使は命を受けて大河内直味張に、
「今、お前は肥えた良田を差し出しなさい」
と言った。
味張は急に惜しくなって、勅使を欺いて、
「この田は日照りになると水を引くことが難しく、溢水があると水浸しになります。苦労することは甚だ多く、収穫は大変少ないのです」
と言った。
勅使はその言葉のままに復命して、包むことがなかった。
冬十月十五日、天皇は大伴大連金村に勅して、
「私は四人の妻を召し入れているが、今に至るまで嗣子がない。万世の後に、我が名は絶えてしまう。大伴の伯父よ。今、何とか考えてみてくれ。いつもこのことを思うと、心配なのだ」
と言われた。
大伴大連金村は、
「このことは、また私の案じ申し上げていることです。我が国で天下に王たる者は、嗣子があるかないかに関わらず、何か記念するものを残して、それによって自分の名を後世に残しておられま す。どうか皇后や次の妃のために、屯倉の地をたてて後世に残し、その跡を明らかにしたいものです」
と言った。
詔をして、
「よろしい。速やかに設けよう」
と言われた。
大伴大連金村が奏上して、
「小墾田の屯倉と、国毎にいる田部の民(農民の意味)とを、紗手媛に賜わりますよう。桜井の屯倉と諸国の田部を、香香有媛に賜わりますよう。難波の屯倉と郡毎にいる钁丁(田部に似た農民)を、宅媛に賜わりますよう。これらをもって後世に示し、昔を忘れさせないようにしましょう」
と言った。
詔して、
「お前の言う通りに施行しよう」
と言われた。
大河内味張の後悔
閏十二月四日、三島(大阪府三島)に行幸された。
大伴大連金村が従って行った。
天皇は金村を遣わし、良田を県主の飯粒に問われた。
飯粒はこの上なく喜び、誠心を尽してお応えした。
よって上三野、下三野、上桑原、下桑原を一括し、竹生の土地、合計四十町を献上した。
大伴大連は勅を受け、
「普天の下、王土に非ざるはなく、率土の浜、王土に非ざるはない。それで先帝は御名を世にあらわし、天地日月にも匹敵する大きさと輝きをもって長駕して民を愛撫し、都の外に出でては、領民の上に恵みを行き渡らせられた。御徳は天の果て地の果てまでも及び、四方八方に行き渡った。礼楽を制定して、政治の安定していることを明かにした。その反応は確かに現れて、めでたく喜ばしいことは、聖王の昔と全く変るところがなかった。お前は、国中に有るか無きかの臣下の一人に過ぎない。にわかに王土を惜しむ気を起こし、勅使を軽んじ従わなかった。味張は今後、郡司の役にあずかることはならぬ」
と告げた。
県主飯粒は、詔を賜わったことで、喜び、且つ畏まり、その子の鳥樹を大連金村に奉って、従者の童とした。
大河内直味張は恐れ畏まり、地にひれ伏して冷汗を流した。
そして大連に、
「愚民の手前どもの罪は万死に当ります。どうか願わくば、今後、郡毎に钁丁を春に五百人、秋に五百人、天皇に奉って、子々孫々に至るまで絶やしません。これによってお許しを乞い、後の戒めと致します」
と言った。
また別に、河内の狭井田六町を、大伴大連に贈った。
三島郡の竹生屯倉には、河内県の部民を田部とすることの始まりがここにあったと考えられる。
この月、廬城部連枳莒喩の娘である幡媛が、物部大連尾輿の珠の首飾りを盗み、春日皇后に奉った。
事が露見すると枳莒喩は、娘の幡媛を宮中の采女の召使女として献じ、合せて安芸国過戸の廬城部屯倉を献上し、娘の罪を償った。
物部尾輿は事件が自分にかかり合いがあることを恐れ、不安を感じ、大和国の十市部、伊勢国の来狭々、登伊の贄土師部や、筑紫国の胆狭山部などを献上した。
武蔵国造の争いおょび屯倉
武蔵国造の笠原直使主と同族の小杵とは、国造の地位を争って、長年決着しなかった。
小杵は性格が激しくて人に逆らい、高慢で素直でなかった。
ひそかに上毛野小熊に助力を求め、使主を殺そうと図った。
使主はそれに気づき、逃げ出して京に到り、実状を言上した。
朝廷では裁断を下され、使主を国造とし、小杵を誅された。
国造使主は恐懼感激して黙し得ず、帝のために横淳、橘花、多氷、倉樔の四力所の屯倉を設け奉った。
この年、太歳甲寅。
二年春一月五日、詔して、
「このところ毎年穀物がよく捻って、辺境に憂えもない。万民は生業に安んじ飢餓もない。天皇の仁慈は全土に拡がり、天子を誉める声は天地に充満した。内外平穏で国家は富み栄え、私の喜びは大変大きい。人々に酒を賜わり、五日間盛大な宴を催し、天下こぞて歓びを交わすがよい」
と仰せられた。
夏四月一日、勾舍人部、勾靫部を設けた。
五月九日、筑紫の穂波の屯倉、鎌屯倉。
豊国の三崎屯倉、桑原の屯倉、肝等の屯倉、大抜の屯倉、我鹿の屯倉。
火国の春日部屯倉。
播磨国の越部屯倉、牛鹿屯倉。
備後国の後城屯倉、多禰屯倉、来履屯倉、葉稚屯倉、河音屯倉。
婀娜国(備後国)の膽殖屯倉、膽年部屯倉。
阿波国の春日部屯倉。
紀国の経湍屯倉、河辺屯倉。
丹波国の蘇斯岐屯倉。
近江国の葦浦屯倉。
尾張国の間敷屯倉、入鹿屯倉。
上毛野国の緑野屯倉。
駿河国の稚贄屯倉を置いた。
秋八月一日、詔して国々に犬養部を置いた。
九月三日、桜井田部連、県犬養連、難波吉士らに詔して、屯倉の税を司らせた。
十三日、また別に大連に詔して、
「牛を難波の大隅島と姫島の松原とに放って、名を後の世に残そう」
と仰せられた。
冬十二月十七日、天皇は勾の金橋宮で崩御された。
年七十歳。
この月、天皇を河内の古市高屋丘陵に葬った。
皇后である春日山田皇女と、天皇の妹の神前皇女も合葬した。
宣化天皇 武小広国押盾天皇
天皇即位
武小広国押盾天皇は、継体天皇の第二子で、安閑天皇の同母弟である。
二年十二月、安閑天皇が崩御されて後嗣がなかった。
群臣が奏上して神器の剣、鏡を宣化天皇に奉り、即位された。
この天皇は人柄が清らかで、心がすっきりとしていらっしゃった。
才能や地位などで人に誇り、王者らしい顔をされることなく、君子らしい人であった。
元年春一月、都を桧隈の廬入野に遷した。
よって宮の名とした。
二月一日、大伴金村大連を大連とし、物部麁鹿火大連を大連とすることは、ならびに元のようであった。
また蘇我稲目宿禰を以て大臣とした。
阿倍大麻呂臣を大夫とした。
三月一日、役人らは皇后をお立ていただきたいと申し上げた。
八日、詔して言われるた。
「前の正妃、仁賢天皇の娘である橘仲皇女を立てて皇后としたい」
と仰せられた。
この人が一男三女を生んだ。
長女を石姫皇女といい、次を小石姫皇女といった。
次を倉稚綾姫皇女といい、次を上殖葉皇子といい、またの名を椀子という。
これは丹比公と、偉那公の二姓の先祖である。
次の妃である大河内稚子媛は、一人の男子を生んだ。
これを火焰皇子という。
これは椎田君の先祖である。
那津(筑紫)官家の整備
夏五月一日、詔して、
「食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えを癒やすことはできない。真珠が千箱あっても、どうして凍えることを救えようか。筑紫の国は、遠近の国々が朝貢してくる所であり、往来の関門とする所である。このため、海外の国は、潮の流れや天候を観測して貢を奉る。応神天皇から今に至るまで、籾種を収めて蓄えてきた。凶年に備え賓客をもてなし、国を安んずるのに、これに過ぐるものはない。そこで私も阿蘇君を遣わして、河内国の茨田郡の屯倉の籾を運ばせる。蘇我大臣稲目宿禰は尾張連を遣わして、 尾張国の屯倉の籾を運ばせよ。物部大連麁鹿火は新家連を遣わして、新家屯倉の籾を運ばせよ。阿倍臣は伊賀臣を遣わして、伊賀国の屯倉の籾を運ばせよ。宮家を那津の口(博多大津) に建てよ。また、かの筑紫、肥国、豊国の三つの国の屯倉は、それぞれ離れ隔たっていることから、もしそれを必要とする場合には、急に備えることが難しい。諸郡に命じて分け移し、那津のロに集め建て、非常に備えて民の命を守るべきである。早く郡県に下令して、私の心を知らしめよ」
と仰せられた。
秋七月、物部麁鹿火大連が死んだ。
この年、太歳丙辰。
二年冬十月一日、天皇は新羅が任那に害を加えるので、大伴金村大連に命じて、その子である磐と狭手彦を遣わして、任那を助けさせた。
この時に磐は筑紫に留り、その国の政治をとり三韓に備えた。
狭手彦は、かの地に行って任那を鎮め、また百済を救った。
四年春二月十日、天皇は桧隈廬入野宮にて崩御された。
時に、年七十三歳。
冬十一月十七日、天皇を倭国の身狭桃花鳥坂上陵に葬った。
皇后である橘皇女とその孺子(幼少の子供)をこの陵に合葬した。
皇后の崩御の年は伝記に載っていない。
孺子は成人せず死なれた者か。
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