日本書紀・日本語訳「第二十二巻 推古天皇」

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推古天皇 豊御食炊屋姫天皇

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額田部皇女

豊御食炊屋姫天皇とよみけかしきやひめのみこと欽明天皇きんめいてんのうの第二女で、用明天皇ようめいてんのうの同母妹である。
幼少の時は額田部皇女ぬかたベのひめみこと申しあげた。
容色端正で立ち居振る舞いにも過ちがなかった。

十八歳のとき、敏達天皇びだつてんのうの皇后となられた。

三十四歳のとき、敏達天皇が崩御された。

三十九歳、崇峻天皇すしゅんてんのうの五年十一月、天皇(崇峻)は大臣馬子宿禰おおおみうまこのすくねのため殺され、皇位が空いた。

群臣くんしんは敏達天皇の皇后である額田部皇女ぬかたベのひめみこに皇位を継がれるよう請うたが、皇后は辞退された。
百官が上奏文を奉って尚もお薦めしたので、三度目に至って、ついに従われた。

そこで皇位のしるしの鏡・剣などを奉って、冬十二月八日、皇后は豊浦宮とゆらのみや奈良県豊浦) において即位された。

元年春一月十五日、仏舍利ぶっしゃり法興寺ほうこうじの仏塔の心礎しんその中に安置した。
十六日、塔の心柱を建てた。

聖徳太子の摂政

夏四月十日、厩戸豊聡耳皇子うまやとのとよとみみのみこを立てて、皇太子とされ、国政を全て任せられた。
太子は用明天皇の第二子で、母は穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ(欽明天皇の皇女)である。

皇后は御出産予定日に、禁中を巡察してお出でになったが、馬司うまのつかさの所にお出でになったとき、うまやの戸に当たられた拍子に、難なく出産された。
太子は生まれて程なくものを言われたといい、聖人のような知恵をお持ちであった。
成人してからは、一度に十人の訴えを聞かれても間違えず、先のことまでよく見通された。
また、仏法を高麗の僧である慧慈えじに習われ、儒教の経典を覚哿かくか博士に学ばれた。
そしてことごとくそれをお極めになった。

父の天皇が可愛がられて、宮殿の南の上宮かみつみやに住まわされた。
それでその名を讃えて、上宮厩戸豊聡耳太子かみつみやうまやとのとよとみみのひつぎのみこという。

九月、用明天皇を河内磯長陵かわちのしながのみささぎに改め葬った。

この年、はじめて四天王寺を難波の荒陵あらはかに造りはじめた。

この年、太歳癸丑たいさいみずのとうし

二年春二月一日、皇太子と大臣おおおみ(蘇我馬子)に詔して、仏教の興隆を図られた。
このとき、多くのおみむらじたちは、君や親の恩に報いるため、競って仏舍を造った。
これを寺という。

三年夏四月、沈香じんこう(香木の一種)が淡路島に漂着した。
その太さは三尺程もあった。
島人しまびと沈香じんこうということを知らず、薪と共にかまどで炊いた。
するとその煙が遠くまで良い香りを漂わせた。
そこでこれは不思議だとして献上した。

五月十日、高麗こまの僧である慧慈えじが帰化した。
皇太子はそれを師とされた。

この年、百済くだらの僧である慧聡えそうが来た。
この二人の僧が仏教を広め、併せて三宝の棟梁となった。

秋七月、将軍たちが筑紫から引き上げた。

四年冬十一月、法興寺ほうこうじが落成した。
馬子大臣うまこのおおおみの長子である善徳臣ぜんとこのおみ寺司てらのつかさに任じた。
この日から、 慧慈えじ慧聡えそうの二人の僧が法興寺に住した。

五年夏四月一日、百済王くだらおうが王子である阿佐あさを遣わして、調を奉った。

冬十一月二十二日、吉士磐金きしのいわかね新羅しらぎに遣わした。

六年夏四月、難波吉士磐金なにわのきしいわかねは新羅から帰って、かささぎ二羽を奉った。
それを難波杜なにわのもり(生魂神社)に放し飼いにさせた。
これが木の枝に巣を造り雛をかえした。

秋八月一日、新羅が孔雀くじゃく一羽を奉った。

冬十月十日、越の国こしのくに北陸地域)が白鹿しろしか一頭を奉った。

七年夏四月二十七日、地震が起きて建物が全て倒壊した。
それで全国に命じて地震の神をお祭りさせた。

秋九月一日、百済が駱駝らくだ一匹、ロバ一匹、羊二匹、白雉しろきぎす一羽を奉った。

新羅征討

八年春二月、新羅しらぎ任那みまなが戦った。
天皇は任那を助けようと思われた。
この年、境部臣さかいべのおみに大将軍を命ぜられ、穂積臣ほづみのおみを副将軍とされた。
一万あまりの兵を率いて、任那のために新羅を討つことになった。
新羅を目指して船出した。
新羅に着いて五つの城を攻略した。
新羅王しらぎおうは白旗をあげて、将軍の印の旗の下に来り、多多羅たたら素奈羅すなら弗知鬼ほちくい委陀わだ南加羅ありひしのから阿羅羅あららの六つの城を割譲して、降服を願い出た。
そのとき将軍は皆に譲って、
「新羅は罪をわきまえて降服してきた。強いて討つのはよくあるまい」
と言った。
そしてその旨を奏上した。

天皇はまた難波吉士神なにわのきしみわを新羅に遣わされた。
また、難波吉士木蓮子なにわのきしいたびを任那に遣わされた。
そして事情を調べさた。
新羅と任那の両国は使者を遣わし調を奉り、上奏して、
「天上には神がお出でになり、地に天皇がお出でになります。この二神をおいて他に畏きものがありましょうか。今後はお互いに攻めることをやめます。また、船柁ふなかじが乾く間もないほど、毎年朝貢をします」
と言った。
そこで使者を遣わして将軍を召還された。
将軍らは新羅から帰った。

しかし、新羅はまた任那を犯した。

九年春二月、皇太子は初めて宮を斑鳩いかるが奈良県斑鳩)に建てられた。

三月五日、大伴連囓おおとものむらじくいを高麗に遣わし、坂本臣糠手さかもとのおみあらてを百済に遣わしみことのりして、
「速やかに任那を救え」
と言われた。

夏五月、天皇は耳梨の行宮みみなしのかりみや奈良県檯原市)にお出でになった。
このとき大雨が降り、河の水が溢れて宮庭に満ちた。

秋九月八日、新羅の間諜うかみ迦摩多かまたが対馬に来た。
それを捕えて朝廷に送った。
そして上野国かみつけののくにに流した。

冬十一月五日に、新羅を攻めることを議った。

十年春二月I日、来目皇子くめのみこを新羅攻略の将軍とした。
多くの神職および国造くにのみやつこ伴造とものみやつこらと軍兵二万五千人を授けられた。

夏四月一日、将軍である来目皇子くめのみこは筑紫に赴いた。
さらに進んで嶋郡しまのこおりに駐屯し、船舶を集めて兵粮を運んだ。

六月三日、大伴連囓おおとものむらじくい坂本臣糠手さかもとのおみあらてが、共に百済から帰った。
このとき来目皇子くめのみこは病にかかり、征討の役を果たせなくなった。

冬十月、百済の僧である観勒かんろくがやってきた。
そして暦の本、天文地理の本、それに遁甲方術どんこうほうじゅつ占星術と占い術)の本を奉った。
このとき書生三〜四人を選んで、観勒かんろくについて学ばせた。
陽胡史やごのふびとの先祖である玉陳たまふるは暦法を学んだ。
大友村主高聡おおとものすぐりこうそう天文遁甲てんもんどんこうを学んだ。
山背臣日立やましろのおみひたては方術を学んだ。
皆それぞれに学んで業を遂げた。

うるう十月十五日、高麗の僧である僧隆そうりゅう雲聡うんそうが来朝し、帰化した。

十一年春二月四日、来目皇子くめのみこは筑紫で薨去した。
駅使はいまを使って奏上した。
天皇はこれを聞いて大いに驚かれ、皇太子と蘇我大臣そがのおおおみ(馬子)を召されてみことのりし、
「新羅を討つ大将軍の来目皇子が死んだ。大事に臨んで後を続けることができなくなった。たいへん悲しいことだ」
と言われた。

周防国すおうのくに佐波さば殯宮もがりのみやを設けた。
土師連猪手はじのむらじいてを遣わして、殯宮もがりのみやのことをつかさどらせた。
それで猪手連の子孫を、佐波連さばのむらじというのはこれが由来である。
後に、河内の埴生山はにゅうのやまの岡の上に葬った。

夏四月一日、さらに来目皇子くめのみこの兄、当摩皇子たぎまのみこを新羅を討つ将軍とした。

秋七月三日、当摩皇子たぎまのみこ難波なにわから船出した。
六日、播磨はりまに着いた。
そのとき従っていた妻の舍人姫王とねりのひめのおおきみ明石あかしで薨じた。
そこで明石の桧笠岡ひかさのおかの上に葬った。
そして当摩皇子はそこから引き返し、ついに征討は辞めになった。

冬十月四日、天皇は小墾田宮おはりだのみや奈良県明日香村)に移られた。

十一月一日、皇太子は諸大夫まえつきみに、
「私は尊い仏像を持っている。誰かこの仏をお祀りする者はないか」
と言われた。
そのとき秦造河勝はたのみやつこかわかつが進んで申し出て、
「臣がお祀りしましょう」
と言った。
仏像を頂いて蜂岡寺はちのおかでら広隆寺)を造った。

この月、皇太子は天皇に申し上げて、仏の祀りのための大楯おおたてゆき矢を入れる武具)を作り、旗幟はた合戦用の旗)を描いた。

冠位十二階の制定と憲法十七条

十二月五日、はじめて冠位を施行した。
大徳だいとく
小徳しょうとく
大仁だいにん
小仁しょうにん
大礼だいらい
小礼しょうらい
大信だいしん
小信しょうしん
大義だいぎ
小義しょうぎ
大智だいち
小智しょうち
全部で十二階である。

階ごとにそれぞれ決まった色のきぬ目の荒いつむぎ)を縫いつけた。
髪は頂きにまとめてくくり、袋のように包んで縁飾りをつけた。
元日だけは髻花うず髪飾)を挿した。

十二年春一月一日、はじめて冠位を諸臣に賜わり、それぞれ位付けされた。

夏四月三日、皇太子は初めて自ら作られた十七条憲法を発表された。

一に曰く。
和を大切にし、いさかいをせぬようにせよ。
人は皆、それぞれ仲間があるが、全くよく悟った者も少ない。
それゆえ、君主や父に従わず、また隣人と仲違いしたりする。
けれども上下の者が睦まじく論じ合えば、自ずから道理が通じ合い、どんな事でも成就するだろう。

二に曰く。
篤く三宝を敬うように。
三宝とは仏・法・僧である。
仏教はあらゆる生きものの最後のよりどころ、全ての国の究極のよりどころである。
いずれの世、いずれの人でも この法を崇めないことがあろうか。
人は甚だしく悪いものは少ない。
よく教えれば必ず従わせられる。
三宝に依らなかったら、何によって邪な心を正そうか。

三に曰く。
天皇の詔を受けたら、必ず謹んで従え。
君を天とすれば、臣は地である。
天は上を覆い、地は万物を載せる。
四季が正しく移り、万物を活動させる。
もし地が天を覆うようなことがあれば、秩序は破壊されてしまう。
それゆえに、君主の言を臣下がよく承り、上が行えば下はそれに従うのだ。
だから天皇の命を受けたら必ずそれに従え。
従わなければ結局自滅するだろう。

四に曰く。
群卿まえつきみ(大夫)百寮もものつかさ(各役人)は、礼をもって根本の大事とせよ。
民を治める根本は必ず礼にある。
上に礼がないと下の秩序は乱れ、下に礼がないときは、きっと罪を犯す者が出る。
群臣こおりおみに礼のあるときは、秩序も乱れない。
百姓おおみたからに礼のあるときは、国家も自ずから治まるものである。

五に曰く。
食におごることをやめ、財物への欲望を捨て、訴訟を公明に裁け。
百姓おおみたからの訴えは一日に千件にも及ぼう。
一日でもそれなのに、年を重ねたらなおさらのことである。
この頃、訴訟を扱う者が、利を得ることを常とし、賄賂を受けてから、その申し立てを聞く有様である。
つまり、財産のある者の訴えは、石を水に投げこむように必ず聞き届けられるが、乏しい者の訴えは、水を石に投げかけるようなもので手ごたえがない。
このため貧しいものはどうしようもない。
臣としての役人のなすべき道も失われることになる。

六に曰く。
悪を懲らし善を勧めるのは、古からのよい教えである。
それ故、人の善は隠すことなく知らせ、悪を見ては必ず改めさせよ。
へつらい欺く者は、国家を覆す鋭い道具のようなもので、人民を滅ぼす鋭い剣とも言える。
また媚びへつらう者は、上に向っては好んで下の者の過ちを説き、下にあえば上の者の過失をそしる。
これらの人は皆、君に忠義の心がなく、民に対して仁愛の心がない。
これは大きな乱れのもととなるものだ。

七に曰く。
人はそれぞれ任務がある。
司ることに乱れがあってはならぬ。
賢明な人が官にあれば、褒め讃える声がすぐ起きるが、邪な心を持つ者が官にあれば、政治の乱れ が頻発する。
世の中に生まれながらにして、よく知っている人は少ない。
よく思慮を重ねてひじりとなるのだ。
事は大小となく、人を得て必ず治まるのである。
時の流れが速かろうが遅かろうが、賢明な人に会った時、自ずから治まるのである。
その結果、国家は永久で、世の中は危険を免れる。
だから古の聖王は、官のために立派な人を求めたのであり、人のために官を設けるようなことをしなかった。

八に曰く。
群卿まえつきみ百寮もものつかさは早く出仕し、遅く退出するようにせよ。
公務はゆるがせにできない。
一日中かかってもやりつくすのは難しい。
それ故、遅く出仕したのでは、急の用に間に合わない。
早く退出したのでは、必ず業務が残ってしまう。

九に曰く。
信は道義の根本である。
何事を成すにも真心を込めよ。
事の良し悪し成否の要はこの信にある。
群臣こおりおみが皆、真心をもってあたれば、何事も成らぬことはない。
群臣に信がないと、万事ことごとく失敗するだろう。

十に曰く。
心の怒りを絶ち、顔色に怒りを出さぬようにし、人が自分と違うからといって怒らないようにせよ。
人は皆それぞれ心があり、お互いに譲れないところもある。
彼が良いと思うことを、自分は良くないと思ったり、自分が良いことだと思っても、彼の方は良くないと思ったりする。
自分が聖人で、彼が必ず愚人ということもない。
共に凡人なのだ。
是非の理を誰が定めることができよう。
お互いに賢人でもあり愚人でもあることは、端のない環のようなものだ。
それゆえ、相手が怒ったら、自分が過ちをしているのでないかと反省せよ。
自分ひとりが正しいと思っても、衆人の意見も尊重し、その行うところに従うがよい。

十一に曰く。
官人の功績、過失ははっきりと見て、賞罰は必ず正当に行え。
近頃、功績によらず賞を与えたり、罪がないのに罰を行ったりしていることがあり、事に当る群卿まえつきみは、賞罰を公明に行わねばならぬ。

十二に曰く。
国司くにのみこともち国造くにのみやつこ百姓おおみたからから税を貪ってはならぬ。
国に二人の君はなく、民に二人の主はない。
国土のうちのすべての人々は皆、きみ(天皇)を主としている。
仕える役人は皆、王の臣である。
どうして公のこと以外に、百姓おおみたからから貪り取ってよいであろうか。

十三に曰く。
それぞれの官に任ぜられた者は、皆、自分の職務内容をよく知れ。
あるいは病のため、あるいは遣いのため、事務をとらないことがあっても、職場に着いた時には、以前からそれに従事しているのと同じようにし、自分はそれにあずかり知らぬと言って、公務を妨げてはならぬ。

十四に曰く。
群臣こおりおみ百寮もものつかさは羨み妬むことがあってはならぬ。
自分が人を羨めば、人もまた自分を羨む。
羨み妬む弊害は際限がない。
人の知識が己に勝る時は喜ばず、才能が己に優る時は妬む。
こんなことでは五百年にして一人の賢人に会い、千年に一人の聖人の現れるのを待つのも難しいだろう。
賢人聖人を得ないで何をもって国を治められようか。

十五に曰く。
私心を去って公に尽くすのは臣たる者の道である。
全ての人が私心のある時は、必ず他人に恨みの心を起こさせる。
恨みの心があるときは、必ず人の心は整わない。
人々の気持ちが整わないことは、私心をもって公務を妨げることになる。
恨みの気持ちが起これば制度に違反し、法を破ることになる。
第一の章に述べたように、上下相和し協調するようにと言ったのも、この気持ちからである。

十六に曰く。
民を使うに時をもってするというのは、古の良い教えである。
それゆえに、冬の月(十月から十二月)に暇があれば、民を使ってよい。
春より秋に至るまでは農耕や養蚕の時である。
民を使うべきでない。
農耕をしなかったら、何を食えばよいのか。
養蚕をしなかったら、何を着ればよいのか。

十七に曰く。
物事は独断で行ってはならない。
必ず衆と論じ合うようにせよ。
些細なことは必ずしも皆に諮らなくても良いが、大事なことを議する場合には、誤りがあってはならない。
多くの人々と相談し合えば、道理にかなったことを知り得る。

秋九月、朝廷の礼法を改めた。
よってみことのりして、
「およそ宮門を出入りするときは、両手を大地につけ、両足を跪ずいて敷居を越えてから、立って歩け」
と言われた。

この月、初めて黄書きふみ画師えかき山背やましろの画師ら(いずれも渡来系の技術者)を選び決めた。

名工鞍作鳥

十三年夏四月一日、天皇は皇太子、大臣おおおみ、諸王、諸臣こおりおみに詔され、共に等しく誓願を立てることとし、はじめて銅とぬいものとの一丈六尺の仏像を、各ー軀造りはじめた。
鞍作鳥くらつくりのとりに命じて造仏のたくみ(造仏の担当者)とされた。
このとき、高麗国の大興王は、日本の天皇が仏像を造られると聞いて、黄金三百両を奉った。

うるう七月一日、皇太子は諸王と諸臣に命じてひらおび婦人の裳に似たもの)を着けることとされた。

冬十月、皇太子は斑鳩宮いかるがのみやに移られた。

十四年夏四月八日、銅とぬいものの丈六の仏像がそれぞれ完成した。
この日、丈六の銅の仏像が元興寺(飛鳥寺)の金堂の戸より高くて、堂に入れることができなかった。
多くの工人たちは相談して、堂の戸を壊して入れようと言った。
ところが鞍作鳥くらつくりのとりの偉いところは、戸を壊したりせず、立派に堂に入れたことである。
その日、斎会さいえを設けた。
そのとき、許されて参集した人々の数は、数え切れない程であった。
この年から、初めて寺ごとに四月八日(灌仏会かんぶつえ)、七月十五日(盂蘭盆会うらぼんえ)に斎会さいえをすることになった。

五月五日、鞍作鳥くらつくりのとりみことのりして、
「私は仏教を興隆させたいと思い、寺院を建立しようとして、まず仏舍利ぶっしゃりを求めた。そのとき、おまえの祖父の司馬達等しめたつとが、即座に仏舎利を献上してくれた。また、国内に僧尼がなかったとき、おまえの父の多須奈たすな用明天皇ようめいてんのうのために出家して仏教を信じ敬った。また、おまえの姨の嶋女しまめは出家して、他の尼の導者として、仏道を修行させた。今、私が丈六の仏を造るために、良い仏像を求めた時、汝の奉った仏の図は、我が心に適ったものであった。仏像が完成し、堂に入れるのが難しく、多くの工人は戸を壊して入れようかと言う時、おまえはよく戸を壊さず入れることができた。これらは皆、おまえの手柄である」
と言われた。
そして大仁だいにん(十二冠位の第三)の位を賜わった。
近江国おうみのくに坂田郡さかたのこおりの水田二十町を賜わった。

とりはこの田を財源に、天皇のために金剛寺を造った。
これは現在、 南淵の坂田尼寺さかたのあまでら(近江の坂田寺から移した)と言われるものである。

秋七月、天皇は皇太子を招き、勝鬘経しょうまんきょうを講ぜしめられた。
三日間かかって説き終られた。
この年、皇太子はまた法華経を岡本宮おかもとのみやで講じられた。
天皇はたいへん喜んで、播磨国はりまのくにの水田百町を皇太子に贈られた。
太子はこれを斑鳩寺いかるがでら法隆寺)に納められた。

十五年春二月一日、壬生部みぶべ(皇子皇女のための部)が設けられた。
九日、みことのりして、
「古来、我が皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに、謹んで厚く神祇を敬まわれ、山川の神々を 祀り、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々の御業も順調に行われた。今、我が世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣こおりおみは心を尽して、よく神祇を拝するように」
と言われた。

十五日、皇太子と大臣おおおみは、百寮もものつかさを率いて神祇を祀り拝された。

遣隋使

秋七月三日、大礼小野臣妹子だいらいおののおみいもこ大唐おおもろこし中国の隋)に遣わされた。
鞍作福利くらつくりのふくりを通訳とした。

この年の冬、倭国やまとのくに高市池たけちのいけ藤原池ふじわらのいけ肩岡池かたおかのいけ菅原池すがわらのいけを造った。
山背国栗隈やましろのくにくるくま奈良県宇治市)に大溝おおうなで用水路)を掘り、河内国に戸莉池とかりのいけ依網池よさみのいけを造った。
また、国ごとに屯倉みやけを置いた。

十六年夏四月、小野妹子おののいもこ大唐おおもろこしから帰朝した。
大唐の国では妹子臣いもこのおみを名づけて、蘇因高そいんこうと呼んだ(妹=因、子=高)。

大唐の使者である裴世清はいせいせい下客しもべの十二人が、妹子いもこに従って筑紫に着いた。
難波吉士雄成なにわのきしおなりを遣わして、大唐の客である裴世清はいせいせいらを召された。
大唐の客のために、新しい館を難波なにわ高麗館こまのむつろみの近くに造った。

六月十五日、客たちは難波津なにわづに泊った。
この日、飾船かざりふね三十艘で、客人を江ロえぐち大阪府中之島) に迎えて新館に入らせた。
中臣宮地連烏摩呂なかとみのみやどころのむらじおまろ大河内直糠手おおしこうちのあたいあらて船史王平ふねのふびとおうへいを接待係とした。

このとき、妹子臣いもこのおみは、
「私が帰還の時、煬帝ようだいが書を私に授けました。ところが、百済国くだらこくを通る時、百済人くだらびとが探り、これを掠め取りましたために、これをお届けすることができません」
と奏上した。
群臣こおりおみはこれを議り、
「使者たるものは命をかけても、任務を果すべきであるのに、この使者はなんという怠慢で、大国の書を失うようなことをしたものか」
と言った。
流刑に処すべきであると言われた。
しかし天皇は、
「妹子が書を失った罪はあるが、軽々に処罰してはならぬ。大唐の客人への聞えもよくない」
と言われた。
赦して罪とされなかった。

秋八月三日、もろこしの客は都へ入った。
この日、飾馬かざりうま七十五匹を遣わして、海石榴市つばきちの路上に迎えた。
額田部連比羅夫ぬかたべのむらじひらぶが挨拶の言葉を述べた。
十二日、客を朝廷に召して遣いの旨を述べさせられた。
阿倍鳥臣あべのとりのおみ物部依網連抱もののべのよさみのむらじいだきの二人を、客の案内役とした。
唐の国の進物を庭上に置いた。
使者の裴世清はいせいせいは、自ら書を持ち、二度再拝(再拝を重ねて行うこと)して、遣いの旨を言上した。
その書には、
「皇帝から倭皇やまとのすめらみことにご挨拶を送る。使者の長吏大礼蘇因高ちょうりだいらいそいんこうらが訪れて、よく意を伝えてくれた。私は天命を受けて天下に臨んでいる。徳化を弘めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持ちには土地の遠近は関わりない。天皇は海の彼方にあって国民を慈しみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。ねんごろな誠心を私は喜びとする。時節は漸く暖かで、私は無事である。鴻臚寺こうろじ掌客しょうかく(外国使臣の接待役)である裴世清を遣わして、送使の意を述べ、併せて別にあるような送り物をお届けする」
とあった。

そのときに、阿倍鳥臣あべのとりのおみが進み出て、その書を受けとり進むと、大伴囓連おおとものくいのむらじが迎え受けて、帝の前の机上に置いた。
儀事が終って退出した。
このときには、皇子、諸王、諸臣は皆、冠に金の飾りをつけた。
また、衣服には皆、錦、紫、繡、織および三色織りの薄物を用いた。 

一書には服の色は皆、冠位の色を用いたとある。

十六日、客たちを朝廷で饗応された。

九月五日、客たちを難波の大郡おおごおり外国使臣接待用の施設)でもてなされた。
十一日、客人である裴世清たちは帰ることになった。
また、小野妹子臣おののいもこのおみ大使おおつかいとし、吉士雄成きしのおなり小使そいつかいとした。
鞍作福利くらつくりのふくりを通訳として、随行させた。

天皇は、唐の君にとぶらって述べられた。
やまと天皇すみらみことが、謹しんで西もろこし皇帝きみに申し上げます。使者である鴻臚寺こうろじの掌客の裴世清らが、我が国に来り、久しく国交を求めていた我が方の思いが解けました。この頃、ようやく涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうか。お変りはないでしょうか。当方は無事です。今、大礼蘇因高(だいらいそいんこう小野妹子)と大礼雄成だいらいおなり(難波吉士雄成)らを使者として遣わします。意を尽くしませんが謹しんで申し上げます」
と言われた。

このとき、唐に遣わされたのは、学生である倭漢直福因やまとのあやのあたいふくいん奈羅訳語恵明ならのおさえみょう高向漢人玄理たかむこのあやひとげんり新漢人大圀いまきのあやひとおおくに、学問僧である新漢人日文いまきのあやひとにちもん南淵漢人請安みなみぶちのあやひとしょうあん志賀漢人慧隠しかのあやひとえおん新漢人広済いまきのあやひとこうさいら合せて八人である。

この年は新羅の人が多く帰化してきた。

十七年夏四月四日、筑紫大宰府の長官が奏上して、
「百済僧の道欣どうこん恵弥えみを頭として僧が十人、 俗人である七十五人が、肥後国ひごのくに葦北あしきたの港に停泊しています」
と言った。
このとき、難波吉士徳摩呂なにわのきしとこまろ船史竜ふねのふびとたつを遣わして、何のために来たのかと尋ねさせた。
それに彼らは答えた。
百済王くだらおうの命で呉国くれのくにに遣わされましたが、その国に争乱があって入国できません。本国に帰るところですが、暴風に遇って海中に漂流しました。しかし、幸いにも聖帝の国の辺境に辿り着けて、喜んでおります」
と言った。

五月十六日、徳摩呂とこまろらが報告にきた。
そこで徳摩呂とこまろと竜の二人を返して百済人くだらびとらにつけ、本国に送りつけた。
対馬に着いて、修道者十一人が皆、在留したいと願った。
それで上表もうしふみをして滞留を許され飛鳥寺に住まわせられた。

九月、小野妹子おののいもこらが大唐もろこし(隋)から帰った。
ただ、通訳の福利ふくりだけは帰らなかった。

十八年春三月、高麗王が僧曇徴、法定らを奉った。
曇徴は五経に通じており、絵具、紙、墨などを作り、水力を用いる臼をも造った。
水臼を造ったのはこれが最初であろう。

秋七月、新羅の使者である沙喙部奈末竹世士さたくほうなまちくせいしが、任那の使者である喙部大舎首智買たくほうたさすちばいと筑紫にやってきた。
九月、人を遣わして新羅と任那の使者を呼ばれた。

冬十月八日、新羅と任那の使者が都に到着した。
この日、額田部連比羅夫ぬかたべのむらじひらぶに命ぜられて、新羅の客を迎える荘馬かざりうま種々の馬具をつけて飾った馬)の長とし、膳臣大伴かしわでのおみおおともを任那の客を迎える荘馬の長とした。
大和の阿刀の河辺の館あとのかわべのむろつみに入らせた。
九日、客人たちは帝に拝礼した。

このとき、秦造河勝はたのみやつこかわかつ土部連蒐はじのむらじうさぎに、新羅の導者を命ぜられた。
間人連塩蓋はしひとのむらじしおふた阿閉臣大籠あへのおみおおこに、任那の導者を命ぜられた。
共に南門から入って御所の庭に立った。
大伴咋連おおとものくいのむらじ蘇我豊浦蝦夷臣そがのとゆらのえみしのおみ坂本糠手臣さかもとのあらておみ阿倍鳥子臣あべのとりこのおみらは、席から立って中庭に伏した。
両国の客人はそれぞれ拝礼して、遣いの旨を奏上した。
四人の大夫まえつきみは前に進んで大臣おおおみに申し上げ、大臣は席を立ち、政庁の前に立って聴いた。
終って、客人らにそれぞれに応じた賜物があった。

十七日、使者たちを朝廷でもてなされた。
河内漢直贄こうちのあやのあたいにえを、新羅の客の相手役とし、錦織首久僧にしこりのおびとくそを任那の客の相手役とした。
二十三日、客人たちを迎えての儀礼も終り、帰途についた。

菟田野の薬獵

十九年夏五月五日、大和の菟田野に薬猟くすりがり(鹿の若角をとり薬用にするため)をした。
夜明け前に藤原池のほとりに集合し、曙に出発した。
粟田細目臣あわだのほしめのおみを前の部領ぬかたべのひら指揮者)、額田部比羅夫連ぬかたべのひらぶのむらじを後の部領とした。
この日、諸臣の服の色は皆、冠位の色と同じにした。
冠にはそれぞれ飾りをつけた。
大徳と小徳はいずれも金を使い、大仁と小仁は豹の尾を用いた。
大礼より以下は鳥の尾を用いた。

秋八月、新羅は沙喙部奈末北叱智さたくほうなまほくしちを遣わし、任那は習部大舍親智周智しゅうほうたさしんちしゅうちを遣わし、共に貢を奉った。

二十年春一月七日、酒を用意して群卿まえつきみに宴を賜わった。
この日、蘇我馬子は盃を奉って、

ヤスミシシ、ワガオホキミノ、カクリマス、アマノヤソカゲ、イデタタス、ミソラヲミレバ、ヨロヅヨニ、カクシモガモ、チヨニモ、カクシモカモ、力シコミテ、ツカへマツラム、ヲロガミテ、ツカへマツラム、ウタツキマツル。

天下をお治めになる我が大君の、お入りになる広大な御殿、出で立たれる御殿を見ると、誠に立派で、千代万代までこのようであって欲しい。そうすれば畏こみ、拝みながらお仕えします。私は今、お祝いの歌を献上いたします。

と、寿ことほぎの言葉を申しあげた。
天皇が答えて歌われた。

マソガヨ、ソガノコラハ、ウマナラバ、ヒムカノコマ、タチナラバ、クレノマサヒ、ウベシカモ、ソガノコラヲ、オホキミノ、ツカハスラシキ。

蘇我の人よ、蘇我の人よ。お前は馬ならば、あの有名な日向の国の馬、太刀ならば、あの有名な異国の真太刀である。もっともなことである。そんな立派な蘇我の人を、大君が使われるのは。

二月二十日、皇太夫人の堅塩媛かたしひめ(蘇我稲目の娘で、欽明天皇の妃、推古天皇の母)を、桧隈大陵ひのくまのおおみささぎに改め葬った。
この日、かる奈良県橿原市大軽)の街中でしのびごと死者を悼む言葉)を奏上した。

第一番目に阿倍内臣鳥あべのうちのおみとりが、天皇のお言葉を読み奉り、霊に物をお供えした。
それは祭器、喪服の類が一万五千種もあった。
二番目に諸皇子が序列に従って行われ、三番目に中臣宮地連烏摩侶なかとみのみやどころのむらじおまろ蘇我馬子そがのうまこの言葉をしのびごとした。
四番目に馬子大臣が、多数の支族らを率い、境部臣摩理勢さかいべのおみまりせに、氏姓のもとについてしのびごとを述べさせた。
当時の人が言ったのは、
摩理勢まりせ烏摩侶おまろの二人はよくしのびごとを述べたが、鳥臣とりおみだけはよく誄をすることができなかった」

夏五月五日、薬猟をして後、羽田はたに集い、引き続いて朝廷に赴いた。
その装束は、菟田うだの猟の時と同じであった。

この年、百済から日本を慕ってやってくる者が多かった。
その者たちの顔や体に、斑白まだら白癩しらはたがあり、その異様なことを憎んで、海中の島に置き去りにしようとした。
しかしその人が、
「もし私の斑皮まだらかわを嫌われるのならば、白斑しらふの牛馬を国の中に飼えないではないか。また、私にはいささかな才能があります。築山つきやまを造るのが得意です。私を留めて使って下されば、国のためにも利益があるでしょう。海の島に捨てたりして無駄にしなさるな」
と言った。

それでその言葉を聞いて捨てないで、須弥山しゅみせん世界の中心をなすとされる山)の形と、くれ風の橋を御所の庭に築くことを命じた。
当時の人は、その人を名づけて路子工みちこのたくみといった。
またの名を芝耆摩呂しきまろといった。
また、百済の人である味摩之みましが帰化して、
くれの国に学び、伎楽くれがく(仮面を付けた舞台劇)の舞が出来ます」
と言った。
桜井に住まわせて、少年を集め伎楽くれがくの舞を習わせた。
真野首弟子まののおびとでし新漢済文いまきのあやひとさいもんの二人が習って、その舞を伝えた。
これが現在の大市首おおちのおびと辟田首さきたのおびとらの先祖である。

二十一年冬十一月、掖上池わきかみのいけ畝傍池うねびのいけ和珥池わにのいけを造った。
また、難波なにわから都に至る大路を設けた(竹田街道)。

太子と飢人

十二月一日、皇太子は片岡かたおかにお出でになった。
そのとき、飢えた者が道のほとりに倒れていた。
名を尋ねられたが答えなかった。
皇太子は食物を与えられた。
また、自分の衣裳を脱いで、飢えた者にかけてやり、
「安らかに眠れ」
と言われた。

そして歌った。

シナテル、カタヲカヤマニ、イヒニヱテ、コヤセル、ソノタビトアハレ、オヤナシニ、ナレナリケメヤ、サスタケノ、キミハヤナキ、イヒニヱテ、コヤセル、ソノタビ卜アハレ。

片岡で食に飢えて、倒れている旅人はかわいそうだ。親なしで育ったわけでもあるまい。優しい恋人はいないのか。食に飢えて倒れている旅人はかわいそうだ。

と言われた。

二日、皇太子は使者を出して、飢えていた者を見させられた。
使者が帰ってきて、
「飢えていた者はもう死んでいました」
と言った。
皇太子は大いに悲しまれた。
そしてその場所に埋葬し、塚を築かれた。
数日後、皇太子は近習の者に語って、
「先日道に倒れていた飢えた人は、普通の人間ではあるまい。きっと聖者だろう」
と言って使者をやって見させられた。
使者が帰ってきて言った。
「墓の所に行って見ましたら、墓は動いておりませんでしたが、開けて見ると、屍は無くなっておりました。ただ、衣服だけが畳んで棺の上にありました」
と言った。
皇太子はまた使者を戻らせて、その衣を取ってこさせられた。
そして以前の如く再びお召しになった。
当時の人は大いに怪しんで、
「聖は聖を知るというが、それは本当だ」
と言って、いよいよ畏まった。

二十ニ年夏五月五日、薬猟をされた。

六月十三日、犬上君御田鍬いぬかみのきみみたすき矢田部造やたべのみやつこ大唐もろこし(隋)に遣わされた。

八月、蘇我馬子大臣そがのうまこのおおおみは病気になった。
大臣の病気である平癒へいゆを祈るために、男女一千人を出家させた。

二十三年秋九月、犬上君御田鍬いぬかみのきみみたすき矢田部連やたべのみやつこ大唐もろこしから帰った。
百済の使者が犬上君いぬかみのきみに付き従ってやってきた。

十一月二日、百済の客に饗応をされた。
十五日、高麗の僧である慧慈えじが本国に帰った。

二十四年春一月に桃・李の実がなった。

三月、掖久やく(屋久島)の人が三人帰化してきた。
五月、屋久島やくしまの人が七人帰化した。
秋七月、また屋久島の人が二十人が来た。
前後合せて三十人。
すべて朴井えのい大阪府岸和田)に住まわされたが、帰郷を待たず、皆死んでしまった。

秋七月、新羅が奈末竹世土なまちくせいしを遣わして仏像を奉った。

二十五年夏六月、出雲国から、
神戸郡かむとのこおり島根県出雲市)に大きな瓜がなり、ほとき(大きな龜)ほどの大きさがあります」
と言ってきた。

この年は五穀が皆よく実った。

二十六年秋八月一日、高麗が使者を送り、土地の産物を奉った。
そして、
「隋の煬帝は、三十万の軍を送って我が国を攻めました。しかし、かえって我が軍のために破られ、今、その虜二名、貞公ていこう普通ふとうの二人と、鼓吹つづみふえおおゆみ石弓いしゆみの類が十種と、国の産物、駱駝らくだ一匹とを奉ります」
と言った。

この年、河辺臣かわべのおみ安芸国あきのくにに遣わして船を造らせた。
山に入って船の材を探した。
たいへん良い材があったので切ろうとした。
そのときある人が、
「雷神の宿る木です。切ってはなりません」
と言った。
河辺臣は、
「雷神とはいっても、どうして天皇の命に抗することができようか」
と言って、多くの幣帛みてぐらを捧げて、人夫を使って切らせた。
すると大雨となり落雷した。
河辺臣は剣の柄を握って、
「雷神よ、帝の民を犯してはならぬ。かえって自分の身をそこなうぞ」
と言って天を仰ぎ、しばらく待った。
十あまり雷鳴が轟いたが、河辺臣を犯すことはなかった。
小さな魚になって雷神は木の股にはさまれていた。
その魚を取って焼いた。
ついに、目的の船を造った。

二十七年夏四月四日、近江国から、
蒲生川がもうがわに何か不思議なものが浮かび、形は人のようにも見えます」
と言ってきた。

秋七月、摂津国のある漁父が、堀江に網を張っていた。
何かの物が網にかかった。その形は赤子のようでもあり、魚でもなく人間でもなく、何とも名づけられなかった。

二十八年秋八月、屋久島の人が二人、伊豆の島に漂着した。

冬十月、さざれ石(古墳用の細石)を、桧隈陵ひのくまのみささぎ(欽明帝と堅塩媛の墓)の敷石に敷いた。
域外に土を積み上げて山を造った。
各氏に命ぜられて、大きな柱を土の山の上に建てさせた。
倭漢坂上直やまとのあやさかのえのあたいが建てた柱が、ずば抜けて高かった。
それで当時の人は名づけて、大柱の直おおはしらのあたいと言った。

十二月一日、天に赤色のしるしが現れた。
長さは一丈あまりで、形は雉の尾のようであった。
この年、皇太子と馬子大臣が相議って、天皇記および国記、臣、連、伴造、国造など、その他多くの部民、公民らの本記を記録した。

聖徳太子の死

二十九年春二月五日、夜半、聖徳太子しょうとくたいし斑鳩宫いかるがのみやに薨去された。
このとき、諸王、諸臣および天下の人民は、老いた者は愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分らぬ程であった。
若き者は慈父慈母を失ったように、泣き叫ぶ声は巷に溢れた。
農夫は耕すことも休み、稲つく女は杵音きねおともさせなかった。
皆が言った。
「日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらよいのだろう」

この月、太子を磯長陵しながのみささぎに葬った。
このとき、高麗の僧である慧慈えじは帰還していたが、太子の薨去を聞き大いに悲しみ、太子のために僧を集め斎会を催した。
そして、自ら経を説く日に誓願して、
「日本国に聖人がおられた。上宮豊聡耳皇子かみつみやのとよとみみのみこと申し上げる。天から優れた資質を授かり、大きな聖の徳をもって、日本の国にお生まれになった。中国三代の聖王をも越える程の、大きな仕事をされ、三宝を謹しみ敬って、人民の苦しみを救われた。真実の大聖である。その太子が亡くなられた。私は国を異にするとは言え、太子との心の絆は断ちがたい。自分一人生き残っても何の益もない。来年の二月五日には、私もきっと死ぬだろう。上宫太子かみつみやのみこに浄土でお会いして、共に衆生に仏の教えを広めよう」
と言った。
そして慧慈は定めた日に正しく死んだ。
当時の人たちは誰もが、
「上宫太子だけでなく、慧慈えじもまたひじりである」
と言った。

この年、新羅は奈末伊弥買なまいみばいを遣わして朝貢し、書を奉って遣いの旨を奏上した。
およそ新羅の国が上表することは、このときに始まったようである。

三十一年秋七月、新羅が大使である奈末智洗爾なまちせんにを遣わし、任那は達率奈末智たつそつなまちを遣わし、共に来朝した。
仏像一体および金塔と舎利を奉った。
また、大きな観頂の幡一条と、小さい幡十二条を奉った。
この仏像を葛野かどの蜂岡寺はちのおかでらに安置し、他の舍利、金塔、観頂幡かんじょうはたなどは、皆、四天王寺に納めた。
このときに、唐の学問僧の恵斉えさい恵光えこうおよび医者の恵日えにち福因ふくいんらが、智洗爾ちせんにらに従ってやってきた。
恵日えにちらが、
「唐に来ている留学生たちは、もう皆、業を成し遂げております。お召しになるべきでしょう。かの大唐もろこしの国は、法式完備の立派な国であります。常に往来して交わりを持つのが良いでしょう」
と言った。

新羅征討の再開

この年、新羅が任那を討った。
任那は新羅に属した。
そこで天皇は新羅を討とうとされた。
大臣に議り、群卿まえつきみにも問われた。
田中臣たなかのおみがこれに答えて、
「早急に討つべきではありませぬ。まず様子を調べて、背くということがはっきりしてから討っても遅くないでしょう。ためしに使者を送って、向こうの様子を見させてください」
と言った。

中臣連国なかとみのむらじくにが言うのは、
「任那は始めから我が内官家うちのみやけ(貢納国)であるのに、今、新羅がそれを取ったのです。よろしく軍を整えて新羅を討ち、任那を取り返して百済につけましょう。新羅から取り返すに勝るものはありません」
田中臣たなかのおみが言う。
「そうではない。百済は度々豹変する国である。道路の区間さえも偽りがある。およそ、その言うことは皆、信じられない。百済に任那をつけたりすべきでない」
そこで新羅を討つことをやめた。

吉士磐金きしのいわかねを新羅に遣わし、吉士倉下きしのくらじを任那に遣わし、任那の事件について問わせた。
このとき、新羅国王(直平王)は八人の大夫を遣わして、新羅の国のことを磐金に伝えた。
任那の国のことは倉下に申し伝えた。
そして約束して、
「任那は小さい国でありますが、天皇に付き従い、仕える国であります。どうして新羅の国が気ままに奪ったりしましょうか。今まで通りの天皇の内官家うちのみやけと定め、心配なさいませぬように」
と言った。

奈末智洗遅なまちせんじを遣わして、吉士磐金きしのいわかねに副え、任那の人、達率奈末遅たつそつなまじ吉士倉下きしのくらじに副え、両国の調を奉った。
しかし、磐金いわかねらがまだ帰らないうちに、大徳境部臣雄摩侶だいとくさかいべのおみおまろ小徳中臣連国しょうとくなかとみのむらじくにを大将軍に任じた。
小徳河辺臣禰受しょうとくかわべのおみねず小徳物部依網連乙等しょうとくもののべよさみのむらじおと小徳波多臣広庭しょうとくはたのおみひろにわ小徳近江脚身臣飯蓋しょうとくおうみのあなみのおみいいふた小徳平群臣宇志しょうとくへぐりのおみうし、小徳大伴連しょうとくおおとものむらじ小徳大宅臣軍しょうとくおおやけのおみいくさを副将軍とし、数万の兵を率いて新羅を討った。

時に、磐金らは港に集って、出航しようと風待ちしていた。
ここで船軍は海に満ちた。
両国の使者はこれを望見して愕然とした。
引き返して、さらに堪遅大舎たんじたさを、代わりに任那の調の使者とし奉った。
磐金らは語り合って、
「軍を興すことは前の約束と違うことになる。こうなっては任那のことはうまく行くまい」
と言った。
港を船出して帰国した。
ただ、将軍たちは任那に至り、語り合って新羅を襲おうとした。
新羅国王は大軍がやってくると聞き、恐れて手早に降服を願い出た。
将軍らは語り合って上奏した。
天皇は許された。

冬十一月、磐金、倉下らが新羅から帰った。
大臣蘇我馬子おおおみそがのうまこはその様子を尋ねたところ、
「新羅は天皇の命を承ってたいへん恐縮し、そのことだけの使者を命じ両国の調を仕立てました。ところが船軍の来たのを見て、朝貢の使者は逃げ戻りました。ただ調のみは奉ります」
と言った。
馬子は、
「惜しいことをしたな、早く軍勢を送ったことは」
と言った。
当時の人は言った。
「今度の軍事は、境部臣さかいべのおみ阿曇連あずみのむらじが、かつて新羅から多くの幣物わいろを得たものだから、馬子にまた勧めたのだ。それで使者の返事も待たず早く討とうとしたのだ」

はじめ、磐金らが新羅に渡る日に、先方の港に着く頃、荘船かざりふねが一艘港に出迎えた。
磐金が何処の船かと尋ねると、
「新羅の船です」
と答えた。
磐金はまた、
「どうして任那の船は無いのか」
と言った。
そのとき任那のために、また一艘を加えた。
新羅の迎え船は二艘を使うことが、この時に始まったのであろう。

春から秋まで長雨が降り、洪水が出て五穀はよく実らなかった。

寺院僧尼の統制

三十二年夏四月三日、一人の僧が斧で祖父を打った。
天皇は馬子を召しみことのりして、
「出家した者はもっぱら三宝に帰し、戒律を守るのに、何でためらいもなく、簡単に悪逆の罪を犯したのだろう。聞くところでは、僧が祖父を斧で打ったという。諸寺の僧尼をすべて集めて、よく調べよ。もし事実なら重く罰せねばならぬ」
と言われた。
諸寺の僧尼を集め調べ、悪逆の行為の僧尼を処罰しようとされた。
このとき、百済の僧観勒かんろくは上表して、
「仏法の教えは印度より漢に伝えられ、三百年を経て、百済国に伝わりましたが、まだ僅か百年であります。百済王は日本の天皇の英明であられることを聞いて、仏像や仏典を奉りましたが、まだ百年にもなりませぬ。このような時、僧尼は、まだ法律にも慣れていないので、たやすく悪逆の罪を犯します。ですから多くの僧尼は恐縮しても、いかにすべきか分らないのです。どうか、悪逆の行為のあった者以外は、全部許して罪にされませぬようにお願い致します。これが仏の功徳でございます」
と言った。
天皇は聞き入れられた。
十三日みことのりして、
「道を修める人も、法を犯すことがある。これでは何によって俗人に教えられようか。今後、僧正、僧都などを任命して、僧尼を統べることとする」
と言われた。

十七日、観勒僧かんろくほうしを僧正とし、鞍部徳積くらつくりのとくしゃくを僧都とした。
同日、阿曇連あずみのむらじを法頭とした。

秋九月三日、寺および僧电を調査して、詳細に各寺の縁起、僧尼の入道の事由、出家の年月日などを記録した。
このとき、寺は四十六力所、僧八百十六人、尼五百六十九人、合せて千三百八十五人であった。

蘇我馬子の葛城県の要請とその死

冬十月一日、大臣馬子おおおみうまこは、阿曇連あずみのむらじ阿倍臣摩侶あべのおみまろの二人に、天皇に奏上させ、
葛城県かずらきのあがたは元、私の本貫であります(代々葛城氏がおり、蘇我は葛城の同族になるとの考え)。その県に因んで蘇我葛城そがかずらき氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜わって、私が封ぜられたあがたと致しとうございます」
と言った。
すると天皇が仰せられるのには、
「今、私は蘇我そが氏から出ている(天皇の母は蘇我稲目の娘の堅塩媛)。馬子大臣うまこのおおおみは我が叔父である。故に大臣の言うことは、夜に申せば夜の中に、朝に申せば日の暮れぬ中に、どんなことでも聞き入れてきた。しかし今、我が治世に、急にこのあがたを失ったら、後世の帝が、『愚かな女が天下に公として臨んだため、ついにその県を滅ぼしてしまった』と言われるだろう。ひとり私が不明であったとされるばかりか、大臣も不忠とされ、後世に悪名を残すことになるだろう」
として許されなかった。

三十三年春一月七日、高麗の王は僧の恵灌えかんを奉ったので、僧正に任じられた。

三十四年春一月、桃やすももの花が咲いた。

三月には寒くなって霜が降った。

夏五月二十日、馬子大臣うまこのおおおみが亡くなった。
桃原墓ももはらのはかに葬った。
大臣は蘇我稲目そがのいなめの子で、性格は武略備わり、政務にも優れ、仏法を敬って、飛鳥川あすかがわの辺りに家居した。
その庭の中に小さな池を掘り、池の中に小さな嶋を築いた。
それで当時の人は嶋大臣しまのおおおみと言った。

六月、雪が降った。この年は三月より七月まで長雨が降り、天下は大いに飢えた。
老人は草の根を食って道のほとりに死んだ。
幼児は乳にすがって母子共に死んだ。
また盗賊が大いにはびこり、止めようもなかった。

三十五年春二月、陸奥国みちのくのくにむじなタヌキ)が人に化けて、歌を詠った。

夏五月、蠅がたくさん集まり、十丈程の高さになり、大空に浮かんで信濃坂しなのさかを越えた。
その羽音は雷のようであった。
東の方上野国かみつけののくにに至って、やっと散り失せた。

天皇崩御

三十六年春二月二十七日、天皇は病臥された。
三月二日、日蝕で陽が全く見えなくなった。
六日、天皇は病が重くなられ、成す術もなかった。
田村皇子たむらのみこ後の舒明天皇)をお召しになり、
「天子の位を嗣ぎ、国の基を整え、政務を統べて、人民を養うことはたやすいことではない。私はお前をいつも重くみてきた。それゆえ、行動を慎しんで物事を明らかに見るように心がけなさい。何事も軽々しく言ってはなりませぬ」
と言われた。

同日、山背大兄やましろのおおえ(聖徳太子の子)をお召しになり、
「お前はまだ未熟であるから、もし心中に望むことがあっても、あれこれ言ってはなりませぬ。必ず群臣こおりおみの言葉を聞いて、それに従いなさい」
と教え諭された。

七日、天皇は崩御された。
年七十五歳。
朝廷の中庭に殯宮もがりのみやを置かれた。

夏四月十日、あられが降った。
桃の実ほどの大きさがあった。
十一日、また雹が降り、すももほどの大きさであった。
春から夏に至るまでひでりが続いた。

秋九月二十日、初めて天皇の喪礼を行った。
このとき、群臣はそれぞれ殯宮にしのびごとを述べた。
これより先、天皇は群臣こおりおみに、
「この頃、五穀が実らず、百姓は大いに飢えている。私のために陵を建てて、厚く葬ってはならぬ。ただ、竹田皇子たけだのみこ(敏達天皇と推古天皇の皇子)のみささぎに葬れぱよろしい」
と言い残されていたので、二十四日、竹田皇子の陵に葬った。

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推古天皇 磯長山田陵・竹田皇子墓
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

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