舒明天皇 息長足日広額天皇
皇嗣問題難航
息長足日広額天皇は、敏達天皇の孫、彦人大兄皇子の子である。
母を糠手姫皇女という。
推古天皇の二十九年、聖徳太子が薨去された。
けれども後の皇太子を立てられないまま、三十六年三月、天皇が崩御された。
九月に葬礼が終ったが皇位はまだ定まらなかった。
このとき、蘇我蝦夷臣は大臣であった。
ひとりで皇嗣を決めようと思ったが、群臣が承服しないのではないかと恐れた。
阿倍麻呂臣と議り、群臣を集めて大臣の家で饗応した。
食事が終って散会しようとするときに、蝦夷は阿倍臣に命じ、群臣に語らせて、
「今,天皇は崩御されたままで後継者がない。もし速やかに決めなかったら、乱れがあろうかと恐れる。ところで、何れの王を日嗣とすべきであろうか。推古天皇が病臥なさった日に、田村皇子に詔して、『天下を治めるということは大任である。たやすく言うべきものではない。田村皇子よ、慎重によく物事を見通すようにして、しっかりとやりなさい』と仰せられた。次に山背大兄皇子に詔して、『お前はやかましく騒いではならぬ、必ず群臣の言葉に従って慎しんで道を誤たぬように』と言われた。これが天皇のご遺言である。さて、誰を天皇とすべきだろうか」
と言った。
群臣は黙って答えることがなかった。
もう一度尋ねたが答えはなかった。
強いてまた問うと、大伴鲸連が進み出て、
「天皇の遺命のままにすべきでしょう。このうえ、群臣の意見を待つまでもないでしょう」
と言った。
阿倍臣は,
「どういうことなのか、思うことをはっきり述べよ」
と言った。
それに答えて、
「天皇はどのように思われて、田村皇子に詔して、『天下を治めることは大任である。しっかりやるように』と言われたのでしょう。このお言葉からすれば、皇位は決まったと同じです。 誰も異議をいうものはないでしょう」
と言った。
そのとき、采女の臣摩礼志、高向臣宇摩、中臣連弥気、難波吉士身刺の四人の臣が、
「大伴連の言葉の通りまったく異議はありません」
と言った。
許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣塩手の三人が進み出て、
「山背大兄王、この人を天皇とすべきである」
といった。
ただ、蘇我倉麻呂臣だけは、
「私はここで即座に申すことができません。もう少し考えて後に申しましょう」
と言った。
蝦夷大臣は群臣が折り合わず、 意見を纏めることはできぬと知って退席した。
これより先、蝦夷大臣は、ひとり境部摩理勢臣(蘇我氏の一族)に会い、
「天皇が亡くなられてまだ跡嗣がない。誰を天皇にしたらよいだろうか」
と尋ねた。
摩理勢は、
「山背大兄を天皇に推しましよう」
と答えた。
山背大兄王の抗議
山背大兄は斑鳩宮にお出でになって、この議論を漏れ聞かれた。
三国王、桜井臣和慈古の二人を遣わして、こっそり大臣に、
「噂に聞くと叔父上(蝦夷)は、田村皇子を天皇にしよ うと思っておられるということですが、自分はこのことを聞いて、立って思い、座って思っても、まだその理由が分かりません。どうかはっきりと叔父上の考えを知らせて下さい」
と言われた。
蝦夷大臣は山背大兄の訴えに自分からは返答しかねた。
阿倍臣(麻呂)、中臣連(弥気)、紀臣(塩手)、河辺臣(禰受)、高向臣(宇摩)采女臣(摩礼志)、大伴連(鯨)、許勢臣(大麻呂)らを呼んで、つぶさに山背大兄の言葉を説明した。
そしてまた蝦夷は大夫たちに、
「太夫たちは共に斑鳩宮に参って、山背大兄に『賤しい私(蝦夷)がどうしてたやすく皇嗣を定められましょうか。ただ、天皇の遺詔を群臣に告げるだけです。群臣らの言うには天皇の遺詔の如くならば、田村皇子がどうしても皇嗣になられるべきです。誰も異議はありませぬと。これは群臣の言葉で、私だけの気持ちではありません。私だけの考えがあったとしても、恐れ多くて人づてには申し上げられませぬ。直接お目にかかったときに、親しく申しましょう』とこのように申し上げよ」
と言った。
そこで大夫たちは蝦夷大臣の命を受けて、斑鳩宮に参った。
三国王、桜井臣を通じて、山背大兄に大臣の言葉を伝えた。
大兄王は三国王らを通じて大夫たちに、
「天皇の遺詔とはどのようなことだったのか」
と言われた。
大夫たちは、
「手前共は深いことは分りませぬが、大臣の語っておられるところによると、天皇の病臥された日、田村皇子に詔して、『軽々しく行く先の国政のことを言ってはならない。それゆえ、田村皇子は、言葉を慎しんで心をゆるめないように』と言われ、次に大兄王に詔して、『おまえはまだ未熟であるから、あれこれと言ってはならぬ。必ず群臣の言葉に従いなさい』 と仰せられた。これはお側近くにいた女王および采女などの全部が知っていることであり、 王も明らかにご存じのことであります」
と言った。
大兄王はまた,
「この遺詔は誰が聞いたのか」
と言われると、
「手前たちはそのような機密は存じませぬ」
と答えた。
そこでまた群大夫たちに、
「親愛なる叔父上の思いやりで、一人の使者ではなく、重臣らを遣わして教え諭して下さり、大きな恵みであると思う。しかるに今、お前たちの述べる天皇のご遺言は、私の聞いたところとは少し違う。私は天皇が病臥されたとうかがって、急いで禁中に参ったのだ。 そのとき、中臣連弥気が中から出てきて言うのに、『天皇がお召しになっています』と。それで内門に入った。栗隈采女黒女が中庭に迎えて、大殿に案内した。入ってみると近習の栗下女王を頭として、女孺鮪女ら八人と、全部では数十人のものが天皇のお側近くにいた。また、田村皇子もおられた。天皇は病が重くて、私をご覧になれなかった。栗下女王が奏上して、『お召しの山背大兄王が参りました』と言うと、天皇は身を起こして詔りされ、『私はつたない身で久しく大業を務めてきた。しかし、今まさに終ろうとしている。病は避けることができない。お前はもとから私と心の通じ合った仲である。寵愛の心は他に比べるものがない。皇位が国家にとって大切なことは、私の世に限ったことではない。お前はまだ心が未熟であるから、言葉は慎重にするように』と言われた。そこに侍っていた近習の者は皆知っている。それで私はこの有難い言葉を頂いて、一度は恐れ、一度は悲しく思った。しかし、心は躍り上り、感激して為すところを知らぬ有様であった。思うに、天子として国を治めることは重大なことである。私は若くて賢くもない。どうして大任に当たれようか。このとき、叔父や群卿に話そうと思ったが、言うべきときがなく、今日まで言えなかった。私はかつて叔父の病気を見舞おうと思って、都(飛鳥)に行き、豊浦寺にいたことがある。この日、天皇は八ロ采女鮪女を遣わして詔りされ、『お前の叔父の大臣は、常にお前のことを心配して、いつかはきっと皇位がお前に行くのではなかろうか、と言っていた。だから行いを慎み、自愛するように』と仰せられた。すでにはっきりとこんなことがあったので、何を疑おうか。しかし、私は天下を貪る気はない。ただ、私が聞いたことを明らかにするだけである。天神地祇も証明しておられる。こういうわけで、天皇の遺勅を知りたく思った。また、大臣の遣わした群卿は、 もとより厳矛(厳しい矛)をまっすぐに立てるように、臣下の申し上げることを公正に伝えることを務めとする人々である。それ故、よく叔父に申し伝えて欲しい」
と言われた。
別に、泊瀬仲王(山背大兄の異母弟)は、中臣連と河辺臣を呼んで、
「誰でも知っているように、我ら父子(聖徳太子とその子たち)は皆、蘇我氏から出ている。それゆえ、蘇我を高い山の如く頼みにしている。どうか皇嗣のことについては、あまり言わないようにして欲しい」
と言われた。
山背大兄は三国王と桜井臣を群臣に付き添わせて大臣のもとに遣わし、
「お返事をお聞かせ下さい」
と言われた。
蝦夷大臣は紀臣と大伴連とを通じて、三国王と桜井臣に、
「先日すでに申し上げた通りで、何も変ったことはございません。しかし、私がどうしてどの王を軽んじ、どの王を重んずるということがありましょうか」
と言った。
何日か経ってから、山背大兄はまた桜井臣を遣わして大臣に、
「先日のことは私の聞いたこ とを述べただけです。どうして叔父上に違うことがありましょうか」
と言われた。
この日、大臣は病が起きて、直接桜井臣にものを言うことができなかった。
翌日、大臣は桜井臣を呼び、阿倍臣、中臣連、河辺王、小墾田臣、大伴連を遣わし、山背大兄に、
「欽明天皇の御世から現在に至るまで、群卿は皆、賢明でよく尽した。ただ、私は不賢にもかかわらず、たまたま人が乏しかったので、間違って群臣の上にいるだけです。それで物事の決定にも手間どりますが、 今回のことは重大です。人伝てには申し上げられませんので、年老いた身ではありますが、 直接お目にかかって申し上げましょう。ただ、遺勅に反しないようにということで、私意をはさむものではありませぬ」
と言った。
境部摩理勢の最期
一方で大臣は、阿倍臣と中臣連を通じて、もう一度、境部臣(摩理勢)に、
「どの王を天皇にしたらよいか」と尋ねた。
すると、
「先日大臣が親しく問われた時に、私の申し上げることは終りました。今更また申すことはありませぬ」
と言った。
そして大いに怒り、座を立って行った。
たまたまこのとき、蘇我一族が皆集まって、馬子大臣のために墓を造るべく、墓の地に宿っていた。
摩理勢臣は墓所の廬を打ち壊し、蘇我の田家(私有地)へ退去し、墓所に仕えようとしなかった。
大臣はこれを怒って、身狹君勝牛、錦織首赤猪を遣わして、教えて、
「私はお前の言うことが正しくないとわかっても、親戚のよしみでお前を貴めることはしない。ただし、他人が間違っていてお前が正しいのなら、私は必ず他人に逆らってもお前に従うだろう。もし他人が正しくお前が間違っているなら、私はお前に背いて、他人に同意するだろう。この道理でお前がついに従わないのなら、自分はお前と離れるだろう。国む乱れよう。後世の人が二人は国を損ったというだろう。これは後代への不名誉である。慎しんで間違った心を起こすべきではない」
と言った。
しかしそれにも従わず、ついに斑鳩に赴き、泊瀬王の宮に住んだ。
大臣はますます怒って、群卿を遣わして山背大兄に伝えて、
「この頃、摩理勢は私に背いて、泊瀬王の宮に隱れています。どうか摩理勢を頂いて、わけを調べさせていただきたい」
と言った。
すると大兄王は答えて、
「摩理勢はもとから太子の可愛がられたもので、今しばらく身を寄せているだけなのです。叔父上の心に背く気はありませんが、どうかお咎めにならないで下さい」
と言われた。
摩理勢には、
「お前は先王(太子)の恩を忘れず、こちらへ来たことは愛すべきである。しかし、お前一人のために、天下が乱れるだろう。また先王が臨終の折、子たちに語って、『諸の悪を行なってはならぬ。諸の善を行ない奉るよう』と仰せられた。私はこの言葉を承って永く戒めとしている。それで私情としては受け入れがたいことがあっても、辛抱して怨みには思わない。また、私としても叔父に背くことはできない。どうか今からでもよい、気にすることなく、心を改め皆に従うがよい。勝手に退出してきてはいけない」
と言われた。
そこで大夫らもまた摩理勢臣に教えて、
「大兄王の命に違ってはならぬ」
と言った。
摩理勢臣は依るべきところがなく、泣きつつまた家に帰り、閉じ籠もること十日あまりすると、泊瀬王はにわかに発病して亡くなられた。
摩理勢臣は、
「私は誰を頼りにして生きていけばよいのか」
と嘆いた。
大臣は境部臣を殺そうと思って、兵を遣わした。
境部臣は兵士の来たことを聞いて、中の子にあたる阿椰を率い、門に出て床几にかけて待っていた。
そこへ軍兵が押し寄せ、来目物部伊区比に命じて、摩理勢を絞殺させた。
父子共に死に、同じ所に埋められた。
ただ、長子の毛津だけは、尼寺の瓦舍に逃げ隠れた。
そこで尼一人二人を犯した。
一人の尼がこれを表沙汰にした。
寺を囲んで捕えようとすると、逃げて畝傍山に潜った。
山を探ると毛津は逃げ場を失い、自ら頸を刺して山の中で死んだ。
当時の人は童謡に歌っていった。
一方で大臣は、阿倍臣と中臣連を通じて、もう一度、境部臣(摩理勢)に、
「どの王を天皇にしたらよいか」と尋ねた。
すると、
「先日大臣が親しく問われた時に、私の申し上げることは終りました。今更また申すことはありませぬ」
と言った。
そして大いに怒り、座を立って行った。
たまたまこのとき、蘇我一族が皆集まって、馬子大臣のために墓を造るべく、墓の地に宿っていた。
摩理勢臣は墓所の廬を打ち壊し、蘇我の田家(私有地)へ退去し、墓所に仕えようとしなかった。
大臣はこれを怒って、身狹君勝牛、錦織首赤猪を遣わして、教えて、
「私はお前の言うことが正しくないとわかっても、親戚のよしみでお前を貴めることはしない。ただし、他人が間違っていてお前が正しいのなら、私は必ず他人に逆らってもお前に従うだろう。もし他人が正しくお前が間違っているなら、私はお前に背いて、他人に同意するだろう。この道理でお前がついに従わないのなら、自分はお前と離れるだろう。国む乱れよう。後世の人が二人は国を損ったというだろう。これは後代への不名誉である。慎しんで間違った心を起こすべきではない」
と言った。
しかしそれにも従わず、ついに斑鳩に赴き、泊瀬王の宮に住んだ。
大臣はますます怒って、群卿を遣わして山背大兄に伝えて、
「この頃、摩理勢は私に背いて、泊瀬王の宮に隱れています。どうか摩理勢を頂いて、わけを調べさせていただきたい」
と言った。
すると大兄王は答えて、
「摩理勢はもとから太子の可愛がられたもので、今しばらく身を寄せているだけなのです。叔父上の心に背く気はありませんが、どうかお咎めにならないで下さい」
と言われた。
摩理勢には、
「お前は先王(太子)の恩を忘れず、こちらへ来たことは愛すべきである。しかし、お前一人のために、天下が乱れるだろう。また先王が臨終の折、子たちに語って、『諸の悪を行なってはならぬ。諸の善を行ない奉るよう』と仰せられた。私はこの言葉を承って永く戒めとしている。それで私情としては受け入れがたいことがあっても、辛抱して怨みには思わない。また、私としても叔父に背くことはできない。どうか今からでもよい、気にすることなく、心を改め皆に従うがよい。勝手に退出してきてはいけない」
と言われた。
そこで大夫らもまた摩理勢臣に教えて、
「大兄王の命に違ってはならぬ」
と言った。
摩理勢臣は依るべきところがなく、泣きつつまた家に帰り、閉じ籠もること十日あまりすると、泊瀬王はにわかに発病して亡くなられた。
摩理勢臣は、
「私は誰を頼りにして生きていけばよいのか」
と嘆いた。
大臣は境部臣を殺そうと思って、兵を遣わした。
境部臣は兵士の来たことを聞いて、中の子にあたる阿椰を率い、門に出て床几にかけて待っていた。
そこへ軍兵が押し寄せ、来目物部伊区比に命じて、摩理勢を絞殺させた。
父子共に死に、同じ所に埋められた。
ただ、長子の毛津だけは、尼寺の瓦舍に逃げ隠れた。
そこで尼一人二人を犯した。
一人の尼がこれを表沙汰にした。
寺を囲んで捕えようとすると、逃げて畝傍山に潜った。
山を探ると毛津は逃げ場を失い、自ら頸を刺して山の中で死んだ。
当時の人は童謡に歌っていった。
ウネビヤマ、コダチウスケド、タノミカモ、ケツノワクコノ、コモラセリケム。
畝傍山は木立が少いのに、それをも頼みに思って、毛津の若子は籠っておられたのだろうか。
※山背大兄の方は味方も少いのに、それを頼りにした哀れさに同情した気持が流れている。
舒明天皇の即位
元年春一月四日、大臣と群卿は、皇位の璽印(鏡と剣)を田村皇子に奉った。
すると皇子は辞退して、
「天皇として国を治めることは重大なことである。自分は未熟でその任に堪えない」
と言われた。
群臣は伏してお願いして、
「先帝は王を非常に可愛がっておられました。神も人も心を寄せているのです。どうか皇統を継いで人々の上に光を与えて下さい」
と言った。
そこでその日、皇位にお就きになった。
夏四月一日、田辺連を掖玖(屋久島)に遣わした。
この年、太歳己丑。
二年春一月十二日、宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)を立てて皇后とした。
皇后は二男一女をお生みになった。
第一は葛城皇子(天智天皇)、第二は、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、第三は大海皇子(天武天皇)である。
夫人の蘇我馬子の娘である法提郎媛は、古人皇子(大兄皇子とも名づける)をお生みになった。
また吉備国の蚊屋采女を召して、蚊屋皇子を儲けられた。
三月一日、高麗の大使である宴子抜、小使である若徳と百済の大使である恩率素子、小使である徳率武徳が共に朝貢した。
遣唐使
秋八月五日、大仁犬上君三田耜、大仁薬師恵日を大唐に遣わした。八日、高麗・百済の客に朝廷で饗応された。
九月四日、高麗と百済の客は帰国した。
この月、田部連らは掖玖より帰った。
冬十月十二日、天皇は飛鳥岡のほとりにお移りになった。
これを岡本宫という。
この年、改めて難波の大郡と三韓の館を修理した。
三年春二月十日、掖玖の人が帰化した。
三月一日、百済王、義慈は王子である豊章を人質として送ってきた。
秋九月十九日、摂津国の有馬の湯へ行幸された。
冬十二月十三日、天皇が有馬から帰られた。
四年秋八月、大唐(中国・唐)は高表仁を遣わして、三田耜を送らせた。
共に対馬に泊った。
このとき、学問僧の霊雲、僧旻および勝鳥養、新羅の送使らがこれに従った。
冬十月四日、唐の使者である高表仁らが難波津に泊った。
大伴連馬養を遣わして、江ロに迎えさせた。
船三十二艘をそろえ、鼓をうち、吹をふき、旗幟を飾って装いを整えた。
そして高表仁らに、
「唐の天子の遣わされた使者が、天皇の朝廷にお出でになったと聞き、お迎えさせます」
とお言葉を伝えると、高表仁は、
「風の吹きすさぶこのような日に、船を装ってお迎え頂きましたこと、嬉しくまた恐縮に存じます」と言った。
難波吉士小槻、大河内直矢伏に命じて先導させ、館の前に案内し、伊岐史乙等、難波吉士八牛を遣わして、客たちを伴って館に入らせた。
その日、神酒を賜わった。
五年春一月二十六日、大唐の客人の高表仁らは国に帰った。
送使の吉士雄摩呂、黒麻呂らは対馬まで送って帰った。
災異多発
六年秋八月、長い星が南の方角に見えた。
人々は彗星だと言った。
七年春三月、彗星は廻って東の方に見えた。
夏六月十日、百済は達率柔らを遣わして朝貢をした。
秋七月七日、百済の客に朝廷で饗応をされた。
この月、変わった蓮が剣池に生えているのを見つけた。
一本の茎に二つの花が咲いていた。
八年春一月一日、日蝕があった。
三月、采女を犯した者を取り調べて、皆処罰した。
三輪君小鷦鷯は取り調べられたことを苦にして頸を刺して死んだ。
夏五月、長雨があって洪水になった。
六月、岡本宮が火災で焼けた。
天皇は臨時の田中宮に移られた。
秋七月一日、大派王(敏達天皇の皇子)が蝦夷大臣に語って、
「群卿や百寮が、朝廷への出仕を怠けている。今後は卯の時(午前六時)の始めに出仕し、巳の時(十時)の後に退出させよう。鐘で時刻を知らせるように」
と言われた。
しかし大臣は賛成しなかった。
この年、ひどい旱魃があって、国中が飢えた。
九年春二月二十三日、大きな星が東から西に流れ、雷に似た大きな音がした。
人々は、
「流れ星の音である」
と言い、あるいはまた、
「地雷である」
と言った。
僧旻は「流れ星ではない。これは、天狗である。その吠える声が雷に似ているだけだ」
と言った。
三月二日、日蝕があった。
この年、蝦夷が背いて入朝しなかった。
大仁上毛野君形名を召して、将軍として討たされた。
しかし、かえって蝦夷のために討たれ、逃げて砦に入った。
ついに敵のために囲まれた。
軍勢は逃亡してしまい、砦は空になり、将軍は成すすべを知らなかった。
ちょうど日が暮れ、垣を越えて逃げようとした。
このとき、形名君の妻が歎いて、
「忌々しいことだ。蝦夷のために殺されてしまうとは」
と夫に語って、
「あなたの先祖の方々は青海原を渡り、万里の道を踏み越えて、海の彼方に国を平定し、武勇を後世に伝えました。今、あなたの先祖の名を汚せば、後世の笑いものになるでしょう」
と言った。
酒を汲んで無理に夫に飲ませ、自ら夫の剣を佩き、十の弓を張って、数十人の女に弦を鳴らさせた。
こうして夫も起ち上り、武器を取って進撃した。
蝦夷は軍勢がなお多くいると思って、少し兵を後退させた。
そこで逃げ散らばっていた兵卒も再び集まり、また隊が整った。
蝦夷を討って大いにこれを破り、ことごとく捕虜とした。
十年秋七月十九日、大風が起こり、木を折り、家を壊した。
九月、長雨があり、桃や李の花が咲いた。
冬十月、有馬の湯に行幸された。
この年、百済、新羅、任那が朝貢した。
十一年春一月八日、天子の一行は有馬から帰られた。
十一日、新嘗の祀りを行なわれた。
有馬に行幸しておられ、新嘗を行なわれなかったようである。
十二日、天に雲が無いのに雷が鳴った。
二十二日、大風が吹き雨が降った。
二十五日、長い星が西北の空に見えた。
旻師が、
「彗星である。これが現れると凶作になる」
と言った。
秋七月、詔して、
「今年、大宫と大寺を造らせる」
と言われた。
百済川のほとりを宮の地とした。
西国の民は大宮(百済宮)を造り、東国の民は大寺(百済大寺)を造った。
また書直県をそのための大匠(建築技師長)とした。
秋九月、大唐の学問僧である恵隠、恵雲が新羅の送使に従って都に入った。
冬十一月一日、新羅の客に朝廷で饗応され、冠位の一級を与えられた。
十二月十四日、伊予の湯の宮(道後温泉)に行幸された。
この月、百済川のほとりに九重の塔を建てた。
十二年二月七日、星が月の中に入った(これは凶事とされる)。
夏四月十六日、天皇が伊予から帰られ、厩坂宫にお移りになった。
五月五日、盛大な斎会を催され、僧である恵隠を招いて無量寿経を説かせられた。
冬十月十一日、大唐の学問僧の清安、学生の高向漢人玄理が新羅を経由して帰国した。
百済と新羅の朝貢使がついて一緒にきた。
それぞれに爵(冠位)一級を賜わった。
この月、百済宫にお移りになった。
十三年冬十月九日、天皇は百済宮で崩御された。
十八日、宮の北に殯宮を設けた。
これを百済の大殯という。
この時、東宮の開別皇子(天智天皇)は十六歳で誄を読まれた。
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