古事記・現代語訳「下巻」清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇・武烈天皇・継体天皇・安閑天皇・宣化天皇・欽明天皇・敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇

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清寧天皇

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二人の皇子発見

雄略天皇の御子、白髪大倭根子命しらかのおおやまとねこ磐余いわれ甕栗宮みかくりのみやで天下を治めた。
この天皇には皇后がなく、また御子もなかった。

そこで、天皇の御名代みなしろとして白髪部しらかべを定めた。
天皇が亡くなられた後、天下を治めるべき王が現れなかった。

皇位を継ぐ王を尋ね求めたところ、市辺忍歯別いちのべのおしはわけ王の妹の忍海郎女おしぬみのいらつめ、またの名は飯豊いいとよ王が、葛城かずらき忍海おしぬみ高木たかぎ角刺宮つのさしのみやにいた。

山部連やまべのむらじである小楯おだて播磨国はりまのくにの長官に任命したとき、小楯おだては、その国の人民で名を志自牟しじむという者の新室完成祝いの酒宴に出席した。
ここで盛んに酒盛りをして、宴もたけなわになったころ、貴賤長幼の順に従って皆で舞を舞った。

火を焚く役の少年二人がかまどのそばにいたが、その少年たちにも舞わせた。
すると、そのうちの一人の少年が、
「兄さん、先に舞いなさい」
と言うと、その兄も、
「弟よ、先に舞え」
と言った。
こうして二人が譲り合っているとき、そこに集まっていた人々は、その譲り合う様子を見て笑った。
そしてとうとう兄が舞い終って、次に弟が舞おうとするとき、歌を詠んだ。

武人であるわが君が腰に带びている太刀の柄には、
赤い色を塗り付け、
緒には赤い布を取り付け、
天子の赤い旗を立てて敵の方を見やると、
敵の隠れている山の峰の竹を根本から刈り、
その先を地面に敷きなびかすように、
八絃琴やつおのことの調子を整えて演奏するように、
見事に天下をお治めになった
伊耶本和気いざほわけの天皇の御子、
市辺いちのべ押歯おしは王の、私は子孫です。

そこで小楯おだてむらじはこれを聞いて驚き、床から転げ落ち、そのむろにいる人たちを追い出すと、その二人の皇子を左右の膝の上にお据えして泣き悲しんだ。
そして、人民を集めて仮宮殿を作り、その仮宮殿に二人の皇子をお住まわせると、早馬による使者を大和やまとへ遣わした。

それで皇子たちの叔母である飯豊いいとよは、この知らせを聞いてお喜びになり、二人の皇子を葛城かずらき角刺宮つのさしのみやに上らせた。

袁祁命と志毘臣

袁祁をけ命が天下をお治めになろうとしていた頃、平群臣へぐりのおみの祖先で名を志毘しびおみという者が歌垣うたがきに加わり、袁祁をけが求婚しようとする少女の手を取った。
その少女は莬田首うだのおびとの娘で、名を大魚おうおといった。
そして袁祁をけ歌垣うたがきにお立ちになった。
ここで志毘しびが歌を詠んだ。

宮殿のあちらの軒の、
すみが傾いた。(一〇五)

こう歌って、この歌の下の句を求めたとき、袁祁をけはそれに付けて、

大工の棟梁とうりょうが、
下手だからこそ、
すみが傾いたのだ。(一〇六)

と歌った。
志毘しびはまた、

王子の心構えが、
緩んでいるので、
私のような臣下の者の、
幾重にも厳重にめぐらした柴垣の中に、
入って来られずにいるよ。(一〇七)

と歌った。
そこで王子はまた、

潮の流れる早瀬の、
波が幾重にも折重なって立っている所を見ると、
迷いこんで来た
しびのひれのところに、
妻が立っているのが見える。(一〇八)

と歌った。
それで志毘しびはいよいよ怒って、

王子の御殿の柴垣は、
たくさんの結び目を作って、
しっかり縛り固めてめぐらしてあるが、
やがて切れる柴垣だ。
焼ける柴垣だ。(一〇九)

と歌った。
しかし、王子はまたさらに歌った。

(大魚よし)しびもりで突く海人あまよ、
その鮪が遠ざかって行ったら、
さぞ恋しいことだろう、
しびを突く志毘しびの臣よ。(一一〇)

このように歌を詠み戦わして夜を明かし、それぞれその場から去った。

その翌朝、意祁おけ袁祁をけのお二人が相談して、
「朝廷に仕えるような人々は、朝は朝廷に参内し、昼は志毘しびの家に集っている。それに今朝は、志毘しびはきっと寝ているだろうし、また、その門前には人はいないだろう。だから今でなければ志毘しびを亡きものにすることは難しかろう」
と言って、ただちに軍勢を集めて志毘しびの家を取り囲み、またたく間に殺した。

こののち、二人の王子は互いに天下を譲り合った。
意祁おけは弟の袁祁をけに譲って、
播磨はりま志自牟しじむの家に住んでいたとき、もしあなたが名を明らかになさらなかったら、決して天下を治める君主にはなっていなかったことでしょう。これはまったくあなたの手柄です。だから、私は兄ではあるけれど、あなたが先に天下をお治めなさい」
と言って堅く譲った。
それで辞退することができず、袁祁をけが先に天下を治めた。

顕宗天皇

伊邪本和気いざほわけ命の御子である市辺忍歯いちのべのおしは王の皇子である袁祁をけ石巣別いわすわけ命が、近つ飛鳥宮ちかつあすかのみやで天下を治めはじめて八年した。
天皇は石木いわき王の娘である難波なにわ王を妻としたが、御子はなかった。

この天皇がその父である市辺いちのべの遺骸を探し求めたとき、近江国おうみのくにに住む卑しい老婆が参上して、
市辺いちのべ御遺骸ごいがいを埋めた場所は、私だけがよく存じております。また、その御歯によってそのことは確認できましょう。御歯は三枝のような八重歯でいらっしゃった」
と申し上げた。

そこで人民を動員して土を掘り、その御遺骸ごいがいを探した。
そうしてその遺骸を発見して、蚊屋野かやのの東の山に御陵を作って葬り、韓岱からぶくろの子たちにその御陵みはかを守らせた。
しかるのちに、その遺骸を持って大和やまとへ帰った。

近つ飛鳥宮ちかつあすかのみやにお帰りになってその老婆を呼び出し、遺骸のある所を見失わず正確に知っていたことを褒めて、置目おきめ老媼おみなという名を与えた。
そして宮殿の内に召し入れて、手厚く慈しまれた。
そこでその老婆の住む家を宮殿の近くに作り、每日定期的に呼び出した。
それにはぬりてを御殿の戸に懸けて、その老婆を呼びたい時は必ずそのぬりてを引き鳴らした。
そこで歌を詠んだ。

茅などがまばらに生えている原や谷を過ぎて、
遠くまで(百伝う)
ぬりてが鳴っているよ。
オキメが来るらしいな。(一一一)

ところで置目おきめ老媼おみな
「私はひどく歳とってしまいました。故郷に下がりたいと思います」
と申し上げた。
そして申し出たとおり退出するとき、天皇は老婆を見送って、

置目おきめよ。
近江の
置目おきめよ。
明日からは、山に隱れて見えなくなるのであろうかなあ。(一一二)

と歌った。

さて、以前に天皇が、父王の市辺いちのべが殺されるという災難にあって逃げたとき、その食糧を奪った猪飼いかいの老人を探した。
探し出して呼び出し、飛鳥川あすかがわの河原でその老人を斬って、その一族の者たちの膝の筋を皆断ち切った。
そういうわけで、その子孫が大和やまとに上る日には決まって自然にびっこを引くのである。
そして人々によくその老人のいた所を見せつけた。
以来、そこを志米須しめすという。

御陵の土

天皇は、その父王の市辺を殺した大長谷天皇おおはつせのすめらみことを深く恨んでおり、その霊に報復しようと思った。
そこでその大長谷天皇おおはつせのすめらみことの御陵を壊そうと考えて人を遣わしたとき、その同母兄の意祁おけが奏上して、
「この御陵を破壊するのに他人を遣わしてはいけません。もっぱら私自身が行って、天皇のお考えのように破壊して参りましょう」
と言った。

すると天皇は、
「それでは言葉どおりにお行きなさい」
と命じた。
こういうわけで意祁おけは自ら出かけて、その御陵みはかの傍らをすこし掘って皇居に帰り、復命して、
「もう掘り壊しました」
と報告した。
それで天皇は意祁おけが早く帰ったことを不思議に思われて、
「どんなふうに破壊なさったのですか」
と尋ねた。
意祁おけは答えて、
「その御陵の土を少し掘りました」
と申し上げた。

天皇は、
「父王の仇を討とうと思ったら、必ずその陵をすっかり破壊するはずであるのに、どうして少しだけ掘ったのですか」
と言った。
意祁おけは答えて、
「そのようにした理由は次のようなことです。父君の恨みをその霊に仕返ししようと思うのは、誠にもっともなことです。けれども、あの大長谷天皇おおはつせのすめらみことは、父の怨敵ではあるけれど、一方では私たちの従父であり、また、天下をお治めになった天皇です。ここで今、簡単に父の仇であるという考え方だけによって、天下をお治めになった天皇の御陵をすっかり破壊してしまったなら、後世の人が必ず非難するでしょう。ただ父君の仇だけは討たなければなりません。そこで、その陵のほとりを少し掘ったのです。もはやこのような辱めで、後世に私たちの報復の志を示すのには十分でしょう」
と申し上げた。
天皇は、
「これもたいへん道理にかなっています。お言葉のとおりで結構です」
と言った。

そして天皇が崩御なさると、すぐに意祁おけが皇位に就いた。
天皇の年齢は三十八歳。
天下をお治めになること八年であった。
御陵は片崗かたおか石坏崗いわつきのおかの上にある。

仁賢天皇

袁祁をけの兄である意祁おけは、石上いそのかみ広高宮ひろたかのみやで天下を治めた。

天皇が、大長谷若建天皇おおはつせわかたけすめらみことの御子の春日大郎女かすがのおおいらつめを妻として、お生みになった御子は、
高木郎女たかぎのいらつめ
次に財郎女たからのいらつめ
次に久須毘郎女くすびのいらつめ
次に手白髪郎女たしらかのいらつめ
次に小長谷若雀おはつせのわかさざき命、
次に真若まわか王である。

また、丸邇わに日爪ひつまの臣の娘である糠若子郎女ぬかのわくごのいらつめを妻として、お生みになった御子は春日山田郎女かすがのやまだのいらつめである。
この天皇の御子は、合わせて七柱である。

この中で、小長谷若雀おはつせのわかさざきが天下を治めた。

武烈天皇

小長谷若雀おはつせのわかさざき命は、長谷はせ列木宮なみきのみやで天下を治めること八年であった。
この天皇には皇太子がなかった。
それで御子代みこしろとして、小長谷部はつせべを定めた。

御陵は、片岡かたおか石坏岡いわつきのおかにある。
天皇が既に崩御になってからのち、皇位を受け継ぐべき皇子がいなかった。
それで品太天皇ほむだのすめらみことの五代目の子孫の袁本杼おほど命を近江国おうみのくにから上京させ、手白髪たしらか命と結婚させて、天下を授けた。

継体天皇

品太王ほむだのみこの五代目の子孫、袁本杼おほどは、磐余いわれ玉穂宮たまほのみやで天下を治めた。

天皇が、三尾君みおのきみらの祖先である若比売わかひめを妻としてお生みになった御子は、
大郎子おおいらつこ
次に出雲郎女いずものいらつめの二柱である。

尾張連おわりのむらじらの祖先であるおほしむらじの妹の目子郎女めのこのいらつめを妻としてお生みになった御子は、
広国押建金日ひろくにおしたけかなひ命、
次に建小広国押楯たけおひろくにおしたて命の二柱である。

意祁天皇おけのすめらみことの御子の手白髪たしらか命(この方は皇后である)を妻としてお生みになった御子は、天国押波流岐広庭あまくにおしはるきひろにわ命である。
また、息長真手おきながまて王の娘の麻組郎女おくみのいらつめを妻としてお生みになった御子は、佐佐宜郎女ささげのいらつめである。

坂田大俣さかたのおおまた王の娘の黒比売くろひめを妻としてお生みになった御子は、
神前郎女かむさきのいらつめ
次に田郎女たのいらつめ
次に白坂活日子郎女しらさかのいくひこのいらつめ
次に野郎女ののいらつめ、またの名は長目比売ながめひめの四柱である。

三尾君の加多夫かたぶの妹である倭比売やまとひめを妻としてお生みになった御子は、
大郎女おおいらつめ
次に丸高まろこ王、
次にみみ王、
次に赤比売郎女あかひめのいらつめの四柱である。

また、阿倍之波延比売あべのはえひめを妻としてお生みになった御子は、
若屋郎女わかやのいらつめ
次に都夫良郎女つぶらのいらつめ
次に阿豆あつ王の三柱である。
この天皇の御子たちは、合わせて十九柱の王である。
皇子七柱、皇女十二柱。

この中で、天国押波流岐広庭あまくにおしはるきひろにわが天下を治めた。

次に広国押建金日ひろくにおしたけかなひが天下を治めた。

次に建小広国押楯たけおひろくにおしたてが天下を治めた。

佐々宜ささげ斎王いつきのみことして伊勢神宮いせのじんぐうに仕えた。

この御世に、筑紫君石井つくしのきみのいわいは、天皇の命令に従わないで無礼なことが多かった。
そこで、物部荒甲大連もののべあらかいのおおむらじ大伴金村連おおとものかなむらのむらじの二人を派遣して、石井いわいを殺した。

天皇の年齢は四十三歳。
丁未ひのとのひつじの年の四月九日に崩御した。
御陵は、三島みしま藍陵あいのみささぎである。

安閑天皇

御子の広国押建金日ひろくにおしたけかなひ王は、勾の金箸宮まがりのかなはしのみやで天下を治めた。

この天皇は、御子がなかった。

乙卯きのとりうの年の三月十三日に崩御した。
御陵は、河内国かわちのくに古市ふるいち高屋村たかやのむらにある。

宣化天皇

弟の建小広国押楯たけおひろくにおしたて命は、檜前ひのくま廬入野宮いおりのみやで天下を治めた。

天皇が、意祁天皇おけのすめらみことの御子である橘之中比売たちばなのなかつひめ命を妻としてお生みになった御子は、
石比売いしひめ命、
次に小石比売おいしひめ命、
次に倉之若江くらのわかえ王である。

また川内之若子比売かわちのわくごひめを妻としてお生みになった御子は、
火穂ほのほ王、
次に恵波えは王である。

この天皇の御子たちは、合わせて五柱である。
皇子三柱、皇女ニ柱。

そして火穂ほのほは、志比陀君ししいだのきみの祖先である。
恵波えはは、韋那君いなのきみ多治比君たじひのきみの祖先である。

欽明天皇

弟の天国押波流岐広庭あまくにおしはるきひろにわ天皇のすめらみことは、磯城島しきしま大宮おおみやで天下を治めた。

天皇が、檜前ひのくまの天皇の御子である石比売いしひめ命を妻としてお生みになった御子は、
八田やた王、
次に沼名倉太玉敷ぬなくらふとたましき命、
次に笠縫かさぬい王の三柱である。

その妹の小石比売おいしひめ命を妻としてお生みになった御子は、かみ王である。

春日かすが日爪ひつまの臣の娘である糠子郎女ぬかごのいらつめを妻としてお生みになった御子は、
春日山田郎女かすがのやまだのいらつめ
次に麻呂古まろこ王、
次に宗賀之倉そがのくら王の三柱である。

蘇我そが稲目宿禰いなめのすくね大臣おおおみの娘である岐多斯比売きたしひめを妻としてお生みになった御子は、
橘之豊日たちばなのとよひ命、
次に妹の石坰いわくま王、
次に足取あとり王、
次に豊御気炊屋比売とよみけかしきやひめ命、
次にまた麻呂古まろこ王、
次に大宅おおやけ王、
次に伊美賀古いみがこ王、
次に山代やましろ王、
次に妹の大伴おおとも王、
次に桜井之玄さくらいのゆみはり王、
次に麻怒まの王、
次に橘本之若子たちばなのもとのわくご王、
次に泥杼ねど王の十三柱である。

また、岐多志毘売きたしびめ命の叔母である小兄比売おえひめを妻としてお生みになった御子は、
馬木うまき王、
次に葛城かずらき王、
次に間人穴太部はしひとのあなほべ王、
次に三枝部穴太部さきくさべのあなほべ王、またの名を須売伊呂杼すめいろど
次に長谷部若雀はつせべのわかさざき命の五柱である。
およそこの天皇の御子たちは、合わせて二十五柱である。

この中で、沼名倉太玉敷ぬなくらふとたましきが天下を治めた。

次に橘之豊日たちばなのとよひが天下を治めた。

次に豊御気炊屋比売とよみけかしきやひめが天下を治めた。

次に長谷部若雀はつせべのわかさざきが天下を治めた。

合わせて四柱が、天下を治めた。

敏達天皇

御子の沼名倉太玉敷ぬなくらふとたましきは、他田宮おさだのみやで天下を治めること十四年であった。

この天皇が、異母妹の豊御気炊屋比売とよみけかしきやひめを妻としてお生みになった御子は、
静貝しづかい王、またの名は貝蛸かいたこ王、
次に竹田たけだ王、またの名は小貝おかい王、
次に小治田おはりだ王、
次に葛城かづらき王、
次に宇毛理うけり王、
次に小張おはり王、
次に多米ため王、
次に、桜井玄さくらいのゆみはり王の八柱である。

伊勢大鹿首いせのおおかのおびとの娘である小熊子郎女おぐまこのいらつめを妻としてお生みになった御子は、
布斗比売ふとひめ命、
次にたから王、またの名は糠代比売ぬかでひめ王の二柱である。

息長真手おきながまて王の娘である比呂比売ひろひめ命を妻としてお生みになった御子は、
忍坂日子人太子おしさかひこひとのひつぎのみこ、またの名は麻呂古まろこ王、
次に坂騰さかのぼり王、
次に宇遅うじ王の三柱である。

春日かすが中若子なかつわくごの娘である老女子郎女おみなこのいらつめを妻としてお生みになった御子は、
難波なにわ王、
次に桑田くわた王、
次に春日かすが王、
次に大俣おおまた王の四柱である。

この天皇の御子たち合わせて十七柱の中で、日子ひこひと人が異母妹の田村たむら王、またの名は糠代比売ぬかでひめを妻としてお生みになった御子は、岡本宮おかもとのみやで天下を治めた天皇、
次に中津なかつ王、
次に多良たら王の三柱である。

あや王の妹である大俣おおまたを妻としてお生みになった御子は、
知奴ちぬ王、
次に妹の桑田くわた王の二柱である。

また異母妹のゆみはりを妻としてお生みになった御子は、
山代やましろ王、
次に笠縫かさぬいの二柱である。
合わせて七柱である。

甲辰きのえたつの年の四月六日に崩御した。
御陵は、河内国かわちのくに科長しながにある。

用明天皇

弟の橘豊日たちばなのとよひ王は、池辺宮いけのへのみやで天下を治めること三年であった。

この天皇が、稲目いなめの大臣の娘である意富芸多志比売おほぎたしひめを妻としてお生みになった御子は、多米ため王である。

異母妹の間人穴太部はしひとのあなほべ王を妻としてお生みになった御子は、
上宮之厩戸豊聡耳うえのみやのうまやとのとよとみみ命、
次に久米くめ王、
次に植栗えくり王、
次に茨田まむた王の四柱である。

また当麻倉首たぎまのくらのおびと比呂ひろの娘である飯女之子いいめのこを妻としてお生みになった御子は、
当麻たぎま王、
次に妹の須加志呂古郎女すかしろこのいらつめである。

この天皇は、丁未ひのとのひつじの年の四月十五日に崩御した。
御陵は、磐余いわれ掖上わきがみにあったものを、後に科長しなが中陵なかみささぎに移した。

崇峻天皇

弟の長谷部若雀天皇はつせべのわかさざきのすめらみことは、倉椅の柴垣宮くらはしのしばかきのみやで天下をお治めになること四年であった。

壬子みづのえねの年の十一月十三日に崩御した。
御陵は倉椅岡くらはしのおかのほとりにある。

推古天皇

妹の豊御食炊屋比売とよみけかしきやひめ命は、小治田宮おはりだのみやで天下を治めること三十七年であった。

戊子つちのえねの年の三月十五日、癸丑みづのとのうしの日に崩御した。
御陵は、大野岡おおののおかのほとりにあったのを、後に科長しなが大陵おおみささぎに移した。

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