日本書紀・日本語訳「第三十巻 持統天皇」

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持統天皇 高天原広野姫天皇

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皇后称制

高天原広野姫天皇たかまのはらひろのひめのすめらみことは、幼名を鸕野讃良皇女うののさららのひめみこといい、天智天皇の第二女である。
母を遠智娘おちのいらつめ(またの名は美濃津子娘みのつこのいらつめ)という。

天皇は落ち着きのある広い度量のお人柄であった。

斉明天皇さいめいてんのうの三年に、天武天皇てんむてんのうの妃となられた。
天子の御子ながら、まろやかな心でへり下り、礼を好まれて国母の徳をお持ちであった。

天智天皇てんちてんのうの元年に、草壁皇子尊くさかべのみこのみこと大津宮おおつのみや筑紫ちくし娜大津なのおおつ)で生まれた。

十年十月、沙門しゃもん(出家者)となられた天武天皇に従って、吉野に入り、近江朝おうみのみかどからの嫌疑を避けられた。
詳しくは天智天皇の巻にある。

天武天皇の元年夏六月、天皇に従ってわざわい東国あずまのくににて避けられた。
兵に命じて味方を集め、天皇と共にはかりごとを練られた。
死を恐れぬ勇者数万に命じて、各所の要害をかためた。

秋七月、美濃みのの将軍たちと、やまとの勇者らの連合は、大友皇子をちゅうして、首級しゅきゅうを持ち不破宮ふわのみやいたった。

二年、立って皇后となられた。
皇后は、終始天皇を助けて天下を安定させ、常に良き助言で、政治の面でも補弼の任を果たされた。

朱鳥あかみどり元年九月九日、天武天皇が崩御され、皇后は即位の式もあげられぬまま、政務を執られた。

大津皇子の変

冬十月二日、皇子大津みこおおつ謀叛むほんが発覚して、皇子を逮捕し、合わせて皇子大津みこおおつあざむかれた直広肆八ロ朝臣音橿じきこうしやくちのあそんおとかし小山下壱伎連博徳しょうせんげいきのむらじはかとこと、大舎人中臣朝臣臣麻おおとねりなかとみのあそんおみまろ呂、巨勢朝臣多益須こせのあそんたやす新羅しらぎの沙門行心こうじん帳内礪杵道作とねりのときのみちつくりら三十余人を捕らえた。

三日、皇子大津に訳語田おさだいえで死を賜わった。
時に、年二十四。

妃の山辺皇女やまべのひめみこは髪を乱し、裸足で走り出て殉死した。
見る者は皆すすり泣いた。

皇子大津みこおおつは天武天皇の第三子で、威儀備わり、言語明朗で天智天皇に愛されておられた。
成長されるに及び有能で才学に富み、とくに文筆を愛された。
この頃の詩賦しふの興隆は、皇子大津に始まったと言える。

二十九日、みことのりして、
皇子大津みこおおつ謀叛むほんを企てた。これにあざむかれた官吏かんり舎人とねりは止むを得なかった。今、皇子大津はすでに減んだ。従者で皇子に従った者は、みなゆるす。ただし礪杵道作ときのみちつくり伊豆いずに流せ」
と言われた。
またみことのりして、
「新羅の沙門である行心こうじんは、皇子大津の謀叛に与したが、罪するのに忍びないから、飛驛国ひだのくにの寺に移せ」
と言われた。

十一月十六日、伊勢神宮いせのじんぐう斎宮いつきのみやであった皇女大来おおくは、同母弟大津おおつの罪により、任を解かれ京師みやこに帰った。

十七日、地震があった。

十二月十九日、天武天皇のために、無遮大会かぎりなきおがみ国王が施主となり、僧俗貴賤上下の区別なく供養布施する法会)を、五つの寺(大官大寺だいかんだいじ飛鳥あすか川原かわら小墾田豊浦おはりだのとゆら坂田さかた)で行われた。

二十六日、みやこの身寄りのない者、老齢者などに、それぞれ布帛ぬのきぬを賜わった。

うるう十二月、筑紫大宰ちくしのおおみこともちが、高麗こま百済くだら新羅しらぎ百姓おおみたからの男女および僧尼、総計六十二人を奉った。

この年、蛇と犬とが相交んだのがあったが、しばらくして両方とも死んだ。

殯宮・国忌

元年春一月一日、皇太子(草壁皇子くさかべのみこ)は公卿くぎょう百寮もものつかさの人らを率いて殯宮もがりのみやにお参りになり、慟哭された。
納言布勢朝臣御主人ふせのあそんみぬししのびごとを行ない、礼に適ったものであった。
それに続いて衆庶の人が発哀みねした。
次に僧らが発哀みねした。
奉膳紀朝臣真人うちのかしわでのかみきのあそんまひとらが供物を奉った。
それについで膳部かしわで采女うねめらが発哀みねした。
雅楽寮ががくのつかさの楽官が雅楽ががくを奏した。

五日、皇太子は公卿くぎょう百官ひゃっかんを率い、殯宮もがりのみやに詣でて慟哭された。
僧たちも従って発哀みねした。

十五日、京の、年八十以上の者と病が重くて貧しく自活できぬ者に、ふとぎぬ、綿をそれぞれに賜わった。

十九日、直広肆田中朝臣法麻呂じきそしたなかのあそんのりまろ追大貳守君莉田ついだいにもりのきみかりたらを新羅しらぎに遣わし、天皇の喪を告げさせた。

三月十五日、自ら日本に帰化してきた高麗人こまびと五十六人を、常陸国ひたちのくにに居らせ、土地と食糧を賜わり、生活が出来るようにされた。

二十日、花縵はなかずら殯宮もがりのみやに奉った。
これを御蔭みかげという。
この日、丹比真人麻呂たじひのまひとまろが礼式に従ってしのびごとをした。

二十二日、自ら帰化してきた新羅人しらぎびと十四人を、下毛野国しもつけののくにはべらせ、土地と食糧を賜い生活が出来るようにされた。

夏四月十日、筑紫大宰ちくしのおおみこともちが、自ら帰化してきた新羅しらぎの僧尼と百姓おおみたからの男女二十二人を奉った。
武蔵国むさしのくにはべらせて土地食糧を給され、生活できるようにされた。

五月二十二日、皇太子は、公卿くぎょう百官ひゃっかんを率いて、殯宮もがりのみやに詣でて慟哭された。
隼人はやと大隅おおすみ阿多あた首魁しゅかいが、それぞれの仲間を率いて、互に進んで誄をした。

六月二十八日、罪人を赦免しゃめんされた。

秋七月二日、みことのりして、
「およそ負債をもつ者に関して、天武十四年以前のものについては、利息を取ってはならぬ。もしすでに労働で償っている者には、利息分まで労働させてはならぬ」
と言われた。

九日、隼人はやと大隅おおすみ阿多あと首魁しゅかいら三百三十七人に、物を賜わった。

八月五日、殯宮もがりのみやなおらい新穀をお供えする)をした。
これを御青飯あおきおものという。

六日、みやこの老年男女が皆望んで、橋の西で慟哭した。

二十八日、天皇は直大肆藤原朝臣大嶋じきだいしふじわらのあそんおおしま直大肆黄書連大伴じきだいしきふみむらじおおともに命じ、三百人の高僧たちを飛鳥寺あすかでらに招き、各人に袈裟けさを一揃いずつ施された。
「これは天武天皇の御服で縫い作ったものである」
と言われた。
みことのりの言葉は悲しく心を破り、詳しく述べるに堪えなかった。

九月九日、国忌はておがみ先皇の崩日で廃務して斎会さいえする)を京の諸寺で行なった。

十日、殯宫もがりのみや斎会さいえを催した。

二十三日、新羅しらぎは王子である金霜林こんそうりん級サン金薩慕きゅうさんこんさちも(サンは二水に食)と級サン金仁きゅうさんこんにんじゅつ述、大舎蘇陽信だいさそようしんらを遣わして、国政を報告し、調を奉った。
学問僧智隆ちりゅうがつき従って帰国した。
筑紫大宰ちくしのおおみこともちが、天皇の崩御を霜林そうりんらに告げた。
同日、霜林そうりんらはみな喪服をきて、東に向かって三拝し三度発哀みねした。

冬十月二十二日、皇太子は公卿くぎょう百官ひゃっかんと、諸国の国司くにのつかさ国造くにのみやつこおよび百姓おおみたから男女を率いて、大内陵おおちのみささぎ(天武天皇陵)の築造に着手した。

十二月十日、直広参路真人迹見じきこうさんみちのまひととみを、新羅しらぎの人を饗する勅使ちょくしとした。
この年、太歳丁亥たいさいひのとい

二年春一月一日、皇太子は公卿くぎょう百官ひゃっかんたちを率いて、殯宮もがりのみやに詣でて慟哭した。

二日、衆僧が殯宮もがりのみや発哀みねした。

八日、無遮大会かぎりなきおがみを薬師寺で行なった。

二十三日、天皇崩御のことを新羅の霜林そうりんらに伝えると、金霜林こんそうりんらは三度発哀みねした。

二月二日、大宰おおみこともち新羅しらぎの調の、金、銀、かとり、布、皮、銅、鉄など十余種と、別に奉った仏像、種々の彩絹しみのもの彩色の絹)、鳥、馬など十余種、および霜林そうりんが金、銀、彩色しみのもの丹などの高価な塗料)、種々の珍しい物など八十余種を奉った。

十日、霜林らに筑紫館ちくしのむろつみで饗を賜わり、それぞれに賜物があった。

十六日、みことのりして、
「今後、国忌はての日には必ず斎会さいえをせよ」
と言われた。

二十九日、霜林そうりんらは帰途についた。

三月二十一日、花縵はなかずら殯宮もがりのみやに奉った。
藤原朝臣大嶋ふじわらのあそんおおしましのびごとを奉った。

五月八日、百済くだら敬須徳那利きょうすとくなり甲斐国かいのくにに移した。

六月十一日、詔して、
「天下に令して、死刑囚は罪一等を減じ、軽囚はみな赦免せよ。全国の今年の調賦みつきを半減せよ」
と言われた。

秋七月十一日、大いに雨乞いをした。
旱天かんてんであったからである。

二十日、百済くだら沙門道蔵ほうしどうぞうに命じて雨乞いをさせると、午前を終わらぬうちに国中に雨が降った。

八月十日、殯宮もがりのみやで嘗をして慟哭した。
大伴宿禰安麻呂おおとものすくねやすまろが誄した。

十一日、浄大肆伊勢王じょうだいしいおせのおおきみに命じて、葬儀のことを(十一日に山陵へ葬送することを)申しつけられた。

二十五日、耽羅たんら佐平加羅さへいからを遣わして、方物くにつものを奉った。

九月二十三日、耽羅の佐平加羅らに筑紫館ちくしのむろつみで饗を賜わり、それぞれに賜物があった。

天武天皇の葬送

冬十一月四日、皇太子は公卿くぎょう百官ひゃっかん諸蕃となりのくにぐにの客を率いて、殯宮もがりのみやに詣でて慟哭した。
供物を奉って楯節儛たたふしのまい鎧を着て刀や楯を持って舞う舞)を奏した。
諸臣はそれぞれ自分たちの先祖がお仕えしたさまを述べ、互に進んでしのびごとをした。

五日、蝦夷えみし百九十余人が、調を背にしてしのびごとをした。

十一日、布勢朝臣御主人ふせのあそんみうし大伴宿禰御行おおとものすくねみゆきは、互に進み出て誄をした。
直広肆当摩真人智徳じきこうしたぎまのまひとちとこは、帝皇の日継ひつぎの次第を誄にして奉り、礼式のように行なった。
これは古くは日嗣といったものである。
これを終わって大内陵おおちのみささぎに葬り祀った。

十二月十二日、蝦夷えみしの男女二百十三人に、飛鳥寺あすかでらの西のつきの下で、饗を賜わった。
冠位を授けてそれぞれに物を賜わった。

三年春一月一日、天皇は諸国の代表を正殿(大極殿)に集め、元旦の朝拝を行なわれた(喪のため過去二年廃朝になっていた)。

二日、大学察が卯の日に悪鬼を払う杖八十本を奉った(中国の風習を採用したもの)。

三日、務大肆陸奧国置賜郡むのだいしみちのくのくにうきたまのこおり栅造きのみやつこ蝦夷えみし脂利古しりこの子である、麻呂まろ鉄折かなおりが、髭や髪を剃って沙門ほうしになりたいと願い出た(僧尼は課役の免除がある)。
みことのりして、
麻呂まろらは年若いが、優雅で物欲も少なく、菜食をして戒律を守るようになった。所望通りに出家修道するがよい」
と言われた。

七日、公卿くぎょうに七日の節会せちえの宴を賜わり、袍袴きぬを賜わった。

八日、新羅しらぎへ遣わされた田中朝臣法麻呂たなかのあそんのりまろらが帰国した。

九日、出雲国司いずものくにのみこともちみことのりして、暴風に遭遇した近隣の国の人を、都に送らせた。
この日、こし蝦夷えみしの僧道信どうしんに、仏像一軀、灌頂幡かんじょうのはた、鐘、鉢を各々一個、五色のしみのきぬ各五尺、綿五屯、布十端、くわ十枚、くら一具を賜わった。
筑紫大宰ちくしのおおみこともちである粟田真人朝臣あわたのまひとのあそんらが、隼人はやと百七十四人と布五十常(一常は一丈三尺)、牛皮六枚、鹿皮五十枚を奉った。

十五日、文武官が恒例の宮廷用の薪を奉った。

十六日、百官の人たちに食事を賜わった。

十八日、天皇は吉野宮よしののみやへお出でになり、二十一日、吉野から帰られた。

二月十三日、みことのりして、
筑紫ちくし防人さきもりは、年限(三年)になったら交代させよ」
と言われた。

二十六日、浄広肆竹田王じょうおうしたけだのおおきみ直広肆土師宿禰根麻呂じきこうしはじのすくねねまろ大宅朝臣麻呂おおやけのあそんまろ藤原朝臣史ふじわらのあそんふびと務大肆当摩真人桜井むのだいしたぎまのまひとさくらいと、穂積朝臣山守ほづみのあそんやまもり中臣朝臣臣麻呂なかとみのあそんおみまろ巨勢朝臣多益須こせのあそんたやす大三輪朝臣安麻呂おおみわのあそんやすまろを判事(刑部省の判事)とした。

三月二十四日、全国に大赦令を出した。
ただし、規定により赦免の対象にならない者は除かれた。

草壁皇子の死

夏四月八日、自ら帰化してきた新羅しらぎの人を、下毛野しもつけのに住まわせた。

十三日、皇太子草壁皇子尊くさかべのみこのみこと薨去こうきょされた。

二十日、新羅が級サン金道那きゅうさんこんどうならを遣わして、天武天皇の喪を弔い奉った。
同時に学問僧の明聡みょうそう観智かんちらを送り届けてきた。
別に金銅阿弥陀像あかかねのあみだのみかた金銅観世音菩薩像あかかねのかんぜおんぼさつぞう大勢至菩薩像だいせいしぼさつぞうを各ー軀、綵帛しみのきぬ、錦、かとりを奉った。

二十二日、春日王かすがのおおきみ薨去こうきょされた。

二十七日、みことのりして、諸司の仕丁つかえのよぼろ労役に従う者)に、一月に四日の休暇を与えることとされた。

五月二十二日、土師宿禰根麻呂はじのすくねねまろに命じて、新羅しらぎの弔使でる級サン金道那きゅうさんこんどうならにみことのりして、
「先に太政官のけいらがみことのりをうけて告げたが、二年に田中朝臣法麻呂たなかのあそんのりまろらを遣わし、大行天皇さきのすめらみこと(天武天皇)の喪を告げさせたとき、新羅しらぎが申したのは、『新羅が勅を承る人は、元来、蘇判そうかん新羅の官位十七階の第三)の位のものとしており、今もそのようにしたいと思います』と言った。それで法麻呂のりまろらは、知らせるみことのりを渡せなかった。もし前例のことを言うなら、昔、孝徳天皇こうとくてんのう崩御の際、巨勢稲持こせのいなもちらを遣わして喪を告げたとき、翳サン金春秋えいさんこんしゅんじゅう新羅の官位十七階の第二の人。後の武烈王)が勅を承った。それを蘇判そうかんの者が勅を承るというと、前のことと違っている。また天智天皇崩御のとき、一吉サン金薩儒いつきつさんこんさちぬ十七階の第七の人)らを遣わして、弔い祀らせた。今、級サンきゅうさんを弔使としたのは、以前のことに違っている。また新羅は元から言っていたのは、『我が国は日本の遠い皇祖の代から、何艘もの舟を連ねて、かじを干すことなくお仕えする国です』と言った。しかし、今回は一艘だけで、また古い法と違っている。また、『日本の遠い先祖の時代から、清く明らかな心でお仕えしました』と申したが、忠誠心を尽くして、職務を立派に果たすことを考えようとしない。しかも清く明らかな心を傷つけ、偽りの心でへつらっている。それゆえ、このたびの調と献上物は、共に封印をして返還する。しかし、我が国が遠い先祖の御代から、広くお前たちを慈しまれた徳も絶やしてはならぬ。いよいよ慎み畏んで、その職務に励み、古来の定めを守る者には、みかどは広く慈しみを賜わるであろう。道那どうなたちはこの勅をよく承って、お前たちの王に伝えるがよい」
と言われた。

浄御原令の施行

六月一日、筑紫大宰ちくしのおおみこともちらに衣裳を賜わった。

二日、皇子の施基しき直広肆佐味朝臣宿禰麻呂しきこうしさみのあそんすくねまろ羽田朝臣斉はたのあそんむごえ勤広肆伊余部連馬飼ごんこうしいよべのむらじうまかい調忌寸老人つきのいみおきな務大参大伴宿禰手拍むだいさんおおとものすくねて巨勢朝臣多益須こせのあそんたやすらに、撰善言司よきことえらぶつかさ善い説話などを選び集める役)を命じられた。

十九日、大唐の続守言しょくしゅげん薩弘格さつこうかくらにそれぞれ稲を賜わった。

二十日、筑紫大宰ちくしのおおみこともち粟田真人朝臣あわたのまひとのあそんらにみことのりして、学問僧の明聡みょうそう観智かんちらが、新羅の師や友人に送るための綿、それぞれ百四十斤を賜わった。

二十四日、筑紫ちくし小郡おごおり迎賓館)で、新羅しらぎの弔使、金道那こんどうならに饗を賜わり、それぞれ物を賜わった。

二十九日、中央の諸官司にのりふみ一部二十二巻(飛鳥浄御原令)を、分け下し賜わった。

秋七月一日、陸奥みちのく蝦夷えみし自得じとくが願い出ていた、金銅薬師仏像、観世音菩薩像各ー軀、鐘、沙羅さら読経の際打ち鳴らす仏具)、宝帳ほうちょう香爐こうろはたなどを授けられた。
この日、新羅のしらぎ弔使、金道那こんどうならが帰途についた。

十五日、左右京職と諸国の国司に詔して、射弓所を築かせた。

二十日、偽の兵衛とねりであった、河内国渋川郡かわちのくにしぶかわのこおりの人である、柏原広山かしわはらのひろやま土佐国とさのくにに流した。
偽の兵衛広山とねりひろやまを捉えた兵衛生部連虎とねりみぶべのむらじとらに、追広参ついこうさんを授けた。

二十三日、こし蝦夷えみしである八釣魚やつりならに物を賜わった。

秋八月二日、百官ひゃっかんが神祇官に集合し、天神地祇てんじんちぎのことについて、意見を述べ、話し合った。

四日、天皇は吉野宮よしののみやにお出でになった。

十六日、摂津国せっつのくに武庫海むこのうみ一千歩(一歩は五尺)の内海、紀伊国有田郡きいのくにありたのこおり名耆野なきの二万代(四十町歩)、伊勢国伊賀郡いせのくにいがのこおり身野むの二万代に禁狐区を設け、守護人をおいて、河内国大鳥郡かわちのくにおおとりのこおり高師海たかしのうみに準ずるものとした。

十七日、公卿くぎょうにそれぞれ物を賜わった。

二十一日、伊予総領いよのすべおさ田中朝臣法麻呂たなかのあそんのりまろみことのりして、
讃岐国三木郡さぬきのくにみきのこおりでとらえた白燕しろつばくらめは放し飼いにせよ」
と言われた。

二十三日、射術の訓練を見られた。

うるう八月十日、諸国の国司くにのつかさみことのりして、
「今年の冬に戸籍を造り、九月を期限として、浮浪者を取りしまるように。兵士は国ごとに壮丁の四分の一を指定し、武事を習わせよ」
と言われた。

二十七日、浄広肆河内王じょうこうしかわちのおおきみ筑紫大宰帥ちくしのおおみこともちとした。
武器を授けられ物を賜わった。
直広壱じきこうし直広貳丹比真人嶋じきこうにたじひのまひとしまに授け、食封へひと百戸を前からの分に加えた。

九月十日、直広参石上朝臣麻呂じきこうさんいそのかみのあそんまろ直広肆石川朝臣虫名じきこうしいしかわのあそんむしならを筑紫に遣わし、位記くらいのふみ冠の代りに授与されることになったもの)を給付され、新しくできた城を監視させた。

冬十月十一日、天皇は高安城たかやすのきにお出でになった。

二十二日、直広肆下毛野朝臣子麻呂じきこうししもつけののあそんこまろは、奴婢ぬひ六百人を放免したいと奏上し、その通り許可された。

十一月八日、京市の中で追広贰高田首石成ついこうにたかたのおびといわなりが、三兵みつのつわもの(弓、剣、槍などの武術)の修練に励んでいるのを褒めて、物を賜わった。

十二月八日、双六すごろくを禁止された。

持統天皇の即位

四年春一月一日、物部麻呂朝臣もののべのまろのあそん大楯おおたてを立て、神祇伯中臣大嶋朝臣かんづかさのかみなかとみのおおしまのあそん天つ神あまつかみ寿詞よごとを読みあげた。
終わって忌部宿禰色夫知いんべのすくねしこぶち神璽しんじの剣と鏡を皇后に奉り、皇后は皇位に即かれた。
公卿百官くぎょうひゃっかんは整列して、一斉に拝礼し拍手を行なった。

二日、公卿百官くぎょうひゃっかんは元日の賀正礼の如く拝朝した。
丹比嶋真人たじひのしまのまひと布勢御主人朝臣ふせのみぬしのあそんとが、即位の寿詞よごとを奏上した。

三日、内裏で公卿くぎょうに宴を賜わり、衣裳を下賜された。

十五日、百官ひゃっかんは薪を奉った。

十七日、全国に大赦おおはらえを行なわれた。
ただし規定で赦免の対象にならぬものは含まれなかった。
有位者に爵位一級を進められた。
鰥寡かんか老いて妻や夫のない者)、孤独、篤癃あつえひと重病の者)、貧しく生計の立ちにくい者に、稲を賜わって調や役を免除された。

二十日、解部ときべ訴訟の窮問を掌る)百人を刑部省おさかべのつかさに増員された。

二十三日、幣帛みてぐら畿内うちつくにの神々に捧げ、封戸と神田を増やされた。

二月五日、天皇は腋上池わきのかみのいけつつみにお出ましになり、公卿大夫まえつきみの馬を観閲された。

十一日、新羅の沙門である詮吉せんきち級サン北助知きゅうさんほくじょちら五十人が帰化した。

十七日、天皇は吉野宮よしののみやにお出でになった。

十九日、内裏で斎会さいえが行なわれた。

二十五日、帰化した新羅の韓奈末許満かんなまこまら十二人を、武蔵国むさしのくにに住まわせられた。

三月二十日、みやこ畿内うちつくにの年八十以上の者に、嶋宮しまのみや(故草壁皇子くさかべのみこの宮)の稲を一人二十束ずつ賜わった。
有位者には布二端をつけ加えられた。

朝服、礼儀の制

夏四月三日、使者を遣わして広瀬大忌神ひろせのおおいみのかみ竜田風神たつたのかぜのかみとを祭らせた。

七日、みやこ畿内うちつくに耆老おきな耆女おみな六十六歳以上の男女)五千三十一人に、それぞれ稲二十束ずつを賜わった。

十四日、みことのりして、
「冠位を進める年限は、百官ひゃっかん畿内うちつくにの人で、有位者は六年、無位者は七年とする。考課はその出勤の日数を以て、九等に分けよ。一定年限間の平均が、四等以上であれば、考仕令こうしりょう官人の考課に関する規定を集めたもの)によって、その善最よさいさおしき善は勤務態度のこと。最は職掌の適否)、功能いたわりしわざ功は功績。能は才能のこと)、氏姓の大小(姓の高下)などではかり、冠位を授ける。朝服については、浄大壱じょうだいいち以下、広貳こうに以上は黒紫。浄大参じょうだいさん以下、広貳こうに以上は赤紫。しょうの八級は赤紫。じきの八級は緋。ごんの八級は深緑。の八級は浅緑。ついの八級は深縹こきはなだ紺色)。しんの八級は浅縹あさはなだ薄い紺色)。別に浄広貳じょうこうに以上は、一幅に一箇の大きな文様の綾羅あやうすはたなど、種々に用いることを許す。浄大参じょうだいさん以下直広肆じきこうし以上は、一幅に二箇の大きな文様の綾羅あやうすはたなどを、種々に用いることを許す。かむはたの帯(組紐の帯)、白い袴は身分の上下を問わず使用してよい。その他は従来通りとする」
と言われた。

二十二日、方々で雨乞いをした。
ひでりが続いたからである。

五月三日、天皇は吉野宮よしののみやへお出でになった。

十日、百済くだらの男女二十一人が帰化した。

十五日、内裏ではじめて安居あんごの講説が始められた。

六月六日、天皇は泊瀬はつせにお出でになった。

二十五日、有位者のすべてを召されて、その位の序列と年齢を読みあげ知らせた。

秋七月一日、公卿百官くぎょうひゃっかんたちは、初めて新しい朝服を着用した。

三日、幣帛みてぐらを神々に奉った。

五日、皇子高市たけち太政大臣だじょうだいじんとした。
正広参せいこうさん丹比嶋真人たじひのしまのまひとに授け右大臣みぎのおおいもうちぎみとした。
同時に八省百寮はっしょうひゃっかんも皆遷任された。

六日、大宰おおみこともち国司くにのつかさも皆遷任された。

七日、みことのりして、
公卿百官くぎょうひゃっかん、すべて有位の者は、今後、家の内で朝服を着て、まだ門を開けない前に参上せよ」
と言われた。
以前は宮門に入ってから朝服を着たらしい。

九日、みことのりして、
「およそ朝堂で座についているとき、親王を見た場合は従来通り、大臣と王とには、堂前に起立。二王(天皇から二等以内の皇親)以上の人を見た場合は、座から降りて跪いて控えよ」
と言われた。

十四日、詔して、
「朝堂で座についている時、大臣を見た時には、座を動いて跪くように」
と言われた。
この日、糸、綿、布を、七力寺の安居あんごの僧、三千三百六十三人に下賜された。
別に皇太子(故草壁)のために、三つの寺の安居あんごの僧三百二十九人にも下賜された。

十八日、使者を遣わして、広瀬大忌神ひろせのおおいみのかみ竜田風神たつたのかぜのかみとを祭らせた。

八月四日、天皇は吉野宫よしののみやにお出でになった。

十一日、帰化した新羅人しらぎびとらを、下毛野国しもつけののくにに住まわせた。

九月一日、諸国の国司くにのつかさみことのりして、
「戸籍を造るには戸令こりょう(浄御原令の篇目の一つ)によって行え」
と言われた。

十一日、詔して、
紀伊国きいのくにを巡行しようと思うから、今年の京師みやこの田租、ロ賦(人頭税)は徴収をやめよ」
と言われた。

十三日、天皇は紀伊きいにお出でになった。

捕虜の博麻が帰還

ニ十三日、大唐に学んだ学問僧の智宗ちそう義徳ぎとく浄願じょうがんは兵士の筑紫国上妻郡つくしのくにかみつやめのこおり(八女郡)の大伴部博麻おおともべのはかまが、新羅の送使である大奈末金高訓だいなまこんこうくんらに従って、筑紫に帰国した。

二十四日、天皇は紀伊からお帰りになった。

冬十月五日、天皇は吉野宮よしののみやにお出でになった。

十日、大唐の学問僧である智宗ちそうらが京師みやこについた。

十五日、使者を遣わして、筑紫大宰河内王ちくしのおおみこともちかわちのおおきみらにみことのりして、
「新羅の送使である大奈末金高訓だいなまこんこうくんらの饗応きょうおうは、学生の土師宿禰甥はじのすくねのおいらを送ってきた送使のあえに準ぜよ。その慰労と賜物は、詔書ちょくしょに示されたことに従え」
と言われた。

二十二日、兵士、筑後国上陽咩郡ちくごのくにかみつやめのこおり(上妻郡)の人である大伴部博麻おおともべのはかまみことのりして、
斉明天皇さいめいてんのうの七年、百済くだら救援の役で、おまえは唐の捕虜とされた。天智天皇てんちてんのうの三年になって、土師連富抒はじのむらじほど氷連老ひのむらじおきな筑紫君薩夜麻つくしのきみさちやま弓削連元宝ゆげのむらじがんぽうの子の四人が、唐人の計画をみかどに奏上しようと思ったが、衣食も無いために京師みやこまで行けないことを憂えた。そのとき、博麻はかま土師富抒はじのむらじほどらに語って、『私は皆と一緒にみかどのもとに行きたいが、衣食もない身で叶わないので、どうか私を奴隷に売り、その金を衣食にあててくれ』と言った。富抒ほどらは博麻はかまの計に従って、日本へ帰ることができた。おまえは一人他国に三十年も留まった。私は、おまえが朝廷を尊び国を思い、己を売ってまで、忠誠を示したことを喜ぶ。それゆえ、務大肆むだいしの位に合わせて、ふとぎぬ五匹、綿十屯、布三十端、稲千束、水田四町を与える。その水田は曽孫まで引き継げ。課役は三代まで免じて、その功を顕彰する」
と言われた。

二十九日、高市皇子たけちのみこは藤原の宮地を視察され、公卿百官くぎょうひゃっかんがお供した。

十ー月七日、送使金高顧こんこうこらにそれぞれ物を賜わった。

十ー日、ちょくを承ってはじめて元嘉暦げんかのこよみ宋の元嘉年間にできたこよみ)と儀鳳暦ぎほうのこよみ唐の暦で儀鳳年間に伝わったもの)を使用した。

十二月三日、送使金高訓こんこうくんらが帰途についた。

十二日、天皇は吉野宮よしののみやにお出でになった。

十四日、吉野宮よりお帰りになった。

十九日、天皇は藤原宮ふじわらのみやにお出でになり、宮地みやのところをご覧になった。
公卿百官くぎょうひゃっかんがお供した。

二十三日、公卿くぎょう以下にそれぞれ物を賜わった。

食封の加増

五年春一月一日、親王、諸臣、内親王、女王、内命婦らに位を賜わった(六年目に当るためか)。

七日、公卿に飲食、衣裳を賜わった。
正広肆百済王余禅広しょうこうしくだらのこきしょぜんこう直大肆遠宝じきだいしえんほうと、良虞りょうぐ南典なんてん(2名とも禅広の子)ににぎおえ(賑わしくする物)をそれぞれに賜わった。

十三日、位階に応じた食封へひとを加増された。
皇子高市に二千戸、前からの分と合わせて三千戸。
浄広貳皇子穂積じょうこうにみこのほづみに五百戸。
浄大参皇子川嶋じょうだいさんみこのかわしまに百戸、前からのものとで五百戸。
正広参右大臣丹比嶋真人しょうこうさんみぎのおおいもうちぎみたじひのしまのまひとに三百戸、前からのものとで五百戸。
正広肆百済王禅広しょうこうしくだらのこきしょぜんこうに百戸、前からのものとで二百戸。
直大壱布勢御主人朝臣じきだいいちふせのみぬしのあそん大伴御行宿禰おおとものみゆきのすくねに八十戸、前からのものとで三百戸。
その他にも、それぞれに加増があった。

十四日、詔して、
直広肆筑紫史益じきこうしつくしのふびとまさるは、筑紫大宰府ちくしのおおみこともちふびとに任ぜられてから、今に至る二十九年間、清白き忠誠心をもって、たゆまず仕えた。ゆえに食封へひと五十戸、ふとぎぬ十五匹、綿二十五屯、布五十端、稲五千束を与える」
と言われた。

十六日、天皇は吉野宮よしののみやへお出でになり、二十三日、吉野よりお帰りになった。

二月一日、天皇は公卿くぎょうらにみことのりして、
けいたちよ、天武天皇の御世に、仏殿、経蔵をつくり、毎月六回の斎日いみびを行じた。天皇はその時々に、大舍人おおとねりを遣わして問わされた。我が世にもこのようにしたいと思う。それゆえ、心慎み仏法を崇めるよう」
と言われた。
この日、宮人みやびとに位記(冠位授与の辞令)を授けられた。

三月三日、公卿くぎょう西庁にしのまつりごとどので宴を賜わった。

五日、天皇は公私の馬を御苑で観閲された。

二十二日、みことのりして、
「もし百姓おおみたからの弟が、兄のために売られることがあれば、良人に入れよ。もし子どもが父母のために売られたら、賤民せんみんに入れよ。借金のために賤民にされた者は良人に入れよ。その子が奴婢ぬひとつれ合って生んだ子も良人に入れよ」
と言われた。

夏四月一日、みことのりして、
「もし氏の先祖の時に、奴婢ぬひを免ぜられ、戸籍上除かれている者を、後の眷族やからがまた訴えて、我が奴婢であると主張することは許されない」
と言われた。

大学博士の上村主百済うえのすぐりくだら大税おおちから(田租)千束を賜わった。
その学績を褒められたからである。

十一日、使者を遣わして、広瀬大忌神ひろせのおおいみのかみ竜田風神たつたのかぜのかみとを祭った。

十六日、天皇は吉野宮よしののみやにお出でになり、二十二日、お帰りになった。

五月二十一日、百済淳武微子くだらのじゅんむみしに、壬申じんしんの年の功を褒めて、直大参じきだいさんを贈られ、ふとぎぬと布を賜わった。

六月、京師みやこと諸国の四十ヵ所に水害があった。

五月十八日、詔して、
「この頃の陰雨ながあめは季節に外れている。恐らく農作を損なうであろう。朝から晚まで憂え恐れている。政治に何かの過ちがあるのではないかと思う。公卿くぎょう百官ひゃっかんも酒肉を禁じ、心を修め過ちを悔いよ。みやこ畿内うちつくにの諸寺の僧らは、五日間誦経せよ。どうか効果のあるようにと願う」
と言われた。

四月から雨が降り、この六月まで続いていたのである。

二十日、全国に大赦おおはらえをした。
ただし、盗賊はこの赦例に入らなかった。

秋七月三日、天皇は吉野宮よしののみやにお出でになった。
この日、伊予国司田中朝臣法麻呂いよのくにのみこともちたなかのあそんのりまろらが、宇和郡うわのこおり三間山みまやま白銀しろがね三斤八両(約2.1kg)、あらがね(字は金偏に丱。掘り出したままの金属)一かごを奉った。

七日、公卿に宴を賜わり、朝服を給された。

十二日、天皇は吉野よしのから帰られた。

十五日、使者を遣わして、広瀬大忌神ひろせのおおいみのかみ竜田風神たつたのかぜのかみとを祭らせた。

八月十三日、十八の氏(大三輪おおみわ雀部さざきべ石上いそのかみ、藤原、石川、巨勢こせ膳部こせ春日かすが上毛野かみつけの大伴おおとも紀伊きい平群へぐり羽田はた、阿倍、佐伯さえき采女うねめ穂積ほずみ阿曇あずみ)にみことのりして、その先祖の墓記を上進させた。

二十三日、使者を遣わして、竜田風神たつたのかぜのかみ信濃しなの諏訪すわ(諏訪大社)、水内社みぬちなどの神を祭らせた。

九月四日、音博士こえのはかせ中国北方の標準音を教える人)大唐の続守言しょくしゅげん薩弘格さつこうかく書博士百済末士善信てかきのはかせくだらばつしぜんしんに、銀二十両(銀一両は米一石)をそれぞれに賜わった。

九日、浄大参皇子川嶋じょうだいさんみこのかわしまこうじた。

二十三日、直大貳じきだいにの位を、佐伯宿禰大目さえきのすくねおおめに贈られ、合わせて賻物はぶりもの喪主に贈って助けとするもの)を賜わった。

藤原宮造営

冬十月一日、日蝕にっしょくがあった。

十月八日、みことのりして、
「先皇の陵戸みささぎのへ山陵の守衛をする賤民)は五戸以上とせよ。これ以外の王らの有功者には、三戸とする。もし陵戸が足りなかったら、百姓おおみたからをあてよ。その者の徭役ようえきは免除せよ。三年に一度入れ替えよ」
と言われた。

十三日、畿内うちつくにと諸国に長生地(殺生禁断の所)として各千歩(一歩は約一坪)を設けた。
この日、天皇は吉野宫よしののみやにお出でになり、二十日、お帰りになった。

二十七日、使者を遣わして新益京しんやくのみやこ(新たに増された藤原宮)に、地鎮じちんの祭をさせられた。

十一月一日、大嘗祭だいじょうさいを行ない、神祇伯中臣朝臣大嶋かむつかさのかみなかとみのあそんおおしまが、天つ神あまつかみ寿詞よごとを読んだ。

二十五日、公卿くぎょうに食事と衣服を賜わった。

二十八日、公卿以下主典ふびと四等官)に至るまでに、あえおよび絹などを賜わった。

三十日、神祇官の長上ながつかえ毎日出勤する官)以下神部かむとものおに至るまでと、大嘗だいじょうに供奉した播磨はりま因幡いなばの国の郡司こおりつかさ以下百姓おおみたからの男女に至るまでに、あえと絹などを賜わった。

十二月二日、医博士くすしのはかせである務大参徳自珍むだいさんとくじちん呪禁博士じゅこんのはかせである木素丁武もくそちょうむ沙宅万首さたくまんしゅに銀をそれぞれ二十両ずつ賜わった。

八日、みことのりして、
新益京しんやくのみやこでの右大臣に賜わる宅地は四町。直広貳じきこうに以上にはニ町、大参だいさん以下には一町、ごん以下無位まではその戸の人数による。上戸には一町、中戸には半町、下戸には四分の一、王等もこれに準ずる」
と言われた。

六年春一月四日、皇子高市たけち食封へひと二千戸を加増し、前からの分とで五千戸となった。

七日、公卿らにあえと衣裳を賜わった。

十二日、天皇は新益京しんやくのみやこの大路をご覧になった。

十六日、公卿以下の初位から、最上位の者までに饗を賜わった。

二十七日、天皇は高宮たかみや大和国葛城郡高宮)にお出でになり、二十八日、お帰りになった。

大三輪高市麻呂の諫言と伊勢行幸

二月十一日、諸官にみことのりして、
「三月三日に伊勢に行こうと思う。これに備えて、必要ないろいろの衣服を準備するように」
と言われた。
この取りきめに関った陰陽博士おんみょうのはかせである沙門法蔵ほうしほうぞう道基どうきに、銀二十両を賜わった。

十九日、刑部省おさかべのつかさに詔して、罪の軽い罪人を赦免された。
この日、中納言直大貳ちゅうなごんじきだいにである三輪朝臣高市麻呂みわのあそんたけちまろが、上奏して直言し、天皇の伊勢行幸が、農時の妨げになることを諫め申した。

三月三日、浄広肆広瀬王じょうこうしひろせのおおきみ直広参当麻真人智徳じきこうさんたぎまのまひとちとこ直広肆紀朝臣弓張じきこうしきのあそんゆみはりらを、行幸中の留守官に任ぜられた。
このとき、中納言ちゅうなごん大三輪朝臣高市麻呂おおみわのあそんたけちまろは、職を賭して重ねて諫め、
「農繁の時の行幸は、なさるべきではありませぬ」
と言った。

六日、天皇は諫めに従われず、ついに伊勢に行幸された。

十七日、お通りになる神郡かみのこおり度会わたらい、多気の両郡)と伊賀いが伊勢いせ志摩しま国造くにのみやつこらに冠位を賜わり、当年の調役を免じ、また供奉の騎士、諸司の荷丁もちよぼろ行宮かりみや造営のための役夫のその年の調役を免じ、全国に大赦おおはらえをされた。
ただし、盗賊はこの枠に入らなかった。

十九日、お通りになる志摩国しまのくに百姓おおみたから、男女八十歳以上の者に、稲をそれぞれ五十束ずつ賜わった。

二十日、天皇の車駕しゃが浄御原宮きよみはらのみやに帰った。
お出でになった先では、郡県こおりあがたの吏民を集めて労をねぎらい、物を賜わって奏楽をさせられた。

二十九日、みことのりして、近江、美濃、尾張、三河、遠江などの国の、供奉した騎士と諸国の荷丁もちよぼろ行宮かりみや造営の役夫の当年の調役を免じた。
みことのりして、天下の百姓おおみたからの困窮者に稲を賜わった。
男は三束、女は二束であった。

四月二日、大伴宿禰友国おおとものすくねともくに直大貳じきだいにを贈られ、賻物(はぶりものを賜わった。

五日、四畿内よつのうちつくに大和やまと山城やましろ摂津せっつ河内かわちの四国)の人民の、荷丁もちよぼろとなった者の当年の調役を免じられた。

十九日、使者を遣わして、広瀬大忌神ひろせのおおいみのかみ竜田風神たつたのかぜのかみとを祭らせた。

二十一日、有位者の親王以下進広肆しんこうしまでに、難波なにわ大蔵おおくらくわをそれぞれに賜わった。

ニ十五日、みことのりして、
「およそ獄囚、徒刑の者を皆、放免するよぅに」
と言われた。

五月六日、阿胡行宮あごのかりみや(志摩国英虞郡)にお出でになったとき、海産物の魚介を奉った紀伊国牟婁郡きのくにのむろこのこおり阿古志海部河瀬麻呂あこしのあまのかわせまろら、兄弟三戸に、十年間の調役、種々の徭役ようえきを免除された。
また、船頭八人にその年の調役を免じた。

七日、相模国司さがみのくにのつかさ赤烏あかからすの雛二羽を奉り、
三浦郡みうらのこおりで捕まりました」
と言った。

十二日、吉野宮にお出でになり、十六日、お帰りになった。

十七日、大夫、謁者を遣わして、名山と大河の神を祭って雨乞いをした。

二十日、文忌寸智徳ふみのいみきちとこ直大壱じきだいいちを贈られ、賻物はぶりものを賜わった。

二十三日、浄広肆難波王じょうこうしなにわのおおきみらを遣わして、藤原ふじわらの宮地の地鎮祭じちんさいをさせられた。

二十六日、使者を遣わし、幣帛みてぐら伊勢いせ大倭やまと住吉すみのえ紀伊きいの四ヵ所の大神に奉らせ、新宮にいみやのことを報告された。

うるう五月三日、大水が出た。
使者を国々に巡らせ、災害で生活困難の者に、官稲を借りることができるようにしたり、山林池沢での猟を許されたりした。
詔して、京師みやこ畿内うちつくにで、金光明経こんこうみょうぎょうを講説させられた。

四日、沙門ほうし観成かんじょうふとぎぬ十五匹、綿三十屯、布五十端を賜わり、その造った鉛粉えんふんおしろいの鉛粉)を褒められた。

十三日、伊勢神宮いせのじんぐうの神官が天皇に奏上し、
「伊勢国の今年の調役を免じられましたが、二つの神郡かみのこおり度会郡わたらいのこおり多気郡たけのこおり)から納めるべき、赤引糸あかひきいと三十五斤は、来年に減らすことにしたいと思います」
と言った。

十五日、筑紫大宰ちくしのおおみこともち率河内王かわちのおおきみらにみことのりして、
沙門ほうし大隅おおすみ阿多あととに遣わして、仏教を伝えるように。また、大唐の大使である郭務惊かくむそうが、天智天皇てんちてんのうのために造った阿弥陀あみだ仏像を、京に送り奉れ」
と言われた。

六月九日、諸国の長吏に勅して、名のある山や河に祈禱を捧げさせた。

十一日、畿内うちつくに大夫まえつきみ、謁者を遣わして、雨乞いをした。

二十一日、直丁つかえのよぼろ官司に当直する使丁)八人に官位を賜わった。
天武陵を造ったとき、よく勤めたことを褒められたのであった。

三十日、天皇は藤原の宮地をご覧になった。

秋七月二日、全国に大赦おおはらえをされた。
ただし十悪(国家社会を乱す特に重い罪)、盗賊は枠に入らなかった。
相模国司さがみのくにのみこともちである布勢朝臣色布智ふせのあそんしこふちらと、三浦郡小領みうらのこおりのすけのみやつこと、赤烏あかからすを捕らえた鹿島臣機樟かしまのおみくすとに位と禄を賜わり、三浦郡みうらのこおりの二年間の調役を免じた。

七日、公卿に宴を賜わった。

九日、吉野宮にお出でになった。

十一日、使者を遣わし、広瀬と竜田とを祭らせた。

二十八日、天皇は宮に帰られた。
この夜、火星と木星が光ったり隠れたりしながら、一歩ぐらいまで近づいたり離れたりを四度繰り返した。

八月三日、罪の者をゆるされることがあった。

十七日、飛鳥皇女あすかのみこの別荘にお出ましになり、その日の中に宮にお帰りになった。

班田太夫の派遣

九月九日、班田たたまい収授役の長官らを四畿内よつのうちつくにに遣わした。

十四日、神祇官が神宝書四巻、鑰九箇、木印一箇を奉った。

二十一日、伊勢国司いせのくにのみこともち嘉禾よきいねめでたい稲)二本を奉った。
越前国司えちぜんのくにのつかさが白い鵝鳥がちょうを奉った。

二十六日、みことのりして、
「白鵝を角鹿郡つぬがのこおり(敦賀郡)の浦上うらかみの浜で捕らえた。よって気比神宮にけひのじんぐう食封へひと二十戸を、これまでの分の上に加える」
と言われた。

冬十月十一日、山田史御形やまだのふびとみかた務広肆むこうしを授けられた。
先に沙門ほうしとなって、新羅しらぎに学問をしに行ったものである。

十二日、吉野宮よしののみやにお出でになり、十九日に帰られた。

十一月八日、新羅しらぎ級サン朴億徳きゅうさんぼくよくとく金深薩こんしんさちらを遣わして調を奉った。
新羅に遣わされる使者である直広肆息長真人老じきこうしおきながのまひとおゆ務大貳川内忌寸連むだいにかわちのいみきつららに、それぞれ禄を賜わった。

十一日、新羅の朴億徳ぼくよくとく難波館なにわのむろつみあえを賜わった。

十二月十四日、音博士続守言こえのはかせしょくしゅげん薩弘格さつこうかくにそれぞれ水田四町を賜わった。

二十四日、大夫まえつきみらを遣わして新羅しらぎの調を五社、伊勢、住吉すみのえ、紀伊、大倭やまと菟名足うなたり大和添上郡宇那足、高御魂神社)に奉った。

七年春一月二日、浄広壱じょうこういちの位を皇子高市たけちに授けられた。
浄広貳じょうこうにを皇子ながと皇子弓削ゆげとに授けられた。
この日、みことのりして、全国の人民は黄色の衣服を、やっこ皁衣つるばみ墨染めの衣)を着ることとされた。

七日、公卿大夫まえつきみたちらに饗を賜わった。

十三日、京師みやこ畿内うちつくにの有位者で八十歳以上の者に、衾一揃、ふとぎぬ二匹、綿二屯、布四端ずっを賜わった。

十五日、正広参しょうこうさんの位を百済王くだらおう善光ぜんこうに追贈され、合わせて賻物はぶりものを賜わった。

十六日、京師みやこの男女八十歳以上の困窮者に、それぞれ布を賜わった。
船瀬の沙門である法鏡ほうきょうに水田三町を賜わった。
この日、漢人あやひと漢氏の配下の渡来系氏族)らが、蹈歌あられはしりずいとうの行事。足で地を踏みながら調子をとって歌う。終曲に阿良礼あられと歌う)を奉った。

二月三日、新羅しらぎ沙サン金江南ささんこんこうなん韓奈麻金陽元かんなまこんようげんらを遣わしてきて、こきし(神文王)の喪を告げた。

十日、造京司衣縫王みやこつくるつかさきぬぬいのおおきみらにみことのりして、工事で掘り出されたかばねを、他に埋葬させた。

三十日、難船して漂着した新羅しらぎの人である牟自毛礼むじもれら三十七人を、億徳よくとくらに託された。

三月一日、日蝕にっしょくがあった。

五日、大学博士である勤広貳上村主百済ごんこうにうえのすぐりくだらに、食封へひと五十戸を賜わった。
博士の仕事を褒め優遇されたのである。

六日、吉野宮にお出でになった。

十一日、直大貳葛原朝臣大嶋じきだいにくずはらのおみおおしま賻物はぶりものを賜わった。

十三日、天皇は吉野宮よしののみやより帰られた。

十六日、新羅 しらぎに遣わされる使者の直広肆息長真人老じきこうしおきながのまひとおゆ勤大貳大伴宿禰子君ごんだいにおおとものすくねこきみら、および学問僧の弁通、べんつう神馭じんえいらに、ふとぎぬ、綿、布をそれぞれ賜わった。
また新羅の王に、賻物はぶりものを賜わった。

十七日、詔して、全国にくわからむしなしくり蕪青あおななどの草木を勧め植えさせられた。
五穀の助けのためである。

夏四月十七日、大夫まえつきみ、謁者を遣わして、諸社に詣でて雨乞いをした。
また使者を遣わして、広瀬大忌神ひろせのおおいみのかみ竜田風神たつたのかぜのかみとを祭らせた。

二十二日、みことのりして、
内蔵寮允大伴男人くらのつかさのまつりごとひとおおとものおひとは、不当利得を図ったので、位二階を下して現職を解任せよ。典鑰置始多久かぎつかさおきそめのおおく菟野大伴うののおおともも不当利得を図ったので、位一階を降して現職解任せよ。監物巨勢邑治おろしもののつかさこせのおおじは物を自分に収めなかったが、事情を知っていて盗ませたゆえに、位二階を降して現職解任せよ。しかし置始多久おきそめのおおくは、壬申じんしんの年の役によく勤めたことがあるのでゆるされる。ただし盗んだものは法に従って徴収せよ」
と言われた。

五月一日、吉野宮よしののみやにお出でになり、七日、お帰りになった。

十五日、無遮大会かぎりなきおがみを内裏で催された。

六月一日、高麗こま沙門ほうしである福嘉ふくかに詔して、還俗させられた。

四日、直広肆じきこうしの位を、引田朝臣広目ひけたのあそんひろめ守君莉田もりのきみかりた巨勢朝臣麻呂こせのあそんまろ葛原朝臣臣麻呂ふじわらのあそんおみまろ巨勢朝臣多益須こせのあそんたやす丹比真人池守たじひのまひといけもり紀朝臣麻呂きのあそんまろの七人に授けられた。

七月七日、吉野宮にお出でになった。

十二日、使者を遣わして広瀬大忌神ひろせのおおいみのかみ竜田風神たつたのかぜのかみとを祭らせた。

十四日、大夫、謁者を遣わして、諸社に詣でて雨乞いをさせた。
この日、天皇は吉野より帰られた。

八月一日、藤原ふじわら宮地みやとこにお出でになった。

十七日、吉野宮よしののみやにお出でになり、二十一日、宮に帰られた。

九月一日、日蝕にっしょくがあった。

五日、多武峯たむのむねにお出でになった。

六日、宮にお帰りになった。

十日、天武天皇てんむてんのうのために、無遮大会かぎりなきおがみを内裏で設けられた。
獄囚をすベて赦された。

十六日、直広参じきこうさんの位を、蚊屋忌寸木間かやのいみきこのまに追贈された。
合せて賻物はぶりものを賜わった。
壬申じんしんの年の役の功を褒められたのである。

冬十月二日、みことのりして、
「今年より親王以下、進位に至るまでの人々の備えている武器を調べさせる。浄冠じょうかんより直冠じきかんに至るまでは、各人甲一領、大刀一口、弓一張、矢一具、とも一枚、くらを置いた馬。勤冠ごんかんより進冠しんかんまでは、各人大刀一口、弓一張、矢一具、鞆一枚。このように予め備えておくように」
と言われた。

二十三日、この日から始まって、仁王経にんのうぎょうを諸国に講説させた。
四日間かかって終わった。

十一月五日、吉野宮よしののみやにお出でになった。

七日、耽羅たんらの王子や佐平さへいらに物を賜わった。

十日、宮にお帰りになった。

益須の醴泉

十四日、沙門ほうし法員ほういん善往ぜんおう真義しんぎらを遣わして、試みに近江国おうみのくに益須郡やすのこおり(野洲郡)の醴泉こさけのいずみ醴酒のような泉)の水をお飲ませになった。

二十三日、直大肆じきだいしの位を直広肆引田朝臣少麻呂じきこうしひけたのあそんすくなまろに授けられた。
なお、食封へひと五十戸を賜わった。

十二月二十一日、陣法博士いくさののりのはかせらを遣わして、諸国に教習させられた。

八年春一月二日、正広肆しょうこうしの位を、直大壱布勢朝臣御主人じきたいしふせのあそんみうし大伴宿禰御行おおとものすくねみゆきに授けられた。
食封へひとを増すことそれぞれに二百戸、前からの分とで五百戸。
並びに氏上うじのこのかみとされた。

七日、公卿くぎょうらにあえを賜わった(七日の節会)。

十五日、薪を奉った。

十六日、百官ひゃっかんの人々に饗された(十六日の節会)。

十七日、漢人あやひと蹈歌あられはあしりを奏した。
五位以上は大射を行なった。

十八日、六位以下が大射した。
四日かかって終わった。

十九日、唐人の蹈歌あられはあしりがあった。

二十一日、藤原宮ふじわらのみやにお出でになり、その日にお帰りになった。

二十三日、務広肆むこうしなどの位を、大唐の七人と粛慎みしはせの二人に授けられた。

二十四日、吉野宮よしののみやにお出でになった。

三月一日、日蝕にっしょくがあった。

二日、直広肆大宅朝臣麻呂じきこうしおおやけのあそんまろ勤大貳台忌寸八嶋ごんだいにうてなのいみきやしま黄書連本実きぶみのむらじほんじつらを、鋳銭司ぜにのつかさに任じられた。

十一日、みことのりして、
「無位の人を郡司こおりのつかさに任ずる場合は、進広貳しんこうにの位を大領に授け、進大参しんだいさん少領すけのみやつこに授けよ」
と言われた。

十六日、みことのりして、
「七年に醴泉こさけのいずみが、近江国益須郡おうみのくにやすのこおり(野洲郡)の都賀山つがやまに湧出した。種々の病人が益須寺やすでらに宿って治療し、治った者が多い。それゆえ水田四町、布六十端を寺に施入し、益須郡やすのこおりの今年の調役、雑徭ざつようを免除せよ。国司の長官から主典に至るまで、位一階を進めさせる。初めてその醴泉こさけのいずみを発見した葛野羽衝かどののはつき百済土羅羅女くだらのつららめに、それぞれふとぎぬ二匹、布十端、くわ十ロを与える」
と言われた。

二十二日、幣帛みてぐらを諸社に奉った。

二十三日、神祇官の長官から祝部はふりに至るまで、百六十四人にふとぎぬ、布をそれぞれ賜わった。

夏四月五日、浄大肆じょうだいしの位を筑紫大宰率河内王ちくしのおおみこともちかわちのおおきみに追贈し、合せて賻物はぶりものを賜わった。

七日、吉野宮にお出でになった。

十三日、使者を遣わして広瀬大忌神ひろせのおおいみのかみ竜田風神たつたのかぜのかみとを祭らせた。

十四日、天皇は吉野宮から帰られた。

十七日、律師道光りつしどうこうに賻物を賜わった。

五月六日、公卿大夫まえつきみたちに内裏で饗を賜わった(五月五日の節会か)。

十一日、金光明経こんこうみょうぎょう百部を諸国に送り届けられた。
毎年必ず一月の七、八日頃に、その経を読誦し、その供養料は正税から支出せよとされた。

六月八日、河内国更荒郡かわちのくにさららのこおりから、白い山鶏やまどりを奉った。
郡の大領だいりょう少領しょうりょうに、位をそれぞれ一級ずつ進められ物を賜わった。
これを捕らえた刑部造韓国おさかべのみやつこからくにに、進広貳しんこうにの位と物を賜わった。

秋七月四日、巡察使を諸国に遣わされた。

十五日、使者を遣わして広瀬大忌神と竜田風神とを祭らせた。

八月十七日、飛鳥皇女あすかのひめみこ(天智天皇の娘)のために、沙門ほうし百四人を得度とくどさせた。

九月一日、日蝕があった。

四日、吉野宮よしののみやにお出でになった。

二十二日、浄広肆三野王じょうこうしみののおおきみ筑紫大宰率ちくしのおおみこともちに任命された。

冬十月二十日、進大肆しんだいしの位を、白い蝙蝠こうもりを捕らえた飛驊国荒城郡ひだのくにあらきのこおり弟九部弟日おとくにべのおとひに賜わった。
合せて、ふとぎぬ四匹、綿四屯、布十端を賜わり、その戸の課役は終身免除とされた。

十一月二十六日、死刑以下の罪の者を赦免された。

藤原宮に遷る

十二月六日、藤原宮ふじわらのみやに遷都された。

九日、百官ひゃっかんが拝朝した。

十日、親王以下郡司に至るまでにふとぎぬ、綿、布をそれぞれに賜わった。

十二日、公卿大夫まえつきみたちに宴を賜わった。

九年春一月五日、浄広貳じょうこうにの位を皇子舎人とねりに授けられた。

七日、公卿大夫まえつきみたちに内裏であえを賜わった(七日、白馬の節会)。

十五日、薪を奉った。

十六日、百官ひゃっかんの人たちに饗を賜わった(蹈歌あられはあしりの節会)。

十七日、大射。
四日間あって終わった。

うるう二月八日、吉野宮よしののみやにお出でになり、十五日にお帰りになった。

三月二日、新羅しらぎ王子金良琳せしむこんろうりん補命薩サン朴強国ふみょうさつさんぼくごうこくら、および韓奈麻金周漢かんなまこんしゅうかん金忠仙こんちゅうせんらを遣わして、国政を報告した。
また、調を奉り、物も奉った。

十二日、吉野宮よしののみやにお出でになり、十五日にお帰りになった。

二十三日、務広貳むこうに文忌寸博勢ふみのいみきはかせと、進広参しんこうさん下訳語諸田しものおさのもろたらを多禰たね(種子島)に遣わして、ひな朝廷に帰順しない未開の人々)の居所を探させた。

夏四月九日、使者を遣わし、広瀬大忌神ひろせのおおいみのかみ竜田風神たつたのかぜのかみとを祭らせた。

十七日、直広参じきこうさんの位を、賀茂朝臣蝦夷かものあそんえみしに追贈され、合せて賻物はぶりものを賜わった。
直大肆じきだいしの位を、文忌寸赤麻呂ふみのいみきあかまろに追贈され、合せて賻物を賜わった。

五月十三日、隼人はやと大隅おおすみあえを賜わった。
ニ十一日、隼人はやとの相撲を、飛鳥寺あすかでらの西のつきの木の下で行なわれ、皆が見物した。

六月三日、大夫まえつきみ、謁者を遣わして、京師みやこ四畿内よつのうちつくにの諸社に詣で雨乞いをした。

十六日、諸臣の八十歳以上の者と重病者に、それぞれ物を賜わった。

十八日、吉野宮よしののみやにお出でになり二十六日にお帰りになった。

秋七月二十三日、使者を遣わして広瀬大忌神ひろせのおおいみのかみ竜田風神たつたのかぜのかみとを祭らせた。

二十六日、新羅しらぎに遣わされる直広肆小野朝臣毛野じきこうしおののあそんけの務大貳伊吉連博徳むだいにいきのむらじはかとこらに、それぞれ物を賜わった。

八月二十四日、吉野にお出でになり、三十日にお帰りになった。

九月四日、在獄の罪人を放免された。

六日、小野朝臣毛野おののあそんけのらが新羅しらぎに出発した。

十月十一日、菟田うだ吉隐よなばりにお出でになり、十二日お帰りになった。

十二月五日、吉野宮よしののみやにお出でになり、十三日にお帰りになった。
浄大肆泊瀬王じょうだいしはつせのおおきみ賻物はぶりものを賜わった。

十年春一月七日、公卿大夫まえつきみたちらに饗を賜わった(白馬の節会)。

十一日、直大肆じきだいしの位を百済王南典くだらのこきしなんでんに授けられた。

十五日、薪を奉った。

十六日、公卿百官くぎょうひゃっかんに饗を賜わった(蹈歌あられはあしりの節会)。

十八日、公卿百官くぎょうひゃっかんが南門で大射を行なった。

二月三日、吉野宮にお出でになり、十三日にお帰りになった。

三月三日、二槻宮ふたつきのみや(多武峯の西北)にお出でになった。

十二日、越の渡島こしのわたりのしまの、蝦夷伊奈利武志えみしいなりむしと、粛慎みしはせ志良寸歡草しらすえそうとに、錦の袍袴きぬはかま緋紺の絁ひはなだのふとぎぬ、斧などを賜わった。

四月十日、使者を遣わして広瀬大忌神ひろせのおおいみのかみ竜田風神たつたのかぜのかみとを祭らせた。

二十七日、追大貳ついだいにの位を、伊予国風速郡いよのくにかぜはやのこおりの人である、物部薬もののべのくすり肥後国皮石郡ひごのくにかわしのこおりの人である、壬生諸石みぶのもろしに授けられた。
合せてそれぞれにふとぎぬ四匹、糸十絢、布二十端、くわ二十ロ、稲千束、水田四町を賜わり、戸の調役を免じられた。
長らく唐土で苦労したことを労わられてのことである(百済救援の役に捕虜となったものか)。

二十八日、吉野宮にお出でになった。

五月三日、大錦上秦造綱手だいきんじょうはたのみやつこつなでみことのりして、姓を賜わり忌寸いみきとされた。

四日、吉野から帰られた。

八日、直広肆じきこうしの位を、尾張宿禰大隅おわりのすくねおおすみに授けられ、合せて水田四十町を賜わった。

十三日、直広肆じきこうしの位を大狛連百枝おおこまのむらじももえに贈られ、合せて賻物はぶりものを賜わった。

六月十八日、吉野宮よしののみやにお出でになり、二十六日にお帰りになった。

秋七月一日、日蝕にっしょくがあった。

二日、罪人の赦免があった。

八日、使者を遣わして広瀬大忌神ひろせのおおいみのかみ竜田風神たつたのかぜのかみとを祭らせた。

十日、高市皇子尊たけちのみこのみこと薨去こうきょされた。

八月二十五日、直広壱じきこういちの位を、多臣品治おおのおみほんじに授けられ、合せて物を賜わった。
元から永くお仕えしてきた功績と、関守の役目をよく果たしてきたことを褒められたのである。

九月十五日、直大壱じきだいいちの位を、若桜部朝臣五百瀬わかさくらべのあそんいおせに追贈され、合せて賻物はぶりものを賜わった。
長くお仕えした功績を顕賞されたのである。

冬十月十七日、右大臣丹比真人みぎのおおいもうちぎみのたじひのまひと輿こしと杖を賜わった。
老年までよく仕えたことをいたまれたのである。

二十二日、正広参位右大臣丹比真人しょうこうさんいみぎのおおいもうちぎみたじひのまひとに、仮に舍人とねりを百二十人を私用することを許された。
正広肆大納言阿倍朝臣御主人しょうこうしだいなごんあべのあそんみぬし大伴宿禰御行おおとものすくねみゆきには、それぞれ八十人を、直広壱石上朝臣麻呂じきこういちいそのかみあそんまろ直広貳藤原朝臣不比等じきこうにふじわらのあそんふひとには、それぞれ五十人を許された。

十一月十日、大官大寺だいかんだいじ沙門ほうし弁通べんつう食封へひと四十戸を賜わった。

十二月一日、ちょくして金光明経こんこうみょうぎょうを読ませるため、毎年十二月晦日つごもり浄行者おこないひと素行の良い者)十人を得度とくどさせることを告げられた。

十一年春一月七日、公卿大夫まえつきみたちらに饗を賜わった(白馬の節会)。

十一日、全国の鰥寡やもめ、孤独、篤癃あつえひと貧窮のため生活困難の者)に、それぞれ稲を賜わった。

十六日、公卿百官くぎょうひゃっかんに饗を賜わった(蹈歌あられはあしりの節会)。

二月二十八日、直広壱当麻真人国見じきこういちたぎまのまひとくにみ東宮大傅みこのみやのおおきかしずきとした。
直広参路真人跡見じきこうさんみちのまひととみ春宮大夫みこのみやのつかさのかみとした(軽皇子かるのみこの立太子による)。
直大肆巨勢朝臣粟持じきだいしこせのあそんあわもちすけ(次官)とした。

三月八日、無遮大会かぎりなきおがみ春宮みこのみやで行なった。

夏四月四日、満選者こうぶりたまわるべきひと六年の期限が満ちて授位される資格のある者)に浄位じょういより直位じきいに至る位を、それぞれ授けられた。

七日、吉野宮よしののみやにお出でになった。

十四日、使者を遣わし広瀬ひろせ竜田たつたを祭らせた。
この日、吉野から帰られた。

五月八日、大夫、謁者を遣わして、諸社にもうでて雨乞いをさせた。

六月二日、罪人を赦された。

六日、みことのりしてきょう京畿みやこうちつくにの諸寺に読ませた。

十六日、五位以上を遣わして、みやこの寺をはらい清めさせた。

十九日、幣帛みてぐらを神々に奉った。

二十六日、公卿百官くぎょうひゃっかんは天皇の病気平癒へいゆを祈り、仏像を造ることを始めた。

二十八日、大夫まえつきみ、謁者を遣わして諸社に詣でて雨乞いをさせた。

天皇譲位

秋七月七日の夜半に、直盗賊ひたぬすびと捕縛されている盗賊)百九人の赦免を決めた。
なお、人ごとに布四常を賜わった。
ただし畿外そとつくにの人には稲二十束ずつであった。

十二日、使者を遣わして広瀬ひろせ竜田たつたを祭らせた。

二十九日、公卿百察まえつきみもものつかさは祈願の仏像の開眼式を、薬師寺やくしじで行なった。

八月一日、天皇は宮中でのみはかりを決定されて、皇太子(文武天皇もんむてんのう)に天皇の位をお譲りになった。

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