古事記・現代語訳「下巻」仁徳天皇

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仁徳天皇」

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皇后と御子

大雀おおさざき命は、難波なにわ高津宮たかつのみやで天下を治めた。
この天皇が、葛城かずらき曽都毘古そつびこの娘である石之日売いわのひめ皇后と結婚してお生みになった御子は、
大江之伊耶本和気おおえのいざほわけ命、
次に墨江之中津すみのえのなかつ王、
次に蝮之水歯別たじひのみつはわけ命、
次に男浅津間若子宿禰おあさつまわくごのすくね命の四柱である。

先に述べた、日向ひむか諸県君もろがたのきみ牛諸うしもろの娘である髪長比売かみながひめと結婚してお生みになった御子は、波多毘能大郎子はたびのおおいらつこでまたの名は大日下おおくさか王という。
つぎに波多毘能大郎子はたびのおおいらつこで、またの名は長目比売ながめひめ命、またの名は若日下部わかくさかべ命の二柱である。また異母妹の八田若郎女やたのわきいらつめと結婚なさり、また異母妹の宇遅能若郎女うじのわきいらつめと結婚した。
この二柱には御子がなかった。
大雀天皇おおさざきのすめらみことの御子たちは、合わせて六王である。
皇子五柱、皇女一柱。

そして、伊耶本和気いざほわけが天下を治めた。

次に蝮之水歯別たじひのみつはわけも天下をお治めた。

次に男浅津間若子宿禰おあさつまわくごのすくねもまた天下を治めた。

この仁徳天皇の御代に、皇后である石之日売いわのひめの御名を伝えるための部民として葛城部かつらぎべを定め、また皇太子である伊耶本和気いざほわけの御名を伝えるための部民として壬生部みぶべを定め、また水歯別みずはわけの御名を伝えるための部民として蝮部たじひべを定め、また大日下おおくさかの御名代として大日下部おおくさかべを定め、若日下部わかくさかべの御名代として若日下部わかくさかべを定めた。

帰化人の秦人はたひとを労役に当てて、茨田堤まんだのつつみ茨田屯倉まんだのみやけ、また丸邇池わにのいけ依網池よさみのいけを造った。
また、難波なにわ堀江ほりえを掘って水を海に通し、また小椅江おばしのえを掘り、また墨江すみのえを定めた。

聖帝の世

仁徳天皇が高い山に登って四方の国土を見て言った。
「国中に炊煙すいえんが立っていない。きっと国民は皆貧しいのだ。だから今から三年の間、国民の調と夫役ふえき(政策による労働)を全て免除せよ」
そのために、宮殿は破損して、全部雨漏りがするようになったが、天皇は一切修理をせず、器でその漏る雨を受けて、雨漏りのしない所に移ってお避けた。

その後、国内をご覧になったところ、国内に炊煙すいえんが満ちていた。
それで、国民が豊かになったことを知って、もうよかろうと調つきと夫役を課せられたのである。

こういうわけで、人民は繁栄して、夫役ふえきに苦しむことはなかった。
それでその御世みよを讚えて、ひじりみかど御世みよと申すのである。

皇后の嫉妬と黒日売

その皇后の石之日売いわのひめは、ひどく嫉妬深かった。
それで、天皇がお使いになっていた妃たちは、宮殿の中をうかがい見ることもできなかった。
妃が天皇になにか特別のことを言ったりすると、皇后は地団駄を踏んで嫉妬した。
ところが天皇は、吉備海部直きびのあまべのあたいの娘である黒日売くろひめが、容姿が整って美しいとお聞きになって、宮中に召し寄せてお使いになった。
ところが黒日売くろひめは、その皇后が嫉妬することを恐れて、故郷の吉備国きびのくにに逃げ帰った。

天皇は高殿にいて、その黒日売くろひめの乗った船が出て、難波なにわの海に浮かんでいるのを遠くに眺めて歌った。

沖のほうには、小舟が連なっているのが見える。
(くろざやの)愛しい我が妻が、
故郷へ下って行きなさることよ。(五三)

そこで皇后は、このお歌を聞いてひどく怒り、人を難波なにわの大浦に遣わして、黒日売くろひめを船から追い下して、陸上を歩いて追い返した。

そこで天皇は、その黒日売くろひめを恋しく思われて、皇后を騙して、
淡路島あわじのしまを見に行きたいと思う」
と言って出かけた時、淡路島におられて遥か遠くを眺めて歌った。

(おしてるや)難波なにわの崎から出で立って、
我が領有する国を眺めると、
淡島あわしま淤能碁呂島おのごろしま
また
檳榔あじまきの島も見える。
佐気都島さけつしまも見える。(五四)

そして、淡路島から島を伝って吉備国に向かった。
すると黒日売くろひめは、天皇をその国の山畑の所にご案内して、お食事を差し上げた。
そこで黒日売くろひめがお吸物を煮ようとして、山畑の青菜を摘んでいるときに、天皇が黒日売くろひめの青菜を摘んでいる所に現れて歌った。

山畑に蒔いておいた青菜も、
吉備の
黒日売くろひめといっしよに摘むと楽しいことだ。(五五)

天皇が都に還って行かれるとき、黒日売くろひめが歌を奉った。

大和のほうへ西風が吹き上げて、
東のほうに雲が離れるように、
あなたから遠く離れていても、
私はあなたを忘れはしません。(五六)

さらに黒日売くろひめは歌った。

大和のほうへ向かって行くのは、
誰の夫でしょう。
(こもりづの)密かに心を通わせて、
通って行くのは誰の夫なのでしょう。(五七)

皇后の嫉妬と八田若郎女

この事があって後、皇后が新嘗祭にいなめまつりの酒宴を催すために、酒を盛るための御綱柏みつながしわを採りに紀伊国きいのくにに出かけている間に、天皇は八田若郎女やたのわきいらつめと結婚した。

ところが、皇后が御綱柏みつながしわを船に満載して帰って来られる時に、水取司に使われている吉備国きびのくに児島こじまの人夫が、自分の郷里に帰ってゆくとき、難波なにわ大渡おおわたりで皇后の船に遅れた倉人女くらひとめの乗った船に出会った。
そして人夫が倉人女くらひとめが言うには、
「天皇は、このごろ八田若郎女やたのわきいらつめと結婚なさって、昼も夜も戯れ遊んでおられるが、もしや皇后はこの事をお聞きになっていないからであろうか、のんびりと遊びにでかけているのは」

そこでその倉人女くらひとめは、人夫の話を聞いてすぐに皇后の船に追い近づいて、事の有様を詳しく人夫の言った言葉のとおりに伝えた。
そこで皇后はひどく恨み怒って、船に載せてあった御綱柏みつながしわは全部海に投げ捨ててしまわれた。
それでそこを名づけて御津前みつのさきと言う。

そして皇后は皇居に入らず、その船を引いて皇居を避けて、難波の堀江をさかのぼり、川の流れに従って淀川を山代国やましろのくにに上っていった。
このとき、皇后が歌った。

(つぎねふや)山代河をさかのぼって私がってゆくと、
川のほとりに生い立っている烏草樹よ。
烏草樹の木、
その下に生い立っている葉の広い神聖な椿、
その花のように照り輝いておられ、
その葉のように広くゆったりとしておられるのは、
我が大君であるよ。(五八)

そして山代を巡って、奈良山の入口に着いて歌った。

(つぎねふや)山代河を宮をめざして私がさかのぼってゆくと、
(あをによし)奈良を過ぎ、
(小楯)大和を過ぎて、
私が見たいと思う国は、
城高宫かずらきたかみや
私の家のあたりです。(五九)

こう歌ってお還りになり、しばらく綴喜つづき韓人からひとで、名を奴理能美ぬりのみという人の家に入った。

天皇は、その皇后が山代から上って来たたと聞き及んで、舎人とねりである鳥山とりやまという人を遣わして、歌を贈った。

山代で皇后に追いついてくれ、
鳥山よ。
追いつけ、
追いつけ。
私の愛しい妻に追いついて会っておくれ。(六〇)

ひき続いて和邇臣わにのおみ口子くちこを遣わして、歌った。

みもろ山の高い所にある大猪子ヶ原おおいこがはら
その名のとおり、
大きな猪の腹にある肝(肝向ふ)せめて心にだけでも、
私を思っていてくれないものだろうか。(六一)

さらにまた歌った。

(つぎねふ)山代の女が木の鍬を持って打ち耕して作った大根、
その大根のように白い腕を私が枕としなかったのならば、
私を知らないと言ってもよいだろう。(六二)

奴理能美と八田若郎女

この口子臣くちこのおみが天皇の御歌を皇后に申し上げようとした時、ひどく雨が降っていた。
ところがその雨を避けようともせずに、御殿の表の戸口に参って平伏すると、皇后は行き違いに裏の戸口に出てきて、口子臣くちこのおみが裏の戸口に参って平伏すると、皇后は行き違いに表の戸口に行った。
そこで口子臣くちこのおみが、地を腹這い進み出て、庭の中央に跪いている時、庭にたまった雨水が腰まで浸してしまった。
口子臣くちこのおみは、赤い紐をつけた青く摺り染めにした衣服を着ていたので、庭に溜まった水が赤い紐を浸して、衣服の青い色が全部赤い色に変化した。

口子臣くちこのおみの妹の口日売くちひめは皇后にお仕えしていたので、兄の様子を見て歌った。

山代の綴喜つづきの宮で、
皇后に物を申し上げようとしている私の兄君を見ていると、
私は涙がこぼれそうです。(六三)

そこで皇后がそのわけをお尋ねになったとき、口日売くちひめがお答えして言うには、
「私の兄の口子臣くちこのおみでございます」
と答えた。

そこで、口子臣くちこのおみとその妹の口日売くちひめ、そして奴理能美ぬりのみの三人が相談して天皇に伝えた。
「皇后がここにお出ましになったわけは、奴理能美ぬりのみが飼っている虫で、一度は這う虫になり、一度は繭になり、一度は飛ぶ鳥になり、三色に変化する不思議な虫がいます。皇后は、この虫を御覧になりにお越しになったのに相違ありません。決して他意あってのことではありません」
と申し述べた。

このように奏上すると、天皇は、
「それでは、私も不思議だと思うから、見に行こうと思う」
と言って、皇居から川をさかのぼって奴理能美ぬりのみの家に入った。
そのとき、奴理能美ぬりのみは自分が飼っている三色に変わる虫を、皇后に献上していた。
天皇は、皇后のお出でになる御殿の戸口に立って、歌を詠んだ。

(つぎねふ)山代の女が、
木の鍬を持って、
耕して作った大根、
その色艶のさわさわではないが、
騒がしくあなたが言いさわがれるので、
遠くに見渡されるよく茂った桑の枝のように、
多くの供人を引き連れてやって来たのです。(六四)

これら天皇と皇后が歌った六首の歌は、志都歌しつうたという歌曲の歌い返しである。

天皇はまた、八田若郎女やたのわきいらつめをお慕いになって、歌を賜い遣わした。
その歌は、

八田やたの野の一本管いっぽんすげは、
子を持たないままで立ち枯れてしまうのであろうか。
惜しい菅原よ。
言葉の上では菅原というが、
まことに惜しい清々しい女であるよ。(六五)

すると八田若郎女やたのわきいらつめは、これに答えて歌った。

八田の野の一本管は、
ただ一人でいようとも構いません。
大君さえそれでよいと仰せられるならば、
たとい一人でいようとも構いません。(六六)

そこで、八田若郎女やたのわきいらつめの御名代として、八田部やたべを定めた。

速総別王と女鳥王

天皇は、その弟の速総別はやぶさわけ王を仲立ちとして、異母妹の女鳥めどり王を所望した。
すると女鳥めどり速総別はやぶさわけに語って言った。
「皇后の御気性が激しいために、天皇は八田若郎女やたのわきいらつめをお召しになっておりません。だから私もお仕えいたすまいと思います。私はあなた様の妻になりましょう」
と言って、すぐに結婚した。

このために速総別はやぶさわけ王は、仲人としての復命をしなかった。
そこで天皇は、女鳥めどりのおられる所に直接お出かけになって、その御殿の戸口の敷居の上においでになった。
このとき、女鳥めどりはたに腰をかけて、お召し物を織っておられた。
そのときに天皇が歌った。

いとしい女鳥めどり王の織っていなさる織り物は、
誰の着物のためであろうか。(六七)

女鳥めどりは、答えて歌った。

(高行くや)速総別はやぶさわけ御襲みおすいのためのものです。(六八)

それで天皇は、女鳥めどりの心情を察して、宮中にお帰りになった。

このとき、その夫の速総別はやぶさわけがやって来られた折に、その妻の女鳥めどりが歌った。

ひばりは空を飛びかける。
そのように空を飛びかける隼の名をもった
速総別はやぶさわけよ、
あの
鷦鷯さざきの名の大雀おおさざきを取り殺しておしまいなさい。(六九)

天皇はこの歌をお聞きになって、ただちに軍勢を出して二人を討とうとした。
そこで速総別はやぶさわけ女鳥めどりは、一緒に逃げ退いて倉椅山くらはしやまに登った。
このとき、速総別はやぶさわけは歌った。

(梯立ての)倉椅山くらはしやまが険しいので、
岩につかまることもできず、
妻は私の手につかまることよ。(七〇)

また歌った。

(梯立ての)倉椅山は険しいけれど、
妻といっしょに登れば、
険しいとも感じない。(七一)

そしてそこから逃亡して、宇陀うだ曾爾そにに着いたとき、天皇の軍勢が追いついて、二人を殺してしまった。

皇軍の将軍となった山部大楯やまべのおおたてむらじは、その女鳥めどりの御手に巻いておられた玉釧たまくしろを取って、自分の妻に与えた。
それから時が経ってから後、宮中で酒宴を開こうとしたとき、各氏族の女たちがみな参内した。
そこで大楯おおたての妻は、その女鳥めどりの玉釧を自分の手に巻いて参列していた。
ところが皇后の石之日売いわのひめが、自ら大御酒おおみきを盛った杯の柏の葉を取って、各氏族の女たちに与えた。

このとき皇后は、女鳥めどり玉釧たまくしろを見知っていので、大楯おおたての妻には、御酒をつぐかしわをお与えにならず、ただちに退席させた。
その夫の大楯おおたてを呼び出して、皇后は、
女鳥めどりたちは不敬であったから、退けたのです。これは怪しむべきことではない。その奴めは、自分の主君の御手に巻いておられた玉釧を、まだ膚にぬくもりがあるうちに剝ぎ取って来て、すぐに自分の妻に与えたとは」
と言って、すぐに死刑に処せられた。

雁の卵の瑞祥

またある時、天皇が宴会を開かれようとして、日女島ひめしまにお出ましになった折に、その島でかりが卵を生んだ。
そこで天皇は、武内宿禰たけしうちのすくねを呼んで、歌でかりが卵を生んだ様子をお尋ねた。
その歌は、

(たまきはる)内の朝臣よ、
おまえこそは、この世の長寿者だ。
(そらみつ)大和の国で、
雁が卵を生むということを聞いたことがあるか。(七二)

そこで武内宿禰たけしうちのすくねは、歌で答えた。

(高光る)日の神の御子よ、よくお尋ねになりました。
まことによくぞお尋ねになりました。
私こそはこの世の長寿者ですが、
(そらみつ)大和の国で雁が卵を生んだ、
ということはまだ聞いたことがありません。(七三)

こう申し上げ、琴を戴いてそれに合わせて歌った。

日の御子であるあなた様が、
いつまでも末長く国をお治めになるしるしとして、
雁は卵を生んだのでありましょう。(七四)

この歌は、寿歌ほきうた片歌かたうたである。

枯野という船

この天皇の御世みよに、兔寸河とのきがわの西に一本の高い木が生えていた。
その木に朝日が射すと、木の影が淡路島あわじのしまに達し、夕日が射すと、その影は河内国かわちのくに高安山たかやすやまを越えるほどであった。
そして、この木を切って船を造ったところ、たいそう速く走る船であった。
当時、その船を名づけて「枯野からの」といった。
この船で、朝夕淡路島の清水を汲んで運んで、天皇の御飲料水を奉った。

この船が破損したので、その船材で塩を焼き、その焼け残った材木を用いて琴を作ったところ、その琴の音は七つの村里に響き渡った。
そこで当時の人が歌った。

枯野からのの船村を焼いて塩を作り、
その焼け残りの木で琴を作り搔き鳴らすと、
その琴の音は、
由良の門の海底の岩に、
波に揺れながら生えている海藻のように、
さやかに鳴り響くことよ。(七五)

これは志都歌しつうたという歌曲の歌返しである。

この天皇の御年は八十三歳である。
丁卯の年の八月十五日に崩御になった。
御陵みはか毛受もず耳原みみはらにある。

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