日本書紀・日本語訳「第二十一巻 用明天皇 崇峻天皇」

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用明天皇 橘豊日天皇

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用明即位

橘豊日天皇たちばなのとよひのすめらみこと欽明天皇きんめいてんのうの第四子である。
母を堅塩媛かたしひめ(蘇我稲目の娘)という。
天皇は仏法を信じられ、神道を尊ばれた。

十四年秋八月に、敏達天皇びだつてんのうが亡くなられた。

九月五日に用明天皇ようめいてんのうは即位された。
磐余の地いわれのちに宮を造られた。
名づけて池辺双槻宮いけへのなみつきのみやという。
蘇我馬子そがのうまこ大臣おおおみとし、物部弓削守屋もののべのゆげのもりや大連おおむらじとすることはもとの通りであった。

十九日にみことのりして、云々といわれた。須加手姫皇女すかてひめのみこを伊勢神宮に遣わし、斎宮いつきのみやとして天照大神あまてらすおおみかみにお仕えさせられた。

この皇女は、この天皇の御時から推古天皇すいこてんのう御代みよまで皇大神宮にお仕えし、後年、母の里の葛城かずらきに退いて亡くなられた、と推古天皇紀に見える。
ある本に、この皇女は三十七年間も大神にお仕えした後、自ら退いて亡くなられたとある。

元年春一月一日、穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこを立てて皇后とした。
この人は四人の男子をお生みになった。
一番目を厩戸皇子うまやどのみこという。
またの名を豊耳聡聖徳とよとみみしょうとくという。
あるいは豊聡耳法大王とよとみみののりのおおきみという。
あるいは法主王のりのうしのおおきみという。
この皇子は初め上宮かみつみやにお住みになった。
のちに斑鳩いかるがに移られた。
推古天皇すいこてんのう御世みよに皇太子となられた。
すべての政務を統括して、天皇の代理をされた。
そのことは推古天皇紀にある。
二番目を来目皇子くめのみこという。
三番目を殖栗皇子えくりのみこという。
四番目を茨田皇子まんだのみこという。

蘇我大臣稲目宿禰そがのおおおみいなめのすくねの娘である石寸名いしきなみめとされた。
この人は田目皇子ためのみこをお生みになった。
またの名は豊浦皇子とゆらのみこ

葛城直磐村かずらきのあたいいわむらの娘である広子ひろこは、一男一女をお生みになった。
男子を麻呂子皇子まろこのみこという。
これは当麻公たぎまのきみの先祖である。
女は酢香手姫皇女すかてひめのみこという。
この人は三代の天皇にわたって、日神ひのかみ(天照皇大神宮)にお仕えした。

三輪逆の死

夏五月、穴穂部皇子あなほべのみこ(欽明天皇の皇子)が炊屋姫皇后かしきやひめ(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯そうとして、皇后が天皇の殯宮もがりのみやにおられるところへ押し入った。
天皇の寵臣であった三輪君逆みわのきみさかうが、兵衛を呼んで宮門(みかど)をさしかためて、防いで入れなかった。
穴穂部皇子あなほべのみこは尋ねた。
「誰がここにいるのか」
兵衛は答えた。
三輪君逆みわのきみさかうがいます」
七度も、
「門を開けよ」
と呼んだが、さかうはついに開けなかった。

そこで穴穂部皇子あなほべのみこ蘇我馬子そがのうまこ物部守屋もののべのもりやに、
さかうは甚だしく無礼である。殯宮もがりのみやの庭でしのびごと死者の徳を称える言葉)を読み、『朝庭を荒さぬよう鏡の面の如く浄めお仕えし、私奴がお守り申します』という。これが無礼である。今、天皇の子弟は多く、両大臣もいるのだ。誰が自分勝手に、私だけでお守りしますと言えようか。また、私が殯宮もがりのみやの内を見ようと思っても、防いで入れてくれない。『門を開けよ』と七度も呼んだが答えがない。許せぬことだ。斬り捨てたいと思う」
と語った。
両大臣は、
「仰せのままに」
と言った。

穴穂部皇子あなほべのみこは、密かに天下に王たらんことを企てて、口実を設けて逆君さかうのきみを殺そうという下心があった。
ついに物部守屋大連もののべのもりやおおむらじと、兵を率いて磐余いわれ池辺いけへを囲んだ。
逆君さかうのきみは本拠の三輪山みわやまに逃れた。
この日の夜中にこっそり山を出て、後宮(敏達天皇びだつてんのうの皇后の宫)に隠れた(海石榴市宮ちばきちのみやである)。
さかうの一族の白堤しらつつみ横山よこやまが、逆君さかうのきみの居場所を明かした。
穴穂部皇子あなほべのみこ守屋大連もりやのおおむらじを遣わしていうのに(ある本には、穴穂部皇子あなほべのみこ泊瀬部皇子はつせべのみこが計画して、守屋大連もりやのおおむらじを遣わしたとある)、
「お前が行って、逆君さかうのきみとその二人の子を共に殺せ」
と命じた。

大連おおむらじはついに兵を引き連れて行った。
蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくねは、よそにいてこのことを聞き、皇子のところに参り、門のところで逢った。
大連のところへ行こうとしていたので、皇子をいさめて、
「王者は刑を受けた人を近づけないと申します。自らお出でになってはいけません」
と言った。
皇子は聞かないで出かけた。
馬子宿禰うまこのすくねはやむなくついて行った。
磐余いわれに至り、しきりに諫めた。
皇子は諫めに従って諦め、その場所で床几に深く腰をおろして、大連おおむらじの知らせを待った。
大連はしばらくしてやってきた。
兵を率いて来り、復命して、
「逆らを斬って参りました」
と言った。

ある本には、穴穂部皇子あなほべのみこが自ら赴き射殺いころしたとある。

馬子宿禰うまこのすくねは驚き嘆いて、
「天下は程なく乱れるだろう」
と言った。

大連おおむらじはこれを聞いて、
「お前ら小物には分らぬことだ」
と言った。

この三輪君逆みわのきみさかうは、敏達天皇びだつてんのうが寵愛され、すべて内外のことを任せられたものであった。
このため炊屋姫かしきやひめ皇后と馬子宿禰うまこのすくねは、共に穴穂部皇子あなほべのみこを恨むようになった。

この年、太歳丙午たいさいひのえうま

天皇病む

二年夏四月二日、磐余いわれの河上で、新嘗しんじょうの大祭が行なわれた。
この日、天皇は病にかかられて宫中に帰られた。
群臣まえつきみがおそばに侍り、天皇は群臣まえつきみに言われた。
「私は仏、法、僧の三宝に帰依したいと思う。けいらもよく考えて欲しい」
群臣は参内して相談した。

物部守屋大連もののべのもりやおおむらじ中臣勝海連なかとみのかつみのむらじは、勅命ちょくめいの会議に反対して、
「どうして国つ神くにつかみに背いて、他国の神を敬うことがあろうか。大体、このようなことは今まで聞いたことがない」
と言った。
蘇我馬子大臣そがのうまこおおおみは、
みことのりに従ってご協力すべきである。誰がそれ以外の相談をすることになろうか」
と言った。
穴穂部皇子あなほべのみこ豊国法師とよくにのほうしをつれて、内裏に入られた。物部守屋大連もののべのもりやおおむらじは、これを睨んで大いに怒った。このとき押坂部史毛屎おしさかべのふびとけくそが慌ててやってきて、こっそりと大連に告げて、
「今、群臣まえつきみたちは、あなたを陥れようとしています。今にもあなたの退路を絶ってしまうでしょう」
と言った。
大連おおむらじはこれを聞き、別業なりどころのある河内かわち阿都あとに退いて人を集めた。

中臣勝海連なかとみのかつみのむらじは自分の家に兵を集め、大連を助けようとした。
ついに太子彦人皇子ひつぎのみこひこひとのみこの像と竹田皇子たけだのみこの像を作ったまじないをかけて呪った。
少し経ってから事の成り難いことを知り、帰って彦人皇子ひこひとのみこ水派宮みまたのみやの方へ着いた。
舍人迹見檮とねりとみのいちいは、勝海連かつみのむらじ彦人皇子ひこひとのみこの所から退出するのを伺って、刀を抜き、殺した。
大連は阿都あとの家から、物部八坂もののべのやさか大市造小坂おおちのみやつこおさか漆部造兄ぬりべのみやつこあにを使者に出し、馬子大臣うまこのおおおみに語らせて、
「私は群臣が、私を図ろうとしていると聞いた。だからここに退いたのである」
と言った。

馬子大臣は、土師八島連はじのやしまのむらじ大伴毗羅夫連おおとものひらぶのむらじのところに使わし、つぶさに大連おおむらじの言葉を述べさせた。
これによって毗羅夫連ひらぶのむらじは、手に弓箭ゆみや皮楣かわたてをとって、槻曲つきくまの大臣の家に行って、昼夜を分たず大臣を守った。
天皇の痘瘡ほうそうはいよいよ重くなった。
亡くなられようとするときに、 鞍部多須奈くらつくりのたすなが前に進み出て、
「私は天皇のおんために出家して修道致します。また、丈六の仏(大きな仏像の意)と寺をお造り申しましょう」と奏上した。
天皇は悲しんで大声で泣かれた。
現在、南淵みなみぶち坂田寺さかたでらにある木造の丈六の仏と脇侍わきじの菩薩がこれである。

九日、天皇は大殿で崩御された。

秋七月二十一日、磐余池上陵(いわれのいけのえのみささぎ)に葬り祀った。

用明天皇陵「河内磯長原陵」推古朝において磐余池上陵から改葬
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

崇崚天皇 泊瀬部天皇

穴穂部皇子の死

泊瀬部天皇はつせベのすめらみこと欽明天皇きんめいてんのうの第十二子である。
母を稲目宿禰いなめのすくねの娘の小姉君おあねのきみという。

二年夏四月、用明天皇ようめいてんのうが崩御された。

五月、物部大連もののべのおおむらじの軍兵が、三度も人々を驚かし騒がせた。
大連おおむらじは、当初は他の皇子たちを顧みず、穴穂部皇子あなほべのみこを立てて天皇にしようとした。
しかし、今になって、狩猟をすることにかこつけて、自分の都合で立て替えようと思い、こっそり人を穴穂部皇子のもとに遣わして、
「願わくば、皇子と共に淡路で狩猟をしたいと思います」
と言った。
しかし、はかりごとが漏れた。

六月七日、蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくねらは、炊屋姫尊かしきやひめのみことを奉じて、佐伯連丹経手さえきのむらじにふて土師連磐村はじのむらじいわむら的臣真嚙いくはのおみまくいみことのりして、
「お前達は兵備を整えて急行し、穴穂部皇子あなほべのみこ宅部皇子やかべのみこを殺せ」
と命じた。
この日の夜中に、佐伯連丹経手さえきのむらじにふてらは、穴穂部皇子あなほべのみこの宮を囲んだ。
兵士はまず楼の上に登って、穴穂部皇子あなほべのみこの肩を射た。
皇子は楼の下に落ちて、そばの部屋へ逃げこんだ。
兵士らは火を灯して皇子を見つけ出し、殺した。

八日、宅部皇子やかべのみこを殺した。

宅部皇子やかべのみこ宣化天皇せんかてんのうの皇子で上女王の父である。
しかし詳しくは分らない。

皇子が穴穂部皇子あなほべのみこと仲が良かったので殺したのである。

二十一日、善信尼ぜんしんのあまらは大臣おおおみ(馬子)に語って、
「出家の途は、受戒することが根本であります。願わくば百済に行って、受戒の法を学んできたいと思います」
と言った。

この月、百済の調使みつぎのつかいが来朝したので、大臣おおおみは使人に語って、
「この尼達を連れてお前の国に渡り、受戒の法を習わせて欲しい。終わったならば還らせるように」
と言った。
使者は答えて、
「私共が国に帰って、まず国王に申し上げましょう。それから出発させても遅くないでしょう」
と言った。

物部守屋の敗北と捕鳥部万

秋七月、蘇我馬子宿禰大臣そがのうまこのすくねおおおみは、諸皇子と群臣まえつきみとに勧めて、物部守屋大連もののべのもりやおおむらじを滅ぼそうとはかった。
泊瀬部皇子はつせべのみこ竹田皇子たけだのみこ厩戸皇子うまやどのみこ難波皇子なにわのみこ春日皇子かすがのみこ蘇我馬子宿禰大臣そがのうまこのすくねおおおみ紀男麻呂宿禰きのおまろのすくね巨勢臣比良夫こせのおみひらぶ膳臣賀陀夫かしわでのおみかたぶ葛城臣烏那羅かずらきのおみおなららが、一緒になって軍勢を率い、大連おおむらじを討った。
大伴連嚙おおとものむらじくい阿倍臣人あべのおみひと平群臣神手へぐりのおみかむて坂本臣糠手さかもとのおみあらて春日臣かすがのおみ、これらは軍兵を連れて志紀郡しきのこおりから守屋の渋河の家に至った。
大連は自ら子弟と奴の兵士たちを率いて、稲を積んだ砦を築いて戦った。
大連は衣摺きぬすりの地の複の木股に登って、上から眺め射かけることは雨のようであった。
その軍は強く勢が盛んで、家に満ち野に溢れた。
皇子たちと群臣まえつきみの軍は弱くて、恐れをなし三度退却した。

このとき厩戸皇子うまやどのみこ瓠形ひさごがたの結髪をして、軍の後に従っていた。
何となく感じて、
「もしかすると、この戦いは負けるかも知れない。願をかけないと叶わないだろう」
と言われた。

そこで白膠木ぬりでを切りとって、急いで四天王の像を作り、束髪の上に乗せ、誓いを立てて言われた。
「今、もし私を敵に勝たせて下さったら、必ず護世四王ごせしおうのため寺塔を建てましょ う」
と言われた。
蘇我馬子大臣そがのうまこのおおおみもまた誓いを立て、
「諸天王と大神王たちが我を助け守って勝たせて下さったら、諸天王と大神王のために、寺塔を建てて三宝を広めましょう」
と言った。

誓い終って武備を整え進撃した。
迹見首赤檮とみのおびといちい大連おおむらじを木の股から射落して、大連とその子らを殺した。
これによって大連の軍は、たちまち自然に崩れた。
兵たちはこぞって賤しい者の着る黒衣をつけ、広瀬の勾原ひろせのまがりのはらに狩りをしているように装って逃げ散った。

この戦役に大連の子と一族とは、あるいは葦原に逃げ隠れ、姓を改め名を変える者もあった。
あるいは逃げ失せて逃亡先も分らなかった。
当時の人は語り合って言った。
蘇我大臣そがのおおおみの妻は、物部守屋もののべのもりやの妹だ。大臣は軽々しく妻の計を用いて、大連を殺した」

乱が収まって後に、摂津国せっつのくに四天王寺してんのうじを造った。
大連の家のやっこ奴隷)の半分と、居宅とを分けて、 大寺(四天王寺)の奴と田荘にした。
田を一万代(一代は百畝)を迹見首赤檮とみのおびといちいに賜わった。

蘇我大臣そがのおおおみは誓願の通りに、飛鳥の地に法興寺(飛鳥寺)を建てた。

物部守屋大連もののべのもりやおおむらじの近侍である捕鳥部万ととりべのよろずは、百人を率いて難波なにわ守屋もりやの宅を守った。
しかし、大連おおむらじが滅んだと聞いて、馬に乗り夜逃げして、茅淳県ちぬのあがた有真香邑ありまかのむら貝塚市)に行った。
妻の家を抜けて、ついに山に隠れた。

朝廷では相談して、
よろずは逆心を抱いていたため、山の中に隠れたのだ。速やかに一族を滅ぼすべきである」
となった。
よろずは、着物が破れ垢だらけで、顔も憔悴して、弓を持ち剣を帯びて、一人山から出てきた。
役人は数百の兵士を遣わして万を囲んだ。
万は驚いて竹藪に隠れた。
縄を竹につないで引き動かし、自分が逃げ込んだ所を誤魔化した。

兵士たちは欺かれて、揺れ動く竹を目がけて馳けつけ、
よろずはここにいる」
と言った。

するとよろずは矢を放った。
一つとして当らぬものはなかった。
兵士らは恐れて、敢えて近づけなかった。

よろずは弓の弦を外して脇に挟み、山に向って逃げた。
兵士らは河を挟んで追いかけ、射た。
皆、当てることができなかった。

この時、一人の兵士があり、早く駆けてよろずの先方に出て、河のそばに伏して、弓に矢をつがえ、万の膝に射当てた。
よろずは矢を抜きとり、弓を引き矢を放った。
地に伏して呼びかけて言った。
よろずは天皇の御楯みたてとして、その勇を表そうとしたが、聞いて頂けず、かえってこの窮地に追いこまれてしまった。共に語るに足る人は来い。私を殺そうとするのか捕えようとするのか聞きたい」
兵士らは競い合って万を射た。
万は即座に飛んでくる矢を払い防ぎ、三十余人を殺した。
また持っていた剣で、その弓を三段に切り砕き、その剣を押し曲げて河中に投じた。
別に小刀で自ら頸を剌して果てた。

河内国司かわちのくにのみこともちは、よろずの最期の有様を朝廷に報告した。
朝廷は牒符(命令書)を下して述べ、
「八つ切りにして、八つの国に串刺しにしてさらせ」
と命じた。

河内国司かわちのくにのみこともちが指示に従い、これを切り串刺しにする時に、雷鳴が轟き、大雨が降った。
よろずが飼っていた白犬があった。
屍のほとりをぐるぐる回り、天に向って吠えた。
やがて万の頭を咥え出して、古い墓に収めた。
犬は頭のそばに横臥して、ついに飢え死んだ。
河内国司かわちのくにのみこともちはその犬をいぶかしく思って、検べて朝廷に報告した。

哀れに堪えず思われた朝廷では、布告を下し褒められて、
「この犬は世にも珍しい犬である。後世に示すべきだ。万の同族に命じて墓を造り葬らせよ」
と言われた。
これによって万の一族が有真香邑ありまかのむらに墓を並べて造り、万と犬とを葬った。

河内国司かわちのくにのみこともちはまた、
餌香えかの川原に殺された人があり、数えると数百もあります。屍体は腐爛して名前も分かりません。ただ衣の色を見てその躯を引き取っています。ところが、桜井田部連胆淳さくらいのたべのむらじいぬが飼っていた犬は、躯を咥え続けて横たわり、しっかりと守っていました。自分の主を墓に収めさせて、初めて離れて行きました」
と報告した。

八月二日、炊屋姫尊かしきやひめのみことと群臣が、天皇に勧めて即位の礼を行った。
蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくねを前のように大臣とした。
群卿まちきみたちの位もまた元の如くであった。

この月に、倉梯くらはしに宮殿を造った。

元年春三月、大伴糠手連おおとものあらてのむらじの娘である小手子こててを立てて妃とした。
蜂子皇子はちのこのみこ錦代皇女をにしきてのひめみこお生みになった。

法興寺の創建

この年、百済が使いに合せて、僧である恵総えそう令斤りょうこん恵寔えしょく寔の本来の漢字は、穴冠に是)らを遣わして、仏舎利ほとけのしゃりを献上した。
百済国は、恩率首信おんそつすしん徳率蓋文とくそつこうもん那率福富味身なそつふくふみしんらを遣わして調を献上し、同時に仏舍利ほとけのしゃりと僧の聆照律師りょうしょうりっし令威りょうい恵衆えしゅう恵宿えしゅく道厳どうごん令開りょうけらと、寺院建築工である太良未太だらみだ文賈古子もんけこし鑪盤博士ろばんのはかせ将徳白昧淳しょうとくはくまいじゅん瓦博士かわらのはかせ麻奈文奴まなもんぬ陽貴文ようくいもん悛貴文りょうくいもん昔麻带弥しゃくまたいみ画工えたくみ白加びゃくかを奉った。

蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくねは百済の僧たちに、受戒の法を請い、善信尼ぜんしんのあまらを、百済の使者である恩率首信おんそつすしんらにつ けて、学問をさせるため発たせた。
飛鳥衣縫造あすかのきぬぬいのみやつこの先祖の樹葉このはの家を壊して、はじめて法興寺を造った。
この地を飛鳥あすか真神原まがみのはらと名づけた。
または飛鳥あすか苫田とまだともいう。

この年、太歳戊申たいさいつちのえさる

法興寺(飛鳥寺)
663highland [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

二年秋七月一日、近江臣満おうみのおみみつ東山道やまのみちの使者として遣わし、蝦夷えみしの国の国境を視察させた。
宍人臣雁ししひとのおみかりを東海道の使者とし、東方の海辺の国を視察させた。
阿倍臣あべのおみを北陸道の使者とし、こしなどの諸国の境を視察させた。

三年春三月、学問僧の善信尼ぜんしんのあまらが百済から帰って、桜井寺さくらいのてら(別名、向原寺)に住んだ。

冬十月、山に入って寺(法興寺)の用材を伐った。

この年、出家した尼は、大伴狭手彦連おおとものさてひこむらじの娘である善徳ぜんとく大伴狍おおとものこまの夫人である新羅媛善妙しらぎひめぜんみょう百済媛妙光くだらひめみょうこう漢人あやひと善聡ぜんそう善通ぜんつう妙徳みょうとく法定照ほうじょうしょう善智聡ぜんちそう善智恵ぜんちえ善光ぜんこうらである。
鞍部司馬達等くらつくりのしめたつとの子である多須奈たすなも同時に出家した。
名づけて徳斉法師とくさいほうしという。

四年夏四月十三日、敏達天皇びだつてんのう磯長陵しながのみささぎに葬った。
これはその母の皇后の葬られたみささぎである。

秋八月一日、天皇は群臣に、
「私は新羅しらぎに滅ぼされた任那みまなを再建したいと思うが、けい等はどう思うか」
とお尋ねになった。
群臣まえつきみはお答えして言った。
任那みまな官家みやけを復興すべきであります。皆、陛下の思召しと同じです」

冬十一月四日、紀男麻呂宿禰きのおまろのすくね巨勢猿臣くせのさるのおみ大伴嚙連おおとものくいのむらじ葛城烏奈良臣かずらきのおならのおみを、大将軍に任じ、各氏族の臣や、連を副将や隊長とし、二万余の軍を従えて、筑紫ちくしに出兵した。
吉士金きしのかね新羅しらぎに遣わし、吉士木蓮子きしのいたび任那みまなに遣わして任那のことを問わせた。

天皇暗殺

五年冬十月四日、ししを奉る者があった。
天皇は猪を指さしておっしゃった。
「いつの日か、この猪の頸を斬るように、私が憎いと思うところの人を斬りたいものだ」
朝廷で武器を集めることが、いつもとどうも違っていることがあった。

十日、蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくねは、 天皇が仰せられたという言葉を聞いて、自分を嫌っておられることを警戒した。
一族の者を招集して、天皇を殺すことを謀った。

この月、大法興寺(飛鳥寺)の仏堂と歩廊の工を起こした。

十一月三日、馬子宿禰うまこのすくね群臣まえつきみを騙して言った。
「今日、東の国から調を奉ってくる」
そして東漢直駒やまとのあやのあたいこまを使者として、天皇を殺し奉った。

ある本には、東漢直駒やまとのあやのあたいこまは、東漢直磐井やまとのあやのあたいいわれの子であるとある。

この日、天皇を倉梯岡陵くらはしのおかのみささぎに葬った。

ある本には、大伴嬪小手子おおとものみめこててが、寵愛の衰えたことを恨んで、人を蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくねのもとに送り、
「この頃、ししを奉った者がありました。天皇は猪を指さして、『ししくびを斬る如くに、いつの日か、私が思っているある人を斬りたい』と言われました。また、内裏だいりに多くの武器を集めておられます」
と告げた。
これを聞いて馬子宿禰うまこのすくねはたいへん驚いたとある。

五日、早馬を筑紫ちくしの将軍たちのところに遣わして、
「国内の乱れによって、外事を怠ってはならぬ」
と伝えた。

この月、東漢直駒やまとのあやのあたいこまは、蘇我嬪河上娘そがのみかめかわかみのいらつめ崇峻天皇の嬪)を奪って自分の妻とした。
馬子宿禰うまこのすくねは、たまたま河上娘かわかみのいらつめが駒に盗まれたことを知らないで(河上娘は馬子の娘)、死んだものかと思っていた。
こまは嬪を汚したことが露見し、大臣によって殺された。

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倉梯岡陵として有力視されている赤坂天王山古墳

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