魏志倭人伝を畿内説として読む
ウィキペディアに掲載されている「魏志倭人伝」の文章を元に、畿内説に当てはめてみよう。
まずは全体像から。
(末盧国までの過程は九州説と同じ)
帯方郡〜邪馬台国: 帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。
帯方郡から邪馬台国まで、1万2000余里とされている。
帯方郡は、現在の韓国・ソウル市周辺にあったと考えられている、魏(古代中国)の地方拠点のこと。
おそらくは朝鮮半島周辺を治めるために用意された場所と思われる。
■帯方郡(wikipedia)
そこから「約12,000里」の位置にあるのが「倭国」。
魏志倭人伝には,帯方郡(ソウル)から倭国と邪馬台国に至るまでの経路が記されている。
魏志倭人伝の記述に沿って、距離を測定してみる。
ソウル周辺〜釜山周辺 : 帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭の北岸の狗邪韓国に到着する。
釜山周辺〜対馬:(狗邪韓国から)海を1000余里渡ると、対馬国に至る。
対馬〜壱岐島: また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。
壱岐島〜東松浦半島: また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。
合計、10,000里。
この時点で邪馬台国まで残り「2,000里」となる。
距離の基準「里」を1里=0.4kmではなく、「短里」で解釈する
「里」を「1里=0.4km」ではなく、短めに解釈しようということ。
これを短里説と呼ぶ。
実際に、比定地がほぼ確定的な帯方郡(ソウル近辺)から末廬国(松浦半島)までの距離を、グーグルマップで測ると以下のようになる。
ソウルから釜山まで:約600km
釜山あたりから対馬北部まで:約60km
対馬南部から壱岐島までが約50km
壱岐島から松浦半島までが約30km
その距離は、魏志倭人伝では、
ソウル:釜山間 = 7000里
釜山:対馬間 = 1000里
対馬:壱岐島間 =1000里
壱岐島:東松浦半島間 = 1000里
である。
これを図にしてみた。
このように、妥当な距離感であることが分かる。
当時の技術では、完璧な距離計測は不可能であろう。
ましてや水路となると、海流の影響を受けるため、計測は更に困難となる。
釜山(狗邪韓国)から対馬、壱岐島、松浦半島の間をすべて「1000里」として統一しているのも、そういった理由からだと考えられる。
おそらく当時は、船を用いて1日かけて渡りきれる距離を「1000里」としていたのではないだろうか。
とは言え、1000里はだいたい「60〜90km」のことを指すものと考えられる。
1里は、およそ80mほどであろう。
「帯方郡から1万2000里」が、邪馬台国・国境までの距離
ところで、帯方郡から末盧国までの合計が10,000里であるため、
この時点で邪馬台国まで残り「2,000里」となる。
それをもって、
「魏志倭人伝の記述通りに進むと,邪馬台国の位置は九州から出ない」
というのが邪馬台国九州説の論拠である。
しかし、邪馬台国を「奴国」以東の地として考えると「畿内説」でも話は通る。
魏志倭人伝の続きを読んでいこう。
末盧国(東松浦半島)から先は、伊都国(糸島半島)、奴国(博多)、不弥国(宇美町)へと徒歩で向かう。
伊都国は糸島半島周辺、奴国は福岡市博多周辺、不弥国は宇美町周辺が有力視されているため、この記事ではそれを用いて比定してみる。
東松浦半島〜糸島半島: 東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。
糸島半島〜博多: 東南に100里進むと奴国に至る。
博多〜宇美町: 東へ100里行くと、不弥国に至る。
距離も、短里で計算すれば妥当な位置関係にあることがわかる。
これを図示すると以下のようになる。
興味深いことに、ここから先は、魏志倭人伝の記述は「距離」ではなく、水行・陸行の「日数」で表される。
不弥国〜投馬国: 南へ水行20日で、投馬国に至る。
投馬国〜邪馬台国: 南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。
「南へ水行」という記述は近畿説には不利になるが、これは最古の世界地図でもある、中国の「混一疆理歴代国都之図」などに記されている日本地図の解釈が採用されている。
当時の中国では、東日本は九州の南方にあると思われていたのである。
陸路で小刻みに進んでいるうちは方位が比較的正確に分かるが、大まかな進路、つまり、邪馬台国に向かって進んでいる使節団にとっては、近畿方面に向かっていることを「南下している」と捉えていた可能性は高い。
混一疆理歴代国都之図を以下に示す(画像はウィキペディアより)。
右下の部分が日本。
「南へ水行20日」の「投馬国」はどこか?
まず、「南へ水行20日」で向かう投馬国として、「距離」および「記録するに値する国力」がある場所として有力視されているのは、日本海ルートの「出雲」と、瀬戸内海ルートの「吉備」である。
「南へ水行10日、陸行1月」で邪馬台国(近畿)へ
次に、「南へ水行10日、陸行1月」で向かう邪馬台国に着くためには・・・、
日本海ルート:豊岡もしくは舞鶴で上陸し、奈良盆地を目指すルートが有力か?
瀬戸内海ルート:淡路島周辺で陸路に切り替え、奈良盆地を目指すルート。
なぜ「陸行1月」をしなければいけなかったのか? という疑問は残るが、距離・時間の帳尻合わせをすると、この手順になる。
考えられることとしては、外国からの訪問者に紹介し、立ち寄らせたかった国(街)があった、といったところか。
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