邪馬台国・九州説「太宰府周辺」

邪馬台国
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邪馬台国と女王国の解釈

九州北部全域が「邪馬台国」

邪馬台国の「女王国」を、「奴国」と「不弥国」に隣接する太宰府・大野城市あたりに比定する説である。
この説では、倭国・邪馬台国・女王国の解釈が大事である。

魏志倭人伝では、伊都国から先の記述がこのようになっている。

(行程のみ掲載し、官については略した)
原文:東南至奴國百里 
   東行至不彌國百里 
   南至投馬國 水行二十日
   南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月

日本語訳:東南に100里進むと奴国に至る。
     東へ100里行くと、不弥国に至る。
     南へ水行20日で、投馬国に至る。
     南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。

日本語訳はウィキペディアによる

不弥国までは距離が書かれているのに、投馬国と邪馬台国は日数で表現されている。
この違いに着目し、「女王の都のある邪馬台国」という表現にポイントをおく。

つまり、この魏志倭人伝は、倭人の住む「倭国」には投馬国と邪馬台国があって、そのなかで統治者(女王)がいるのは邪馬台国であると記しているのである。
図示すれば、以下のようになる。
詳細は、
邪馬台国・九州説
を参照のこと。

そうしたなかでも、この「太宰府周辺説」では、対馬国〜女王国までの九州北部全域(もしかすると、狗邪韓国も)を「邪馬台国」の領域と考える。

投馬国はどこか?

一方、投馬国については上図のようには解釈できない可能性が高い。
邪馬台国の南には、敵対関係にあった「狗奴国」があるとされている。

そのため、投馬国は関門海峡を越えて九州東部「豊国」に至ったかもしれないし、日本海方面に東進した先にある、島根(出雲)あたりを指していたのかもしれない。

太宰府周辺までの行程と解釈

邪馬台国は以下のように九州北部全域(もしくは狗邪韓国も含め)を指しているのだ。
そして、女王国がある場所まで1万2000里だと書いているわけである。

原文:自郡至女王國 萬二千餘里

日本語訳:帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。

日本語訳はウィキペディアによる

女王国は、不弥国とほど近い場所だと考えられる。
おそらく奴国とも至近距離の関係だ。
あまりに近いため、そこから距離を書き加える必要がなかったのかもしれない。
位置関係は以下のようになる。

奴国と不弥国の位置は、それぞれの定説である「奴国=博多周辺」「不弥国=宇美町周辺」をそのまま採用できる。
女王国(太宰府)は、その中間地帯にあると言ってもいい。

一大率は、女王国の玄関口に置いていた

原文:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。

和訳:女王国より北に特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れており、伊都国に常駐していた。

魏志倭人伝・日本語訳はウィキペディアによる

女王国の北に配置されていたとされる「一大率」は、女王国にとっての玄関口に置いていたことになる。
おそらく、御笠川のそばに用意されており、川を登って入ってくる船などを検察していたのであろう。

その他の21カ国

原文:自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳  次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國  此女王境界所盡

日本語訳:女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。

魏志倭人伝・日本語訳はウィキペディアによる

この女王国の以北の「その他の国々」は、古賀市や宗像市を通って北九州市や飯塚市、直方市など(もしかすると、宇佐あたりまで)にあった国々を指しているのかもしれない。
そこまでが「邪馬台国」が統治している国であり、女王の権威が届いている場所なのである。

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