邪馬台国・畿内説「纏向遺跡周辺」

邪馬台国
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ヤマト王権のお膝元

邪馬台国・畿内説のなかでも、特に有力視されているのが奈良県「纏向遺跡」である。
魏志倭人伝において邪馬台国があったとされる時代(3世紀半ば)と同時代(始期:2世紀〜3世紀頃、最盛期:3世紀後半〜4世紀)の遺跡であり、さらに「女王卑弥呼の宮殿」として相応しい規模でもある。

纏向遺跡は、その後に奈良盆地で勃興した「ヤマト王権」の初期国家・都市であることはほぼ間違いなく、魏志倭人伝に記された邪馬台国を指す可能性は非常に高い。

また、「邪馬台国」の読み方についても、「ヤマタイコク」ではなく、「ヤマトコク」と読むこともできる。
畿内において、その後ヤマト王権が始まったことを鑑みれば、この邪馬台国は「ヤマトコク」と読んでいた可能性も考えられる。

纏向遺跡までの行程

東に向かっているのに、「南へ水行」の謎

邪馬台国を纏向遺跡周辺と比定した場合、考えられるその行程は以下のようになる。

まず、一般的に「畿内説」では瀬戸内海ルートと日本海ルートが考えられる。
畿内説の多くでは、「不弥国」を北九州市周辺と考え、そこから先の記述である、「投馬国」と「邪馬台国」に至るまでの記述をどのように解釈するかが悩みどころである。

不弥国〜投馬国: 南へ水行20日で、投馬国に至る。
投馬国〜邪馬台国: 南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。

瀬戸内海ルートでは、不弥国(北九州市)の東岸から船を南方(大分県沿岸部)に出し始め、
*周防大島
*安芸(広島)
*吉備(岡山)
*姫路
といったルートで東進するものである。

一方、日本海ルートでは、不弥国(北九州市)から山口県まで北上して本州日本海側に出て、
*萩
*出雲(島根)
*因幡(鳥取)
*豊岡・丹後
といったルートで東進するものである。

しかし、いずれのルートも、「南へ向かう」というイメージではなく、東へ向かっているとしか思えない。
これについては、当時の中国では日本の近畿・東日本方面を「南」だと認識していた可能性が高いと解釈することが多い。

これは世界最古の世界地図でもある、中国の「混一疆理歴代国都之図」などに記されている日本地図の解釈が採用されている。
これらの詳細は、
*邪馬台国・畿内説
を参照のこと。

wikipedia:混一疆理歴代国都之図

つまり、倭国(日本)を帯方郡の南にあるとし、そこから先に進むことは「南下している」と考えたわけである。
最初に近畿地方を九州よりも南に位置していると認識してしまうと、たとえ途中の行程で東進していても、結局のところ「私たちは南へ向かっている」と捉えるわけだ。

瀬戸内海ルート

纏向遺跡を終着点とした場合の瀬戸内海ルートを考えてみる。

原文:南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸

日本語訳:南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。

日本語訳やウィキペディアによる

船で20日間かける瀬戸内海側の投馬国の候補地としては、5万戸という規模から考えて「古代吉備王国(岡山周辺)」ではないかと考えられる。
「とうま」という音から、広島県福山市の「鞆(とも)」(鞆の浦)という説もある。
吉備は広島県東部から岡山県全域にまたがる大規模な勢力であったことから、ちょうど鞆の浦がその中心になる。
ここまでにかけられる水行20日は、妥当な距離である。

原文:南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸 

日本語訳:南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。

日本語訳やウィキペディアによる

瀬戸内海ルートで不利なのは、邪馬台国に至るまでの日数である。
水行10日で明石海峡から大阪湾に出るが、そこから先の陸行1ヶ月が長過ぎる。

かつての大阪湾は、生駒山付近まで海が広がっていた。
それを中世から現代にかけて、自然の海抜低下と、埋め立てによって陸地を広げてきたのである。
大阪を「水の町」と呼ぶ由来である。

当時の様子については、「Flood map」というウェブサイトを使えば、それをシミュレーションできる。
「Flood map」http://flood.firetree.net
以下では、海抜を+4mさせた近畿地方のシミュレーション図である。

つまり、なおのこと纏向遺跡までの「陸行1ヶ月」が長過ぎるのである。

これについては、明石・神戸付近で上陸した後、徒歩で周辺国を視察・巡回しながら纏向遺跡まで進んだのかもしれない。
図示すると以下のようになる。

日本海ルート

纏向遺跡を終着点とした場合の日本海ルートを考えてみる。

原文:南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸

日本語訳:南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。

船で20日間かける日本海側の投馬国の候補地としては、5万戸という規模から考えて「古代出雲王国(出雲市周辺)」ではないかと考えられる。
ここまでにかけられる水行20日は、妥当な距離である。

原文:南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

日本語訳:南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。

邪馬台国までの行程は様々考えられる。
まず、水行10日でどこまで行くか? であるが、候補として、
*舞鶴・小浜で上陸
*豊岡から円山川を登る
が考えられる。

ここでは、古代より水路として利用されることの多かった「円山川を登る」ルートで検討してみた。
その場合、豊岡市街から朝来市街くらいまで登ることができた可能性がある。
ここから陸行1ヶ月する。
この地には福知山、丹波、篠山といった古代からある集落がつらなるため、そうした国々を回りながら進んだものと考えられる。
それらを図示すると以下のようになる。

邪馬台国の周辺

邪馬台国を纏向遺跡周辺と考えた場合、その周辺関係は以下のようになる。

女王国

畿内説を採用する場合、
「女王国の東の海を1000里渡った先に別の倭人の国がある」
という記述を解釈するためには、「女王国」の捉え方が課題になる。

奈良(纏向遺跡)は内陸であるため、「東の海を渡る」ことはできない。
これを解釈するためには、伊勢湾まで「女王国」の範囲を広げなければいけない。

つまり、

邪馬台国=女王国

ではなく、

女王の権威が及ぶ範囲=女王国

と解釈する方が妥当である。
そうであれば、「女王国」が指す範囲とは、航行してきた伊勢湾より西の西日本全域が該当する。
三重県伊勢・鳥羽周辺から、渥美半島へと抜ける渡海ルートが古代から存在しているため、それを指しているのかもしれない。

狗奴国

畿内説における狗奴国の候補としては、和歌山県、四国、九州南部が有力視されている。

また、『後漢書』における「倭人伝」では、狗奴国の記述は、

女王国から東に海を1000里渡った先に、狗奴国がある

となっていることから、魏志倭人伝が言う「別の倭種」が住むとされる東に1000里海を渡ったところ、つまり東海・関東地域のことを指すのかもしれない。

一大率は大阪・淀川の川辺

邪馬台国・畿内説における「一大率」は、周辺諸国の船が集まる大阪の淀川が有力候補である。
もしくは、現在の奈良市の北部・木津川市を流れる木津川に置かれていた可能性もある。

一大率の仕事は、港での積荷チェックである。

女王国の北には、特別に一大率の官を置き諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。常に伊都国で治めている。あたかも中国でいうところの刺史(長官)のようである。
倭王が魏の都や帯方郡、韓の国に使者を派遣したり、帯方郡の使者が倭国に遣わされた時は、いつも港に出向いて荷物の数目を調べ、送られる文書や賜り物が女王のもとに届いたとき、間違いがないように点検する。

日本語訳はウィキペディアによる

邪馬台国に近いところでは一大率が厳重にチェックし、玄関口でのチェックは伊都国で行なっていたのであろう。

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