仲哀天皇 足仲彦天皇
天皇即位
足仲彦天皇は日本武尊の第二子である。
母の皇后は、垂仁天皇の娘である両道入姫命という。
天皇は容姿端正で身丈は十尺あった。
成務天皇の四十八年に皇太子となられた。
時に、年三十一。
成務天皇は男児がなかったので、自分の後継とされた。
六十年、天皇が亡くなられた。
翌年秋九月六日、倭の狭城盾列陵に葬った。
元年春一月十一日、太子は皇位につかれた。
秋九月一日、母の皇后を尊んで皇太后と呼ばれた。
冬十一月一日、群臣に詔して、
「私はまだ二十歳にならぬとき、父の王は既に亡くなった。魂は白鳥となって天に上った。慕い思う日は一日も休むことがない。それで白鳥を陵のまわりの池に飼い、その鳥を見ながら父を偲ぶ心を慰めたいと思う」
と言われた。
諸国に令して白鳥を献上させた。
閏年十一月四日、越国から白鳥四羽を奉った。
鳥を奉る使いの人が、宇治川のほとりに宿った。
蘆髪蒲見別王がその白鳥を見て、
「どちらに持っていく白鳥か」
と問われた。
越の人が答えた。
「天皇が父の王を恋しく思われて、飼いならそうとしておられるので、奉るのです」
と言った。
蒲見別王は越の人に、
「白鳥と言っても、焼いたら黒鳥になるだろう」
と言われた。
そして無理に白鳥を奪っていってしまった。
越の人はそれを報告した。
天皇は蒲見別王が、 先王に対して無礼なことを憎まれ、兵を遣わしてこれを殺された。
蒲見別王は天皇の異母弟である。
当時の人は言った。
「父は天であり、兄(仲哀天皇)は天皇である。天をあなどり君に背いたならば、どうして罪を免れようか」
この年、太歳壬申。
二年春一月十一日、気長足姫尊を皇后とされた。
これより先に叔父である彦人大兄の娘である大中媛を妃とされた。
籠坂皇子、忍熊皇子を生んだ。
次に、来熊田造の祖である大酒主の娘、 弟媛を娶とって誉屋別皇子を生んだ。
二月六日、敦賀にお出でになった。
行宮を立ててお住まいになった。
これを笥飯宮という。
その月に淡路の屯倉を定められた。
熊襲征伐に神功皇后同行
三月十五日、天皇は南海道を巡幸された。
そのとき、皇后と百寮を留めおかれて、駕に従ったのは二〜三人の卿と、官人数百人とで紀伊国にお出でになり、徳勒津宮に居られた。
このとき、熊襲が背いて貢を奉らなかった。
天皇はそこで熊襲を討とうとして、徳勒津を発って、船で穴門(山口県)にお出でになった。
その日、使いの者を敦賀に遣わされて、皇后に勅して、
「すぐにそこの港から出発して穴門で出会おう」
と言われた。
夏六月十日、天皇は豊浦津(山口県豊浦)に泊まった。
皇后は敦賀から出発して、濘田門(福井県)に至り、船上で食事をされた。
そのとき、鯛が沢山船のそばに集まった。
皇后が鯛に酒を注がれると、鯛は酒に酔って浮かんだ。
漁人は沢山その魚を得て、喜んで言った。
「聖王(神功皇后)のくださった魚だ」
鯛は六月になると、いつも浮き上ってロをパクパクさせ酔ったようになる。
それはこれが由来である。
秋七月五日、皇后は豊浦津に泊った。
この日、皇后は如意の珠(願い事がかなう珠)を海から拾われた。
九月、宮室を穴門に建てて住まわれた。
これを穴門豊浦宮という。
八年春一月四日、筑紫にお出でになった。
岡県主の先祖の熊鰐が、天皇がお越しになったことを聞いて、大きな賢木を根こぎにして、大きな船の舳に立てて、上枝に白銅鏡をかけ、 中枝には十握剣をかけ、下枝には八尺瓊をかけて、周芳の沙麼(山口県佐波)の浦にお迎えした。
御料の魚や塩をとる区域を献上した。
申し上げて、
「穴門より向津野大済(大分県宇佐・向野)に至るまでを東門とし、名籠屋大済(福岡県戸畑の名籠屋崎)を西門とし、没利島(六連島)、阿閉島(藍島)を限って御笪とし、柴島を割いて御甂とする。逆見の海を塩地としたい」
と言った。
海路の案内をして、山鹿岬からめぐって岡浦に入った。
しかし、入口に行くと船が進まなくなった。
熊鰐に尋ねられ、
「熊鰐は清らかな心があってやって来ているのに、なぜ船が進まないのだろう」
と言われた。
熊鰐は、
「船が進まないのは私の罪ではありません。この浦のロに男女の二神がいます。男神を大倉主、女神を菟夫羅媛といいます。きっとこの神の御心によるのでしょう」
と言った。
天皇はお祈りをされ、舵取りの倭国の菟田の人、伊賀彦を祝として祭らされた。
すると船は動いた。
皇后は別の船に乗っておられ、洞海よりお入りになったが、潮がひいて動くことができなかった。
熊鰐はまた返って洞海から皇后をお迎えしようとした。
しかし、船の動かないのを見て恐れかしこまり、急いで魚池、鳥池を作って、魚や鳥を集めた。
皇后はこの魚や鳥をご覧になって、怒りの心もやっと解けた。
潮が満ちてきて岡津に泊られた。
また、筑紫の伊都県主の先祖、五十迹手が天皇がお出でになるのを聞いて、大きな賢木を根こぎにして、船の舳臚に立て、上枝には八尺瓊をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握剣をかけ、穴門の引島(彦島)にお迎えした。
そして申し上げるには、
「手前がこの物を奉りますわけは、天皇が八尺瓊の勾っているように、お上手に天下をお治め頂きますよう、また白銅鏡のように、明瞭に山川や海原をご覧頂き、十握剣をひっさげて、天下を平定して頂きたいからであります」
と言った。
天皇は五十迹手をほめられて、
「伊蘇志」
とおっしゃった。
当時の人は、五十迹手の本国を名づけて伊蘇国といった。
今、伊都というのは、これが訛ったものである。
二十一日、儺県にお着きになり、橿日宮(香椎宮)に居られた。
神の啓示
秋九月五日、群臣に詔して熊襲を討つことを相談させられた。
時に、神があって皇后に託し神託を垂れ、
「天皇はどうして熊襲の従わないことを憂えられるのか、そこは荒れて瘦せた地である。戦いをして討つのに足りない。この国よりも勝って宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩い金、銀、彩色などが沢山ある。これを栲衾新羅国という。もし、しっかりと私を祀ったら、刀に血ぬらないで、その国はきっと服従するであろう。また熊襲も従うであろう。その祭りをするには、天皇の御船と穴門直践立が献上した水田、名づけて大田という。これらのものをお供えとしなさい」
と述べられた。
天皇は神の言葉を聞かれたが、疑いの心がおありになった。
そこで、高い岳に登って遥か大海を眺められたが、広々としていて国は見えなかった。
天皇は神に答え、
「私が見渡しましたが、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましようか。どこの神が徒らに私を欺くのでしよう。また、我が皇祖の諸天皇たちは、ことごとく神祇をお祀りしておられます。どうして残っておられる神がありましょうか」
と言われた。
神はまた皇后に託して、
「水に映る影のように、鮮明に自分が上から見下している国を、どうして国が無いと言って、我が言を誹るのか。汝はそう言って結局実行しないのであれば、汝は国を保てないであろう。ただし、皇后は今、初めて孕っておられる。その御子が国を得られるだろう」
と言われた。
天皇はそれでも信じられず、その後も熊襲を討たれたが、勝てずに帰った。
九年春二月五日、天皇は急に病気になられ、翌日に亡くなられた。
時に、年五十二。
すなわち、神のお言葉を採用されなかったので早く亡くなられたとされる。
皇后と大臣の武内宿禰は、天皇の喪を隠して天下に知らされなかった。
皇后は大臣と中臣の烏賊津連、大三輪大友主君、物部胆咋連、大伴武以連に詔して、
「今、天下の人は天皇が亡くなられたことを知らない。もし人民が知ったなら、気がゆるむかも知れない」
と言われ、四人の大夫に命ぜられ、百察を率いて宮中を守らせられた。
こっそりと天皇の實骸を収めて、武内宿禰に任せ、海路から穴門にお移しした。
そして豊浦宮で、灯火を焚かないで仮葬された。
二十二日、大臣の武内宿禰は、穴門から帰って皇后に御報告した。
この年は新羅の役があって、天皇の葬儀は行われなかった。
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