日本書紀・日本語訳「第十八巻 安閑天皇 宣化天皇」

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安閑天皇 広国押武金日天皇

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天皇即位と屯倉の設置

勾大兄広国押武金日天皇まがりのおおえひろくにおしたけかなひのすめらみことは、継体天皇けいたいてんのうの長子である。
母を目子媛めのこひめという。
この天皇の人となりは、幼少のときから器量が優れ、計ることができないほどであった。
武威に優れ寛大で、人君としてふさわしい人柄であった。

二十五年春二月七日、継体天皇けいたいてんのう安閑天皇あんかんてんのうを即位させられた。
その日に、天皇は崩御された。

この月、大伴大連金村おおとものおおむらじかなむら大連おおむらじとし、物部麁鹿火大連もののべおあらかいのおおむらじ大連だいれんとすることは、共に元の通りであった。

元年春一月、都を倭国やまとのくに勾金橋まがりのかなはし橿原市曲川周辺)に移した。
よって、これを宮の名とした。

三月六日、役人は天皇のために、
仁賢天皇にんけんてんのうの娘の春日山田皇女かすがのやまだのひめみこに婚礼のしるしを贈り、皇后として迎えた(またの名を山田赤見皇女やまだのあかみのひめみこ)。

別に三人の妃を立てた。
許勢男人大臣こせのおひとのおおおみの娘である妙手媛さてひめ、紗手媛の妹である香香有嫒かかりひめ物部木蓮子大連もののべのいたびのおおむらじの娘である宅媛やかひめの三人である。

夏四月一日、内膳卿膳臣大麻呂かしわでのつかさのきみかしわでのおみおおまろが勅命を受けて使者を遣わし、真珠を上総の夷隅いすみに求めさせた。
夷隅いすみ国造くにのみやつこらは、京に出てくることが遅く、長らく奉ることがなかった。
膳臣大麻呂かしわでのおみおおまろは大変怒って、国造くにのみやつこらを捕え縛って、そのわけを質した。

国造くにのみやつこ稚子直わくごのあたいらは恐れかしこまって、後宮の寝殿に逃げ隠れた。
春日かすが皇后は、知らない者に出し抜けに入って来られて驚き、息をはずませて倒れてしまわれた。
そしてひどく恥かしく思われた。

稚子直わくごのあたいらはみだりに宮中にまぎれ入った罪で、罪科は重大であった。
恐れ謹んで、もっぱら皇后のために、夷隅いすみの屯倉を献上し、乱入の罪を償いたいとお願いした。
それによって夷隅の屯倉いすみのみやけが設けられた。
現在、これを分けてこおりとし、上総国に属している。

五月、百済くだら下部脩徳かほうしゅうとく嫡徳孫ちゃくとくそん上部都徳しょうほうととく己州己婁こつこるらを遣わして、調を奉り、別に上表文を奉った。

秋七月一日、みことのりして、
「皇后は身分は天皇に等しいが、後宮にあるため外部には知らぬ者も多い。それで屯倉みやけの地を充てて、皇后の宮殿を建て、後の世に跡を残すことにしたい」
と言われた。

そこで勅使ちょくしを遣わして良田を探させた。
勅使は命を受けて大河内直味張おおしこうちのあたいあじはりに、
「今、お前は肥えた良田を差し出しなさい」
と言った。

味張は急に惜しくなって、勅使を欺いて、
「この田は日照りになると水を引くことが難しく、溢水があると水浸しになります。苦労することは甚だ多く、収穫は大変少ないのです」
と言った。
勅使はその言葉のままに復命して、包むことがなかった。

冬十月十五日、天皇は大伴大連金村おおとものおおむらじかなむらに勅して、
「私は四人の妻を召し入れているが、今に至るまで嗣子がない。万世の後に、我が名は絶えてしまう。大伴の伯父おきなよ。今、何とか考えてみてくれ。いつもこのことを思うと、心配なのだ」
と言われた。
大伴大連金村おおとものおおむらじかなむらは、
「このことは、また私の案じ申し上げていることです。我が国で天下に王たる者は、嗣子があるかないかに関わらず、何か記念するものを残して、それによって自分の名を後世に残しておられま す。どうか皇后や次の妃のために、屯倉の地をたてて後世に残し、その跡を明らかにしたいものです」
と言った。
みことのりをして、
「よろしい。速やかに設けよう」
と言われた。

大伴大連金村おおとものおおむらじかなむらが奏上して、
小墾田の屯倉おはりだのみやけと、国毎にいる田部の民たべのたみ農民の意味)とを、紗手媛さてひめに賜わりますよう。桜井の屯倉さくらいのみやけと諸国の田部たべを、香香有媛かかりひめに賜わりますよう。難波の屯倉なにわのみやけと郡毎にいる钁丁くわよぼろ田部に似た農民)を、宅媛やかひめに賜わりますよう。これらをもって後世に示し、昔を忘れさせないようにしましょう」
と言った。
みことのりして、
「お前の言う通りに施行しよう」
と言われた。

大河内味張の後悔

うるう十二月四日、三島みしま大阪府三島)に行幸された。
大伴大連金村おおとものおおむらじかなむらが従って行った。
天皇は金村かなむらを遣わし、良田を県主あがたぬし飯粒いいぼに問われた。
飯粒いいぼはこの上なく喜び、誠心を尽してお応えした。
よって上三野かみのみの下三野しものみの上桑原かみのくわはら下桑原しものくわはらを一括し、竹生たかふの土地、合計四十町を献上した。

大伴大連おおとものおおむらじみことのりを受け、
「普天の下、王土に非ざるはなく、率土の浜、王土に非ざるはない。それで先帝は御名を世にあらわし、天地日月にも匹敵する大きさと輝きをもって長駕して民を愛撫し、都の外に出でては、領民の上に恵みを行き渡らせられた。御徳は天の果て地の果てまでも及び、四方八方に行き渡った。礼楽を制定して、政治の安定していることを明かにした。その反応は確かに現れて、めでたく喜ばしいことは、聖王の昔と全く変るところがなかった。お前は、国中に有るか無きかの臣下の一人に過ぎない。にわかに王土を惜しむ気を起こし、勅使を軽んじ従わなかった。味張は今後、郡司の役にあずかることはならぬ」
と告げた。

県主飯粒あがたぬしのいいぼは、みことのりを賜わったことで、喜び、且つ畏まり、その子の鳥樹とりき大連金村おおむらじかなむらに奉って、従者のわらわとした。

大河内直味張おおしこうちのあたいあじはりは恐れ畏まり、地にひれ伏して冷汗を流した。
そして大連おおむらじに、
「愚民の手前どもの罪は万死に当ります。どうか願わくば、今後、郡毎に钁丁くわよろぼを春に五百人、秋に五百人、天皇に奉って、子々孫々に至るまで絶やしません。これによってお許しを乞い、後の戒めと致します」
と言った。
また別に、河内の狭井田六町を、大伴大連おおとものおおむらじに贈った。
三島郡みしまのこおり竹生屯倉たかふのみやけには、河内県の部民を田部たべとすることの始まりがここにあったと考えられる。

この月、廬城部連枳莒喩いおきべのむらじきこゆの娘である幡媛はたひめが、物部大連尾輿もののべのおおむらじおこしたまの首飾りを盗み、春日かすが皇后に奉った。
事が露見すると枳莒喩きこゆは、娘の幡媛はたひめを宮中の采女うねめの召使女として献じ、合せて安芸国過戸あきのくにのあまるべ廬城部屯倉いおきべのみやけを献上し、娘の罪を償った。
物部尾輿もののべのおこしは事件が自分にかかり合いがあることを恐れ、不安を感じ、大和国の十市部とおちべ、伊勢国の来狭々くささ、登伊の贄土師部にえのはじべや、筑紫国の胆狭山部いさやまべなどを献上した。

武蔵国造の争いおょび屯倉

武蔵国造の笠原直使主かさはらのあたいおみと同族の小杵おきとは、国造くにのみやつこの地位を争って、長年決着しなかった。

小杵おきは性格が激しくて人に逆らい、高慢で素直でなかった。
ひそかに上毛野小熊かみつけのおくまに助力を求め、使主おみを殺そうと図った。
使主おみはそれに気づき、逃げ出して京に到り、実状を言上した。

朝廷では裁断を下され、使主おみ国造くにのみやつことし、小杵おきを誅された。
国造使主くにのみやつこおみは恐懼感激して黙し得ず、帝のために横淳よこぬ橘花たちばな多氷おおひ倉樔くらすの四力所の屯倉みやけを設け奉った。
この年、太歳甲寅たいさいきのえとら

二年春一月五日、みことのりして、
「このところ毎年穀物がよく捻って、辺境に憂えもない。万民は生業に安んじ飢餓もない。天皇の仁慈は全土に拡がり、天子を誉める声は天地に充満した。内外平穏で国家は富み栄え、私の喜びは大変大きい。人々に酒を賜わり、五日間盛大な宴を催し、天下こぞて歓びを交わすがよい」
と仰せられた。

夏四月一日、勾舍人部まがりのとねりべ勾靫部まがりのゆきべを設けた。

五月九日、筑紫ちくし穂波の屯倉ほなみのみやけ鎌屯倉かまのみやけ

豊国とよくに三崎屯倉みさきのみやけ桑原の屯倉くわはらのみやけ肝等の屯倉かとのみやけ大抜の屯倉おおぬくのみやけ我鹿の屯倉あかのみやけ

火国ひのくに春日部屯倉かすかべのみやけ

播磨国はりまのくに越部屯倉こしべのみやけ牛鹿屯倉うしかのみやけ

備後国びんごのくに後城屯倉しつきのみやけ多禰屯倉たねのみやけ来履屯倉くくつのみやけ葉稚屯倉はわかのみやけ河音屯倉かわとのみやけ

婀娜国あなのくに備後国)の膽殖屯倉いにえのみやけ膽年部屯倉いとしべのみやけ

阿波国あわのくに春日部屯倉かすかべのみやけ

紀国きのくに経湍屯倉ふせのみやけ河辺屯倉かわべのみやけ

丹波国たんばのくに蘇斯岐屯倉そしきのみやけ

近江国おうみのくに葦浦屯倉あしうらのみやけ

尾張国おわりのくに間敷屯倉ましきのみやけ入鹿屯倉いるかのみやけ

上毛野国かみつけぬのくに緑野屯倉みどのみやけ

駿河国するがのくに稚贄屯倉わかにえのみやけを置いた。

秋八月一日、みことのりして国々に犬養部いぬかいべを置いた。

九月三日、桜井田部連さくらいのたべのむらじ県犬養連あがたのいぬかいのむらじ難波吉士なにわのきしらにみことのりして、屯倉みやけの税を司らせた。

十三日、また別に大連おおむらじみことのりして、
「牛を難波なにわ大隅島おおすみしま姫島ひめしま松原まつばらとに放って、名を後の世に残そう」
と仰せられた。

冬十二月十七日、天皇は勾の金橋宮まがりのかなはしのみやで崩御された。
年七十歳。

この月、天皇を河内かわち古市高屋丘陵ふるいちのたかやのおかのみささぎに葬った。
皇后である春日山田皇女かすがのやまだのひめみこと、天皇の妹の神前皇女かんさきのひめみこも合葬した。

古市高屋丘陵
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

宣化天皇 武小広国押盾天皇

天皇即位

武小広国押盾天皇たけおひろくにおしたてのすめらみことは、継体天皇けいたいてんのうの第二子で、安閑天皇あんかんてんのうの同母弟である。

二年十二月、安閑天皇が崩御されて後嗣がなかった。
群臣くんしんが奏上して神器の剣、鏡を宣化天皇せんかてんのうに奉り、即位された。

この天皇は人柄が清らかで、心がすっきりとしていらっしゃった。
才能や地位などで人に誇り、王者らしい顔をされることなく、君子らしい人であった。

元年春一月、都を桧隈ひのくま廬入野いほりに遷した。
よって宮の名とした。

二月一日、大伴金村大連おおとものかなむらのおおむらじ大連おおむらじとし、物部麁鹿火大連もののべおあらかいのおおむらじ大連おおむらじとすることは、ならびに元のようであった。
また蘇我稲目宿禰そがのいなめのすくねを以て大臣おおおみとした。
阿倍大麻呂臣あべのおおまろおみ大夫まえつきみとした。

三月一日、役人らは皇后をお立ていただきたいと申し上げた。
八日、みことのりして言われるた。
「前の正妃、仁賢天皇にんけんてんのうの娘である橘仲皇女たちばなのなかつひめみこを立てて皇后としたい」
と仰せられた。
この人が一男三女を生んだ。
長女を石姫皇女いしひめのひめみこといい、次を小石姫皇女こいしひめのひめみこといった。
次を倉稚綾姫皇女くらのわかやひめのひめみこといい、次を上殖葉皇子かみつうえはのみこといい、またの名を椀子まろこという。
これは丹比公たじひのきみと、偉那公いなのきみの二姓の先祖である。
次の妃である大河内稚子媛おおしこうちのわくごひめは、一人の男子を生んだ。
これを火焰皇子ほのおのみこという。
これは椎田君わかたのきみの先祖である。

那津(筑紫)官家の整備

夏五月一日、みことのりして、
「食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えを癒やすことはできない。真珠が千箱あっても、どうして凍えることを救えようか。筑紫の国は、遠近の国々が朝貢してくる所であり、往来の関門とする所である。このため、海外の国は、潮の流れや天候を観測して貢を奉る。応神天皇から今に至るまで、籾種もみだねを収めて蓄えてきた。凶年に備え賓客をもてなし、国を安んずるのに、これに過ぐるものはない。そこで私も阿蘇君あそのきみを遣わして、河内国かわちのくに茨田郡まんだのこおり屯倉みやけもみを運ばせる。蘇我大臣稲目宿禰そがのおおおみいなめのすくね尾張連おわりのむらじを遣わして、 尾張国おわりのくにの屯倉の籾を運ばせよ。物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかい新家連にいのみのむらじを遣わして、新家屯倉にいのみのみやけの籾を運ばせよ。阿倍臣あべのおみ伊賀臣いがのおみを遣わして、伊賀国の屯倉の籾を運ばせよ。宮家みやけ那津の口なのつのほとり博多大津) に建てよ。また、かの筑紫ちくし肥国ひのくに豊国とよくにの三つの国の屯倉は、それぞれ離れ隔たっていることから、もしそれを必要とする場合には、急に備えることが難しい。諸郡に命じて分け移し、那津のロなつのほとりに集め建て、非常に備えて民の命を守るべきである。早く郡県こおりあがたに下令して、私の心を知らしめよ」
と仰せられた。

秋七月、物部麁鹿火大連もののべおあらかいのおおむらじが死んだ。
この年、太歳丙辰たいさいひのえたつ

二年冬十月一日、天皇は新羅しらぎ任那みまなに害を加えるので、大伴金村大連おおとものかなむらのおおむらじに命じて、その子であるいわ狭手彦さてひこを遣わして、任那みまなを助けさせた。
この時にいわ筑紫ちくしに留り、その国の政治をとり三韓に備えた。
狭手彦さてひこは、かの地に行って任那みまなを鎮め、また百済くだらを救った。

四年春二月十日、天皇は桧隈廬入野宮ひのくまのいおりののみやにて崩御された。
時に、年七十三歳。

冬十一月十七日、天皇を倭国やまとのくに身狭桃花鳥坂上陵むさのつきさかのうえのみささぎに葬った。
皇后である橘皇女たちばなのひめみことその孺子わくご幼少の子供)をこのみささぎに合葬した。
皇后の崩御の年は伝記に載っていない。
孺子わくごは成人せず死なれた者か。

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身狭桃花鳥坂上陵
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

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