允恭天皇 雄朝津間稚子宿禰天皇
即位の躊躇
雄朝津間稚子宿禰天皇は反正天皇の同母弟である。
天皇は幼童の頃から、ご成長後も恵み深く恭しいお心であった。
壮年になって重い病をされ、動作に難があった。
五年春一月、反正天皇がなくなられた。
群卿が相談した。
「今、仁徳天皇の御子は、 雄朝津間稚子宿禰皇子と大草香皇子がいらっしゃるが、雄朝津間稚子宿禰皇子は年上で情深い心でいらっしゃる」
と言った。
それで吉日を選んで、御前に跪き、天皇の御璽を奉った。
しかし、雄朝津間稚子宿禰皇子は、
「私の不幸は、久しい期間重い病にかかって、よく歩くこともできないことである。また、私は病いを除こうとして、密かに荒療治もしてみたが、なお少しもよくならない。それで先帝も私を責めて、『お前は病気であるのに、勝手に身を痛めるようなことをした。親に従わぬ不幸、これより甚だしきはない。もし長生きしたとしても、天つ日嗣を治すことはできぬだろう』とおっしゃった。また、私の兄の二人の天皇も、 私を愚かであるとして軽んじられた。群卿も知っているところである。天下というものは大器であり、帝位は大業である。また、人民の父母となるのは、賢聖の人の天職である。どうして愚か者に堪えられようか。もっと賢い王を選んで立てるべきである。私は適当ではない」
と申された。
群臣は再拝して、
「帝位は長く空しくあってはなりません。天命は拒むことはできません。今、王が時に逆らい、位に就くことをされなければ、臣等は人民の望みが絶えることを恐れます。願わくは、たとえ厭わしいと思召すとも、帝位にお就き下さい」
と申し上げた。
雄朝津間稚子宿禰皇子は、
「国家を任されるのは重大なことである。自分は病いの身で、とても堪えることはできない」
と承知されなかった。
そこで群臣は固くお願いして、
「手前たちが考えますのに、大王が皇祖の宗廟を奉じられることが、最も適当です。天下万民も皆そのように思っています。どうかお聞き届け下さい」
といった。
元年冬十二月、妃である忍坂大中姫命が、群臣の憂い嘆くのをいたまれて、自ら洗手水をとり捧げもって、皇子のお前にお進みになった。
そして申し上げた。
「大王は辞退なさって即位をされません。空位のままで年月を経ることになります。群臣百寮は憂えて、成すべきを知りません。願わくば人々の願いに従って、強いて帝位にお就き頂きたく存じます」
しかし、皇子は聞き入れられず、背を向けて何も言われない。
大中姫命は畏まり、退こうとされないでお侍りになること四〜五剋(約一時間)以上にも及んだ。
時は、歳末の頃で、風も烈しく寒かった。
大中姫の捧げた鋺の水が、溢れて腕に凍るほどで、寒さに堪えられず死にそうであった。
皇子も驚き顧みられ、これを助け起こし、
「日嗣の位は重いことである。たやすく即くことはできぬので、今まで同意しなかった。しかし今、群臣たちの請うことも明らかな道理である。どこまでも断り続けることもできない」
と言われた。
大中姫命は仰ぎ喜び、群卿に告げられた。
「皇子は群臣の願いをお聞き入れ下さることになった。今すぐ天皇の璽符を奉りましょう」
群臣は大いに喜び、即日、天皇の璽符を捧げて再拝し奉った。
皇子は、
「群卿は天下のために私を請うてくれた。私もどこまでも辞退してばかりいられない」
とおっしゃって、ついに帝位にお就きになった。
この年、太歳壬子。
闘鶏国造
二年春二月十四日、忍坂大中姫を立てて皇后とされた。
この日に、皇后のために刑部を定めた。
皇后は、木梨軽皇子、名形大娘皇子、境黒彦皇子、穴穂天皇(安康天皇)、軽大娘皇女、八釣白彦皇子、大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)、但馬橘大娘皇女、酒見皇女をお生みになった。
以前、皇后がまだ母と一緒に家にお出でになった頃、一人で苑の中で遊んでおられた。
そのとき、闘鶏国造がそばの道を通り、馬に乗って垣根越しに語りかけ、嘲って言った。
「あんたによく薗が作れるのかね」
また、
「さあ、刀自、そこの野蒜を一本くれ」
と言った。
それで、一本の野蒜(ヒガンバナ科の花)を取って、馬に乗っている者にやった。
「何のために野蒜を所望するのか」
と言われた。
闘鶏国造は、
「山に行く時にヌカガ(人の目の周りを飛び回る小さい羽虫)を追い払うのだ」
と言った。
大中姫は心中、馬に乗った者の言葉の無礼なのを不快に思われ、
「お前、私は忘れないよ」
と言われた。
この後、皇后の位になられた年、馬に乗って野蒜をくれと言った者を探し、昔の罪を責めて殺そうかと思われた。
しかし、その男は額を地に付けてお願いし、
「臣の罪は誠に死罪に当ります。けれども、その時には、そんな貴いお方になられようとは思いもしませんでしたので」
と言った。
皇后は死罪はやめて、姓を下して稲置とされた。
三年春一月一日、使者を遣わして良い医者を新羅に求められた。
秋八月、新羅から医者がきた。
そして、天皇の病気の治療に当たった。
いくばくもせぬうちに、病は治った。
天皇は大変喜ばれ、医師に厚くお礼をして国に帰された。
氏・姓を糾す
四年秋九月九日、詔して、
「古より、国がよく治っていた時は、人民も所を得て、氏姓が誤まることもなかった。今、私が践祚して四年であるが、上下相争って百姓も安らかでない。 誤って自分の姓を失う者もある。あるいは故意に高い氏を詐称する者がある。よく治まらないのはこういうことによる。私は微力といえども、この誤りを正さねばならぬ。群臣らはよく議定せよ」
と言われた。
群臣一同は言った。
「陛下が過ちを挙げ、不正を正して、氏姓を定められれば、私どもは命がけで取組みます」
二十八日詔して、
「群卿百寮および諸の国造らは皆それぞれに『帝の後裔であるとか、天孫降臨に供奉して天降ったもの』とか言う。しかし、開闢以来、万世を重ね、一つの氏から多数の氏姓が生まれ、その実を知り難い。そこで、諸々の氏姓の人たちは、斎戒沐浴し、盟神探湯により証明すべきである」
と言われた。
そこで甘橿丘の辞禍戸崎(言葉の偽りを明らかにし正す場所)に、盟神探湯の釜を据えて、諸人(一般人)を行かせて、
「真実であるものは損われないが、偽りのものは必ず損傷を受けるだろう」
と告げられた。
諸人は、各々に神聖な木綿櫸をかけて、熱湯の釜に赴き探湯をした。
真実である者は何事もなく、偽っていた者は皆傷ついた。
そこで故意に欺いていた者は、怖じ退いて進むことができなかった。
これ以後、氏姓は自ら定まって偽る者はなくなった。
殯の玉田宿禰
五年秋七月十四日、地震があった。
その後、葛城襲津彦の孫である玉田宿禰に命ぜられて、 反正天皇の殯(埋葬するまでの間、遺骸を安置すること)を任じられた。
地震のあった夜、尾張連吾襲を遣わして、殯宮の様子を見せた。
人々は欠けることなく集まっていたが、 玉田宿禰だけがいなかった。
吾襲はそのことを報告した。
吾襲をまた葛城に遣わして、玉田宿禰を見せた。
宿禰はちようど男女を集めて酒宴をしていた。
吾襲は事の次第を宿禰に告げた。
宿禰は問題になることを恐れて、馬一匹を贈って賂(賄賂)とし、途中に待ちうけて吾襲を殺した。
そして、武内宿禰の墓地の内に逃げて隠れた。
天皇はこれをお聞きになり玉田宿禰を召された。
宿禰は用心して甲を衣の下に著けて参上した。
衣の中から甲の端が見えた。
天皇はその状を明らかにしようと、小墾田采女に命じて、宿禰に酒を賜わった。
采女は、はっきりと衣の下に甲のあることを見て、天皇に申し上げた。
天皇は兵に討たせようとされたが、宿禰はこっそり逃げて家に隠れた。
天皇はさらに追われて、玉田の家を囲んで、捕え殺させられた。
冬十一月十一日、反正天皇を耳原陵(百舌鳥耳原南陵)に葬った。
衣通郎姫
七年冬十二月一日、新居の落成祝いの宴会があった。
天皇は自ら琴を弾かれ、皇后は立って舞われた。
舞いが終ったが、皇后は礼事を何も言われなかった。
当時の風俗では、宴会の時、舞う人は舞い終ると、その座の長に向って、
「娘子を奉りましよう」
と言うことになっていた。
そこで天皇は皇后に、
「何故、常の礼をしないのか」
と言われた。
皇后は畏まって、また立って舞われ、終ってから、
「娘子を奉りましよう」
と言われた。
天皇は皇后に問われた。
「奉る娘子は誰か。名前を知りたいと思う」
皇后は止むを得ず、
「私の妹、名は弟姫です」
と言われた。
弟姫は容姿絶妙で並ぶ者がなかった。
麗しい体の輝きは、衣を通して外に現れていた。
当時の人は、それを衣通郎姫と言った。
天皇の心は衣通郎姫に傾いていた。
そこで、皇后に奉ることを強いられた。
皇后は気が進まれなかった。
天皇は翌日使者を遣わし弟姫を呼ばれた。
そのとき、弟姫は母に従って近江の坂田にいた。
弟姫は皇后の心を察して参上しなかった。
また、重ねて七回もお召しになったが、固く辞退して参られなかった。
天皇は心喜ばれず、舎人の中臣烏賊津使主に詔して、
「皇后の奉る娘子の弟姫が呼んでも来ない。お前は出向いて弟姫を連れてきなさい。必ず敦く報いをしよう」
と言われた。
烏賊津使主は、命令を承って出かけた。
糒を衣に包んで坂田に行った。
そして、弟姫の庭に伏して、
「天皇がお召しになっておられます」
と言った。
弟姫は答えて、
「どうして天皇のお言葉を畏く思わないことがありましようか。ただ、皇后のお心を傷つけたくないと思うのです。私は死んでも参ることはできません」
と言われた。
烏賊津使主は、
「私は天皇の命を承り、必ずお連れ申せ、もし連れてこなかったら、極刑にすると言われました。ですから帰って処刑されるより、庭に伏して死ぬばかりです」
と言った。
そして七日に至るまで庭に伏していた。
食物を与えられても執らず、密かに懐中の糒を食した。
そこで弟姫が思うに、私は皇后の嫉妬を恐れて、天皇の命を拒んだ。
そして、君の忠臣を失うことになれば、これまた私の罪となると思い、ついに烏賊津使主に従ってやってきた。
倭の春日に着いて、櫟井の傍で乾飯を食べた。
弟姫は酒を使主に与え慰めた。
使主はその日、京に至り、弟姫を倭直吾子籠の家に留めて、天皇に復命した。
天皇は大いに喜ばれ、使主を褒めて敦く遇された。
しかし、皇后の心は穏やかではなかった。
それで宮中に近づけないで、別に殿舍を藤原に建てて居らしめられた。
大泊瀬天皇(雄略天皇)を出産された時、天皇は初めて藤原にお出でになった。
皇后はそれを聞かれて恨んで、
「私は初めて髪上げをして以来、後宮に侍ること多年になります。今、私は出産で生死の境にあるのに、どうして天皇は藤原にお出でになったりするのですか」
とおっしゃって、産殿を焼いて自殺しようとされた。
天皇は大いに驚いて、
「私が悪かった」
と謝られ、皇后の心を慰め機嫌をとられた。
八年春二月、藤原にお出でになった。
こっそりと衣通郎姫のご様子を伺われた。
独居の姫は天皇を偲んで、お越しになっていることを知らず歌を詠まれた。
ワガセコガ、クべキヨヒナリ、ササガニノ、クモノオコナヒ、コヨヒシルシモ。
夫の君が訪れてくれそうな宵である。巣を営む蜘蛛の行動が、今宵はせわしく目につきます。
天皇はこの歌をご覧になって感動され、歌を詠まれた。
ササラガタ、ニシキノヒモラ、卜キサケテ、アマ夕ハネズニ、タダヒトヨノミ。
さあ、錦の腰紐を解いて、幾夜もとは言わず、ただ一夜だけ共寝をしよう。
翌朝、天皇は井戸のそばの桜の花をご覧になって、歌を詠まれた。
ハナグハシ、サクラノメデ、コトメデバ、ハヤクハメデズ、ワガメヅルコラ。
細かく美しい桜の花の見事さよ。同じ愛するなら、もっと早く愛すべきだった。早く賞美しないで惜しいことをした。わが愛する姫よ。
それを皇后はお聞きになって、また大いに恨まれた。
衣通郎姫は、
「私は王宮に近づいて、昼夜とも陛下のお姿を見たいと思います。けれども、皇后は我が姉です。私のせいで常に陛下を恨んでおられ、また苦しんでおられます。それで王宮を遠く離れて、どこかに住みたいと思います。皇后のお心も少しは休まるのでないでしょうか」
と言われた。
天皇は直ちに河内の茅淳に宮室を建てて、衣通郎姫を住まわせた。
これによって、しばしば日根野(大阪府日根野)に遊猟にお出でになるようになった。
九年春二月、茅淳宮にお出でになった。
秋八月、茅淳にお出でになった。
冬十月、茅淳にお出でになった。
十年春一月、茅淳にお出でになった。
そこで皇后は、
「私は少しも弟姫を嫉む気はありません。けれども、陛下がしばしば茅淳にお出でになることを恐れます。それは百姓の苦しみになると思いますから。願わくば、お出ましの数を減らして頂きとうございます」
と申し上げられた。
これ以後は、稀にお出でになるようになった。
十一年春三月四日、茅淳宮にお出でになった。
衣通郎姫は歌を詠まれた。
卜コシへニ、キミモアへヤモ、イサナトリ、ウミノハマモノ、ヨルトキ卜キヲ。
いつも変らずあなたにお会いできるのではありません。海の浜藻が波のまにまに、岸辺に近寄り漂うように、稀にしかお逢いできません。
天皇は衣通郎姫に語った。
「この歌を他人に聞かせないように、皇后が聞かれたらきっと大いに恨まれるから」
それで当時の人は、浜藻を名づけて、「なのりそ藻(人に告げるな)」といった。
その後、衣通郎姫が藤原宫にお出でになったとき、天皇は大伴室屋連に詔して、
「私はこの頃、美人の嬢女を得た。皇后の妹である。特別に可愛いと思う。どうかその名を後世に残したいと思うが、どうだろう」
と言われた。
室屋連が勅に従って奏上したことをお許しになった。
すなわち、諸国の造に仰せられて、衣通郎姫のために藤原部(屯倉の部民)を定められた。
阿波の大真珠
十四年秋九月十二日、天皇は淡路島へ猟にお出でになった。
そのとき、大鹿、猿、猪などが沢山に山谷に入り乱れており、炎のように、また蠅のようであったが、一日中一匹の獲物も得られなかった。
狩りをやめて占いをされると、島の神が祟って言われるのに、
「獣が捕れないのは、私の心によるのだ。明石の海の底に真珠がある。その珠を私に供えて祀れぱ、獲物は全て得られよう」
そこで方々の海人を集めて、明石の海の底に潜らせた。
海が深くて底に着くことができなかった。
男狭磯という一人の海人があった。
阿波国の長邑の人である。
多くの海人のなかでも優れていた。
腰に縄をつけて海底にはいった。
しばらくして出てきて、
「海の底に大きなアワビがいます。そこは光っています」
という。
衆人が言うのに、
「島の神が欲しておられる珠は、きっとそのアワビの腹にあるのだろう」
また、潜って探った。
男狭磯は大アワビを抱いて浮き上った。
そして、息絶えて海上で死んだ。
縄を下ろして海の深さを測ると、六十尋(約110m:一尋は両手を左右に広げた幅)あった。
アワビを割いた。
本当に真珠が腹の中にあった。
その大きさは桃の実ほどであった。
そこで真珠を供え、島の神のお祀りをして猟をされた。
すると、沢山の獲物が捕れた。
ただ、男狭磯が海に入って死んでしまったことを悲しんで、墓を作り、厚く葬られた。
その墓は現在も残っている。
二十三年春三月七日、木梨軽皇子を立てて太子とされた。
容姿麗しく、見る人は自ら感動した。
同母妹の軽大娘皇女もまた、妙艷であった。
太子はいつも、大娘皇女と一緒になろうと思っておられた。
しかし、それが罪になることを恐れて黙っていた。
しかし、愛しい心は燃え上って死なんばかりであった。
そこで思われるのに、徒らに空しく死ぬよりは、たとえ処刑されても、我慢することはできぬと。
ついにこっそり相通じられた。
鬱積した思いが少しは静められた。
そこで歌を詠まれた。
アシヒキノ、ヤマタヲツクリ、ヤマタ力ミ、シタヒヲワシセ、シタナキニ、ワガナクツマ、カタナキニ、ワガナクツマ、コゾコソ、ヤスクハダフレ。
山田を作り山が高いので、下樋を通して水を引く、そのように下泣き(こっそり泣く)私が恋い泣く妻よ。ひとり泣きに私が恋い泣く妻よ。今宵こそはこだわりなく肌を触れ合おう。
二十四年夏六月、帝の御膳の羹の汁が凍ることがあった。
天皇は怪しまれて、その原因を占わされた。
卜者が、
「内の乱れがあります。思うに、同母の兄妹の相姦があるのではないでしょうか」
と言った。
時に、ある人が、
「木梨軽太子と同母妹の軽大娘皇女が通じておられます」
と言った。
よって調べられると、言葉通りであった。
太子は天皇の世継ぎとなる人である。
処刑が難しいので、大娘皇女を伊予に移された。
そのとき太子が歌を詠まれた。
オホキミヲ、シマニハフリ、フナアマリ、イカへリコムソ、ワガタタミユメ、コ卜ヲコソ、タタミ卜イハメ、ワガツマヲユメ。
大君を島に放逐しても、船に人数が多すぎて、乗れずに、きっと帰ってくるだろうから、畳を潔斎して待っていなさい。いや、言葉では畳というが、実は我が妻よ、潔斎して待っていなさい。
さらに歌を詠まれた。
アマタム、カルヲトメ、イタナケバ、ヒ卜シリヌべミ、ハサノヤマノ、ハ卜ノ、シタナキニナク。
軽嬢子よ。ひどく泣いたら、人が気づくだろうから、私は幡舎の山の鳩のように、低い声で忍び泣きをする。
四十二年春一月十四日、天皇が亡くなられた。
年は若干であった。
七十八歳とされる。
新羅の王は、天皇が亡くなられたと聞いて、驚き悲しんで沢山の調の船に、多数の楽人を乗せて奉った。
この船は対馬に泊って、大いに悲しみ泣いた。
筑紫に着いてまた大いに泣いた。
難波津に泊って、皆、麻の白服を着た。
いろいろな楽器を備え、沢山の調を捧げ、難波から京に至るまで、泣いたり舞ったりした。
そして殯宮に参会した。
冬十一月、新羅の弔使らは、喪礼を終って還った。
新羅の人は、京のほとりの耳成山や畝傍山を愛した。
琴引坂に着いた時、振り返って、
「うねめはや、みみはや」
と言った。
これは、この国の言葉に馴れず、畝傍山を訛って「うねめ」と言い、耳成山を訛って「みみ」と言ったのである。
このとき、倭の飼部が新羅の人に従っていて、この言葉を聞いて、新羅人が采女と通じたのだろうと疑って考えた。
帰ってそれを大泊瀬皇子に申し上げた。
皇子は新羅の使者を捕えて調べられた。
新羅の使者は、
「采女を犯すようなことはありません。ただ、京のほとりの二つの山を愛でて言っただけです」
と言った。
間違っていたことが分って皆許された。
しかし、新羅人は大いに恨み、貢の品物や船の数を減らした。
冬十月十日、天皇を河内の長野原陵に葬った。
安康天皇 穴穂天皇
木梨軽皇子の死
穴穂天皇は允恭天皇の第二子である。
一説では第三子とも言われる。
母は稚淳毛二岐皇子の娘である忍坂大中姫命という。
四十二年春一月に天皇が崩御された。
冬十月に葬礼が終った。
このときに、太子である木梨軽皇子が、婦女に暴行をして淫乱であったので(太子が同母妹の軽大娘皇女を犯した)、国人たちは太子を謗った。
群臣が心服しなくなり、全ての人が穴穂皇子についた。
そこで軽太子は穴穂皇子を襲おうとして、こっそりと兵士を用意させた。
穴穂皇子も同じように兵を集めて、戦おうとされた。
そこで穴穂矢(銅製のヤジリ)や軽矢(鉄製のヤジリ)がこのとき初めて作られた。
そのとき、軽太子は群臣が自分に従わず、人民たちもまた離反していくことを知って、宫を出て物部大前宿禰の家に身を潜められた。
穴穂皇子はそれを聞いて、宿禰の家を兵士に取り囲まされた。
大前宿禰は門に出てきて、穴穂皇子をお迎えした。
穴穂皇子は歌を詠んで言われた。
オホマへ、ヲマヘスクネガ、カナトカゲ、カクタチヨラネ、アメタチヤメム。
大前、小前宿禰の家の、金門の蔭に、このようにみんな立寄りなさい。雨宿りをして行こう。
大前宿禰は返歌をした。
ミヤヒ卜ノ、アユヒノコスズ、オチニキ卜、ミヤヒ卜卜ヨム、サトヒトモユメ。
宮廷にお仕えする人の、足結につける小鈴が落ちたと、人々がどよめいている。不吉なことです。里に下っている人たちも気をつけなさい。
そして皇子に申し上げた。
「どうか軽太子を殺さないで下さい。手前が何とかお図り申し上げましよう」
こうして軽太子は、大前宿禰の家で自殺をされた。
一説には伊予国に流したとされる。
大草香皇子の災厄
十二月十四日、穴穂皇子は天皇の位につかれた。
前の皇后を敬って皇太后と申し上げた。
そして都を大和の石上に移された。
これを穴穂宮という。
ちょうどこの頃、大泊瀬皇子(雄略天皇)は、反正天皇の娘たちを我が物にしようとされた。
このとき、娘たちは皆、
「あの方は日頃から乱暴で恐いお方です。突然ご機嫌が悪くなると、朝にお目にかかった者でも、夕方には殺され、夕方にお目にかかった者でも翌朝には殺されています。私たちは容色が美しくなく、また、気も利かぬ者です。もし振舞いや言葉が、毛の末ほどでも王の心に適わなかったら、どうして可愛がって頂けましょうか。そんなわけですから、仰せごとを承ることはできないのです」
と言って、ついに身を隠して聞き入れられなかった。
元年春二月一日、天皇は大泊瀬皇子のために、大草香皇子の妹である幡梭皇女を娶とりたいと思われた。
そして、坂本臣の先祖の根使主を遣わして、大草香皇子にお頼みされて、
「どうか、幡梭皇女を頂いて、大泊瀬皇子と一緒にさせてくれないか」
と言われた。
このとき、大草香皇子が答えたのは、
「私はこの頃重い病に罹りまして、治ることは難しいようです。 たとえて言えば、荷物を船に沢山積んで、満ち潮を待っているようなものでして、最後を待つばかりです。けれども、死ぬのは寿命というものです。どうして惜しむに足りましょうか。ただ、妹の幡梭皇女が孤児になるので、心易く死ぬことができぬのです。今、陛下がこの女の醜いことをお嫌いにならなくて、宮廷の女性の仲間に入れて下さろうという、これは大変に有難い恩恵でございます。どうして辱けない仰せ言をご辞退致しましょうか。それで真心をお示しするため、家宝としていた押木珠縵(一名を立縵、または磐木縵とも呼ぶ)を捧げて、お使いの根使主に預けて奉ります。どうか、つまらぬもので軽々しいですけれども、お納めいただき、誼の印として下さい」
とおっしゃった。
根使主は押木珠縵を見て、その見事さに心動かされ、嘘を言って自分の宝にしてしまいたいと考えた。
そして、天皇に偽って申し上げた。
「大草香皇子は勅命に従わないで、 私に『一体、同族であるといっても、どうして私の妹を差し出すことができましょうか』と言っています」
と述べた。
すっかり縵を自分のところの物にしてしまい、献上しなかった。
天皇は根使主の偽り言を信じてしまわれた。
大いに怒って兵らを遣わして、大草香皇子の家を取り囲み、攻め殺した。
このとき、難波吉師日香蚊の親子は、共に大草香皇子に仕えていた。
仕えた主人が罪なく殺されてしまったことを悲しんで、父は皇子の御首を抱き、二人の子はそれぞれ皇子の御足を抱えて、泣き悲しんだ。
「我が君の罪なくして死なれ給うことの悲しさ。我ら親子三人、君の生前にお仕え申し上げ、非業の最期のお供を申し上げなかったら、これは家来とは申せません」
と言い、ためらわず自ら首をはねて、みかばねの傍に身を伏せた。
兵たちはみな悲しみの涙にむせんだ。
ここで大草香皇子の妻である中蒂姫をお召しになって、宮中に入れられ、そして妃とされた。
また、ついに幡梭皇女を召して、大泊瀬皇子に娶合わせた。
この年、大歳甲午。
二年春一月十七日、中蒂姫命を立てて皇后とされた。
ひどく寵愛された。
はじめ中蒂姫は、大草香皇子との間に眉輪王をお生みになっている。
眉輪王は母の縁で、父の罪を許されたことになり、常に宮中で育てられた。
三年秋八月九日、安康天皇は眉輪王により殺される。
これについては雄略天皇の条に詳しく述べた。
三年の後、菅原伏見陵にお祀り申し上げた。
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