忙しい人のための古事記・中巻

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神武東征

東進と五瀬の戦死

神倭伊波礼毘古命かむやまといわれびこのみことは、兄の五瀬命いつせのみことと二柱で、高千穂宮たかちほのみやにいた。
そして、
「どこの地にいたならば、安らかに天下の政治を行なうことができるだろうか。やはり、東の方に都の地を求めて行こうと思う」
と相談し、ただちに日向ひむかから出発して筑紫国つくしのくにへ向かった。

豊国とよくに宇沙うさに到着された時、その国の住民である宇沙都比古うさつひこ宇沙都比売うさつひめという二人が、足一騰宮あしひとつあがりのみやを作って、御食膳を奉った。

そこからさらに移動し、筑紫つくし岡田宫おかだのみやにー年間滞在した。

またその国から移動して、安芸国あきのくに多祁理宮たけりのみやに七年間滞在した。

さらにその国から移動し、吉備きび高島宮たかしまのみやに八年間滞在した。

そしてその国から進んだ時、亀の甲に乗って釣りをしながら、両袖を振ってやって来る者がいて、速吸門はやすいのと(豊予海峡、または明石海峡および児島付近)で遭遇した。
「お前は誰か」
と尋ねると、
「私は国つ神くにつかみです」
答えた。

「お前は海路を知っているか」
とおたずねになると、
「よく存じています」
と返事をする。

「私に従ってお仕えするか」
と尋ねると、
「お仕えいたしましょう」
と答えた。

さらに進み、浪速渡なみはやのわたりを経て白肩津しらかたのつに船を停めた。
このとき、登美とみ那賀須泥毘古ながすねびこが軍勢を起こしており、待ち受けて戦った。
こうして那賀須泥毘古ながすねびこと戦ったとき、五瀬いつせは手痛い矢を受けた。

そこで五瀬いつせが言うには、
「私は日の神の御子として、日に向かって戦うのは良くなかった。それで、いやしい奴の矢で重傷を負ったのだ。今後は遠回りをして、日を背に負うて敵を撃とう」
と誓い、南の方から回ってお進みになった。

そこから紀伊国きいのくに男之水門おのみなとに至って、
「賤しい奴のために手傷を負うて私は死のか」
と雄々しく振る舞ったが、そこでお亡くなりになった。

布都御魂と八咫烏

神倭伊波礼毘古かむやまといわれびこは、そこから南に回って進み、熊野村くまののむらに到着した。
そのとき、大きな熊がちらりと見え隠れして、やがて姿を消した。

すると神倭伊波礼毘古かむやまといわれびこは、急に正気を失われ、また兵士たちも皆気を失って倒れた。
このとき、熊野くまの高倉下たかくらじという者が、一振りの太刀を持って天つ神あまつかみ御子みこが倒れている所にやって来た。
そしてその太刀を奉ると、天つ神あまつかみ御子みこは、即座に正気を取り戻して起き上がり、
「長い間寝ていたのか」
と言った。

そしてその太刀をお受け取りなさると同時に、その熊野くまのの山の荒ぶる神は、自然に皆切り倒されてしまった。
そしてその気を失って倒れていた兵士たちも、皆正気を取り戻して起き上がった。

そこで天つ神あまつかみ御子みこが、その太刀を手に入れたわけをお尋ねになると、高倉下たかくらじがは、
武御雷たけみかづちから戴いた」
と言う。

そこでまた高木たかぎから指示があり、
「今、天上から八咫烏やたがらすを遣わそう。そしてその八咫烏やたがらすが先導するであろう。そのからすの飛び立つあとについて行ってお進みなさい」
と行った。

それで八咫烏やたがらすの後について進んだ。

兄宇迦斯と弟宇迦斯

宇陀うだに着くと、兄宇迦斯えうかし弟宇迦斯おとうかしの二人がいた。
そこでまず八咫烏やたがらすを遣わして、二人に尋ねさせた。
「あなたたちは神倭伊波礼毘古かむやまといわれびこにお仕え申しあげるか」
すると兄宇迦斯えうかしは、八咫烏やたがらすを待ち受けてて追い返した。

ところが兄宇迦斯えうかしは軍勢を集めることができなかったので、仕える振りをして偽って、御殿を作り、その御殿の中に押罠おしわなを仕掛けて待っていた。
そのとき、弟宇迦斯おとうかし伊波礼毘古いわれびこをお迎えにゆき、こう言った。
「御殿の中に押罠おしわなを仕掛けて待ち受けて殺そうとしています」

そして、大伴連おおとものむらじらの祖先の道臣みちのおみと、久米直くめのあたいらの祖先の大久米おおくめの二人が、兄宇迦斯えうかしを呼んでののしってこう言った。
「おまえがお仕え申すために作った御殿の中には、まずは貴様が入って、お仕え申そうとする有様をはっきり見せろ」

宇迦斯えうかしは自分の作った押罠に打たれて死んでしまった。
さらに、兄宇迦斯えうかしを引き出して、斬り散らした。

橿原入り

そこから進み、忍坂おさか大室おおむろに着いたとき、尾の生えた土雲つちぐもという大勢の強者(八十建やそたける)が、その岩屋いわやの中で待ち受けて、唸り声をあげていた。
そこで伊波礼毘古いわれびこの命令で、御馳走を大勢の強者に賜わった。

このとき、多くの兵士を料理人にさせ、一人一人に太刀をかせ、その料理人たちに、
「歌を聞いたら、一斉に斬りつけよ」
と指示した。
そして歌を合図に、一斉に打ち殺してしまった。

その後、那賀須泥毘古ながすねびこや、兄師木えしき弟師木おとしきを討ち、伊波礼毘古いわれびこの軍勢は疲労がたまった。

すると、邇芸速日にぎはやひのみこと伊波礼毘古いわれびこのもとに参上し、申しあげた。
天つ神あまつかみ御子みこが天降って来られたと聞きましたので、あとを追って天降って参りました」
やがて天つ神あまつかみの子であるしるしの宝物を奉って、お仕え申しあげた。

邇芸速日にぎはやひは、那賀須泥毘古ながすねびこの妹である登美夜毘売とみやびめと結婚した。

このようにして伊波礼毘古いわれびこは、荒ぶる神たちを平定し、服従しない人たちを撃退して、畝火うねび白橿原宮かしはらのみやにおいて天下をお治めになった。

伊須気余理比売

伊波礼毘古いわれびこ日向ひむかにいたときに、阿多あた小椅君おばしのきみの妹である、阿比良比売あひらひめという名の女性と結婚していた。
お生みになった子に、多芸志美美たぎしみみ岐須美美きすみみの二柱がいた。

さらに皇后とする少女を探し求められたとき、大久米おおくめが言うには、
「ここに良い少女がおります。この少女を神の御子と伝えています。神の御子というわけは、三輪の大物主おおものぬしのかみがこの少女を見て気に入って、やがてその少女と結婚して生んだ子の名が、富登多多良須須岐比売ほとたたらいすすきひめといい、またの名を比売多多良伊須気余理比売ひめたたらいすけよりひめといいます」

七人の少女が、高佐士野たかさじのに出て野遊びをしていた。
伊須気余理比売いすけよりひめもその中に加わっていた。
すると大久米おおくめは、伊須気余理比売いすけよりひめの姿を見て、天皇に申し上げた。

こうしてその少女は、天皇に「お仕えいたしましょう」と言った。

そしてお生まれになった御子の名は、日子八井ひこやゐ、次に神八井耳かむやゐみみ、次に神沼河耳かむぬなかわみみの三柱である。

当芸志美美命の反逆

神武天皇じんむてんのうが亡くなられてのち、天皇の異母兄の当芸志美美たぎしみみが、皇后の伊須気余理比売いすけよりひめを妻としたときに、その三人の弟たちを殺そうと計画した。

そこで御子は陰謀を知って驚き、すぐに当芸志美美たぎしみみを殺そうとした。
そのとき、神沼河耳かむぬなかわみみはその兄の神八井耳かむやゐみみに、
「兄上よ、あなたは武器を持って入って、当芸志美美たぎしみみを殺しなさい」
と言った。
それで、武器を持って入って殺そうとしたとき、手足が震えて、殺すことができなかった。
そこでその弟の神沼河耳かむぬなかわみみは、その兄の持っている武器をもらい受け、入って行って当芸志美美たぎしみみを殺した。

こうして神八井耳かむやゐみみは、弟の建沼河耳たけぬなかわみみに皇位を譲って申すには、
「私は敵を殺すことができなかった。あなたは完全に敵を殺すことできた。だから、私は兄であるけれども、上に立つべきではない。あなたが天皇となって、天下をお治めなさい。私はあなたを助けて、祭事を司る者となってお仕え申しましょう」
と言った。

神倭伊波礼毘古かむやまといわれびこの天皇(神武天皇)の年齢は百三十七歳。
御陵みはか畝火山うねびやまの北の方の白橿尾かしのおのあたりにある。

綏靖天皇

神沼河耳命かむぬなかわみみは、葛城かずらき高岡宮たかおかのみやで天下を治めた。
磯城県主しきのあがたぬしの祖先である川俣毘売かわまたびめを妻としてお生みになった御子が、師木津日子玉手しきつひこたまで命である。
天皇の年齢は四十五歳。
御陵は衝田岡つきたのおかにある。

安寧天皇

師木津日子玉手しきつひこたまで命は、片塩かたしお浮穴宮うきあなのみやで天下を治めた。
川俣毘売かわまたびめの兄の県主波延あがたぬしはえの娘である阿久斗比売あくとひめを妻としてお生みになった御子が、常根津日子伊呂泥とこねつひこいろね命、
次に大倭日子鉏友おおやまとひこすきとも命、
次に師木津日子しきつひこ命である。

天皇の年齢は四十九歳。
御陵は畝傍山うねびやま美富登みほとにある。

懿徳天皇

大倭日子鉏友おおやまとひこすきとも命は、かる境岡宮さかいおかのみやで天下を治めた。
師木県主しきのあがたぬしの祖先の賦登麻和訶比売ふとまわかひめ命、またの名は飯日比売いいひひめ命を妻としてお生みになった御子が、御真津日子訶恵志泥みまつひこかえしね命、
次に多芸志比古たぎしひこ命の二柱である。

天皇の年齢は四十五歳。
御陵は畝傍山うねびやま真名子谷まなごだにの近くにある。

孝昭天皇

御真津日子訶恵志泥みまつひこかえしね命は、葛城かずらき掖上宮わきがみのみやで天下を治めた。
尾張連おわりのむらじの祖先の奥津余曾おきつよその妹である余曾多本毘売よそたほびめ命を妻としてお生みになった御子は、天押帯日子あめおしたらしひこ命、
次に大倭帯日子国押人おおやまとたらしひこくにおしひと命の二柱である。

天皇の年齢は九十三歳。
御陵は掖上わきがみ博多山はかたやまのほとりにある。

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孝安天皇

大倭帯日子国押人おおやまとたらしひこくにおしひと命は、葛城かずらきむろ秋津島宮あきつしまのみやで天下を治めた。
姪である忍鹿比売おしかひめ命を妻としてお生みになった御子は、大吉備諸進おおきびもろすすみ命、
次に大倭根子日子賦斗邇おおやまとねこひこふとに命の二柱である。

天皇の御年は百二十三歳。
御陵は玉手岡たまでのおかの上にある。

孝霊天皇

大倭根子日子賦斗邇おおやまとねこひこふとに命は、黒田くろだ廬戸宮いほとのみやで天下を治めた。
十市県主とおちのあがたぬしの祖先の大目おおめの娘である細比売くはしひめを妻として、お生みになった御子は、大倭根子日子国玖琉おおやまとねこひこくにくる命である。
また春日かすが千千速真若比売ちちはやまわかひめを妻としてお生みになった御子は、千千速比売ちちはやひめである。
さらに、意富夜麻登玖邇阿礼比売おほやまとくにあれひめ命を妻としてお生みになった御子は、夜麻登母々曾毘売やまとももそびめ命、
次に日子刺肩別ひこさしかたわけ命、
次に比子伊佐勢理毘古ひこいさせりびこ命、またの名は大吉備津日子おおきびつひこ命、
次に倭飛羽矢若屋比売やまととびはやわかやひめの四柱である。

また阿礼比売あれひめ命の妹の蝿伊呂杼はえいろどを妻としてお生みになった御子は、日子寤間ひこさめま命、次に若日子建吉備津日子わかひこたけきびつひこ命の二柱である。

天皇の御年は百六歳。
御陵は片岡かたおか馬坂うまさかの上にある。

孝元天皇

大倭根子日子国玖琉おおやまとねこひこくにくるは、かる堺原宮さかいはらのみやで天下を治めた。
穂積臣ほずみのおみらの祖先である内色許男うつしこお命の妹である内色許売うつしこめ命を妻としてお生みになった御子は、
大毘古おおびこ
次に少名日子建猪心すくなひこたけゐごころ命、
次に若倭根子日子大毘々わかやまとねこひこおおびび命の三柱である。
また内色許男うつしこおの娘である伊迦賀色許売いかがしこめ命を妻として、お生みになった御子は、比古布都押之信ひこふつおしのまこと命である。
また河内かわち青玉あおたまの娘である波邇夜須毘売はにやすびめを妻として、お生みになった御子は、建波邇夜須毘古たけはにやすびこ命である。

この天皇の御年は五十七歳。
御陵は剣池つるぎのいけの中の岡の上にある。

開化天皇

若倭根子日子大毘々わかやまとねこひこおおびび命は、春日かすが伊耶河宮いざかわのみやで天下を治めた。
丹波たには大県主おおあがたぬし由碁理ゆごりの娘である竹野比売たけのひめを妻として、お生みになった御子は比古由牟須美ひこゆむすみ命である。
また、庶母の伊迦賀色許売いかがしこめを妻としてお生みになった御子は、御真木入日子印恵みまきいりひこいにえ命と、御真津比売みまつひめ命との二柱である。
また丸邇臣わにのおみの祖先である日子国意祁都ひこくにおけつ命の妹の意祁都比売おけつひめ命を妻として、お生みになった御子は、日子坐王ひこいますのみこである。
また葛城かずらき垂見宿禰たるみのすくねの娘の鸇比売わしひめを妻として、お生みになった御子は、建豊波豆羅和気たけとよはづらわけである。

天皇の年齢は六十三歳。
御陵は伊耶河いざかわの坂の上にある。

崇神天皇

皇后と御子

御真木入日子印恵みまきいりひこいにえ命は、磯城しき水垣宮みずかきのみやで天下をお治めになった。
この天皇が、木国造きのくにのみやつこの名は荒河刀弁あらかとべという人の娘の、遠津年魚目目微比売とおつあゆめまくはしひめを妻としてお生みになった御子は、
豊木入日子とよきいりひこ命、
次に豊鉏入日売とよすきいりひめ命の二柱である。

また尾張連おわりのむらじの祖先の意富阿麻比売おほあまひめを妻としてお生みになった御子は、
大入杵おおいりき命、
次に八坂之入日子やさかのいりひこ命、
次に沼名木之入日売ぬなきのいりひめ命、
次に十市之入日売とおちのいりひめ命の四柱である。

また大毘古おおびこ命の娘の御真津比売みまつひめ命を妻としてお生みになった御子は、
伊玖米入日子伊沙知命いくめいりひこいさち
次に伊耶能真若いざのまわか命、
次に国片比売くにかたひめ命、
次に千千都久和比売ちちつくわひめ命、
次に伊賀比売いがひめ命、
次に倭日子やまとひこ命の六柱である。

三輪山の大物主神

この天皇の御代に、疫病が大流行して、国民が絶滅しそうになった。
そこで天皇は、これをご心配になりお嘆きになって、神意を請うための床にお寝みになった夜、大物主おおものぬし大神が御夢の中に現われて、
「疫病の流行は私の意志によるのだ。だから意富多々泥古おほたねこという人に、私を祭らせなさるならば、神のたたりは起こらなくなり、国内も安らかになるだろう」
と仰せになった。

ただちに意富多々泥古おほたねこを神主として、三輪山みわやま意富美和之大神おおみやのおおかみいつき祭られた。
これによって疫病がすっかりやんで、国内は平穏になった。

武波邇安王の反逆

この天皇の御代に、大毘古おおびこ越国こしのくにに遣わし、その子の建沼河別たけぬなかわわけ命を東方の十二国に遣わして、そこの従わない人々を服従させた。

大毘古おおびこ越国こしのくにに下って行ったとき、腰裳こしもを着けた少女おとめが、山城やましろ幣羅坂へらざかに立って歌を詠んだ。

御真木入日子みまきいりひこはまあ、御真木入日子はまあ。
自分の命を密かに狙って殺そうとする者が、
人が来ると後ろの戸から行きちがい、
前の戸から行きちがいして、
こっそりと伺っているのも知らないで、
御真木入日子みまきいりひこはまあ。

大毘古おおびこは不思議に思って馬を返して、その少女に尋ねて、
「おまえが今言ったことばは、どういう意味なのか」
といった。
すると少女は、
「私はものを言ったのではありません。ただ歌を詠んだだけなのです」
と言った。
そして少女は、たちまち行くえも知れず姿を消してしまった。

そこで大毘古おおびこは都に引き返して、天皇に申しあげてお指図を乞うと、天皇が答えて、
「これは山城国やましろのくににいるあなたの異母兄の建波邇安王たけはにやすのみこが、反逆の野心を起したしるしに違いあるまい。伯父上よ、軍勢を整えてお出かけなさい」
と仰せられて、丸邇臣わにのおみの祖先の日子国夫玖ひこくにぶく命を副えて遣わされた。

山城やましろ和訶羅河わからがわにやって来たとき、建波邇安たけはにやすは軍勢を整えて待ちうけて行くてを遮り、それぞれ川を間に挟んで向かい立って、互いにいくさをしかけた。

国夫玖くにぶくの放った矢が建波邇安たけはにやすに命中して死んだので、その軍勢は総崩れとなって逃げ散った。
こうして大毘古おおびこは平定し終わって、都に上って天皇に復命した。

初国知らしし天皇

そして天下は平になり、国民は富み栄えることになった。
それでその御世をたたえて、
「初国知らしし御真木天皇みまきのすめらみこと
と申すのである。

天皇の御年は百六十八歳。
戌寅つちのえとらの年の十二月に崩御になった。
御陵は、山辺道やまのべのみちまがりの岡のほとりにある。

垂仁天皇

皇妃と御子

伊久米伊理毘古伊佐知いくめいりびこいさち命は、磯城しき玉垣宫たまがきのみやで天下を治めた。
この天皇が沙本毘古さほびこ命の妹の佐波遅比売さはぢひめ命を妻としてお生みになった御子は、品牟都和気ほむつわけ命である。
また旦波比古多々須美知宇斯王たにはのひこたたすみちのうしのみこの娘の氷羽州比売ひばすひめ命を妻としてお生みになった御子は、
印色入日子いにしきのいりひこ命、
次に大帯日子淤斯呂和気おおたらしひこおしろわけ命、
次に大中津日子おおなかつひこ命、
次に倭比売やまとひめ命、
次に若木入日子わかきいりひこ命である。

またその氷羽州比売ひばすひめの妹の沼羽田之入毘売ぬばたのいりびめ命を妻としてお生みになった御子は、
沼帯別ぬたらしわけ命、
次に伊賀帯日子いがたらしひこ命である。

またその沼羽田之入日売ぬばたのいりひめの妹の阿耶美能伊理毘売あざみのいりびめ命を妻としてお生みになった御子は、
伊許婆夜和気いこばやわけ命、
次に阿耶美都比売あざみつひめ命である。

また大筒木垂根王おおつつきたりねのみこの女の迦具夜比売かぐやひめ命を妻としてお生みになった御子は、袁耶弁王おざべのみこである。

また山城やましろ大国之淵おおくにのふちの娘の苅羽田刀弁かりはたとべを妻としてお生みになった御子は、
落別王おちわけのみこ
次に五十日帯日子王いかたらしひこのみこ
次に伊登志別王いとしわけのみこである。

またその大国之淵おおくにのふちの娘である苅羽田刀弁かりはたとべを妻としてお生みになった御子は、
石衝別王いわつくわけのみこ
次に石衝毘売いわつくびめ命、またの名は布多遅能伊理毘売ふたぢのいりびめ命である。

沙本毘古と沙本毘売

この垂仁天皇が沙本毘売さほびめを皇后にしていた時、沙本毘売さほびめの同母の兄の沙本毘古さほびこが反逆を計画した。
「あなたが本当に私をいとしいと思うなら、私とあなたとで天下を治めよう」
と言って、紐小刀ひもがたなを妹に与えて、
「この短刀で、天皇の寝ているところを刺し殺しなさい」
と言った。

皇后が紐小刀ひもがたなで天皇の首を剌そうとして、三度も振り上げられたが、悲しい思いに堪えきれず、刺すことができなくて、泣く涙が天皇のお顔に落ちて流れた。
すると天皇は目を覚まして、その皇后に向かって、
「今、私は変な夢を見た。佐保さほの方から俄雨にわかあめが降って来て、急に私の顔を濡らした。また錦のような色の小蛇が、私の首に巻きついた。こういう夢は、いったい何のしるしであろうか」
とお尋ねになった。

そこで皇后は、とても隠しきれまいとお思いになって、即座に天皇に打ちあけて、沙本毘古さほびこの反逆を打ち明けた。

そこで天皇は軍勢を出して沙本毘古さほびこを討伐なさったとき、沙本毘古さほびこ稲城いなきを作り、待ち受けて戦った。
このとき沙本毘売さほびめはその兄を思う情に堪えかねて、こっそり裏門から逃げ出して、その稲城いなきの中にお入りになった。
このとき、皇后は懐妊かいにんしておられた。

戦いが停滞している間に、懐妊しておられる御子が、とうとうお生まれになった。

皇后は、その御子を抱いて稲城いなきの外にさし出された。
その御子を受け取ることはできたが、その母君を捕えることはできなかった。

その皇后に仰せられるには、
「すべて子の名は、かならず母親が名づけるものであるが、何とこの子の名前をつけたらよかろうか。今、火が稲城いなきを焼くときに火の中でお生まれになりました。だからその御子の名は本牟智和気ほむちわけと名づけましょう」
と申しあげた。

かくして天皇は、ついにその沙本毘古さほびこをお討ちになったので、その妹の沙本毘売さほびめも兄に従って亡くなった。

時じくの香の木の実

天皇は、三宅連みやけのむらじらの祖先で、名は多遅摩毛理たじまもりという人をはるか遠い常世国とこよのくにに遣わして、時を定めずに良い香りを放つ木の実(橘)を求めさせられた。
それで多遅摩毛理たじまもりは、ついにその国にやって来て、その木の実を採って、縵橘かげたちばな八本、矛橘ほこたちばな八本をたずさえて帰って来る間に、天皇は既にお亡くなりになっていた。

そこで多遅摩毛理たじまもりは、縵橘かげたちばな四本と矛橘ほこたちばな四本を分けて皇后に奉り、縵橘四本と矛橘四本を天皇の御陵の入口に供えて、その木の実を捧げ持って、大声で叫び泣きながら、
常世国とこよのくにの時じくの香の木の実を持って参上いたしました」
と申しあげて、ついに泣き叫びながら死んでしまった。
その時じくの香の木の実というのは、今の橘のことである。

この天皇の御年は百五十三歳。
御陵みささぎは菅原の御立野みたちのの中にある。

景行天皇

后妃と御子

大帯日子淤斯呂和気天皇おおたらしひこおしろわけのすめらみことは、纒向まきむく日代宮ひしろのみやで天下を治めた。
この天皇が、吉備臣きびのおみらの祖先の若建吉備津日子わかたけきびつひこの娘の、名は針間之伊那毘能大郎女はりまのいなびのおおいらつめという方を妻としてお生みになった御子は、
櫛角別王くしつぬわけ
次に大碓おおうす命、
次に小碓おうす命でまたの名は倭男具那やまとおぐな命、
次に倭根子やまとねこ命、
次に神櫛かむくし王 である。

また八尺入日子やさかのいりひこ命の娘である八尺之入日売やさかのいりひめ命を妻としてお生みになった御子は、
若帯日子わかたらしひこ命、
次に五百木之入日子いほきのいりひこ命、
次に押別おしわけ命、
次に五百木之入日売いほきのいりひめ命である。

またある妃の生んだ子は、
豊戸別とよとわけ王、
次に沼代郎女ぬしろのいらつめである。

また別の妃の生んだ子は、
沼名木ぬなき郎女、
次に香余理比売かごよりひめ命、
次に若木之入日子わかきのいりひこ王、
次に吉備之兄日子きびのえひこ王、
次に高木比売たかぎのひめ命、
次に弟比売おとひめ命である。
また日向ひむか美波迦斯毘売みはかしびめを妻としてお生みになった御子は、豊国別とよくにわけ王である。

また伊那毘能大郎女いなびのおおいらつめの妹である伊那毘能若郎女いなびのわかいらつめを妻としてお生みになった御子は、
真若まわか王、
次に日子人之大兄ひこひとのおおえ王である。

また倭建やまとたける命の曾孫の須売伊呂大中津日子すめいろおおなかつひこ王の娘である訶具漏比売かぐろひめを妻としてお生みになった御子は大枝おおえだ王である。

倭健命の熊襲征伐

あるとき、天皇が小碓おうすに言った。
「どういうわけで、そなたの兄は朝夕の食膳に出て参らないのか。よくおまえから優しく教え諭しなさい」

しかし、五日経ってもやはり大碓おおうすは出て参らなかった。

そこで天皇が小碓おうすに尋ねた。
「どうしてそなたの兄は出て参らないのか。もしや、まだ伝えていないのではないか」
と聞くと、小碓おうすは、
「すでに教えております」
と申し上げた。

「どのように伝えたのか」
と尋ねると、
「夜明けに兄が厠に入った時、待ち受けて捕え、掴み打って、その手足をもぎ取り、こもに包んで投げました」
と述べた。

天皇は小碓おうすの猛々しく荒々しい性格を恐れて、
「西の方に熊曾建くまそたけるが二人がいる。彼らは朝廷に服従しない無礼な者どもである。だからその者どもを打ち取りなさい」
と命じて、小碓おうすを遣わした。

このとき小碓おうすは、髪を額で結っている少年であった。

熊曾建くまそたけるの家にやって来て見てみると、その家の周辺には軍勢が三重に囲んでおり、むろ(屋敷)を造っていた。
そして新室にいむろの完成祝い(新築祝い)の宴を開くため、食物の準備をしていた。
それで小碓おうすは、周囲を歩き回りながら、祝宴の日を待った。

祝宴の日になると、小碓おうすはその結っている御髪を少女の髪形のように櫛けずって垂らし、叔母からもらった衣と裳を着て、少女の姿に変装して女たちの中にまぎれ込み、その室の内に入っていた。

小碓おうすは、その祝宴の最高潮になった時を見計らって、懐から剣を出して、熊曾くまその衣のくびを掴んで、剣をその胸から刺し通された。
そのとき、弟のたけるはこれを見て恐れをなして逃げ出したが、これを追いかけ、その背の皮をとらえて、剣を尻から刺し通された。

このとき、熊曾建くまそたけるが言った、
「あなた様はどなたでいらっしゃいますか」
と尋ねたので、小碓おうすは、
「私は、大帯日子淤斯呂和気天皇おおたらしひこおしろわけのすめらみことの皇子で、名は倭男具名やまとおぐなである。おまえたちを討ち取れと仰せられ、私をお遣わしになったのだ」
と言った。

そこでその熊曾建くまそたけるは、
「西の方には我ら二人を除いては、猛く強い者はおりません。私はお名前を奉りましょう。今後は倭建命やまとたけるのみことと称えて申しましょう」
と言った。
それで、その時から名前を倭建やまとたけるという。

そうして大和やまとへ帰って来られるときに、山の神、河の神、また海峡の神をみな服従させ平定して、都にお上りになった。

倭健命の出雲建征伐

倭建やまとたける出雲国いずものくにに入って、その首長である出雲建いずもたけるを討ち殺すことになり、到着するとすぐに親しい友情を交わされた。
そして、密かに赤檮いちいの木で偽の太刀を作り、それを身に帯びて、出雲建いずもたけるとともに肥河ひのかわで沐浴した。

倭建やまとたけるが先に川からお上がりになって、出雲建いずもたけるが解いて置いた太刀を取ってき、
「太刀を取り換えよう」
と仰せられた。
それで後に出雲建いずもたけるは川から上がって、倭建やまとたけるの偽りの太刀を身に着けた。

そこで倭建やまとたけるは、
「さあ、太刀合わせをしよう」
と挑戦を申し出た。

そこで各々がその太刀を抜いた時、出雲建いずもたけるは偽の太刀を抜くことができなかった。
倭建やまとたけるは、その太刀を抜いて出雲建いずもたけるを打ち殺してしまわれた。

そして、このように賊を追い払い平定して、都に上り復命した。

倭健命の東国征伐

天皇は、さらに重ねて倭建やまとたけるに命じた。
「東方十二ヶ国の荒れすさぶ神や、また服従しない人々を平定し、従わせよ」

勅命ちょくめいを受けて東国に下って行かれるとき、伊勢神宮いせのじんぐうに参って、神殿を礼拝し、やがてその叔母の倭比売やまとひめに述べた。
「天皇は、私を死んでしまえばよい、と思っておられるのでしょうか。西の方の討伐から都に返ってまだ幾らも時が経っていないのに、兵士も与えず、今度はさらに東国十二ヶ国の平定にお遣わしなさる」
そう言って嘆き泣き悲しんで発つ時、倭比売やまとひめ草薙剣くさなぎのつるぎをお授けになり、また袋もお授けて、
「もしも火急のことがあったら、この袋の口をお開けなさい」
と伝えた。

尾張国おわりのくにに到着して、尾張国造おわりのくにのみやつこの祖先の美夜受比売みやずひめの家に入った。
そこで美夜受比売みやずひめと結婚しようと思ったが、またここに帰って来たときに結婚しようと思い、結婚の約束をして東国に向かった。
そして、すべての山や川の荒れすさぶ神々、服従しない人々を平定した。

そして相模国さがみのくにに着いたとき、その国造くにのみやつこ倭建やまとたけるを騙して、
「この野の中に大きな沼があります。この沼の中に住んでいる神は、ひどく強暴な神でございます」
と伝え、倭建が野に入ると火をつけた。

それで倭建やまとたけるは、騙されたと気づいて、叔母の倭比売やまとひめからもらった袋の口を解いて開けて見ると、中に火打石ひうちいしがあった。
そこでまず刀で草を刈り払い、その火打石で火を打ち出して向い火をつけて、燃え迫って来る火を退けて、その野を無事に出ると、その国造くにのみやつこたちを皆斬り殺して、火をつけて焼いた。

そこからさらに進み、走水海はしりみずのうみを渡ろうとした時、その海峡の神が荒波を立て、船をぐるぐる回して、倭建やまとたけるは先へ渡って進むことができなかった。
すると、后である弟橘比売おとたちばなひめが、
「私が皇子の身代りとなって海中に身を沈めましょう。皇子は、遣わされた東征の任務を成しとげて、天皇に御報告なさいませ」
と言って海に降りた。

するとその荒波は自然に穏やかになって、御船は先へ進むことができた。

それから七日たって後に、后の御櫛みくしが海岸に流れ着いた。
そこでその櫛を取って、御陵を作ってその中に納め葬った。

倭建やまとたけるは、そこからさらに奥へ進み、ことごとく荒れ狂う蝦夷どもを平定し、また山や川の荒れすさぶ神々を平定し、都に上って帰っていた。

そして足柄山あしがらやまの坂の上に登り立って、三回嘆息し、
「ああ、我が妻よ」
と仰せになった。
それでその国を名づけて吾妻あずま(東)というのである。

美夜受比売

甲斐国かいのくにから信濃国しなののくにに越えて、そこで信濃しなのの坂の神を帰順させ、尾張国おわりのくにに帰って来ると、まず再会を約束していた美夜受比売みやずひめの家に入った。

そして結婚し、その帯びていた草那芸剣くさなぎのけん美夜受比売みやずひめのところに置いたまま、伊吹山いぶきやまの神を討ち取るために出発した。

倭健命の死

倭建やまとたけるは、
「この山の神は素手でじかに討ち取ってやろう」
と言って、その山にお登った時、山のほとりで白い猪に出会った。
その大きさは牛のようであった。

この白い猪に化身していたのは、山の神自身であった。
山の神は激しいひょうを降らせて、倭建やまとたけるを打ち惑わせた。

病に伏せながらも山から帰って来て、大和やまとを目指して能煩野のぼのに着いた時、故郷の大和国やまとのくにを偲んで歌を詠んだ。

歌い終わってすぐにお隠れになった。
そこで早馬の急使を朝廷に奉って、このことを報告した。

白智鳥と御葬歌

大和やまとにいる后たちや御子たちは、皆降って来て御陵みささぎを造り、その周囲の田の中を這い回って、泣き悲しんだ。

すると倭建やまとたけるの魂は、大きな白い千鳥となって空に飛び立って、海に向かって飛び去った。

白鳥は、伊勢国いせのくにから飛び翔って行って、河内国かわちのくに志幾しきに留まった。
そこでその地に御陵を造って、御魂を鎮座させた。
そこでその御陵を名づけて白鳥御陵しらとりのみはかという。
しかし、白鳥はまたそこからさらに空高く天翔って飛び去って行った。

この大帯日子おおたらしひこの年齢は、百三十七歳。
御陵は山辺道やまのべのみちのほとりにある。

成務天皇

若帯日子天皇わかたらしひこのすめらみことは、近江おうみ志賀しが高穴穂宮たかあなほのみやで天下を治めた。
この天皇が、穂積臣ほずみのおみ等の祖先である、建忍山垂根たけおしやまたりねの娘の弟財郎女おとたからのいらつめを妻としてお生みになった御子が和訶奴気わかぬけ王である。

そして、建内宿禰たけしうちのすくねを大臣として、大小の国々の国造を定め、また国々の境界と、大小のあがた県主あがたぬしを定めた。

天皇の年齢は九十五歳である。
乙卯の年の三月十五日に崩御した。
御陵みはか狭城さき盾列たてなみにある。

仲哀天皇

后妃と御子

帯中日子天皇たらしなかつひこのすめらみことは、穴門あなと豊浦宮とよらのみや、および筑紫ちくし香椎宮かしいのみやで天下を治めた。
この天皇が、大江おおえ王の大中津比売おおなかつひめ命を妻としてお生みになった御子は、香坂かごさか王と忍熊おしくま王の二柱である。
また息長帯比売命おきながたらしひめ(この方は皇后である)を妻としてお生みになった御子は、品夜和気ほむやわけ命と大鞆和気おおともわけ命、またの名を品陀和気ほむだわけ命の二柱である。

神功皇后の神がかりと神託

仲哀天皇の皇后である息長帯比売おきながたらしひめは、天皇の筑紫巡幸つくしじゅんこうの折に神がかりになられた。
「西の方に国がある。その国には、金や銀をはじめとして、目のくらむようないろいろの珍しい宝物がたくさんある。私は今、その国を服属させてあげようと思う」

ところが天皇がこれに答えて言う。
「高い所に登って西の方を見ると、国土は見えないで、ただ大海があるだけだ」
そして偽りを言う神だとお思いになって、お琴を押しやってお弾きにならず、黙っておられた。
するとその神がひどく怒って言う。
「そもそもこの天下は、そなたが統治すべき国ではない。そなたは黄泉国よみのくにへの一道ひとみちに向かいなさい」

そして天皇は亡なっていた。
そこで驚き恐れて、御遺体を殯宮もがりのみやにお移し申し上げ、国家的な大祓おおはらえの儀礼を行ない、また武内宿禰たけしうちのすくねが神おろしの場所にいて神託を求めた。
そこで神が教え諭したことは、すべて先日の神託と同じで、
「全てこの国は、皇后様のお腹におられる御子が統治されるべき国である」
というものであった。

神功皇后の新羅遠征

そこで皇后は、すべて神が教えたとおりにして、軍勢を整え船を並べて海を渡って征伐した。
こういうわけで、新羅国しらぎ馬飼うまかいとお定めになり、百済国くだらのくには海を渡った地の屯倉みやけと定めた。

新羅征討の政務がまだ終わっていないうちに、皇后の身籠っておられる御子が生まれになりそうになった。
そこで皇后は、お腹を鎮めようとして、石を取って裳の腰に付けて出産を抑え、筑紫国つくしのくにに還られてから、その御子は生まれた。

忍熊王の反逆

こうして大和やまとへ上って来られる時、香坂かごさか忍熊おしくまはこれを聞いて、皇后を待ち受けて討ち取ろうと思った。

そこで香坂かごさかくぬぎに登っていると、そこに大きな怒り狂ったいのししが現われて、そのくぬぎを掘って倒し、たちまち香坂かごさかを食い殺した。
その弟の忍熊おしくまは、その凶兆を恐れることなく、軍勢を起こして皇后を待ち受け迎えたが、結局は湖に身を投じてともに死んでしまった。

およそ仲哀天皇の年齢は五十二歳。
壬把の年の六月十一日に崩御になった。
御陵みはか河内国かわちのくに恵賀えがの長江にある。

皇后は百歳でお亡くなりになった。
そして狭城さき楯列陵たてなみのみささぎに葬り申し上げた。

応神天皇

后妃と御子

品陀和気ほむだわけ命は、軽島かるしま明宮あきらのみやで天下を治めた。
応神天皇は、品陀真若ほむだのまわか王の娘の三柱の女王と結婚した。
高木之入日売たかきのいりひめ命、次に中日売なかつひめ命、次に弟日売おとひめ命である。

高木之入日売たかきのいりひめの御子は、
額田大中日子ぬかたのおおなかつひこ命、
次に大山守おおやまもり命、
次に伊奢之真若いざのまわか命、
次に妹の大原郎女おおはらのいらつめ
次に高目郎女こむくのいらつめの五人である。

中日売なかつひめ命の御子は、
木之荒田郎女きのあらたのいらつめ
次に大雀おおさざき命、
次に根鳥ねとり命のお三名である。

弟日売おとひめの御子は、
阿部郎女あべのいらつめ
次に阿貝知能三腹郎女あはじのみはらのいらつめ
次に木之菟野郎女きのうののいらつめ
次に三野郎女みののいらつめの五人である。

また天皇が丸邇わに氏の比布礼能意富美ひふれのおほみの娘の宮主矢河枝比売みやぬしやかわえひめと結婚してお生みになった御子は、
宇遅能和紀郎子うじのわきいらつこ
次に妹の八田若郎女やたのわきいらつめ
次に女鳥めどり王の三名である。

矢河枝比売やかわえひめの妹の袁那弁郎女おなべのいらつめと結婚してお生みになった御子は、宇遅之若郎女うじのわきいらつめである。

咋俣長日子くいまたながひこ王の娘の、息長真若中比売おきながまわかなかつひめと結婚してお生みになった御子は、若沼毛二俣わかぬけふたまた王である。

桜井さくらい田部連たべのむらじの祖先の島垂根しまたりねの娘である糸井比売いといひめと結婚してお生みになった御子は、速総別はやぶさわけ命である。

日向ひむか泉長比売いずみのながひめと結婚してお生みになった御子は、
大羽江おおはえ王、
次に小羽江おはえ王、
次に幡日之若郎女はたひのわきいらつめの三名である。

迦具漏日売かぐろひめと結婚してお生みになった御子は、
川原田郎女かわらだのいらつめ
次に玉郎女たまのいらつめ
次に忍坂大中比売おさかのおおなかつひめ
次に登富志郎女とほしのいらつめ
次に迦多遅かたじ王の五人である。

葛城かずらき野伊呂売ののいろめと結婚してお生みになった御子は、伊奢能麻和迦いざのまわか王である。

この天皇の御子たちは、合わせて二十六であった。

大山守命と大雀命

応神天皇は、大山守おおやまもり大雀おおさざきとに尋ねて、
「お前たちは年上の子と年下の子と、どちらがかわいいか」
と言った。
天皇がこの問を発せられた理由は、宇遅能和紀郎子うじのわきいらつこに天下を治めさせようとの考えがあったからである。

そこで大山守おおやまもりは、
「年上の子の方がかわいく思われます」
と答えた。
次に大雀おおさざきは、天皇がお尋ねになった心中を察して、
「年上の子は既に成人していますので、こちらは気にかかることもありませんが、年下の子はまだ成人しておりませんので、このほうがかわいく思われます」
と答えた。

すると天皇は、
大雀おおさざきよ、お前の言ったことは私の思っているとおりだ」
と言って、三人の皇子の任務を分けて、
大山守おおやまもりは、山と海のを管理しなさい。大雀おおさざきは、私の統治する国の政治を執行して奏上しなさい。宇遅能和紀郎子うじのわきいらつこは皇位を継承しなさい」
と言った。

百済の朝貢

この天皇の御代に、海部あまべ山部やまべ山守部やまもりべ伊勢部いせべを定めた。
また、剣池つるぎのいけを作った。
さらに、新羅しらぎの人々が渡来した。
そこで武内宿禰たけしうちのすくねがこれらの人々を率いて、渡の堤池わたりのつつみのいけとして百済池くだらのいけを作った。
百済くだらの国王の照古王しょうこおうは、牡馬一頭と牝馬ー頭を阿知吉師あちきしに託して奉った。

また照古王しょうこおうは、太刀と大鏡とを献上した。
天皇は百済国くだらこくに、
「もし百済に賢人がいたら奉るように」
と言った。
そこでみことのりを受けて献った人の名は和邇吉師わにきしという。
そして、ただちに『論語』を十巻、『千字文』を一巻、合わせて十一巻をこの人に託してすぐに献上した。

およそこの品陀天皇ほむだのすめらみことの年齢は、百三十歳で、甲午の年の九月九日に崩御した。
御陵みはかは、河内国かわちのくに恵賀えが裳伏崗もふしのおかにある。

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