雄略天皇 大泊瀬幼武天皇
眉輪王の父の仇
大泊瀬幼武天皇は允恭天皇の第五子である。
天皇がお生まれになったとき、神々しい光が御殿に充満した。
成長されてから、その逞しさは人に抜きん出ていた。
三年八月、安康天皇は湯あみしようと思われ、山の宮にお出でになった。
そして、楼にお登りになって眺め渡された。
それから命じて酒宴を催された。
そして、だんだん心がくつろがれて楽しさが極まり、いろいろな話を語り出され、皇后に言われた。
「妻よ、お前は私と充分馴染んでいるが、私は眉輪王が怖い」
眉輪王はまだ幼かったが、 楼の下で戯れ遊んでいるなかで、その話を全部聞いた。
そのうち、天皇は皇后の膝を枕に昼寝をしてしまわれた。
そこで眉輪王は、天皇の寝込みを伺って刺し殺した。
この日に大舎人が急ぎ走って、天皇(雄略天皇)に、
「安康天皇は眉輪王に殺されました」
と言った。
天皇は大いに驚かれ、自分の兄弟たちを疑われて、甲を著け、太刀を佩いて、兵を率い自ら先に立ち、八釣白彦皇子(天皇の同母兄)を攻め、問い詰めた。
皇子は危害を加えられそうなのを感じ、声も出ず座っておられた。
天皇は即座に刀を抜いて斬ってしまわれた。
また、坂合黒彦皇子(同母兄)を問い詰めた。
皇子もまた、殺されそうなのに気づかれ、座したまま物も言われなかった。
天皇はますます怒り狂われた。
この際、眉輪王も殺してしまおうと思われたので、事のわけを調べ尋ねられた。
眉輪王は言われた。
「私は、もとより皇位を望んではおりません。ただ、父の仇を報いたいだけです」
坂合黒彦皇子は深く疑われることを恐れて、こっそり眉輪王と語り、ついに隙を見て、ともに円大臣の家へ逃げこんだ。
天皇は使者を遣わして引渡しを求められた。
大臣は使者を出して答えた。
「人臣が事あるときに逃げて王宮に入るということは聞くことがありますが、未だ君王が人臣の家に隠れるということを知りません。たしかに今、坂合黒彦皇子と眉輪王は、深く私の心を頼みとして、私の家にこられました。どうして強いて差し出すことができましょうか」
これによって天皇は、ますます兵を増して、大臣の家を囲んだ。
大臣は庭に出られて、脚結(脚を動きやすくするために、袴の裾をくくる紐)を求めた。
大臣の妻は脚結を持ってきて、悲しみのために心がやぶれながら歌った。
オミノコハ、夕へノハカマヲ、ナナへヲシ、ニハニタタシテ、アユヒナタスモ。
我が夫の大臣は白い栲の袴を、七重にお召しになって、庭にお立ちになり、脚結を撫でておいでになる。
大臣は装束をつけ、軍門に進み出て拝礼して、
「私は誅殺されようとも、あえて命を承ることはないでしよう。古人も言っています。『賤しい男の志も奪うことは難しい』というのは、まさしく私の場合に当たっています。伏してお願い申し上げることは、私の娘である韓媛と、 葛城の領地七ヶ所を献上し、罪を贖うことをお聞き入れ下さい」
と言った。
天皇はそれを許さず、火をつけて家を焼かれた。
ここに、大臣と黒彦皇子と眉輪王とは共に焼き殺された。
そのとき、坂合部連贄宿禰は、皇子の屍を抱いて共に焼き殺された。
その舍人どもは、死骸を取り収めたが、骨を選び分けることも難しかった。
一つの棺に入れて新漢の槻本の南の丘に合葬した。
市辺押磐皇子を謀殺
冬十月一日、天皇は安康天皇が、かつて従兄弟の市辺押磐皇子に、皇位を伝え、後事を委ねようと思われたのを恨んで、人を市辺押磐皇子のもとにやり、偽って狩りをしようと約束し、野遊びを勧めて言った。
「近江の佐々貴山の君韓帒が言うには、『今、近江の来田綿の蚊屋野に、猪や鹿が沢山います。その頂いた角は、枯木の枝に似ています。その揃えた脚は、灌木のようであり、吐く息は朝霧に似ています』と申している。できれば皇子と、初冬の風があまり冷たくないときに、野に遊んでいささか心を楽しんで巻狩りをしようではないか」
市辺押磐皇子は、そこでこの勧めに従い、狩りに出向いた。
このとき、雄略天皇は弓を構え、馬を走らせ騙し呼んで『鹿がいる』といい、市辺押磐皇子を射殺した。
皇子の舎人の佐伯部売輪は、皇子の屍を抱き、驚き慌ててなすべきことを知らなかった。
叫び声をあげ転び回り、皇子の頭と脚の間を右往左往した。
天皇は、これを皆殺しにしてしまわれた。
この月、御馬皇子(押磐皇子の同母弟)は、かねて三輪君身狭と親しかったので、心を楽しませようと思ってお出かけになった。
不意に途中に伏兵があり、三輪の磐井のほとりで合戦となった。
御馬皇子はほどなく捕えられ、処刑されるとき、井戸を指して呪いをかけた。
「この水は百姓だけ飲むことができる。王者だけは飲むことができない」
即位と諸妃
十一月十三日、天皇は役人に命ぜられて、即位の場を泊瀬の朝倉に設け、皇位に就かれた。
宮居を定め、平群臣真鳥を大臣とし、大伴連室屋、物部連目を大連とした。
元年春三月三日、草香幡梭姐皇女を立てて皇后とされた。
この月に、三人の妃を立てた。
一番初めからの妃は、葛城円大臣の娘である韓媛という。
白髪武広国押稚日本根子天皇(清寧天皇)と稚足姫皇女をお生みになった。
この皇女は伊勢神宮の斎宮となられた。
次に、吉備上道臣の娘である稚姫という人があり、二男をお生みになった。
兄を磐城皇子といい、弟を星川稚宮皇子という。
次に、春日の和珥臣深目の娘が童女君という。
春日大娘皇女をお生みになった。
童女君はもとは采女であった。
天皇が一夜を共にされただけで孕まれ、女子が生まれた。
天皇は疑われて養育されなかった。
女の子は歩けるようになった。
天皇は大殿にお出でになり、物部目大連が侍していた。
女の子は庭を歩いて行った。
目大連は群臣を顧みて言った。
「麗わしい女の子だなあ。古の人がいった。『なひとやははに(お前はお母さん似か)』と。清らかな庭を静かに歩くのは、誰の娘なんだろう」
天皇が言われる。
「なぜそんな風に尋ねるのか」
目大連は答えて、
「私が女の子の歩くのを見ると、その姿がよく天皇に似ておられますので」
と申し上げた。
天皇は、
「この子を見た人が皆言うことは、お前が言うところと同じである。けれども、私と一夜を共にしただけで身籠ったのだ。一晩で子供を生むとは異常なので、疑っているのだ」
と言われた。
大連が、
「それでは一晩に何度呼ばれましたか」
と尋ねた。
天皇は答えて、
「七回呼んだ」
大連が、
「乙女は清らかな身と心で、一夜床を共に致しました。どうして軽々しく疑って、その人の潔らかな身を疑われるのですか。私は聞いておりますが、孕み易い人は、襌が体に触っただけでも妊娠するということです。それを一晩中床を共にされたにもかかわらず、みだりに疑いをかけられるとは」
と申し上げた。
天皇は大連に命じて、女の子を皇女とし、母親を妃とされた。
この年、太歳丁酉。
二年秋七月、百済の池津媛は、天皇が宮中に入れようとしておられたにもかかわらず、石川楯と通じた。
天皇は大いに怒って、大伴室屋大連に命じて、来目部を使い、夫婦の四肢を木に張りつけて、桟敷の上に置かせて、火で焼き殺させた。
百済新撰には、己已の年、蓋鹵王が即位した。
天皇は阿礼奴跪を遣わして、美女を乞わせた。
百済は慕尼夫人の娘を飾らせて、適稽女郎と呼び、天皇に奉ったという。
吉野の猟と宍人部の貢上
冬十月三日、吉野宮に行幸された。
六日、御馬瀬にお出でになった。
山係りの役人に命じ、思うままの狩りをされた。
いくつもの峯に登り、広い原を駆け、日も傾かない中に、十中八九は獲物を収め、鳥獣も尽きるかと思うほどであった。
ついに、林泉に巡り合って水辺に休憩した。
車駕を整え、士卒を休ませ群臣に問われた。
「猟場の楽しみは、料理人に鮮(新鮮な料理)を作らせることだが、自分で作るのとどっちが楽しいだろう」
群臣は即答することができなかった。
すると天皇は大変怒られて、太刀を抜いて御者の大津馬飼を斬られた。
この日、天皇は吉野宫からお帰りになった。
国内の民はことごとく震え恐れた。
それで皇太子と皇后は、これを聞いて大いに心配された。
倭の采女日媛に、酒を捧げお迎えをさせた。
天皇は采女の顔が端正で、容姿が上品なのをご覧になって、顔をほころばせ喜びの色を示して、
「私は、どうしてお前の美しい顔を見ないでいられようか」
と言われ、手を組み合って後宮に入られた。
皇太后に語って言われるのに、
「今日の狩りに沢山の獲物を得た。群臣と新鮮な料理を作って、野外の宴をしようと思い、群臣らに尋ねたが、よく答えられる者が誰もなかった。それで私は腹を立てたのだ」
皇太后は天皇の言葉の真情を知り、天皇を慰めようと思われた。
「群臣は陛下が狩猟の場において、宍人部を設ける話をしようと思い、群臣に尋ねられたとは気がつかなかったでしよう。答えるのも難しいから、群臣が沈黙していたのも無理はありません。今からでも遅くありませんから、初めての試みとされるのもよいでしよう。膳臣の長野は料理が上手です。だからこれを当ててみては」
と言われた。
天皇は跪き、礼をして、
「良いことを言ってくれた。下々の者が言う言葉に、『貴い身分のお方は、互いにその心が相通じる』というのは、このことだろうか」
と言われた。
皇太后は天皇の喜ばれる様子をご覧になり、自らも悦びお笑いになった。
さらにまた人をつけ加えようと、
「私の厨人の菟田御戸部、真鋅田高天の二人を加えて宍入部にして下さい」
と言われた。
その後、大倭国造吾子籠宿禰、狭穂子鳥別を宍人部とした。
臣、連、伴造、国造らも、ならって人を奉った。
この月、史戸、河上舎人部を設けられた。
天皇は自分の心だけで専決されるところがあり、 誤って人を殺されることも多かった。
天下の人々はこれを誹謗して、
「大変悪い天皇である」
と言った。
ただ可愛がられたのは、史部の身狭村主青、桧隈民使博徳らだけである。
三年夏四月、阿閉臣国見が、栲幡皇女(伊勢の斎宮)と湯人(皇子と皇女の沐浴に仕える者)の廬城部連武彦を讒言して、
「武彦は皇女を穢して妊娠させました」
と言った。
武彦の父の枳莒喩は、この流言を聞いて、災いが身に及ぶことを恐れた。
武彦を廬城河へ誘い出し、偽って水に潜り、魚を捕える鵜飼いの真似ごとをしているときに、不意に打ち殺した。
天皇は使者を遣わして皇女を調べた。
皇女は、
「私は知りません」
答えた。
皇女は急に神鏡を持ち出して、五十鈴川のほとりにお出でになり、人の行かぬところを選んで、鏡を埋め首をくくって死なれた。
天皇は皇女のおられないことを疑われ、闇夜にあちこちを探し求められた。
すると川上に虹のかかったところがあり、蛇のように四、五丈の長さであった。
虹の立ったところを掘ると、神鏡が出てきた。
そして近くに皇女の屍があった。
割いてみると腹の中に水のようなものがあった。
水の中には石があった。
枳莒喩はこれによって、息子の冤罪をそそぐことができた。
かえって子を殺したことを悔いて、報復に国見を殺そうとした。
国見は石上神宮に逃げ隠れた。
葛城の一事主
四年春二月、天皇は葛城山に狩りにお出でになった。
突然、長身の人が出現し、谷間のところで行き合った。
顔や姿は天皇とよく似ていた。
天皇は、これは神であると思われたが、あえてお尋ねになって、
「どちらの公でいらっしゃいますか」
と問われた。
背の高い人は答えて、
「現人神である。まず、あなたの名を名乗りなさい。そしたら私も言おう」
と言われた。
天皇は答えて、
「私は幼武尊である」
すると背の高い人は名乗った。
「私は一事主神である」
そして一緒に狩りを楽しんで、鹿を追いつめても、矢を放つことを譲り合い、轡を並べて馳せ合った。
言葉も恭しくて仙人に逢ったかのようであった。
日も暮れて狩りも終り、神は天皇を見送りされて、来目川までお越しになった。
このとき、世の人々は、誰もが「天皇は徳のあるお方である」と評した。
秋八月十八日、吉野宮にお出でになった。
二十日に川上の小野にお越しになった。
山の役人に命じて獣を狩り出させられた。
自分で射ようとして構えておられると、虻が飛んできて天皇の肘を嚙んだ。
そこへ蜻蛉(トンボ)が急に飛んできて、虻を哇えて飛び去った。
天皇は蜻蛉が心のあることを褒められて、群臣に詔して、
「私のために蜻蛉を褒めて歌詠みをせよ」
と言われた。
群臣は、しかしあえて詠む人がなかった。
天皇は口ずさんだ。
ヤマトノ、ヲムラノタケニ、シシフスト、タレカコノコ卜、オホマへニマヲス。
オホキミハ、ソコヲキカシテ、タママキノ、アグラニ夕タシ、シヅマキノ、アグラニタタシ、シシマツ卜、ワガイマセバ、サヰマツ卜、ワガタタセバ、タクフラニ、アムカキツキツ、ソノアムヲ、アキツハヤクヒ、ハフムシモ、オホキミニマツラフ、ナガカタハオカム、アキツシマヤマト。
倭の山々の頂上にシシがいると、誰がこのことを大君に申し上げるだろうか。
大君はそれをお聞きになって、玉を飾り、美しい倭文を巻いた胡床におかけになって、シシを待つと私が構えていると、手のふくらに虻が食いつき、その虻を蜻蛉がたちまち食い、昆虫までも大君にお仕えする。お前の形見として残しておこう。この蜻蛉島倭という名を。
そのように蜻蛉を褒めて、此の地を名づけて蜻蛉野とした。
五年春二月、天皇は葛城山に狩りをされた。
不思議な鳥が急に現われ、大きさは雀ぐらいで、尾は長く地に曳いていた。
そして鳴きながら、
「ゆめ、ゆめ(油断するな)」
と言った。
にわかに追われて怒った猪が、草の中から突然飛び出し、人にかかってきた。
狩人たちは木によじ登り大いに恐れていた。
天皇は舍人に詔して、
「猛き猪も、人に逢っては止まるという。迎え射て仕止めよ」
と言われた。
舍人は、人となりが臆病で、木に登って度を失い、恐れおののいた。
猪は直進して天皇に食いつこうとした。
天皇は弓で突き刺し、足をあげて踏み殺された。
狩りも終った頃、舍人を斬った。
舍人は殺されるときに歌を詠んだ。
ヤスミシシ、ワガオホキミノ、アソバシシ、シシノウタキ、力シコミ、ワガニゲノボリシ、アリヲノウへノ、ハリガエダアセヲ。
大君が狩りをされた猪のうなり声を恐れて、私の逃げ上がった峯の上の榛の木の枝よ。ああ。
皇后はそれをお聞きになって悲しまれ、心を込めて諫められた。
「皇后は天皇に味方しないで、舍人のことを大事に思われた」
と天皇は言われた。
皇后は答えた。
「国人は皆、陛下は狩りをなさって、猪を好み給うと言うでしよう。これは良くないでしょう。今、陛下が猪のことで舎人を斬ったのなら、それは陛下は狼に他なりません」
天皇はそこで皇后と車に乗ってお帰りになった。
「万歳」
と叫んで言われるのに、
「楽しいことだなあ。人は皆、鳥や獸を獲物とするのだが、私は狩りをして、良い言葉を獲物として帰るのだから」
と言われた。
嶋王(武寧王)誕生
夏四月、百済の加須利君が、池津媛が焼き殺されたことを人伝てに聞き、
「昔、女を貢って采女とした。しかるに、礼に背き、我が国の名を貶めた。今後、女を貢ってはならぬ」
と言った。
弟の軍君に、
「お前は日本に行って天皇に仕えよ」
と告げた。
軍君は、
「君の命令に背くことはできません。願わくば、君の婦を賜わって、それから私を遣わして下さい」
と言った。
加須利君は妊娠中の婦を軍君に与え、
「私の婦は臨月になっている。もし途中で出産したら、どうか母子同じ船に乗せて、どこからででも速かに国に送るように」
と言った。
共に朝に遣わされた。
六月一日、身籠った女は筑紫の加羅島で出産した。
そこでこの子を嶋君という。
軍君は一つの船に母子を乗せて国に送った。
これが武寧王である。
百済人はこの島を主島という。
秋七月、軍君は京に入った。
すでに五人の子があった。
「百済新撰」によると、辛丑年に蓋鹵王が弟の昆支王を遣わし、大倭に参向させ、天王にお仕えさせた。そして兄王のよしみを修めた。とある。
六年春二月四日、天皇は泊瀬の小野に遊ばれた。
山野の地形をご覧になり、深く感慨をもよおされ歌われた。
コモリクノ、ハツセノヤマハ、イデ夕チノ、ヨロシキヤマ、ワシリデノ、ヨロシキヤマノ、コモリクノ、ハツセノヤマハ、アヤニウラグハシ、アヤニウラグハシ。
泊瀬の山は、体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、何とも言えず美しい。何とも言えず美しい。
そこで、小野を名づけて、道小野といった。
少子部 蜾贏
三月七日、天皇は后と妃に桑の葉を摘みとらせて、養蚕を勧めようと思われた。
そこで蜾贏に命ぜられて、国内の蚕を集めさせられた。
蜾贏は勘違いして、嬰児を集めて天皇に奉った。
天皇は大いに笑われて、嬰児を蜾贏に賜わって、
「お前自身で養いなさい」
と言われた。
蜾贏は嬰児を宮の垣の近くで養育した。
よって姓を賜わり少子部連とした。
夏四月、呉国が使者を遣わして貢物を奉った。
七年秋七月三日、天皇は少子部連蜾贏に詔して、
「私は三輪山の神の姿を見たいと思う。 お前は腕力が人に勝れている。自ら行って捕えてこい」
と言われた。
蜾贏は、
「ためしにやってみましょう」
とお答えした。
三輪山に登って大きな蛇を捕えてきて、天皇にお見せした。
天皇は斎戒されなかった。
大蛇は雷のような音をたて、目はきらきらと輝やかせた。
天皇は恐れ入って、目を覆ってご覧にならないで、殿中にお隠れになった。
そして大蛇を岳に放たせられた。
あらためてその岳に名を賜い雷とした。
吉備臣たち
八月、舎人の吉備弓削部虚空は、取り急ぎ家に帰った。
吉備下道臣前津屋は、虚空を自分のところに留めて使い、何月経っても京へ許し上らせなかった。
天皇は身毛君大夫を遣わして呼ばれた。
虚空は呼ばれてやってきて、
「前津屋は小女を天皇の人とし、大女を自分の人とし、両方に競い闘わせています。小女の方が勝つのを見ると、太刀を抜いて殺しました。また、小さい雄鶏を天皇の鶏とし、毛を抜き翼を切り、大きい雄鶏を自分の鶏とし、鈴や金のけづめを付けて、闘わせています。毛の擦り切れた鶏の勝つのを見ると、また刀を抜いて殺します」
と言った。
天皇はこの言葉を聞かれ、物部の兵士三十人を遣わして、前津屋と合せて、同族七十人を殺した。
この年、吉備上道臣田狭が、御殿の近くに侍っていて、さかんに稚媛のことを友人に褒め語って、
「天下の美人でも、俺の婦に及ぶ者はない。にこやかで明るく輝き、際立って愛らしい。お化粧もその必要がなく、久しい世にも類稀な、抜群の美女である」
と言った。
天皇は耳を傾けて、遥かに聞こしめして心中お喜びになった。
稚媛を求めて、女御にしようと思われた。
田狭を任じて、任那の国司とされた。
それからしばらくして、稚媛を召し入れられた。
田狭は稚媛を娶って兄君と弟君を生んでいた。
田狭はすでに任地に行ってから、天皇が稚媛を召されたことを聞き、援助を求めて新羅に入ろうと思った。
しかし、そのとき新羅は日本と不和であった。
今来の才伎
天皇は田狭臣の子の弟君と、吉備海部直赤尾に詔して、
「お前達は新羅を討て」
と言われた。
そのとき、西漢才伎歓因知利が近くにいて、進み出て言った。
「もっと適当な者が韓国に沢山います。召してお使いになるのがよいでしょう」
天皇は群臣に詔して、
「それでは歓因知利を、弟君らに副えて百済に遣わし、合せて勅書を下して、勝れた者を献らせよ」
と言われた。
弟君は命令を承り、衆を率いて百済に行った。
そこの国つ神が老女に化けて、忽然と道に現れた。
弟君はこの先、遠いか近いかと尋ねた。
老女は答えた。
「もう一日歩いて、やっと着くでしょう」
弟君は道が遠いと思って、新羅を討たないで帰った。
百済の奉った新来の才伎(職人)を、大島の中に集めて、風待ちをにかこつけて、久しく留まり、月を重ねた。
任那国司田狭臣は、弟君が兵を用いず帰ることを喜んで、こっそりと人を百済に送り、弟君を戒めた。
「お前の首はどれほど堅固で、人を討ったりできるのか。噂に聞くと、天皇は、我が妻を召されて遂に、子供もあると聞く。いまに禍が身に及ぶことは待つほどもないだろう。我が子のお前は百済に留まって日本に帰るな。私は任那に留まって日本に帰らない」
と言った。
弟君の妻の樟媛は、国家を思う心が強く、君臣の義を重んじた。
忠節の心は白日青松(現在の白砂青松)よりも明らかであった。
そこでこの謀叛の心を憎んで、ついにその夫を殺し、室の内に隠し埋めて、海部直赤尾と共に、百済の奉った才伎たちを率いて、大島にやって来た。
天皇は弟君がいなくなってしまったことを聞かれて、日鷹吉人堅磐固安銭を遣わして、復命させた。
そして才伎を倭の阿都の広津邑(大阪府八尾周辺)に住まわせた。
しかし、病気で死ぬ者が多かった。
そこで天皇は、大伴大連室屋に詔し、東漢直掬に命じて、新漢(新しい渡来人)である陶部高貴、鞍部堅貴、画部因斯羅我原、錦部定安那錦、訳語卯安那らを、上桃原、下桃原、真神原の三ヶ所に移し住まわせた。
高麗軍の撃破
八年春二月、身狭村主青、桧隈民使博徳を呉国に遣わされた。
天皇即位以来この年に至るまで、新羅国は貢物を奉らないことが八年に及んだ。
そして帝の心を恐れて、よしみを高麗に求めていた。
そのため高麗の王は、精兵百人を送って新羅を守らせた。
しばらくして、高麗の兵士の一人がしばらくのあいだ国に帰った。
そのとき、新羅人を馬飼とした。
これにこっそり語って、
「お前の国は、我が国のために破られることになるだろう」
といった。
その馬飼はこれを聞き、偽って腹痛の真似をして遅れて行き、隙をみて新羅国に逃げ戻って、その聞いたところを知らせた。
新羅の王は、高麗の守りが偽りであることを知り、使者を走らせて国人に告げ、
「人々よ、 家の内に養っている鶏の雄鶏を殺せ」
と言った。
国民はその意を知って、国内にいた高麗人をことごとく殺した。
そのとき、生き残った高麗人が一人あり、隙をみて逃れ、国人につぶさに伝えた。
高麗王は兵を興して、築足流城に集めた。
兵に歌舞をさせて声を響かせた。
新羅王は夜、高麗軍が四方に歌う声を聞き、新羅の地にことごとく敵が入っていることを知った。
そこで任那王のもとへ人を遣わし、
「高麗王が我が国を攻めようとしている。いまや、我が国は吊り下げられた旗の如く、敵の思うままに振り回されている。国は累卵の危きにあり、命の長短も計られない。どうか助けを日本府の将軍たちにお願いします」
と言った。
任那王は膳臣斑鳩、吉備臣小梨、難波吉士赤目子らを送り、新羅を助けさせた。
膳臣らがまだ途中に軍営して、接触していないのに、高麗の将兵は皆怖れた。
膳臣らは急襲のできるよう備えを整え、高麗軍と対峙して守ること十日余り、夜のうちに地下道を造って輜重(軍隊の荷物)を送り、奇襲を狙った。
明け方、高麗軍は膳臣らが逃げたと思い、兵を全て出してきた。
そこへ奇兵を放って、挟み打ちに攻めて大いに破った。
高麗、新羅の二国間の怨はこれから始まった。
膳臣は新羅に語った。
「お前の国は至って弱いのに、至って強い国と戦ったのであるから、日本軍がもし助けなかったら、この戦いできっと他人の国になっていただろう。今後は天朝に背いてはならぬ」
九年春二月一日、凡河内直香賜と采女を遣わして、宗像の神を祀らされた。
香賜は神域に行って、今にも行事を行なおうという時に、その采女を犯した。
天皇はこれをお聞きに なって、
「神を祀って幸いを祈るには、慎しみがなければならぬ」
と言われ、難波日鷹吉士を遣わして、香賜を殺すことを命じた。
香賜は逃げ隠れた。
天皇は弓削連豊穂を遣わして、あまねく国、郡、県を探し回り、ついに三島郡藍原にて捕えて斬られた。
新羅討伐
三月、天皇は自ら新羅を討とうと思われた。
しかし、神が天皇を戒めて、
「行ってはいけない」
と言われたので、天皇は行かれなかった。
そこで紀小弓宿禰、蘇我韓子宿禰、大伴談連、小鹿火宿禰らに詔して、
「新羅は前から朝貢を重ねていたのに、私が王となってから身を対馬の先まで乗り出し、跡を草羅に隠して高麗の貢を妨げたり、百済の城をとったり、自らの貢物も怠っている。狼の子のような荒い心があって、飽きると離れ去り、飢えると近づいてくる。汝等、四卿を大将に任ずる。王師をもって攻め討ち天罰を加えよ」
と言われた。
紀小弓宿禰は、大伴室屋大連をして天皇に憂え訴えさせるのに、
「私は微力と言えども、謹んで詔を承ります。
しかし今、私の妻が亡くなったばかりで、後を見てくれる者がありません。公はどうかこのことを天皇につぶさに申し上げて欲しい」
と言った。
大伴室屋はそのように奏上した。
天皇はそれを聞き、悲しみ歎かれ、吉備上道采女大海を紀小弓宿禰に賜わり、付き添って世話をすることにさせられた。
そして送り出された。
紀小弓宿禰らは新羅に入り、進撃が目ざましかった。
新羅王は夜、皇軍が四面を囲んで、鼓声をあげるのを聞き、すべて占領されたと思い、数百の騎兵と共に遁走した。
小弓宿禰は追撃して敵将を斬った。
しかし残兵は降伏しなかった。
小弓宿禰は兵を収め、大伴談連と合流し残兵と戦った。
この夜、大伴談連と紀岡前来目連は力闘して死んだ。
談連の従者である津麻呂が、軍中に入ってその主を尋ね、
「我が主、大伴公は何処にお出でになるか」
と言うと、ある人が、
「お前の主は敵のために殺された」
と言い、屍のところを指し示した。
津麻呂はそれを見て、
「主人が死なれたら、生きていても仕方がない」
と言い、再び敵中に入って共に死んだ。
しばらくして残兵が自然に退却した。
その後、大将軍である紀小弓宿禰は病気になって薨じた。
夏五月、紀大磐宿禰は、父が彼の地で死んだことを聞き、新羅に行き、小鹿火宿禰が司っていた兵馬・船官と諸々の小官を取って、自分勝手に振る舞った。
小鹿火宿禰は大磐宿禰を深く憎んだ。
そこで偽って韓子宿禰に告げて、
「大磐宿禰は私に語って、『自分はその中また韓子宿禰の官も取るだろう』と言っていた。気をつけた方がよい」
と言った。
こうして韓子宿禰と大磐宿禰には隙間ができた。
百済王は二人の不仲のことを聞いて、韓子宿禰のもとに人を遣わして、
「国の境をお見せしたいから、お出で下さい」
と言った。
それで宿禰たちは轡を並べて行った。
河に着いてから、大磐宿禰は馬に河水を飲ませた。
このとき、韓子宿禰は後ろから大磐宿禰の馬の鞍を射た。
大磐宿禰は驚き振り返って、韓子宿禰を射ち落すと、川の流れにはまって死んだ。
この三人の臣は、以前から先を競って道を乱したので、ついに百済の王宮に至らないで引き返してしまった。
そこで采女の大海は、小弓宿禰の喪に従って日本に帰った。
大伴室屋大連に悲しみ訴えて、
「私には骸をおさむべき所が分りません。どうか良い所を教えて下さい」
と言った。
大連はそれを天皇に申し上げた。
天皇は詔して、
「大将軍の紀小弓宿禰は、竜の如く登り、虎のように睨んで、天下を鎮めた。背く者は討ち、四海を平げた。身を万里に労してついに三韓に死んだ。哀れみ悼んで視葬者を遣わそう。また大伴卿は紀卿と同じ国の近い隣りで付き合いも長い」
と言われた。
そこで大連は詔を承って、土師連小鳥に墓を淡輪邑に造らせ葬らせた。
大海は喜んで黙っていられず、韓奴室、兄麻呂、弟麻呂、御倉、小倉、針の六人を大連に送った。
吉備上道の蚊島田邑の家人らはこれが始まりである。
小鹿火宿禰は、特に紀小弓宿禰の喪のためにやってきたが、ひとりで角国(周防国都濃)に留まった。
倭子連をして、八咫鏡を大伴大連に奉って、願い申した。
「手前は紀卿と共に帝に仕えることは堪えられません。どうか角国に留まらせていただきたい」
大連は天皇に申し上げ、角国に留まることになった。
これが角臣らが角国に居り、角臣と名づけられたことの始まりである。
月夜の埴輪馬
秋七月一日、河内国から言上してきた。
「飛鳥戸郡の人である田辺史伯孫の娘は、古市郡の人である書首加竜の妻である。伯孫は、女が男の子を産んだと聞いて、婿の家へお祝いに行き、月夜に帰ってきた。いちびこの丘の誉田陵(応神天皇陵)の下で、赤馬に乗っている人に出会った。その馬は竜のように蛇行したり、急に鴻のように駆けたりする。普通の馬とは異なり、優れた形であった。
伯孫は近づき眺めて、この馬が欲しくなった。乗っている葦毛の馬に鞭打って、轡を並べた。しかし、赤馬はたちまち抜いて、遥か彼方に塵ほどに小さくなった。伯孫の馬は遅れてしまって、後を追うこともできなかった。この駿馬に乗った人は、伯孫の願いを知って、馬を止めて互いに交換し、挨拶をして別れた。伯孫は駿馬を得て大いに喜び、躍らせて厩に入れ、鞍を下ろし秣を与えて寝た。翌朝見ると、赤馬は埴輪の馬に変っていた。
伯孫は不思議に思い、誉田陵に戻って探すと、彼の葦毛の馬が埴輪の馬の間に立っていた。伯孫は埴輪の馬と取替えて連れて帰った」
十年秋九月四日、身狭村主青等が、呉が献った二羽の鵞鳥を持って、筑紫に行った。
この鵞鳥が水間君の犬に喰われて死んだ。
水間君は恐れ憂えて、黙っておられず、鴻(おおとり)十羽と養鳥人を献って、罪を贖うことを願った。
天皇は許された。
冬十月七日、水間君が献った養鳥人らを、軽村と磐余村の二ヶ所に住まわせた。
十一年夏五月一日、近江国の栗田郡からの報告で、
「白い鵜が田上の浜にいます」
とあった。
それで詔を下して、川瀬の舎人を置かれた。
秋七月、百済国から逃げてきた者があった。
貴信と名乗っていた。
あるいは呉国の人ともいう。
磐余の呉の琴弾の坂手屋形麻呂らは、その子孫である。
鳥養部と韋那部
冬十月、鳥官の鳥が宇陀の人の犬に喰われて死んだ。
天皇は怒って顔に入墨をして、鳥養部とされた。
ちょうど信濃国の仕丁と、武蔵国の仕丁とが宿直していた。
そこで、
「ああ、自分の国でとって積んでおいた鳥は、小さい塚ほどもあり、朝夕、食してもなお余った。今、天皇はわずか一羽の鳥のために、人の顔に人墨をされた。どうも酷過ぎる。 悪い天皇でいらっしゃる」
と言った。
天皇はこれを聞かれて、
「鳥を取り集めて積んでみよ」
と言われた。
仕丁らは急に集め積むことはできなかった。
そこで罰して鳥養部とされた。
十二年夏四月四日、身狭村主青と桧隈民使博徳とを、呉に遣わされた。
冬十月十日、天皇は木匠の闘鶏御田に命ぜられて、楼閣を造らせられた。
このとき、御田は高殿に上って、あちらこちらと飛ぶように働いた。
これを仰ぎみた伊勢の采女が、彼の速さに驚いて庭に倒れ、捧げ持っていたお供え物をひっくり返した。
天皇は御田が采女を犯したと疑って、殺そうと思われ、刑吏に渡された。
そのとき、秦酒公が近くにおり、琴の歌によって、天皇に悟らせようと思い、琴を横たえて弾いて歌った。
カムカゼノ、イセノ、イセノヌノ、サカエヲ、イホフルカキテ、シカツクルマデニ、オホキミニ、力タクツカへ、マツラム卜、ワガイノチモ、ナガクモガト、イヒシタクミハヤ、アタラタクミハヤ。
伊勢の国の、伊勢の野に、生い栄えた木の枝を、たくさん打ち祈いて、それが尽きるまでも、大君にかたくお仕えしようと、自分の命もどうか長くあれかしと言っていた工匠は、何と惜しいことよ。
天皇は琴の歌を聞いて悟られ、その罪を許された。
十三年春三月、狭穂彦の玄孫(孫の孫)歯田根命が、密かに采女の山辺小島子を犯した。
天皇はこれを聞かれ、歯田根命を物部目大連に預けて、責めさせた。
歯田根命は馬八匹、大刀八本を以て、罪科を償った。
終ってから歌を詠んだ。
ヤマノべノ、コシマコユヱニ、ヒトテラフ、ウマノヤツゲハ、ヲシケクモナシ。
山辺の小島子のために、人々が狙っている馬の八頭を、手放すのは少しも惜しいことはない。
目大連はこれを聞いて、天皇に申し上げた。
天皇は歯田根命に対して、所有の資財を、餌香市の橘の木のもとに、むき出しにして置かせられた。
そして餌香の長野邑は、物部目大連に賜わった。
秋八月、播磨国の御井隈の人である文石小麻呂は、力持ちで気丈であると言われていた。
傍若無人の振る舞いがあった。
道路の通行を妨げたり、物を掠めたりした。
また、商人の船を差し止めて、品物を全て奪ったりした。
国法に背いて租税を納めなかった。
天皇は春日小野臣大樹を遣わして、死を恐れぬ百人の兵士に、松火をもって家を囲んで焼かせた。
そのとき炎の中から、白い犬が突然飛び出してきて、大樹臣に飛びかかった。
その大きさは馬ほどもあった。
大樹臣は顔色も変えないで、刀を抜いてこれを斬った。
するとそれが文石小麻呂になった。
秋九月、工匠の猪名部真根が、石を台にして斧で材を削っていた。
終日削っても、誤って刀を潰すことがなかった。
天皇がそこへお出でになり、怪しんで問われ、
「いつも誤って石に当てることがないのか」
と言われた。
真根は、
「決して誤ることはありません」
と言った。
そこで天皇は采女を召し集めて、着物を脱いで、ふんどしをつけさせ、皆の前で相撲をとらせた。
真根は少し手を休め、それを仰ぎ見ながら削った。
思わず気を奪われ、斧を台石に当てて刃を傷つけた。
すると天皇は責めて、
「どこの奴だ。朕を恐れず、不貞の心の奴が、みだりに軽々しいことをいって」
と言われた。
刑吏に渡し、野で処刑しようとされた。
工匠の同僚が真根を惜しみ嘆いて、歌を詠んだ。
アタラシキ、ヰナベノタクミ、カケシスミナハ、シガナケバ、夕レカカケムヨ、アタラスミナハ。
ああ、惜しむべき猪名部の工匠よ。彼の掛けた墨縄の技術は、立派なものだった。彼がいなかったら、誰が彼の妙技を継ごうか、継ぐ者はないだろう。
天皇はこの歌を聞かれて、後悔され嘆いた。
「うっかり人を失うところだった」
赦免の使者を、甲斐の黒駒(山梨産の良馬)に乗せ、刑場に走らせて、刑を許された。
そして結え綱を解き、歌を詠まれた。
ヌバタマノ、カヒノクロコマ、クラキセバ、イノチシナマシ、カヒノクロコマ。
甲斐の黒駒に、もし鞍を置いたりしていたら、手遅れになって、工匠は死んでいただろう。甲斐の黒駒よ。
十四年春一月十三日、身狭村主青らは、呉国の使者と共に、呉の献った手末の才伎、漢織、呉織と衣縫の兄媛、弟媛らを率いて、住吉の津に泊った。
この月に、呉の来朝者のための道を造って、磯果の道(磯歯津路)に通じさせた。
これを呉坂と名づけた。
三月、臣連に命じて、呉の使者を迎えさせた。
その呉人を桧隈野に住まわせた。
それで呉原と名づけた。
衣縫の兄媛を、大三輪神社に奉った。
弟媛を漢の衣縫部とした。
漢織と呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部と伊勢衣縫の先祖である。
根使主の科
夏四月一日、天皇は呉人を饗そうと思われて、群臣に次々尋ねられた。
「会食者には誰が良いだろうか」
群臣は皆、
「根使主が良いでしょう」
と言った。
天皇は根使主を任じられた。
石上の高抜原で饗宴をされた。
そのとき、こっそり舎人を遣わして、服装を見させられた。
舎人が復命して、
「根使主のつけられた玉の髪飾りが、際立って美しく、皆が言うのに、『先に使者を迎えた時にもつけていた』ということです」
と言った。
天皇は自分でも見ようと思われ、臣連に命じて、饗宴のときと同じ服装のまま引見された。
皇后は天を仰いで嘆き、声を放って泣かれた。
天皇は怪しまれ、
「何でそんなに泣くのか」
と言われた。
皇后は胡床を降りて答えられた。
「この玉縵は昔、私の兄の大草香皇子が、安康天皇の勅を承って、私を陛下に進ったときに、私のために贈ってくれた物です。それで根使主に疑いを抱き、愚かにも涙が出て泣いたのです」
と言われた。
天皇は聞かれて驚き大いに怒られた。
根使主を責められると答えて、
「その通りです。私の過ちです」
と言った。
天皇は、
「根使主は今後、子々孫々に至るまで、群臣の仲間に入れてはならぬ」
と言われた。
今にも斬ろうとされたが、根使主は逃げ隠れて日根に行き、稲を積んで砦を造り戦った。
しかし、官軍によって殺された。
天皇は役人に命じ、子孫を二つに分け、一つを大草香部の部民として、皇后に付せられた。
一つを茅淳の県主に賜って、袋担ぎの者とされた。
難波吉士日香香(大草香皇子のため殉死した)の子孫を求めて姓を賜わり、大草香部吉士とされた。
その日香香らのことは、安康天皇の巻にある。
事件が終った後で、小根使主(根使主の子)が夜、 寝ながら人に語った。
「天皇の城は堅固ではないが、我が父の築いた城は堅固だ」
天皇は人づてにこれを聞かれ、人を遣わして根使主の家を見せた。
本当にそのようであった。
そこで彼を捕えて殺した。
根使主の子孫が、坂本臣になることはこれから始まった。
秦のうずまさ
十五年、秦氏の率いていた民を臣連らに分散し、それぞれの願いのままに使われた。
秦氏の管理者の伴造に任せられなかった。
このため秦造酒は大変気にやんで、天皇に仕えていた。
しかし、天皇は寵愛され、詔して秦の民を集めて、秦酒公に賜わった。
公はそれで各種多数の村主を率いるようになり、租税としてつくられた絹、縑(上質の絹)を献って、朝廷に沢山積み上げた。
これにより姓を賜って、うつまさ(うずたかく積んだ様子)と言った。
十六年秋七月、詔して、桑の栽培に適した国と県を選んで、桑を植えさせた。
また、秦の民を移住させて、そこから庸調が上るようにされた。
冬十月詔して、
「漢氏の部民を集めて、その管理者を決めよ」
と仰せられた。
その姓を直と賜わった。
十七年春三月二日、土師連らに詔して、
「朝夕の膳部に用いる清い器を進上せよ」
と言われた。
そこで土師連の先祖の吾苟が、摂津国の久佐々村、山背国の内村、伏見村、伊勢国の藤方村と丹波、但馬、因幡の私有の部曲を奉った。
これを名づけて贄の土師部という。
朝日郎
十八年秋八月十日、物部菟代宿禰、物部目連を遣わして伊勢の朝日郎を討たせた。
朝日郎は官軍が来たと聞いて、伊賀の青墓で迎え撃った。
弓の名人であることを誇り、官軍に、
「朝日郎の相手に、誰が当たることができるか」
と言った。
その射る矢は、二重の甲も射通した。
官軍は皆怖れた。
菟代宿禰はあえて進まず、対峙すること二日一夜に及んだ。
物部目連は自ら大刀をとり、筑紫の企救の物部大斧手に楯をとらせ、雄叫びをあげて突き進ませた。
朝日郎は遥かに眺め、大斧手の楯と二重の甲を射通し、さらに体の中に一寸入った。
大斧手は楯を持って、物部目連を庇った。
目連は朝日郎を捕え殺した。
菟代宿禰は自分が果たさなかったことを恥じて、七日に及ぶまで復命しなかった。
天皇は侍臣に、
「菟代宿禰はどうして復命しないのだろうか」
と尋ねられた。
讃岐の田虫別という者があり、進み出て申した。
「菟代宿禰は怖じけて進まず、二日一夜の間、朝日郎を捕えることができませんでした。それを物部目連が、物部大斧手を率いて進み、朝日郎を捕え斬りました」
と言った。
天皇はこれを聞いて怒られ、菟代宿禰が所有した猪使部を召し上げ、物部目連に与えた。
十九年春三月十三日、詔して安康天皇の御名を遺す、穴穂部を設けられた。
高麗、百済を降す
二十年冬、高麗王が大軍をもって攻め、百済を滅ぼした。
その時、少しばかりの生き残りが、倉下に集っていた。
食糧も尽き憂い泣くのみであった。
高麗の諸将は王に申し上げて、
「百済の人の心ばえはよく分らない。私たちは見るたびに思わず迷ってしまう。恐らくまた、はびこるのでないでしょうか。どうか追い払わせて下さい」
と言った。
王は、
「よろしくない。百済国は日本の官家として長らく存している。また、その王は天皇に仕えている。周りの国々も知っていることである」
と言い、それで取りやめられた。
二十一年春三月、天皇は百済が高麗のために破れたと聞かれて、久麻那利を百済の汶州王に賜わって、その国を救い興こされた。
当時の人は皆、
「百済国は一族既に滅んで、倉下にわずかに残っていたのを、天皇の御威光により、またその国を興した」
と言った。
二十二年春一月一日、白髪皇子を皇太子とされた。
秋七月、丹波国の与謝郡の筒川の人である、水江浦島子が舟に乗って釣りをしていた。
そして大亀を得た。
それがたちまち女となった。
浦島は感動してこれを妻とした。
二人は一緒に海中に入り、蓬萊山に至って、仙境を見て回った。
この話は別の巻にある。
二十三年夏四月、百済の文斤王が亡くなった。
天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、若いのに聡明なのを見て、詔して内裏へ呼ばれた。
親しく頭を撫で、ねんごろに戒めて、その国の王とされた。
兵器を与えられ、筑紫国の兵士五百人を遣わして、国へ送り届けられた。
これが東城王である。
この年、百済の貢物は、例年よりも勝っていた。
筑紫の安致臣、馬飼臣らは船軍を率いて高麗を討った。
天皇の遺言
秋七月一日、天皇は病気になられた。
詔して、賞罰や掟など、事大小となく皇太子に委ねられた。
八月七日、天皇は病いよいよ重く、百官との別れの言葉を述べられ、手を握って嘆かれた。
大殿において崩御された。
大伴室屋大連と東漢掬直に遺詔されて、
「今、天下は一つの家のようにまとまり、竈の煙は遠くまで立ち上っている。万民よく治まり、四囲の夷もよく従っている。これは、天意が国内を安らかにしようと思われたからである。心を責め、己を励まして、毎日毎日を慎むことは万民のためである。臣、連、伴造は毎日参朝して、国司、郡司は時に従って参集する。どうして心肝を尽して、ねんごろに勤めないでよかろうか。義には君臣だが、情においては父子も同じである。どうか臣連の智力によって、内外の人の心を喜ばせ、長く天下を安らかに保たせたいと思う。思いがけなかった。病が重くなって、常世の国に至るということを。これは人の世の常であり、言うに足らぬことである。けれども、朝野の衣冠のみは、まだはっきりと定めることができなかった。教化政刑も充分良く行われたと言えない。これを思うと、恨みを残すことになる。今、年はそこそこに達し、また短いということはできぬ。筋力精神も一時に尽きた思いがする。これらのことは自分の身のためだけではない。万民を安め、養わんとするからであり、このようなことを述べたのである。産みの子に誰でも思いを告げたいものだ。天下のために、事にあたって心を尽さねばならぬ。星川皇子は心に善くない事を抱いて、兄弟の道に欠けた。古人の言葉にもある。臣を知るは、その君に及ぶものはなく、子を知るは、父に及ぶものは無しと。たとえ星川が志を得て、共に国家を治めたら、きっと辱かしめを臣連らに及ぼし、民衆に辛い目をさせたであろう。出来の悪い子は国民に嫌われ、出来の良い子は大業を保つのに足りる。これは我が家の事と言えども、隠すことはできない。大伴大連らは、民部が広大で、勢力が国に充ちている。皇太子は後嗣として仁孝の心がよく聞こえ、その行いを見ても、我が志を継いで成しとげるのに足る。それで共に天下を治めてくれれば、私が瞑目しても恨むことはない」
と言われた。
このとき、新羅を討つ役の将軍・吉備臣尾代は、吉備国に行って自分の家に立寄った。
後に率いられてきた五百人の蝦夷らは、天皇が亡くなられたと聞いて話し合った。
「我が国を統べ治めておられた天皇は、亡くなられたのだ。このときを失してはならぬ」
そこで集結して付近の郡を侵略した。
尾代は家より駆けつけ、蝦夷と娑婆湊(広島県福山佐波)で合戦し、弓を射た。
蝦夷らは躍り上ったり、地に伏せたりして上手く矢を避け、なかなか射当てることができなかった。
そこで尾代は鳴弦(弓の弦を弾いて音を鳴らす儀式)の術を用いて邪気を払い、浜辺の上で踊り伏して矢を避けていた者二隊を射殺した。
やなぐい(矢を入れておく武具)二つ分の矢も尽きてしまったので、船人を呼んで矢を求めたが、船人らは恐れて逃げてしまった。
尾代はそこで弓を立て、弓筈をもって歌った。
ミチニアフヤ、ヲシロノコ、アメニコソ、キコエズアラメ、クニニハ、キコエテナ。
征討の途中で、思いがけぬ戦いをしなければならぬことになった。尾代の子の雄々しい働きは、母にこそ聞こえないだろうが、天子の上聞には達したいものだ。
歌い終って、また数多の人を斬った。
さらに追撃して、丹波の国の浦明の湊に至り、ことごとく攻め殺した。
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