日本書紀・日本語訳「第十四巻 雄略天皇」

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雄略天皇 大泊瀬幼武天皇

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眉輪王の父の仇

大泊瀬幼武天皇オオハツセノワカタケノスメラミコト允恭天皇いんぎょうてんのうの第五子である。
天皇がお生まれになったとき、神々しい光が御殿に充満した。
成長されてから、その逞しさは人に抜きん出ていた。

三年八月、安康天皇あんこうてんのうは湯あみしようと思われ、山の宮にお出でになった。
そして、たかどのにお登りになって眺め渡された。
それから命じて酒宴を催された。
そして、だんだん心がくつろがれて楽しさが極まり、いろいろな話を語り出され、皇后に言われた。
「妻よ、お前は私と充分馴染んでいるが、私は眉輪王マヨワノオオキミが怖い」
眉輪王マヨワノオオキミはまだ幼かったが、 楼の下で戯れ遊んでいるなかで、その話を全部聞いた。

そのうち、天皇は皇后の膝を枕に昼寝をしてしまわれた。
そこで眉輪王マヨワノオオキミは、天皇の寝込みを伺って刺し殺した。

この日に大舎人おおとねりが急ぎ走って、天皇(雄略天皇ゆうりゃくてんのう)に、
「安康天皇は眉輪王マヨワノオオキミに殺されました」
と言った。
天皇は大いに驚かれ、自分の兄弟たちを疑われて、甲を著け、太刀をいて、兵を率い自ら先に立ち、八釣白彦皇子ヤツリシロヒコノミコ(天皇の同母兄)を攻め、問い詰めた。
皇子は危害を加えられそうなのを感じ、声も出ず座っておられた。
天皇は即座に刀を抜いて斬ってしまわれた。
また、坂合黒彦皇子サカアイノクロヒコノミコ(同母兄)を問い詰めた。
皇子もまた、殺されそうなのに気づかれ、座したまま物も言われなかった。
天皇はますます怒り狂われた。

この際、眉輪王も殺してしまおうと思われたので、事のわけを調べ尋ねられた。
眉輪王マヨワノオオキミは言われた。
「私は、もとより皇位を望んではおりません。ただ、父の仇を報いたいだけです」

坂合黒彦皇子サカアイノクロヒコノミコは深く疑われることを恐れて、こっそり眉輪王マヨワノオオキミと語り、ついに隙を見て、ともに円大臣つぶらのおおきみの家へ逃げこんだ。

天皇は使者を遣わして引渡しを求められた。
大臣オオキミは使者を出して答えた。
「人臣が事あるときに逃げて王宮に入るということは聞くことがありますが、未だ君王が人臣の家に隠れるということを知りません。たしかに今、坂合黒彦皇子サカアイノクロヒコノミコ眉輪王マヨワノオオキミは、深く私の心を頼みとして、私の家にこられました。どうして強いて差し出すことができましょうか」

これによって天皇は、ますます兵を増して、大臣オオキミの家を囲んだ。
大臣オオキミは庭に出られて、脚結あゆい脚を動きやすくするために、袴の裾をくくる紐)を求めた。
大臣オオキミの妻は脚結あゆいを持ってきて、悲しみのために心がやぶれながら歌った。

オミノコハ、夕へノハカマヲ、ナナへヲシ、ニハニタタシテ、アユヒナタスモ。

我が夫の大臣は白い栲の袴を、七重にお召しになって、庭にお立ちになり、脚結あゆいを撫でておいでになる。

大臣オオキミは装束をつけ、軍門に進み出て拝礼して、
「私は誅殺されようとも、あえて命を承ることはないでしよう。古人も言っています。『賤しい男の志も奪うことは難しい』というのは、まさしく私の場合に当たっています。伏してお願い申し上げることは、私の娘である韓媛カラヒメと、 葛城かずらきの領地七ヶ所を献上し、罪を贖うことをお聞き入れ下さい」
と言った。
天皇はそれを許さず、火をつけて家を焼かれた。
ここに、大臣オオキミ黒彦皇子クロヒコノミコ眉輪王マヨワノオオキミとは共に焼き殺された。
そのとき、坂合部連贄宿禰サカアイベノムラジニエノスクネは、皇子の屍を抱いて共に焼き殺された。
その舍人どもは、死骸を取り収めたが、骨を選び分けることも難しかった。
一つの棺に入れて新漢いまきのあやの槻本の南の丘に合葬した。

市辺押磐皇子を謀殺

冬十月一日、天皇は安康天皇が、かつて従兄弟の市辺押磐皇子イチノベノオシワノミコに、皇位を伝え、後事を委ねようと思われたのを恨んで、人を市辺押磐皇子イチノベノオシワノミコのもとにやり、偽って狩りをしようと約束し、野遊びを勧めて言った。
「近江の佐々貴山ささきやま君韓帒キミカラフクロが言うには、『今、近江の来田綿くたわた蚊屋野かやのに、猪や鹿が沢山います。その頂いた角は、枯木の枝に似ています。その揃えた脚は、灌木のようであり、吐く息は朝霧に似ています』と申している。できれば皇子と、初冬の風があまり冷たくないときに、野に遊んでいささか心を楽しんで巻狩りをしようではないか」

市辺押磐皇子イチノベノオシワノミコは、そこでこの勧めに従い、狩りに出向いた。

このとき、雄略天皇は弓を構え、馬を走らせ騙し呼んで『鹿がいる』といい、市辺押磐皇子イチノベノオシワノミコを射殺した。
皇子の舎人とねり佐伯部売輪サエキベノウルワは、皇子の屍を抱き、驚き慌ててなすべきことを知らなかった。
叫び声をあげ転び回り、皇子の頭と脚の間を右往左往した。
天皇は、これを皆殺しにしてしまわれた。

この月、御馬皇子ミマノミコ押磐皇子オシワノミコの同母弟)は、かねて三輪君身狭みわのきみムサと親しかったので、心を楽しませようと思ってお出かけになった。
不意に途中に伏兵があり、三輪の磐井のほとりで合戦となった。
御馬皇子ミマノミコはほどなく捕えられ、処刑されるとき、井戸を指して呪いをかけた。
「この水は百姓だけ飲むことができる。王者だけは飲むことができない」

即位と諸妃

十一月十三日、天皇は役人に命ぜられて、即位の場を泊瀬はつせの朝倉に設け、皇位に就かれた。

宮居を定め、平群臣真鳥へぐりのおみマトリ大臣おおきみとし、大伴連室屋おおとものむらじムロヤ物部連目もののべのむらじメ大連おおむらじとした。

元年春三月三日、草香幡梭姐皇女クサカノハタビヒメノヒメミコを立てて皇后とされた。
この月に、三人の妃を立てた。
一番初めからの妃は、葛城円大臣カズラキノツブラノオオオミの娘である韓媛カラヒメという。
白髪武広国押稚日本根子天皇シラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコノスメラミコト清寧天皇せいねいてんのう)と稚足姫皇女ワカタラシヒメノミコトをお生みになった。
この皇女は伊勢神宮の斎宮いわいのみやとなられた。

次に、吉備上道臣キビノカミツミチノオミの娘である稚姫ワカヒメという人があり、二男をお生みになった。
兄を磐城皇子イワキノミコといい、弟を星川稚宮皇子ホシカワノワカミヤノミコという。

次に、春日かすが和珥臣深目ワニノオミフカミの娘が童女君とオミナギミいう。
春日大娘皇女カスガノオオイラツメノヒメミコをお生みになった。
童女君オミナギミはもとは采女うねめであった。
天皇が一夜を共にされただけで孕まれ、女子が生まれた。
天皇は疑われて養育されなかった。

女の子は歩けるようになった。
天皇は大殿おおどのにお出でになり、物部目大連もののべのめのおおむらじが侍していた。
女の子は庭を歩いて行った。
目大連メのおおむらじ群臣くんしんを顧みて言った。
「麗わしい女の子だなあ。古の人がいった。『なひとやははに(お前はお母さん似か)』と。清らかな庭を静かに歩くのは、誰の娘なんだろう」
天皇が言われる。
「なぜそんな風に尋ねるのか」
目大連メのおおむらじは答えて、
「私が女の子の歩くのを見ると、その姿がよく天皇に似ておられますので」
と申し上げた。
天皇は、
「この子を見た人が皆言うことは、お前が言うところと同じである。けれども、私と一夜を共にしただけで身籠ったのだ。一晩で子供を生むとは異常なので、疑っているのだ」
と言われた。
大連おおむらじが、
「それでは一晩に何度呼ばれましたか」
と尋ねた。
天皇は答えて、
「七回呼んだ」
大連おおむらじが、
「乙女は清らかな身と心で、一夜床を共に致しました。どうして軽々しく疑って、その人の潔らかな身を疑われるのですか。私は聞いておりますが、孕み易い人は、襌が体に触っただけでも妊娠するということです。それを一晩中床を共にされたにもかかわらず、みだりに疑いをかけられるとは」
と申し上げた。
天皇は大連おおむらじに命じて、女の子を皇女とし、母親を妃とされた。

この年、太歳丁酉たいさいひのととり

二年秋七月、百済くだら池津媛イケツヒメは、天皇が宮中に入れようとしておられたにもかかわらず、石川楯イシカワノタテと通じた。
天皇は大いに怒って、大伴室屋大連おおとものムロヤのおおむらじに命じて、来目部くめべを使い、夫婦の四肢を木に張りつけて、桟敷の上に置かせて、火で焼き殺させた。

百済新撰くだらしんせんには、己已の年、蓋鹵王コウロオウが即位した。
天皇は阿礼奴跪アレナコを遣わして、美女を乞わせた。
百済くだら慕尼ムニ夫人の娘を飾らせて、適稽女郎チヤクケイエハシと呼び、天皇に奉ったという。

吉野の猟と宍人部の貢上

冬十月三日、吉野宮よしののみやに行幸された。
六日、御馬瀬みませにお出でになった。
山係りの役人に命じ、思うままの狩りをされた。
いくつもの峯に登り、広い原を駆け、日も傾かない中に、十中八九は獲物を収め、鳥獣も尽きるかと思うほどであった。
ついに、林泉に巡り合って水辺に休憩した。
車駕しゃがを整え、士卒を休ませ群臣に問われた。
「猟場の楽しみは、料理人になます(新鮮な料理)を作らせることだが、自分で作るのとどっちが楽しいだろう」
群臣くんしんは即答することができなかった。
すると天皇は大変怒られて、太刀を抜いて御者の大津馬飼オオツノウマカイを斬られた。
この日、天皇は吉野宫よしののみやからお帰りになった。
国内の民はことごとく震え恐れた。
それで皇太子と皇后は、これを聞いて大いに心配された。

やまと采女日媛ウネメヒノヒメに、酒を捧げお迎えをさせた。
天皇は采女ウネメの顔が端正で、容姿が上品なのをご覧になって、顔をほころばせ喜びの色を示して、
「私は、どうしてお前の美しい顔を見ないでいられようか」
と言われ、手を組み合って後宮に入られた。

皇太后に語って言われるのに、
「今日の狩りに沢山の獲物を得た。群臣くんしんと新鮮な料理を作って、野外の宴をしようと思い、群臣らに尋ねたが、よく答えられる者が誰もなかった。それで私は腹を立てたのだ」
皇太后は天皇の言葉の真情を知り、天皇を慰めようと思われた。
群臣くんしんは陛下が狩猟の場において、宍人部ししひとべを設ける話をしようと思い、群臣に尋ねられたとは気がつかなかったでしよう。答えるのも難しいから、群臣が沈黙していたのも無理はありません。今からでも遅くありませんから、初めての試みとされるのもよいでしよう。膳臣かしわでのおみ長野ナガノは料理が上手です。だからこれを当ててみては」
と言われた。
天皇は跪き、礼をして、
「良いことを言ってくれた。下々の者が言う言葉に、『貴い身分のお方は、互いにその心が相通じる』というのは、このことだろうか」
と言われた。

皇太后は天皇の喜ばれる様子をご覧になり、自らも悦びお笑いになった。
さらにまた人をつけ加えようと、
「私の厨人くりやびと菟田御戸部ウダノミトベ真鋅田高天マサキダノタカメの二人を加えて宍入部ししひとべにして下さい」
と言われた。
その後、大倭国造吾子籠宿禰オオヤマトノクニノミヤツコアゴコノスクネ狭穂子鳥別サホノコトリワケ宍人部ししひとべとした。
おみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこらも、ならって人を奉った。

この月、史戸ふみひとべ河上舎人部かわかみのとねりべを設けられた。
天皇は自分の心だけで専決されるところがあり、 誤って人を殺されることも多かった。
天下の人々はこれを誹謗して、
「大変悪い天皇である」
と言った。
ただ可愛がられたのは、史部ふひとべ身狭村主青ムサノスグリアオ桧隈民使博徳ヒノクマノタミノツカイハカトコらだけである。

三年夏四月、阿閉臣国見あへのおみくにみが、栲幡皇女たくはたのひめみこ(伊勢の斎宮いわいのみや)と湯人ゆえ(皇子と皇女の沐浴に仕える者)の廬城部連武彦イオキベノムラジタケヒコを讒言して、
武彦タケヒコ皇女ひめみこを穢して妊娠させました」
と言った。
武彦タケヒコの父の枳莒喩キコユは、この流言を聞いて、災いが身に及ぶことを恐れた。
武彦タケヒコ廬城河いおきのかわへ誘い出し、偽って水に潜り、魚を捕える鵜飼いの真似ごとをしているときに、不意に打ち殺した。

天皇は使者を遣わして皇女ひめみこを調べた。
皇女は、
「私は知りません」
答えた。
皇女は急に神鏡を持ち出して、五十鈴川いすずがわのほとりにお出でになり、人の行かぬところを選んで、鏡を埋め首をくくって死なれた。
天皇は皇女のおられないことを疑われ、闇夜にあちこちを探し求められた。
すると川上ににじのかかったところがあり、へびのように四、五丈の長さであった。
虹の立ったところを掘ると、神鏡が出てきた。
そして近くに皇女の屍があった。
割いてみると腹の中に水のようなものがあった。
水の中には石があった。
枳莒喩キコユはこれによって、息子の冤罪をそそぐことができた。
かえって子を殺したことを悔いて、報復に国見クニミを殺そうとした。
国見クニミ石上神宮いそのかみじんぐうに逃げ隠れた。

葛城の一事主

四年春二月、天皇は葛城山かずらきやまに狩りにお出でになった。
突然、長身の人が出現し、谷間のところで行き合った。
顔や姿は天皇とよく似ていた。
天皇は、これは神であると思われたが、あえてお尋ねになって、
「どちらのきみでいらっしゃいますか」
と問われた。
背の高い人は答えて、
現人神あらひとがみである。まず、あなたの名を名乗りなさい。そしたら私も言おう」
と言われた。
天皇は答えて、
「私は幼武尊ワカタケルノミコトである」
すると背の高い人は名乗った。
「私は一事主神ヒトコトヌシノカミである」

そして一緒に狩りを楽しんで、鹿を追いつめても、矢を放つことを譲り合い、くつわを並べて馳せ合った。
言葉も恭しくて仙人に逢ったかのようであった。
日も暮れて狩りも終り、神は天皇を見送りされて、来目川くめのかわまでお越しになった。
このとき、世の人々は、誰もが「天皇は徳のあるお方である」と評した。

秋八月十八日、吉野宮よしののみやにお出でになった。
二十日に川上の小野にお越しになった。
山の役人に命じて獣を狩り出させられた。
自分で射ようとして構えておられると、あぶが飛んできて天皇の肘を嚙んだ。
そこへ蜻蛉あきつトンボ)が急に飛んできて、あぶを哇えて飛び去った。
天皇は蜻蛉あきつが心のあることを褒められて、群臣くんしんみことのりして、
「私のために蜻蛉あきつを褒めて歌詠みをせよ」
と言われた。
群臣くんしんは、しかしあえて詠む人がなかった。
天皇は口ずさんだ。

ヤマトノ、ヲムラノタケニ、シシフスト、タレカコノコ卜、オホマへニマヲス。
オホキミハ、ソコヲキカシテ、タママキノ、アグラニ夕タシ、シヅマキノ、アグラニタタシ、シシマツ卜、ワガイマセバ、サヰマツ卜、ワガタタセバ、タクフラニ、アムカキツキツ、ソノアムヲ、アキツハヤクヒ、ハフムシモ、オホキミニマツラフ、ナガカタハオカム、アキツシマヤマト。

やまとの山々の頂上にシシがいると、誰がこのことを大君に申し上げるだろうか。
大君はそれをお聞きになって、玉を飾り、美しい倭文を巻いた胡床におかけになって、シシを待つと私が構えていると、手のふくらに虻が食いつき、その虻を蜻蛉あきつがたちまち食い、昆虫までも大君にお仕えする。お前の形見として残しておこう。この蜻蛉島倭あきつしまやまとという名を。

そのように蜻蛉あきつを褒めて、此の地を名づけて蜻蛉野あきつのとした。

五年春二月、天皇は葛城山かずらきやまに狩りをされた。
不思議な鳥が急に現われ、大きさは雀ぐらいで、尾は長く地に曳いていた。
そして鳴きながら、
「ゆめ、ゆめ(油断するな)」
と言った。

にわかに追われて怒った猪が、草の中から突然飛び出し、人にかかってきた。
狩人たちは木によじ登り大いに恐れていた。
天皇は舍人とねりみことのりして、
「猛き猪も、人に逢っては止まるという。迎え射て仕止めよ」
と言われた。
舍人とねりは、人となりが臆病で、木に登って度を失い、恐れおののいた。
猪は直進して天皇に食いつこうとした。
天皇は弓で突き刺し、足をあげて踏み殺された。
狩りも終った頃、舍人とねりを斬った。

舍人とねりは殺されるときに歌を詠んだ。

ヤスミシシ、ワガオホキミノ、アソバシシ、シシノウタキ、力シコミ、ワガニゲノボリシ、アリヲノウへノ、ハリガエダアセヲ。

大君が狩りをされた猪のうなり声を恐れて、私の逃げ上がった峯の上のはりの木の枝よ。ああ。

皇后はそれをお聞きになって悲しまれ、心を込めて諫められた。

「皇后は天皇に味方しないで、舍人とねりのことを大事に思われた」
と天皇は言われた。
皇后は答えた。
「国人は皆、陛下は狩りをなさって、猪を好み給うと言うでしよう。これは良くないでしょう。今、陛下が猪のことで舎人を斬ったのなら、それは陛下は狼に他なりません」

天皇はそこで皇后と車に乗ってお帰りになった。
万歳よろずよ
と叫んで言われるのに、
「楽しいことだなあ。人は皆、鳥や獸を獲物とするのだが、私は狩りをして、良い言葉を獲物として帰るのだから」
と言われた。

嶋王(武寧王)誕生

夏四月、百済くだら加須利君カスリシキが、池津媛イケツヒメが焼き殺されたことを人伝てに聞き、
「昔、女を貢って采女とした。しかるに、礼に背き、我が国の名を貶めた。今後、女を貢ってはならぬ」
と言った。
弟の軍君コニキシに、
「お前は日本に行って天皇に仕えよ」
と告げた。
軍君コニキシは、
「君の命令に背くことはできません。願わくば、君のみめを賜わって、それから私を遣わして下さい」
と言った。
加須利君カスリシキは妊娠中の婦を軍君に与え、
「私の婦は臨月になっている。もし途中で出産したら、どうか母子同じ船に乗せて、どこからででも速かに国に送るように」
と言った。
共に朝に遣わされた。

六月一日、身籠った女は筑紫ちくし加羅島かからのしまで出産した。
そこでこの子を嶋君せまきしという。
軍君コニキシは一つの船に母子を乗せて国に送った。
これが武寧王むねいおうである。
百済人くだらびとはこの島を主島にりむせまという。

秋七月、軍君コニキシは京に入った。
すでに五人の子があった。

百済新撰くだらしんせん」によると、辛丑年かのとうし蓋鹵王こうろおうが弟の昆支王こんきおうを遣わし、大倭やまとに参向させ、天王にお仕えさせた。そして兄王のよしみを修めた。とある。

六年春二月四日、天皇は泊瀬の小野に遊ばれた。

山野の地形をご覧になり、深く感慨をもよおされ歌われた。

コモリクノ、ハツセノヤマハ、イデ夕チノ、ヨロシキヤマ、ワシリデノ、ヨロシキヤマノ、コモリクノ、ハツセノヤマハ、アヤニウラグハシ、アヤニウラグハシ。

泊瀬の山は、体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、何とも言えず美しい。何とも言えず美しい。

そこで、小野おのを名づけて、道小野みちのおのといった。

少子部 蜾贏

三月七日、天皇は后と妃に桑の葉を摘みとらせて、養蚕ようさんを勧めようと思われた。
そこで蜾贏スガルに命ぜられて、国内のかいこを集めさせられた。
蜾贏スガルは勘違いして、嬰児みどりごを集めて天皇に奉った。
天皇は大いに笑われて、嬰児を蜾贏スガルに賜わって、
「お前自身で養いなさい」
と言われた。
蜾贏は嬰児を宮の垣の近くで養育した。
よって姓を賜わり少子部連ちいさこべのむらじとした。

夏四月、呉国くれのくにが使者を遣わして貢物を奉った。

七年秋七月三日、天皇は少子部連蜾贏ちいさこべのむらじスガルみことのりして、
「私は三輪山みわやまの神の姿を見たいと思う。 お前は腕力が人に勝れている。自ら行って捕えてこい」
と言われた。
蜾贏スガルは、
「ためしにやってみましょう」
とお答えした。

三輪山みわやまに登って大きな蛇を捕えてきて、天皇にお見せした。
天皇は斎戒さいかいされなかった。
大蛇は雷のような音をたて、目はきらきらと輝やかせた。
天皇は恐れ入って、目を覆ってご覧にならないで、殿中にお隠れになった。
そして大蛇を岳に放たせられた。
あらためてその岳に名を賜いいかづちとした。

吉備臣たち

八月、舎人とねり吉備弓削部虚空きびのゆげべのオオゾラは、取り急ぎ家に帰った。
吉備下道臣前津屋きびのしもつみちのおみサキツヤは、虚空オオゾラを自分のところに留めて使い、何月経っても京へ許し上らせなかった。
天皇は身毛君大夫むげのきみマスラオを遣わして呼ばれた。

虚空オオゾラは呼ばれてやってきて、
前津屋サキツヤ小女おとめを天皇の人とし、大女おおめのこを自分の人とし、両方に競い闘わせています。小女おとめの方が勝つのを見ると、太刀を抜いて殺しました。また、小さい雄鶏を天皇の鶏とし、毛を抜き翼を切り、大きい雄鶏を自分の鶏とし、鈴や金のけづめを付けて、闘わせています。毛の擦り切れた鶏の勝つのを見ると、また刀を抜いて殺します」
と言った。
天皇はこの言葉を聞かれ、物部もののべの兵士三十人を遣わして、前津屋サキツヤと合せて、同族七十人を殺した。

この年、吉備上道臣田狭きびのかみつみちのおみタサが、御殿の近くに侍っていて、さかんに稚媛ワカヒメのことを友人に褒め語って、
「天下の美人でも、俺の婦に及ぶ者はない。にこやかで明るく輝き、際立って愛らしい。お化粧もその必要がなく、久しい世にも類稀な、抜群の美女である」
と言った。

天皇は耳を傾けて、遥かに聞こしめして心中お喜びになった。
稚媛ワカヒメを求めて、女御にょごにしようと思われた。
田狭タサを任じて、任那みまなの国司とされた。
それからしばらくして、稚媛ワカヒメを召し入れられた。
田狭タサ稚媛ワカヒメを娶って兄君エキミ弟君オトキミを生んでいた。
田狭タサはすでに任地に行ってから、天皇が稚媛ワカヒメを召されたことを聞き、援助を求めて新羅しらぎに入ろうと思った。
しかし、そのとき新羅しらぎは日本と不和であった。

今来の才伎

天皇は田狭臣たさのおみの子の弟君オトキミと、吉備海部直赤尾きびのあまのあたいアカオみことのりして、
「お前達は新羅しらぎを討て」
と言われた。

そのとき、西漢才伎歓因知利こうちのあやのてひとカンインチリが近くにいて、進み出て言った。
「もっと適当な者が韓国からくにに沢山います。召してお使いになるのがよいでしょう」
天皇は群臣くんしんみことのりして、
「それでは歓因知利カンインチリを、弟君オトキミらに副えて百済くだらに遣わし、合せて勅書ちょくしょを下して、勝れた者を献らせよ」
と言われた。

弟君オトキミは命令を承り、衆を率いて百済くだらに行った。
そこの国つ神くにつかみが老女に化けて、忽然と道に現れた。
弟君オトキミはこの先、遠いか近いかと尋ねた。
老女は答えた。
「もう一日歩いて、やっと着くでしょう」
弟君オトキミは道が遠いと思って、新羅しらぎを討たないで帰った。
百済くだらの奉った新来いまき才伎てひと職人)を、大島の中に集めて、風待ちをにかこつけて、久しく留まり、月を重ねた。

任那国司田狭臣みまなのくにしたさのおみは、弟君オトキミが兵を用いず帰ることを喜んで、こっそりと人を百済くだらに送り、弟君オトキミを戒めた。
「お前の首はどれほど堅固で、人を討ったりできるのか。噂に聞くと、天皇は、我が妻を召されて遂に、子供もあると聞く。いまに禍が身に及ぶことは待つほどもないだろう。我が子のお前は百済くだらに留まって日本に帰るな。私は任那みまなに留まって日本に帰らない」
と言った。

弟君オトキミの妻の樟媛クスヒメは、国家を思う心が強く、君臣の義を重んじた。
忠節の心は白日青松はくひせいしょう現在の白砂青松)よりも明らかであった。
そこでこの謀叛の心を憎んで、ついにその夫を殺し、室の内に隠し埋めて、海部直赤尾あまのあたいアカオと共に、百済くだらの奉った才伎てひとたちを率いて、大島にやって来た。

天皇は弟君オトキミがいなくなってしまったことを聞かれて、日鷹吉人堅磐固安銭ひたかのきしかたしわこあんぜんを遣わして、復命させた。
そして才伎てひとやまと阿都アト広津邑ひろきつのむら大阪府八尾周辺)に住まわせた。
しかし、病気で死ぬ者が多かった。
そこで天皇は、大伴大連室屋おおとものおおむらじムロヤみことのりし、東漢直掬やまとのあやのあたいツカに命じて、新漢いまきのあや新しい渡来人)である陶部高貴すえつくりのコウテイ鞍部堅貴くらつくりケンクイ画部因斯羅我原えかきインシラガ錦部定安那錦にしきごりジョウアンナコム訳語卯安那おさみヨウアンナらを、上桃原かみつももはら下桃原しもつももはら真神原まかみのはらの三ヶ所に移し住まわせた。

高麗軍の撃破

八年春二月、身狭村主青ムサノスグリアオ桧隈民使博徳ヒノクマノタミノツカイハカトコ呉国くれのくにに遣わされた。
天皇即位以来この年に至るまで、新羅国しらぎこくは貢物を奉らないことが八年に及んだ。
そして帝の心を恐れて、よしみを高麗こまに求めていた。
そのため高麗こまの王は、精兵百人を送って新羅しらぎを守らせた。

しばらくして、高麗こまの兵士の一人がしばらくのあいだ国に帰った。
そのとき、新羅人しらぎびと馬飼うまかいとした。
これにこっそり語って、
「お前の国は、我が国のために破られることになるだろう」
といった。
その馬飼うまかいはこれを聞き、偽って腹痛の真似をして遅れて行き、隙をみて新羅国しらぎこくに逃げ戻って、その聞いたところを知らせた。

新羅しらぎの王は、高麗こまの守りが偽りであることを知り、使者を走らせて国人くにびとに告げ、
「人々よ、 家の内に養っている鶏の雄鶏を殺せ」
と言った。
国民はその意を知って、国内にいた高麗人こまびとをことごとく殺した。

そのとき、生き残った高麗人が一人あり、隙をみて逃れ、国人につぶさに伝えた。
高麗王こまおうは兵を興して、築足流城つくそくろのさしに集めた。
兵に歌舞をさせて声を響かせた。

新羅王しらぎおうは夜、高麗こま軍が四方に歌う声を聞き、新羅しらぎの地にことごとく敵が入っていることを知った。
そこで任那王みまなおうのもとへ人を遣わし、
高麗王こまおうが我が国を攻めようとしている。いまや、我が国は吊り下げられた旗の如く、敵の思うままに振り回されている。国は累卵の危きにあり、命の長短も計られない。どうか助けを日本府の将軍たちにお願いします」
と言った。

任那王みまなおう膳臣斑鳩かしわでのおみイカルガ吉備臣小梨きびのおみオナシ難波吉士赤目子なにわのきしアカメコらを送り、新羅しらぎを助けさせた。

膳臣かしわでのおみらがまだ途中に軍営して、接触していないのに、高麗こまの将兵は皆怖れた。
膳臣かしわでのおみらは急襲のできるよう備えを整え、高麗こま軍と対峙して守ること十日余り、夜のうちに地下道を造って輜重しちょう軍隊の荷物)を送り、奇襲を狙った。

明け方、高麗こま軍は膳臣かしわでのおみらが逃げたと思い、兵を全て出してきた。
そこへ奇兵を放って、挟み打ちに攻めて大いに破った。
高麗こま新羅しらぎの二国間の怨はこれから始まった。
膳臣かしわでのおみは新羅に語った。
「お前の国は至って弱いのに、至って強い国と戦ったのであるから、日本軍がもし助けなかったら、この戦いできっと他人の国になっていただろう。今後は天朝に背いてはならぬ」

九年春二月一日、凡河内直香賜おおしこうちのあたいカタブ采女うねめを遣わして、宗像むなかたの神を祀らされた。
香賜カタブは神域に行って、今にも行事を行なおうという時に、その采女うねめを犯した。
天皇はこれをお聞きに なって、
「神を祀って幸いを祈るには、慎しみがなければならぬ」
と言われ、難波日鷹吉士なにわのひたかのきしを遣わして、香賜カタブを殺すことを命じた。
香賜カタブは逃げ隠れた。
天皇は弓削連豊穂ゆげのむらじトヨホを遣わして、あまねくくにこおりあがたを探し回り、ついに三島郡藍原みしまごおりあいはらにて捕えて斬られた。

新羅討伐

三月、天皇は自ら新羅しらぎを討とうと思われた。
しかし、神が天皇を戒めて、
「行ってはいけない」
と言われたので、天皇は行かれなかった。

そこで紀小弓宿禰きのおゆみのすくね蘇我韓子宿禰そがのからこのすくね大伴談連おおとものかたりのむらじ小鹿火宿禰おかひのすくねらにみことのりして、
新羅しらぎは前から朝貢を重ねていたのに、私が王となってから身を対馬の先まで乗り出し、跡を草羅さわらに隠して高麗こまの貢を妨げたり、百済くだらの城をとったり、自らの貢物も怠っている。狼の子のような荒い心があって、飽きると離れ去り、飢えると近づいてくる。汝等、四卿を大将に任ずる。王師をもって攻め討ち天罰を加えよ」
と言われた。
紀小弓宿禰きのおゆみのすくねは、大伴室屋大連おおとものムロヤのむらじをして天皇に憂え訴えさせるのに、
「私は微力と言えども、謹んでみことのりを承ります。
しかし今、私の妻が亡くなったばかりで、後を見てくれる者がありません。きみはどうかこのことを天皇につぶさに申し上げて欲しい」
と言った。
大伴室屋おおとものムロヤはそのように奏上した。

天皇はそれを聞き、悲しみ歎かれ、吉備上道采女大海きびのかみつみちのうねめオオシアマ紀小弓宿禰きのおゆみのすくねに賜わり、付き添って世話をすることにさせられた。
そして送り出された。

紀小弓宿禰きのおゆみのすくねらは新羅しらぎに入り、進撃が目ざましかった。
新羅王しらぎおうは夜、皇軍が四面を囲んで、鼓声をあげるのを聞き、すべて占領されたと思い、数百の騎兵と共に遁走した。
小弓宿禰おゆみのすくねは追撃して敵将を斬った。
しかし残兵は降伏しなかった。

小弓宿禰おゆみのすくねは兵を収め、大伴談連おおとものかたりのむらじと合流し残兵と戦った。
この夜、大伴談連おおとものかたりのむらじ紀岡前来目連きのおかざきのくめのむらじは力闘して死んだ。
談連カタリノムラジの従者である津麻呂ツノマロが、軍中に入ってその主を尋ね、
「我が主、大伴公おおとものきみは何処にお出でになるか」
と言うと、ある人が、
「お前の主は敵のために殺された」
と言い、屍のところを指し示した。
津麻呂ツノマロはそれを見て、
「主人が死なれたら、生きていても仕方がない」
と言い、再び敵中に入って共に死んだ。
しばらくして残兵が自然に退却した。
その後、大将軍である紀小弓宿禰きのおゆみのすくねは病気になって薨じた。

夏五月、紀大磐宿禰きのおおいわのすくねは、父が彼の地で死んだことを聞き、新羅しらぎに行き、小鹿火宿禰おかひのすくねが司っていた兵馬・船官と諸々の小官を取って、自分勝手に振る舞った。
小鹿火宿禰おかひのすくね大磐宿禰おおいわのすくねを深く憎んだ。

そこで偽って韓子宿禰からこのすくねに告げて、
大磐宿禰おおいわのすくねは私に語って、『自分はその中また韓子宿禰からこのすくねの官も取るだろう』と言っていた。気をつけた方がよい」
と言った。
こうして韓子宿禰からこのすくね大磐宿禰おおいわのすくねには隙間ができた。

百済王くだらおうは二人の不仲のことを聞いて、韓子宿禰からこのすくねのもとに人を遣わして、
「国の境をお見せしたいから、お出で下さい」
と言った。
それで宿禰すくねたちはくつわを並べて行った。

河に着いてから、大磐宿禰おおいわのすくねは馬に河水を飲ませた。
このとき、韓子宿禰からこのすくねは後ろから大磐宿禰おおいわのすくねの馬の鞍を射た。
大磐宿禰おおいわのすくねは驚き振り返って、韓子宿禰からこのすくねを射ち落すと、川の流れにはまって死んだ。

この三人の臣は、以前から先を競って道を乱したので、ついに百済くだらの王宮に至らないで引き返してしまった。

そこで采女うねめ大海オオシアマは、小弓宿禰おゆみのすくねの喪に従って日本に帰った。
大伴室屋大連おおとものムロヤのおおむらじに悲しみ訴えて、
「私には骸をおさむべき所が分りません。どうか良い所を教えて下さい」
と言った。
大連おおむらじはそれを天皇に申し上げた。
天皇はみことのりして、
「大将軍の紀小弓宿禰きのおゆみのすくねは、竜の如く登り、虎のように睨んで、天下を鎮めた。背く者は討ち、四海を平げた。身を万里に労してついに三韓に死んだ。哀れみ悼んで視葬者はふりのつかさを遣わそう。また大伴卿おおとものまえつきみ紀卿きのまえつきみと同じ国の近い隣りで付き合いも長い」
と言われた。

そこで大連おおむらじみことのりを承って、土師連小鳥はじのむらじコトリに墓を淡輪邑たわのむらに造らせ葬らせた。
大海オオシアマは喜んで黙っていられず、韓奴室カラノヤツコムロ兄麻呂エマロ弟麻呂オトマロ御倉ミクラ小倉オクラハリの六人を大連おおむらじに送った。
吉備上道の蚊島田邑かしまだむらの家人らはこれが始まりである。

小鹿火宿禰おかひのすくねは、特に紀小弓宿禰きのおゆみのすくねの喪のためにやってきたが、ひとりで角国つのくに周防国都濃)に留まった。
倭子連やまとごのむらじをして、八咫鏡やたのかがみ大伴大連おおとものむらじに奉って、願い申した。
「手前は紀卿と共に帝に仕えることは堪えられません。どうか角国つのくにに留まらせていただきたい」
大連おおむらじは天皇に申し上げ、角国つのくにに留まることになった。
これが角臣つのおみらが角国つのくにに居り、角臣つのおみと名づけられたことの始まりである。

月夜の埴輪馬

秋七月一日、河内国かわちのくにから言上してきた。
飛鳥戸郡あすかべのこおりの人である田辺史伯孫たなべのふひとハクソンの娘は、古市郡ふるいちのこおりの人である書首加竜ふみのおびとカリョウの妻である。伯孫ハクソンは、女が男の子を産んだと聞いて、婿の家へお祝いに行き、月夜に帰ってきた。いちびこの丘の誉田陵ほむたのみささぎ(応神天皇陵)の下で、赤馬に乗っている人に出会った。その馬は竜のように蛇行したり、急におおとりのように駆けたりする。普通の馬とは異なり、優れた形であった。
伯孫ハクソンは近づき眺めて、この馬が欲しくなった。乗っている葦毛の馬に鞭打って、くつわを並べた。しかし、赤馬はたちまち抜いて、遥か彼方に塵ほどに小さくなった。伯孫ハクソンの馬は遅れてしまって、後を追うこともできなかった。この駿馬に乗った人は、伯孫ハクソンの願いを知って、馬を止めて互いに交換し、挨拶をして別れた。伯孫ハクソンは駿馬を得て大いに喜び、躍らせてうまやに入れ、鞍を下ろしまぐさを与えて寝た。翌朝見ると、赤馬は埴輪はにわの馬に変っていた。
伯孫ハクソンは不思議に思い、誉田陵ほむたのみささぎに戻って探すと、彼の葦毛の馬が埴輪はにわの馬の間に立っていた。伯孫ハクソン埴輪はにわの馬と取替えて連れて帰った」

十年秋九月四日、身狭村主青等ムサノスグリアオが、くれが献った二羽の鵞鳥がちょうを持って、筑紫ちくしに行った。
この鵞鳥がちょう水間君みずまのきみの犬に喰われて死んだ。
水間君みずまのきみは恐れ憂えて、黙っておられず、ひしくい(おおとり)十羽と養鳥人とりかいびとを献って、罪を贖うことを願った。
天皇は許された。

冬十月七日、水間君みずまのきみが献った養鳥人とりかいびとらを、軽村かるのふれ磐余村いわれのふれの二ヶ所に住まわせた。

十一年夏五月一日、近江国おうみのくに栗田郡くりたごおりからの報告で、
「白いが田上の浜にいます」
とあった。
それで詔を下して、川瀬の舎人とねりを置かれた。

秋七月、百済国くだらこくから逃げてきた者があった。
貴信クイシンと名乗っていた。
あるいは呉国くれのくにの人ともいう。
磐余いわれくれ琴弾ことひき坂手屋形麻呂さかてのやかたまろらは、その子孫である。

鳥養部と韋那部

冬十月、鳥官とりつかさの鳥が宇陀うだの人の犬に喰われて死んだ。
天皇は怒って顔に入墨いれずみをして、鳥養部とりかいべとされた。
ちょうど信濃国しなののくに仕丁つかえのよぼろと、武蔵国むさしのくに仕丁つかえのよぼろとが宿直していた。
そこで、
「ああ、自分の国でとって積んでおいた鳥は、小さい塚ほどもあり、朝夕、食してもなお余った。今、天皇はわずか一羽の鳥のために、人の顔に人墨をされた。どうも酷過ぎる。 悪い天皇でいらっしゃる」
と言った。
天皇はこれを聞かれて、
「鳥を取り集めて積んでみよ」
と言われた。
仕丁つかえのよぼろらは急に集め積むことはできなかった。
そこで罰して鳥養部とりかいべとされた。

十二年夏四月四日、身狭村主青ムサノスグリアオ桧隈民使博徳ヒノクマノタミノツカイハカトコとを、くれに遣わされた。

冬十月十日、天皇は木匠こだくみ闘鶏御田つげのミタに命ぜられて、楼閣を造らせられた。
このとき、御田ミタは高殿に上って、あちらこちらと飛ぶように働いた。
これを仰ぎみた伊勢の采女うねめが、彼の速さに驚いて庭に倒れ、捧げ持っていたお供え物をひっくり返した。
天皇は御田ミタ采女うねめを犯したと疑って、殺そうと思われ、刑吏に渡された。

そのとき、秦酒公はたのさけのきみが近くにおり、琴の歌によって、天皇に悟らせようと思い、琴を横たえて弾いて歌った。

カムカゼノ、イセノ、イセノヌノ、サカエヲ、イホフルカキテ、シカツクルマデニ、オホキミニ、力タクツカへ、マツラム卜、ワガイノチモ、ナガクモガト、イヒシタクミハヤ、アタラタクミハヤ。

伊勢の国の、伊勢の野に、生い栄えた木の枝を、たくさん打ち祈いて、それが尽きるまでも、大君にかたくお仕えしようと、自分の命もどうか長くあれかしと言っていた工匠たくみは、何と惜しいことよ。

天皇は琴の歌を聞いて悟られ、その罪を許された。

十三年春三月、狭穂彦ホサヒコ玄孫やしゃご孫の孫歯田根命ハタネノミコトが、密かに采女うねめ山辺小島子やまべのコシマコを犯した。
天皇はこれを聞かれ、歯田根命ハタネノミコト物部目大連もののべのメのおおむらじに預けて、責めさせた。
歯田根命ハタネノミコトは馬八匹、大刀八本を以て、罪科を償った。
終ってから歌を詠んだ。

ヤマノべノ、コシマコユヱニ、ヒトテラフ、ウマノヤツゲハ、ヲシケクモナシ。

山辺やまべ小島子コシマコのために、人々が狙っている馬の八頭を、手放すのは少しも惜しいことはない。

目大連メのおおむらじはこれを聞いて、天皇に申し上げた。
天皇は歯田根命ハタネノミコトに対して、所有の資財を、餌香市えかのいちたちばなの木のもとに、むき出しにして置かせられた。
そして餌香えか長野邑ながののむらは、物部目大連もののべのメのおおむらじに賜わった。

秋八月、播磨国はりまのくに御井隈みいくまの人である文石小麻呂あやしのおまろは、力持ちで気丈であると言われていた。
傍若無人の振る舞いがあった。
道路の通行を妨げたり、物を掠めたりした。
また、商人の船を差し止めて、品物を全て奪ったりした。
国法に背いて租税を納めなかった。
天皇は春日小野臣大樹かすがのおののおみおおきを遣わして、死を恐れぬ百人の兵士に、松火たいまつをもって家を囲んで焼かせた。
そのとき炎の中から、白い犬が突然飛び出してきて、大樹臣おおおきのおみに飛びかかった。
その大きさは馬ほどもあった。
大樹臣おおおきのおみは顔色も変えないで、刀を抜いてこれを斬った。
するとそれが文石小麻呂あやしのおまろになった。

秋九月、工匠たくみ猪名部真根いなべのマネが、石を台にして斧で材を削っていた。
終日削っても、誤って刀を潰すことがなかった。
天皇がそこへお出でになり、怪しんで問われ、
「いつも誤って石に当てることがないのか」
と言われた。
真根マネは、
「決して誤ることはありません」
と言った。
そこで天皇は采女うねめを召し集めて、着物を脱いで、ふんどしをつけさせ、皆の前で相撲をとらせた。

真根マネは少し手を休め、それを仰ぎ見ながら削った。
思わず気を奪われ、斧を台石に当てて刃を傷つけた。
すると天皇は責めて、
「どこの奴だ。朕を恐れず、不貞の心の奴が、みだりに軽々しいことをいって」
と言われた。
刑吏に渡し、野で処刑しようとされた。
工匠たくみの同僚が真根マネを惜しみ嘆いて、歌を詠んだ。

アタラシキ、ヰナベノタクミ、カケシスミナハ、シガナケバ、夕レカカケムヨ、アタラスミナハ。

ああ、惜しむべき猪名部いなべ工匠たくみよ。彼の掛けた墨縄すみなわの技術は、立派なものだった。彼がいなかったら、誰が彼の妙技を継ごうか、継ぐ者はないだろう。

天皇はこの歌を聞かれて、後悔され嘆いた。
「うっかり人を失うところだった」
赦免の使者を、甲斐の黒駒かいのくろこま山梨産の良馬)に乗せ、刑場に走らせて、刑を許された。
そして結え綱を解き、歌を詠まれた。

ヌバタマノ、カヒノクロコマ、クラキセバ、イノチシナマシ、カヒノクロコマ。

甲斐の黒駒かいのくろこまに、もし鞍を置いたりしていたら、手遅れになって、工匠たくみは死んでいただろう。甲斐の黒駒かいのくろこまよ。

十四年春一月十三日、身狭村主青ムサノスグリアオらは、呉国くれのくにの使者と共に、くれの献った手末てなすえ才伎てひと漢織あやはとり呉織くれはとり衣縫きぬぬい兄媛えひめ弟媛おとひめらを率いて、住吉の津すみのえのつに泊った。
この月に、くれの来朝者のための道を造って、磯果の道しはつのみち磯歯津路)に通じさせた。
これを呉坂くれさかと名づけた。

三月、臣連おみむらじに命じて、くれの使者を迎えさせた。
その呉人くれびと桧隈野ひのくまののに住まわせた。
それで呉原くれはらと名づけた。
衣縫きぬぬい兄媛えひめを、大三輪神社おおみわじんじゃに奉った。
弟媛オトヒメあや衣縫部きぬぬいべとした。
漢織あやはとり呉織くれはとり衣縫きぬぬいは、飛鳥衣縫部あすかのきぬぬいべ伊勢衣縫いせのきぬぬいべの先祖である。

根使主の科

夏四月一日、天皇は呉人くれびとを饗そうと思われて、群臣くんしんに次々尋ねられた。
「会食者には誰が良いだろうか」
群臣は皆、
根使主ネノオミが良いでしょう」
と言った。
天皇は根使主ネノオミを任じられた。
石上いそのかみの高抜原で饗宴をされた。
そのとき、こっそり舎人とねりを遣わして、服装を見させられた。

舎人とねりが復命して、
根使主ネノオミのつけられた玉の髪飾りが、際立って美しく、皆が言うのに、『先に使者を迎えた時にもつけていた』ということです」
と言った。
天皇は自分でも見ようと思われ、臣連おみむらじに命じて、饗宴のときと同じ服装のまま引見された。
皇后は天を仰いで嘆き、声を放って泣かれた。
天皇は怪しまれ、
「何でそんなに泣くのか」
と言われた。
皇后は胡床を降りて答えられた。
「この玉縵は昔、私の兄の大草香皇子オオクサカノミコが、安康天皇のみことのりを承って、私を陛下に進ったときに、私のために贈ってくれた物です。それで根使主ネノオミに疑いを抱き、愚かにも涙が出て泣いたのです」
と言われた。

天皇は聞かれて驚き大いに怒られた。
根使主ネノオミを責められると答えて、
「その通りです。私の過ちです」
と言った。
天皇は、
根使主ネノオミは今後、子々孫々に至るまで、群臣くんしんの仲間に入れてはならぬ」
と言われた。
今にも斬ろうとされたが、根使主ネノオミは逃げ隠れて日根に行き、稲を積んで砦を造り戦った。
しかし、官軍によって殺された。

天皇は役人に命じ、子孫を二つに分け、一つを大草香部おおくさかべの部民として、皇后に付せられた。
一つを茅淳ちぬ県主あがたぬしに賜って、袋担ぎの者とされた。

難波吉士日香香なにわのきしヒカカ大草香皇子オオクサカノミコのため殉死した)の子孫を求めて姓を賜わり、大草香部吉士おおくさかべのきしとされた。
その日香香ヒカカらのことは、安康天皇あんこうてんのうの巻にある。

事件が終った後で、小根使主オネノオミ(根使主の子)が夜、 寝ながら人に語った。
「天皇の城は堅固ではないが、我が父の築いた城は堅固だ」
天皇は人づてにこれを聞かれ、人を遣わして根使主ネノオミの家を見せた。
本当にそのようであった。
そこで彼を捕えて殺した。
根使主ネノオミの子孫が、坂本臣さかもとのおみになることはこれから始まった。

秦のうずまさ

十五年、秦氏はたうじの率いていた民を臣連おみむらじらに分散し、それぞれの願いのままに使われた。
秦氏はたうじの管理者の伴造とものみやつこに任せられなかった。
このため秦造酒はたのみやつこさけは大変気にやんで、天皇に仕えていた。

しかし、天皇は寵愛され、みことのりしてはたの民を集めて、秦酒公に賜わった。
公はそれで各種多数の村主を率いるようになり、租税としてつくられた絹、かとり上質の絹)を献って、朝廷に沢山積み上げた。
これにより姓を賜って、うつまさ(うずたかく積んだ様子)と言った。

十六年秋七月、みことのりして、くわの栽培に適したくにあがたを選んで、桑を植えさせた。
また、はたの民を移住させて、そこから庸調が上るようにされた。

冬十月詔して、
漢氏あやうじの部民を集めて、その管理者を決めよ」
と仰せられた。
その姓をあたいと賜わった。

十七年春三月二日、土師連はじのむらじらにみことのりして、
「朝夕の膳部かしわでのおみに用いる清い器を進上せよ」
と言われた。
そこで土師連はじのむらじの先祖の吾苟アケが、摂津国せっつのくに久佐々村くささのむら山背国やましろのくに内村うちむら伏見村ふしみのむら伊勢国いせのくに藤方村ふじかたのむら丹波たんば但馬たじま因幡いなばの私有の部曲かきべを奉った。
これを名づけてにえ土師部はじべという。

朝日郎

十八年秋八月十日、物部菟代宿禰もののべのウシロノスクネ物部目連もののべのメのむらじを遣わして伊勢の朝日郎アサケノイラツコを討たせた。
朝日郎アサケノイラツコは官軍が来たと聞いて、伊賀いが青墓あおはかで迎え撃った。
弓の名人であることを誇り、官軍に、
朝日郎アサケノイラツコの相手に、誰が当たることができるか」
と言った。

その射る矢は、二重の甲も射通した。
官軍は皆怖れた。
菟代宿禰ウシロノスクネはあえて進まず、対峙すること二日一夜に及んだ。
物部目連もののべのメのむらじは自ら大刀をとり、筑紫の企救きく物部大斧手もののべのオオオノテに楯をとらせ、雄叫びをあげて突き進ませた。
朝日郎アサケノイラツコは遥かに眺め、大斧手オオオノテの楯と二重の甲を射通し、さらに体の中に一寸入った。
大斧手オオオノテは楯を持って、物部目連もののべのメのむらじを庇った。
目連メのむらじ朝日郎アサケノイラツコを捕え殺した。
菟代宿禰ウシロノスクネは自分が果たさなかったことを恥じて、七日に及ぶまで復命しなかった。
天皇は侍臣に、
菟代宿禰はウシロノスクネどうして復命しないのだろうか」
と尋ねられた。
讃岐さぬき田虫別タムシワケという者があり、進み出て申した。
菟代宿禰ウシロノスクネは怖じけて進まず、二日一夜の間、朝日郎を捕えることができませんでした。それを物部目連もののべのメのむらじが、物部大斧手もののべのオオオノテを率いて進み、朝日郎アサケノイラツコを捕え斬りました」
と言った。

天皇はこれを聞いて怒られ、菟代宿禰ウシロノスクネが所有した猪使部いつかいべを召し上げ、物部目連もののべのメのむらじに与えた。

十九年春三月十三日、みことのりして安康天皇の御名を遺す、穴穂部あなほべを設けられた。

高麗、百済を降す

二十年冬、高麗王こまおうが大軍をもって攻め、百済くだらを滅ぼした。
その時、少しばかりの生き残りが、倉下へすおとに集っていた。
食糧も尽き憂い泣くのみであった。

高麗こまの諸将は王に申し上げて、
百済くだらの人の心ばえはよく分らない。私たちは見るたびに思わず迷ってしまう。恐らくまた、はびこるのでないでしょうか。どうか追い払わせて下さい」
と言った。
王は、
「よろしくない。百済国くだらこくは日本の官家として長らく存している。また、その王は天皇に仕えている。周りの国々も知っていることである」
と言い、それで取りやめられた。

二十一年春三月、天皇は百済くだらが高麗のために破れたと聞かれて、久麻那利こむなり百済くだら汶州王もんすおうに賜わって、その国を救い興こされた。
当時の人は皆、
百済国くだらこくは一族既に滅んで、倉下へすおとにわずかに残っていたのを、天皇の御威光により、またその国を興した」
と言った。

二十二年春一月一日、白髪皇子シラカノミコを皇太子とされた。

秋七月、丹波国たんばのくに与謝郡よさのこおり筒川つつかわの人である、水江浦島子ミズノエノウラシマノコが舟に乗って釣りをしていた。
そして大亀を得た。
それがたちまち女となった。
浦島ウラシマは感動してこれを妻とした。
二人は一緒に海中に入り、蓬萊山ほうらいさんに至って、仙境を見て回った。
この話は別の巻にある。

二十三年夏四月、百済くだら文斤王もんこんおうが亡くなった。
天皇は昆支王こんきおうの五人の子の中で、二番目の末多王またおうが、若いのに聡明なのを見て、みことのりして内裏へ呼ばれた。
親しく頭を撫で、ねんごろに戒めて、その国の王とされた。
兵器を与えられ、筑紫国ちくしのくにの兵士五百人を遣わして、国へ送り届けられた。
これが東城王とうせいおうである。
この年、百済くだらの貢物は、例年よりも勝っていた。
筑紫ちくし安致臣あちのおみ馬飼臣うまかいのおみらは船軍を率いて高麗こまを討った。

天皇の遺言

秋七月一日、天皇は病気になられた。
詔して、賞罰や掟など、事大小となく皇太子に委ねられた。

八月七日、天皇は病いよいよ重く、百官との別れの言葉を述べられ、手を握って嘆かれた。
大殿において崩御された。
大伴室屋大連おおとものムロヤのおおむらじ東漢掬直やまとのあやのツカのあたい遺詔みことのりされて、
「今、天下は一つの家のようにまとまり、竈の煙は遠くまで立ち上っている。万民よく治まり、四囲のえびすもよく従っている。これは、天意が国内を安らかにしようと思われたからである。心を責め、己を励まして、毎日毎日を慎むことは万民のためである。おみむらじ伴造とものみやつこは毎日参朝して、国司くにつかさ郡司こおりつかさは時に従って参集する。どうして心肝を尽して、ねんごろに勤めないでよかろうか。義には君臣だが、情においては父子も同じである。どうか臣連おみむらじの智力によって、内外の人の心を喜ばせ、長く天下を安らかに保たせたいと思う。思いがけなかった。病が重くなって、常世とこよの国に至るということを。これは人の世の常であり、言うに足らぬことである。けれども、朝野の衣冠あさののいかんのみは、まだはっきりと定めることができなかった。教化政刑も充分良く行われたと言えない。これを思うと、恨みを残すことになる。今、年はそこそこに達し、また短いということはできぬ。筋力精神も一時に尽きた思いがする。これらのことは自分の身のためだけではない。万民を安め、養わんとするからであり、このようなことを述べたのである。産みの子に誰でも思いを告げたいものだ。天下のために、事にあたって心を尽さねばならぬ。星川皇子ホシカワノミコは心に善くない事を抱いて、兄弟の道に欠けた。古人の言葉にもある。臣を知るは、その君に及ぶものはなく、子を知るは、父に及ぶものは無しと。たとえ星川ホシカワが志を得て、共に国家を治めたら、きっと辱かしめを臣連らに及ぼし、民衆に辛い目をさせたであろう。出来の悪い子は国民に嫌われ、出来の良い子は大業を保つのに足りる。これは我が家の事と言えども、隠すことはできない。大伴大連おおとものおおむらじらは、民部かきべが広大で、勢力が国に充ちている。皇太子は後嗣あとつぎとして仁孝の心がよく聞こえ、その行いを見ても、我が志を継いで成しとげるのに足る。それで共に天下を治めてくれれば、私が瞑目しても恨むことはない」
と言われた。

このとき、新羅しらぎを討つ役の将軍・吉備臣尾代きびのおみのオシロは、吉備国きびのくにに行って自分の家に立寄った。
後に率いられてきた五百人の蝦夷えみしらは、天皇が亡くなられたと聞いて話し合った。
「我が国を統べ治めておられた天皇は、亡くなられたのだ。このときを失してはならぬ」

そこで集結して付近のこおりを侵略した。
尾代オシロは家より駆けつけ、蝦夷えみし娑婆湊さばのみなと広島県福山佐波)で合戦し、弓を射た。
蝦夷えみしらは躍り上ったり、地に伏せたりして上手く矢を避け、なかなか射当てることができなかった。
そこで尾代オシロ鳴弦めいげん(弓の弦を弾いて音を鳴らす儀式)の術を用いて邪気を払い、浜辺の上で踊り伏して矢を避けていた者二隊を射殺いころした。

やなぐい(矢を入れておく武具)二つ分の矢も尽きてしまったので、船人を呼んで矢を求めたが、船人らは恐れて逃げてしまった。
尾代オシロはそこで弓を立て、弓筈ゆみはずをもって歌った。

ミチニアフヤ、ヲシロノコ、アメニコソ、キコエズアラメ、クニニハ、キコエテナ。

征討の途中で、思いがけぬ戦いをしなければならぬことになった。尾代オシロの子の雄々しい働きは、母にこそ聞こえないだろうが、天子の上聞には達したいものだ。

歌い終って、また数多の人を斬った。
さらに追撃して、丹波たんばの国の浦明うらけみなとに至り、ことごとく攻め殺した。

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丹比高鷲原陵
Saigen Jiro [CC0], via Wikimedia Commons

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