欽明天皇 天国排開広庭天皇
秦大津父
天国排開広庭天皇は継体天皇の嫡子である。
母を手白香皇后という。
父の天皇はたいへんこの皇子を可愛がって常にそばに置かれた。
まだ幼少のおり、夢に人が現われ、
「天皇が秦大津父という者を寵愛されれば、壮年になって必ず天下を治められるでしょう」
と言った。
夢が覚めて使者を遣わし広く探されると、山城国の紀郡の深草の里に、その人を見つけた。
名前は夢の通りであった。
珍しい夢であるとたいへん喜ばれ、秦大津父に、
「何か思いあたることはなかったか」
と問われると、
「特に変わったこともございません。ただ私が伊勢に商いに行き、帰るとき、山の中で二匹の狼が咬み合って、血まみれになったのに出会いました。そこで馬から降りて、手を洗いロを濯いで、『あなたがたは恐れ多い神であるのに、荒々しい行ないを好まれます。もし猟師と出会えば、たちまち捕われてしまうでしょう』と言いました。咬み合うのをおしとどめて、血に濡れた毛を拭き、洗って逃がし、命を助けてやりました」
とお答えした。
天皇は、
「きっとこの報いだろう」
と言われ、大津父を召され、近くに侍らせて、手厚く遇された。
大津父は、大いに富を重ねることになったので、皇位をお継ぎになってからは、大蔵司に任じられた。
四年冬十月、宣化天皇が崩御された。
皇子であった欽明天皇は、群臣に、
「私は年若く知識も浅くて、政事に通じない。山田皇后(安閑天皇の皇后)は政務に明るく慣れておられるから、皇后に政務の決裁をお願いするように」
と言われた。
山田皇后は恐れかしこまって辞退され、
「私は山や海も及ばぬほどの恩寵をこうむっております。国政の処理の難しいことは、婦女の預かれるところではありませぬ。今、皇子は老人を敬まい、幼少の者を慈しみ、賢者を尊んで、日の高く昇るまで食事もとらず、士(立派な人)をお待ちになります。また幼い時から抜きんでて優れ、声望をほしいままにし、人となりは寛仁で、憐れみ深くいらっしゃいます。諸臣よ、早く天下に光を輝かせて頂くようにお願いしなさい」
と仰せられた。
冬十二月五日、欽明天皇は即位された。
年はまだ若干であった。
皇后(山田)を尊んで、皇太后と申しあげた。
大伴金村大連、物部尾輿大連を大連とし、蘇我稲目宿禰大臣を大臣とすることは、もとの通りであった。
元年春一月十五日、有司たちが皇后をお立てになるようにとお願いしたところ、詔して、
「正妃の宣化天皇の娘である石姫を立てて皇后としよう」
と仰せられた。
二男一女を生まれた。
長子を箭田珠勝大兄皇子といった。
次を訳語田淳中倉太珠敷尊(敏達天皇)といった。
一番下を笠縫皇女といった。
二月、百済の人である己知部が帰化してきた。
倭国の添上郡山村に住まわせられた。
現在の山村の己知部の先祖である。
三月、蝦夷、隼人が仲間を伴って帰順してきた。
秋七月十四日、都を倭国の磯城郡の磯城島に移した。
名づけて磯城島金剌宮といった。
八月、高麗、百済、新羅、任那が使者を遣わして、貢物を奉った。
秦人、漢人といった近くの国から帰化してくる人々を集めて、各地の国郡に配置して戸籍に入れた。
秦人の戸数は、 全部で七千五十三戸で、大蔵掾(大津父のこと)を秦伴造とされた。
大伴金村の失脚
九月五日、難波祝津宮にお出でになった。
大伴大連金村、許勢臣稲持、物部大連尾輿らがお供をした。
天皇は諸臣に問われて、
「どれだけの軍勢があれば新羅を討てるだろうか」
と言われた。
物部大連尾輿が奏して、
「少々の軍勢では容易に討つことはできません。昔、継体天皇の六年に、百済が使者を遣わして、任那の上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁の四県を乞うてきたとき、大伴大連金村はたやすく願いのままに求めを許されました。このことを新羅はずっと怨みに思っております。軽々しく討ってはなりません」
と言った。
こんなことのため大伴大連金村は住吉の家にこもり、病と称して出仕しなかった。
天皇は 青海夫人勾子を遣わして、丁寧に慰問された。
大連は恐縮して、
「私が悩んでおりますのは他の事ではなく、私が任那を滅ぼしたと諸臣が申しますので、その恐しさのためにお仕えに参らぬのです」
と言った。
そして鞍馬を使者に送り、厚く敬意を表した。
青海夫人はありのままを報告した。
天皇は詔して、
「忠誠の心をもって、長らく公に尽したのだから、人の噂を気にしなくてもよい」
と仰せられた。
ついに罪とはされず、いっそう手厚く待遇された。
この年、太歳庚申。
二年春三月、五人の妃を入れられた。
前からの妃の皇后の妹を、稚綾姫皇女といった。
この人は石上皇子をお生みになった。
次が皇后の妹で日影皇女という。
ここで皇后の妹というのは、 詳しく言えば宣化天皇の娘である。
しかし后妃でありながら、母の妃の姓と皇女の名を見ない。
どんな書から出ているかということがわからないため、後世の考える人に待とう。
この人が倉皇子をお生みになった。
次に、蘇我大臣稲目宿禰の娘を堅塩媛という。
七男六女を生んだ。
第一を大兄皇子(用明天皇)といい、第二を磐隈皇女という。
当初は伊勢大神に仕えられた。
後に、茨城皇子に犯されたので解任された。
第三を臘嘴鳥皇子という。
第四を豊御食炊屋姫尊(推古天皇)という。
第五を椀子皇子という。
第六を大宅皇女という。
第七を石上部皇子という。
第八を山背皇子という。
第九を大伴皇女という。
第十を桜井皇子という。
第十一を肩野皇女という。
第十二を橘本稚皇子という。
第十三を舍人皇女という。
次に堅塩媛の同母妹を小姉君という。
四男一女を生んだ。
第一を茨城皇子という。
第二を葛城皇子という。
第三を泥部穴穂部皇女(用明天皇の皇后で聖徳太子の母)という。
第四を泥部穴穂部皇子という。
またの名は天香子皇子。
ある本によると、またの名は住迹皇子という。
第五を泊瀬部皇子(崇峻天皇)という。
ある本によると、第一を茨城皇子という。
第二を泥部穴穂部皇女という。
第三を泥部穴穂部皇子という。
またの名は住迹皇子。
第四を葛城皇子という。
第五を泊瀬部皇子という。
またある本には、第一を葛城皇子という。
第二を住迹皇子という。
第三を泥部穴穂部皇女という。
第四を泥部穴穂部皇子という。
またの名は天香子。
第五を泊瀬部皇子という。
帝王本紀に、沢山古い名があり、撰集する人も、しばしば遷り変ることがあつた。
後人が習い読む時、意をもって削り改めた。伝え写すことが多くて、ついに入り乱れることも多かった。前後の順序を失い、兄弟も入り乱れている。
現在、古今を考え調べて、真実の姿に戻した。
容易に分かりにくいものについては仮に一方を選び、別のものを註記した。
他のところもこれと同じである。
次に、春日日抓臣の娘である糠子という。
春日山田皇女と橘麻呂皇子を生んだ。
聖明王、任那復興の協議
夏四月、安羅(任那の一国で、慶尚南道咸安の地、日本府があった所)の、次旱岐、寅呑奚、大不孫、久取柔利、加羅(任那の一国で慶尚北道高霊の地)の上首位古殿奚、率麻の旱岐、散半奚の旱岐の子、多羅の下旱岐夷他、斯二岐の旱岐の子、子他の旱岐らと任那の日本府の吉備臣とが百済に行って、共に詔書を承った。
百済の聖明王は任那の旱岐らに語って、
「日本の天皇の意志は、もっぱら任那の回復を図りたいということである。どんな策によって任那を再建できるだろうか。皆が忠を尽して御心を安んじようではないか」
と言った。
任那の旱岐らが答えて、
「先に再三、新羅とは話し合いましたが、まだ返事もありません。また相談したことを新羅に告げても、回答することもないでしょう。現在、皆で使者を遣わして、天皇に申し上げましよう。任那を復興しようということの大王(聖明王)のお考えに異議はございません。しかし、任那は新羅に国境を接していますので、恐れることは卓淳らと同じ滅亡の運命にさらされないかということです」
「〜ら」と言ったのは、喙己呑、加羅などがあるからであり、言うところの意味は、卓淳らの国の如く亡国の災いを恐れたのである。
聖明王は、
「昔、我が先祖である速古王、貴首王の世に、安羅、加羅、卓淳の旱岐らが、初めて使者を遣わして、相通じ親交を結んでいた。兄弟のようにして共に栄えることを願ったのである。ところが新羅に欺かれて、天皇の怒りをかい、任那からも恨まれるようになったのは私の過ちであった。私は深くこれを悔い、下部中佐平麻鹵、城方甲背眛奴らを遣わして、加羅に行かせ、任那の日本府に会して盟約した。以後、引続き任那の復興は、朝夕に忘れることもなかった。現在、天皇が、『速やかに任那を再建しよう』と仰せられるので、お前たちと共に譲って、任那国の再建を考えたい。また、任那の境に新羅を呼んで、話い合いに応ずる気があるかどうか尋ねよう。皆で使者を送って天皇に奏上し、お指図を受けよう。もし使者がまだ帰らない中に、新羅が隙をみて任那を侵すならば、私が行って助けるだろう。心配はいらない。けれども、よく守り備えて、警戒を忘れてはならぬ。お前らは、卓淳らの災いを繰返すのを恐れるといったが、新羅は自分の力が強くてできたわけではないのだ。かの喙己呑は加羅と新羅との境にあって、ひっきりなしに攻められ敗れた。任那も救い助けられなかった。それで亡んだ。かの南加羅は小さく狭く、素早く備えることも出来ず、どこに頼るべきかも分らなかった。 それで亡んだ。また卓淳は上下が離れ離れで、国王自ら新羅に内応した。それで亡んだ。こう考えると、三つの国の敗れたことはまことに理由がある。昔、新羅は高麗に助けを乞い、任那と百済を攻めたけれども、勝てなかった。新羅がどうして独力で任那を亡ぼすことができようか。今、私がお前たちと力と心をあわせ、天皇の威力に頼れば、任那はきっと復興できる」
と言った。
そして、それぞれに物を贈ったので、皆、喜んで帰った。
新羅謀略の戒め
秋七月、百済は安羅の日本府と新羅とが通じ合っていることを聞いて、前部奈率鼻利莫古、奈率宣文、中部奈率木菇眛淳、紀臣奈率弥麻沙らを遣わし、安羅に使いして新羅に行った任那の執事を召して、任那の再建を図らせた。
紀臣奈率は、思うに紀臣が韓の婦人と結婚して生まれ、百済に留まって奈率となったもので、その父について詳しくは分からない。
他の場合もこれと同様である。
また別に安羅の日本府の河内直が、計を新羅に通じたことを深く責め罵った。
百済本紀によると加不至費直、阿賢移那斯、佐魯麻都らというが、未詳である。
王は任那に対して、
「昔、我が先祖の速古王、貴首王と、当時の任那諸国の国王らとが、初めて和親を結んで兄弟の仲となった。それゆえ、私はお前を子供とも弟とも考え、お前も我を父とも兄とも思い、共に天皇に仕えて強敵を防ぎ、国家を守って今日に至った。我が先祖と当時の国王とが和親を願った言葉を思いうかべると、それは輝く日のようである。以後、隣国としての友好が続き、骨肉以上の愛情がかよって終始変らないということを、私はいつも念願した。不審に思うのは、何故軽々しいうわべだけの言葉で、数年のうちに残念にもその志を失ったのか。古人の言にも『後悔先に立たず』という。今こそ、天地の神々に誓って、過ちを元に戻し、隠すことなく、至誠を神に通じ、深くみずからを責めなければならぬ。世の中でも後を継ぐ者は、父祖の業を担って、それを盛んにし、功績を成し遂げることを尊ぶ。だから今からでも、先祖の図った親交を尊重し、天皇の詔勅に従って、新羅が掠めとった国、南加羅、喙己呑らを奪い返し、もとの任那に返し、日本を父とも兄とも立てて、 永く仕えようと考えている。これこそ、私が物を食べても旨からず、寝ても安からぬ程の気掛りである。過ちを悔い、今後を戒め、気を配って行こう。新羅が甘言を用いて策略することは、天下周知である。うっかり信用して、すでに計略にはまっていた。任那の国境は新羅に接しているから、警戒を疎かにはできない。計略にはまれば、国を失い、家を亡ぼし、身は虜となる。私はこれが心配で安心できない。聞くところでは任那と新羅が策を決定する際も、土壇場で蜂や大蛇のような本性を表すと、世の人はいう。禍いの 兆しは、人々の行動を戒めるために現れるのである。天災は人々にその非を知らせる。天の戒めはまさに先祖の霊の知らせである。災いに遇ってから悔い、亡んでから興そうと思っても及ばない。今われと共に天皇の勅を承って任那を立てよう。困難なことがあろうか。長く本土を保ち、民を治めようと思うなら、成否は今にかかっている。慎しまなければならぬ」
言った。
聖明王はまた、任那の日本府に語り、
「天皇は詔して、『任那がもし滅んだら、汝の依りどころを失う。任那が興れば汝の助けにもなろう。今、任那を元の如く興し、汝の助けとして人民を満足させよ』と仰せられた。詔を承り、胸いっぱいである。誠心を尽して任那を栄えさせたい。天皇に仕えることは、昔のように、今後のことを充分配慮し、はじめて安泰がある。 今、日本府が詔のまま任那を救えば、天皇からも褒められ、賞禄もあろう。日本の諸卿は長く任那の国に在って、新羅に交わり、新羅の実状はご存知である。任那を侵し、日本の力を阻もうとするのは久しいもので、今年のみではない。だがあえて新羅が動いていないのは、近くは百済を警戒し、遠くは天皇を恐れてである。朝廷を巧みに操り、偽って任那と親しくしている。新羅が任那の日本府に取り入っているのは、まだ任那を取れないから、偽装しているのである。現在、その隙間をうかがい兵を挙げ、討ちとるのがよい。天皇が南加羅、喙己吞を建てよと勧められることは、近年のことだけではない。新羅がその命に従わぬことは、卿らもよく知っている。天皇の詔を承って、任那を立てるためにこのままで良いことはない。 卿らが甘言を信じて偽りにのせられ、任那国を亡ぼし、天皇を辱め奉ることのないよう、充分慎んで欺かれないように」
と言った。
秋七月、百済が紀臣奈率弥麻沙、中部奈率己連を遣わして、下韓(南韓)や任那のことを報告し、併せて上表文を奉った。
四年夏四月、百済の紀臣奈率弥麻沙らが帰国した。
秋九月、百済の聖明王は、前部奈率新牟貴文、護徳己州己宴と、物部施徳麻奇牟らを遣わして、扶南(メコン川下流にあったクメール族の国)の財物と奴(奴隷)二人を奉った。
任那復興の催促
冬十一月八日、津守連を遣わして百済に詔し、
「任那の下韓にある百済の郡令、城主は引き上げて日本府に帰属させる」
と言われ、併せて詔書を持たせて、
「王はしばしば書を奉って、今にも任那を建てるように言い、十余年になる。申すことはこのようながら、いまだに出来ない。任那は爾の国の柱である。柱が折れては誰が家を建てられようか。これが心配だ。早く任那を復興せよ。もし早く復興したら、河内直らが引き上げることは言うまでもない」
と言った。
この日、聖明王は、勅を承り終って、三人の佐平内頭(百済の最高位官職)と諸臣に次々に尋ねた。
「詔勅はかくの如くである。どうしたらよいだろう」
三人の佐平らは答えて、
「下韓にある我が郡令と城主を引き上げることはできません。任那の国を復興させることは、早速に天皇の勅に従うべきでしょう」
と言った。
十二月、百済の聖明王はまた先の詔をもって、あまねく群臣に示して、
「天皇の詔勅はかくの如くである。いかにすべきか」
と尋ねた。
上佐平沙宅己婁、中佐平木刕麻那、下佐平木尹貴、 徳率鼻利莫古、徳率東城道天、徳率木刕眛淳、徳率国酷多、奈率燕比善那らは合い議って、
「私どもは天性愚かで、いずれも智略がありません。任那を建てよとの詔には、早速従うこととし、任那の執事、国々の旱岐(王)らを呼んで共に謀り、意見を申し述べましよう。また 河内直、移那斯、麻都らが、いつまでも安羅にいるならば、任那再建は難しいでしょう。ですから、このことも同時に申し上げ、本国へ帰らせて頂きましょう」
と言った。
聖明王は、
「皆の意見は私の心と同じである」
と言った。
この月、百済国は、施徳高分を遣わして、任那の執事と日本府の執事とを呼んだ。
すると共に答えて、
「正月が過ぎたらいって承りましょう」
と言った。
五年春一月、百済は使者を遣わして任那の執事と日本府の執事を呼んだ。
すると共に答えて、
「神祀りの時なので、終ったら参りましょう」
と言った。
この月、百済は再び使者を遣わして任那の執事と日本府の執事を呼んだ。
日本府、任那共に執事を送らず、身分の低い者を送った。
このため百済は共に任那復興をはかることが出来なかった。
二月、百済は施徳馬武、施徳高分屋、施徳斯那奴次酒らを遣わして、任那への使者とし、日本府と任那の王とに語って、
「紀臣奈率弥麻沙、奈率己連、物部連奈率用奇多を遣わして、 天皇のもとへ行かせた。弥麻沙らは日本から帰って詔書をもたらし、『お前たちはそちらの日本府の者と共に、早く良い計画を立て、我が望みを叶えよ。気をつけて欺かれないように』とあったと告げた。また、津守連が日本からきて詔勅を伝え、任那の復興の方策を問うた。それで日本府、任那の執事と共に、任那の復興策を協議決定し、天皇に報告しようと呼びにやること三度に及んだが、それでも来なかった。それゆえ報告もできない。津守連に逗留を願い、特に急使をもって、天皇に実状をお伝えしたい。それで三月十日に使者を日本に遣わそう。この使者が届いたら、天皇はきっと詰問されるだろう。日本府の諸卿、任那の王たちも、それぞれ使者を出し、我が使者と共に、こちらに出向いて天皇の宣う詔を承るように」
と言った。
ことに河内直に対して、
「以前から今に至るまで、ただ、汝の悪いことばかりを聞く。汝の先祖たちも共に悪巧みを抱いて欺き説いた。為哥可君はその言葉を信じて、国の災も憂えず、我が意に反し勝手に暴虐をした。そのため追放された。ひとえに汝らのせいである。汝らは任那にやってきて、常に良くないことをする。任那が日々損なわれたのは汝のせいだ。汝小なりといっても、譬えれば小火が山野を焼き、村里に広がるのと同様、汝の悪業によって任那は潰されるだろう。海西の諸国(朝鮮の諸国)は永く天皇に仕えることができなくなる。今、天皇に申し上げて、汝らを本貫に帰して頂きたいとお願いする。汝もまた出向いて天皇の詔を承るがよい」
と言った。
またさらに、日本府の卿、任那の王らに、
「任那の復興には、天皇の威を借りなくてはならぬ。それで自分は天皇のところへ参って将士を請い、その力で任那の国を助けようと思う。 将士の兵糧は自分が運ぶ。将士の数はまだ不定であり、兵糧を運ぶべきところもまた定めがたい。願わくば一ヶ所に集まり、可否を論じ、最善を選んで天皇に奏上したい。だがしきりに呼びにやっても、なおやって来ないので、議ることもできぬのだ」
と言った。
日本府がこれに答えて、
「任那の執事が呼ばれても来ないのは、私が使者を遣わさないからです。天皇に奏上のため遣わした使者が帰って言うのは、『朕は印奇臣を新羅に遣わし、津守連を百済に遣わすことにしている。汝は勅を承るまで待て。新羅、百済には自らは出向くな』とのことでした。ところが、たまたま印奇臣が新羅に使いすると聞いて、呼んで天皇の仰せられるところを尋ねました。詔には『日本府の臣と任那の執事が新羅に行き、天皇の勅を承れ』と言われました。百済に行き、命を聞けとは言われなかったのです。後に津守連がここに寄った時に語って、『今、私が百済に遣わされるのは、下韓にある百済の郡令、城主を撒退させるためである』と。ただそれだけで、任那と日本府とが百済に集まり、天皇の勅を承れということは聞きませんでした。だから、やって来ないのは任那の意志ではありません」
と答えた。
任那の王らの言うには、
「使者が来て呼ぶので参ろうとしますが、日本府の卿が出ることを許さないので出られないのです。聖明王は任那を建てるために、心の中の細かい事まで示されました。これを見て言いようもなく嬉しく存じます」といった。
日本府の官人忌避
三月、百済は奈率阿乇得文、許勢奈率奇麻、物部奈率奇非らを遣わして、上表して言うのに、
「奈率弥麻沙、奈率己連らが、詔書を読みあげて、『お前たちは、そこにある日本府と共に、相談して良い計を立て、速かに任那を建てよ。よく用心して新羅に欺かれるな』と言いました。また、津守連らが我が国に来て、勅書を伝え、任那の復興策を問いました。恭んで勅命を承わり、早速協議しようと考え、使者を遣わして日本府と任那とを呼びました。
百済本紀には、烏胡跛臣を呼ぶ、とある。思うにこれは的臣であろう。
共に答えて、『正月がきていますので、それが過ぎてから参上したい』と言ってなかなか来ません。また、使者を遣わして呼びますと、『神祀りのときにかかっているので、これを過ごしてから行きたい』と言って長らく来ません。また、使者を遣わして呼びますと、身分の低い者を遣わしただけなので、共に協議することもできませんでした。任那が呼ぶのに来ないのは、その本意ではないのです。阿賢移那斯、佐魯麻都の奸侫の徒がするところなのです。任那は安羅を兄としています。安羅の人は日本を父と仰ぎただその意に従うのです。今、的臣、吉備臣、河内直らは、皆、移那斯、麻都の指揮に従っているのみです。移那斯、麻都は身分の低い卑しい出身の者ですが、日本府の政務をほしいままにしています。また、任那を支配し邪魔をして執事に行かせませんでした。このため相談して、天皇にお答えすることができませんでした。そこで己麻奴跪(津守連)を留めて、特に早い飛鳥のような使者を送り、天皇に申し上げます。 もし二人(移那斯と麻都)が安羅にいて、邪なことを行えば、任那の復興は困難で、 海西の諸国は、天皇に仕えることができないでしよう。伏してお願いしたいことは、この二人を元の国へ帰らせて頂きたいことです。それから詔して日本府と任那に諭し、任那復興を図って頂くことをお願いし、奈率弥麻沙、奈率己連らを遣わして、己麻奴跪に従わせ、上表いたしました。そこへ詔があり、『的臣らが新羅に行ったことは、私の命じたことではない。昔、印支弥と阿鹵王とがいたときに、新羅のため圧迫されて、人民は農作をすることが出来なかったことがあり、百済は遠く離れているので、急を救うことができなかった。的臣らが新羅に行き来して、ようやく農作することができるようになったことは、以前に聞いたことがある。 もし任那復興がなれば、移那斯、麻都らは、自然に退くことになるのは言うまでもない』と言われました。この詔を承って、心中に喜びの心と恐れ畏まる心が去来しました。そして、新羅と日本との通謀は、天皇の命令によるものではないことが分かりました。新羅は春に喙淳を取り、我が久礼山の守備兵を追い出し、占領いたしました。その後、安羅に近い所は安羅が耕作しています。久礼山に近い所は新羅が耕作し、侵しあわずにおりましたところ、移那斯と麻都はその境を越えて耕作し、六月に逃げ去ってしまいました。印支弥のあとに来た許勢臣のときには、新羅は他人の境を侵すことはありませんでした。安羅も新羅のために攻められて耕作できぬと告げたことはありません。私はかつて新羅が毎年多くの兵を集めて、安羅と荷山とを襲おうとしたり、あるいは加羅を襲おうとしたとも聞きました。この頃、その情報を手に入れましたので、将士を遣わして任那を守るのは怠りません。しきりに精兵を送って、ときに応じ助けています。そのため任那は季節にかなった耕作ができています。新羅もあえて侵略しようとしません。それを百済は遠く離れているため、急を救うことができず、的臣らが新羅に往き来して、ようやく耕作することができたと申すのは、上は天皇を欺き奉り、いよいよ偽りをなすことです。これほど明白なことでさえ、天皇を欺いているのですから、この他にも必ず嘘があるでしょう。的臣らがなお安羅にいるならば、任那の国は恐らく復興しないでしょう。どうぞ早く退けてください。私が深く恐れることに、佐魯麻都は韓国の生まれでありながら、位は大連です。日本の執事と交って、繁栄をたのしむ仲間に入っています。ところが今、新羅の奈麻礼の位の冠をつけ、心が新羅に寄り添っていることは、他からもはっきり分ります。よくよく為すところを見るに、全く恐れたところがありません。先にその悪業は詳しくお知らせしました。今もなお、他国の服を着て、絶えず新羅の地に行ったりして、公私にわたり全く憚るところがありません。喙国が亡んだのは他の理由でなく、喙国の函跛旱岐が任那に二心があって、新羅に内応し、任那は新羅兵と戦いました。このため亡びました。もし函跛旱岐が内応しなかったら、喙国は小なりといっても、決して亡びなかったでしょう。卓淳に至ってもその通りです。もし卓淳国の王が、新羅に内応して仇を招くことをしなかったら、滅亡に至らなかったでしよう。諸国の敗亡した災いを通観すると、皆、内応する二心の者があるからです。今、麻都らは新羅に心を通わせ、その国の服さえ着て、朝夕往き通い、密かに邪な心を抱いています。恐れるのは、これによって任那が永久に亡びることです。任那が亡んだら我が国も危くなります。百済が朝貢しようと思っても、どうして出来ましょう。伏してお願いしますのは、天皇が遥か遠くまでお見通しになり、速やかに奸臣を本貫に移して、任那を安らかにして頂きたいことです」
と申し上げた。
冬十月、百済の使者である奈率得文、奈牢奇麻らが帰国した。
百済本紀には、冬十月、奈率得文、奈率奇麻らが日本から帰ったが、奏上した河内直、移那斯、麻都らのことについては、ご返事がなかった、とある。
任那復興の計画
十一月、百済は使者を遣わし、日本府の臣と任那の執事を呼んで、
「天皇のもとに遣わした奈率得文、許勢奈率奇麻、物部奈率奇非らが日本から帰った。日本府の臣と任那国の執事は、来て勅を承り、一緒に任那のことを図るように」
と言った。
日本の吉備臣、安羅の下旱岐大不孫、久取柔利、加羅の上首位古殿奚、率麻君、斯二岐君、散半奚君の子である、多羅の二首位訖乾智、子他の旱岐、久嗟の旱岐らが百済に行った。百済の聖明王は詔書を示して言った。
「私は、奈率弥麻佐、奈率己連、奈率用奇多を遣わして、日本に行かせたとき、詔は、『早く任那を建てよ』ということであった。また、津守連が勅を承って、任那復興のことはできたかと尋ねられた。それゆえ皆を呼んだ。さてどうして任那を建てようか。どうかそれぞれの計略を述べてほしい」
と言った。
吉備臣や任那の旱岐は、
「任那の復興は、ただ大王の決意如何です。我々は王に従って共に勅を承ります」
と言った。
聖明王は語って言った。
「任那と我が百済とは、古来、子弟のような間柄であった。今、日本府の印岐弥が既に新羅を討ち、さらに百済をも討とうとしている。また好んで新羅の偽りに騙されているのである。印岐弥を任那に遣わしたのは、その国を侵害するためではあるまい。昔から新羅は無道であり、嘘偽りで卓淳を亡ぼした。助け合う国として友好を結ぽうとしても、かえって後悔することになろう。だから皆を呼び恩詔を承り、任那を再興し、もとのように長く兄弟たらんと願うのである。聞くところによると、新羅と安羅の国境に大きな河があり、要害の地であるという。敵の五城に対して、我はここに六つの城を造ろうと思う。天皇に三千の兵を請うて、各城に五百人ずつ配し、我が兵士を合わせ加え、新羅人に耕作させないようにして困らせたら、新羅の久礼山の五城は、自ら兵を捨てて降伏するだろう。卓淳の国もまた興るだろう。日本から遣わされる兵士には、私が衣食を給しよう。これが天皇に奏上しようと思う策の第一である。なお、百済が下韓に郡令、城主を置くことは、どうして天皇に違背し、調貢の道を絶つことになろうか。我が願いとすることは、多難を救い強敵(高句麗)を討つことである。およそ凶党(新羅)は誰とでも連合することを考えるであろう。北敵(高句麗)は強大で、我が国は微弱である。もし南韓(下韓)に郡令、城主の守りを置かなかったら、この強敵を防ぐことはできない。また、新羅を防ぐこともできない。それで新羅を攻めて、任那の存在を図るのである。さもないと、恐らく滅されて、天皇にお仕えすることもできなくなることを奏上しよう。これが策の第二である。また、吉備臣、河内直、移那斯、麻都がいつまでも任那国にいると、天皇が任那の復興を仰せられても、叶わぬことである。この四人の人物を辞めさせ、元の国へ遣わして欲しいという願いを、天皇に奏したい。これが策の第三である。日本の臣、任那の旱岐たちと、共に使者を遣わして、皆で天皇に恩詔を賜わるようにお願いせよ」
旱岐らが言う。
「大王の三つの策は、我々の心情にもかなうものです。願わくば、日本の大臣(日本府の最高官)、安羅の王、加羅の王にも申し、合同で使者を遣わして天皇に奏上しよう。
これ、誠に千載一遇の好機であり、熟慮完行しなくてはなりません」
十二月、越国からの報告に、
「佐渡ヶ島の北の御那部の崎に、粛慎(ロシア・ツングース系民族)の人が一艘の船に乗ってきて停舶し、春夏の間、漁をして食料としていました。その島の人は、あれは人間でない、あるいは鬼であるといって、近づきませんでした。島の東の禹武里の人が、椎の実の拾ったのを食べようと思い、熱い灰の中に入れて煎ろうとしました。するとその皮が二人の人間になって、火の上に飛び上ること一尺ばかり。そしていつまでも戦い合っていました。里人は怪しんで庭に置いたところ、また前のように飛んで戦うことを止めない。ある人がこれを占って、『この里の人は、きっと鬼のためにかどわかされるだろう』と言った。間もなく、その言葉のように、鬼に掠められました。そして粛慎の人は、瀬波河浦に移りました。浦の神は威力が激しいので、里人はあえて近づかないところです。水に飢えてそこの水を飲み、 粛慎の人は、半分あまり死んでしまい、骨が岩穴に積み重なっていました。里人は粛慎の隈と呼んでいます」
とあった。
六年春三月、膳臣巴提便を百済に遣わした。
夏五月、百済は奈率其愤、奈率用奇多、施徳次酒らを遣わして上表した。
秋九月、百済は中部護徳菩提らを任那に遣わした。
また、呉から入手の財物を、日本府の臣と諸々の旱岐にそれぞれに応じて贈った。
この月、百済は丈六の仏像を造った。
願文を作って、
「丈六の仏を造ると功徳は広大であると聞く。今、恭しくお造り申し上げた。この功徳によって天皇が優れた徳を得られ、天皇の治められる諸国が、幸いを受けることを願いたい。また、天下の一切衆生が、業苦を脱することを祈願して、お造り申し上げる」
と言った。
十一月、膳臣巴提便が百済から帰って、
「私が使者に遣わされた時、妻子もついてきました。百済の浜で日が暮れたので、そこに宿りました。そのとき子供が急に居なくなり、行先が分かりません。その夜は大雪が降りました。夜があけてから探し始めると、虎の足跡が続いていました。私は刀を带び鎧を着て、岩穴を探し歩きました。刀を抜いて、『勅を受けて山野に奔走し、風雨にさらされ、草を枕に茨を床にして苦労するのは、子を愛し親の業を継がせようと思うためである。神は私に子供を一人与えたが、今夜、その子がいなくなった。跡を追って探しにきた。命を落とすことも恐れず、虎に報いるために来た』と言いました。その虎は前進し、ロをあけて呑もうとしました。巴提便はさっと左手を差し出し、その虎の舌を掴み、右手で刀を刺して殺し、皮を剥いで持って帰ってきました」
と言った。
この年、高麗に大乱が起こり、多数の人が殺された。
百済本紀に言う。
十二月甲午、 高麗国の細群と麁群が、宮廷で戦った。
鼓を打ちならして戦闘をした。
細群が敗れて包囲を解かないこと三日、ことごとく細群の子孫を捕え殺した。
戊戌に、高麗の香丘上王が薨じたという。
七年春一月三日、百済の使者である中部奈率己連らが帰途についた。
良馬七十匹と船十隻を授け賜わった。
夏六月十二日、百済は中部奈率掠葉礼らを遣わして調を奉った。
秋七月、大和の今来郡から報告があった。
「五年の春、川原民直宮が、高殿に上って眺めると、良い馬がいるのを見つけた。(これは、紀伊の国の漁師が、貢納品を積んできた牝馬の子である)馬は人影をみて高く鳴き(良く走る名馬の相とされる)、軽く母馬の背を跳び越えた。出向いてその馬を買い取った。年を経て壮年になると、鴻のように上り、 竜のように高く飛び、並の馬と違って群を抜いていた。乗り心地に優れ、思う通りに駆けることが出来た。近くの大内丘の広い谷も、軽く越え渡った。川原民直宮は桧隈の里の人であります」
と言った。
この年、高麗は大いに乱れ、戦死者の計は二千余人。
百済本紀に、高麗では一月丙午、中夫人の子を立てて王とした。
八歳。高麗王に三人の夫人があった。正夫人は子が無く、中夫人が太子を生んだ。
その舅(外戚)は麁群である。
小夫人も子を生んだ。
その舅は細群である。
高麗王の病が重くなると、細群、麁群はそれぞれの夫人の子を立てようと争った。
その争いで細群の死者は二千余人になったという。
日本への救援要請
八年夏四月、百済は前部徳率真慕宣文、奈率奇麻らを遣わして、日本に援軍を乞うた。
そのとき、下部東城子言(人質)を奉って、徳率汶休麻那と交代させた。
九年春一月三日、百済の使者である前部徳率真慕宣文らが帰国を願い出た。
そこで詔して、
「要請のあった援軍は、必ず派遣しよう。速かに王に報告するがよい」
と言われた。
夏四月三日、百済は中部杆率掠葉礼らを遣わして奏上し、
「徳率宣文らが勅を承り、国に帰って、『乞うところの援軍は、必要な時に送り遣わす』という有難い恩詔を頂き、喜びこの上もありません。しかし、馬津城の役(正月辛丑の日、高麗は兵を率いて馬津城を囲んだ)に、捕虜が語って、『安羅国と日本府が、高句麗に百済進攻を勧めたのである』と言いました。状況から見れば、ありそうなことにも思われます。そのことを充分確かめようと、三度呼びにやったが来ませんでした。これを深く心にかけ案じています。畏き天皇には何とぞよくお調べ願います。お願いした援軍をしばらく見合せ、私がお返事を申し上げるまでお待ち下さい」
と言った。
天皇は詔して、
「使人のもたらした申しごとを聞き、心配することがよく分った。日本府と安羅が隣りの災難を救わなかったのは、私も心苦しく思っている。高麗にこっそり使者をやったという如きは信ずるべきでない。私が命ずるのなら使者を遣わすだろう。しかし、命じないのにどうして勝手にできようか。願わくば王は襟を開き、帯をゆるめて静かに安らぎ、疑い恐れることを止めなさい。任那と共に、先の勅のままに力を合せて、高句麗を防ぎ、自国の領土を守るべきである。私は若干の兵を送り遣わして、安羅が逃げて空いたところを埋めよう」
と言われた。
六月二日、百済に使者を遣わし詔して、
「徳率宣文が帰国してその後どうであろうか。高句麗のために侵害されたと聞くが、任那と共に謀り励み、心を同じくして前回のようによく防ぐよう」
と言われた。
閏七月十二日、百済の使者である掠葉礼らが帰途についた。
冬十月、三百七十人を百済に遣わして、得爾辛に城を造るのを助けさせた。
十年夏六月七日、将徳久貴、固徳馬次文らが帰国したいと願った。
よって詔して、
「延那斯、麻都が密かに使者を高麗に遣わしたことについては、虚実を質す者を遣わそうと思う。乞うていた援軍は、願いがあったので停止したのである」
と言われた。
十一年春二月十日、百済に使者を遣わした。
百済本紀に、三月十二日、日本の使者の阿比多が三隻の船を率いてやってきたという。
仰せられ、
「将徳久貴、固徳馬進文らの上表文の意に従い、一つ一つ、掌中を見るように教え示そう。こちらの心を詳しく説明しようと思う。使者の大市頭が帰国後何も変ったことはない。今、細かく返事をしようと思うので、使者を遣わした。奈率馬武は王の股肮の臣であると聞いている。上に伝え下に告げることは、よく王の心にかない、王の助けとなっている。もし天下に事なく、天皇の官家としていつまで も仕えようと思えば、馬武を大使として、朝廷に遣わすのがよい」
重ねて詔して、
「高句麗は強暴であるという。矢三十具(千五百本)を贈ろう。大事な所はしっかりと守って欲し い」
と言われた。
夏四月一日、百済にいる日本の使者の阿比多が帰ろうとした。
聖明王は使者に語って、
「任那のことは勅を承って堅く守ります。延那斯、麻都のことは、お尋ねがあってもなくても勅のままに致します」
と言った。
そして高麗の奴(奴隷)六ロを奉った。
別に使者にも奴一口を贈った。
爾林を攻めたとき生け捕った奴である。
十六日、百済は中部奈率皮久斤、下部施徳灼干那らを遣わして、高麗の捕虜十ロを奉った。
十二年春三月、麦種一千石を百済王に賜わった。
この年、百済の聖明王は、自ら自国と新羅、任那二国の兵を率いて、高麗を討ち、漢城(ソウル)を回復した。
また軍を進めて平壌(ピョンヤン)を討った。
すべて六郡の地が回復された。
十三年夏四月、箭田珠勝大兄皇子(欽明天皇の嫡子)が薨去した。
五月八日、百済、加羅、安羅は、中部徳率木刕今敦、河内部阿斯比多らを遣わして奏上し、
「高麗と新羅と連合して、臣の国と任那とを滅ぼそうと謀っています。救援軍を受けて、不意を突きたいと思います。軍兵の多少についてはお任せします」
と言った。
詔して、
「今、百済の王、安羅の王、加羅の王、日本府の臣らと共に使者を遣わして、申してきたことは聞き入れた。また、任那と共に心を合せ、力を専らにせよ。そうすれば、きっと上天の擁護の福を蒙り、天皇の霊威にあずかれるであろう」
と言われた。
仏教公伝
冬十月、聖明王は西部姫氏達率怒咧斯致契らを遣わして、釈迦仏の金銅像ー軀、幡蓋を若干、経論を若干巻を奉った。
別に上表し、仏を広く礼拝する功徳を述べて、
「この法は諸法の中で最も優れております。解り難く入り難くて、周公、孔子もなお知り給うことができないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を成し、例えば人が随實宝珠(物事が思うままになる宝珠)を抱いて、なんでも思い通りになるようなものです。遠く天竺(インド)から三韓に至るまで、教に従い尊敬されています。それゆえ、百済王の臣明は、謹んで侍臣の怒嘲斯致契を遣わして朝に伝え、国中に流通させ、我が流れは東に伝わらんと仏が述べられたことを、果たそうと思うのです」
と言った。
この日、天皇はこれを聞き給わって、欣喜雀躍され、使者に詔して、
「私は昔からこれまで、まだこのような妙法を聞かなかった。けれども、私一人で決定はしない」
と言われた。
群臣に一人一人尋ねられ、
「西の国から伝わった仏の顔は、端麗の美を備え、まだ見たこともないものである。これを祀るべきかどうか」
と言われた。
蘇我大臣稲目宿禰が申すのに、
「西の国の諸国は、皆、礼拝しています。豊秋の日本だけがそれに背くべきでしょうか」
物部大連尾輿、中臣連鎌子が同じく申すのには、
「我が帝の天下に王としてお出でになるのは、常に天地社稷の百八十神を、春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。今始めて蕃神(仏)を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りを受けることになるでしょう」
天皇はいわれた。
「それでは願人の稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう」
大臣は跪き受けて喜んだ。
小墾田の家に安置し、ねんごろに仏道を修めるよすがとした。
向原の家を清めて寺とした。
後に国に疫病が流行り、人民に若死する者が多かった。
それが長く続いて手立てがなかった。
物部大連尾輿と中臣連鎌子は共に奏して、
「あのとき、臣の意見を用いられなくて、この病死を招きました。今、元に返されたら、きっと良いことがあるでしょう。仏を早く投げ捨てて、後の福を願うべきです」
と言った。
天皇は、
「申すようにせよ」
と言われた。
役人は仏像を難波の堀江に流し捨てた。
また寺に火をつけ、余すところなく焼いた。
すると、天は雲も風もないのに、突然、宮の大殿に火災が起きた。
この年、百済は漢城と平壌とを捨てた。
新羅がこれにより漢城に入った。
現在の新羅の午頭方、尼弥方である。
十四年春一月十二日、百済は上部徳率科野次酒、杆率礼塞敦を遣わして、軍兵を乞うた。
十三日、百済の使者の中部杆率木刕今敦、河内部阿斯比多らが帰途についた。
夏五月一日(あるいは七日)、河内国から、
「泉郡の茅渟の海中から、仏教の楽の音がします。響きは雷の音のようで、日輪のように美しく照り輝いています」
と知らせてきた。
天皇は不思議に思われて溝辺直を遣わし、海に入って探させられた。
このとき、溝辺直は、海の中に照り輝く樟木があるのを見つけた。
これを取って天皇に奉った。
画工に命じて、仏像二軀を造らせられた。
これが現在、吉野寺(奈良県吉野)に光を放っている樟の像である。
六月、内臣(名は不明)を使者として百済に遣わした。
良馬二匹、諸木船(構造船)二隻、弓五十張、箭五十具(二千五百本)を賜わった。
勅に、
「援軍は王の望みのままに用いよ」
と言われた。
別の勅に、
「医博士、易博士、暦博士は当番制により交代させよ。今、上記の役職の人は、ちょうど交代の時期になっている。帰還する使者につけて交代させよ。また、卜書、暦本、種々の薬物など送るように」
と言われた。
七月四日、樟勾宫に行幸された。
蘇我大臣稲目宿禰が勅を承って、王辰爾を遣わし、船の税の記録をさせた。
王辰爾を船司とし、姓を賜わって船史とした。
現在の船連の先祖である。
八月七日、百済は上部奈率科野新羅、下部固徳汶休带山らを遣わして上表し、
「去年、私どもは会議をして、内臣徳率次酒、任那の大夫らを遣わし、海外の官家のことを申し上げました。恩詔を待つことは、春草の甘雨を仰ぐようであります。今年、にわかに聞くところでは、新羅と高句麗が通謀し、『百済と任那はしきりに日本に赴いている。思うにこれは、軍兵を請うて、我が国を討とうとしているのであろう。もし事実なら、国が滅ぼされることは遠からぬことである。まず、日本の軍兵の来ないうちに、安羅を討ち取って日本の路を絶とう』と言っています。その謀はこのようで、臣らはこれを聞き深く危ぶみ恐れています。そこで急使軽舟を送って急ぎ申し上げます。願わくば、天慈をもって、速やかに前軍後軍を遣わし、引き続き救援をお願いします。秋の頃には、海外の官家を固め終りましょう。もし手遅れになれば臍を嚙んでも及ばないでしよう。派遣の軍が我が国に着いたら、衣粮の経費は臣が負担します。 任那への場合も同様ですが、もし任那が堪え得ない時は、臣が責任をもって、決して不足はさせません。的臣は勅を受けて来り、臣の国を守り、早朝より深夜まで諸政を助けてくれました。それで諸国は皆、その誉れを褒め称えました。万代まで国々の鎮めにと思っていたところ、不幸にも死去されてしまい、深く悼むところです。今後、任那のことは誰が治められましょうか。何とぞ天慈をもって、速やかに代理を遣わして、任那をお鎮め下さい。また、こちらの諸国は弓馬に不足しております。古来、天皇にお助けを頂いて強敵を防いできました。天慈をもって多くの弓馬を賜わりとうございます」
と言った。
冬十月二十日、百済の王子である余昌(明王の子、威徳王)は、全軍を挙げて高麗の国へ行き、 百合野の塞(要塞)を築き、兵士と一緒に寝食をした。
夕方、遥かに見渡すと、大野はよく肥え平原は広くのび、人跡は稀で犬の鳴き声もない。
そこへ俄かに鼓笛の音が響いてきた。
余昌は大いに驚き、鼓を打って応えた。
夜中固く守っていて、朝方薄明りの中に広野を見ると、青山のように旗が充満していた。
明方、頸鎧(頸部を守る鎧状の防具)をつけた者が一騎、鐃(軍中に用いる小さなドラ)を挿した者が二騎、豹尾を髪に差した者二、合せて五騎が轡を並べて来たり、
「我が部下共が言うのに、『我が野の中に客人がいます』と。お迎えしないわけにはいきません。礼に従って応答される人の、姓名年齢を承りたい」
と言った。
余昌は答えて、
「姓は高麗と同姓の扶余、位は杆率、年は二十九」
と言った。
次に百済の方が尋ねた。
すると前の法のように受け答えた。
そこで互に旗を立てて戦い合った。
百済は鉾をもって、高麗の勇士を馬から刺し落とし、首を切った。
頭を鉾の上に刺し上げて皆に示した。
高麗の将兵は激しく憤った。
百済の歓声は天地に轟いた。
また、副将は鼓を打って激しく戦い、高麗王を東聖山の上に追い退けた。
十五年春一月七日、皇子の淳中倉太珠敷尊(敏達天皇)を立てて皇太子とした。
九日、百済は中部木勗肩徳木次、前部施徳日佐分屋らを筑紫に遣わして、内臣、佐伯連らに申すのに、
「徳率次酒、杆率塞敦らが、去年十一月四日に参りました時、『内臣らは来年一月には来るだろう』と言われましたが、どうなのでしょうか。また、軍の数はどれ程でしょうか。概略をお聞きして、あらかじめ陣営を設けねばなりませぬので」
また別に、
「かしこき天皇の詔を承って、筑紫に詣でて、遣わされる軍を見送れとのこと、例えようもなく嬉しく存じます。今度の戦役は前よりも危ないので、どうか軍の派遣を正月中に間に合うようにして頂きますように」
と言った。
内臣は勅命を承って回答して、
「援軍の数は千。馬百匹、船四十隻をすぐ発遣する」
と言った。
二月、百済は下部杆率将軍三貴、上部奈率物部烏らを遣わして援軍を乞うた。
徳率東城子莫古を奉って前の番の奈率東城子言に代えた。
五経博士である王柳貴を固徳馬丁安に代えた。
僧の曇慧ら九人を僧の道深ら七人に代えた。
別にまた勅により、易博士である施徳王道良、暦博士である固徳王保孫、医博士である奈率王有陵陀、採薬師である施徳潘量豊、固徳丁有陀、楽人施徳三斤、季徳己麻次、季徳進奴、対徳進陀を奉った。
皆、願いによって交代したのである。
三月一日、百済の使者である中部木筋施徳文次らが帰途についた。
夏五月三日、内臣が舟軍を率いて百済に向かった。
冬十二月、百済は下部杆率汶斯干奴を遣わして上表し、
「百済王の臣明(聖明王)と安羅に在る倭の諸臣達、任那の国の旱岐らが申し上げます。思いみれば新羅は無道で、天皇を恐れず、高句麗と心を合せて、海北の官家を損い滅ぼそうと思っています。臣等は共に議って、内臣らを遣わし、新羅を討つための軍を乞いましたところ、天皇の遣わされた内臣は、軍を率いて六月に来り、臣らは深く喜びました。十二月九日に、新羅攻撃を開始しました。臣はまず東方軍の指揮官、物部莫奇武連を遣わし、その方の兵士を率いさせ、函山城を攻めさせました。内臣が連れてきた日本兵、筑紫物部莫奇委沙奇は、火箭を射るのがうまく、天皇の威霊を蒙り、九日の夕方には城を焼いて落としました。それゆえ、単使(急用による一人だけの使者)の馳船を遣わして奏上します」
と言った。
なお別に、
「ただ新羅のみならぱ、内臣が率いてきた兵だけで足りるでしょうが、今、高麗と新羅の合同軍です。成功が難しいので、伏して願わくば、筑紫の島の辺りの諸軍士をも遣わして、臣の国を助けて下さい。また、任那を助ければ事は成功します」
また奏して、
「私は軍士一万人を遣わして任那を助けます。併せて申します。今、事はまさに急です。単船(副使のない船)をもって申し遣わします。良い錦二匹、毛氈(毛皮)ー領、斧三百口、捕虜の男二女五を奉ります。少いもので恐縮でございます」
と言った。
聖明王の戦死
余昌が新羅を討つことを謀ると、重臣たちは諫めた。
「天はまだ我に味方しません。恐らく災いが身に及ぶでしょう」
余昌は、
「老人よ、心配するな。私は大和(日本)にお仕えしている。何の恐れることがあろう」
ついに新羅国に入って、久陀牟羅の塞を築いた。
父の明王は憂え、余昌は戦いに苦しんで、長らく寝食も足りていない。
父の慈愛に欠けることも多く、子としての孝も果たせないと思った。
そこで自ら出向いて労った。
新羅は明王が自らやってきたと聞いて、全軍を動員し道を断って痛撃した。
このとき新羅は、佐知村の馬飼の奴(奴隷)である苦都に、
「苦都は賤しい奴で明王は有名な王である。今、賤しい奴に名のある王を殺させてやる。後世に伝わって、人々のロに忘れられることがないだろう」
と言った。
間もなく苦都は明王を捕え、再拝して言った。
「王の首を斬らせてもらいます」
明王は対えて、
「王の頭は奴の手にはかけられない」
と言った。
苦都は、
「我が国の法は、盟に背けば国王と言えども、奴の手にかかるのである」
と言った。
ある本によると、明王は胡床に深くかけて、佩刀を解いて谷知(苦都)に授け、斬らせたという。
明王は天を仰ぎ、嘆息して涙を流した。
許していうのに、
「常に骨身に沁みる苦痛をなめてきたが、今は万事休すのみ」
といって王は首を伸べた。
苦都は斬首して、穴を掘り埋めた。
或る本には、新羅は明王の頭骨を収め、礼をもって残骨を百済に送った。
新羅の王は明王の骨を、北庭の階の下に埋めた。
この庁を名付けて都堂といったという。
余昌はついに取囲まれて、脱出できなかった。
兵士たちは猥狽して助けるすべも知らなかった。
弓の名人に筑紫国造という者があって、進み出て弓を引き、狙いを定めて、新羅の騎卒の最も勇壮な者を射落した。
その矢の鋭いことは、跨いだ鞍の前後の橋を射抜いて、鎧の襟に通った。
また、次々と放つ矢は、雨のようにいよいよ激しく、包囲軍を退却させてしまった。
これによって余昌と諸将は、間道から逃げ帰ることができた。
余昌は国造が包囲軍を退却させたことを褒めて、尊び名づけて鞍橋君といった。新羅の将兵は百済が疲れきったことを知って、ついに全滅作戦を取ろうとした。
そのとき、一人の将があって言った。
「よろしくない。日本の天皇は任那のことで、しばしば我が国を責められた。ましてや百済の滅亡を謀れば、必ず後に憂いを残すことになる恐れがある」
それで中止した。
十六年春二月、百済の王子である余昌は、弟の恵を遣わして奏上し、
「聖明王は賊のため殺されました」
と報じた。
天皇は聞かれて深く悲しまれた。
使者を遣わし、難波津に出迎えて慰問をされた。
許勢臣が恵に問い、
「日本に留まることを望まれるか、あるいは元の国に向われますか」
と言った。
恵は答えて、
「天皇の徳に頼って、願わくば父の仇を報いたい。もし憐れみを垂れて、多くの武器を賜われば、恥をそそぎ、仇を報いることが願いです。私の去就はただ、天皇の命令に従います」
と言った。
しばらくして蘇我臣が尋ねて、
「聖王は天道地理を悟って、名は四方に知られていた。永く平和を保ち、海西の諸国を統べて、千万年までも天皇に仕えられることと思ったのに、思いがけないことになってしまった。にわかに遥かに別れ去って、行く水の帰ることが無きが如くになり、玄室(墳墓内の納棺室)に休まれることになるとは、痛恨極まりないことである。およそ、心ある者誰一人悼まない者があろうか。何かの咎があって、こんな災いを招いたのだろうか。今また、どんな方策で国を鎮められようか」
と言うと、恵は対えて、
「私は、天性愚昧で大きな計を知らず、ましてや禍福の因るところや、国家の存亡についても分りません」
そこで蘇我卿は、
「昔、雄略天皇の御世に、百済が高麗に攻められて、累卵の危きにあった。そのとき、天皇は朝廷の神祇伯に命じて、策を神々にお尋ねになった。祝者(神憑りをする者)が神の言葉を告げて、『始め国を建てられた神を請い招いてお祈りし、亡びそうな国主を救えば、必ず国が静まり、人々もまた安らぐであろう』 と言った。これによって神をお招きし、行って百済を救われた。こうして国は安らかとなった。尋ねみると国を建てた神とは、天地草創の頃、草木も物語りした時に、天から降られ国家を創られた神である。聞くところによると、あなたの国では祖神を祀らないということですが、今まさに前科を悔い改めて、神の宮を修理し、神霊を祭られたら、国は栄えるでしょう。あなたはこれを決して忘れてはなりません」
と言った。
秋七月四日、蘇我大臣稲目宿禰、穂積磐弓臣らを遣わして、吉備の五郡に白猪の屯倉を置かれた。
八月、百済の余昌が諸臣に語って、
「少子(私)は今できるなら、父王のために出家して、修道をしたいと思う」
と言った。
諸臣が答えていうのに、
「今、君王が出家して修道したいと思われるのは、本当の教を受けたことになりませぬ。ああ、思慮のない行動で大きな災いを招いたのは、誰の過ちでしょうか。百済の国は、今、高麗と新羅が争って滅ぼそうとしているところです。出家をされて、この国の祭祀を何処の国に授けようとされるのか。あるべき道理をはっきりとお示し下さい。もしよく老人の言を聞かれたら、ここに至らなかった箸です。どうか、前の過ちを悔いて、出家することはお止め下さい。もし願いを果そうと思われるなら、国民を得度させるべきです」
余昌は対えて、
「もっともである」
と言ってすぐに臣下にはかった。
臣下は協議して、百人を得度させ、沢山の幡蓋を造り、種々の功徳のある業を行ったと、云々。
十七年春一月、百済の王子である恵(余昌の弟)が帰国を願い出た。
よって多くの武器、良馬のほか、いろいろの物を賜わり、多くの人々がそれを感嘆した。
阿倍臣、佐伯連、播磨直を遣わして、筑紫国の軍船を率い、護衛して国に送り届けさせた。
別に筑紫火君を遣わし、勇士一千を率いて、弥弖(港の名前)に送らせ、航路の要害の地を守らせた。
秋七月六日、蘇我大臣稲目宿禰らを、備前の児島郡に遣わして、屯倉を置かせた。
葛城山田直瑞子を、田令(屯倉経営のために中央から派遣された役人)とした。
冬十月、蘇我大臣稲目宿禰らを倭国の高市郡に遣わして、韓人大身狭の屯倉、高麗人小身狭の屯倉を置かせた。
紀国に海部の屯倉を置いた。
ある本によると、各地の韓人を大身狭屯倉の田部(農民)にし、高麗人を小身狭屯倉の田部にした。
これは韓人、高麗人を田部としたので、それを屯倉の名としたのだという。
十八年春三月一日、百済の王子である余昌は王位を嗣いだ。
これが威徳王である。
任那の滅亡
二十一年秋九月、新羅は弥至己知奈末を遣わして、調を奉った。
饗応され賜物も常よりも多かった。
奈末は喜んで退出し、
「調賦の使者は、国家としても重要に考えているもので、私議とは比べものになりません。貢納には人民の命がかかっているのに、使者に選ばれると見さげられます。王政の弊は多くこれにかかります。願わくば、良家の出の者を使者とし、卑賤の育ちの者を当ててはなりませぬ」
と言った。
二十ニ年、新羅は久礼叱及伐干を遣わして、調賦を奉った。
接待役の礼遇の仕方が、並よりも劣っていたので及伐千は憤り恨んで帰った。
この年また、奴氐大舎を遣わして、また前の調賦を奉った(久礼叱は調賦を献上せずに帰ったか)。
難波の大郡(接待用庁舎)に、諸国の使者を案内する時、接待役の額田部連、葛城直らが新羅を百済の後に置いたため、大舎は腹を立てて帰った。
客舎に入らず、船に乗って穴門(長門)に帰りついた。
このとき、穴門館を修理していた。
大舎が問うて、
「どちらの客のために工事するのか」
と言った。
工事の河内馬飼首押勝が偽って、
「西方の無礼な国を問責する使者が泊る所です」
と言った。
大舎は帰国して、言われたことを告げたので、新羅は城を阿羅波斯山に築いて、 日本に備えた。
二十三年春一月、新羅は任那の官家を打ち滅ぼした。
ある本には、二十一年に任那は滅んだとある。
総括して任那というが、分けると加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国(さんはんげのくに)、乞滄国、稔礼国、合わせて十国である。
夏六月、詔して、
「新羅は西に偏した少し卑しい国である。天に逆らい無道で、我が恩義に背き、官家を潰した。我が人民を傷つけ、国郡を損った。神功皇后は、聡明で天下を周行され、人民をいたわり、よく養われた。新羅が困って頼ってきたのを哀れんで、新羅王の討たれそうになった首を守り、要害の地を授けられ、新羅を並み外れて栄えるよう引き立てられた。神功皇后は新羅に薄い待遇をされたろうか。我が国民も新羅に別に怨があるわけでない。しかるに、新羅は長戟、強弩で任那を攻め、大きな牙、曲った爪で人民を虐げた。肝を割き、足を切り、骨を曝し、屍を焚き、それでも何とも思わなかった。任那は上下共々、完全に料理された。王土の下、王臣として人の粟を食べ、人の水を飲みながら、これを漏れ聞いてどうして悼まないことがあろうか。太子、大臣らは助け合って、血に泣き怨を忍ぶ間柄である。大臣の地位にあれば、その身を苦しめ、苦労するものであり、先の帝の徳をうけて、後の世を継いだら、胆や腸を抜き、滴らせる思いをしても奸逆をこらし、天地の苦痛を鎮め、君父の仇を報いることが出来なかったら、死んでも子としての道を尽せなかったことを恨むことになろう」
と言われた。
この月、ある人が馬飼首歌依を讒言した。
「歌依の妻である逢臣讃岐の鞍の下掛けが変ったところがあり、よくよく見ると皇后の用いられるものである」
と言った。
捕えて刑吏に渡し厳しく尋問した。
馬飼首歌依は、言訳をして誓って言うのに、
「嘘です。もしそれが真実なら、きっと天の災いを被るでしよう」
拷問が厳しくて、ついに地に伏して死んだ。
死後いくばくもなく、たちまち大殿に火災が起きた。
刑吏はその子の守石と名瀬水を捕え、火の中に投げ人れようとして呪詛し、
「我が手が投げ入れるのではない。祝(神職)の手が投げ入れるのだ」
といった。
守石の母は懇願して、
「子供を火中に投げいれたら、天災が起こりましょう。どうか祝人に従わせ、神奴(神社に仕える賤民・奴隷)にして下さい」
と言った。
母の願いにより、許して神奴とした。
秋七月一日、新羅は使者を遣わして調を奉った。
その使者は新羅が任那を滅ぼしたと知っていたので、帝の恩に背いたことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに留まって本土へ帰らなかった。
日本人民同様に扱われ、現在、河内国の更荒郡鵾野邑(大阪府四條畷) の新羅人の先祖である。
伊企儺の妻、大葉子
この月、大将軍・紀男麻呂宿禰を遣わして、兵を率い哆唎から出発させた。
副将の河辺臣瓊缶は居曽山より出発した。
そして、新羅が任那を攻めたときの様子を問責しようとした。
任那に至り、薦集部首登弭を百済に遣わし、戦の計画を打ち合わさせた。
ところが、登弭は妻の家に泊り、機密の封書や弓矢を途中で落した。
それで新羅は戦の計画をつぶさに知った。
急に大軍を動員し、わざと敗北を重ねて降伏したいと乞うた。
紀男麻呂宿禰は、勝って軍を率い、百済の軍営に入った。
軍中に令して、
「勝った時にも負ける時を警戒し、安泰な時も危急に備えるというのは、古の良い教えである。今いるこの場所は、山犬と狼の交っているような恐ろしい所である。軽率に行動して、変事を忘れてはならぬ。平安の時にも武器を身から離さぬ君子の武備を怠ってはならぬ。慎しみ戒めてこの注意を励行せよ」
と言った。
士卒らは皆、服従した。
河辺臣瓊缶は一人前進し、よく戦った。
向かうところ敵なしの有様であった。
新羅は白旗を掲げ、武器を捨てて降伏してきた。
河辺臣瓊缶は軍事のことをよく知らず、同じように白旗を上げて進んだ。
すると新羅の武将は、
「将軍河辺臣は今、降伏した」
と言って、軍を進め鋭く撃破した。
前鋒の被害がたいへん多かった。
倭国造手彦は、もはや救い難いことを知って軍を捨てて逃げた。
新羅の闘将は、手に矛をとって追いかけ、城の堀に追い詰め矛を放った。
手彦は駿馬に鞭打ち、城の堀を飛び越え、やっと身を脱した。
闘将は城の堀の淵に立って、悔しがり臨み嘆いて、
「ああ残念」
と言った。
河辺臣は軍を退却させ、野中に陣営を敷いた。
このとき、兵卒たちは蔑意を表し、従う気持が薄れていた。
闘将は率先して陣中を襲い、河辺臣瓊缶らと、同行の婦女をことごとく生捕りにした。
こうなると親子夫婦でも、庇い合うゆとりもなくなった。
闘将は河辺臣に、
「自分の命と婦とどちらを惜しむか」
といった。
河辺臣は、
「何で一人の婦を惜しんで災いを取ろうか。何といっても命に過ぎるものはない」
と言った。
闘将の妾とすることを許した。
闘将は人目をはばからずその女を犯した。
婦は後に帰ってきた。
河辺臣はそばに行き話しかけようとした。
婦人は恥じ、恨んで応ぜず言った。
「あなたは軽々しくも私を売り渡しました。今、何の面目があってまた逢おうとするのですか」
ついに従わなかった。
この婦人は坂本臣の娘で甘美姫といった。
同じときに捕虜にされた調吉士伊企儺は、人となりが猛烈で最後まで降服しなかった。
新羅の闘将は、刀を抜いて斬ろうとした。
無理に褌を脱がせて、尻を丸出しにし、日本の方へ向けさせて大声で、
「日本の大将、我が尻を喰え」
と言わせようとした。
すると叫んで言った。
「新羅の王、我が尻を喰え」
責めさいなまれても前の如く叫んだ。
そして殺された。
その子の舅子も、また父の屍を抱いて死んだ。
伊企儺の言葉を奪えぬこと、このようであった。
諸将もこれを惜しんだ。
その妻の大葉子も、また捕虜にされていたが、悲しみ歌った。
カラクニノ、キノへニタチテ、オホバコハ、ヒレフラスモ、ヤマトへムキテ。
韓国の城の上に立って大葉子は、領巾(肩にかけた飾りの白布を振るのは惜別の行為)をお振りになる。日本の方へ向って。
ある人がこれに和して歌った。
カラクニノ、キノへニタタシ、オホバコハ、ヒレフラスミユ、ナニハへムキテ。
韓国の城の上に立って大葉子は、領巾を振っておられるのが見える。難波の方へ向いて。
八月、天皇は大将軍・大伴連狭手彦を遣わし、数万の兵をもって高麗を討たせた。
狭手彦は、百済の計を用いて高麗を撃破した。
その王は垣を越えて脱出した。
狭手彦は勝ちに乗じて宮中に入り、珍宝、七織帳、鉄屋を入手して帰った。
ある本によると、鉄屋は高麗の西の高楼の上にあり、織帳は高麗王の内殿に張ってあったという。
狭手彦は七織帳を天皇に奉った。
鎧二領、金飾の大刀二ロ、銅鏤鐘三ロ、五色の旗二竿、美女の媛と従女の吾田子を、蘇我稲目宿禰大臣に送った。
大臣は二人の女を召し入れて、妻として軽の曲殿に住まわせた。
鉄屋は長安寺にありというが、この寺が何処にあるのか知られない。(長安寺は近江国栗田郡多他郎寺是也と扶桑略記にある)
ある本に、十一年に、大伴狭手彦連は、百済国と共に、高麗王の陽香を比津留都に追い退けたとある。
冬十一月、新羅は使者を遣わして、献上品と調とを奉った。
使者は新羅が任那を滅ぼしたことを、帝が憤っておられることを知り、帰国を願わず、処罰を恐れて、本国に戻らなかったので、我が国の人民同様に遇した。
現在、摂津国三島郡の埴廬の新羅人の先祖である。
二十六年夏五月、高麗人の頭霧喇耶陛らが筑紫にやってきて、山背国に配された。
畝原、奈羅、山村の高麗人の先祖である。
二十八年、国々に大水が出て、飢える者多く、人が人を喰うことがあった。
近くの郡の穀物を運んで、救い合うこともした。
三十年春一月一日、詔して、
「田部が設けられてから久しいが、年齢が十歳になっても戸籍に漏れているため、課役を免れる者が多い。胆津(王辰爾の甥)を遣わして、白猪田部の丁者の籍をあらため調べ、確定させよ」
と言われた。
夏四月、胆津は白猪田部の丁者(壮丁)を調べて、詔に従い戸籍を定めた。
これにより田戸(精度の高い戸籍)ができた。
天皇は胆津が戸籍を定めた功を褒めて、姓を賜い白猪史とされた。
田令(屯倉経営の監督者)に任ぜられて、葛城山田直瑞子の副官とされた。
三十一年春三月一日、蘇我大臣稲目宿禰が薨じた。
難船の高麗使人
夏四月二日、天皇は泊瀬柴籬宮にお出でになった。
越の人である江淳臣裾代が京に出て奏上し、
「高麗の使者が暴風雨に苦しみ、迷って港が分らなくなり、漂流の果て海岸に至り着きました。郡司は報告せず隠しておりますので、私がお知らせします」
と言った。
天皇は詔して、
「私が帝位について何年かになるが、高麗人が道に迷い、越の浜に着いたという。漂流に苦しみながらも命は助かった。これは我が政治が広く行き渡り、徳が盛んで恵みある教化が行われ、大きな恩が果てしなく行き渡っていることを示すものでないか。有司は山城国相楽に館を建て、厚く助け養え」
と言われた。
この月、天皇は泊瀬柴籬宮より帰られ、東漢氏直糠児、葛城直難波を遣わして、高麗の使者を呼び迎えさせられた。
五月、膳臣傾子を遣わして、高麗の使人をもてなされた。大使は膳臣が都からの使者であることが分った。道君(地方豪族)に語って、
「汝が天皇ではあるまいと、私の疑った通りである。汝は膳臣に平伏した。だから役人ではないと分った。しかるに吾を偽って調を取り、自分のものとした。速やかに返還せよ。煩しい虚飾を述べるな」
と言った。
膳臣はこれを聞き、その調を探させて返還させ、京に復命した。
秋七月一日、高麗の使者は近江にきた。
この月、許勢臣猿と吉士赤鳩とに命じ、難波津から出発し、船を佐々波山に引き上げさせ、船飾りを付けて、使者を近江の北の山(琵琶湖の北岸)に迎えさせた。
最後は山城の高麗の館に引き入れて、東漢坂上直子麻呂、錦部首大石を遣わして、守護とされた。
また、高麗の使者を相楽の館で饗応された。
三十二年春三月五日、坂田耳子郎君を使者として新羅に遣わし、任那の減んだわけを問わせた。
この月、高麗の貢物や書状を、まだ捧呈できなかった。
数旬遅れて適当な日を待った(天皇が不予のためか)。
夏四月十五日、天皇は病に臥せられた。
皇太子は他に赴いて不在であったので、駅馬を走らせて呼び寄せた。
大殿に引き入れて、その手をとり詔して、
「私は重病である。後のことをお前に委ねる。お前は新羅を討って、任那を封じ建てよ。また、かつての如く両者相和する仲となるならば、死んでも思い残すことはない」
と言われた。
この月、天皇はついに大殿に崩御された。
時に年若干。
五月、河内国の古市に殯した。
秋八月一日、新羅は弔使未叱子失消らを遣わして、殯に哀悼を表した。
この月、未叱子失消らは帰国した。
九月、桧隈坂合陵に葬った。
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