日本書紀・日本語訳「第二十四巻 皇極天皇」

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皇極天皇 天豊財重日足姫天皇

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皇后即位

天豊財重日足姫天皇あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと敏達天皇びだつてんのうの曽孫で、押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこの孫であり、茅淳王ちぬのおおきみの娘である。
母を吉備姫王という。

天皇は古来の道に基づいて政治を行なわれた。
舒明天皇じょめいてんのうの二年、皇后になられた。

十三年十月、舒明天皇は崩御になった。

元年春一月十五日、皇后は天皇に即位された。
蘇我臣蝦夷そがのおみえみしをそれまでどおり大臣おおおみとされた。
大臣の子である人鹿いるかまたの名を鞍作くらつくりが、自ら国政を執り、勢いは父よりも強かった。
このため、盗賊も恐れをなし、道の落し物さえ拾わなかったほどである。

百済と高句麗の政変

二十九日、百済くだらに遣わされた大仁阿曇連比羅夫だいにんあずみのむらじひらぶが、筑紫国ちくしのくにから早馬に乗ってきて申し上げ、
「百済国は天皇が崩御された.ことを聞き、弔使ちょうしを遣わしてきました。私は弔使に従って筑紫まで来ましたが、葬礼に間に合うようにと、先立つて一人参りました。しかもあの国は今、大乱になっています」
と言った。

二月二日、阿曇山背連比羅夫あずみのやましろのむらじひらぶ草壁吉士磐金くさかべのきしいわかね倭漢書直県やまとのあやのふみのあたいあがたを、百済の弔使ちょうしのもとに遣わして、その国の様子を尋ねさせた。
弔使ちょうしは、
百済国王くだらこくおう(義慈王)は私に、『塞上さいじょう義慈王の弟で当時日本にいた)はいつも悪いことをしている。帰国する使いにつけて、帰らせて頂きたいのですがと申し上げても天皇は許されまい』と言いました」
と述べた。

百済くだら弔使ちょうしの従者たちは、
「去年十一月、大佐平智積たいさへいちしゃくが死にました。また、百済の使者が昆倫こんろんの使者を海中に投げ入れました。今年一月、国王の母が亡くなりました。また弟王子だいおうじに当る子の翹岐ぎょうきや同母妹の女子四人、内佐平岐味ないさへいきみ、それに高名の人々四十人あまりが島流しになりました」
と言った。

六日、高麗こまの使者が難波津なにわづに泊った。
二十一日、諸大夫まえつきみたちを難波なにわこおりに遣わして、高麗国こまこくの奉った金銀などと、他の献上物を点検させた。
使者は貢献のことを終わってから、
「去年の六月、弟王子(栄留王の弟)が亡くなり、秋九月、大臣の伊梨柯須弥いりかすみが、大王(栄留王)を殺し、併せて伊梨渠世斯いりこせしら百八十人余を殺しました。弟王子の子(宝蔵王)を王とし、自分の同族の都須流金流つするこんる大臣おおおみとしました」
と言った。

二十二日、高麗こま百済くだらの客を難波なにわこおりで饗応された。
蝦夷大臣えみしのおおおみみことのりして、
津守連大海つもりのむらじおおあま高麗こまに、国勝吉士水鶏くにかつのきしくいなを百済に、草壁吉士真跡くさかべのきしまとを新羅に、坂本吉士長兄さかもとのきしながえ任那みまなに遣わすように」
と言われた。

二十四日、翹岐ぎょうきを呼んで阿曇山背連あずみのやましろのむらじ比羅夫ひらぶ)の家に住まわせた。

二十五日、 高麗と百済の客に饗応された。

二十七日、高麗の使者と百済の使者がともに帰途についた。

三月三日、空に雲がないのに雨が降った。

六日、新羅は天皇即位を祝賀する使者と、先帝の崩御を弔う使者を遣わしてきた。

十五日、新羅の使者は帰途についた。
この月、長雨が続いた。

夏四月八日、大使の翹岐ぎょうきが従者を連れて帝に拝謁した。

十日、蘇我大臣そがのおおおみ畝傍うねびの家に、百済の翹岐らを呼んで親しく対談した。
良馬一匹と鉄(鉄の延べ板)二十鋌を贈った。
ただし、塞上さいじょうだけは呼ばなかった。
この月も長雨があった。

五月五日、河内国かわちのくに依網屯倉よさみのみやけの前に、翹岐ぎょうきらを呼んで騎射を見物させた。

十六日、百済くだらの調使の船と、吉士きしの船が共に難波津なにわづに着いた。

十八日、百済の使者が調を奉った。
吉士は帰朝の報告をした。

二十一日、翹岐ぎょうきの従者の一人が死んだ。

二十二日、翹岐ぎょうきの子どもが死んだ。
このとき翹岐とその妻は、子の死んだことを畏れ忌み、どうしても喪には臨まなかった。
およそ百済と新羅の風俗では、死者があると、父母兄弟夫婦姉妹であっても、自ら見ようとしない。
これを見ると甚だしく慈愛のないことは禽獣と変らない。

二十三日、もう熟成した稲が見られた。
二十四日、翹岐は妻子をつれて、百済の大井の家おおいのいえ河内長野市大井)に移った。
人を遣わして子を石川に葬らせた。

六月十六日、小雨が降った。
この月は大変に日照りが続いた。

秋七月九日、客星まろうどほし常には見えない星)が月に入った。

二十二日、百済くだらの使者、大佐平智積たいさへいちしゃくらに朝廷で饗応された。
そこで力の強い者に命じて、翹岐ぎょうきの前で相撲をとらせた。
智積ちしゃくらは宴会が終って退出し、翹岐の家に行き門前で拝礼した。

二十三日、蘇我臣入鹿そがのおみいるかの従僕が白いすずめの子を手に入れた。
この日の同じ時に、ある人が白雀を籠に入れて蘇我大臣に贈った(祥瑞しょうずい)。

二十五日、群臣こおりおみが語り合って、
「村々の祝部はふりべ神官)の教えに従って、牛馬を殺して諸社の神に祈ったり、あるいは市を別の場所に移したり、また河の神に祈ったりしたが、雨乞いの効き目はなかった」
と語り合うと、蘇我大臣は、
「寺々で大乗経典を転読(ひろい読み)しよう。仏の教えに従い、悔過けか過ちを改めること)して、うやうやしく雨乞いしよう」
と言った。

二十七日、百済大寺の南の広場で、仏菩薩の像と四天王の像とを安置し、多くの僧を招き大雲経だいうんきょう(仏説大雲輪請雨経のこと)などを読ませた。
蘇我大臣そがのおおおみは手に香炉こうろを取り、香を焚いて発願をした。

二十八日、小雨が降った。

二十九日は雨乞いができず、読経を止めた。

八月一日、天皇は南淵みなみぶち明日香村)の川上にお出でになり、跪いて四方を拝し、天を仰いで祈られると、雷鳴がして大雨が降った。
雨は五日間続いて、天下は等しく潤った。
国中の百姓おおみたからは皆喜んで、
「この上もない徳をお持ちの天皇である」
と言った。

六日、百済の使者の参官らが帰途についた。
そこで大船と諸木船もろきぶね(寄木船)の三艘を賜わった。
この日の夜中に、雷が西南の方角に鳴って、風吹き雨が降った。
参官らが乗った船が岸に当って壊れた。

十三日、小徳の位を百済の人質、達率長福たつそくちょうふくに授けられた。
中客なかつまろうと(使節の中の地位)より以下の者に位一級を授けられ、位によってそれぞれに物を賜わった。

十五日、船を百済の参官らに賜わり出航した。

十六日、高麗こまの使者が帰途についた。

二十六日、百済と新羅の使者が帰途についた。

九月三日、天皇は大臣(蝦夷)にみことのりして、
「大寺(百済大寺)を造りたいと思う。近江国と越国の、公用の人夫を集めるように」
と言われた。
また諸国に命じて船舶を建造させた。

十九日、天皇は大臣に、
「今月から十二月までの間に、宮殿(板蓋宮いたぶきのみや)を造りたいと思う。国々に用材を採らせるように。また東は遠江とおとうみまで、西は安芸あきまでの国々から、造営の人夫を集めるように」
と言われた。

二十一日、こしの辺境の蝦夷が数千人帰服した。

異変頻発

冬十月八日、地震があり、雨が降った。

九日、また地震。
この夜は地震と共に風も吹いた。

十二日、蝦夷に朝廷で饗応が行われた。

十五日、蘇我大臣は蝦夷を家に迎えて親しく慰問した。
この日、新羅の弔使の船と、即位祝いの船(舒明帝の薨去と皇極帝即位)が壱岐島いきのしまに着いた。

二十四日、夜中に地震があった。
この月、夏の令を行なったら、雲がないのに雨が降った。

十一月二日、大雨が降り雷が鳴った。

五日、夜中雷が西北の方に鳴り、八日は五回、西北の方で鳴った。
九日、陽気の暖かなこと春のようであった。

十日、雨降り、十一日、暖かなことはまた春のようであった。

十三日、雷が一度北の方角で鳴り、風がおこった。

十六日、天皇は新嘗祭にいなめまつりを行なわれた。
この日、皇子と大臣もそれぞれ自ら新嘗の行事を行なった。

十二月一日、暖かなことは春の日のようであった。

三日、雷が昼に五度鳴り、夜に二度鳴った。

十三日、初めて舒明天皇の喪葬の礼を行なった。
この日、小徳しょうとく巨勢臣徳太こせのおみとこだが、大派皇子おおまたのみこ敏達天皇びだつてんのうの皇子)に代ってしのびごとを読んだ。
次に小徳の粟田臣細目あわたのおみほそめが、軽皇子かるのみこに代ってしのびごとを読んだ。
次に小徳の大伴連馬飼おおとものむらじうまかいが、大臣おおおみに代って誄を、十四日、息長山田公おきながのやまだのきみが歴代の日嗣ひつぎの次第を誄に読んだ。

二十日、雷が三度、東北の方角で鳴った。

九日、雷が二度、東の方角に鳴り、風が吹き雨が降った。

二十一日、舒明天皇を滑谷岡なめはざまのおかに葬った。
この日に天皇は小墾田宮おはりだのみやに移られた。

二十三日、雷が一度鳴った。
その音は裂けるようであった。

三十日、暖かなことは春のようであった。

上宮大娘の怒り

この年、蘇我大臣蝦夷そがのおおおみえみしは、自家の祖廟そびょう葛城かずらきの高倉に建てて、八佾やつらの舞(六十四人の方形の群舞で、天子の行事)をした。
そこで歌を作った。

ヤマトノ、オシノヒロセヲ、ワタラム卜、アヨヒタツクリ、コシツクラフモ。

蘇我氏の本拠の大和葛城やまとかずらきの、忍海おしみの曽我川の広瀬を渡ろうと、足の紐を結び、腰帯をしめ身づくろいすることだ。

また国中の百八十にあまる部曲かきのたみ(豪族の私有民)を召使って、双墓ならびのはか瓢形古墳:大小二つの円墳を連接したもの)を生前に、今来いまき京都)に造った。

一つを大陵おおみささぎといい、蝦夷の墓。
一つを小陵こみささぎといい、入鹿いるかの墓とした。
死後を他人の勝手に任せず、さらに太子の養育料として定められた部民を、すべて集めて墓の工事に使った。
このため、上宫大娘姫王かみつみやのいらつめのみこ(聖徳太子の娘)は、憤慨されなげいて言われた。
「蘇我臣は国政をほしいままにして、無礼の行ないが多い。天に二日ふたつのひ無く、地に二王ふたりのきみは無い。何の理由で皇子の封民を思うままに使えたものか」

こうしたことから恨みを買って、二人は後に滅ぼされる。
この年、太歳壬寅たいさいみずのえとら

二年春一月一日朝、五色の大きな雲が天にいっぱい拡がり、とらの方角(東北東)が欠けていた。
また、一色の青い霧が地面いっぱいに湧き上った(五色の雲は祥瑞、青い霧は凶兆)。
十日、大風が吹いた。

二月二十日、桃の花が初めて咲いた。

二十五日、ひょうが降って草木の花や葉を枯らした。

この月に風が吹き雷が鳴りみぞれが降った。
冬の令を行なった。
国内の巫女らはさかきなどの枝を折りとって木綿(白い繊維)をかけ、蝦夷大臣えみしのおおおみ祖廟そびょうもうでる橋を渡る時をうかがい、競って神霊の言葉を述べた。
その声があまり大ぜいだったので全く聞き分けることができなかった。

三月十三日、難波なにわ百済くだらの客のための館と民家が火災で焼けた。

二十五日、 降霜のため草木の花葉が枯れた。
この月、風が吹き、雷が鳴り、みぞれが降った。
冬の季節の令を行なった。

夏四月七日、大いに風が吹き雨が降った。

八日、風が起こり寒い天気であった。

二十日、西風が吹き雹が降った。
寒い天気で人は綿入れを重ね着した。

二十一日、筑紫の太宰府から早馬で伝えて、
百済国王くだらこくおうの子、翹岐弟王子ぎょうきだいおうじが、調使と共に到着しました」
と言った。

二十八日、仮りの宮殿から移って、飛鳥の板蓋いたぶき新宫にいみやにお越しになった。

二十五日、近江国おうみのくにから、
ひょうが降ってその大きさは直径一寸もありました」
と報告してきた。

五月十六日、月蝕げっしょくがあった。

六月十三日、筑紫太宰府ちくしだざいふから早馬で、
高麗こまが使者を送ってきました」
と伝え、群卿まえつきみは語り合って、
「高麗は舒明天皇の十一年から来朝しないのに、今頃やってきた」
と言った。

二十三日、百済くだらの朝貢船が難波津なにわづに着いた。

秋七月三日、大夫まえつきみ達を難波なにわこおりに遣わして、百済国の調と献上物を点検させた。
大夫まえつきみ等は調使に
「調物は従来の例より少ない。大臣おおおみへの進物も去年返した品物と同じである。群卿まえつきみへの品物もなく、皆、前例に合わない。これは何事か」
と問いつめると、大使おおつかい達率自斯たつとしじし副使そえつかい恩率軍善おんさつぐんぜんが共に答えて、
「早速に用意いたします」
と言った。
自斯じしは人質の達率武子たつそつむしの子である。

この月、茨田池まんだのいけの水が酷く腐って、小さい虫が水面を覆った。
その虫はロが黒く体は白かった。

八月十五日、茨田池まんだのいけの水が変って、あいの汁のような色になった。
死んだ虫が水の表面を覆った。
水路の水は凝り固まり、厚さ三、四寸ぱかりで、大小の魚の腐った様子は、夏の時期に腐れ死んだのと同じようで、食用とはならなかった。

九月六日、舒明天皇じょめいてんのう押坂陵おしさかのみささぎに移葬した。

ある本には、舒明天皇を呼んで高市天皇たけちのみこと申し上げたとある。

十一日、吉備島皇祖母命きびのしまのすめおやのみこと(皇極天皇の母)が薨去こうきょされた。

十七日、土師娑婆連射手(はじのさばのむらじいてみことのりして、皇祖母命すめみおやのみことの喪葬の儀を執り行わせた。
天皇は皇祖母命が病臥されてから、喪を発するに至るまで床のそばを離れず、看病にお努めになった。

十九日、皇祖母命を檀弓岡まゆみのおか明日香村)に葬った。
この日、大雨が降ってひょうになった。

三十日、皇祖母命の墓を造る労役が終った。
おみむらじ伴造とものみやつこのそれぞれに応じて帛布ふはくを賜わった。

この月、茨田池まんだのいけの水はようやく白い色になって、臭い匂いもしなくなった。

冬十月三日、群臣こおりおみ伴造とものみやつこに朝廷の庭で饗応された。
そして叙位のことを譲られた。
国司くにのつかさみことのりして、
「以前に詔したように、改めて変ることなく、任命されたところに赴任して、その勤めを慎んで行なうように」
と告げられた。

六日、蘇我大臣蝦夷そがのおおおみえみしは病のため登朝しなかった。
密かに紫冠を子の人鹿いるかに授けて大臣の位になぞらえた。
また、その弟を呼んで物部大臣もののべのおおおみといった。
大臣おおおみの祖母(馬子の妻)は物部弓削大連もののべのゆげのおおむらじ守屋もりや)の妹である。
母方の財力によって、世に勢威を張ったのである。

十二日、蘇我臣入鹿そがのおみいるかは独断で上宮かみつみや聖徳太子しょうとくたいし)の王たち(山背大兄王やましろのおおえのおおきみ)を廃して、古人大兄ふるひとのおおえ(舒明天皇の皇子で、母は蘇我馬子の娘)を天皇にしようと企てた。
その頃に童謡わざうたが流行った。

イハノへニ、コサルコメヤク、コメダニモ、タゲテトホラセ、カマシシノヲヂ。

岩の上で小猿が米を焼く。米だけでも食べていらっしゃい、山羊かもしかのおじいさんよ。
(かもしかのおじいさんに山背皇子をなぞらえたものらしい)
蘇我臣入鹿は、上宮の王たちの威名が天下に上ることを忌んで、臣下の分を越え勝手に自分を君主になぞらえることを図った。

この月、茨田まんだの水は澄んで元に戻った。

入鹿、斑鳩急襲

十一月一日、蘇我入鹿そがのいるかは、小徳しょうとく巨勢徳太臣こせのとこだのおみ大仁だいにん土師娑婆連はじのさばのむらじを遣わして、山背大兄王やましろのおおえのみこらを不意に斑鳩いかるがに襲わせた。

ある本には巨勢徳太臣こせのとこだのおみ倭馬飼首やまとのうまかいのおびとを軍の将軍としたとある。

このとき、やっこ三成みなりは数十人の側近者と防ぎ戦った。
土師娑婆連はじのさばのむらじは矢に当って死んだ。
軍勢は恐れて退いた。
軍の中の人々は語り合って、
「一人当千というのは、三成みなりのような者をいうのであろうか」
と言った。

山背大兄やましろのおおえは馬の骨を取って寝殿しんでんに投げ入れた。
そして妃や子弟らを連れて、隙を見て逃げ出し、生駒山いこまやまに隠れた。
三輪文屋君みわのふみやのきみ舍人田目連とねりのためのむらじとその娘の菟田諸石うだのもろし伊勢阿部堅経いせのあべのかたぶらが従った。
巨勢徳太臣こせのとこだのおみらは斑鳩宮いかるがのみやを焼き、灰の中に骨を見て、王は死んだものと思い、囲みを解いて退去した。
こうして山背大兄らは四、五日の間、山に留まって食べる物もなかった。
三輪文屋君みわのふみやのきみは進み出て、
「どうか深草の屯倉ふかくさのみやけに行って、ここから馬に乗り東国に赴き、上宮かみつみやの乳部の民をもとに、軍を興し引き返して戦いましょう。そうすれば勝つことも難しくはないでしょう」
とお勧めした。
大兄王は答えて、
「おまえの言うようにしたら勝てるだろう。しかし、私は十年間、人民を労役に使うまいと心に決めている。私の一身上のことが元で、どうして万民に苦労をかけることができようか。また、人民が私についたために、戦いで自分の父母をなくしたと、後世の人に言われたくない。戦って勝ったからといって丈夫と言えようか。己が身を捨てて国を固められたら、また丈夫と言えるのではなかろうか」
と言われた。

上宮の王らをはるかに山中に見た人があった。
帰って入鹿臣いるかのおみに伝えた。
入鹿は聞いて大いに恐れた。
早速、軍隊を興し、王の在りかを高向臣国押たかむくのくにおしに告げて、
「速やかに山に行ってかの王を探し捕えよ」
と言った。
国押くにおしは答えて、
「私は天皇の宮をお守りすべきですから、外には出られません」
と言った。
入鹿は自分で出かけようとした。
そのとき、古人大兄皇子が、息せききってこられ、
「どこへ行くのか」
と問われた。
人鹿はつぶさにわけを説いた。
古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこは言われた。
「鼠は穴に隠れて生きているが、穴を失ったら死なねばならぬ」
入鹿いるかを鼠に例え、もし本拠を離れたらどんな難にあうかも知れないとの意か

人鹿いるかはこのため行くことを止めた。
将軍たちを送って生駒山いこまやまを探させた。
ついに見出すことができなかった。
山背大兄やましろのおおえらは山から出て、再び斑鳩寺いかるがでらへ入られた。
兵らは寺を囲んだ。

山背大兄王やましろのおおえのおおきみ三輪文屋君みわのふみやのきみを通じて、将軍らに告げさせ、
「私がもし軍を興して入鹿いるかを討てば、勝つことは間違いない。しかし自分一身のために、人民を死傷させることを欲しない。だから我が身一つを入鹿にくれてやろう」
と言われた。
ついに子弟妃妾うからみめと諸共に自決して亡くなられた。
おりから大空に五色のはた絹笠きぬがさが現われ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった。

仰ぎみた多くの人々がなげき、人鹿いるかに指し示した。
するとそのはた絹笠きぬがさは、黒い雲に変った。
それで入鹿は見ることもできなかった。

蘇我大臣蝦夷そがのおおおみえみしは、山背大兄王らが全て入鹿に殺されたと聞いて、怒り罵って、
「ああ、入鹿の大馬鹿者め。悪逆をもっぱらにして、お前の命は危いものだ」
と言った。
当時の人は先の童謡わざうたを解釈して、
「『岩の上に』というのは上宮太子に例えて、『小猿』というのは、入鹿を例えたのだ。『米焼く』というのは、上宮かみつみやを焼くことを例え、『米だにも食げて通らせ山羊のおじ』というのは、山背王の頭髪が白髪まじりに乱れて山羊に似ているのに例え、またその宮を捨てて、深い山にお隠れになることを表したものだ」
と言った。

この年、百済の太子の余豊よほうが、蜜蜂の巣四枚をもって、三輪山みわやまに放ち飼いにしたが、うまく繁殖しなかった。

中大兄皇子と中臣鎌子

三年春一月一日、中臣鎌子連なかとみのかまこむらじ神祇伯じんぎはくに任ぜられたが、再三辞退してお受けしなかった。
病と称して退去し、摂津三島せっつみしまに住んだ。
この頃、軽皇子かるのみこも脚の病で参朝されなかった。
中臣鎌足なかとものかまたりは以前から軽皇子かるのみこと親しかった。
それでその宮に参上して侍宿をしようとした。

軽皇子かるのみこ鎌子連かまこのむらじの資性が高潔で、容姿に犯しがたい気品のあることを知って、もと寵妃の阿倍氏あべのうじの 娘に命じて、別殿を祓い清めさせ、寝具を新たにして懇切に給仕させ丁重におもてなしになった。
中臣鎌子連なかとみのかまこむらじは知遇に感激して舎人とねりに語り、
「このような恩沢を賜わることは思いもかけぬことである。皇子が天下の王と御成になることを、誰も阻む者はないだろう」
と言った。

舍人とねりは語られたことを皇子に申し上げた。
皇子は大いに喜ばれた。
中臣鎌子連なかとみのかまこむらじは人となりが忠正で、世を正し救おうという心があった。
それで蘇我入鹿そがのいるか君臣長幼くんしんちょうようの序をわきまえず、 国家を掠めようとする企てを抱いていることを憤り、次々と王家の人々に接触して、企てを成し遂げ得る明主を求めた。
そして心を中大兄なかのおおえに寄せたが、離れていて近づき難く、自分の心底を打ち明けることができなかった。
たまたま、中大兄なかのおおえ法興寺ほうこうじの槻の木の下で、 蹴鞠けまりの催しをされたときの仲間に加わって、中大兄の皮鞋みくつが、蹴られたまりと一緒に脱げ落ちたのを拾って、両手に捧げ進み、跪いて恭しく奉った。
中大兄なかのおおえもこれに対して跪き、恭しく受け取られた。
これから親しみ合われ、一緒に心中を明かし合って隠すところがなかった。
後、他の人が二人の付き合いの盛んであるのを疑うことを恐れて、共に書物を持って、南淵請安みなみぶちのしょうあんの所に、自ら儒教じゅきょうを学ぶことにした。
往復の路上で肩を並べて密かに図った。
二人の考えはことごとく一致した。

中臣鎌子連なかとみのかまこむらじが、
「大事を謀るには助力者があるのがよろしい。蘇我倉山田麻呂そがのくらのやまだのまろの長女を召して妃とし、婿むこしゅうとの関係を結んで、後で事情を明かして共に事を計りましょう。成功の道にこれより近いものはありません」
と考えを述べた。
中大兄なかのおおえはこれを聞いて大いに喜ばれ、詳しく説くところに従われた。
中臣鎌子連なかとみのかまこむらじ倉山田麻呂くらやまだのまろのもとに自ら赴いて仲人の役をまとめ終った。
ところが、その長女は契りのできた夜、一族の者に盗まれた。
(一族の者は身狭臣むさのおみといった)
このため倉山田臣は憂え恐縮し、うなだれてなすべきことを知らなかった。
次女が父の顔色を怪しんで尋ね、
「何を憂えていらっしゃるのですか」
と言った。
父はわけを話した。
次女は、
「御心配なさらないで下さい。私を身代りに進めて頂いても間に合うではありませんか」
と言った。
父はたいへん喜んで、その女を奉った。少女は真心を尽くして皇子に仕え、少しもそれをいとわなかった。中臣鎌子連なかとみのかまこむらじ佐伯連子麻呂さえきのむらじこまろ葛城稚犬養連網田かずらきのわかいぬかいのむらじあみた中大兄なかのおおえに勧めて、しかじかと述べた。

謡歌の流行

三月、フクロウが豊浦大臣とゆらのおおおみ蝦夷えみし)の大津おおつ大阪府泉大津)の家の倉で子を産んだ。
倭国やまとのくにから報告があった。
「この頃、菟田郡うだのこおりの人、押坂直おしさかのあたいが一人の子供を連れて雪の上に遊びに出かけ、菟田山うだやまに上って、紫の茸が雪から抜け出て生えているのを見つけました。高さは六寸余りで、四町ばかりにいっぱいに生えていました。子供に採らせて、帰って隣の家人に見せました。皆、『知らない』と言いました。そして毒茸ではないかと疑いました。押坂直と子供はこれを煮て食べてみると、大層香ばしい味がしました。翌日行ってみたら、もはや一本もありませんでした。押坂直と子供は茸の吸物を食べたため、病気もせず長生きしました」

ある人が言った。
「きっと土地の人は芝草しそう(現在の霊芝れいし)ということを知らないで、みだりに茸といったのではないか」

夏六月一日、大伴馬飼連おおとものうまかいのむらじ百合ゆりの花を奉った。
その茎の長さは八尺、その本の方は別なのに、先の方は一つになっていた。

三日、志紀上郡しきのかみのこおり天理市)から、
「ある人が三輪山みわやまで、猿の昼寝しているのを見て、その身をそこなわないように、そっとその腕を捕らえたところ、猿は眠りながら歌って、

ムカツヲニ、タテルセラガ、ニコデコソ、ワガテヲトラメ、タガサキテ、サキテゾモヤ、ワガテトラスモヤ。

向うの山に立っている男の人の、柔らかい手こそ、私の手を取っていいけれど、誰がこんなひどいひび割れした手で、私の手を取るのでしょう。
(入鹿の荒々しい手が、山背大兄を捕えたことの風刺)

と言ったので、その人は猿の歌に驚き怪しんで、手を放して逃げ帰った」
と知らせてきた。

これは数年後、上宮王かみつみやのみこらが、蘇我人鹿そがのいるかのために、生駒山いこまやまに包囲されることの前兆だった。

六日、剣池つるぎのいけはすの中に、一本の茎に二つの花房をつけたものが見つかった。
豊浦大臣とゆらのおおおみ蝦夷えみし) は勝手に推量して、
「これは蘇我氏が栄える前兆である」
と言った。
金泥きんでんでその絵を書いて、 飛鳥法興寺あすかほうこうじの丈六の仏に供えた。

この月、国内の巫女たちが、木の枝葉を折りとって木綿をかけ、大臣おおおみが橋を渡る時をうかがい、競って神がかったお告げの言葉を述べた。
その巫女が非常に多かったので、よく聞き分けられなかった。
老人たちは、
「時勢が変ろうとする前兆だ」
と言った。
この頃、謡歌わざうたが三首流行った。
その第一は、

ハロバロニ、コトゾキコユル、シマノヤブハラ。

かすかに話し声が聞こえてくる、島の藪原やぶはらで。

その第二は、

ヲチカタノ、アサヌノキギシ、卜ヨモサズ、ワレハネシカド、ヒトゾトヨモス。

遠方の浅野のきぎしは声を立てて鳴く。私は声は立てないでこっそり寝たのに、人が見つけてやかましく騒ぎ立てる。

その第三は、

ヲバヤシニ、ワレヲヒキイレテ、セシヒトノ、オモテモシラズ、イへモシラズモ。

林の中に私を誘いこんで、犯した人の顔も知らない。家も知らない。

秦河勝と常世の神

秋七月、東国の富士川のほとりの人、大生部多おおふべのおおが、虫祭りをすることを勧めて言うのに、
「これは常世の神である。この神を祭る人は、富と長寿が得られる」
と言った。
巫女たちも偽って神のお告げだと言って、
「常世の神を祭ると、貧しい人は富を得、老人は若返る」
と言った。

このためいよいよ広がって、人々に家の財宝を投げ出させ、酒を並べ野菜や六種の家畜(馬、牛、羊、豚、犬、鶏)を路ばたに並べ、
「新しい富が入ってきたぞ」
と連呼させた。
都でも田舎でも常世の虫を採って安置し、歌い舞って福を求め、財宝を投げ出したが、何の益もなく、損ばかりが極めて多かった。

葛野かずの秦造河勝はたのみやつこかわかつは、民の惑わされるのを憎んで、大生部多おおふべのおおを打ち懲らした。
その巫女らも恐れて、祭りを勧めることを辞めた。
当時の人は歌を作って言った。

ウヅマサハ、力ミ卜モカミト、キコエクル、トコヨノカミヲ、ウチキタマスモ。

太秦うずまさ河勝かわかつ)は神の中でも神という評判が聞こえてくる。常世の神と言いふらした者を、打ち懲らしたのだから。

この虫というのは常にたちばなの木に生じ、あるいは山椒さんしょうの木にもつく。
長さは四寸あまり、その大きさは親指ほど、色は緑で黒い斑がある。
その形はたいへんかいこに似ていた。

冬十一月、蘇我大臣蝦夷そがのおおおみえみしと子の入鹿いるかは、家を甘橿岡うまかしのおかに並べて建てた。
大臣おおおみの家を上の宮門うえのみかどと呼び、人鹿いるかの家を谷の宮門はざまのみかどと言った。
男女の子たちを王子といった。
家の外に砦の栅を囲い、門の脇に武器庫を設けた。
家ごとに用水桶を配置し、木の先に鈎を付けたもの数十を置き、火災に備えた。
力のある者に武器を持たせ、常に家を守らせた。
大臣は長直に命じて、大丹穂山おおにほのやま样削寺ほこぬきのてらを建てさせた。
また、家を畝傍山うねびやまの東に建て、池を掘って砦とし、武器庫を建てて矢を貯えた。
常に五十人の兵士を率いて護衛させ、家を出入りした。
これらを力人ちからびととして東方の従者あずまのしとべと言った。
諸氏の人達がその門に侍り、これらを名づけて祖子孺者おやのこわらわと言った。
漢直あやのあたいらは、専ら両家の宫門みかどを警護した。

四年春一月、岡の峯おかのみね続き、あるいは河辺かわべ、あるいは宮寺みやでらの間に、遥かに見えるものがあり、猿のうめくような音を聞いた。
ある時は十ばかり、ある時は二十ばかり、行って見ると、物は見えなくて、なお鳴きうそぶく音が聞こえた。
しかしその姿を見ることは出来なかった。

古い本に、この年、京を難波なにわに移し、板蓋宫いたぶきのみやが廃墟となる兆しであるとした。

人々は、
「これは伊勢の大神のお使いである」
と言った。

夏四月一日、高麗こまに遣わされた学問僧らが、
「同学の鞍作得志くらつくりのとくしは、虎を自分の友としてその化身の術を学びとりました。あるいは、枯山を変えて青山とし、あるいは黄土を変えて白い水にするなど、種々の奇術を尽して極まることがありません。また、虎が得志とくしに針を授けて、『夢々人に知られてはならぬ。これを使えば治らぬ病は無い』と言った。果して言う通りで治らぬことはなかった。得志とくしは常にその針を柱の中に隠していた。後に、虎がその柱を折って針を取って逃げた。高麗国こまこくでは得志とくしが帰国したいと思っていることを知って、毒を食べさせて殺してしまいました」
と報告した。

蘇我蝦夷、入鹿の滅亡

六月八日、中大兄なかのおおえは密かに倉山田麻呂臣くらのやまだのまろのおみに語って、
「三韓の調を貢る日に、お前にその上表文を読む役をして欲しい」
と言い、ついに人鹿を斬ろうという謀を述べた。
麻呂臣まろのおみは承諾した。

十二日、天皇は大極殿にお出ましになった。
古人大兄ふるひとのおおえがそばに侍した。
中臣鎌子連なかとみのかまこむらじは、蘇我入鹿臣そがのいるかのおみの人となりが疑い深くて、昼夜、剣を帯びていることを知っていたので、俳優わざひと滑稽な仕ぐさで歌舞などする人)に教えて騙し、剣を解かせた。
入鹿いるかは笑って剣を解き、中に入って座についた。

倉山田麻呂臣くらのやまだのまろのおみは御座の前に進んで、三韓の上表文を読み上げた(多分に作為の加わった文であろうと推察されている)。
中大兄は衛門府えもんふ守衛)に命じて、一斉に十二の通門をさし固め、通らせないようにした。
衛門府の兵を一ヶ所に召集し、禄物を授けようとした。

そして中大兄は、自ら長槍を取って大極殿の脇に隠れた。
中臣鎌子連なかとみのかまこむらじらは弓矢を持って護衛した。
海犬養連勝麻呂あまのいぬかいのむらじかつまろに命じ、箱の中から二本の剣を、佐伯連子麻呂さえきのむらじこまろ葛城稚犬養連網田かずらきのわかいぬかいのむらじあみたに授けさせ、
「ぬからず、素早く斬れ」
と言った。
子麻呂こまろらは水をかけて飯を流しこんだ。
しかし、恐怖のため喉を通らず戻してしまった。
中臣連鎌子なかとみのむらじかまこはこれを責め励ました。

倉山田麻呂くらのやまだのまろのおみが上表文を読み終ろうとするが、子麻呂こまろらが出て来ないのが恐しく、全身に汗が吹き出して、声も乱れ手も震えた。
鞍作臣くらつくりのおみ(入鹿)は怪しんで、
「何故震えているのか」
と咎めた。
山田麻呂やまだのまろは、
「天皇におそば近いので恐れ多くて汗が流れて」
と言った。

中大兄なかのおおえ子麻呂こまろらが入鹿いるかの威勢に恐れたじろいでいるのを見て、
「やあ」
と掛け声もろとも子麻呂らとともに躍り出し、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。
入鹿は驚いて座を立とうとした。
子麻呂が剣をふるって片方の脚に斬りつけた。
人鹿は御座の下に転落し、頭をふって、
日嗣ひつぎの位にお出でになるのは天子である。私にいったい何の罪があるのか、そのわけを言え」
と言った。

天皇は大いに驚き、中大兄なかのおおえに、
「これはいったい何事が起こったのか」
と言われた。
中大兄は 平伏して奏上し、
鞍作くらつくり(入鹿)は王子たちを全て滅ぼして、帝位を傾けようとしています。 鞍作をもって天子に代えられましょうか」
と言った。

天皇は立って殿舍の中に入られた。

佐伯連子麻呂さえきのむろじこまろ稚犬養連網田わかいぬかいのあみた入鹿臣いるかのおみを斬った。

この日雨、が降って庭には溢れ流れる水がいっぱいになった。
蓆蔀むしろしとみで、鞍作くらつくりの屍を覆った。
古人大兄ふるひとのおおえは私宅に走り入って人々に、
韓人からひと鞍作臣くらつくりのおみを殺した。我も心痛む」
と言い、寝所に入ってとざして出ようとしなかった。

中大兄なかのおおえ法興寺ほうこうじに入られ、砦として備えられた。
諸の皇子、諸王、諸卿大夫まえつきみおみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこなど、皆がお供についた。
人を遣わし鞍作くらつくりの屍を蝦夷大臣えみしのおおおみに賜わった。

漢直あやのあたいらは族党を総集し、甲を付け武器を持って、蝦夷えみしを助けていくさをしようとした。
中大兄なかのおおえは将軍の巨勢徳陀臣こせのとこだのおみを遣わして、天地開闢てんちかいびゃく以来、君臣の区別が始めからあることを説いて、進むべき道を知らしめられた。
高向臣国押たかむこのおみくにおし漢直あやのあたいに語って、
「我らは君大郎きみたいろう(人鹿)の罪によって殺されるだろう。蝦夷大臣えみしのおおおみも今日明日すぐにでも殺されることは決まっている。ならば、誰のために空しく戦って皆が処刑されるのか」
と言い終って剣を外し、弓を折って捨て去った。
他の賊徒もまた見ならって散り逃げた。

十三日、蘇我臣蝦夷そがのおみえみしらは殺される前に、全ての天皇記、国記、珍宝を焼いた。
船史恵尺ふねのふびとえさかはそのとき、素早く焼かれる国記を取り出して中大兄なかのおおえに奉った。
この日、蝦夷と入鹿の屍を墓に葬ることを許した。
また、泣いて死者に仕える者を認められた。

ここである人が、第一の謡歌を説明して言う。
「その歌に、『ハロバロニ、コトゾキコユル、シマノヤブハラ(はろばろと、言が聞える島の藪原)』と言ったのは、宮殿を嶋大臣しまのおおおみ馬子うまこ)の家の近くに建てて、中大兄なかのおおえ中臣鎌子連なかとみのかまこむらじと密かに大義を図り、入鹿いるかを殺そうと考えられた兆しである」
と言った。
第二の謡歌わざうたを説明して、
「その歌に『ヲチカタノ、アサヌノキギシ、トヨモサズ、ワレハネシカド、ヒ卜ゾ卜ヨモス(彼方の浅野の雉子きぎしが騒ぎ、私は静かに寝たが人が騷ぐ)』というのは、上宮かみつみやの王たちが人となりが穏やかで、罪無くして人鹿のために殺されなさった。自ら報復されなくても、天が人をして誅される兆しであったのだ」
と言った。
「その歌に『ヲバヤシニ、ワレヲヒキイレテ、セシヒ卜ノ、オモテモシラズ、イへモシラズモ(小林に我を引き入れて、犯した人の顔も家も知らない)』というのは、入鹿臣いるかのおみがにわかに宮中で、佐伯連子麻呂さえきのむろじこまろ稚犬養連網田わかいぬかいのむらじあみたに殺される前兆だった」
と言った。

十四日、皇極帝こうぎょくていは位を軽皇子かるのみこに譲られ、中大兄なかのおおえを立てて皇太子とされた。

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