綏靖天皇
神沼河耳命は、葛城の高岡宮で天下を治めた。
磯城県主の祖先である川俣毘売を妻としてお生みになった御子が、師木津日子玉手命である。
天皇の年齢は四十五歳。
御陵は衝田岡にある。
安寧天皇
師木津日子玉手命は、片塩の浮穴宮で天下をお治めた。
川俣毘売の兄の県主波延の娘である阿久斗比売を妻としてお生みになった御子が、常根津日子伊呂泥命、
次に大倭日子鉏友命、
次に師木津日子命である。
この天皇の御子たち合わせて三柱の中で、大倭日子鉏友は、天下を治めた。
師木津日子の子は二人いる。
その中の一人の子は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖先である。
もう一人の子の和知都美命は、淡路の御伊宮に行った。
そしてこの御子には二人の娘があった。
姉の名は蝿伊呂泥で、またの名は意富夜麻登久邇阿礼比売命という。
妹の名は蝿伊呂杼である。
天皇の年齢は四十九歳。
御陵は畝傍山の美富登にある。
懿徳天皇
大倭日子鉏友命は、軽の境岡宮で天下を治めた。
師木県主の祖先の賦登麻和訶比売命、またの名は飯日比売命を妻としてお生みになった御子が、御真津日子訶恵志泥命、
次に多芸志比古命の二柱である。
そして御真津日子訶恵志泥は、天下を治めた。
次に多芸志比古は、血沼之別、多遅麻の竹別、葦井の祖先である。
天皇の年齢は四十五歳。
御陵は畝傍山の真名子谷の近くにある。
孝昭天皇
御真津日子訶恵志泥命は、葛城の掖上宮で天下を治めた。
尾張連の祖先の奥津余曾の妹である余曾多本毘売命を妻としてお生みになった御子は、天押帯日子命、
次に大倭帯日子国押人命の二柱である。
弟の帯日子国押人は、天下を治めた。
兄の天押帯日子は、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壱比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟耶臣、都怒山臣、伊勢の飯高君、壱師君、近淡海国造の祖先である。
天皇の年齢は九十三歳。
御陵は掖上の博多山のほとりにある。
孝安天皇
大倭帯日子国押人命は、葛城の室の秋津島宮で天下を治めた。
姪である忍鹿比売命を妻としてお生みになった御子は、大吉備諸進命、次に大倭根子日子賦斗邇命の二柱である。
大倭根子日子賦斗邇が、天下を治めた。
天皇の御年は百二十三歳。
御陵は玉手岡の上にある。
孝霊天皇
大倭根子日子賦斗邇命は、黒田の廬戸宮で天下を治めた。
十市県主の祖先の大目の娘である細比売を妻として、お生みになった御子は、大倭根子日子国玖琉命である。
また春日の千千速真若比売を妻としてお生みになった御子は、千千速比売である。
さらに、意富夜麻登玖邇阿礼比売命を妻としてお生みになった御子は、夜麻登母々曾毘売命、
次に日子刺肩別命、
次に比子伊佐勢理毘古命、またの名は大吉備津日子命、
次に倭飛羽矢若屋比売の四柱である。
また阿礼比売命の妹の蝿伊呂杼を妻としてお生みになった御子は、日子寤間命、次に若日子建吉備津日子命の二柱である。
この天皇の御子たちは合わせて八柱で、皇子五柱、皇女三柱である。
そして大倭根子日子国玖琉が天下を治めた。
大吉備津日子と若建吉備津日子とは、二柱とも播磨の氷河の埼に斎瓮をすえて神を祭り、播磨国を入口として、吉備国を平定した。
そしてこの大吉備津日子は、吉備の上道臣の祖先である。
次に若日子建吉備津日子は、吉備の下道臣、笠臣の祖先である。
次に日子寤間は、播磨の牛鹿臣の祖先である。
次に日子刺肩別は、越国の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、角鹿済直の祖先である。
天皇の御年は百六歳。
御陵は片岡の馬坂の上にある。
孝元天皇
大倭根子日子国玖琉は、軽の堺原宮で天下を治めた。
穂積臣らの祖先である内色許男命の妹である内色許売命を妻としてお生みになった御子は、
大毘古、
次に少名日子建猪心命、
次に若倭根子日子大毘々命の三柱である。
また内色許男の娘である伊迦賀色許売命を妻として、お生みになった御子は、比古布都押之信命である。
また河内の青玉の娘である波邇夜須毘売を妻として、お生みになった御子は、建波邇夜須毘古命である。
この天皇の御子たちは、合わせて五柱である。
そのうち、若倭根子日子大毘々は、天下を治めた。
その兄の大毘古の子である建沼河別命は、阿倍臣らの祖先である。
次に比古伊那許士別命、これは膳臣祖先である。
比古布都押之信が、尾張連らの祖先である意富那毘の妹の葛城の高千那毘売を妻として生んだ子は、味師内宿禰で、これは山城の内臣の祖先である。
また紀伊国造の祖先の宇豆比古の妹の山下影日売を妻として生んだ子は、建内宿禰である。
この建内宿禰の子は、合わせて九人である。男七人、女二人。
その中の波多八代宿禰は、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖先である。
次に許勢小柄宿禰は、許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖先である。
次に蘇賀石河宿禰は、蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣らの祖先である。
次に平群都久宿禰は、平群臣、佐和良臣、馬御杙連らの祖先である。
次に木角宿禰は、木臣、都奴臣、坂本臣の祖先である。
次に久米能摩伊刀比売、
次に怒能伊呂比売である。
次に葛城の長江の曾都毘古は、玉手臣、的臣、生江臣、阿芸那臣等の祖先である。
また若子宿禰は、江野間臣の祖先である。
この天皇の御年は五十七歳。
御陵は剣池の中の岡の上にある。
開化天皇
若倭根子日子大毘々命は、春日の伊耶河宮で天下を治めた。
丹波の大県主の由碁理の娘である竹野比売を妻として、お生みになった御子は比古由牟須美命である。
また、庶母の伊迦賀色許売を妻としてお生みになった御子は、御真木入日子印恵命と、御真津比売命との二柱である。
また丸邇臣の祖先である日子国意祁都命の妹の意祁都比売命を妻として、お生みになった御子は、日子坐王である。
また葛城の垂見宿禰の娘の鸇比売を妻として、お生みになった御子は、建豊波豆羅和気である。
この天皇の御子たちは、合わせて五柱である。皇子四柱、皇女一柱。
そして御真木入日子印恵は、天下を治めた。
その兄の比古由牟須美の子は、大筒木垂根王、
次に讃岐垂根王の二柱である。
この二柱の娘は五柱おられた。
次に日子坐が、山代の荏名津比売、またの名は苅幡戸弁を妻として生んだ子は、大俣王、
次に小俣王、
次に志夫美宿禰王の三柱である。
また春日の建国勝戸売の娘、大闇見戸売を妻として生んだ子は、沙本毘古王、
次に袁耶本王、
次に沙本毘売命、またの名は佐波遅比売、
次に室毘古王の四柱である。
この沙本毘売は伊久米天皇の皇后となった。
また近江の御七の祝の人が清め祭っている天之御影神の娘である息長水依比売を妻として生んだ子は、丹波比古多々須美知能宇斯王、
次に水穂之真若王、
次に神大根王、またの名は八瓜入日子王、
次に水穂五百依比売、
次に御井津比売の五柱である。
またその母の妹の袁祁都比売を妻として生んだ子は、山代の大筒木真若王、
次に比古意須王、
次に伊理泥王の三柱である。
すべて日子坐の子は、合わせて十一柱の王である。
日子坐の第一子の大俣の子は、曙立王、
次に菟上王の二柱である。
この曙立は、伊勢の品遅部君、伊勢の佐那造の祖先である。
菟上は、比売陀君の祖先である。
次に小俣は、当麻勾君の祖先である。
次に志夫美宿禰王は、佐々君の祖先である。
次に沙本毘古は、日下部連、甲斐国造の祖先である。
次に袁耶本は、葛野之別、近江の蚊野之別の祖先である。
次に室毘古は、若狭の耳別の祖先である。
美知能宇志王が、丹波の河上の麻須郎女を妻として生んだ子は、比婆須比売命、
次に真砥野比売命、
次に弟比売命、
次に朝庭別王の四柱である。
この朝庭別は、三河の穂別の祖先である。
この美知能宇志の弟の水穂之真若は、近江の安直の祖先である。
次に神大根は、美濃国の本巣国造、長幡部連の祖先である。
次に山代の大筒木真若が、同母弟の伊理泥の娘である丹波の阿治佐波毘売を妻として生んだ子は、迦邇米雷王である。
この子が丹波の遠津臣の娘である高材比売と結婚して生んだ子は、息長宿禰王である。
息長が葛城の高額比売と結婚して生んだ子は、息長帯比売命、次に虚空津比売命、次に息長日子王の三柱である。
息長は、吉備の品遅君、播磨の阿宗君の祖先である。
また息長が河俣の稲依毘売を妻として生んだ子は、大多牟坂王で、この方は但馬国造の祖先である。
さきに述べた建豊波豆羅和気は、道守臣、忍海部造、御名部造、因幡の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖先である。
天皇の年齢は六十三歳。
御陵は伊耶河の坂の上にある。
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