仁徳天皇」
皇后と御子
大雀命は、難波の高津宮で天下を治めた。
この天皇が、葛城の曽都毘古の娘である石之日売皇后と結婚してお生みになった御子は、
大江之伊耶本和気命、
次に墨江之中津王、
次に蝮之水歯別命、
次に男浅津間若子宿禰命の四柱である。
先に述べた、日向の諸県君牛諸の娘である髪長比売と結婚してお生みになった御子は、波多毘能大郎子でまたの名は大日下王という。
次に波多毘能大郎子で、またの名は長目比売命、またの名は若日下部命の二柱である。
また異母妹の八田若郎女と結婚し、また異母妹の宇遅能若郎女と結婚した。
この二柱には御子がなかった。
この仁徳天皇の御代に、皇后である石之日売の御名を伝えるための部民として葛城部を定め、また皇太子である伊耶本和気の御名を伝えるための部民として壬生部を定め、また水歯別の御名を伝えるための部民として蝮部を定め、また大日下の御名代として大日下部を定め、若日下部の御名代として若日下部を定めた。
帰化人の秦人を労役に当てて、茨田堤と茨田屯倉、丸邇池や依網池を造った。
また、難波の堀江を掘って水を海に通し、小椅江を掘り、墨江の津を定めた。
聖帝の世
仁徳天皇が高い山に登って四方の国土を見て言った。
「国中に炊煙が立っていない。きっと国民は皆貧しいのだ。だから今から三年の間、国民の調と夫役(政策による労働)を全て免除せよ」
そのために、宮殿は破損し、雨漏りがするようになったが、天皇は一切修理をせず、器でその雨漏りを受けて、雨漏りのしない所に移って過ごした。
その後、国内をご覧になったところ、国内に炊煙が満ちていた。
それで、国民が豊かになったことを知って、もうよかろうと調と夫役を課せられたのである。
こういうわけで、人民は繁栄して、夫役に苦しむことはなかった。
人々はその御世を讚えて、聖の帝の御世と称した。
皇后の嫉妬と黒日売
その皇后の石之日売は、ひどく嫉妬深かった。
それで、天皇がお使いになっていた妃たちは、宮殿の中をうかがい見ることもできなかった。
妃が天皇になにか特別のことを言ったりすると、皇后は地団駄を踏んで嫉妬した。
ところが天皇は、吉備海部直の娘である黒日売が、容姿が整って美しいとお聞きになって、宮中に召し寄せてお使いになった。
ところが黒日売は、石之日売が嫉妬することを恐れて、故郷の吉備国に逃げ帰った。
天皇は高殿にいて、その黒日売の乗った船が出て、難波の海に浮かんでいるのを遠くに眺めて歌を詠んだ。
沖のほうには、小舟が連なっているのが見える。
(くろざやの)愛しい我が妻が、
故郷へ下って行きなさることよ。
そこで石之日売は、このお歌を聞いてひどく怒り、人を難波の大浦に遣わして、黒日売を船から追い下して、陸上を歩いて追い返した。
皇后の嫉妬と八田若郎女
この事があって後、皇后が新嘗祭の酒宴を催すために、酒を盛るための御綱柏を採りに紀伊国に出かけている間に、天皇は八田若郎女と結婚した。
ところが、皇后が御綱柏を船に満載して帰って来られる時に、水取司に使われている吉備国の児島の人夫が、自分の郷里に帰ってゆくとき、難波の大渡で皇后の船に遅れた倉人女の乗った船に出会った。
そして人夫が倉人女が言うには、
「天皇は、このごろ八田若郎女と結婚なさって、昼も夜も戯れ遊んでおられるが、もしや皇后はこの事をお聞きになっていないからであろうか、のんびりと遊びにでかけているのは」
そこでその倉人女は、人夫の話を聞いてすぐに皇后の船に追い近づいて、事の有様を詳しく人夫の言った言葉のとおりに伝えた。
そこで皇后はひどく恨み怒って、船に載せてあった御綱柏は全部海に投げ捨ててしまわれた。
そして皇后は皇居に入らず、その船を引いて皇居を避けて、難波の堀江をさかのぼり、しばらく綴喜の韓人で、名を奴理能美という人の家に入った。
天皇は、皇后が山代から上って来たたと聞き及んで、和邇臣の口子を遣わした。
奴理能美と八田若郎女
この口子臣が天皇の言付けを皇后に申し上げようとした時、ひどく雨が降っていた。
ところがその雨を避けようともせずに、御殿の表の戸口に参って平伏していたが、皇后は会おうとしなかった。
そこで口子臣が、地を腹這い進み出て、庭の中央に跪いている時、庭にたまった雨水が腰まで浸してしまった。
口子臣は、赤い紐をつけた青く摺り染めにした衣服を着ていたので、庭に溜まった水が赤い紐を浸して、衣服の青い色が全部赤い色に変化した。
口子臣の妹の口日売は皇后にお仕えしていたので、兄の様子を見て悲しんだ。
皇后がそのわけをお尋ねになったとき、口日売がお答えして言うには、
「私の兄の口子臣でございます」
と答えた。
埒があかないので、口子臣とその妹の口日売、そして奴理能美の三人が相談して、天皇を呼び寄せた。
速総別王と女鳥王
天皇は、弟である速総別王を仲立ちにして、異母妹の女鳥王を所望した。
しかし、女鳥は速総別に言った。
「皇后の御気性が激しいために、天皇は八田若郎女をお召しになっておりません。だから私もお仕えしません。私はあなた様の妻になりましょう」
そう言って、すぐに結婚した。
このために速総別王は、仲人としての復命をしなかった。
そこで天皇は、女鳥のおられる所に直接お出かけになって、その御殿の戸口の敷居の上にお出でになった。
そして、女鳥は速総別に天皇を殺していまうよう提案した。
天皇はこれに対し、ただちに軍勢を出して二人を討とうとした。
そこで速総別と女鳥は、一緒に逃げ退いて倉椅山に登った。
二人が倉梯山から宇陀の曾爾に着いたとき、天皇の軍勢が追いついて、二人を殺してしまった。
枯野という船
この天皇の御世に、兔寸河の西に一本の高い木が生えていた。
その木に朝日が射すと、木の影が淡路島に達し、夕日が射すと、その影は河内国の高安山を越えるほどであった。
そして、この木を切って船を造ったところ、たいそう速く走る船であった。
当時、その船を名づけて「枯野」といった。
この船で、朝夕淡路島の清水を汲んで運んで、天皇の御飲料水を奉った。
この船が破損したので、その船材で塩を焼き、その焼け残った材木を用いて琴を作ったところ、その琴の音は七つの村里に響き渡った。
この天皇の御年は八十三歳である。
丁卯の年の八月十五日に崩御になった。
御陵は毛受の耳原にある。
履中天皇
皇后と御子
仁徳天皇の御子の伊耶本和気王は、磐余の若桜宮で天下を治めた。
この履中天皇が、葛城の曾都比古の子の葦田宿禰の娘である黒比売命という方を娶って、お生みになった御子は、
市辺の忍歯王、
次に御馬王、
次に妹の青海郎女、またの名は飯豊郎女の三柱である。
墨江中王の反逆
当初、履中天皇が難波宮にお出でになった頃に、新嘗祭で酒宴を催したときに、天皇はそのお酒にいい気分で酔ってお眠りになった。
すると、その弟の墨江中王は、天皇を殺そうと思って火を天皇の御殿につけた。
そこで倭の漢の直の祖先の阿知の直が、天皇を密かに連れ出し、馬に乗せて大和に連れ出した。
河内の埴生坂に着いて、難波宮を遠く眺められると、御殿を焼く火はまだ赤々と燃えていた。
そして、大坂の山口においでになったときに、一人の女に会った。
その女が述べた。
「武器を持った人たちが、大勢がこの山を塞いでおります。だから当芸麻道を回って越えて行かれるほうがよいでしょう」
と申しあげた。
こうして、大和に上って来られて、石上神宮に到着した。
水歯別命と曾婆加里
石上神宫に入った履中天皇のもとに、同母弟の水歯別命が参上して、拝謁を申し入れた。
ところが天皇が言うには、
「私はあなたがもしや墨江中と同じ志ではあるまいかと疑っている。だから語り合うことはすまい」
そこで水歯別は答えて、
「私は反逆の心はもっておりません。また墨江中と心を同じくしているわけではありません」
と言った。
天皇は、
「それならば、今すぐ難波に帰り下って墨江中を殺して戻ってこい。その時に私は必ず語り合おう」
と言った。
そこで水歯別は、すぐ難波に引き返して、墨江中のそば近く仕える隼人で曾婆加里という者を騙して、
「もしおまえが私の言葉に従えば、私は天皇となり、おまえを大臣として天下を治めようと思うが、どうだ」
言った。
曾婆加里は、
「仰せのとおりに」
と答え。
それで水歯別は、多くの品物をその隼人に与えて、
「それならばおまえの主君を殺せ」
と言った。
そこで曾婆加里は自分の主君が厠に入ったのを密かに伺って矛で刺して殺した。
こうして水歯別は、曾婆加里を連れて大和に上って行かれたが、大坂の山の入口に着いて、
「曾婆加里は私のために大きな手柄を立てたけれども、現に自分の主君を殺してしまったのは、これは人の道に背くことだ。しかし、その手柄に報いないのは信義に反するということになろう。といって約束を完全に実行すれば、今度は逆に曾婆加里の心情が恐ろしい。だから、その手柄には報いても、当人は亡きものにしてしまおう」
と考えた。
そこで水歯別は曾婆加里の首を斬り、翌日、大和に上られた。
水歯別は大和にお着きになって言うには、
「今日はここに泊って禊をして、明日参上して天皇のいらっしゃる石上神宮を拝礼しよう」
と言った。
そして石上神宮に参上して天皇に、
「御命令はすっかり平定しおえて参上いたしました」
と奏上した。
そこで天皇は水歯別を中に呼び入れて、ともに話をした。
天皇は阿知を初めて蔵官に任命し、私有地をお与えになった。
この御代に若桜部臣等に若桜部の名を授け、比売陀君等に姓を授けて比売陀君といった。
また、伊波礼部を定めた。
天皇の年齢は六十四歳。
丑申の年の正月三日に崩御された。
御陵は河内の毛受にある。
反正天皇
履中天皇の弟、水歯別命は多治比の柴垣宫で天下を治めた。
天皇が丸邇氏の許碁登の臣の娘である都怒郎女を妻としてお生みになった御子は、
甲斐郎女、
次に都夫良郎女の二柱である。
また、同じ許碁登の娘である、弟比売を妻としてお生みになった御子は
財王、
次に多訶弁郎女、合わせて四柱である。
天皇の年齢は六十歳。
丁丑の年の七月に崩御された。
御陵は毛受野にある。
允恭天皇
皇后と御子
先帝の弟、男浅津間若子宿禰命は、遠つ飛鳥宮で天下を治めた。
この天皇が、意富本杼王の妹、忍坂之大中津比売命を妻としてお生みになった御子は、
木梨之軽王、
次に長田大郎女、
次に境之黒日子王、
次に穴穂命、
次に軽大郎女、またの名は衣通郎女(名前に衣通と名づけている理由は、その体の光が衣服を通って外に出るからである)、
次に八瓜之白日子王、
次に大長谷命、
次に橘大郎女、
次に酒見郎女の九柱である。
即位と政治
天皇が初め皇位を継承なさろうとしたとき、天皇は辞退して、
「私には長い病がある。皇位を継承することはできないだろう」
と言った。
しかし、皇后を初めとして多くの高官侍臣たちが、即位するように強く申し上げたので、天下を治めることになった。
在位中、新羅の国王が貢物を積んだ船八十一隻を献上した。
この貢物献上の大使は名を金波鎮漢紀武というが、この人は薬の処方についてよく知っていた。
そこで天皇の病気を治した。
天皇は天下のそれぞれ氏名をもつ人々の氏と姓の誤っていることに心を痛められて、甘樫の丘の言八十禍津日の埼に、盟神探湯の釜をすえて、国中の多くの部の長の氏姓を正しく定めた。
また、木梨之軽の御名代として軽部を定め、皇后の御名代として刑部を定め、また皇后の妹である田井中比売の御名代として河部を定めた。
天皇の年齢は七十八歳である。
甲午の年の正月十五日に崩御になった。
御陵は河内国恵賀の長枝にある。
軽太子と軽大郎女
天皇が崩御になった後、皇太子の木梨之軽は皇位を継ぐことに決まっていたが、まだ即位なさらない間に、その同母妹の軽大郎女に密通した。
この密通事件を知って、朝廷の官吏や国民たちは、軽の太子に背いて穴穂の御子に心を寄せた。
そこで軽は恐ろしく思って、大前小前宿禰の大臣の家に逃げこみ、武器を作って備えた。
その時に作った矢は、内部を銅にした。
それで、その矢を名づけて軽箭という。
穴穂も武器を作った。
この皇子の作った矢は、今日使われている矢である。
これを穴穂箭という。
穴穂は軍勢を興して大前小前宿禰の家を包囲した。
すると大前小前宿禰が手を挙げ膝を打ち、舞を舞い、歌を歌いながらやって来た。
大前小前宿禰は、
「天皇である我が皇子よ、同母兄に対して兵をお差し向けなさいますな。もし兵をお遣わしになればかならず世間は笑うでしょう。私が捕えてお引き渡しいたしましょう」
と言った。
そこで穴穂は兵の囲みを解いて後方に退いた。
そして大前小前宿禰は軽を捕えて差し出した。
軽は伊予の湯に流された。
軽が経った後に、衣通はなお恋い慕う思いに堪え切れず、軽の王を追った。
衣通が軽に追いついたとき、太子は待ち迎え、そのまま軽は衣通と共に自ら死んだ。
安康天皇
大日下王と根臣
允恭天皇の御子の穴穂命は石上の穴穂宮で天下を治めた。
天皇は、同腹の弟である大長谷王子のために、坂本臣等の祖先である根臣を大日下王のもとに遣わし、
「あなた様の妹の若日下王を、大長谷と結婚させたいと思うから、妹を差し出しなさい」
と伝言させた。
すると大日下は四度も拝むという丁重な礼をして申し上げた。
「もしやこのような勅命もあるのではないかと存じました。それで妹を外に出さずに置きました。まことに畏れ多いことです。勅命に従って、妹を差し上げましょう」
けれども、言葉だけで返事することは無礼であると思って、すぐその妹の奉り物として、押木の玉縵を根臣に持たせて献上した。
ところが根臣は、そのままその奉り物の玉縵を盗み取って、大日下のことは謝言して、
「大日下は勅命を受けずに『私の妹は同族の者の下敷きになどなるものか』といって、太刀の柄を握ってお怒りになりました」
と申し上げた。
そこで天皇は非常に恨み、大日下を殺して、その正妻である長田大郎女を奪って来て皇后にした。
目弱王
皇后の先夫との間に生まれた目弱王は当時七歳であった。
この王が、天皇のいらっしゃる御殿の下で遊んでいた。
一方、天皇はその幼い王が御殿の下で遊んでいることをご存じなくて、皇后に、
「私はいつも心配していることがある。それはなにかというと、おまえの子の目弱が成人したときに、私がその父である大日下を殺したことを知ったら、心が変って、反逆の心を起すのではなかろうかということだ」
と言った。
御殿の下で遊んでいた目弱はこの言葉をすべて聞いて、すぐに天皇の眠っている隙をうかがい、その傍らにあった太刀を取って天皇の首を打ち、都夫良意富美の家に逃げ込んだ。
天皇の年齢は五十六歳。
御陵は菅原の伏見の岡にある。
ところで大長谷は、その時まだ少年だったが、この変事をお聞きになって憤り、軍を興して都夫良意美の家を包囲した。
対する都夫良意美も軍を興して応戦し、互いに射放つ矢が風に飛ぶ芦の花のように盛んに飛び散った。
都夫良意美は力尽き矢もなくなったので、目弱に、
「私はすっかり痛手を負い、矢も無くなってしまいました。今はもう戦うことはできますまい。どういたしましょう」
と申し上げた。
目弱は答えて、
「それならもう致し方ない。今は私を殺してくれ」
と言った。
そこで都夫良意美は刀で王を刺し殺し、そのまま返す刀で自分の首を斬って死んだ。
市辺之忍歯王
この出来事の後、近江の佐々紀の山君の祖先で韓帒という名の者が大長谷に言った。
「近江の久多綿の蚊屋野には猪や鹿がたくさんおります。その立っている足はススキ原のようであり、頭にいただく角は枯れた松の枝のようでございます」
そこで大長谷は市辺之忍歯王を伴って近江にお出かけになったとき、大長谷のおそばに仕えている者たちが王に、
「感じのよくない言い方をする王子でございます。ご用心なさいませ。また武装なさいませ」
と申し上げた。
そこで大長谷は衣服の下に鎧をつけ、弓矢を携えて馬に乗ってお出かけになり、忍歯と馬を並べると、矢を抜いて忍歯を射殺し、その場でその体を斬って飼葉桶に入れて、地面と同じ高さに埋められた。
市辺の御子たち、意祁と袁祁の二人は、この変事のことを聞いてそこから逃げ出された。
二人の皇子は玖須婆の河を渡って播磨国に行き、その国の住人で志自牟という名の人の家に入って、身分を隠して馬飼い、牛飼いとして使った。
雄略天皇
后妃と御子
大長谷若建命は泊瀬の朝倉宮で天下を治めた。
天皇は大日下王の妹である若日下部王を妻にした(御子はない)。
また都夫良意富美の娘である韓比売を妻としてお生みになった御子は、
白髪命、
妹の若帯比売命の二柱である。
そして皇太子である白髪の御名代として白髪部を定め、また長谷部の舍人を定め、また河瀬の舍人を定めた。
この天皇の御代に呉人が渡来した。
その呉人を飛鳥の呉原にお置きになった。
赤猪子
あるとき、天皇が遊びにお出かけになって、三輪川に着いたとき、川のほとりで衣服を洗っている少女があった。
その容姿はとても美しかった。
天皇がその少女に、
「おまえは誰の子か」
とお尋ねになると、少女はお答えして、
「私の名は引田部の赤猪子と申します」
と申し上げた。
すると天皇は、
「おまえはほかの男に嫁がないでいてくれ。今に宮中に召そう」
と言わせられて朝倉宮に帰った。
そこで赤猪子は天皇のお召しの言葉をお待ちして、とうとう八十年が経った。
ところが天皇は以前に言ったことを忘れていて、その赤猪子に尋ねた。
「おまえはどこのお婆さんだ。どういうわけで参内したのだ」
と言った。
そこで赤猪子は答えて、
「先年のある月に、天皇のお言葉をいただき、お召しのお言葉をお待ちして今日まで八十年が経ってしまいました。今は容姿もすっかり老いて、お召しにあずかるという望みもまったくなくなりました。けれども、これまで天皇のお言葉を守ってまいった私の志操のほどをお打ち明け申し上げようと存じて参上したのでございます」
と申し上げた。
これを聞いて天皇は非常に驚いて、
「私はすっかり以前言ったことを忘れていた。それなのに、おまえは操を守り私の言葉を待って、女としての盛りの年をむなしく過してしまったのは誠に気の毒だ」
と言って、内心では結婚しようとお思いになったが、赤猪子が非常に年老いていて、結婚ができないことを悲しみ、慰めの歌を賜った。
歌をいただくと、赤猪子の泣く涙がすっかりその着ている赤い摺り染めの衣の袖を濡らしてしまった。
吉野の童女
天皇が吉野宫にお出かけになったとき、吉野川の川辺に少女がいた。
その少女の姿は美しかった。
そこで天皇はこの少女と結婚して朝倉の宫にお帰りになった。
葛城の一言主大神
またある時、天皇は葛城の山の上にお登りになった。
そのとき大きな猪が出て来た。
すぐさま天皇が鳴鏑の矢でその猪を射られたとき、その猪は怒って唸り声をあげて寄って来た。
それで天皇はその唸り声を恐ろしく思って榛の木の上に逃げ登られた。
またあるとき、天皇が葛城山にお登りになった時、お供のたくさんの官人たちは皆、紅い紐をつけた青い摺染めの衣服を賜って着ていた。
そのとき、その向いの山の尾根伝いに山に登る人があった。
その様子は天皇の行幸の列にそっくりで、また服装の様も随行の人々も、よく似て同等であった。
そこで天皇はその様子を遠くに見て、お供の者に尋ねさせて言うには、
「この大和の国に私をおいては他に大君はないのに、今、誰が私と同じような様子で行くのか」
と言って、向うから答えていう様子も天皇のお言葉と同じようなものであった。
そこで天皇はひどくお怒りになって矢を弓につがえられ、大勢の官人等も皆矢をつがえた。
すると向うの人たちもまた、皆、弓に矢をつがえた。
それで天皇はまたお尋ねになって、
「それではそちらの名を名のれ。そして互いに名を名のってから矢を放とう」
と言った。
向うの人はこれに答えて、
「私が先に問われた。だから私が先に名のりをしよう。私は、悪い事も一言、善い事も一言で言い放つ神、葛城の一言主の大神である」
と言った。
天皇はこれを聞いて恐れ畏まって、
「畏れ多いことです、我が大神よ。現実のお方であろうとは気がつきませんでした」
と申し上げ、自分の太刀や弓矢をはじめて、多くの官人等の着ている衣服をも脱がせて、拝礼して献上した。
天皇の年齢は百二十四歳(己巳の年の八月九日に崩御した)。
御陵は河内国の丹治比の高鷲にある。
清寧天皇
二人の皇子発見
雄略天皇の御子、白髪大倭根子命は磐余の甕栗宮で天下を治めた。
この天皇には皇后がなく、また御子もなかった。
そこで、天皇の御名代として白髪部を定めた。
天皇が亡くなられた後、天下を治めるべき王が現れなかった。
皇位を継ぐ王を尋ね求めたところ、市辺忍歯別王の妹の忍海郎女、またの名は飯豊王が、葛城の忍海の高木の角刺宮にいた。
山部連である小楯を播磨国の長官に任命したとき、小楯は、その国の人民で名を志自牟という者の新室完成祝いの酒宴に出席した。
ここで盛んに酒盛りをして、宴もたけなわになったころ、そのうちの一人の少年が歌を詠んだ。
武人であるわが君が腰に带びている太刀の柄には、
赤い色を塗り付け、
緒には赤い布を取り付け、
天子の赤い旗を立てて敵の方を見やると、
敵の隠れている山の峰の竹を根本から刈り、
その先を地面に敷きなびかすように、
八絃琴の調子を整えて演奏するように、
見事に天下をお治めになった伊耶本和気の天皇の御子、
市辺の押歯王の、私は子孫です。
そこで小楯の連はこれを聞いて驚き、床から転げ落ち、その室にいる人たちを追い出すと、その二人の皇子を左右の膝の上にお据えして泣き悲しんだ。
そして、人民を集めて仮宮殿を作り、その仮宮殿に二人の皇子をお住まわせると、早馬による使者を大和へ遣わした。
それで皇子たちの叔母である飯豊は、この知らせを聞いてお喜びになり、二人の皇子を葛城の角刺宮に上らせた。
こののち、二人の王子は互いに天下を譲り合った。
意祁は弟の袁祁に譲って、
「播磨の志自牟の家に住んでいたとき、もしあなたが名を明らかになさらなかったら、決して天下を治める君主にはなっていなかったことでしょう。これはまったくあなたの手柄です。だから、私は兄ではあるけれど、あなたが先に天下をお治めなさい」
と言って堅く譲った。
それで辞退することができず、袁祁が先に天下を治めた。
顕宗天皇
伊邪本和気命の御子である市辺忍歯王の皇子である袁祁の石巣別命が、近つ飛鳥宮で天下を治めはじめて八年した。
天皇は石木王の娘である難波王を妻としたが、御子はなかった。
この天皇がその父である市辺の遺骸を探し求めたとき、近江国に住む卑しい老婆が参上して、
「市辺の御遺骸を埋めた場所は、私だけがよく存じております。また、その御歯によってそのことは確認できましょう。御歯は三枝のような八重歯でいらっしゃった」
と申し上げた。
そこで人民を動員して土を掘り、その御遺骸を探した。
そうしてその遺骸を発見して、その遺骸を持って大和へ帰った。
近つ飛鳥宮にお帰りになってその老婆を呼び出し、遺骸のある所を見失わず正確に知っていたことを褒めて、置目の老媼という名を与えた。
そして宮殿の内に召し入れて、手厚く慈しまれた。
御陵の土
天皇は、その父王の市辺を殺した大長谷天皇を深く恨んでおり、その霊に報復しようと思った。
そこでその大長谷天皇の御陵を壊そうと考えて人を遣わしたとき、その同母兄の意祁が奏上して、
「この御陵を破壊するのに他人を遣わしてはいけません。もっぱら私自身が行って、天皇のお考えのように破壊して参りましょう」
と言った。
すると天皇は、
「それでは言葉どおりにお行きなさい」
と命じた。
こういうわけで意祁は自ら出かけて、その御陵の傍らをすこし掘って皇居に帰り、復命して、
「もう掘り壊しました」
と報告した。
それで天皇は意祁が早く帰ったことを不思議に思われて、
「どんなふうに破壊なさったのですか」
と尋ねた。
意祁は答えて、
「その御陵の土を少し掘りました」
と申し上げた。
天皇は、
「父王の仇を討とうと思ったら、必ずその陵をすっかり破壊するはずであるのに、どうして少しだけ掘ったのですか」
と言った。
意祁は答えて、
「そのようにした理由は次のようなことです。父君の恨みをその霊に仕返ししようと思うのは、誠にもっともなことです。けれども、あの大長谷天皇は、父の怨敵ではあるけれど、一方では私たちの従父であり、また、天下をお治めになった天皇です。ここで今、簡単に父の仇であるという考え方だけによって、天下をお治めになった天皇の御陵をすっかり破壊してしまったなら、後世の人が必ず非難するでしょう。ただ父君の仇だけは討たなければなりません。そこで、その陵のほとりを少し掘ったのです。もはやこのような辱めで、後世に私たちの報復の志を示すのには十分でしょう」
と申し上げた。
天皇は、
「これもたいへん道理にかなっています。お言葉のとおりで結構です」
と言った。
そして天皇が崩御なさると、すぐに意祁が皇位に就いた。
天皇の年齢は三十八歳。
天下をお治めになること八年であった。
御陵は片崗の石坏崗の上にある。
仁賢天皇
袁祁の兄である意祁は、石上の広高宮で天下を治めた。
天皇が、大長谷若建天皇の御子の春日大郎女を妻として、お生みになった御子は、
高木郎女、
次に財郎女、
次に久須毘郎女、
次に手白髪郎女、
次に小長谷若雀命、
次に真若王である。
また、丸邇の日爪の臣の娘である糠若子郎女を妻として、お生みになった御子は春日山田郎女である。
武烈天皇
小長谷若雀命は、長谷の列木宮で天下を治めること八年であった。
この天皇には皇太子がなかった。
それで御子代として、小長谷部を定めた。
御陵は、片岡の石坏岡にある。
天皇が既に崩御になってからのち、皇位を受け継ぐべき皇子がいなかった。
それで品太天皇の五代目の子孫の袁本杼命を近江国から上京させ、手白髪命と結婚させて、天下を授けた。
継体天皇
品太王の五代目の子孫、袁本杼は、磐余の玉穂宮で天下を治めた。
天皇が、三尾君らの祖先である若比売を妻としてお生みになった御子は、
大郎子、
次に出雲郎女の二柱である。
尾張連らの祖先である凡の連の妹の目子郎女を妻としてお生みになった御子は、
広国押建金日命、
次に建小広国押楯命の二柱である。
意祁天皇の御子の手白髪命(この方は皇后である)を妻としてお生みになった御子は、天国押波流岐広庭命である。
また、息長真手王の娘の麻組郎女を妻としてお生みになった御子は、佐佐宜郎女である。
坂田大俣王の娘の黒比売を妻としてお生みになった御子は、
神前郎女、
次に田郎女、
次に白坂活日子郎女、
次に野郎女、またの名は長目比売の四柱である。
三尾君の加多夫の妹である倭比売を妻としてお生みになった御子は、
大郎女、
次に丸高王、
次に耳王、
次に赤比売郎女の四柱である。
また、阿倍之波延比売を妻としてお生みになった御子は、
若屋郎女、
次に都夫良郎女、
次に阿豆王の三柱である。
この御世に、筑紫君石井は、天皇の命令に従わないで無礼なことが多かった。
そこで、物部荒甲大連と大伴金村連の二人を派遣して、石井を殺した。
天皇の年齢は四十三歳。
丁未の年の四月九日に崩御した。
御陵は、三島の藍陵である。
安閑天皇
御子の広国押建金日王は、勾の金箸宮で天下を治めた。
この天皇は、御子がなかった。
乙卯の年の三月十三日に崩御した。
御陵は、河内国の古市の高屋村にある。
宣化天皇
弟の建小広国押楯命は、檜前の廬入野宮で天下を治めた。
天皇が、意祁天皇の御子である橘之中比売命を妻としてお生みになった御子は、
石比売命、
次に小石比売命、
次に倉之若江王である。
また川内之若子比売を妻としてお生みになった御子は、
火穂王、
次に恵波王である。
欽明天皇
弟の天国押波流岐広庭天皇は、磯城島の大宮で天下を治めた。
天皇が、檜前の天皇の御子である石比売命を妻としてお生みになった御子は、
八田王、
次に沼名倉太玉敷命、
次に笠縫王の三柱である。
その妹の小石比売命を妻としてお生みになった御子は、上王である。
春日の日爪の臣の娘である糠子郎女を妻としてお生みになった御子は、
春日山田郎女、
次に麻呂古王、
次に宗賀之倉王の三柱である。
蘇我の稲目宿禰の大臣の娘である岐多斯比売を妻としてお生みになった御子は、
橘之豊日命、
次に妹の石坰王、
次に足取王、
次に豊御気炊屋比売命、
次にまた麻呂古王、
次に大宅王、
次に伊美賀古王、
次に山代王、
次に妹の大伴王、
次に桜井之玄王、
次に麻怒王、
次に橘本之若子王、
次に泥杼王の十三柱である。
また、岐多志毘売命の叔母である小兄比売を妻としてお生みになった御子は、
馬木王、
次に葛城王、
次に間人穴太部王、
次に三枝部穴太部王、またの名を須売伊呂杼、
次に長谷部若雀命の五柱である。
敏達天皇
御子の沼名倉太玉敷は、他田宮で天下を治めること十四年であった。
この天皇が、異母妹の豊御気炊屋比売を妻としてお生みになった御子は、
静貝王、またの名は貝蛸王、
次に竹田王、またの名は小貝王、
次に小治田王、
次に葛城王、
次に宇毛理王、
次に小張王、
次に多米王、
次に、桜井玄王の八柱である。
伊勢大鹿首の娘である小熊子郎女を妻としてお生みになった御子は、
布斗比売命、
次に宝王、またの名は糠代比売王の二柱である。
息長真手王の娘である比呂比売命を妻としてお生みになった御子は、
忍坂日子人太子、またの名は麻呂古王、
次に坂騰王、
次に宇遅王の三柱である。
春日の中若子の娘である老女子郎女を妻としてお生みになった御子は、
難波王、
次に桑田王、
次に春日王、
次に大俣王の四柱である。
この天皇の御子たち合わせて十七柱の中で、日子人が異母妹の田村王、またの名は糠代比売を妻としてお生みになった御子は、岡本宮で天下を治めた天皇、
次に中津王、
次に多良王の三柱である。
漢王の妹である大俣を妻としてお生みになった御子は、
知奴王、
次に妹の桑田王の二柱である。
また異母妹の玄を妻としてお生みになった御子は、
山代王、
次に笠縫の二柱である。
甲辰の年の四月六日に崩御した。
御陵は、河内国の科長にある。
用明天皇
弟の橘豊日王は、池辺宮で天下を治めること三年であった。
この天皇が、稲目の大臣の娘である意富芸多志比売を妻としてお生みになった御子は、多米王である。
異母妹の間人穴太部王を妻としてお生みになった御子は、
上宮之厩戸豊聡耳命、
次に久米王、
次に植栗王、
次に茨田王の四柱である。
また当麻倉首の比呂の娘である飯女之子を妻としてお生みになった御子は、
当麻王、
次に妹の須加志呂古郎女である。
この天皇は、丁未の年の四月十五日に崩御した。
御陵は、磐余の掖上にあったものを、後に科長の中陵に移した。
崇峻天皇
弟の長谷部若雀天皇は、倉椅の柴垣宮で天下をお治めになること四年であった。
壬子の年の十一月十三日に崩御した。
御陵は倉椅岡のほとりにある。
推古天皇
妹の豊御食炊屋比売命は、小治田宮で天下を治めること三十七年であった。
戊子の年の三月十五日、癸丑の日に崩御した。
御陵は、大野岡のほとりにあったのを、後に科長の大陵に移した。
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