伊藤雅文『邪馬台国は熊本にあった!』による九州・熊本説
邪馬台国・九州説として有力な解説をしている、伊藤氏による「熊本説」の著書。
伊藤雅文『邪馬台国は熊本にあった!』(2016)扶桑社新書
伊藤氏による魏志倭人伝の文書読み解きを解説する。
邪馬台国およびその他の国々の位置
まず、九州上陸。つまり、末盧国(東松浦半島)までの道のりと比定地は、その他の一般的な説と同じである。
すなわち、以下のような図になる。
その先は以下のように比定している。
つまり、不弥国からは、水行と陸行で邪馬台国のある熊本まで進む説だ。
「南へ水行20日・・・」の解釈
伊藤氏は、不弥国から先の水行と陸行は「善意の改ざん」と考えている。
すなわち、本来なら移動距離が記されていたが、これを写本した人間が「この記述は間違いだ」と思って日数に書き換えたというものだ。
この部分が伊藤氏の説の肝であるため、その詳細は『邪馬台国は熊本にあった!』を読んでほしい。
伊藤氏によれば、魏志倭人伝の
南至投馬國、水行二十曰。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
の部分は、以下のように「距離」の記述になる。
南至投馬國、水行六百里。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行三百里、陸行四百里。
その経路は以下のように表される。
不弥国から御笠川と筑後川水系の宝満川を使って筑紫平野へと向かう。
その筑紫平野にあったのが投馬国と伊藤氏は考えている。
投馬国と邪馬台国は、福岡平野にある奴国と不弥国よりも大きな国であった。
東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。
東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
魏志倭人伝「日本語訳」wikipediaより
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。
筑紫平野に投馬国があったと考えるのは妥当であろう。
投馬国から邪馬台国「熊本」への道
筑紫平野を南下して、水行20km、陸行28kmの位置にあるのは熊本平野である。
この「水行」においては有明海を通ることになるのだが、それを推定するためには弥生時代(3〜4世紀頃)の海抜を考慮に入れる必要がある。
当時は現在よりも海抜が4〜5mほど高かったのだ。
現在は佐賀県内陸部にある「吉野ヶ里遺跡」であるが、そこから海産物の跡が出土していることがそれを裏付けている。
「Flood map」というウェブサイトを使えば、その「海抜+4m」をシミュレーションできる。
「Flood map」http://flood.firetree.net
これを用いて作成した九州筑紫平野を基に、投馬国から邪馬台国への道を示した。
それによれば、久留米市あたりまで海が迫っていることが分かる。
このあたりに投馬国があったとすれば、そこから有明海に出てみやま市あたりで上陸し、そこから28kmほどで熊本平野に出ることができる。
ここは筑紫平野と同等の大都市が置ける場所であり、「邪馬台国7万余戸」にふさわしい土地だ。
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