継体天皇 男大迹天皇
継体天皇の擁立
男大迹天皇、またの名は彦太尊は、応神天皇の五世の孫であり、彦主人王の子である。
母は垂仁天皇の七世の孫である振媛という。
天皇の父は、振媛が容貌端正で大そう美人であるということを聞いて、近江国高島郡の三尾の別邸から、使者を遣わして越前国坂井の三国に迎え、召し人れて妃とされた。
そして天皇を産まれた。
天皇が幼年のうちに父王が死なれた。
振媛は嘆いて、
「私は今、遠く故郷を離れてしまいました。これではよく孝養をすることができません。私は高向(越前国坂井郡高向郷)に帰り、親の面倒を見ながら天皇をお育てしたい」
と言われた。
成人された天皇は、人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かでいらっしゃった。
武烈天皇は十八歳で、八年冬十二月八日にお隠れになった。
もとより男子も女子もなく、跡嗣が絶えてしまうところであった。
十二月二十一日、大伴金村大連が皆に譲って、
「今、全く跡嗣がない。天下の人々はどこに心を寄せたらよいのだろう。古くから今に至るまで、天下の禍はこういうことから起きている。仲哀天皇の五世の孫の、倭彦王が丹波国桑田郡にお出でになる。試みに兵士を遣わし、御輿をお守りしてお迎えし、人主として奉ったらどうだろうか」
と言った。
大臣と大連らは皆これに従い、計画の如くお迎えすることになった。
ところが倭彦王は、遥かに迎えにやってきた兵士を望見して恐怖し、顔色を失われた。
そして山中に遁走して行方不明となった。
元年春一月四日、大伴金村大連はまた議って、
「男大迹王は情け深く親孝行で、皇位を継がれるのにふさわしい方である。
ねんごろにお勧め申して、皇統を栄えさせようではないか」
と言った。
物部麁鹿火大連、許勢男人大臣らは皆、
「ご子孫を調べ選んでみると、賢者はたしかに男大迹王だけらしい」
と言った。
六日に臣と連らが、君命を受けた節の旗をもって御輿を備え、三国にお迎えに行った。
兵士が囲み守り、容儀いかめしく先払いして到着すると、男大迹天皇は、ゆったりと常の如く床几(折りたたみイス)にかけておられた。
侍臣を整列させ、既に天子の風格がおありになった。
節を持った使者たちは、これを見てかしこまり、天皇を仰いで命を捧げて忠誠を尽そうと願った。
けれども天皇は心の中で尚疑いを抱かれて、すぐには承知されなかった。
たまたま河内馬飼首荒籠をご存じであった。
彼は使者を差し上げて、詳しく大臣と大連らがお迎えしようとしている本意をお伝えした。
使者は二日三晚留まっていて、ついに天皇は発たれることになった。
そして嘆息して、
「よかった、馬飼首よ。もしお前が使者を送って知らせてくれることがなかったら、私は天下の笑い者になるところだった。世に『貴賤を論ずることなく、ただその心だけを重んずべきである』というのは、思うに荒籠のような者をいうのであろう」
と言われた。
皇位に就かれてから、厚く荒籠を寵愛された。
十二日に天皇は、河内国の交野郡葛葉宮にお出でになった。
二月四日、大伴金村大連は跪いて、天子の璽符である鏡と剣を奉って拝礼した。
男大迹天皇は辞退して、
「民を我が子として国を治めることは重大な仕事である。私は天子として才能がなく、力不足である。どうかよく考えて、真の賢者を選んで欲しい。私ではとうていできないから」
と言われた。
大伴大連は地に伏して固くお願いした。
男大迹天皇は西に向って三度、南に向って二度、 辞譲の礼を繰り返された。
大伴大連らはロをそろえて、
「私たちが考えますのに、大王(男大迹天皇)は、人民を我が子同様に思って国を治められる、最も適任の方です。私たちは国家社会のため、思い図ることは決してゆるがせに致しません。どうか多数の者の願いをお聞き入れ下さい」
とお願いした。
男大迹天皇は、
「大臣、大連、将相、諸臣すべてが私を推すのであれば、私も背くわけにはいかない」
と言われた。
そして、天子の璽符を受けられ、天皇に即位された。
大伴金村大連を大連とし、許勢男人大臣を大臣とし、物部麁鹿火大連を大連とし、旧例の職位のままに任じられた。
十日、大伴大連が、
「古来の王が世を治め給うのに、たしかな皇太子がおられないと、天下をよく治めることができません。睦まじい皇妃がないと、良い子孫を得ることができないと聞いております。その通り、清寧天皇は、跡嗣がなかったので、私の祖父の大伴大連室屋に命じて、国毎に三種の白髪部を置かせ(三種というのは、一に白髪部舎人、二に白髪部供膳、三に白髪部靱負である)、自分の名を後世に残そうとされました。何と痛ましいことではありませんか。どうか手白香皇女を召して皇后とし、神祇伯らを遣わして、天神地祇(天つ神と国つ神)をお祀りし、天皇の御子が得られるようお祈りして、人民の望みに答えて下さい」
と奏請した。
天皇は、
「よろしい」
と言われた。
三月一日詔して、
「天の神、地の神を祀るには、神主がなくてはならず、天下を治めるには君主がなくてはならない。天は人民を生み、元首を立てて人民を助け養わせ、その生を全うさせる。大連は朕に子のないことを心配し、国家のために世々忠誠を尽している。決して我が世だけのことではない。礼儀を整えて手白香皇女をお迎えせよ」
と言われた。
五日、手白香皇女を立てて皇后とし、後宮に関することを修めさせられた。
やがて一人の男子が生まれた。
これが天国排開広庭尊(欽明天皇)である。
この方が嫡妻の子であるが、まだ幼かったので二人の兄が国政を執られた後に、天下を治められた(二人の兄は、安閑天皇と宣化天皇である)。
九日、詔して、
「男が耕作しないと、天下はそのために飢えることがあり、女が紡がないと、天下は凍えることがある。だから帝王は自ら耕作して農業を勧め、皇妃は自ら養蚕をして、桑を与える時期を誤らないようにする。まして、百官から万人に至るまで、農桑を怠っては富み栄えることはできない。役人たちは天下に告げて、私の思うところを人々に知らせるように」
と言われた。
十四日、八人の妃を召し入れられた。
八人の妃を人れなさることは、前後にも例がないわけでないが、この十四日の日に入れ給うということは、即位をされ、良い日を占い選んで、初めて後宮を定められたのでここに記録した。
元からの妃、尾張連草香の娘を目子媛、またの名を色部。
二人の子をお生みになり、 皆、天下を治められた。
その一人を勾大兄皇子といい、これが広国排武金日尊(安閑天皇)である。
二番目を桧隈高田皇子といい、これが武小広国排盾尊(宣化天皇)である。
次の妃である三尾角折君の妹を稚子媛といい、大郎皇子と出雲皇女をお生みになった。
次は、坂田大跨王の娘の広媛といい、三人の女子を生み、姉を神前皇女といい、中を茨田皇女といい、末娘を馬来田皇女という。
次に息長真手王の娘である麻績娘子といい、竞角皇女をお生みになった。
この人は伊勢皇大神宮の斎宮をされた。
次に茨田連小望の娘の関媛といい、三人の女をお生みになった。
姉を茨田大郎皇女といい、中を白坂活日姫皇女といい、末娘を小野稚郎皇女という。
次に三尾君堅械の娘の倭媛といい、二男二女をお生みになった。
その一人を大娘子皇女といい、二番目を椀子皇子という。
これは三国公の先祖である。
三番目を耳皇子といい、四番目を赤姫皇女という。
次に和珥臣河内の娘の荑媛といい、一男二女をお生みになった。
その第一を稚綾姫皇女といい、次を円娘皇女といい、三番目を厚皇子という。
次に根王の娘の広媛といい、二男を生んだ。
長子を兎皇子といい、これは酒人公の先祖である。
弟を中皇子といい、これは坂田公の先祖である。
この年、太歳丁亥。
二年冬十月三日、武烈天皇を傍丘磐杯丘陵に葬った。
十二月に、南の海の中の耽羅人(済州島の人)が、初めて百済国に使者を送った。
三年春二月、使者を百済に遣わした。
百済本記に日く、久羅麻致支弥が日本から来た、とあるが詳しくは分らない。
任那の日本の村々に住む百済の人民の逃亡してきたもの、戸籍のなくなった者の三世四世までさかのぼって調べ、百済に送り返し、戸籍につけた。
五年冬十月、都を山城の綴喜に移した。
任那四県の割譲
六年夏四月六日、穂積臣押山を百済へ遣わし、筑紫国の馬四十匹を賜わった。
冬十二月、百済が使者を送り、調を奉った。
別に上表文を奉って、任那国の上哆嘲、下哆嘲、娑陀、牟婁の四県を欲しいと願った。
哆唎の国守、穂積臣押山が奏上して、
「この四県は百済に連なり、日本とは遠く隔っています。百済とこれらの地は朝夕に通い易く、鶏犬の声もどちらのものか聞きわけにくいほどであり、今、百済に賜わって同国とすれば、保全のためにこれに過ぐるものはないと思われます。しかし、百済に合併しても、後世の安全は保証しにくく、まして百済と切り離しておいたのでは、何年ともたないと思います」
と言った。
大伴大連金村も、意見に同調して奏上した。
物部大連麁鹿火を、勅を伝える使者とされた。
彼がまさに難波館に出向き、百済の使者に勅を伝えようという時、その妻が固く諫めて、
「住吉大神は、海の彼方の金銀の国である、高麗、百済、新羅、任那などを、まだ胎中におられる応神天皇にお授けになりました。そこで神功皇后は、大臣の武内宿禰と共に、国毎に官家を設け、海外での我が国の守りとされ、長く続いてきた由来があります。もしこれを割いて他国に与えたら、もとの領域と違ってきます。そうしたら、後世長く非難を受けることになるでしょう」
と言った。
大連は言葉を返し、
「言うところは理に適っているが、それでは勅宣に背くことになるだろう」
と言った。
その妻は強く諫めて、
「病気と申し上げて勅宣をお受けしなかったら」
と言った。
大連は諫めに従った。
そこで改めて別人に勅された。
賜物と一緒に制旨(通達文)をつけ、上表文に基づく任那の四県を与えられた。
大兄皇子(安閑天皇)は、 先に事情があって、国を賜うことに関わられず、あとになって勅宣のことを知られた。
驚いて改めようとされ、令して、
「応神天皇以来、官家を置いてきた国を、軽々に隣国の言うままに与えてしまってよいものか」
と言われた。
そこで日鷹吉士を遣わして、改めて百済の使者に伝えた。
すると使者が、
「父天皇が事情をお考えになり、勅を賜わったことは、もう過去のことです。子である皇子が、どうして帝の勅に背いて、みだりに改めておっしゃってよいでしょうか。これはきっと、偽りでありましょう。たとえこれが本当だとしても、棒の太い方の端で打つのと、細い方の端で打つのと、どっちが痛いでしょうか(天皇の勅は重く、皇子の命は軽いとの譬え)」
と言って、ついに帰った。
世間では、
「大伴大連と哆唎国守の穂積臣押山とは、 百済から賄賂をとっている」
という流言があった。
己汶と帯沙をめぐる争い
七年夏六月、百済は姐弥文貴将軍と州利即爾将軍を遣わして、穂積臣押山に副えて、五経博士(儒学の官職)の段楊爾を奉った。
別に上奏して、
「伴跛国は、私の国の己汶の領土を奪いました。どうか天恩によって、元通りに還付するようお計らい頂きますようお願い申します」
と言った。
秋八月二十六日、百済の太子である淳陀が薨去した。
九月、勾大兄皇子は、春日山田皇女を迎えられた。
月の夜に清らかに語り合われ、思わず夜明けに及んだ。
歌を作ろうとする雅心が、すぐに言葉に現われ、口ずさまれた。
ヤシマクニ、ツママキカネテ、ハルヒノカスガノクニニ、クハシメヲ、アリトキキテ、ヨロシメヲ,アリ卜キキテマキサケ、ヒノイタ卜ヲ、オシヒラキ、ワレイリマシ、アト卜リ,ツマ卜リシテ,マクラトリ、ツマ卜リシテ、イモガテヲ、ワレニマ力シメ、ワガテヲバ、イモニマ力シメ、マサキツラ、タタキ、アザハリシシクシロ、ウマイネン卜ニ、ニハツトリ、カケハナクナリ、ヌツトリ、キキシハトヨム、ハシケクモ、イマダイハズテ、アケニケリ、ワギモ。
八州の国で妻を娶りかねて、春日国に美しい女がいると聞いて、良い女がいると聞いて、立派な桧の板戸を押し開いて、私がお入りになり、女の足の衣の端をとり、頭の方の衣の端をとり、妻の手を自分の体に巻きつかせ、自分の手を妻に巻きつかせ、蔦葛のように交り合って熟睡した間に、鶏の鳴くのが聞こえ、野の鳥の雉は鳴き立てる。可愛いともまだ言わぬ間に、夜は明けてしまった。わが妻よ。
妃が答えて唱われる。
コモリクノ、ハツセノカワユ、ナガレクル、タケノイクミタケヨタケ、モトへヲバ、コトニツクリ、スヱへヲバ、フエニツクリ、フキナス、ミモロガウへニ、ノボリタチ、ワガミセバ、ツヌサハフ、イハレノイケノ、ミナシタフウヲモ、ウへニデテナゲク、ヤスミシシ、ワガオオキミノ、オバセル、ササラノミオビノ、ムスビタレ、タレヤシヒトモ、ウへニデテナゲク。
初瀬川を流れてくる、竹の組み合わさっている節竹。その根本の太い方を琴に作り、末の細い方を笛に作り、吹き鳴らす御諸山の上に、登り立って私が眺めると、磐余の池の中の魚も、水面に出て嘆いています。我が大君が締めてお出でになる、細かい模様の御帯を結び垂れて、(そのタレと同音の)誰でもが顔に出して、お別れを嘆いています。
冬十一月五日、朝廷に百済の姐弥文貴将軍が、新羅の汶得至、安羅の辛己奚と賁巴委佐、伴跛の既殿奚と竹汶至らを召し連れて来て、詔を賜わって、己汶と滞沙を百済国に賜わった。
この月、伴跛国が戢支を遣わして、珍宝を献上し、己汶の地を乞うたが、ついに賜わらなかった。
十二月八日、詔して、
「私は皇位を継いで宗廟をお守りし、いつも兢々とお仕えしている。 このところ天下安静で、国内平穏。豊年が続き国を富ませてくれる。有難いことである。麻呂古(勾大兄皇子のこと)は私の心をよく八方に示してくれた。勾大兄は我が教化を万国に照らし、日本は平和で、名声は天下に誇っている。秋津洲は赫々として誉れも高い。 宝とすべきは賢人であり、善業は最楽である。聖化はこれによって遠くに及び、大きな功業はこれによって長く栄える。まことに汝の力である。汝皇太子の位にあって、私を助け恵みを施し、私の至らぬところを補ってくれよ」
と言われた。
八年春一月、太子の妃、春日皇女は、朝なかなか起きて来られず、いつもと異なったところがあった。
太子は変に思って、部屋に人ってご覧になった。
妃は床に伏して涙を流し、悶え苦しんで堪えられない様子であった。
太子は怪しみ尋ね、
「今朝ひどく泣くのは何かの恨みがあるのか」
と言われた。
妃は、
「他事ではありません。ただ妾が悲しむのは、空飛ぶ鳥も自分の子を養うために、梢に巣を作ります。その愛情が深いからです。地に這う虫も我が子を守るために、土の中に穴を掘り、その守りを厚くします。まして人間たるもの、どうして考えないでおられましょうか。跡嗣のない恨みは、太子に集まります。私の名もしたがって絶えてしまうでしょう」
と言われた。
太子は心を痛め、天皇に奏上された。
天皇は詔して、
「我が子、麻呂古よ。お前の妃の言葉は誠に理に適っている。どうしてつまらぬことだといって、慰めも与えないでよかろうか。匝布(佐保)の屯倉を設け、妃の名を万世に残すように」
と仰せられた。
三月、伴跪は城を子呑と带沙に築いて、満奚と結び、のろし台、武器庫を設けて日本との戦いに備えた。
また、城を爾列比と麻須比に築いて、麻且奚と推封につながるようにした。
軍兵や兵器を集めて新羅を攻めた。
子女を捕えて村を掠奪した。
賊の襲ったところは残っているものの、あるのは稀であった。
暴虐をほしいままにし、民を悩まし、多くの人を殺害したさまは、詳しく載せられない程であった。
九年春二月四日、百済の使者である文貴将軍らが帰国を希望した。
よって詔を出され、物部至至連を副えて遣わされることになった。
この月に、巨済島に至り、人の噂を聞くと、伴跛の人は日本に恨みを抱き、よからぬことをたくらみ、力をたのみとし無道を憚らないということであ った。
そこで物部連は水軍五百を率いて、直ちに带沙江に赴いた。
文貴将軍は新羅から百済に入った。
夏四月、物部連は带沙江に留ること六日、伴跛は軍を興して攻めてきた。
衣類を剝ぎとり、持物を奪い、すべての帷幕を焼いた。
物部連らは怖れて逃げた。
やっと命からがら汶慕羅島に逃げた。
十年夏五月、百済は前部木品不麻甲背を遣わして、物部連らを己汶に迎えてねぎらい、引き連れて国に入った。
群臣たちはそれぞれ着物や布帛、斧鉄などを出し、土地の産物に加え、朝廷に積み上げ、ねんごろに慰問した。
賜物も少なくなかった。
秋九月、百済は州利即次将軍を遣わし、物部連に従わせて来朝し、己汶の地を賜わったことを感謝した。
五経博士の漢高安茂を奉って、博士の段楊爾に替えたいと願ったので、願いのままに交代させた。
十四日、百済は約莫古将軍と、日本人の科野阿比多を遣わして、高麗の使者である安定らに付き添わせ来朝し、よしみを結んだ。
十二年春三月九日、都を山城国乙訓に移した。
十七年夏五月、百済の武寧王が薨じた。
十八年春一月、百済の太子である明が即位して聖明王となった。
二十年秋九月十三日、都を遷して大和の磐余の玉穂に置いた。
磐井の乱
二十一年夏六月三日、近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅、喙己呑を回復し、任那に合わせようとした。
このとき、筑紫国造の磐井が、密かに反逆を企てたが、躊躇しているうちに年が経ち、事が難しいことを怖れて、隙を窺っていた。
新羅がこれを知って、こっそり磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害するように勧めた。
そこで磐井は肥前、肥後、豊前、豊後などをおさえて、職務を果せぬようにし、外部では海路を遮断して、高麗、百済、新羅、任那などの国が、貢物を運ぶ船を欺き奪い、内部では任那に遣わされた毛野臣の軍をさえぎち無礼な揚言(大声で公に言うこと)をして、
「今でこそお前は朝廷の使者となっているが、昔は仲間として肩や肘をすり合せ、同じ釜の飯を食った仲だ。使者になったからとて、にわかにお前に俺を従わせることはできるものか」
と言って、交戦して従わず、気勢が盛んであった。
毛野臣は前進を阻まれ、中途で停滞してしまった。
天皇は大伴大連金村、物部大連麁鹿火、許勢大臣男人らに詔をして、
「筑紫の磐井が反乱して、西の国をわがものとしている。今、誰か将軍の適任者はあるか」
と言われた。
大伴大連ら皆が、
「正直で勇に富み、兵事に精通しているのは、今、麁鹿火の右に出る者はありません」
とお答えすると、 天皇は、
「それが良い」
と言われた。
秋八月一日詔して、
「大連よ。磐井が背いている。お前が行って討て」
と言われた。
物部麁鹿火大連は再拝して、
「磐井は西の果てのずるい奴です。山河の険阻なのをたのみとして、恭順を忘れ、乱を起こしたものです。道徳に背き、驕慢でうぬぼれています。私の家系は、祖先から今日まで、帝のために戦いました。人民を苦しみから救うことは、昔も今も変りませぬ。ただ、天の助けを得ることは、私が常に重んずるところです。よく慎しんで討ちましょう」
と言った。
詔に、
「良将は出陣にあたっては将士を恵み、思いやりをかける。そして、攻める勢いは怒濤や疾風のようである」
と言われ、また、
「大将は兵士の死命を制し、国家の存在を支配する。謹んで天誅を加えよ」
と言われた。
天皇は将軍の印綬を大連に授けて、
「長門より東の方は私が治めよう。筑紫より西はお前が統治し、賞罰も思いのままに行なえ。一々に報告することはない」
と言われた。
二十二年冬十一月十一日、大将軍の物部麁鹿火は、敵の首領である磐井と、筑紫の三井郡で交戦した。
両軍の旗や鼓が相対し、軍勢のあげる塵埃は入り乱れ、互いに勝機を掴もうと、必死に戦って相ゆずらなかった。
そして麁鹿火はついに磐井を斬り、反乱を完全に鎮圧した。
十二月、筑紫君葛子は、父(磐井)の罪に連座して誅せられることを恐れ、糟屋の屯倉を献上して、死罪を免れることを請うた。
二十三年春三月、百済王は下哆琍国守穂積押山臣に語って、
「日本への朝貢の使者がいつも海中の岬を離れるとき、風波に苦しみます。このため船荷を濡らし、ひどく損壊します。それで加羅国の多沙津を、どうか私の朝貢の海路として頂きとうございます」
といった。
押山臣はこれを伝奏(天皇に取次報告)した。
この月、物部伊勢連父根と吉士老らを遣わして、多沙津を百済の王に賜わった。
このとき、加羅の王が勅使に、
「この津は官家が置かれて以来、私が朝貢のときの寄港地としているところです。たやすく隣国に与えられては困ります。始めに与えられた境界の侵犯です」
と言った。
勅使である父根らはこのため、その場で百済に加羅の多沙津を賜わるのは難しいと思って、大島に退いて引き返した。
これとは別に録史(記録官)を遣わして、後に扶余(百済)に賜わった。
このため、加羅は新羅と結んで、日本に恨みを構えた。
加羅王は新羅王の女を娶って、子を儲けた。
新羅は当初、女を送るときに一緒に百人のお供をつけた。
これを各県に分散して受け入れ、新羅の衣冠を着けさせた。
加羅の阿利斯等は、その国の服制を無視したことに怒り、使者をやって女たちを送り返した。
新羅は面目を失って、王女を召還しようとして、
「先に求婚されたから、私もこれを許したのだ。こんなことになったら、王女を返してもらおう」
と言った。
加羅の己富利知伽は、
「夫婦として娶わせておいて、今更どうして仲を割くことができようか。子供もあり、これを棄ててどこに行けるものか」
と答えた。
ついに新羅は刀伽、古跛、布那牟羅の三つの城を取り、また、北の境の五つの城も取った。
近江毛野の派遣
この月に、近江毛野臣を使者とし、安羅に遣わされた。
詔して新羅に勧め、南加羅、喙己呑を再建させようとした。
百済は将軍君尹貴、麻那甲背、麻鹵らを遣わして、安羅に行き詔を聴かせた。
新羅は隣の国の官家を破ったことを恐れて、上級の者を遣わさないで、夫智那麻礼と奚奈麻礼ら下級の者を遣わし、安羅に行き詔を聴かせた。
安羅は新しく高堂を建て、 勅使をそこに上らせ、国主はその後から階を昇った。
国内の大臣でも共に昇殿したのは一、 二人だけで、百済の使者の将軍らは堂の下であった。
数ヶ月にわたり、再三、殿上の謀議は行われたが、将軍らは常に庭におかれたことを恨んだ。
夏四月七日、任那王、己能末多干岐が来朝した。
己能末多というのは、おそらく阿利斯等であろう。
大伴大連金村に、
「海外の諸国に、応神天皇が官家(直轄領)を置かれてから、もとの国王にその土地を任せ、統治させられたのは、まことに道理に合ったことです。今、新羅は当初に決めて与えられた境界を無視して、度々領土を侵害しております。どうか天皇に申し上げ、私の国をお助け下さい」
と言った。
大伴大連は、乞われるままに奏上した。
この月、使者を遣わして、己能末多干岐を任那に送らせた。
同時に、任那にいる近江毛野臣に詔され、
「任那王の奏上するところをよく問いただし、任那と新羅が互いに疑い合っているのを和解させるように」
と言われた。
そこで毛野臣は熊川に宿って、新羅・百済両国の王を呼んだ。
新羅の王である佐利遅は、久遅布礼を遣わし、百済は恩率弥騰利を遣わして、毛野臣のところに赴かせ、それぞれ王自身は来なかった。
毛野臣は大いに怒り、二国の使者をなじった。
「小さなものが大きなものに仕えるのは、天の自然の道である。どうして二国の王が自ら出向いて、天皇の詔を受けようとせず、軽臣を遣わしたのか。もうお前たちの王が、自ら来て詔を聞こうとしても、私はあえて伝えない。必ず追い返すだろう」
と言った。
久遅布礼と恩率弥騰利は、心に恐怖を抱いて帰り、それぞれの王に伝えた。
これによって新羅は改めて、上臣である伊叱夫礼智干岐(新羅では大臣を上臣という)を遣わして、兵三千を率いて来て、詔を聴きたいと言った。
毛野臣は遥かに、武備を整えた兵数千のあるのを見て、熊川から任那の己叱己利の城に入った。
伊叱夫礼智干岐は、多々羅の原に宿り、礼を尽くして来ることをせず、待つこと三ヶ月に及んだ。
たびたび勅を聞きたいと言ったが、ついに伝えなかった。
伊叱夫礼智が率いた兵卒は、村落で食を乞うた。
毛野臣の従者の河内馬飼首御狩のところに立ち寄った。
御狩は他人の門に隠れ、物を乞う者が立ち去るのを待って、拳を握って遠くから殴るまねをした。兵卒はこれに気づき、
「謹しんで三ヶ月も待ち、勅旨を聞こうと望んだが、 やはり述べることをしない。勅旨を聴く使者を煩わすのは、騙して上臣を殺そうとしているのだ」
と言った。
そしてその様子をつぶさに上臣に述べた。
上臣は四つの村を掠め金官、背伐、安多、委陀の四村。ある本には、多多羅、須那羅、和多、費智とされている。
人々を率いて本国に帰った。
ある人が言った。
「多多羅ら、四つの村が掠められたのは毛野臣の失敗であった」
秋九月、巨勢男人大臣が薨じた。
二十四年春二月一日、詔して、
「神武、祟神以来、国の政治を行うには、代々博識の臣たちの補佐を頼りとしてきた。道臣命が意見をのべ、これを用いて神武天皇は隆盛になられた。大彦(孝元天皇の皇子)が計画をたて、崇神天皇はそれを採用して隆盛になられた。皇位を継いだ者として、中興の功を立てようとするならば、どうしても賢明な人々の謀議に頼らざるを得ない。武烈天皇が天下を治められてより、長い太平のために人民はだんだん眠ったようになり、政治の良くないところも改めようともしなくなった。ただ、しかるべき人が他の人の協力を得て、現れるのを待つだけである。有能多才の者は、少々の短所も咎めない。国家社会を安泰ならしめるならば、よく助けになっているものと見ることができる。私が帝位を継いで二十四年、天下泰平、内外に憂いもなく、土地肥え五穀豊穣である。密かに恐れるのは人民がこれに馴れてしまい、驕りの気持ちを起こすことである。廉節の士を選び、徳化を流布し、優れた官人を登用することは、古来、難しいとされている。我が身に思いを致し慎まなければならぬ」
と言われた。
近江毛野の死
秋九月、任那の使者が奏上して、
「毛野臣は久斯牟羅に住居をつくり、滞留二年、政務も怠っています。日本人と任那人の間に生まれた子供の帰属の争いについても、裁定の能力もありません。毛野臣は好んで誓湯(くかたち:神意を窺う方法)を設け、『本当のことをいう者はただれないが、嘘を言う者はきっとただれる』と言って、熱湯の中に手を入れさせ、湯につけられてただれ死ぬ者が多い。また、吉備韓子那多利、斯希利を殺したり(日本人が朝鮮の土地の女との間に生んだ子を韓子という)、常に人民を悩まし、少しも融和するところがありません」
と言った。
天皇はその行状を聞き、人を遣わして召されたが、来ようとはせず、密かに河内母樹馬飼首御狩を京に送り、奏上させて、
「私はまだ勅命を果さないのに、京に戻ったならば、期待して送り出されながら、空しく帰ることになり面目がありません。どうか任務を果して参内し、謝罪申し上げるのをお待ち下さい」
と言った。
奏上して後に、自ら謀り、
「調吉士は帝の使者である。もし私よりも先に帰り、実状を奏上すれば、私の罪科はきっと重くなるだろう」
と言い、調吉士を遣わして、兵を率いさせ、伊斯枳牟羅城を守らせた。
阿利斯等(任那の王)は、毛野臣が小さくつまらぬことばかりして、任那の復興の約束を実行しないことを知り、しきりに帰朝を勧めたが、やはり帰還することを聞き入れなかった。
阿利斯等は毛野臣の行状をすっかり知って、離反の気持ちを起こした。
久礼斯己母を新羅に送り、兵を請わせた。
また、奴須久利を百済に使いに出し、兵を請わせた。
毛野臣は百済の兵が来るのを背郡にて迎え撃った。
傷つき、死ぬ者は半ばに達した。
百済は奴須久利を捕虜にして、手かせ足かせ首くさりをつけて、新羅軍と共に城を囲んだ。
阿利斯等を責め罵って、
「毛野臣を出せ」
と言った。
毛野臣は城に拠り防備を固めており、容易に取れなかった。
このため二つの国は釘付けされ、一ヶ月になった。
城を築きあげて帰ったが、これを久礼牟羅城という。
帰る時に道すがら、 騰利枳牟羅、布那牟羅、牟雌枳牟羅、阿夫羅、久知波多枳の五つの城を奪った。
冬十月、調吉士は任那から到着し奏上して、
「毛野臣は人となりが傲慢でねじけており、政治に習熟しておりません。和解することを知らず、加羅を掻き乱してしまいました。自分勝手にあれこれ考えて、外患を防ぐことをしません」
と言った。
そこで目頰子を遣わしてお召しになった。
この年、毛野臣は召されて対馬に至り、病に会って死んだ。
送葬の舟は、河の筋を上って近江についた。
その妻が歌った。
ヒラカタユ、フエフキノボル、アフミノヤ、ケナノワクゴイ、フエフキノボル。
枚方を通って笛を吹きながら淀川を上る。近江の毛野の若殿が笛を吹いて淀川を上る。
目頰子が始めて任那に着いたとき、そこにいた郎党どもが歌を贈った。
カラクニヲ、イカニフコ卜ゾ、メツラコキタル、ムカサクル、イキノワタリヲメツラコキタル。
韓国にどんなことを言おうとして、目頰子が来たのだろう。遠く離れている壱岐の海路を、わざわざ目頰子がやってきた。
継体天皇崩御
二十五年春二月、天皇は病が重くなった。
七日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御された。
時に 八十二歳であった。
冬十二月五日、藍野陵に葬った。
ある記録によると、天皇は二十八年に崩御としている。
それをここで二十五年に崩御としたのは、百済本記によって記したのである。
その文では、
「二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月、高麗はその王、安を殺した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子、皇子は皆、死んでしまった」
これによって言うと、辛亥の年は二十五年に当る。
後世、調べ考える人が明らかにするだろう。
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