四国説を考える上での前提
邪馬台国・四国説を考える上での前提を以下のページで紹介している。
こちらを予め読んでおいてほしい。
*邪馬台国「四国説」
その上で、今回は「四国・香川説」を紹介する。
邪馬台国は香川にあった
現在の香川県は、讃岐平野の一帯を使って四国最大の都市として発展している。
この良好な場所を使った首都があっても不思議ではない。
また、この地からは遺跡も多数見つかっており、愛媛・松山と同様、瀬戸内海勢力の中心地として機能する土地である。
邪馬台国の首都・女王の都としての候補地として申し分ない場所である。
以下に魏志倭人伝の行程を「香川(高松・丸亀周辺)」として描いてみる。
香川(讃岐平野)説の行程では、不弥国(北九州市)を出たあと、記録通りに「南へ水行」する。
国東半島と姫島から周防大島へ渡り、防予諸島を通って、松山もしくは今治にて上陸。
その後は讃岐平野まで陸行するルートである。
邪馬台国・四国説では、「陸行1ヶ月」のポイントが「海峡」である。
松山説では豊予海峡、徳島と香川では来島海峡から陸行が考えられる。
なぜなら、実は瀬戸内海は潮流が速く複雑で、エンジンやモーター付きの船でなければ、渡海することが非常に困難だからだ。
特に「来島海峡」は、古来、「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸」と謳われるほどの難所である。
わざわざ今治〜観音寺・丸亀の間を渡航する必要はないのだ。
たしかに瀬戸内海は古代より船を使った交易により栄えたとされるが、それは地元漁師や、この地を牛耳る海賊にコネがある者だけである。
いわゆる、民間業者のことだ。
さらに、本州側の「芸予諸島」は海賊が跋扈していたとされ、ここを拠点としたのが、のちの村上水軍となる海賊団である。
来島海峡と海賊という危険が2段構えの海を、外国の要人を抱えて、わざわざ進む必要はない。
安全に進むなら、愛媛あたりで上陸し、そこから陸路を使ったほうが現実的なのだ。
香川説における周辺国
邪馬台国の女王国を香川とした場合、その他の四国説と比べても魏志倭人伝の記述は非常に通りやすくなる。
その周辺関係を以下に図示した。
一大率
魏志倭人伝によると、女王国の北には「一大率」という交易査察の拠点を置いていた。
原文:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。
魏志倭人伝・日本語訳はウィキペディアによる
和訳:女王国より北に特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れており、伊都国に常駐していた。
この拠点として機能した場所こそ、「吉備の児島」、もしくは「吉備王国(岡山)」ではないだろうか。
他にも、小豆島や高松ということも考えられる。
いずれにせよ、瀬戸内海の航行上とても重要な場所である。
東へ海を1000里渡ったところにいる別の倭種
讃岐平野から東へ海を1000里渡ると、そこには明石・神戸である。その先には大阪・奈良という同時代における大都市が広がっていた。
これを「別の倭種」と見ることができる。
詳らかに記載できない遠く隔たった北の国々
香川から見れば、尾道〜神戸周辺の国々のことを指している可能性がある。
魏志倭人伝によれば、
原文:自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
日本語訳:女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。
となっている。
つまり、一大率が置いてある児島や吉備(岡山)は、瀬戸内海の対岸であるから把握しやすい。
しかし、それ以外の傍らの国は遠く隔たっていて把握しにくいということだ。
「邪馬台国以北」ではなく、「女王国以北」となっているところから察するに、もしかすると、瀬戸内海の本州側の国々を指しているのかもしれない。
女王国の北にある邪馬台国の国々は、これら21カ国ですよ、ということだ。
狗奴国
投馬国については、邪馬台国と同様、大分県南部から宮崎県にかけての連合都市国家と考えられる。
戸数5万戸という桁外れの大都市が、当時の日本の一地域にあるとは考えにくいからだ。
そうなると、狗奴国を九州に求めるのは難しい。
邪馬台国の南にあるとされる狗奴国は、四国内の南部。
つまり、徳島・高知あたりを指すのではないだろうか。
特に高知は、中世まで交通が難しい場所とされ、現代においても陸の孤島である。
そんな土地には、女王の権威が届きにくかったのかもしれない。
もちろん、定説通り熊本から鹿児島の可能性も考えられる。
女王の権威が届いている九州北部・東部よりも南の地域ということである。
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