邪馬台国・九州説「奴国」

邪馬台国
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孫栄健『邪馬台国の全解決』による九州・奴国説

一般的な研究対象となっている「魏志倭人伝」だけでなく、その他の中国の資料を使いながら、「魏志倭人伝の読み方」という着眼点から邪馬台国の位置を比定した良書。
孫栄健『邪馬台国の全解決』(言視舎)

ここでは、孫氏による九州説を解説する。

邪馬台国は連合王国である

結論としては、魏志倭人伝が述べている「邪馬台国」とは、倭国に存在する連合国の一つであり、邪馬台国の首都として女王国「奴国」があると解釈するものである。

原文:倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

日本語訳:倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。

こうしたたくさんの国々を統治している国が女王国であり、邪馬台国の首都というわけだ。

戸数の解釈

魏志倭人伝では、倭国の各国の戸数(家屋の数?)を以下のように記している。

対馬国=1000
一大国=3000
末盧国=4000
伊都国=1000
奴 国=20000
不弥国=1000
投馬国=50000
邪馬台国=70000
その他の傍国=???
合計=15万戸以上?

一般的な読み方であれば、倭国の戸数は15万戸以上となる。

しかし、『魏志』ではなく、後年に書かれた『普書』の「倭人伝」では以下のように記されている。
普書倭人伝は、魏志倭人伝を基にして書かれたと考えられている。

原文:至魏時 有三十国通好 戸有七万

日本語訳:魏の時に至りて、三十国の通好あり、戸は7万有り

つまり、当時の中国人は、魏志倭人伝を上記のように読んだわけである。
それは、

魏の時代(魏志倭人伝)において、倭国の30カ国と使者を通わせていた。
その30カ国の戸数は7万戸だった。

というものである。
中国と使者を通わせていた国の戸数の総合計が7万だった、という意味なのだ。

この7万戸という戸数は、魏志倭人伝にも登場している。

原文:南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

日本語訳:南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸

すなわち、中国人は魏志倭人伝を読んで、魏の時代に使者を通わせていた倭国30ヶ国は「邪馬台国」だと解釈しているのだ。
つまり、邪馬台国は30ヶ国から成る連合王国のことである。

そして、「女王の都のある邪馬台国に至る」という日本語訳も、「邪馬台国のなかの女王の都に至る」と解釈できる可能性がある。

邪馬台国内の女王国へと至る行程

以上のことから、邪馬台国へと至る行程ではなく、女王国へと至る行程になる。
上述したように邪馬台国は九州北部にあった連合王国だからだ。

その行程を示す図も、以下のようになる。

1万2000里の解釈

日本語訳のみ(距離のみで、その他の記述は割愛)
帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で〔倭の〕北岸の狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。
始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。
また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。
東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。
東南に100里進むと奴国に至る。
東へ100里行くと、不弥国に至る。

末盧国(九州上陸)までが1万里。
陸行して不弥国までが1万700里。
そうなると、1万2000里まで、あと1300里足りないことになる。

それについて孫氏は、以下の解釈を試みている。

対馬国と一大国には、以下の記述がある。

(距離の記述のみで、その他の記述は割愛した)
始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。絶島で400余里四方の広さ。
また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。300余里四方。

この対馬国400里四方と、一大国300里四方を水行の距離に足せば、あの「1万2000里」の残り「1300里」に近づくというものである。
もしこの2島を円形と考え、それを半周して南下したと見做せば、読み手としては「対馬での移動は約800里、壱岐島での移動は600里」と考えるだろう。
これを足せば1400里になる。

ということは、不弥国までにかかった距離が1万700里であるから、これに1400里が足されれば1万2100里となる。
今度は逆に、100里多くなる。

つまり、不弥国からマイナス100里した場所が「女王国」なのだ。
そこは「奴国」である。

奴国が女王国(首都)であれば、辻褄が合う

奴国は倭国の首都扱い

邪馬台国が連合王国だったとすれば、奴国はその他の国々と比べても、圧倒的な戸数(2万戸)を誇る大都市である。

魏志倭人伝よりも後年に書かれたものであるが、魏の時代よりも前の、後漢の時代の歴史書である『後漢書』にも倭人の国として、奴国(倭奴国)が登場する。
つまり、大陸との交易において、奴国は倭人の首都扱いだったのだ。
魏の使者たちも、そんな奴国を首都と考えるのは当然のことである。

一大率は伊都国のすぐそば

原文:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。

和訳:女王国より北に特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れており、伊都国に常駐していた。

魏志倭人伝・日本語訳はウィキペディアによる

女王国の北に置かれたとされる一大率。
「一大率は伊都国に常駐していた」という記述からすると、女王国を伊都国よりも遠方に置く説(畿内説など)の解釈からすると、一大率はそのたびに伊都国から遠距離の大出張をしていたことになる。交通網が発達していなかった古代において、それは考えにくい。
しかし、以下のように考えれば、一大率の配置先は自然である。

つまり、一大率は伊都国の隣になる。
ここなら「伊都国の常駐していた」に合点がいく。

おそらく、一大率の赴任先は奴国の港であろう。
必要なときに、伊都国から奴国の港に検察に出向いていたのだ。

狗奴国は四国・瀬戸内海勢力?

孫氏は、魏志倭人伝以外の中国史書からすれば、狗奴国の位置も比定できるとする。

『後漢書』には、狗奴国は以下のように書かれている。

女王国より東、海を渡ること1000余里、狗奴国に至る。皆倭種なり

孫栄健『邪馬台国の全解決』より

これと似た魏志倭人伝の記述はこちら。

女王国から東へ海を渡って1000余里行くと、また別の国が有り、それらも皆、倭人と同じ人種である。

魏志倭人伝・日本語訳はウィキペディアによる

後漢書を書いた范曄は、魏志倭人伝の記述から「狗奴国」を女王国の東に位置していると読んだようである。
孫氏としては、范曄の魏志倭人伝に対する読解力を信じれば、狗奴国とは四国・瀬戸内海勢力ではないかとしている。

実際、瀬戸内海には「高地性集落」と呼ばれる謎の防衛集落が、邪馬台国時代(弥生時代)に多数築かれている。
これは、邪馬台国との戦争(倭国大乱)を示す遺跡ではないかというのが通説である。
つまり、瀬戸内海勢力は邪馬台国と抗争状態にあったわけであり、「女王に属さない国」、すなわち、彼らこそが狗奴国ではないかというのだ。

さらに、魏志倭人伝における、

其の南には狗奴国がある。

という記述にしても、その前段を含めれば、以下のような文章になる。

女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。
其の南には狗奴国がある。

女王国の以北の、遠く隔たっていていて詳らかに記述できない国々とは、北九州市周辺の国々ではないか?
だとすれば、「その南に狗奴国がある」という記述からすれば、以下のように解釈できる。

この魏志倭人伝には「図」がついていたとされる。
魏志倭人伝の本文に、

倭の地について尋ねたところ、大海中の孤立した島嶼の上にあって、国々が離れたり連なったりしながら分布し、周囲を巡れば5000余里ほどである

という記述があることから、倭国および邪馬台国は島になっていると考えられる。
もしかすると、投馬国は九州南部を指すのかもしれない。

しかし、その九州という島以外にも「倭人」がいるという記述なのだ。
そして、その倭人は邪馬台国と敵対している。

こうした狗奴国の位置について、北九州市周辺までが「女王の境界」だとすれば、そこから南の方に向かえば「狗奴国」があることになる。
それは、言い換えれば「東に海を1000里渡った先」という表現もできる。

より詳しい内容については、
孫栄健『邪馬台国の全解決』(言視舎)
をご一読いただきたい。

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